2018年8月3日金曜日

岩の一族 長老の教え 添書 (7)


「よし、それでは、“長老の教え”を持つ私、即ち和田賢一を長老として、それから、今ここに居る全員が長老会議メンバーへの指名を受入れたとして話しを進めることにする」と私は“長老の教え”と言うところを強調して宣言した。予想通り、直ぐさま土井正司が手を挙げ、

「ちょっと悪いが待ってくれ。今までの結論に意義を申し立てはせんが、一つだけ頼みがある」と、丸顔に度の強い丸縁眼鏡の奥から眼を光らせて言った。

 土井は高校時代から極端に理科系だけが得意で国立大学には向かず、浪華市大に入学し大学に残り助教授となっている。分析的で鋭い頭脳と、容貌に似合わず繊細な神経を持っている。それだけに私の罠にはまり易い。

 わざと不審気な顔付をして私が頷くと、

「俺達が長老会議のメンバーであるとすれば、その“長老の教え”も知りたい。・・・出来ればの話しだが」と、少々傲慢さを持つ土井にしては、かなり遠慮勝ちな発言である。

 岩の一族には彼等を拘束する何の階級制度も無く各人が平等であるとの暗黙の了解があり、ただ、“長老の教え”だけには本能的とも言える尊敬の念が自然と育てられている。今彼等が長老会議のメンバーとなり、長老と責務を共有するとすれば、当然のこととして、彼等の心中には“長老の教え”も共有したいとの思いが大きく膨らんでいるに違いない。そのままにしておけば私がわざと隠しているのではとの疑惑が芽生え、その不満が育てば爆発とはいかぬまでも団結力が阻害される心配がある。

 それに、安原にはいずれ一族の実情を説明する積もりだから、一族では無い安原よりも先んじて、少なくとも長老会のメンバーには話さねばならない。これもまた団結の維持には必須のことである。要するに岩の一族を一族たらしめているものは仲間意識だけであり、逆に、それ以外の如何なる団結の手立ても一族の本質を変えてしまうだろう。だから、仲間意識の維持こそが私の最も気にかけるべきことで、特に今度の行動では僅かな狂いも許されない状況にある。 しかしながらこの時点で私が自から提案すれば、あの馬鹿らしい“長老の教え”を私が誤魔化して、例えば偽物を教えた等と疑惑を生む可能性がある。ここは誰かが要求して私が渋々見せるとのストーリィが最も望ましい。

「うーん、長老以外に見せるな、とは言われていないが・・」と、少々焦らしてから「しかし、あれを見るということは長老と一体になるのと同様だ。だから、それなりの責任を負うことになるが・・・」と言って皆を見回した。

 杏子が体を硬くして下を向き、その肩はかすかに震えている。

『ここで吹出すなよ』と私は心で祈った。義春は細い眼を見開いて私を見詰めてから、ゆっくりと視線を周囲の仲間に漂わせ、遂には杏子の肩の震えに気付いたようである。それから視線を私に戻し、見開いていた眼を再び細めた。眼の奥にはこの場の進展を楽しむ光さえ瞬いている。

 和泉、土井、それに楠木康夫は、杏子の様子に注意を向ける余裕もなく、微かに口を開いたままで私を見詰めていたが、最初に和泉が口火を切った。

「僕は、その責任を負うことは大いに歓迎する。どうせ、一族のために頑張ろうと考えて市会議員になったんやから」

「このチャンスから逃げる気はせんなあ」と土井が呟き、康夫と顔を見合って頷いた。

「よし、全員に異論がなければ見せよう。いいな!」と私は杏子が吹出さない内にと少々急いでしまった。

 今日のこの事態を予想して、楠木家の土蔵で眠っていた爺さん愛用の小型金庫を借り受けている。捨てることも出来ず始末に困っていた楠木家からは是非とも進呈したいとの申し出付きであり、私としてはその申し出を受ける積もりだが、この部屋の片隅に周囲に全く不調和な姿で居候のように佇んでいる。ちゃんとした置き場所を考えてやらねばならないが、それは今日の役目が済んでからのことである。金庫には銀行の貸金庫から出しておいた“長老の教え”が入っている。

