2018年8月7日火曜日

岩の一族 長老の教え 添書 (9)


 杏子は快適な日々を送っているようだ。ここ何年来の暑さにも拘らず彼女の部屋だけは三方からそよ吹く風が流れ込み、この上なく心地よいとのことで、少しでも過ごし易くと宗一爺さんの助言を押し切り取付けた空調機も宝の持ち腐れとなってしまった。

 老夫婦との共同生活でさえ杏子は楽しくて仕方がないとのことで、日々の生活やら台所仕事で教え教えられることが数多いと言っている。それに、彼女の実家をスケールダウンしたかのような間取りが何とも住心地が良いのだとも言っている。女は奇妙なことにも喜びを覚えることが出来るのだと私は改めて感心した。

 杏子から毎日テープとディスケットを受け取り、新しいのを渡してはセットを杏子に頼んでいる。彼女には録画と録音テープの再生を禁じているし、彼女もまた触る気もしないと言い、私に手渡すときには、さも汚い物を扱うような仕草となっている。

 持ち帰ったテープは夜中に鍵を掛けたコンテナ事務所の中で一人で調べている。昼間はコンテナの中でいろんな会合が開かれていることも理由の一つだが、アシュラフが来て楽になると思っていたのに、このところ注文建築が増えてアシュラフだけでは無く私もまた昼間は走り回る日々になってしまった。

 昨年の冷ややかな夏を取り返すかのように、今年は春から思い切り太陽がぎらついていて七月半ばには既に三十五度を上回る暑さが続いている。バングラデッシから来たアシュラフでさえ暑い暑いと悲鳴を上げている。

 暑さについての愚痴をこぼすと、「先の源氏蛍以上に平家蛍は凄いぞ」と安原は言い、「谷川の水量が増えているのと、それに暑さのお陰や。昨年の冷害での米不足や、直ぐに訪れる平家蛍観察会のことを考えれば、文句ばかり言っていると罰が当たるぞ」と説教もされてしまった。

 土井が紹介した考古学の教授が安原の発掘品を見て感動して、すぐさま共同研究を申し込んできたとかで、安原の調子は絶好調らしい。丘を売る気なんかはさらさら見受けられないと、これは杏子の言葉である。

 黒々と連なる屋根と空の境界がくっきりと朱色に染まり、残りの空の全てが深みのある紺色に塗り尽くされる頃まで働き、家に帰り入浴してゆっくりと食事をしてからコンテナの中でその日の収録内容を調べるのが日課となっている。しかし、何故かここ数日は集中力が欠けているような気がしていた。

 息子は既に就職し東京の独身寮で一人暮らしをしているし、娘は神戸の大学の学寮で暮らしていて、毎日はただ夫婦二人だけの生活となっている。そんな二人だけの食事の最中に、「近ごろは優しくなったねえ」と女房が言ったときには、皮肉であろうかと女房の顔を窺ったのだが、彼女の顔に浮かぶ真面目な表情を見て、食事の前に「今日も旨そうな食事だ」と口走ったことを思い出した。二十年をだいぶ前に過ぎてしまったが結婚前の女房を思い起こしての独り言であった。

 杏子の友人として何度か一緒に付合っていた時には気にも止めなかったが、家業を継ぎ暫らくぶりに再会した時から奇妙なほどに女房の晴子のことが気になった。忙しい仕事の合間を縫ってはデートを繰返した。その頃の情熱と、共に暮らした長い歳月が頭に浮かび、つい洩らした言葉なのだが、それこそが欝状態の兆候だと私は考えた。

 数年前に症状が、それ以前のいつから始まったかは定かではないが、ああこれが欝状態なのだと突然気付いた。それからはほぼ定期的に現われる症状が少しづつ長くなっていることにも気付いている。その時には私は未来ではなくて過去を、過去の出来事の一つ一つをじっと振返り、人の心と、それに自分の心の奥底を見詰め始めるのだ。

 一族の全員が善良であるなどとの妄想に、私は囚われてはいない。ただ“一族の掟”なるものを心に持ちながら子供を育て、子供もまた教えられながら育つだけで、人はそれなりの生き方を選んでゆき一人立ちする。それ故に、一族の人々は世の平均よりは“一族の掟”に近い集団となっているだけで、人としての本質には変わりはない。

