2014年7月24日木曜日

失敗の本質とはとっても大切なことを、住友重機械での実例で示す。

僕の所属した住友重機械の運搬機事業部は海外進出の端緒に、立て続けに大赤字を出して、その志を挫かれてしまった。その後は海外進出に極端におびえて発展の機会を失ってしまった。
つまり、その時点の指導者に人を得なかったってことだろう。
住友重機械が本拠とする新居浜って環境下では時流に乗るだけの人が生まれなかったとも言えるだろう。つまり、この会社はそうなるべき運命下にあったのだと言える。
失敗の経過を更に詳しく見ると、先ずは韓国、台湾での搬送システム案件の成功があって、その後中東の搬送システム案件で最初の案件が大きな利益をあげて全運搬機事業部が海外案件に目覚めた。
ところが続く案件が次々と大赤字になり、中東最後の案件はイライラ戦争で中断したこともあって当然赤字になった。
ちょうどその頃、シベリアに納入した大型土木機マリオンも納入後トラブルが続き大赤字になった。
とどめとなったのが、米国タコマのコンテナクレーン6台だった。この案件では韓国製作にも挑戦したのだが、7台分とか8台分の費用が掛かったとのことだ。
据付現地指導員であれ、韓国製作指導員であれ、どの案件も、新居浜工場の現場作業員がぞろぞろぞろぞろと指導員に出かけるのだが、そんな体勢で海外案件が順調に処理できる筈がない。
海外案件に必要な労働者や資材供給システムを含むサイト運営能力、スーパーバイザー能力が根本的に不足していたのだが、結局この欠陥を乗り越えられなかった。
これらの人材・能力不足が原因であることは、当初の利益が出た案件は、設備納入と指導員派遣が納入範囲で、失敗した案件の殆どが、現地据付工事を含むフルターンキイまでが納入範囲であることから推察できる。
つまり、住友重機械は機器メーカーではあるが、据付会社では無いと言えるのだ。だから、据付指導員として派遣される技能者は鉄鋼構造物や機械設備の製作技能者であって、据付の技能者ではない。特に海外で必要とされる現地人を使い切るだけの言語能力もなければまとめ技術も無い。海外据付に際しては、これら工場技術者の上に、国内工場の課長職を仕事とする幹部が殿様として存在するグループが派遣されるのだが、彼等に海外現地での据付スーパーバイザーを遣れる筈もなく、そもそも、海外現場を構築するノウハウやマニュアルさえ存在しないのだ。フルターンキイ案件を処理できる可能性はゼロに近かったと言えよう。
そもそも、あれだけの失敗を繰り返したにも拘わらず、そのようなノウハウの蓄積やマニュアルが存在しなかったことが、この企業の能力不足を示していると思える。

更に住友重機械なる会社全体で考えた場合、先にも書いたように、この会社は新居浜を本拠とする会社で、運搬機械や産業機械を製品とする新居浜事業所であげた利益の殆どを、減速機や建設機械、それに射出成型機に投資して、漸く各所が利益を上げるようになったものの、バブル崩壊で、特に本社の副業投資がべらぼうな赤字を出して、極端な人員整理と資産整理になってしまった。
そう回顧すると、おそらく、初めから事業拡大の方向を、産業機械や運搬機械で世界制覇を目指した方が良かったのかもしれない。つまり、事業幅を拡大するよりも、先に書いたような設備、つまり本業のフルターンキイ納入が出来る企業を目指す方向もあったはずだ。そうしていれば、技術的にも統一のとれた開発で世界一になってた可能性がある。住友重機械の失敗は、下手に事業幅を拡大しすぎるとどうなるかの好例かもしれない。

このように回顧すると、失敗の本質とはとても重要なことに思える。

さて僕がバングラデッシの肥料製造設備の搬送部分の指導員チーフとして派遣された時の状況だが、先ず、その時期は、シベリアでマリオンが大赤字となり、イラクでも大赤字となりつつある時期であった。つまり、住友重機械の海外志向の最終段階に近かった。
そもそも、設計、それも本拠から外れた大阪に所属する僕が、なぜ自分が設計した施設でもない設備の指導員で出なければならないかも説明なく、その後も何のインフォメーションやマニュアルも無く、顔も知らない新居浜の鉄工部工員、検査部門の工員を引き連れて行くことになった。
ただ、納入機械設備類は新居浜で製作、梱包中であったので、その様子を一度、見に行っただけであった。その案内をしたのが、一緒に行く予定の鉄工工員で、彼が梱包の検査もしていた。
その際に、部品が機番ごとでなくバラバラに梱包されているのを見て、「梱包リストは機番ごとのも作るように」とその鉄工工員に指示した。が、結局その必要性を理解できなかった彼はその指示に従わず、そのため、現地に行ってから、梱包内容の確認と、機番ごとの部品収集がおおごとになってしまった。加えて、その男は日本での梱包作業時に、梱包リストと梱包内部品の照合もまともにしなかったため、いよいよ現地での工事指導は大変なことになってしまった。
結局は、予備として持って行った膨大な梱包リストを、手とはさみと糊を使って、機番ごとの梱ーリストを現地で作った。それだけではなくて、重要な機械部品の梱包は、自分の手で梱包リストとの照合を行った。
話が飛んだが、誰も現地指導のやりかたについての教育とか資料とかもないままに、僕は、工員たちを引き連れて現地に行ったのだが、現地には、我が社営業どころか、現地商社員さえ同行しなかった。後になって考えると、設備を納入する会社にしては、極めて異常な対応であった。
結局は、その後1年にもわたる工事期間に現地で生じたあらゆる苦難を、自分ひとりで対処するしかなかった。
他方、他のサイトでは、新居浜から派遣される据付チーフ達は、何人もの腹心を引き連れて行ったのだが、海外での据付業務では腹心が多くとも対処が容易になるわけだはない。だから、結局は、チーフの能力だけで、業務の成果は決まることになるので、大勢の腹心を連れて行けば、その人件費だけでも大金が掛かり、更にトラブル対処も適切ではなかったことで、次々と大赤字になる案件が続いたわけだ。
勿論、僕の行った現場は、充分な利益を上げることが出来たが、これは、僕の所属部署が、新居浜の工場に頼らずに独力で仕事を切り開く部署であったこと、それに、大阪部署の仕事は、単体ではなくてシステム物であり、システム物のまとめには普段から慣れていることが大きく影響したと思う。

要するに、海外据付業務に対するマニュアルとか、海外案件に対する日本側でのバックアップシステムも不十分なまま、フルターンキーの案件までに手を出すなんて、これは失敗して当たり前と言えるだろう。

独力で解決するって実例だが、当時の現場でエヤー配管のスピードコントローラがどこにも見つからなかった。据付まとめのケピンスキーとか言う、ポーランド系のイギリス人にその部品がどこかに無いか、と聞くと、彼は、その部品の機能を聞き、それなら盲配管に小さな穴を開ければどうだろうと、提案された。実際に試みるとうまくいった。この助言の後、僕は、工夫することの重要さに気付き、これを続けた。
結果として、住友重機械での長い勤務で、自分の担当したプロジェクトは一件も赤字を生じることなく処理出来た。それだけではなくて、人が嫌がる案件を押しつけられることが多く、それ故に、見積る受注の殆どで受注できた。
しかし、住友重機械の体質は、プロフェッショナルを望む体質では無かったので、僕は評価されなかった。それが、住友重機械の限界だと言える。これはもう、失敗の本質よりも以前の問題だろう。つまり、住友重機械っておたんこなすです。
更に言うなら、住友重機械の指導者は、仕事のプロフェッショナルではなく、そのため、失敗に学ぶとの精神もなく、実際に失敗から新しいシステムを作るとの能力もなかったと、言うべきだろう。
失敗の本質を把握し、これを克服するシステムを作り上げることが企業なり、組織の発展と維持につながって行くのだ。海外でのプロジェクトノウハウも無い状況に、円高が襲えば、これに対処することなどできる筈もない。住友重機械に残された道は将来の切り捨て以外にはなかった。

2014年7月23日水曜日

志水勇の若返り 

NHK放送の認知症の薬を忘れないようにと記載した。

シロスタゾールは血液をさらさらにする。この薬で脳内血管に溜まったアミロイドβを減らすことができる。但しこの薬は健常者に取っては心臓に悪いらしい。

インスリンは脳内の糖尿病を治すとの考え方で効果があるらしい。しかし、この薬は血管に注射して体内に入れるのだが、脳は体とは隔離された存在で、注射しても脳には行かない。鼻から噴霧すると、脳からの神経を経由して脳内に達する。

介護の方法としてユマニチュードって方法が効果的らしい。
笑顔で、患者に接近して楽しく話す。患者を寝たきりにはしない。
ストレスホルモンが患者には最も悪いので、笑顔、体に触れる、優しいマッサージとかでストレスホルモンが減少する。

NMNなる薬が突然放送された。寿命を延ばす薬である。

ニコチンアミドモノヌクレオチド

分子式C11H15N2O8P
慣用名 NMN、1-Deoxy-1-(3-carbamoylpyridinio)-5-O-oxylatophosphonyl-β-D-ribofuranose、ニコチンアミドリボヌクレオチド、ニコチンアミドヌクレオチド、Nicotinamide nucleotide、β-D-NMNNicotinamide ribonucleoside 5'-phosphateNicotinamide mononuclotide、Nicotinamide ribotide、Nicotinamide ribonucleotide、ニコチンアミドリボチド、ニコチンアミドリボヌクレオシド5'-りん酸、ニコチンアミドモノヌクレオチド、NMN+、1-[5-O-(Oxylatohydroxyphosphinyl)-β-D-ribofuranosyl]-3-carbamoylpyridinium
体系名:1-デオキシ-1-(3-カルバモイルピリジニオ)-5-O-オキシラトホスホニル-β-D-リボフラノース、1-[5-O-(オキシラトヒドロキシホスフィニル)-β-D-リボフラノシル]-3-カルバモイルピリジニウム
http://libertariansdiary.com/nmn-4096
現時点での実験結果曰く、このnmnを22ヶ月のマウスに1週間与えたところ、なんと6ヶ月のマウスと同じ状態まで若返ったようです。
そしてこの「nmn」が、人類の老化防止・そして若返りを実現するのではないかと期待されています。噂では、このnmnを使用した2045年の平均寿命は100歳になるのではないかと言われております。詳しくはここ。
http://qb-trendnews.com/harvard-medicine-nmn/
http://qb-trendnews.com/nmn-kaisya/

2014年7月16日水曜日

粟野泰子さんと志水秀夫さん 親も兄姉共に全く信用できないって僕の経験 

姉と兄の現状
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_8.html
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html
僕の蓄財法
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_2.html
僕の高校時代
http://isabon.blogspot.com/2022/07/blog-post.html
志水勇の旅行記
https://4travel.jp/traveler/isabon/album

会社なんて信用できない、親戚も信用できないって話は書いたが、

やはり死ぬ前に、僕の両親、姉兄についての悲しいお話を書くべきだろう。
要するに、結論としては、志水家も粟野家もくそ家系ってことなんだけど、ただ我が家には、くそ家系でない女房家系の血が混じったので、ちょっとはましになったのだが、

特に志水・粟野家族についての話は一気に書くには複雑な話なので、それに、とても鬱陶しい話なので、じっくりと時間を掛けて書く積りだ。つまり、僕への仕打ちから判断するに、会社には、社員への愛情などは微塵もなく、夫婦愛については歌子さん夫婦についての経験が示す通りの体たらくで、親子愛、兄弟愛もまた、僕の家族と僕との関わりを書くことで、その実態を皆さんに示したい。特に、姉の愛なんて、これは大嘘もいいところだと、僕の経験から皆さんは気付くことだろう。
こんな兄弟・姉妹を持つと大変なことになる。不幸にして斯様な親族を持った場合のためにも勉強しとく方が良いと思う。


さて、粟野泰子さんというのは、僕の実の姉の名前なのだ。ついでに記するなら、長兄の名前は志水秀夫 という。ふたりともかなりの高学歴者と言えるだろう。

世間の通念では優しい姉と呆けた弟って、“小百合、鶴瓶コンビ”が姉弟のスタイルで、“長兄と末っ子”と言えば、しっかりもので弟思いの兄と、呆けた弟なのだが、現実には、多分、そうでないケースが多いようだ。更にまた、母親の愛なんていい加減なものだと言うことが僕の悲しい経験から理解できるだろう。友人にも聞いたら、やはり、長女って甘やかされて育ってるからなぁ、と いみじくも のたまうた。

誰やねん!姉弟なんて甘っちょろいストーリィをねつ造したんは!笑っちゃうよ!