「あの金庫は、杏子の爺さんが“長老の教え”を保管していた金庫で、私が貰い受けてそのまま保管している。めったに開けたことも無いが今から金庫を開けて君達に見せることにする」と、かなり芝居がかった発言と態度で私が宣言したものだから、杏子の肩は目に見えて震えを増した。

 いよいよ急ぐ必要があると、私は金庫の所に行き錠を開けて書類を持ち出した。そのままコピィマシンの所に行き大急ぎで複写してから全員に配った。

 私から内容だけは聞いている杏子も実物は初めてだから好奇心にかられて肩の震えが治まり、受け取った書類に顔を突っ込んだ。

 一枚の紙は爺さんから譲られたそのままで、もう一枚は爺さんから聞いた通りに私が書いた翻訳文である。

 内容は簡単で、かっての私がそうであったように全員があっと言う間に読み終わり、茫然とした目を私に向けた。私はにやっと笑う積もりで顔を振り上げたのだが、顔が強ばり胸に熱いものがこみあげてしまった。その文書は私が二十年間に亘り守ってきた、さらには多分、千数百年間を私のような男達が次々と守り続けてきた文書なのである。その年代の重さと連綿と続く人々の期待を思うと、どうしても笑えなかったのだ。

「たった・・これだけなのか」と恐らく、一瞬ではあるが私が洩らしてしまった悲し気な表情に気付い義春は遠慮しながら聞いた。

「そうや・・爺さんから聞いて・・そこにも書いてあるように、平安時代の初期からずっとそのまま、それだけや」と私の声には明らかに胸の詰まりが表れていた。

「賢一さんは・・その文書だけで、あれほど一生懸命に一族の面倒を見ていたんかいな」と、心優しい和泉の言葉に不覚ながらも私の目には幕が掛かり全ての映像が歪み始めた。思いもしなかった心の動揺を押さえるべく目を見開き腹に力を込めた。

「俺が、長い間考え続けた結論はやなあ。“一族の掟”と“長老の教え”は対になっていると思う。一族の掟は・・これは皆も知っているように、“心正しく、心優しく、一人立ちせよ”。つまり、人が人たる最小限の心がけを掟として、その心がけを守る限りにおいては長老はそれ以上に他人を拘束するすべは無く、ただ岩が煌めく時だけは一族に号令しろと教えている。・・大昔の俺達の先祖は、正義も道徳も、時と共に流れ移ろうことを予見して、掟は最小限に留めて・・後は、その時代に生きる人々の判断に任せた。ただ、岩が煌めく時には何事かが起こると警告、つまりこれは時代には関係ない普遍的な警告と考えた・・と、これが俺の解釈や」と言い、私は杏子を睨みつけた。この一瞥は大いに成功したらしく、杏子はしおらしくも下を向いた。鋭敏な義春さえもが私の心を読むことを忘れ、感動の眼差しで見詰めている。

 暫しの感動的な雰囲気の後に、現実的かつ分析的な土井が口を開いた。

「それにしても、この“足利を倒す頃合”とは、どう解釈すればええんやろか」

 同じ疑問を感じていたらしい楠木康夫が、

「柳川は関東の出やと聞いているが、足利の子孫やないか?」と、これは冗談の積もりである。しかし、彼のこの発想は我々の一族であれば、誰もが思いつくストーリィとなっている。

