2022年3月1日火曜日

房室ブロック 救急車で済生会習志野病院に運ばれた。

 2月15日(火)と翌日に、AmazonPrimeStudent で無料ビデオを朝の3時まで見続けて、15日には自転車で思いっきり図書館に予約本を取りに往復し、夜はまたビデオ鑑賞で3時までおきていて、16日には、午前中いっぱい農作業をした。疲れることもなく、家に帰り、コタツに座った途端に、ぐらりと倒れてしまった。そのまま眩暈と貧血で立てなくなってしまった。体温に異常なく咳も無い。コロナではないなと思いながら、大きく息を吸うが、立てる力がでない。めまいがして貧血状態だ。食欲も全くない。おかゆを少なめの一碗食べるのがせいぜいだ。食欲が無いのと体を立てることができないのだ。その日は風呂に漸く入り、寝床についた。
17日、18日、19日と全く回復しない。風呂に入る気力もなく、めまいと貧血で布団を上げることさえ出来ない。
腹式呼吸をすると、若干気分が良くなることを発見して、NETを調べると、特発性間質性肺炎が最も該当するようだ。ひょっとすると肺がんだろうか。常々、マスクの中にメタノール水溶液の消毒不織布を使ったのがまずかったかと、NETで見ると、メタノールは発がん性が高いらしい。とんでもなく危ないことをしていたのだろうか。それに、長期間パソコンにへばりついて胸を圧迫しつづけたのもまずかったか、等とくよくよと考えた。
20日(日)になり、病院に行くにも体力がなく、救急車を呼ぶより仕方ないかな等と話していたが、腹式呼吸で若干症状が改善するので、もう少し様子を見ようと考えた。が、午後になり2階に上がったが、降りてくるのも眩暈がして、これは駄目だと、119番に自分で電話した。症状を話し、病院には近いのでサイレンは不要ですと言ったが、救急車はサイレンを鳴らすことが義務付けられてると断られた。
救急車が着いて、僕は自力で搭乗してベッドに横になった。女房も同乗した。救急隊員は血圧を測定したが、異常はなく、脈拍が低すぎるとの見解であった。若い時に激しい運動をしたので心臓が大きく、脈拍が低いのでしょうか、等と話したが、脈拍40では低すぎるとの答えであった。救急隊員は受け入れてくれる病院を電話で探したが、八千代医療センターも徳洲会、島田台も駄目だとのことで、余り遠いのは困るから、いったん救急車を降りて自宅に戻ると言うと、戻りたいのを拒否できないが、脈拍が低いのが心配だと言う。更に病院を探して、済生会習志野は受け入れるとのことで、場所は京成大久保の近くだと言うので、僕としては土地勘もある。それなら余り遠くでもないと了解し、救急車は発車した。
到着して救急口から大勢で受け入れてくれた。直ぐに血液採取と心電図を測るとのことなので、長袖の下着を脱ぎ、下は全て脱衣するようにと指示された。
心電図を取ると、直ぐに担当医が、「房室遮断です」と言い、心臓の説明を始めた。「心臓は、上側の心房2個と、下側の心室2個で構成されているが、心房からの心室への信号がブロックされている。貴方の場合、信号の2/3~1/2しか伝送されない。ペースメーカーを入れるのがベストでしょう」とのことであった。
そのまま、救急エリアの部屋に運ばれ、尿管を差込まれ(死ぬほど痛い)、点滴を受けたが、エヤコンがゴーゴーとなる騒々しい部屋であった。ただ点滴で体はかなり楽になったので案外眠れた。隣のベッドの、超高齢の婆さんが、水ちょうだい!水ちょうだい、と繰り返していたが、その幼い口調に噴出してしまった。眠りの邪魔には全くならなかった。
翌日月曜日、救急で対応した循環器科の竹田先生が来て、再度、病状についての説明があった、手術後一週間の入院が必要だと言う。手術しないと症状が変わりそうにないので、急いで手術して欲しいと言うと、では、午後に遣りましょうとなった。後で判ったが、この竹田先生って年がら年中、病院にへばりついているような先生と思えた。