出来るだけ忘れるように努めているんだけど、ここに書いた以上に何かあったら、爆発してたでしょう。でも、もう奪い合いというか、一方的な収奪だけども、その対象になる餌は全部差し上げたから・・・・・と、人生旅日記の回顧録でも、と書く気になったのです。ただ問題は、僕の人生の両親や家族に関することとなると、以下の出来ごと以外には殆どないのです。つまり、我が家族の回顧録となると、こうなってしまうのです。哀しい話です。

で、回顧録の大きな目的は、粟野泰子さんが口頭でいいふらした僕への悪口を、ひとまとめにして弁明すること、更に、実兄やそのつれあいが僕に着せた濡れ衣への弁明や、記載した人々と僕の人間関係で、その折々に生じたいさかいでの僕の行為の真実を明らかにすることです。

加えて、僕の子供たちに対して、彼等が育つ過程で何があったかを知ってもらうことです。

なお、僕と関わった人々で、この拙文を読み、いや、ここはこう間違っているとの点が有れば指示ください。当方に誤解または誤りがあれば修正します。

再び戦う機会ができたら、命を張って戦う所存とご理解ください。が、それでも余り感情的な記述は望ましくありません。回顧録として適切な表現に、順次改めて行きます。でもまぁ、彼女のことだから、ここを覗いても、ふん!と鼻を鳴らすだけでしょう。

つまり、自嘲自虐的に表現すると、このブログは負け犬の遠吠えってとこです。当然、負け犬は僕ですね。
なお、会社は全く信用ならんって話はここ。http://isabon.blogspot.jp/2012/05/jr20101109.html
夫婦愛や親戚愛も信用ならんって言うのはここ。
http://isabon.blogspot.jp/2013/02/blog-post_25.html

いまテレビドラマで「若者たち」って番組で、いろんな愛を描こうとしているが、あんなものは皆、作り物の嘘っぱちだってことが判るだろう。ただあのドラマは、それだけではなくて、何となく作者の勝手な思いが見え見えなんで、駄目なんですけどね。とにかく、感動させようとしてストーリィが無茶苦茶なんですがな。それに、出来事が次から次に起こるのだが、各出来事の結末が着く前に話が先に進んでしまうので、見ているだけで頭が混乱してしまう。

が、このドラマの件はちょっと横に置いておきましょう。

僕は、父母に殆ど心配させること無く、贅沢をすることもなく、余計な負担を掛けることも無く育っていった。学校は公立ばかりで、大学は国立で、しかも、受験は一校だけに絞って受験したから、私立高校や私立大学を経た兄達や長姉に比べれば、実に節約的な道を歩んだと思う。ただ後から気付いたが、長女、長兄、次兄の各々が、概ね私立高校、私立大学の道を歩んだのに対して、恐らく、長女が、自分以外の兄弟に金を浪費させたくないと親に助言した為に、僕だけは公立ばかりを歩むことになったのだろうと、と、これは今になって回顧録を書きながらの僕の想像である。

これだけではなく、姉は親に助言できる年齢になった頃に、僕がちょうど金の掛かる年齢に達したころだから、僕に掛かる費用を最小にするように親に助言し続けた、とこれも想像である。かなり被害妄想的にも思える、いや、確実に被害妄想だな。しかし、僕の中学、高校、がそれほど他の兄弟のと違ったのは、なぜだろうかって大きな疑問は残るのだ。つまり本件が被害妄想でないとする可能性もあるのだが、その場合、僕には、いろんな試練を難なくかわす才能(但し必死の努力で)があったので、彼女の本性を見抜くこと無く過ごしたとも言える。ただ、もっと公平な見方をするとすれば、両親の教育費への無駄な投資を節約させるために、より効率的、経済的な方法を彼女が助言したのだとも言える。ただ、彼女自身も、その行動を同様な考え方で行えば家族に取っては、より経済的であったのだが、人には厳しくとも自分に対して甘いのは人の常とも言える。

長兄もまた姉と同じ性格なのだが、それ故に、長姉の性格を見抜いていたようで、ある時、ぽろっと「あいつは油断できんからな」とこぼしたことがあった。今になって思うと、どっちもどっちだってことだったのだろう。それにまた次兄があるとき、「うちの家族って、なんか変やなぁ。ばらばらや」と呟くのを聞いたが、その呟きを聞き流した僕が鈍感であったようだ。

つけ加えると、その長姉は、おけいこ事は、踊りどころか鼓(つづみ)まで習う等、いろんな金の掛かることに手を出し、関学ではテニス部に所属して、おじょうさん活動に熱心だったから、かなり浪費するタイプであった。

彼女の口癖は父親が、お前には苦労はさせん、と常々言っていたとのことだが、これが彼女の自己中の正当化理由となってしまった。親父も余計なことを口走ったものだ。僕は、僕の子供たちに対してそんなことが無いように留意しよう。

そう言えば、会社の先見の才ある先輩に影響され、僕が土地を買おうかなとした時に、吹田の公団分譲アパート、それも駅まではバス通勤って案件を探し出して来たのも長姉だったかな。それも、頭金自分持ちで残金を月々自分で返却になった。長姉は駅から徒歩5分の広い土地一戸建て、それに駅から徒歩の調布の公団アパートも親に全てを買ってもらってたけど、ね・・・、実に経済的な姉の助言、または、指示でもあった。

でもいいや、会社か公団からの借金、それを、月々返済して行く、それが、世の中では普通なんだから。

他にもあれやらこれやら、両親の金を盛大に使うのは、自分の家族の時だけって、これらをちょっと考えれば、姉が僕をどう見ていたかって気付く筈なんだけど、そうならないのが僕の甘い点なのだな。逆に言えば、長姉に取っても、長兄に取っても、次兄や僕は、その程度の存在だったってことですわ。そうして、今になって気付いたのだが、父親や母親にとっても、僕はその程度の存在だったのでしょうね。

ここで再び、「誰やねん!姉弟なんて甘っちょろいストーリィをねつ造したんは!笑っちゃうよ!両親って末っ子に甘い、だなんて馬鹿なストーリィは!笑っちゃうよ」。

話はちょっと飛ぶのだが、ちょっと思い出したので忘れないように記しておく。

僕は未だに、親父の亡くなった時の相続税申告書も、母親の亡くなった時の申告書についても、原本を見たことも無ければ、コピーさえ見ていない。長姉も長兄も見せようとしないのだから、どうしようもない。税務署もこれに加担して僕が見ることを妨げるので、いよいよどうしようもない。

長女が作成した母親の相続税申告書については、目を通すことすらしていない。と言うか、税金の申告書の金額計算欄の、その殆どをマジックで消したものを送ってきて、100万円とか200万円の相続税を払えと連絡してきたので、申告書を見せて欲しいと連絡すると、それは無視して税金処理を自分で済ませたらしい。なんら連絡が無いので、東中野税務署に電話すると、既に申告は終わっている、とのことで、それでは閲覧したいと申し出したのだが、僕の捺印無く申告書を受付けたにも拘わらず、というか、僕の捺印無く受付けたことを隠したいのか、税務署は、「他の兄弟の承認無くして閲覧は出来ない」と、僕の申し出を拒否しよった。悪事の証拠の閲覧を姉が許可する筈がないことを見越しての対応である。ここに官僚機構の異常さが見事に現れている。が、ここは、官僚組織を批判する場所では無いので、官僚批判はここまでとする。駄目もとだと、姉に、閲覧を承認してくれとハガキを出したが当然ながら、これも完全に無視された。

後先逆になったが、その以前に親父が亡くなり、この時は長兄が相続税申告書を作成し提出した。説明を受けて捺印したが、後で内容を勝手に変更、それも相続分を半分以下に減らされたので、コピーをくれと申し出したが、これも未だに無視されたままだ。

この時点で長兄は、自分が取れる分は全て取ったので、取り切れなかった残りは、長姉に任せたので、この結果になったのだ。この時の長兄の巧妙さ、これを長兄自身は、「俺は徳川家康に似てるのだって」と自慢にしていたが、その巧妙さについても詳しく後述する積りだ。
それにしても、兄弟を騙すことが巧いのが徳川家康とは知らなかった。

ところで、長兄は、兄弟への相続を節約した金の一部を、大阪大学の工学部に寄付、それもかなりの額の金額を寄付したらしい。僕は大学については長兄の先輩で、僕の所属した水力研究室の100周年記念会だかで出会った先輩からそのことを聞き驚いたものだ。

で、先輩が「多額の寄付をするなんて君の兄貴は偉いね。お元気かね?」と言ったので、「さぁ、何十年も会ってないので・・」と答えたら、先輩は戸惑った顔で「それは、えらいこっちゃ」と言って絶句した。でも、寄付金のかなりの分が僕から奪った分であったことまでは言わなかった。

姉もまた、誰かに、「うちは徳川家康に似てると思うよ」と自慢しているかもしれない。が、何度も言うが、『末っ子を騙して財産をぶんどるってえのは、徳川家康ではない』ちゅうの!。

ここに書いた経過から思うに、長兄には僅かながらもまだ人間味があった、と言うか、作戦が予定通りであったので、後はどうでもよしと割り切ったとも言えるが、長姉は、公平さ等には微塵も考慮せず、とことん相手を打ちのめす傾向があり、そのことを容赦なく遣る傾向があった。その為には、周囲に嘘を言うよりは、自分に都合の良いことだけを言うって方法を使った。例えば、僕が十数万円の支払いを拒否し、他方、姉が一億円を懐にした場合には、周囲には、たった十数万円(数十万円じゃなくて、十数万円ね!)のことだけを涙ながらに言い続けるって方法だ。頭の中で物事を差し引きするって機能が欠如しているのだろうか、相手から取ることばかりを考えるって表現が適切だろうか。と言うよりは、結果からすると、極めて効果的で冷静な作戦だったと考えるべきだろう。

ところがその特技は、公正さを追求する筈の家庭裁判所とか、東中野税務署とか、藤井寺市役所の税務課だったか納税課だったかの、くそ竹中とかを相手にする時には非常に効果的なのだ。

後述のように、恐らく一億円(一億円、一億円と繰り返して言うが気にせんで下さいね)近くもの金を生前贈与で彼女自身の家族にばら撒いておいても、これは合法である。それに、母親が10年以上も多額の固定資産税を姉の替わりに納めてやってもこれも合法?に近い。が、それに気付いて、最後の1回分だけでも母親の遺産で払わせようとすねたら、これは長姉にとっては重大な攻撃点となったのだ。そのことを先の連中に、おそらく泣きながらでも訴えれば、連中は正義の力を発揮しようと試みるわけだ。実に巧妙な戦略である。

これを知っただけでも、ここを訪れた皆さんには意義があったと思う。ただ長姉のように涙が簡単に流せたらもっと効果的なのだ。

それに、頭の回転が速い長姉は、時々突然独り芝居を始めるのだ。この方法もまた勉強する価値はあるのだが、独り芝居の意味、意義は頭の回転がそんなにも早くはない常人には、時間的にかなり経ってからでないと判らない。時には、いつまでも判らないって、そんな独り芝居って、ちょっと常人には真似出来んだろう。

さてっと、話を戻して、親父の家は、藤井寺市の高級住宅地に250坪のなかなか豪邸?であった。

34.56812,135.591843

長男は、僕の先輩でもあるのだが、大阪大学を卒業してダイハツに就職し、そこをやめて大学院に戻り、大学院を卒業して、親父の浪速鋼帯工業㈱って小企業を継いだ。なんのために工学部に行き、大学院も卒業したのか全く理解できない行動であった。

両親は長姉に対してと劣らず、長兄にも、とても甘くて、彼が大学時代にはもう車を買い与えた。他方僕には「おまえは目が悪いから車の免許は取らない方が良い」とアドバイスしたので、僕はその助言を信じて一生車の運転をすることはなかった。

それ以前にも、親父が経済的に余裕が出来る前、高見の里の貸家に住んでいたころ、長姉、長兄は2階に一部屋ずつ与えられ、次兄は玄関わきの2畳の部屋で、僕は玄関わきのみかん箱一個が机として与えられていた頃で、長兄には部屋いっぱいの線路とそこを走り回る電気機関車や車両の模型、更には、エンジン付きの飛行機模型とかも買い与えていた。これらの待遇の差そのものは、早く生まれた者と後から生まれた者の差として、ある程度は当然の状況とも思える(と言うよりは、回顧経過で思いだした、被害妄想に近い思い出でもある) が、問題はむしろ両親がその差を意識して、長姉、長兄の責務、つまり、彼等に何を期待するかをきっちりと教えなかったことにあるように思える。

ところで、長兄は買い与えられた車を有効?に使い、女房をナンパしてできちゃった婚に至った。長兄が結婚して、親の金で裏庭に建物を増築し、兄夫婦は、そこに住んだのだが、それは後の行動から判ったのだが、長兄は親の面倒をみる為ではなくて、家を相続することが目的で同居したのだ。そのことから考えると、長兄は、親父の財産を出来るだけ多く引き継ぐことが人生の目的であったようだ。