「康夫が冗談言うとることは判っているが、一応ははっきりとしとこう。実は俺もこの追加された文章が気になって調べるだけは調べた。殆どが君等も知っている通りで、俺達の先祖は南河内や和泉周辺の土豪や百姓やが、明らかに河内源氏の末裔が含まれている。本物かどうかは判らんが、土井の家系図の最初は河内源氏の本家となっていることも知っての通りや。河内源氏の嫡流は朝廷に仕えて後に関東に移った源義家や頼朝やし、足利もやはり河内源氏そのものの血筋や。まあ言ってみれば俺達は皆、足利とは遠い親戚にあたる。それに、俺の家は楠木正儀に繋がっていて、一族に逆らって北朝側についてからは、和泉や和田の先祖や楠木の係累を相手にして多いに戦っている。言うなれば俺の先祖は足利側となる。それに俺自身としては、正儀の柔軟な思考を誇りにさえ思っている。あの時代には家の存続と大儀名分、それに個人的な利権とがごっちゃごちゃになっていて、しかも負ければ命まで失うことになるから、それはもう、生きるためには権謀術策に必死やったとも想像できる。恐らくあの文章を追加した人物は、どちらかと言えば、正成や正行と共に戦った一族、しかも大儀名分にこだわりの強い人物で、足利に対する怒りで止むに止まれず書いたと思われる。まあ言うなら、時代の正義なるものに翻弄された悲しい叫びに過ぎない。しかし、この叫びは俺達一族の本来有るべき姿では決してない、と俺は考える。むしろ反面教師として見るべきやなあ」と私は、長老となりやむにやまれず調べた歴史の知識を披露した。

「となると、俺達一族は、その時代時代に応じた存在価値を、自分たちで見付けろと言うことか」と、土井が再び鋭い指摘である。彼の発言内容こそが、こつこつと長老職に努めていた間に到達して私の結論そのものである。

「そう、人の在り方と岩の煌めきについての指示以外は、自分で決めろと言っとるんや」と、私の言葉で全員が再び各々の思いに耽り始めた。

 私は暫らくは彼等の思いに任せることにした。長老の教えを披露し、遠い過去からの一族の血の繋がりを話すことで全員の心が一つに纏ることを期待したのだが、これから戦う相手には暴力においては勿論、政治力それに金力でも劣る一族としては、頼るところは知力と団結力しか残されていないのだ。

 じっと俯いていた土井が顔を上げた。

「よし、判った。賢一の言う通りや。じゃあ、主題に戻って、岩を残すために何をやるべきかを論議しようやないか・・いやその前に敵がどんな手を打ってくるのかを知るのが先か」と、見事な頭の切り替えを示した。その言葉に和泉が口を開き、

「えー、賢一さんから・・その時には、暴力団のことは知らされてはいませんでしたが・・あの周辺を開発しようとするグループはどう動くかを考えておくようにと指示されていまして・・」と、和泉が口を挟んだ。

 土井は眼鏡の奥からじろっと私を睨み「さすがに、動きが速いなあ」と呟き、視線を和泉に戻してから「聞かせてんか」と言った。「いろいろ考えてみましたが、やはり政治的な動きが決定的やと思います。丘周辺が遺蹟指定地区となっていることは皆さん御存知の通りですが、そもそも指定地区となったのも、一族が政治的に画策したからでして、その指定を外すか、それとも指定はそのままにして巧妙に工事を許可して、しかも工事の着工を早めることも、政治的に片付けることは容易なことです。要は、政治的な開発反対が無ければ何でも出来ます」

「もっと具体的に説明できんか」と土井が督促した時に、杏子の厳しい視線が私に向けられていることに気付いた。その眼を見返して直ぐに彼女の考えが読めた。

「おい杏子、丘周辺を遺蹟指定地区にしたのは俺やないぞ。安原が丘を買うまだずっと前に、お前の爺さんが市議に、いや当時は町やったから、町議に働きかけて指定地区にしたんや。それと、ついでに弁解しとくと、あの土地を安原が柳川から買ったことを、俺が知ったのは後からや、安原への助言は時既に遅かったがなあ・・この件だけは柳川には感謝してはいるがなあ」

 私の答えに満足したらしく杏子の視線がすっと和らぎ、その様子を確認してから、私は和泉に頷いた。

「具体的には・・遺蹟の指定のことはどうとでもなることで、要は美陵市の市議の多数を開発賛成派か、少なくとも反対はしない状態にすれば事は成就します。ただ、市民運動が起こると開発着工が遅れることになりますから、その暇を与えない工夫をすると思えます。市議工作、開発申請、環境アセス、開発許可、着工、これらの動きを一気に出来れば反対運動が起こっても後の祭りです。僕が思うに、柳川の開発運動が沈静化したように見えるのも、むしろ、彼等の作戦が変わり水面下に潜ったことを裏付けていると思えます」