月曜は女房の都内でのハイパーサーミヤ治療で、火曜は徳洲会北習志野での点滴治療だが、先週末に都内での治療はキャンセルした。点滴治療はキャンセルしてはならないので、女房だけで行かせることにした。女房一人で車で行くことは可能だが、受診手続き・手順・予約設定とかの細々が不安だ。自分のことより、それが心配でたまらなかった。
手術後一週間入院だと、次の月曜日のハイパーサーミヤにも同行できないことになる。それはまずいので、術後の経過を見て先生と相談することにした。
点滴のおかげで、久しぶりに充分に眠れた。しかし、身に着けるのはパンツと前が閉じられない手術着上衣だけだ。そこまで疲れていると騒々しいクーラー音も気にならないほどに疲れていたのだ。
手術室に運ばれ、麻酔は肩甲骨辺りの局所麻酔で、ペースメーカーを入れる部分を一生懸命に掘っていた。その後、リード線を静脈に入れて先端を心臓の適所近辺に入れて行った。その後は、リード線先端の位置決めで、あっちこっち移動してはその位置に信号電流を流し、心臓の動きを確かめていた。まるで電気工事士の配線作業であった。なかなか最適反応が得られず、結局は、適度の位置を選択したようだ。
かくして切開口が縫い合わされ、僕は7階病棟の755号4人部屋に運ばれた。肩は緊迫布で巻かれ、特に左手はがっちりと縛られている。その状態で夕食だが、まだ麻酔が効いているせいか久しぶりに夕食を完食できた。
食後、横になったが、麻酔が覚め始めて痛みが出てきた。眠りに入れたのだが、痛みはいよいよ激しくなり、夢の中でうなり声を挙げながら、しかも、重い荷物を左肩に背負いながら、長い螺旋階段をよいしょよいしょと上がってゆく夢が延々と続いた。
手元に携帯を置いていたので、家に連絡すると女房が出てきた。持ってきてほしい品物を言い、病院の位置を教えようとするが、女房は拒否反応である。普段に地図の見方を教えておくべきであった。それを何とか説得して納得させた。その後、うとうととしている間に女房は何とか病院に着いたらしい。女房が荷物を持ってきたらしく、見える棚には袋入りの私品が納められている。しかし、そこに行くだけの気力はない。余りに痛いのだ。
僕のベッド上での状態は、前をはだけた手術着の上衣、と、5日間ほど履きっぱなしのパンツだから、ほぼ裸状態で、尿管と点滴管をぶらさげている。点滴は可動支柱に取り付けられているが、尿袋はベッドに括り付けられているから動きようがない。荷物袋に何が入っているかを確認するには、移動できるようにならねばならない。尿管を外せば移動できるだろうと看護婦さんに頼んだが、人手不足のせいか、若しくは先生の指示なく決定できないせいか、誰も外そうとはしない。そこで、尿袋を注意深くベッドから外して点滴支柱の下部のほうのハンガーに取り付けた。下部ハンガーの位置を尿袋としての機能を失わないように高さも調整した。これで漸くベッドから抜け出て、我が荷物の内容を調べることができた。
荷物の中にスマホ充電器を見つけてほっとした。自分の下着、寝巻と、貸寝巻も見付けたが、尿管が邪魔して履き替えができない。半裸状態を抜け出すには下着や寝巻パンツをはかねばならない。つまり、尿管を抜くことが必須条件だ。
竹田先生の回診があり、尿管を抜くように頼んだ。更に、女房のハイパーサーミア治療で月曜日に都内に行くので、金曜日には退院したい、と主張した。「あなたの場合、何を最優先するかですね」と言うので、「女房が最優先です」と答えると、「貴方の生死にかかわりますよ」と言うので、「それでも、女房を優先します」と答えた。だが、先生は引き下がらない。「両方を成り立たせるには、ハイパーサーミアの日程を1日遅らせれば良いだけです」と言う。これには反論できず、ハイパーサーミアのクリニックと連絡します、と答えた。
医新クリニックと連絡しようとしたが、楽天スマホでは接続できない。試したが、接続出来る時が少ないのだ。これでは確実な日程変更ができない、と焦った。(後で気づいたが、病院のWIFIに接続して、楽天リンクで電話すればよかったのだ)