いまになって思うと、長兄のあの若さで凄いことを考えるものだとは感心するが、決してそうなりたいとは思わない。それに、このあたりの性癖は、子供の頃に形成されるらしく、ある年齢に達してからは修正できないものらしい。

とにかく、そのころ僕は、長兄とは全く異なり、家族とは助け合うためにあり、兄弟姉妹はお互いに家族の為に行動するものだ と信じていたから、長兄のその行動、それに姉のその後の行動等の真意を全く理解することはなかった。

ところで、思うのだが、両親は何を期待して、長姉や長兄に甘かったのだろうか?その結果はおいおい書いて行くのだが、それで両親はその結果に満足したのだろうか?更には、母親は最後には僕に見放されて、それでも満足して死んでいったのだろうか?結局は母親の死に目に会うことすら拒否した僕には判らない疑問だ。

長兄は結婚して何年か後、僕が大学3年ごろに、大阪市内の事務所の2階が空き家なのでそこに住まないかと言ってきた。若者は一人住まいに憧れるもので、その若者真っ最中であった僕は、すぐさまその申し出を受けたが、なんと、そのことを聞いた母親は親父も引き連れて僕と共に大阪市内に行くことにした。で、長兄のもくろみは、見事に成功し、僕だけではなく両親も含めて全てを追い出して、豪邸を自分のものにしてしまった。しかも、その豪邸の所有権は親父名義のままであったから、固定資産税は父親が死ぬまで両親が払い続けた。
これらの経過、それに、長兄のその作戦の意義に気付いたのは、30年も後のことですが・・・。

後年、母親から聞いたが、長兄が僕を追い出した理由は、兄嫁が風呂に入ると、僕がうろうろするからだ、と言っていたらしい。僕は助べえではあったが、兄弟姉妹へのそのような劣情を感じる男ではなく、それに兄嫁は、容姿もその性格も僕のタイプではなかったので、これは全くの濡れ衣と言うよりも、それほど趣味が悪く見えたのかと遺憾である。
とにかく、そう言われた母親は、家族の食費とかすべての維持費用を長兄の家族分をも全て負担していたのだが、その当時は不景気で収入が少なく、その負担が重くて堪らず、この申し出を口実に、僕と一緒に家を出ることにしたのだ、と言っていた。更に、家を出たことで、貯金が増えだしたので良かったとも言っていたが、そう言いながらも、長兄の住み家と言うか、長兄に追い出された家の固定資産税は払い続けたとのことだ。

親や兄弟を追い出して、それでも尚、固定資産税を親に払わせるって長兄の思考もおかしいが、家に同居した長兄の生活費を全て負担し、その負担が重いと家を出て、なおかつ、固定資産税は支払うって親の思考も僕には理解できない。が、両親には、長兄、長姉を優遇する思考があったことも否めないだろう。その優遇とは、彼らへの期待とも言いかえることが出来るが、先にも書いたように、両親は二人に一体何を期待したのだろうか。結局は何の見返りもなかったことからすると、単なる遺伝子的な習性の結果としか思えない。

ここまで書いて思いだしたが、父親は「老後は農業しながらのんびりと過ごしたい」と言っていたが、それも果たせず死んでしまった。母親もまた、僕から見ると哀しい終わりを迎えたと思うが、それはそれで、本人たちは満足であったのかもしれない。

ところで、そのころ、中の兄貴(次兄)は、四国の高校に先生として赴任していた。また、長姉は結婚して、同じ藤井寺の恵美坂に200坪程度の家を両親に準備してもらってそこに住んでいたが、姉の夫が事務所を東京に持ち、家族全員が移って行った。で、恵美坂の家が空き、両親と僕は藤井寺の恵美坂、つまり、長姉が引っ越した後の空き家に移り住んだ。と言うことは、特に長姉に甘い両親は、その家の固定資産税も長女一家の替わりに納め続けたのであろう。さらに、姉夫婦の調布団地も両親が金を出して買ったとのことであった。つまり、長姉は長男よりは少なめだがかなりの不動産を生前贈与されたことになる。

ずっと後で、それも、バブルのかなり後で、長姉は恵美坂の家を売ったのだが、それでも2億円にはなったと聞いている。その金で田園調布・・・いや、吉祥寺南町に買い替えをしたらしい。今では吉祥寺は、東京で住みたい街の第一位とのことで、姉にはこの辺りの臭覚が備わっていたようだ。しかし、金儲けは得意ではなく、むしろ、虚栄心をくすぐる相手にはコロッと騙されるタイプだと思う。僕は虚栄心をくすぐるなんてできないのだ。
35.695834,139.587395

恵美坂の家はここにあった。僕が自分の金で買った家は、いつも駅から遠くで通勤に苦労したが、姉が両親に買ってもらうって土地はとても便利な位置です。
34.572619,135.590773 

その恵美坂の家に居る間に、僕は大阪大学大学院を卒業して住友重機械に就職し、そこから淀屋橋の事務所に勤めた。その後、僕は結婚して社宅に入った。更にその後、先に書いた吹田の団地(自分の金で)に入り、更に枚方に、今度は公団の一戸建てに買い替えたりしたが、僕だけは親の援助は全くなく、自分の甲斐性だけで僕の資産を増やしていった。

あの時代は、そのように資産を買い替え増やせる時代だったのだ。が、あれほど有能な長兄は、なぜ両親の家を狙うよりも、僕と同じ方法を取らなかったのだろうか、今でも不思議に思う。ただ実際には後述のように、彼はそっと400坪程度の土地を自分用に購入していたから、先を読む能力は僕より優れていたわけだ。姉もまた、その才能はあったが、資金は全て両親から得たってところが、彼女の特殊な才能でもあったわけだ。

僕が結婚して一年、母親から「結核に罹り入院せねばならない。おやじと次兄(まだ結婚していなかった)の面倒を見てくれないか」とのことであった。そのころ、次兄は事情があって四国から恵美坂に帰っていた。

女房は、既に身重であったが、親父や次兄の面倒を見ることを同意して、母親の結核が治るまでの何カ月を恵美坂に戻り、家事の面倒を見た。結局こんな時には、いつも苦労するのは僕の女房なのだ。その後も、僕の女房は、報われることのない両親への奉仕を良くやってくれたと感謝している。そうして結局は女房には何の感謝もなく、報われることも全くなかった。

ずっと後になって、母親にこの時の話をすると、母親は全く覚えていなかった。それで気付いたのだが、僕の家族は困ったことがあると、僕に助けを求めるのだが、その助けが終わって暫くすると、助けられたことはころっと忘れてしまう性癖があったようだ。

と言うか、次兄の場合は、ずっと食事を用意させた僕夫婦が食事費を親父に出させたこと(実は後述のように誤解だったが)を不満に思ったらしく、そのことを長姉に不満としていいつけたらしい。つまり、我が家族は、僕の助力を求めるが感謝はなく、ただ不服だけを持つ性癖らしい。ところが、次兄は生活費を両親に出させていたし、後述のように、その時点では一銭の収入も無い長姉は、家族の衣食住すべての生活費どころか、子供たちの教育費等の全てを両親から援助してもらっていたのだが、僕の家族が、両親の応援に同居すると、応援は当然のこととして、その理由がわからないのだが、我が家の場合だけは、それが食費だけであっても両親が負担することさえ許せないとのことだった。

この傾向はその後、更にエスカレートして、長姉は、彼女の家族は膨大な援助を得続けていても、僕、僕の家族が僅かな援助を得ることさえ許せないらしく、そのことに対する苦情を平然と口に出すようになっていった。そのような時の長姉の表情は、とても冷静というか、冷酷な顔つきになるので気持ちが悪かった。

でも、なぜ彼女は、両親の応援などと疲れる事を、僕が好き好んでやっていると思ったのだろうか?おそらく、彼女がその立場になったとすれば、自分ではそれを出来ず、お手伝いさんを雇い、その費用も当然、全ての費用は両親の金を使っていただろう。それなら良くて、僕が応援するなら無料奉仕が当然だ、と彼女は考えたに違いない。

実際のところ、後年、母親の不公平さに気付き、これ以上の負担を女房に掛けても無意味だと決断し、母親を長姉に任せ、僕は手を引いたのだが、その時には、お手伝いさんを二人も雇って対応していたようだ。おそらくかなりの費用が掛かったことだろう。が、それで我が家の貢献に気付くわけではなく、金を浪費させたと僕を憎んだようだ。人間って簡単には後悔も改心もしないものなのだ。

母親の面倒によほど苦労したためか、特に金銭的な出費が多かったようで、その後の僕への彼女の仕打ちは、出費分の見返りに、僕から取れる物は全て奪うとの報復だった。その息子も彼女の遣り方を踏襲し、それを実践した。

我が夫婦に取っては、年老いた母親の面倒を見ることは、苦労であり喜びでもあったのだが、彼女にはそこに喜びを感じることは出来ず、僕への憎しみだけが残ったに違いない。とともに、老いた母親の面倒を見ることになぜ喜びを感じないのか、それも、あれだけ長姉一族に期待し後援してくれた母親ではないか、と不思議に思う。この母親と娘の不公平な関係もまた、遺伝子が作り出す理解できない一方的な関係のようだ。

ただこのような出来ごとに対する正しい理解は、僕が一族の為に尽くす必要が無くなり、資産の殆どは姉の一族の物になってから、僕はもう必要が無いとされると共に、いろんな手厳しい仕打ちを受けることで、姉や姉の一族の仕打ちの真の意味を理解できるようになったのだ。

それまではずっと長姉もまた一族の為に奉仕しているのだと勝手に思い込んでいて、その馬鹿さ加減に付け込んで、母親の資産の殆どは既に長姉の一家のものとなっていた。

話は前後するが、その以前に姉が離婚して、旦那はどこかに放浪の旅に出たとのことだ。結局は両親が姉とその子供2人の金銭的な面倒を見ることになった。その生活費だけではなく、娘、息子(僕にとっては姪と甥)の学費、つまり、姪は慶応大学医学部、甥は早稲田大学工学部までの受験準備や学費を延々と援助し、次兄が姉の助言もあり蔵王に設けた別荘の援助までを続けた。甥が家を設けるについても援助したと母親から聞いたことがある。姉は国民年金の支払いも続けていたが、それさえ両親が援助していたのだ。

しかし僕は、両親からの彼等への援助について、これを気にすることなく、つまり家族間の助け合いだとして受け入れたが、結局僕の善意は全く報われることはなく、最後には、おいおい説明するように更にとどめの足蹴りをくらわされることになった。

ところで、母親が結核で入院していた時の食事費だが、本日、それとなく女房に聞いてみたら、その時も父親と話して、食費を分担していたとのことだった。次兄がその事実を知らず、姉に言いつけていたわけだ。ざまぁみろ!唐変木め!!