「暴力団が動き出したことを、どう考える」と土井は再び尋ねた。「えーっと、市議を動かす最も有効な手段は、府議会議員や国会議員からの圧力で、・・これはもう、ゼネコンであればその手段は充分に持っている筈です。それに、・・市議の中で開発に反対するのは精々僕と共産党くらいと推測することは簡単なことですから、現状で暴力団が動きだす必然性は無いと僕は見ています。ですから、暴力団は彼等自体の考えで・・・多分、開発後の利権に唾を着けておくことが目的か・・それとも、ゼネコンが暴力団と一緒に動きだしたとすれば、何らかの理由で暴力団に利権を与えようとしているか、もしくは用地買収が難行すると見ているのかもしれません。その両方の可能性も有り得ます。想像出来るのはその程度ですねえ」「和泉よ、お前の話を聞く限りでは開発阻止には殆ど手は無いように思えるが」と土井は少々怒りを込めた言葉つきとなっている。

「そうです。政治的により強力な味方がない我々としては、反対運動が動きだす前に手続きを終えられてしまえば、ほぼどう遣りようもありません。一方、反対運動を始めようとすれば、暴力団が動きだす可能性もあります。これが今の状況です」

「彼等が一気に動きだす時期をどう見るのか」と、遣る気満々の土井の質問が続く。気が向かないと動こうとしないが、遣ると決めれば徹底的に行動する彼の性格を知る私としては多いに歓迎する雰囲気で、義春や康夫もまた微かに笑顔を浮かべて二人の受け答えを見守っている。

「うーん、難しい質問ですが、最も時間が掛かるのは環境アセスメントの作成だろうと思います。環境調査となれば春夏秋冬の各シーズン、これから調べるとして、それを最短に省略するとしますと、夏と秋、つまり今年の十一月が最短の目標となりますかねえ」

「とすると、七、八、九、十・・と、四ヵ月の間に、我々は何らかの対策を造り上げることが第二の課題となる」

「それも、彼等に知られない事が絶対的な条件や。“何でも有り”の手を使う連中を相手にしていることを絶対に忘れるな」と私が付け足した。

「しかし、その条件が必要となると、確実に開発を止めるメドがついてから、それも、一気に止めるメドなしには、表立った行動はとれないことになる」と土井は懐疑的に見詰めた。私はゆっくりと慎重に言葉を選んで答えることにした。

「さもないと一族の誰かが手痛い被害を受けることになる。開発を止めることが出来たとしても、我々の内の誰か、それとも一族の誰かが殺されたり不具になった場合には、我々の行動は意義を失い致命的な打撃を受けてしまう。それであれば何もしない方が増しだ」と、この点について譲る意志の無いことを強調した。

 土井は腕組みをし、「うーん」と呻いた。横に座る康夫が背筋を伸ばして、

「利権とか暴力とか、ややこしい問題を除いて考えればええんやないか。彼等と俺達の立場の違いは、丘を現状のまま維持するか、開発を許すかの、いずれかや。せやから、環境アセスを我々の手で有るがままに作り、出来るだけ多くの人々に知ってもらうことで、あの丘が貴重なものやと認識してもらえばええ。あの丘はこの河内平野で残された極めて貴重な存在やと俺は心からそう思う。それに、俺達が利権で人を操れないいじょうは、これ以外に道は無いと思う」と、のんびりと言う康夫の言葉に啓発されてか、土井の顔が輝いた。「そう言うことか!。彼等が適当に処理しようとする環境アセスを、我々が厳密に作って世に出せばええ。配る先はマスコミ・・それに・・府庁や大阪市の環境関係課とかで、丘が府下でも貴重な存在であることを常識としてしまえばええ。康夫、お前はもっさりしている割りにはええことを言うやないか・・動物、鳥類、昆虫、草木類、地質、水質と徹底的に調べて、立派な図鑑を出来るだけ早く作り上げることや」