医新クリニックは、神田の岩本町にあり、東葉線から東西線直通で、日本橋で銀座線に乗換て、二つ目の神田で降りて、徒歩15分程度だが、問題は、乗換通路や最適な地点への地上への通路だ。出口をちょっと間違うと自分の位置を見失ってしまう。現役時代に僕も東京の地下鉄では何度も経験した出来事で、女房にはその際のリカバリーが難しくパニックになるだろう、と心配だ。
そこで日本橋、神田での丁寧な駅の地図と、通路の地図を書くことにして、紙がないので、先生の治療説明書の裏を使った。蛍光塗料は看護士待機所に借りに行った。天皇誕生日で休日なのに、看護士待機所には大勢の看護士らしきメンバーがいたが、夜に入り解散する直前のようで、なんとなく見知らぬメンバーばかりであった。以下に記載するように、患者が急死したことへの対応なのだろうかと思った。
僕のベッドは、755室の通路側で、窓側の2つのベッドは、21日(月)に二人とも退院していった。退院にしては二人とも元気がなさそうで、彼等の退院後、彼等のベッド周辺の家具類も新品と取り換える等大げさな部屋替えで、それが終わると2人の新人が入院してきた。カーテンで仕切られてこれらの状況は耳で聞く限りだが、1人の奥さんが、業者に「この御恩は一生忘れません」と言っていた、これらから判断するに、彼等は保険適応の養護施設に入れず、病院を一か月ごとに移動する方策を取っていて、それを斡旋する業者が居るものと思えた。そうして、退院した2人は、別の病院に移ったものと思われる。
しかし、奥さんが感謝していた方の患者は、天皇誕生日の夕に容態が急に悪化して、どうやら酷い下痢に見舞われ、夜には、755室トイレで看護士が彼の下の世話と体の清掃をやっていて、つまり、重病である筈の彼を、とても清潔ではあるもののトイレの土間に横たえて体を洗うってことは、既に亡くなっていると思えたが、そのご、医者や看護婦・看護士が忙しく立ち働いていたが、そのままベッドに置かれたままで、周囲が静まった夜に、ベッドごとどこかに運び出されて戻ることはなかった。
自分が丸太状態になった場合の末路を見るようで悲しかった。
なお、23日には竹田先生の指示か、男の看護士さんが来て、尿管を外してくれたので、行動はいよいよ自由になった。
2月24日になり、下着の不足もあり(実際は十分にあったが気付かなかった)女房に来るようにと電話で頼もうとしたが、携帯の音が小さい小さいと怒鳴られまくった。彼女の携帯操作をすれば調整できるのだが、僕にどなりまくるわけだ。とにかく来るようにと言ったが、道を忘れたと言う。娘にカーナビセット頼めと連絡した。
午後になり、女房が来たので、作った地図を手渡し、携帯の音量調整法も教えた。面会はコロナの関係で厳しいので、病棟受付を通さず、待合室前のエレベータ付近で待ち構えて待合室で打ち合わせた。カーナビセットは娘は出勤だったので、お隣の春田さんの息子さんがしてくれたと言っていて、道も、大体判ったと言う。聞くと、確かに判り易い道だ。
神田への地下通路地図を手渡したものの、余り理解できていないようなので心配が募った。
ついでに22日の徳洲会での治療を聞くと、点滴療法は無かったと言う。血液・採尿検査後の診断で、足の方が問題だと内科に回されたと言う。
退院してから領収書を調べたら、確かに、点滴治療は抜けていて、足回りの超音波テストが入っている。なぜ、点滴療法が抜けたのかと、同行できなかったことが残念でならない。