しかし、落ち着いて考えると、僕夫婦が食費を負担しようがしまいが、姉にはどうでも良かったのだろう。単に、僕を非難する理由が有ればよかっただけのことだ、と今になって気付いた。それは先述のように、相続財産の一億円を自分だけで懐にしたにも拘わらず、十数万円、それも、たった一度だけ支払を拒否した僕の不払いを、鬼の首を取ったかのように触れまわる、(多分、食費の件も、十数万円の件についても、今も吹聴しているに違いない)遣り方と同じであろう。

しかも、それを実は本気で怒っているわけではなく、自分の行為を正当化するために演じているところが凄いのだ。ここを訪れた人もこの方法を有効に使えるだろう。しかも彼女は、何度も繰り返すが、涙を流すのがとても上手なのだ。

その長姉の作戦からすると、後述のように、僕夫婦が母親とともに父親の最後までを看取り、母親についても、無償でその十数年を主体的に面倒見たが、その最後の、足掛け3年だけを任され、しかも母親の金でお手伝いさんを雇いながらだが、その3年間のことだけを声高に宣伝する姿が目に見えるようだ。

僕はそれでも自分は恵まれていると思っていた。それは会社の同僚で、頭は良いのに大学に行けなかったとか、親の援助をし続けている連中を知っているからだが、「僕は恵まれているからなぁ」と姉に言ったことがあるが、その言葉で長姉は、なんと!、僕が両親から相当の援助を受けていると誤解し、更に欲を膨らましたようで、後で僕の女房に、母親からかなり援助されてるの?って聞いたらしい。言葉には気をつけねばいけないって好例です。

でも、僕の、そのような考え方が世間では普通であって、それを長姉や長兄のように考えるのって、ちょっと異常なように感じるのですがいかがでしょうか。つまり、我が血筋の中では、僕のような性格が異常なのかも知れない。ただ有難いことに、我が女房殿は僕と同じような性癖である為に、我が血筋は僕の望むような性癖が遺伝したと思えます。が、僕には孫は居ないので、その血筋は絶える事になりそうです。しかし、この世界の不条理さを思えば、血筋が絶えることには全く未練はありません。むしろすっきりするとさえ決言出来ます。いずれ人類は絶滅しますしね。

またまた話が横道にそれたが、元に戻して続ける。が、少々疲れたので休憩する。

話は、まだまだ酷い状況になって行くのでお楽しみを、と言うか、人間の性癖にうんざりするでしょう。つまり、兄や姉が末っ子に対してどこまで酷いことを出来るのかが焦点です。主要なポイントを以下に列記していますが、ちょっと見ただけで花登筺の創作にも劣らぬ内容であることが判るでしょう。もう、うんざりとする内容なんですが、でもやはり、死ぬ前にいかなる出来事が有ったかを記録すべきだと思うのでゆっくりと続けます。つまり、これは僕に関わる人に対してだけではなくて、自分のための忘備録でもあるってことです。

かような事を書いていると、いろいろと思いだしてしまうのです。それだけではなく、生じた事象の別角度からの見方にも気付きます。もっと色々と思いだします。が、その其々が疲れる内容なので、箇条書きで終わるかもしれません。

8年後、子供が3人出来た頃、長兄から電話があり、父親の認知症が酷くなって誰かが母親の応援に必要だ。が、長兄は長男の大学受験なので応援できない。なんとかならんか?との内容であった。長兄の嫁の能力を知る僕には、長兄の家では対処できない問題だと考え、結局は負担を女房に掛かることになるからと、女房に相談した。女房は、女房方の長姉が嫁ぎ先の舅、姑の老いを看取った経験を知っており、それが長期戦になるよ、それを覚悟しなければ、と言った。

母親の所に行き相談し、応援することになったが、その頃の恵美坂は土地は広いが建物は狭過ぎて、我が家族が移り住むには建て増しが必要だ、との結論になった。仮住まいとの前提で何社かと相談したが、積水のコンテナタイプが納期最短で500万円であった。春日丘の御近所に住む積水の重役杉田さんの声掛けもあって、納期も金額も特別対応にしてくれた。あの時、杉田さんへのお礼に行ったのだろうか?あまりにもどたばたで礼も忘れていたかもであった。

母親の了解も得て、発注し、2~3カ月で引っ越し、母親の応援を始めた。

姉のその後の言動からすると、親の家である春日丘住宅は長兄が同居することで兄が奪い、今度は、恵美坂の自分の住宅を奪われるのかと、邪推をしたようであった。でも、介護体制の整っていないあの時代に、他にどのような方法があっただろうか。徘徊、夜中の叫びや 暴力と、認知症の最悪パターンの父親の看護を、母親ひとりで対応していれば、母親は恐らく直ぐに倒れていただろう。他に方法があるなら、兄も姉もそれを指示すべきであったろう。

それどころか、長兄一家も、長姉一家も、誰もその大変さに気付くことはなかったようだ。兄嫁はテニス会員として優雅にテニスに耽っていたし、姉の一家は、姉の家の敷地内に仮住まいを建てることで、庭の柿やいちじくが枯れてしまったことを悲しんでいた。そもそも姉は、僕の家族が生活費を節約するために同居したと考えていたようだ。

そこで姉は、引っ越しの前に例の冷たい顔で、「食費は別にしなさい」と宣言した。が、どのように別家計にしたのか、僕は女房に確かめたことはないが、あの女房のことだからきっちりと遣ったであろう。


そこまで考えると、長兄もまた、僕に父親の看病を押しつけておきながら、僕が家計費節約のために喜んでそれを受けたと考えたのかもしれない。長姉、長兄、次兄の全員がそう考えていたとすると、なんとなく、その後の彼等の言動との辻褄が合うようだ。しまった!母親や長兄の依頼を簡単に了解した僕が馬鹿だったようだ。


おっととと、そう言えば、僕の家族が父親の面倒、母親の面倒、と同時に次兄の面倒を見たことに対して、母親も含めて、誰ひとりとして、僕や女房に「ごくろうさま」「ありがとう」と言うのを聞いたことが無かったじゃないの。今頃気づいてどうするの。馬鹿な僕。

認知症看護の大変さが理解されるようになったのは最近のことなのだ。
しかも、その負担の殆どは、僕の女房に掛かっていたわけだ。僕はせいぜい、夜中に棒を持って暴れ回ろうとする父親をなだめる役であった。この役目は体の小さな女、子供ではとても出来ないことなのだ。それに、父親の状態が悪くなったときに入院させようとしたが、父親が暴れ、叫ぶので入院を断られるような症状であったのだ。

それに、後年、僕が自分の家で母親の面倒を見た時には、食費どころか衣服とか、全てを僕自身のお金で処理した。母親の資産、年金や地代等の収入の全てを管理していた姉は、それを知りながら何の援助もすることは無かった。一円だって金を払うことはなかったのだ。

さすがに、最後の半年前になって、姉は母親名義の100万円程度の預金通帳を僕に渡したが、僕はほぼそれを使わなかった。その通帳の金は、母の死後、長姉、次兄と僕で相続した土地の固定資産税の支払に使ってしまった。勿論、3人分を払ったので、残高はほぼなくなってしまった。
確か、その通帳か、そのコピーを長姉に送った筈だ。

が、事情合って、その前後で、その固定資産税十数万円のたった1回分を僕はごてて払わなった。

長姉は、これらの全ての事情を知りながらも、その後、僕のその1回分を払わなかったとの一点だけを声高に非難し続け、長兄に奪われた分を僕から取り戻すかのように、僕に与える金を減らすことに熱中した。

多分、今でも、機会あるごとに、その事を自分の行為の正当化のために言い続けていると思う。それだからこそ、僕はこの小文を残しておかねばならないのだ。

ところで次兄だが、父親が倒れる前に、母親からの話しでは、大阪に帰っていた次兄がごてたので、近くの土地付き一戸建てを3000万円で買い与えていて、そこで寝起きはするものの、食事だけは父母の住む恵美坂に食べに来ていたから、女房はその対応もしなければならなかった。
勿論、次兄は食費を家に入れることもなかった。

つまり、長兄、姉、次兄は全員が家土地を買い与えられた状態になり、長兄は、その固定資産税を、姉は全く収入が無いから一家の全ての衣食住教育費、自分の国民年金料さえ、当然、恵美坂や調布の不動産維持費等の全てを、次兄は食費も、それに多分、固定資産税も、等々等々等々を両親に支払わせていたことになる。

が、僕の方は両親の無料応援に駆け付けながらも、姉のいっぱしの御指示を守って、食費も自分で賄っていた。勿論、我が家についても両親の援助は一銭ももらっていない。

そんな僕に、母親は、兄弟の中で自立してくれるたのはお前だけだと、しばしば言ってくれたのが当時は嬉しかったのだが、今では、恐らくあの言葉は僕をおだてていたに過ぎなかったのだろうと思っていて、多分、口とは裏腹に母親って生き物は自立しない子供の方が可愛いのだろう、とも思っている。僕も次兄のようにごねれば良かったのだろうか。

その後、僕がバングラデッシへの長期出張中に父親は亡くなった。亡くなる前の危篤状態に掛かりつけの医者は何の対応もしてくれず、女房は医者を探して市内を駆け回ったらしい。が、なんとか往診してくれた医者は、そのまま死を待つか、延命入院をするかのいずれを選ぶか、と告げたらしい。

介護に疲れた母親は延命を選ばなかった。帰国した僕に、女房は涙を流しながら、父親を延命出来なかったことをくやしがった。さらに、何ら対応してくれなかった掛かりつけの医者の薄情さに激しい怒りを示した。

更に女房は、父親死後の姉の行動を激しく非難した。東京から急ぎ帰った姉は、市内の銀行を駆け回り預金を下ろしまわったらしい。それを大きな紙袋に入れて恵美坂の家に置き、次兄にこれを監視させたらしい。そのことを女房は、週に2度ほど頼んでいた家政婦さんから聞いたらしい。銀行を走り回る姉に頼まれたのか、部屋を出たり入ったりする次兄のことを不思議に思っていると、家政婦さんが「私らを監視しているんですよ」との囁きで納得できたとのことだった。つまり、次兄が長兄の指示下で監視する相手とは、その家政婦さんと我が女房ってことだったのだ。

なお、葬式は長兄が仕切ったから、これらの金を姉は、脱税が目的で集めたわけで、その殆どを自分で管理しだしたわけだ。後に、税務署が死の直前に出金された金が相続税対象から抜けていることを長兄に問いただしたので、この事が明るみに出た。

僕がバングラデッシから帰ったのは葬式が終わった後で、これらのことを女房から聞いた直後に長姉から電話があり、姉が冷たく言った言葉は、「直ぐに家を出ていって」であった。つまり、僕が姉の家を奪うと思いこんでいたわけだ。

僕としては、看護から解放されて自宅に帰るのだから何ら問題はない。ただ女房は母親が死ぬまで母親の面倒を見るとまで決心していたので、姉の指示に従うのに必要なのは女房の説得だけであった。その説得は、長姉にそそのかされたのであろう母親が、女房に帰ってくれと頼むことで、女房は住みよい我が家に帰ることを了承した。その狭い仮住まい生活と、母親のみならず次兄の生活の面倒を見るなんて誰が好んで選ぶと言うのか。馬鹿野郎!

その後、大阪から姉が帰った時に、僕は姉の言動を問いただし言い合いとなった。そのため、姉とは付合いをやめようとした。が、それを心配した母親が、姉の息子に二人の仲を取持つようにと頼んだらしい。その際、僕たち夫婦は、姉の行いを説明しようとしたが、甥は、話を聞くことなく、僕たち夫婦の言葉を遮り、「僕はどこまでも母親の味方です」と言った。その言葉で、彼に説明しても無意味だと悟った。が、母親の望むなら仲直りはしようと決めた。が、今になって思うが、ここで、姉とも母親とも縁を切るべきであったのだが、やはり母親への思いや、一族であるとの思いは、僕の中に大きくあったようだ。

が、甥は、そのような僕たち夫婦の思いを知らず、自分のお陰で、僕が姉と付き合いを戻せたのだと解したらしい。しかし、姉と付き合うことで僕がいかなる利益があったと言えるのだろう。結局は、甥も一緒になって、全てを奪うことになっただけである。

暫くして長兄から遺産相続についての相談があった。「父親の動産は、母親名義分を除いて1億円程度あり、それに母親自身の財産もある。動産は、春日丘250坪と、工場の土地が400坪だ。母親は粟野が好きだから、1億円を母親に渡し粟野に頼もう。春日丘は俺がもらい、工場は、兄弟3人の共有にしたい」との相談であった。

母親が長女一家を誰よりも愛していて彼等の応援することを望んでいるのは事実だし、それに、母親の言うには、長女がいつも、いずれは恵美坂に戻り母親の面倒を見る、と言っているから、長兄の提案は適切に思えた。

結果的に姉には、恵美坂に戻る気なぞ全くなかったようだが、その時点では僕はまだ姉を信じていたのだ。それに、母親でさえ、「あの子は藤井寺に帰るって言ってたのに、本心はちがったなぁ」と、ずっと後のある時期に嘆いていたです。みんな騙されたんですなぁ。

それでも、母親は「収入も無い哀れな一家だから」と、長姉の娘が医者になり、更には医者と結婚してからも、そう思い込み、ほぼ死ぬまで援助、援助と言っていたです。

でも、僕より収入は遥かに多いのやでぇ、とは言わなったです。
ばっかな母親・・・・・と、ばっかな末っ子の僕・・・あっはははは・・・・です。

話はかなりずれましたので、元に戻します。
母親が長姉一家のことを好いているとのことと、更に僕が考えたのは次の3点だった。

先ず、この遺産相続は母親が亡くなる時には繰り返さないように片づける方が良いだろう。つまり、今回の遺産相続で全てを終えれば、母親が亡くなる時にはもめないで済む。
次いで、考えたのは、やはり僕が末っ子だし、生活はそれなりに安定しているから、僕の相続分が最小となっても良かろう。そうすれば皆は納得するだろう。
それに、長女は膨大な応援を得続けているし、次兄は一戸建ての生前贈与を受けていて、長兄は、親父の家業を継いでいる。だから僕がある程度我慢すれば全員が納得するだろう。
さらに、春日丘の親父名義の家には既に長男が住んでいるのだから追い出すわけにも行かないだろう。