「環境アセスだけやなくて、安原さんの掘り続けている遺蹟も、本当に素晴らしいものやと私は思うけど」と、杏子が付け加えた。

「そう・・俺の同僚で遺蹟発掘している男に一度だけ見せたことがある。安原さんの発掘は極めて系統的で見事なものやと、それに発掘品は、恐らく全国規模で考えても貴重なものやと言うてた」と、康夫が穏やかに話した。

「よし、俺も大学関係者で、古代史関係の権威者を連れてくるわ。もし、安原の発掘品がそれなりの価値があるのなら、これも報告書に纏められるように手を打とう」と、土井の顔色が紅潮してきた。土井も康夫もどちらかと言えば、世俗のごたごたから身を引く傾向にあるが、学術的なことで力を発揮できることで多いに気を良くしているらしい。

「よし、先ずはその方向で決めよう」と私が口を挟み、

「出来るだけ見事なカラー写真をふんだんに使った本を、一冊は丘の動植物として、これは杏子と康夫が担当してくれ。もう一冊は遺蹟発掘品として、杏子と土井に頼む。それから・・本の趣旨はあくまで素人が対象であり、素人がすっと入り込めるような物にして欲しい。この辺りは、杏子の意見を出来るだけ尊重して欲しい。それから杏子は丘に関係する“鳥の楽園”や“蛍の会”とか、自然環境グループを出来るだけ取り込んで、本作りに参加させて欲しい」

「ええよ、任しといて、それに私が思うには、環境グループ員だけやなくて、一般の人たちも丘を楽しめるようなプラン、丘での催し・・例えば七月始めには谷間で蛍観察会を開くことになっているんやけど、康夫さんのような動植物の専門家を指導員にした観察会とか・・その他にもいろんな催しを開くことが出来るし、それに、丘の中に自然観察道を作るとか、鳥の観察小屋を建設するとか、自然をそのままにしたプランも出来ると思うわ。丘の自然を痛めないで一般の人が楽しめる施設作りも必要やと思うわ。この辺りはエリサに頼めばええと思うわ」

「よし、その案は採用。“人に優しい自然公園構想”とか“生涯学習 自然との触合い”とかスローガンも派手に大岩と丘を生き生きと思わせるようなパンフレットを造って構想をぶちかませ!。それから大岩の存在を多いにPRして欲しい。とにかく金のことは心配するな。俺が何とかする。丘と岩の存続についてはこれが最後の決戦や、後に悔を残さんだけのことはやろう」と全員の士気を高めるようにと激励した。

 何事にも動じない和泉の顔も僅かに紅潮して、

「僕の方は、それとなく、市役所それに府議会での動きを探ってみます。それから杏子さんと連絡しながら、環境グループの活動が市役所の後援が得られるように手を打ってゆきましょう。ただ、義春さんの報告では、環境課と建設課の方は暴力団に汚染されている可能性もあるようやから、杏子さんの活動を細かく細分して、後援する課や係も出来るだけ分散して、全容が見えない程度の後援が得られるように動いてみます。まあ、この方はゆっくりと悟られない程度にやれます」

「よし、その点は和泉に任せる。慎重さと信頼性についてはお前を全面的に信頼しているから余計な説教はせん」と、和泉のやる気も多いに煽った積もりである。しかし、突然土井が「フー」と溜め息をついた。

「どうした土井、その溜め息は」

「すまん、すまん・・俺も徹底的には遣る積もりやけど、俺達に出来るのは精々この程度なんやろうか?相手は政治力も、金も、暴力でも遥かに優位に立っていて、真面目に働いて真面目に考えている俺達のやれることは、こっそり隠れて相手の油断を見澄まして、効果が有るかどうかも判らん足払いのような手だけや」と、天才肌で躁と鬱の落差の激しい土井らしい言葉である。