医新クリニックのハイパーサミア治療の日程をいかに調整すべきかと考えていたが、突然ある考えが沸いた、つまり、女房は日本橋までは確実に行けるから、日本橋で地上に出てタクシーを使えば、僕が居なくても混乱なく行けると気づいた。そこで、日曜日に女房に面会に来させて、その段取りとか医新クリニックの住所などを教えようと電話したが、「病院では玄関で入館を禁じられる」と女房が来院を渋った。電話を切り、受付の看護士さんに聞くと、休日は救急口から入館できて、7階の受付まで来られます。面会は原則としては午後2時からです、と言う。実際には午前中でも待合室に家族が来ている。それに女房にしても、一昨日には僕の面会できているのだ。病院入り口で入館を断られる筈がないのだ。どうやら女房は、2年前に僕の鼠径ヘルニヤ手術の時のことが突然蘇ったようだ。当時は確かにコロナ対応が極めて厳しかったのだ。
再度電話して、今は以前よりずっと緩和していると、看護婦さんの言葉をそのまま伝えて、日曜日の面会をなんとか納得させた。
もうその頃は、下着もちゃんと着け、貸付寝着を上を二枚重ねで、下に、遠隔心電機を納めてまぁまぁきっちりとした服装で、主に、ベッドは薄暗くて病人ぽい(病人そのものだが)ので、8階の図書館で本を読みながら過ごしていた。
眩暈も貧血も全くなく、血圧は、朝夕は、100/60程度で、昼間は、120/60程度と実に理想的で、脈拍はきっちり60であった。以前の血圧が125~135、で起き抜けにはしばしば、140代であったこととの相関性が理解できなかった。血圧の高いのは血管が硬化することが主因とすれば、なぜ妥当な脈拍で血圧が低く収まるのかが理解できないのだ。
まぁ、とにかく、状態は良くなったようで、タオル絞り法などの血圧対策は不要になったってことだ。入院して運動もせず、血圧状態が改善するとは変な話だ。
女房の病院への道も覚えやすかったようで、簡単に着き、神田医新の住所を書き渡し、混乱したら地上に出てタクシーを使うようにと強調した。これで迷子になることは無いだろうと、ほぼ安心した。
28日(月)退院日となり、朝から荷物の整理を始めた。9時半になり、竹田先生とペースメーカ社員とで、僕のペースメーカーのチェックを行い、機器説明書とか証明書が渡され、3月18日に退院後外来診察と言い渡された。看護婦が来て、請求書が渡されて1階に行き支払いを終えた、支払金額は、後期高齢者家庭で入院時の限度額、56700円であった。
支払を終えて、外に出るととても穏やかで温かい日差しであった。久しぶりの歩行で直ぐに疲れを感じたが、家に帰っても女房は神田医新クリニックに行っているのだから、急ぐ必要は無いと、電車で還ることにして、ゆっくりと京成大久保駅に向かった。大久保から勝田台に出て、東葉高速電鉄の勝田台駅に向かった。駅に着いて、列車の発車時刻を見ると、11時17分であった。

あれ、どこかで聞いたような列車時刻だな、と考えると、なんと!どうやら、いつも僕と女房が神田医新クリニックに向かう時の列車らしい。そこで、僕はいつも乗るドアーの所で待ち構えることにした。一緒に神田に向かえば良いのだと、考えた。列車が最寄り駅で速度を緩めて、いつものドアーの向こうに女房の姿を見つけて、僕は、心底ほっとした。

翌々日の3月3日には、目出ししておいたジャガイモを植え付けた。3kgものじゃがいもを植付けるのは初めてのことだった。
それにしても、と思う。僕の場合、房室ブロックがより厳しかったら簡単に死んでいたであろう。気絶してそれで終わりだろう。そう言えば、若い時に、水処理SJEの大学後輩が、夜遅く帰路の大阪地下鉄駅の椅子で死んでいるのが発見されたし、同期の石原は、息子に仕事を譲って直ぐに南洋のどこかの島で潜水を習っている間に死んでしまった。たった一つの信号線の不調でも人は容易に死ぬのだなと実感した。
他方、かようにグタッと一瞬でくたばるのも良いかもしれない。今まで普通に生活していて、突然、肩の重みそのものが耐えがたいほどに重く感じて、体が崩れてしまうのだ。そこで鼓動が40回/分程度で収まれば、つまり、房室からの信号の2/3が伝達されるのなら、細々と命をつなげるが、それ以下にまで低下するなら一瞬で死んでしまうわけだ。恐ろしいような嬉しいような、いずれに表現すればよいのだろう。