で、頭の中でざっと計算すると、当時の金で、長兄は1億、母親と姉は少なくとも1億、工場の土地は、僕と次兄とでそれぞれ4千万円。
だが、先に書いたように、僕以外の兄弟姉妹には既にウルトラ級の別相続があったわけです。これで、誰もが満足するだろうと、これは僕の甘い推定でした。それに後から判ったのですが、長兄は自分の分として工場の傍に、相続分の工場と同じ程度の土地を買っていたのです。彼の甲斐性と言えばそうも言えますが、親父から継いだ家業で稼いだ金を使ったとも言えるわけです。

そこまで考えて、長兄の提案には、僕の試算に合わない不可思議な点がありました。「春日丘を自分のにして、なんで、工場の土地の相続にもあんたは入るの?僕と次兄の」
「あ~、それはやな。俺には子供が4人もおるからな・・・」と、徳川家康にしては頓馬な回答でした。
「そんな、あほな」と、僕。
「そうか」
と、あっさりと了解したのも、彼のいわく、徳川家康の作戦であったものと考えられます、が、とにかく、僕と兄との話し合いが終り、それで相続書が作成され、僕はそれに実印を押しました。そこに書かれていた、相続税の分担分2百数十万円を、長兄の家に持って行ったのですが、長兄は不在のため、義姉の託したのです。ここまで書いて思ったが、こんなあほらしいことを小説風に書いてもおもしろくもくそもない。以下、要点を書くにとどめる。

かなり後で母親から説明されて知ったのだが、兄は、長女の要求で、相続内容を変えてしまった。それも、自分の相続分は変えずに、工場の土地の相続に母親が1/3、のこり2/3に姉自身も入れて、次兄と僕となった。つまり、工場の土地の相続分は、当初予定の1/22/9になってしまった。僕の相続分は、長女と長男、それに母親の都合で、どんどんと減らされたわけだ。結局、僕が僕の取り分をよかれと思い、少なくしたのを、それで満足することなく、更に半分以下に減らされたわけだ。

つまり、長兄の作戦は、個別に話をして、自分の分だけは確保すれば、後はどうでもいい、ってことだったようです。長姉は、出来るだけ多く取るってことで、長兄と長姉は次兄や僕の分を減らすことで、自分たちの希望を満足させたってことです。

さらに先のことになるが、母親の亡くなる前には、母親の持つ一億以上の金は、長女が自分や子供に生前贈与して見事に無くなってしまった。あるとき長女が、「おかぁさんのお金も殆どなくなっちゃった。えっへへへへ」と言ったのでわかったんですけど、自己中の、長女や長男持つと、大変だってこと良く判るでしょ?

また話が先に行きすぎた。

そのように相続内容が変わったってことは、ずっと後で説明された。が、相続書の税務署への申告は、僕に見せることも無く、先に僕が判を押した用紙をそのまま使い提出したのだろう。 いやはや、実にひどい話だ。母親も兄弟姉妹もみんな・・・・

ってことで、長兄の行動は、初めはまともそうに見えたが、その後は僕にも黙って相続内容を修正して提出したのだ。しかも、先にも書いたように、兄は工場の直ぐそばの住宅地に、工場と同じ程度の広さの土地を購入していた。これは彼の甲斐性ではあるが、それなら、父母を家から追い出さず自分の甲斐性で家を造ればよかったのだ、と僕なら考えるのだが、徳川家康の論理は僕のそれとはかなり違うのでしょう。結局は親の家も、何もかも全部欲しいってことだったようです。

更にその後、バブルが終わってから、しばらくして、長兄は家業をたたみ工場を閉鎖した。近くの所有地で駐車場を始めた。僕が出張の途中で工場の様子を見に行ったら、空いている筈の工場倉庫にいろんな装置が置いてあり、敷地内には車がいっぱい駐車していた。長兄が承諾も無く又貸しを始めていたのだが、又貸しと言っても、本当の所有者である僕には承諾もなく金の支払いも無かった。ただ、長姉とか次兄とかへの支払をしていたかどうか迄は調べていない。直ぐに連絡してこれをやめさせた。何を遣りだすか油断のできない徳川家康である。

また話がちょっと先のことに飛んでしまった。こうしないと、長姉、長兄のかような振る舞いが多すぎるのです。

話を再び元に戻して、

当初予定の相続分に対する相続税を渡そうと、兄の家と言うか、親父の家だった所に持って行ったら、兄は不在であった。そこで兄嫁に託して帰ったのだが、兄嫁は兄に報告もせずに自分の銀行口座に入金していたらしい。

そのことが税務署の調査で判って指摘されたと、なぜか長兄が連絡してきた。その原因が僕だと責める積りで電話してきたのだろうか。
長兄もひどいが、両親の家に住みながら、両親の面倒をやらずに、両親の面倒見てる末っ子の持ってきた相続税を自分の銀行口座に入れるなんて・・・・・・長男の女房もかなりの曲者だったですね。

ところで、その後、僕の相続は減ったのだから、相続税も減ったのじゃないの?えっ?もう時効ですか?でも、250万円の55%140万円も多く払ったんだけどなぁ。

それに、ここを書いていて気付いたが、長兄が僕に黙って相続税申告書を修正したのだが、その際の長姉との交渉で、僕の工場の土地の相続分を勝手に減らしただけではなく、もっと僕に取って不公平な処置をした可能性がある。それだからこそ、申告書を僕に見せないとも考えられる。

ほんと・・・長姉、長兄と、なんちゅう一族なんだろう。

母親の月8万円年金に加えて、相続に割り込んで得られる工場の賃貸し料の母親と長姉分収入は、全部合わせて年間400万円は下らず、それら全てを姉が管理し、毎年半年以上、時には、一年間も僕の家に母親を預けっぱなしにして、その間、僕には一銭も渡さなかった。でも、僕はそれを不思議に思わず母親の面倒を続けたこと。

それにも拘わらず、長姉はあるときに、「おかぁさんのお金も殆どなくなっちゃった。えっへへへへ」って、ちょっと酷いのじゃないですか。
実際には、金について僕を責めるとか、狡いことをしたことを報告する時の、いつものあの冷静で気持ちの悪い顔つきで言うのだけどね。(これって前にも書きましたよね。そんなに印象的な発言だったってことです)

さて、父親の財産を相続し、母親の意に沿い姉一家とは一応交際を復活してからだが、相続した工場の土地建物は、兄貴の継いだ会社に賃貸して、ある程度の収入が入るようになった。が、当然、固定資産税が掛かり、その請求は、最大所有者の母親に送られてくる。年間100万円弱で、僕の負担は20万円弱であった。その時期になると、母親から電話が掛かってくるので、母親の口座に振り込んだ。その度に母親から連絡があり、払ってくれるのはあんただけや。長姉や次兄は、収入が少ないからね。本当に嬉しいよ。でも、あんたの子供たちの為に貯金しておくからねとのことであった。本当に貯金したのかどうかは判らない。が、最後には、それらの金も姉は自分の家族への生前贈与にしてしまったようだ。

あるとき、突然、次兄が別荘を蔵王に買った。次兄は姉に貯金通帳を渡して全てを管理してもらっていると自慢していたのだが、かなりの金が溜まったので、「母さんの静養のために蔵王に別荘を買ってあげたら?」と姉に助言されたらしい。その別荘の横に、姪の別荘地、それは、土地だけを買ったらしい。母親は、その別荘の家具を負担してあげたからお前も行っていいよ」と僕に言った。

夏休み頃に、姉一族、母親、次兄が別荘に行く時には、母親からは、「姉には100万円を滞在費に渡したから、お前も一緒においで」と声掛けがあった。で、姉の一族と次兄は皆、母親の金で買った自動車で蔵王に行き、僕は勿論,、自費で新幹線で蔵王に行った。

2~3度行ったが、あるとき、長姉は、例の冷たい顔で、あんたも、別荘の年間のガス代ぐらいは分担しなさいと言った。

冬にも母親、長女一家、次兄達はスキーを楽しみに蔵王に行き、その時も母親が100万円を渡すらしいのだが、スキーを遣らない僕夫婦は行かず、時に息子や娘を単独で、それも、姉に滞在費を渡すようにと2万円程度を持たせて行かせた。

が、先に述べたように姉のガス代についての一言で、それからは蔵王には一切行くのをやめた。我が子だけが行く時に、預かった金を長姉に渡すと、長姉はちゃんと受取っていたが、我が末っ子が行く時に、「お金はみんなの居る所で渡しなさい」と教えて送り出した。
言われた通り、皆の前で金を渡そうとすると、長姉は、さすがに受取らなかったらしい。長姉の性格が良く判る逸話ではないか。

これ以後、次兄の別荘だけではなく、友人たちが誰かの別荘に行くような時にも、僕は決して同行しないことにしている。いわゆる、別荘たるものに対する僕のトラウマちゅうやつですね。

ところで、長姉が次兄の別荘のガスを負担しろと言ったのは、僕を蔵王に来させたくない姉の作戦だったのでは、と今になると思えるのだ。姉は蔵王に行く度に母親から渡される百万円を、自分の家族だけで使いたかったのだろう。僕の家族が行った時には、蔵王の別荘で自炊していたが、我が家族さえ行かなければ、彼女の家族でグルメ回りもできるってことだったと思える。
更に思えるのは、もうその時点では、長女は、母親の金は一銭でも僕に渡したくないほどに、その憎しみの原点は理解できないが僕を憎んでいたと思える。

その後、僕は東京に転勤して社宅に入った。

何年かして、元気だった母親も歳には勝てず、姉の家と言うか、姪の亭主の家、そこに長姉も同居しており、そこに引き取られた。なお、甥は既に家を持っていたが、母親はそこの資金の援助をもしたと言っていた。

(僕には一銭の援助も無かったのだが、母親の頭ってどうなってるんだろう。やはり娘の一族はまだ貧乏だと思いこんでいたのだろう)

姉の家に行く機会があり、母親の部屋を見たが、狭く薄暗い部屋で、ベッドに座ってテレビを見ていた。その姿がとても哀れに見えた。

その後、僕は千葉に一戸建てを、勿論自分の金と借金で買い、母の面倒を見ることが出来るようになった。何の申し合わせもなかったが、いつの間にか姉の一家と代わる代わるにすることになった。が、その主なる理由は、僕が、あの薄暗い部屋には母親を置きたくなかったからだ。

母親は僕の家の住み心地が良いらしく、長姉の家に行っても長くは居らず、直ぐに、僕の家に戻ってきて、6カ月やそれ以上我が家に滞在することが通常になった。でも、休日に母親の手を引いて散歩をするのは心から嬉しいことであった。

が、長姉は1銭の金も僕の家に入れることはなかった。

僕が父親の面倒を見たときに、食費くらいは分担しなさいよと言った、あの口はどこに行ったのだろうか?蔵王の別荘のガス代くらいは持ちなさいと言った、あの口はどこに行ったのだろうか?

それに、母親が我が家に早く戻ってくるのも、長姉がそう仕向けたのかもしれない。あの派手好きで、見栄っ張りの姉が、母親の看護などと面倒なことを続けれる筈がなかった。が、娘ってものは母親を大切にするとの先入観を持つ僕には、そこまで推察する能力はなかったのだ。

さらに、母親を連れに来るのは、蔵王とかどこかの温泉に行く時だけだったような気もする。母親の金を使っての別荘生活や、温泉巡りには、さすがに母親を連れて行かねばと思ったのだろう。

そんな色んなことに今頃気づく馬鹿なぼく。

母親が我が家に滞在するようになったある時、母親はすまなそうに、資産がおおかた1億円程度あったけど管理を姉に任せた。悪いが、工場の土地は、長姉、次兄、あんたの3人で等分するようにと、遺書を書いたよと言った。これを聞いて、あの金に厳しい長姉だから、きっちりと管理して、母が亡くなれば3人で等分するだろうと当然のように思った。

が、長姉がその資産が殆ど無くなった(つまり、長姉の家族に生前贈与を終えたって意味だと想像する)と言ったことで、母親は管理を任せると言うよりは、好きなように使いなさいとでも言ったのだろうと、その時に僕は漸く気付いたのだ。本当に、馬鹿な僕。

ほぼ10年近くも母親の面倒を主体的に見ていたが、その姉の言葉で、僕の母親への気持も冷たくなったようだ。長く預かった後のある日、姪か甥の子供(つまり母親のひ孫)の七五三だからと(金主は招待すべきだと思ったからだろう)2日間だけと、長姉は母親を連れて行ったが、言葉と違い当日遅く連れもどった。「こんな老人をうろうろさせるな」と僕が苦情を言うと、長姉はうすら笑いを浮かべただけだった。が、それを横で聞いた母親が、寝床に入った後、出てきて、長姉に「連れて帰って!」と嫌味を僕に示した。再度寝床に連れていったが、これを3度ほど繰り返した。