「はっはははは、どう煽っても土井は土井やなあ。考えてもみろよ。俺達はスーパーマンではないし敵もスーパーマンやない。敵のやっていることも俺達と大差はない。ただ連中には金儲けちゅう極めて魅力的な賞品があるから、つまらん積み重ねを飽きずにこつこつとやっている。一方俺達には個人的な利益は全くなくて、それどころか面倒で疲れることばかりや。せやから遣っていることが余計に詰まらん物に見えるだけや。特にお前は流行の電子工学をやっているから、全ての成果が革新的で前向きや。しかし現実の社会はそうではない。俺達の遣っている商売、それに世の中の革新は本当につまらんことの積み重ねで、一歩一歩進んでいくのや。それは丁度、お前が成果の判らん研究をこつこつ遣っているのと同じことや。とにかく、遣らんことには進歩は無い。敵も俺達も大差が無い以上は、敵の油断を誘い足払いで倒すのも素晴らしい手段やないか」

「成る程なあ、そう言われれば遣る気がまた出てきたわ。・・判った。成功を確信して全力を尽くすわ・・和田はやはり俺よりは一枚上手のようや」

「土井よ、お前に遣ってもらうのはそれだけや無い」

「と言うと?」

「お前の言う通り敵には力強い政治力と金と暴力がある。しかしなあ長所は短所でもある。・・つまり、連中がそれらの武器を使う証拠を・・俺達が手に入れればそれが今度は俺達の武器になる。“なんでも有り”の連中を相手とする時には俺達にもそれなりの手が許される筈や。そっちの方の仕事は俺と義春が担当するが、土井の電子工学技術を多いに利用する積もりや。頼りにしてるからなあ」

 武者震いするかのように身を震わせた土井は、「お前にはかなわんわ。よっしや、何でも言い付けてくれ。お前はやっぱり、俺達一族の長老にふさわしい男や」と言い、その冗談めかした口調に全員が大きく笑った。しかし、彼等の心が一つに纏るのを感じて私は多いに満足したのだ。

 具体的な方策は担当する者に任せると決めてから、キッチンからそれぞれ好みのスピリッツを持ち出し、馬鹿話しを楽しんでから解散したときには十一時になっていた。自転車で来た杏子を送ろうと私も表に出た。新月の夜にも家々の上に黒々とそそり立つ岩を暫し眺めてから、皆はそれぞれの道に別れて行き、私は自転車を押す杏子の横を東住宅へと歩いて行った。

「晴子さんは?」と、黙って考えていた杏子が女房のことを尋ねた。その一言にも杏子の言葉には甘えの感じは全くなく、一人で生きてきた力強さが表れていて爽快である。

「ああ、見てきたけど、もうぐっすりと眠っとたわ。あいつは豆腐屋の娘やっただけに早起き早寝の健康優良児や」

「あっははは、健康優良児ねえ、そう言えば昔から早起き早寝やったねえ」

と、晴子と高校までは同じ学校に通っていた杏子が笑いながら言い、「今までは皆と一緒に話し合っていたのに、コンテナの中へは入れないの?」

「ああ、そう言い渡してある。むくれよったけど、今度の件が終わるまでは仕方が無い」

「そんなに危険やと考えているの?」と、杏子はまだ暴力団の恐ろしさを認識していない言葉である。

「ああ、危険や。この上なく危険な連中や。それだけに、この件では下手な情報を持たせると、俺達全員に致命的な情報洩れもあり得る」

「ふーん」と今度は真剣な表情になった。女房を入れないことも又我々メンバーへの警告と感じさせているのだ。

「そう言えば・・“長老の教え”のことでは笑ったりして御免ね」と、杏子には珍しい謝りの言葉に私は驚いてしまった。

「いやいや、全然気にはしてへん。あれには単にいろんな見方と効用があると言うだけのことや。あれを読む人各々がいいように解釈できるようにと先祖が考えたと思うのや。俺は俺の立場で意味のあるように解釈しただけのことで、君の立場とは別やっただけや」

「そう、・・ところで今日の話しに出た“五人会”と言うのは何?」とやはり杏子の質問で、判らないことは着実に尋ねるとの一族の特徴そのものである。

 杏子の質問で、何から話そうかと空を見上げた。環状道路周辺は街灯が整備されているせいで星は数えるほどしか見えない。人も車も通らない住宅地の方々から犬の遠吠えが聞こえてくる。

