2017年10月9日月曜日

人生は何かを一応は真剣に考えてみよう。

最近は、とても不安な夢を見る。おそらくは、人生の終末に近くなり、その不安が夢に影響しているのだろう。そこで、死は本当に不安なことなのかを考えたい。先ずは人生はいかなるものかから考える。
人生は何かを考えることに意味があるのか、それとも無いのかは判らないが、暇つぶしと割り切って考えることにした。
人生は何か、との命題は、人生に何らかの意義があるのか無いのか、を考えることであり、意義があるとすれば、どのような人生に意義があるのかを考えることだとしよう。だが、この命題は実に捕らまえどころの無い命題なので、とにかく、うろうろと考えるより仕方がないだろう。
先ずは、人生とはいかにして存在するかを考えてみよう。
そもそも人生とは、人が存在することで有るもので、その意義とは、その存在が生まれた過程を整理することで理解できそうに思える。が、科学的データの得られる今では、その解を得るには、それほど複雑な思考は不要である。
結局は、遺伝子の、その存在を継続しようとする性向が人生を生み出すだけのことである。つまり、人生の本来的な意味は、生命を次の世代に継続させることにあり、ただ、それだけのことだと結論して良い。それ以外にはない。
それを為さしめるために、遺伝子は、快楽物質つまりドーパミンなるものを与えることで生命体をその方向に誘導するのだ。この事情を良く示すのが、老人達の孫への愛情の異常さである。その状況は、孫を見る老人たちの体内に、いかに多くのドーパミンが放出されているかを示している。
つまり、人は人生の最後には、孫を見ることで最後のドーパミンを楽しむようにできているのだ。
 生物を生き続けさせる原動力がドーパミンであるとして、いかなる行動でドーパミンが放出されるのだろう。
性欲、食欲、闘争での勝利(征服欲)が、先ずは根源的なドーパミン分泌要因だろう。だが、人は頭脳が大きくなることで、生物本来の根源的な行動以外でもドーパミンを分泌するようになってきた。と、言うか、むしろ根源的な物よりも、更に派生的な行動でもドーパミンを分泌するようになったようだ。なんと、怠惰な行為でさえ、その本人には「ああ、のんびりできる」と、ドーパミンを分泌する要因となりえるのだ。(僕には、特にその傾向が強い)
以上の事から、人生だけでなく、生きるもの全ての存在も、全てがドーパミンを求めて生きていると結論付けされる。その結論を元に、最初の設問、つまり人生に意義があるか、それとも、意義は無いのかを考えてみよう。
ここまでの記述で明らかなように、人を含めた生物は、ただ、その種の存続だけを目的として自然に出来上がってきたものなのだ。と、言うことは、そこには誰の意図も働いてはいない。つまり、人間の生きる意義は主ではなくて種の存続であったと結論付けるより仕方が無い。逆説的に言うなら、種の存続を終えた物や、存続に失敗したものには生きる意義は無いとのことになり、そこには僕も含まれることになる。が、ありがたいことに、逆は必ずしも真ならずって言葉はここにも当てはまる。
生物は、その存続をドーパミンを餌にすることで達成してきたのだが、ドーパミンは種の存続のための行為だけに分泌されるわけではない。つまり、ドーパミンの分泌と種の存続は別の現象であり、単に人生の意義をドーパミンの分泌行為とすれば良いことになる。
結論は、人生の意義は快楽物質、ドーパミンの分泌行為となる。
人により、ドーパミンが分泌される行為は異なり、ドーパミンの量も異なるのだから、どのような行為でドーパミンを得るかは、それぞれが考えるより仕方が無い。つまり、人生の意義には、一般的なものはあるが、普遍的なものは無いってことで、それも、人それぞれだけではなくて、同じ人にとっても年齢でことなる。が、ドーパミンを分泌するとしても、それで違法なことや、寿命を縮めるようなことは無意味だ。少なくとも僕にはそう思えるので、それを前提とすべきだろう。

さて、ここでは、さような条件下で、僕がどのようにドーパミンを得たのか、これからはいかに得るかを考える。と書いたが、どんなことが好きかは、既にここの方々を見れば判ることだ。

で、ぽんっと死について考える。それも、それほどは長くない先のこととも言える。
が、これも簡単なことだ。
元の原子に戻るだけのことで、精神的な表現で記述するなれば、長い眠りにつくだけの事だろう。