さすがに腹が立った僕は、翌日、姉に、母親を連れ帰ってくれと電話した。

翌日姉は車でやってきて、何も言うことなく例の冷たい顔つきで、母親、それに、母親の服や寝具、それも、僕が母親の為に僕の金で買った分も含めて一切合財を車に積んで帰ってしまった。ただ不思議なことに、母親が大切にしていた仏壇、父親や早世した兄姉達の位牌や写真類は置いて行ってしまった。あれほど仏壇に向けて朝晩念仏を上げていた母親にも拘わらず、その後、誰もこれらを取りに来ることはなかった。仏壇仏具は我が家の倉庫に放り込んである。そのうち、ばらして可燃ごみで出さざるを得ないと考えている。

母親を姉に任せた翌日、甥から電話があった。もう甥は僕と長女の間を取り持つ気はない。これで母親の件は片がついたから、あとは次兄の面倒をどうみるかだとの内容であった。
つまり、「母親の金は取れるだけのものを取ったから、もう僕とは手を切る」ってことの宣言としか取れないはなしぶりであった。

次兄のことは意味が判らないものの、我が家が次兄の面倒を見る気はないので、時期的には僕の息子が見ることになるのだろうが、息子に負担を負わせることは出来ない。恐らく、公的な施設に入るより仕方がないのじゃないかと答えると、甥は電話を切った。

恐らく次には母親と同様に次兄の資産は長姉一家のものになると思えた。

しかし母親の時とは違い、次兄の面倒を僕が見る事は無いだろう。でも、次兄への一家の態度は、実はとても冷たいのだ。だから、それなりの冷遇の後に財産を得るだろうと想像する。次兄のためには、この想像が当たらないように、と思うが、母親に対してさえ、あのような待遇なのだから、と思う。ここまで書いて思いだしたが、姉が一億の金を、どれだけ多くの彼女の係累に、税金控除の範囲内で生前贈与していたのかと不思議に思っていたが、次兄の通帳にも入金されていた可能性がある。しかし、先述したように、次兄は時々、貯金は全部、姉ちゃんに預けてるねんと嬉しそうに言っていたから、その金も長姉の管理下にあることになる。そんな男の面倒を見ても、母親の二の舞になるだけだろう。

次兄は有る時、僕の家の傍に住めば?と姉が勧めたと言っていたが、やれやれ危ないとこだった。

次兄のことはともかく、甥が長姉の家に居るようなので、余計なことに電話してしまった。姉が出たので、甥に、同じことを繰り返したくないと伝えてくれと言うと、姉は「自分で言いなさい」と甥を呼びそうになったが、思いなおしたように、「じゃあ、もう2度と母親の顔は見たくないのやな!!」と大きな声で、誰かに聞こえるように言った。話の内容が判らず、ごにょ、ごにょと言ってると、「もう、わかった!!」と言ってぱっと電話を切ってしまった。後でも繰り返されるのだが、これが、姉の得意な独り芝居である。

どうやら、姉一家の家族会議、その最中らしき時に電話してしまったようで、姉の作戦に載せられたなと、余計な電話をしたことを後悔した、がどうしようもない。
それにしても、当事者である僕を外しての家族会議って馬鹿げていませんか。でも、それで、姉の思い通りになったのは事実でしょうね。

いくら母親の僕に対する裏切りがあっても、僕は母親が好きであった。夜寝る時には、母親のことを思い出して、涙が自然とこぼれ出た。嗚咽をこらえることさえあった。しかし、我が女房には報われない奉仕をさせ過ぎた、と諦めざるを得なかった。

話を先走るが、それまで元気だった母親も、それから、たった、足掛け3年ほどで亡くなってしまった。あの家族には、90歳の老人をどう扱うべきかの考慮は無いようだから、長生きできるとは思えなかった。それにそもそも長生きして欲しいとの願望もあったかさえ怪しいものだ。生きている時でさえ、母親の呆けの兆候を嫌そうに話していた長姉だから、あまり期待できないとは思っていた。
それに、後述のように長姉は、母親を海外に連れていっているのだが、90歳を越えた母親を海外に連れて行くとの感覚が、僕には理解できなかった。母親に取ってはかなりの負担で寿命を縮めたに違いない。が、金主であるから仕方がないか。

母親を長姉に託した時、暫くして、次兄から何度か電話が有り、母親がほんまに怒っている。謝りに来いとか姉が苦労している。母親を引き取れとか、何を伝えたいのか判らない話ばかりであった。しかも、隣に長姉が居るような雰囲気での電話であった。

ちょうどその頃、工場の土地の固定資産税の通知書が来たらしく、姉から封書で通知書と共に、僕の分担分、十数万円の請求があった。姉や次兄の分は、母親が払ってやっている。僕は、1億円も自分のものにして、その程度も僕にはきっちりと払えと言うのかと、放っておいた。

次兄から電話があり、工場の固定資産税のことで、母親が怒ってる。払え!と言ってきたので、お前らは皆、母親に払ってもらってるだろうと言うと、それは、母親がそれでええ、としてるから、いいのだと答えた。僕は腹が立って、電話を切った。

が、母親が怒っているなら、せめて説明はしようと、仕事や機械学会物流部会の講演会の調整で忙しい中を、当時、長姉が同居し、母親を引き取っていた、姪の夫の東中野の家を訪れた。
玄関を開けて声を掛けると、横の応接の扉が開いて、中には、長姉、姪と、資産運用アナリストとかの雰囲気の中年女性の来客が、書類説明中のように居るのが見て取れた。
母親と話したいと言い、答えを待たずに上がって2階に上がり、母親の部屋に入り、声を掛けると、母親は厳しい顔をして工場の土地はどうなっている」と、ピンと外れの質問であった。
その表情から、あぁ、僕と長兄を見間違っているな、と直感し、工場の固定資産税について説明しようとしたら、そこに長姉が上がってきて、ここは私の娘の家だから、娘の了解無くして上がって来たらこまる。いずれ、ちゃんと話し合いするからと言った。
ああ、そうかと答えて、下に降りて行った。応接の扉は閉まっていて、中に姪がいるのは判っているので勝手に上がったことを謝ろうと、姪の名前を呼んだ。
その時、2階から姉が喚く声が聞こえてきた。が、その声は無視して、というか、なぜ喚いているのかも判らず、とにかく何度も姪の名を呼んだが、姪は答えず、仕方なく、僕は外に出た。が、姉の泣き声を含んだ喚き声が、外に出ても、何度も何度も聞こえていた。何が何だかわからないままに、事務所に帰った。アナリストのおばさんも驚いたことであろう。

それに、その後、長姉から話し合いをしようとの動きは全くなかった。わけの判らん女である。

姉のその行為、姉の好きな独り芝居で一体何をしたかったのか、何かをしたかったのは確実だが、それが今でも判らない。
これが判っているのは、姪と、アナリストのおばさんである。
誰か、判る人は居ませんか。

母親と縁を切ってから3年目の夏、次兄から母親が危篤だから病院に来いと電話してきた。
姪の夫が主治医で、昨日は長兄も会いに来た。お前も来いとの、強硬な電話であった、何度も断り、それでも、来いと言い続ける次兄にうんざりして電話を切った。女房と話したが、やはり行こうということになった。
主治医の了解を取ろうと、NETで調べると、都立病院 それに、姪の旦那の珍しい名前、とで、簡単に検索出来た。
電話し、母親が危篤であると聞いている、明日うかがっても大丈夫でしょうか と聞くと、えっ!危篤ですか?と驚いた様子の後、いいですよ と緊張感の無い答えであった。

あれほど長姉一家を援助した母親の危篤なら、長姉一族が集まっているであろうと、緊張しながら、午後の4時であったか面接時間に行くと、誰もおらず、母親はいびきをかきながらベッドで寝ていた。全く、危篤と言う様子はなかった。ただ、クーラーが効きすぎていた。様子を見に来た看護婦が「みなさん、海外旅行とのことですね」と言ったので、いよいよわけが判らなくなってしまった。
面会終了まで、母親はいびきを続け、その後は看護婦も、誰も来ず、僕ら夫婦は帰るより仕方なかった。母親の枕元にには、母親が米人らしい人物と一緒に居る写真が飾ってあったので、母親が渡米したらしいことが判った。
僕ら夫婦は母親と一言も話すことなく帰らざるを得なかった。ただ、部屋の冷房が効きすぎているのが気になった。それにしても、長姉の一家が海外旅行に行ってるって、どういうことなのだろう。
そうして、母親が一人で病院に居るとは、どういうことなのだ。その答えは今も判らない。

数日後、その後はどうかと、会社の帰路に病院に立ち寄った。
部屋に入ると、前回と違い、母親には酸素マスクが付けられていて、ゼ~ゼ~と息が苦しげであった。横に座っていた姉が、頭を上げて今度は駄目やねと言った。僕は母親の横に座り、手を握り、僕の名前を告げたが、母親に理解できたかどうかは定かではなかった。長姉は席をはづし、暫くして主治医つまり、姪の夫と共に現れた。
主治医は先日は、お母さんと話せましたか?と尋ねたが、いや、ずっと寝ていましたからと答えるより仕方がなかった。
主治医も去り、暫くしてから、姉が現れ、「私、かえろうかな」と呟いた。
今さら、後を任されてもどうしようもないので、いや、僕は帰ると言うと、
姉は、"ふん,そうか"って顔つきをした。そのまま僕は家に戻り、再び、母を見舞うことはなかった。

さて皆さんに聞きたいのだが、訪れた僕に、「後は任せる」って帰ろうとした長姉の意図はどこにあったと思います?可能性としては、海外旅行で疲れたから、後は頼むねと言うのと早く帰ってしまえのいずれかだと思うのですが、他にありますかね。
それに、状況も何も判らないのに、私は帰ろうかなって言われたら、先に帰るって言う以外のどのような選択肢がありますでしょうか。

恐らく、こうすることで、長姉は、僕の悪行を言いふらす口実を作ったわけです。でも、自分は、父親の死を看取りもせず、葬式に帰ってきて、父親の銀行預金を下ろして自分の懐に入れたってことは、黙っているでしょう。

一週間ほどして、次兄から母親が亡くなったこと、葬式の予定が連絡あった。みすぼらしい葬式であった。長姉一族、長兄夫婦、僕の家族、母親の介護をしたとの老年男性と老年女性との、10名ちょっとであった。

その後、本願寺に納骨するとの連絡が、長姉からあったが僕は出席しなかった。以後、法事をやっているやら、遣っていないのやら、何の連絡も無いし、有っても行かないでしょう。もう既に母親への義理は、完全無償で充分に果たしており、それに、母親は膨大な資産の一銭も払うどころか、長兄、長姉一家にのみ与えているのだから、もう充分でしょう。

遺産相続をどうするのかと思っていたら、突然、大阪家裁堺支部ってところから、母親の遺産相続の調停のため出廷せよ、との連絡が来た。それも、住友重機械からリストラにあって忙しい最中であった。
指定日に出廷すると、長姉には澤田って弁護士がついていて、長兄はあいつは、悪徳弁護士って評判だからなと耳打ちした。当日は、長兄の相続分についての話が主であり、その弁護士は泰子さんの母親の資産も不動産を除き、1000万円程度になっています。どうのこうのと説明を始めた。中途半端な話し合いで終わり、次回は、何月何日と、僕の都合には関係なく決められた。

長姉や次兄の交通費は母の金で、僕の交通費は自前である。会社の仕事も待ってはくれない。
家に帰り、母親から、不動産は3人で等分と聞いているので、後は勝手に決めてくれと手紙を書き、後は出廷しないことにした。

ところが、その後の家裁からの連絡書に、母親の遺言書を開示すると記載されていた。例え、母親の言った通りであっても、これは見るべきであろうと、仕事の都合をつけて大阪家裁堺に行った。

玄関を入ると、階段があり、待合室が階段の上下の2ヶ所にあるのだが、何と、長姉が階段の中段で腕組みをして仁王立ちに立っている。その横を通る余裕も無いほどの仁王立ちであった?????? なんでしょうね????????これは一体????
何だと思います、皆さん。これを、この時点で解けた人は、まことに鋭敏な人です。僕の想定(多分、正解)は以下に書いています。
仕方ないので1階の待合室に入った。時間が来て、階段の所に行くと姉は居なかった。指定の部屋に入ると、長姉、次兄、悪徳弁護士、それに事務官らしき人が4人集まっていた。
すぐに遺言書なる封筒が悪徳弁護士から出され、それを事務官が眺め透かして封を切り、中の用紙を順番に回した。僕の所に来たので見ると。通常の手紙封書用紙で、その一枚に工場の土地は、泰子、次兄、僕に三分で相続するてな内容が2行で書かれ、昭和何年何月何日 吉日 印で合計3行ただそれだけである。