 五人会を造ったのは杏子がヨーロッパに就職し町を離れてからである。その頃から急激に進む周辺の開発と共に、一族の心も離ればなれになる気配が窺えた。それを一つに纏める試行錯誤の結果が五人会であった。長老五人会の其々が別に五人の会合を開き、その五人会の其々がやはり五人の会合を開く、この細胞組織が最も簡単で時間も食うこともなくその時代の要求を満たしたようで一族の団結をなんとか維持出来たのだ。

 五人会を造った経過を杏子に説明してから、

「まあ、団結力を高める方法としては、大きなイベントを開いて一族を集めるような方法もあったが、それでは金を集めねばならない。それに、そんなイベントでは・・例えば、土井、義春、それに杏子や康夫は離れて行ったやろうし俺さえも嫌になるやろなあ。俺達の一族はどうも、人を支配することも、それに支配されることも我慢できん連中ばかりやからな。・・とにかく、自立する人間には我慢出来ない代物になるから、“一族の掟”に反することにもなる」「千五百家族やとすると、千五百割る五で、三百の五人会があるわけ?」

「いや、土井によると4のN剰の鼠算やから、理論上は、ほぼ三百五十会合位になる筈やが、今は家長でなくとも自由参加出来るし必ずしも鼠算の通りやないから四百ぐらいかなあ」

「ふーん、しかし、その方法では危険性もないかしら」

「そうや、どこかの分岐から下に誤った情報を流す人間が居るとしても、上流では把握できないし、特に金銭が絡むと大変なことになる。その辺りは充分に考えて規則を決めているし、五人会では金を扱うことは厳禁としてある。それに、長老会の五人は分担して一族の誰彼なく付き合うことに努めている」

「うわあー、えらいこっちゃ。千五百家族を相手に・・」と杏子は低く呻いてから、

「お爺ちゃんも、大変な仕事を賢一さんに譲ったねえ」

「まあな、しかし昔は人数が少ないとは言え君のじいさんも同じような仕事をしていたし、今は人数が増えたものの、俺と義春と和泉とで分担してやってる。始めの一年ぐらいは大変やったけど、今ではいろんな家族と付合うのが楽しみにもなってる。仕事の途中で二、三軒立ち寄って世間話しするだけのことで、言ってみればクライエントを逃がさんための営業も兼ねているから大したことやない。縁側に座って世間話するだけでその家の様子も何となく判るようになったわ。良夫にとっては大事な選挙民やから、これはもう票集めの切実な効果があるから一生懸命やっとるわ」」

と話しながら、ずっと昔に杏子とこの道を歩いていた夜のことを思い出した。まだ舗装も無く周りは黒々と広がる田圃と畑で、満天には無数の星々がお互いに囁き合うかのように瞬いていた。台風の直撃で停電が続いた夜のことで、蝋燭の下では受験勉強も出来ないと誘い合って夜の散歩を試みたのだ。その時には杏子が一方的に話し続け私は頷いているばかりであった。そうして今は私が喋ってばかりいる。

 杏子は暫らく考えてから、

「それにしても、それだけの苦労をして、一族を纏めることにどんな意味があるのかしら」

「そう、俺もその点だけが疑問やった。・・せやけど、長老を何年か務めて、各家の家族構成や家庭の事情がほぼ判るようになってからは長老の存在価値が何となく理解出来るようになった。・・人はなあ、信頼出来る人間が身近に存在するだけで生活に自信が生まれるらしい。そんな信頼があるだけで揉め事も容易に解決する。長老の存在価値は、その信頼できる存在にあるらしい」