何んだこれ??それに、筆跡は次兄の筆跡である。紙も真新しい。母親の字は、戦前の人特有のひきつるような書体である。金釘の次兄の字体とは間違えようがないし、それに、そもそも遺言書の体を成していない。
で、事務官が何か言うかと思ったら、何も言わない。

弁護士が、ほいっと、これを長姉の前に置いたが、姉は手にしようとしない。
「じゃぁ、僕がもらっておきます」と手を出しかけたら、弁護士がさっと横取りして、「コピー」を送ります。と言った。
と、姉が、突然僕を向いて「あんたは、固定資産税を払ってない!どうする積りや!」と言いだした。
なんて奴だ、と思ったが冷静に、
「それは、いくらの金額だ?」と言うと、
ちょっと、戸惑いながら
「十六万円」と答えたので、
「今は、何千万円って話をしてるんだよ」
と答えると黙ってしまった。

で、ここで、この話を出したのは、裁判所関係者の注意を遺言書からそらしたかったんでしょうね。この場面でも長姉の頭の回りがいかに速いかが判る。僕には、ずっと後になってから長姉の考えが判るのだけど・・・・。
暫くして裁定書が出た。不動産は3人で3分し、動産は長姉にとなった。

動産が全て、なぜ姉のものになるのか?と思ったが、3~4百万円のことだ、どうでもいいや、と黙っていた。おそらく裁定受理の前に十数万円のことを、それに多分、自分が母親の面倒を足掛け3年見たことだけを涙ながらに訴えたに違いありません。

大阪家庭裁判所堺支部のお話はたったこれだけである。裁判所は、隔日2日間、僕の言い分を全く聞く様子はなかった。つまり、裁判とは、公正などには全く関心が無い存在なのだ。

話は、これだけで、長姉の仁王立ちの理由は判りました?
僕の想定では、その間に、二階で悪徳弁護士と次兄が遺産書を偽造していたのだろうね。

他の理由の可能性がありますか?あったら教えてください。

「独り芝居に、仁王立ち」ですか?弟を騙すのも大変です。
それにしても、裁判所の2階で、遺言書を偽造するなんて、人間ってここまで出来るものだとは思わなかったです。でも彼女の息子、つまり、僕の甥も、これに負けない根性持ってます。後述します。

ところで、なぜ、偽造をしなくてはならなかったか?母親の言っていた遺言書をどこかに紛失したのでしょうか?それは、考えても疲れるだけです。
でも、思いつく人が居たら教えてください。

なお、その偽物遺言書のコピーはまだ僕の手元には着いていません。着く筈がないか・・・

まだまだ話は続きます。粟野泰子さんは母親の財産を結局は独占したのに、まだまだ僕を虐めるのです。そこまで僕を追い詰める意味が判りません。世間では、数百万のことでも殺し合いになるのに、彼女は一億を自分のものにしても、まだ我慢がならないのですが、その執念が理解できません。それにしても、もうここを読むのもかなり疲れたでしょう。書く方がもっと疲れるんです。

さて、裁判所の裁定間もなく、長女が作成した母親の相続税申告書が着いた。この結果が冒頭に記載した状況だ。つまり、税金の申告書の金額計算欄の、その殆どをマジックで消したものを送ってきて、100万円とか200万円の相続税を払えと連絡してきたので、申告書を見せて欲しいと連絡すると、返事は無い。

この一家にはもう相談する相手も無く、都立病院の医師をしていた姪の夫に手紙で相談したが、無視するどころか、その手紙を長姉にそのまま渡したらしい。恐らくその行為は、長姉をいよいよ怒らせたことだろう。この一家は全く頼りにならない事が判っただけだ。とにかく、何かの折に電話が掛かってきて、おちょくるように、萬 さん(姪の連合い)に手紙出したんだって?忙しい最中に驚かせたね。" と言ってきた。

ところで、彼は今では、検索すると 放射線治療の名医 って表示されてます。放射線治療は粟野泰子さんには効果ないどころか、精神構造を悪化させたですかね。でも、名医を生むために長姉はこんなに苦労して僕を苛めたのでしょうか?そんなことないやろ!お前が居らんでも、名医になったやろ?ちゃうか?

裁判所に連絡すると、そちらの家庭裁判所に裁定を頼みなさいとの返信だけだった。もう好きにしろと放っておいたら、僕から金を出させることをあきらめたのか、それは無視して税金処理を自分で済ませたらしい。申告書に僕の判子も無しである。
恐らく、裁判所の裁定が出たのに判子をおさないのですとか、何とか言ったに違いない。

東中野税務署に電話して閲覧したいと申し出したのだが、僕の捺印無く申告書を受付けたにも拘わらず、というか、僕の捺印無く受付けたことを隠したいのか、税務署は、「他の兄弟の承認無くして閲覧は出来ない」と、僕の申し出を拒否しよった。悪事の証拠の閲覧を姉が許可する筈がないことを見越しての対応である。ここに官僚機構の異常さが見事に現れている。ただ思うのは、税務署は必要な税金が徴収できればそれで良く、公平さとかにはほぼこだわらないってことだろう。

が、ここは、官僚組織を批判する場所では無いので、官僚批判はここまでとする。駄目もとだと、姉に、閲覧を承認してくれとハガキを出したが当然ながら、これも完全に無視された。で、動産がいくら残っていたのか確証は無いが、いくら悪徳弁護士でも、どうなんでしょうか?まさか・・・一億近く残っていたりして。

でも、母親の収入からすると、そのまま残っていても、無理は無いですが、そこは油断のならない粟野泰子さんですから、せっせと、無税内の生前贈与に努めたはずですよね。

続きます。

翌年になって、藤井寺市役所税務課から固定資産税の通知がきました。昨年長姉は、市役所に相談したか、各人宛の通知書を発行させたのです。一昨年の十数万円を払わなかったので、昨年からはそうしたのですが、何としても、その十数万円を取り立てるのが彼女の目的です。当然、彼女の分は母親の資産から払っていた筈です。なにしろ、もう長兄は商売をたたみ、工場の貸料は入ってこず、彼女の収入は年金だけである。母親の資産と年金しか頼るものはない。

でも、あたかも自分の銀行口座から入金したかのように繕っている筈です。そんなの意味無いのだけどね。

話を戻して、その通知書は、母親死去を配慮に入れていない金額でした。
でも、母親の動産を僕は長姉に差し上げている。それに、わざわざ、多く払う必要もないと、十数万円を入金した。が、やはり長姉は、僅かの金も失うのは許せないらしい。恐らく、わざわざ大阪まで行って、涙ながらに、僕が一昨年の十数万円を払わなかったことを訴えたらしい。それで・・・
藤井寺市税務課?納税課?のくそ竹中め!ふるさと納税なんてくそでもくらえ!
藤井寺市税務課の竹中ってやつから、修正の通知書が届いた。見ると、3人の負担を下記に変更するとあって、それも、等分でなく、僕のが十数万多い金額になっていた。

直ぐに、NETを調べ、その上司らしき職員に、姉との経過を充分に書き、「既に支払ったのに、しかも、かくも不公平な通知書を発行するのか」との書状を送った。すると、くそ竹中から、「調査中ですが、粟野泰子さんは今は海外に居られて連絡が取れません」との連絡が来た。僕と、くそ竹中に火を付けて、粟野泰子さんは、海外に行かれたらしい。

その後、平等に配分された通知書がきたので、不足分を支払った。ただ、くそ竹中が、本当に平等に算出したのか、あたかも平等にしたかの振りで、僕に負担を多くしたのか、それは僕には判らない。長姉は僕と違っていったん受け取った通知書を容易に修正させないだろう。となれば、くそ竹中としては、不足分を自分で埋めるか、大人しいほうに、こっそりと上乗せするかだろう。あたかも平等なようで、実際には何万円かを、ぼくに負担を多くさせるなんて、通知書を簡単に変更できるなら、くそ竹中が遣りそうなことではある。くそ竹中は、東中野税務署と同様に、公正さを勝手に自分の判断、それも、主観で決めるからこんな結果になったのだ。

前にも書いたが、その後、仕事で大阪出張の途上で、工場に寄り、工場の敷地にいろんな器具が保管してあり、自動車も数台駐車しているのを発見した。貸し賃を長兄がねこばばしているってことだ。が、同じ藤井寺の親に買ってもらった家に住んでいる次兄が、その状況を知らない筈はなく、貸し賃を次兄が受取ってる可能性も充分にあった。要するに、次兄はこうもりみたいな性格なので、貯金通帳を長姉に預けてることを喜んで言いながら、他方では、長兄に媚を売りそうである。

でも、かなり厳しいことを長兄に言ったから、その後確かめてはいないが、これは止めたであろうと推察する。

年間三十万円を超える固定資産税はかなりしんどい。そこで、僕は粟野泰子に、売却段取りをしたいと連絡し、それもハガキで、長姉のひどい遣り口をちらりと書いて、家族にも読めるようにと2,3度出すと、売却手続きをやっていい、との連絡、忘れたが、多分、ハガキが来たのだと思う。それで、直ぐに、近鉄不動産と連絡を取り、駐車場にするか、売却にするかを検討し、結局は売却がベストだろうと判断し、そのむねを、長姉にFAXした。
姉から電話が有り、直ぐに甥が海外から戻るので、甥に任せたい、とのことであった。じゃぁ、なんで僕にいろいろ検討させたんだよ、と思ったが、権利書は長姉が持っているからしかたがない。

が、待てど暮らせど、甥からは連絡が無かった。一年ほどして、甥から連絡が有り、
いろいろあって連絡が遅れた。考えてみると、おじさんに任せるほうがいいでしょうと言いやがった。待たせておいて、また僕にやらせるのか!と激しい怒りを感じた。僕はがちゃんと電話を切り、直ぐに姉に電話をした。甥が、今頃電話してきて、自分はやらない、って言ってる と話すと、姉には内容が掴めていないようであった。つまり、とっくの以前に、甥が僕と連絡したものだと考えていたようだ。

長姉からの連絡で、甥から電話があり、僕の調査を元に、近鉄不動産と交渉するとのことであった。それ以前の僕の不動産会社との交渉とかの苦労には全く感謝は無く、前回の僕が電話を一方的に切ったことを極めて怒っているような雰囲気であった。

それから暫くして、ごたごたも有ったが、近鉄不動産で売れることになった。

売却契約の完了打合せで、工場の土地を売った代金を、なんと、甥は母親分を自分の口座に入金させた。このことから、粟野泰子は、甥に生前贈与するがために売却の担当を甥にしたのだと理解できた。が、過去の経験からすると、税務署は大きな金が動く時にはじっと見張っているものだ。これは危ないなと、思ったが、それは僕の知ったことではない。

それに、どうせ、長姉にしてみれば、もう両親の生前贈与とか遺産で懐はぱんぱんに膨れ上がっている。僕や次兄の分もその中に入っていたのだが、大阪家裁の後ろ盾で、合法的に自分の物になっている。今から甥に生前贈与しておくのも賢明かもしれない。それに、甥が次兄の代理で受取った手付金500万円も、甥の口座に入っている可能性も高い。さすがに、長姉の息子だ。

それはともかく、僕は、両親から全く生前贈与はなく、それに、親父からは工場の土地の1/9だけを受取りながらも、結局は現金に出会えたのは、これが最初で最後となったのだ。長い長い、両親への奉仕と、長姉、長兄の作戦に耐えた末の成果であった。

と言うことで、両親の資産の処理は完全におわり、僕は、長兄、長姉とは完全に付合いがなくなってしまった。僕の必要性は全くなくなったってことです。

それから、既に、十年近くになっただろうか。全く連絡は無い。ありがたいことだ。

さて、僕のこれらの経験からの結論は、
家族から「困った」との相談があっても、話を聞くだけにとどめて出来るだけ深入りしなければ良かったってことだろう。

それにしても、この投稿は僕の馬鹿さ加減を精一杯に示してるなぁと、自分ながら呆れてしまう。もうこれ以上の馬鹿さ加減を示したくないので、兄姉は当然、父母との関係も完全に絶ってしまったのですが、どうなんでしょうね。

兄姉とその家族達は、取るべきものは全て取ったあとですから、僕との絶縁については、むしろほっとしているでしょう。
で、知りたいのは、家族の為に頑張るなんて、賢い人は絶対にしないことなんでしょうか?それが生涯の疑問になりそうです。

両親に期待されたというか、甘やかされたと言うか、長女とその家族、同じく、長男とその家族、甘やかされなかった為に自立心の高い末っ子とその家族って、橋田すが子のドラマによくあるパターンそのものです。でも、ドラマと現実が異なるのは、甘やかされた方の自己中的行動、嘘をつく性癖が最後には勝つてことでしょう。これが、哀しいと言うか、あほらしいと言うか、それがこの世の現実のようです。