「ふーん」

「ただ、俺の一生の仕事はこれでええやろかと、ふと思う時だけが憂欝なだけや・・」

と、私の口調は我ながら物悲しいものになってしまった。杏子が相手の時にはつい本音を吐いてしまう。

「そうかしら、どこに住んでも人は人、それが私の人生経験の結論やねえ」

「俺も、そんな経験を積んでみたいよ。狭い世間に閉じ籠もる生活は俺には向いていない。お前もそれが嫌で出て行ったのやろが」

 杏子は「ふっ」と笑い、「そこまで深く考えてはいないけど、心の奥底にはそんな思いもあったかもしれない。それに、ここでも、出来るだけ一族外の人とも付合おうとするけど、そのせいかもしれないわねえ。ただ・・一族の存在は、どう表現すればいいのかなあ・・・無ければ無いで済ませるかもしれないけども、子供の頃からの気心の知れる仲間が大勢居る場所との思いがあるわねえ」と思いに耽る表情を示してから、

「賢一さんが、この世界で手にしたものはそんなに詰まらないものかしら?・・私が帰ってから聞かれされるのは貴方のいい評判ばっかり。年寄連中の評価も、“文句も有るが、まあ良くやっとる”ぐらいが最悪のコメントで、賢一さんってそんなに八方美人だったのかと驚いている有様よ。確かに賢一さんがここを出ていたとして、それなりの成功を収めたとは思うけど、貴方がここで得た厚い信頼は他に替えがたい貴重なものと思うけど。それでもまだ他の世界を経験してみたいのなら・・長老の後継ぎを早いところ見付けることやねえ。でもこの世界から出ることは、それに相当するだけの、・・貴重な何かも捨てることになるのよ」と、極めて冷静かつ効果的な説得である。

「相変わらず、説教は巧いなあ。長老職も充分に務まるで!」と吐き捨てるように言うと、杏子はまたまた「ふっ」と微笑んだ。

 爺さんの家の、昔のままの土塀に沿い鐘楼のように聳える門の所まで来て、これからのことを思い、私は沈んだ心を奮い立たせた。「杏子、今日の話は長老会だけのことやから注意してくれ。くどいようだが話しが洩れると危険なことになる。それと、丘のことでは結局は安原の気持ちが要や。彼が土地を売る気になれば俺達がいくら頑張ったところで何の意味もない。安原は俺よりもお前を信用しているらしいから、それとなく彼の意向は見ておいて欲しいのや」「女スパイだ!」

「まあな、せやけど安原が丘を売る気になったとしても、俺には彼の邪魔をする気は無い。ただ、彼の意向とそぐわない無駄な動きは取りたくないだけのことや。

「判った。安原さんとは楽しく付合えるから任せておいて・・・じゃあ、見送り有難う。それにしても、この歳になって女スパイとはねえ・・」と呟いて片手を上げると、杏子はさっさと門の中に入って行った。

 家に入って行く杏子の若い時と変わらぬスラリとした姿に私は見惚れ、彼女が一族でさえ無ければ、私の付合い方も違ったものになっていただろうと考えた。

 この頃は変わってきたが、一族の若者はなんとなく一族以外に相手を探す傾向があって、私の女房も地元ではあるが一族の出ではない。杏子への感情はどうしても兄妹の思いを越えることは出来ず、杏子もまた同じように感じているようだ。その感覚は歳と共に強くなってゆくようで、男相手とは触感の違う強い友情で引付けられ、私の人生に杏子のような友人を持てたことを幸せに思うことがしばしばである。

 杏子が門の陰に消えてからも暫らくは佇み、それからゆっくりと踵を返した。

 来た道を戻り家に着き、念のためにと岩を仰ぎ見て愕然とした。岩が霧のような薄い金色に覆われ、闇の中に浮き上がっていた。周囲の空を見回したが、岩の輝きを除いてはどこにも光は無く、岩はそれ自身の輝きにより煌めいているかのようにと見えた。恐らく私の位置からは見えない所に光源があり、大岩はその光を瞬きながら反射しているのだろう。じっと岩を見詰めていると足の下に大地の揺れを微かに感じた。岩の輝きが一瞬強くなり、それからゆっくりと光は衰え、岩は再び闇の中に聳える陰の姿へと戻った。岩の煌めきに地震が関係していることはほぼ間違いは無いと確信したものの、それだけではないとの思いが胸の中に沸き起こった。その思いを追い払うべく私は強く頭を振ってから家の中に入って行った。

 犬の遠吠えが、いよいよ激しく聞こえていた。

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