でも、180度視点を変えるなら、善意には善意が返るとか、自立心が高いとかは、これは甘やかされた考え方なのかもしれません。弱肉強食こそが生物の本来の姿とすれば、僕の感え方、更には橋田すが子さんも間違っていることになります。

それはともかく、僕がここに書いた事実の羅列も、視点を変えるだけで、それらが僕の滑稽さを表すか、姉や兄の滑稽さを表すか、いずれにも別れます。つまりこれは、法が正義の為にあるか、単に、法治のためにあるかの視点の違いで、日本の現状は、法は単に法治の為にあると思われるなら、姉や兄の行動が正しいと評価されるわけです。つまり、僕はここで、僕の行動の滑稽さを世に示していると理解されるべきでしょう。と、言うことで、結論がぼやけた哲学的な分析を記して僕の滑稽話を終えます。滑稽と言うか、負け犬の遠吠えと言うか・・・・

今これを書いている同じ時期に、日経で「禁断のスカルペル」って小説があり、なんとなく身につまされる点がある。主人公が不倫をしたことに関しては、弁解の余地はないが、この出来ごとに関する弁護士を始め周囲の人々の言動だ。彼等の言動が人間の真実ってことだろう。

ここまで書いて思うのだけど、ほんとに僕は馬鹿だったなぁ、って思いです。実は長姉が心底僕を憎んでいるのだと気付いたのはごく最近、それも、これを書きだして、過去の出来事を再構成するにつれて、その憎しみが恐ろしくなって来たのです。こんな近親者を持つほどの不幸はありません。

それだけではなくて、女房に、ほんとうに余分な苦労させたなぁ、って思いです。なにしろ、女房が尽くした父親や母親も、何らの感謝もなくねぎらいも無かったのですから。

とにかく、こんな兄や姉を兄弟姉妹に持つほどの不幸は人生にはないでしょうね。逆に僕のような兄弟を持つって、実に人生はちょろいと、言えるでしょう。

最近、しばしばマインドコントロールなる言葉を聞くことがあり、それが悲惨な事態を招いているのを見聞きしますが、ここで人生を回顧して、それら、無関係と思っていた事態に、母親、次兄、それに、僕自身も、はまっていたのではないかと思えます。

歳をとるほど垢が溜まり、ぼろぼろと崩れて行くような感じがして、最近になって漸く立ち直れたので、ここに書きました。が、今では関係者全ての生死さえ判らんって状況です。

でも、・・・・・僕は別に不幸せではないよね。
長姉や長兄は、どうなんだろうか?ね。多分、とても幸せなんでしょうね。それとも、幸せだったんでしょうね。
それに、これは確実なんだけど、僕も女房も、長姉や長兄、それに、次兄のようには生きることは出来ないってことです。
他方、長姉や長兄は、自分の行った行為をどう見ているのだろうか。
当然な行為としているのだから、家族や世間に知られても問題ないと考えている筈だ。だから、夜はぐっすりと眠っているでしょう。

ところで、このように書いて行くと、段々と連中のその当時のもくろみが理解出来てきて、面白いと思うこともあるが、やはり彼等の遣り口に腹が立ってくるようです。できるだけ早く書きあげて、他の楽しいことに心を向けねば、と思います。

やれやれ、漸く終わったです。読み直しては、若干の修正はしますけど。

追記

僕の次兄がごねて、3000万円の一戸建てを買ってもらった件は書きましたが、彼は預金通帳を長姉に預け、生命保険の受取りは姪にしていると嬉しそうに言っていました。

長姉が、彼の通帳を完全管理しているとすれば、工場の土地の売却費も姉の管理下です。彼が何気なく言っていた貯金に、その売却費も加われば、それに彼の口座を母親の資産の生前贈与とかの口座として利用している可能性も高いから、それらの金額も加わります。総額一億に近いでしょうか。

つまり、長姉一家は次兄を、経済的、精神的にコントロールできる状況にあるわけです。そう言えば、彼はある時、長姉は言うことを聞かないときは無茶苦茶怒るからなぁとも言っていたです。
その言葉をへぇ?と聞き流していたのですが、その後の経過から、彼の言葉の真実を思い知ることになりました。次兄には僕よりも違った面で真実を見抜く力が有ったようです。
が、彼の性格は、こうもり的で、それでなくとも、粟野の親族にはあまり好かれていないように見えました。しかし、預金通帳を抑えられているなら、こうもり的行動も仕方がないかなとも思えるし、僕は兄弟としては最も身近で付合いは長く、彼の境遇も知っていることから、彼の行く末を日ごろから心配していたのです。が、長姉が母親を連れ去ってからは彼は完全に長姉側に立ったので、彼の行く末から解放されてほっとすることになりました。

先にも書いたように、財産を押さえられていれば長姉に反抗なんて無理ですよね。
彼の家、つまり母親にごねて買ってもらった家の有ったところを調べると、60坪の家は分割されて、その両方とも、よその人が入っていました。つまり彼はもうそこには住んでいないわけです。
34.563448,135.594812


蔵王には、長姉のアドバイスで別荘も持ち、自分は大阪に住んでいるので、別荘を使うのは主として、姉の一家とその知人達、しかも、貯金通帳を抑えられてるって最悪のパターンです。
今、どこで、どうしていることやら、と、ちょっと気になって住所でポンで調べると、どうやら彼は甥の家から遠くもなく、近くもない、名古屋のとあるマンションに転居しているようでした。

なるほどね。
でも、凄いでしょ。

追記 思いだした。

母親をある程度は定期的、例えば僕が預かって(勿論、金は一銭も渡さず)3カ月後とか6ケ月後、時には1年後に、長姉は母の金で買った自動車で現れては連れ帰っていった。それは、何かのイベント、蔵王の別荘に行くとか、姉の一家で熱海に行くとか、孫の誕生日とか、の際に引き取り、ひと月もせずに戻すようになったのは、確か、僕が母親を手放したまでの最後の方で、母親の住所を我が家に変更してからであったと思う。僕の住所の方が、国民健康保険が安いと言っていたが、今思えば、なぜ、我が住所の健康保険料率が判るのだ?

母親は、その頃、姉が母親に残された通帳を全部取上げた!と嘆いていたが、母親が連れ戻された(連れ戻すって言っても、住所は我が家だし、殆ど、我が家に住んでいたけどね)後に残された、銀行からの通知では、母親名義の銀行預金は700万円程度であった。
つまり、長姉としては、700万円で母親の老後の全てを見るようにとの、暖かい思いであったのだろう。ただ、通帳も印鑑も、全て長姉が保管してたので、それが本心かどうか判らんです。
母親が持っていた1億との差額は、姉の仲介料として姉の一族に生前贈与かな。

残念ながら、僕には、母親への手紙や、銀行からの連絡を盗み見る才覚はなかったので、その長姉の優しい心使いを理解できなかったのだ。例え兄弟姉妹の間柄でも、かように優しい気使い、と、それにふさわしい感謝をせねばならんのですよ。

その後、母親は長姉の住む東中野(娘婿の家)に戻ったのだが、母親の住所登録は、僕の住所から甥の家に移したらしいから、母親の銀行預金の連絡は甥の家に送られるようになったとか。これも、姪夫婦に母親の通帳の存在を隠す為か、他の目的があったのか。僕みたいな凡人には理解できない長姉の心使いです。

ところで、その700万円の行方については、知りません。

こうなると、甥が言っていた、「何があっても僕は母親の味方です」って言葉は、「何があっても僕は母親の企みの味方です」って翻訳していいのだろうか。

そう言えば思いだしたのだが、この甥にはある時期にわけがあって、「君の母親と僕の次兄が母親の遺書をねつ造したようだ」 とか 「僕はまだ母親の遺産についての相続税申告書を見せられていない」 と伝えたことがあったが、そのことを全く気にすることもなく、むしろ、「それは違法なの?」って質問した。う~ん、問題はそう言うことでは無いと思うのだが、と僕の思考からすると、方向違いな質問であった。母親の血を立派に継いでいるんだな。

凄いだろ!

で、思うのだけど、結局、自分の生活が第一だな。


僕は父親が望んでいた農業を一坪貸園で実現しているし、庭にはいろんな果実木を所狭しと植えている。夏場はブドウがいっぱい収穫できたし、山椒も収穫できた。今の時期は、いちじくが一日に数個収穫できる。

海外には年間2~3度は、勿論貧乏旅行だが、旅に出ている。(この件ではLCC航空会社に感謝しなくちゃね)
分け前は、とても少なかったものの両親の遺産も、その役には充分に立っている。
そんなことより何よりも、僕は女房に恵まれたな、とつくづく思う。
口うるさいことは口うるさいのだけど、その程度は我慢しなくちゃね。
と結論を出して、僕の回顧録は終了です。が、最後にひとこと!

誰か、せめて僕が死ぬ前に 父親の死んだ時の遺産相続書と、とそれに、母親の時のを僕に見せてくれませんか?。そうすりゃ、いろんな謎も明らかになるような気がします。と言うか、ここを書いていて気付いたのだが、皆が隠そうとするところからすると、想像以上の不公平さであったように思える。その不公平さを知ることで余計に腹が立つだろうから、知らない方がいいか・・・・・ 

更に気付いたのだが、父親の亡くなった時の遺産相続にそれほどの不公平があったなら、母親もまた、それに加担していたことになる。それにも拘わらず、僕の家が住み心地が良いと10年近くも無償で居着いていたってことなのか。そんなことも知らず、僕は母親を愛していたことになる。
驚嘆に値する家族だな、我が家は・・・・

油断も隙も見せられない兄姉、それに母親だなんて、どんな家族なんだいったい!
それも、人生の終わりになって次々と気付くなんて、どんなボンクラなんだ、僕は!!
と、じっくり過去を見直すと、新しい面が見えてくるものです。

それに、世間にはまともな弁護士っているのかね?正義を行う弁護士とか裁判官とか、ほんとにいるのだろうか?

更に追記

母親の旧姓は杉本と言い、その兄は、藤井寺の近く、恵我之壮駅前、南側に大きな敷地の家を有していた。僕も行ったことがあるが、とても大きな家で、家の裏手にはコンクリート製の防空壕まであった。母の兄にはきちんとした教育が与えられたが、母親は小学校にもろくに行かせてもらえなかったらしい。

ところで、母親は、この両親からの待遇の違いをしょっちゅう愚痴っていたが、同じ過ちを子供たちに与えたことには気づいていなかった。

父親は、播州の実家(龍野の出と聞いているが)にはせっせと金を送り、面倒も見ていたらしい。

故郷の村には志水がいっぱい居て、その志水にも、明治維新に志水を名乗った家があるが、親父の志水は元々の志水だと言っていた。確かに我が家の仏壇の下には、剣道の免許皆伝書が仕舞われていたことからすると、これは事実のようであった。また、秀吉に攻められて、山城を落とされて山中に逃げたとかを、父親から何度も聞かされたが、その後、司馬遼太郎の黒田官兵衛を読むと、秀吉軍に包囲された三木城から、志水五郎兵衛だったか、六郎兵衛だったかの武士が突撃して討ち死にしている。この辺りが先祖かもしれない。

ところで、両親の二人の性格の違いを考えるに、兄弟に厳しい性格は、母親の杉本系の性格のようだ。つまり、長姉と長兄は杉本の血を引き、僕は播州の志水の血をひいたらしい。

追記

宮部みゆきの作品、楽園とかを読んで気付いたのですが、姉のような性格の人が、案外、どこにでもいるようです。宮部みゆきは、どこから、そのような人物に関する知識を得たのでしょうか。恐らく、取材過程で気づいたのでしょう。それとも、身近に居たのでしょうか。

それに、同じく彼女の「ソロモンの偽証」を見ると、そこには我が家族の縮図が書かれている。宮部みゆきは、その若さで、僕と同様、若しくは同等の経験を経たに違いない。でも、小説の第二部からは夢物語になってしまうのだけど。

追記
結論的に言うなら、いずれ、それもそう遠くない時に、僕は、母親への「愛情と怒りと憎しみ」、それらの全て背負って人生を終わることになるのだが、死ねば全ての感情は消えるから、それが却って気楽だってことだ、と言いながらも涙がこぼれるのだが、目にごみが入ったのだろう。

2017年5月追記
最近、韓国ドラマを良く見るようになった。親父が花登こばこのドラマを良く見たのと同じ現象だろう。韓国ドラマを見ていると、僕の兄や姉の僕への仕打ちは大したことでも無いように思えてきた。
金をむしり取られただけで、無実の罪で刑務所に送り込まれることは無かったのだから、実に幸運だった。
と、笑っちゃうです。
でも、韓国ドラマの悪役の悪行にこんなにも腹が立つなら、僕には卑劣な行為はできないなとも考える。