 長老としての職務を務めるがためには、時には人の心を推し量りもせずに、己れの判断で事を進めてきた。結果としてはそれが正しくとも、人の心を傷付けてきたことには違いがない。人は傷付けあって生きている。その考えがこの憂欝な時の私の思いとなる。時には、ずっと昔の杏子との夜の散策を心が締め付けられるような懐かしさで思い出し、と同時に、あのように優しかった杏子に、彼女が喜ぶ何かを与えただろうかと後悔する。それどころか、今度のことでは、心苦しいことを押し付けて平然としている。長老会や丘の人々には、何の報酬もない苦労ばかりの仕事を押付けていると、心苦しくなる。

 私は、無意識ではあるとしても、仕事の受注に長老職の地位を利用しているのではないかと、過去の契約とその仕事の経過の一つ一つを思い起してしまう。

 そんな心象世界と現実世界それぞれの過去の回想を繰り返しながら、私はコンテナ事務所の中で、無意識の内にテープとディスケットを装着して、頭と耳を澄まして事の成り行きを識別しようとは努めるが、心は捉まえどころなく次々と過去の出来事へとうつろってしまう。この症状を自覚した頃には私も抵抗を試みたのだが、既に私は諦めていて、むしろ心のうつろいを成り行きに任せることにした。仕事はそれなりにこなせて行けるが、ただ新しい仕事を開拓しようとの熱意が無くなるだけのことで、長くて一週間を己れの進んできた道での、懐かしさと後悔との交互に押し寄せる心の高まりを、無駄な抵抗は止めてそのままに受け止めることにしている。物心ついてからの四十年もの充分に長い人生の、その垢がぽろぽろと剥がれてゆく年代に入ったのであろうし、子供もほぼ独り立ちすることで生きることの新しい意義を求める時期に入ったのかもしれない。人生の後半の入口では、そのような一時もまた必要なのかもしれない。

 今回の欝々たる日々は、いろんな出来事での心の高揚の反動かそれとも歳のせいか、思いの外に長かった。そうして二週間後に、始まった時と同じように気付かぬ間に治まってしまった。

 二週間に渉る夜半はただ習慣的に画面に向かっているだけであったが、それは突然訪れて頭の中のもやもやが一気に晴れ、津島と瀬川、それに柳川の真実の姿が急速に頭の中で形造られてた。しかし、その理解はそれ以前の茫然と画面を見ていた間にばらばらに得られた真実の断片が、心の動揺が治まると共に一つに纏ったものに違いない。

 津島と瀬川の月曜毎の訪問は事務所の休みの日を選び会社の業績を調べる会計検査そのものなのだ。帳簿を調べ柳川のごまかしを見事に指摘する有様を見ていると、彼等が暴力団員とはとても思えない。彼等の指摘はそれほど正確で容赦無く、しかも公正そのものである。私の欝状態での観察は、彼等が暴力団員であるとの先入観を捨て去り、彼等を人そのものとして客観的に見詰めていたのだ。

 その観点に立ち、私はメモリィに残された津島の帳簿をもう一度隅から隅まで調べてみた。やはり彼の帳簿は私の帳簿よりも詳細でしかも誤魔化しのないものとなっている。どんなに厳しい税務署員をも満足させうる内容であり、節税の当然の権利として私が使うテクニックさえ使っておらず、ある意味では馬鹿正直とさえ思われる内容になっている。二人は、社会全体が私が持ったような先入観で彼等の行動を推し量ることさえ考慮に入れて行動しているのだ。

 私は更にもう一度録画の全てを見直すことにした。とは言えそれは彼等が現われる月曜日だけのことだから、ここ三週間でただ四日間だけの、しかも午後数時間分だけとなる。

 その結果だけで彼等の行動の目的は明らかになった。バブル期の放漫経営で多額の損失を蒙った柳川は市中金融業者を通じて天王寺組から多額の借金をして、経営権そのものを天王寺組に奪われている。津島と瀬川は、ただ抵当物件の商売のために柳川事務所を使っていて、二人はリスクの大きい物件を扱うことでかなりの利益を得てはいるが、その全てが合法的で文句のつけようがない仕事となっていて、むしろ柳川の方が税金の誤魔化しやら、市役所職員相手に贈賄寸前のテクニックを弄していて、その点を二人に厳しく追求されている。

 先週の月曜日、約束よりは遅れた柳川が部屋に入るなり、遅れたことの弁解を始めようとしたが、それを手で遮った瀬川が、

「おい、柳川、お前は何度言うても判らん奴やなあ。市役所の職員に飲ませた金は会社の金で処理したらあかんのや」と、腹の底からの怒りを顕に怒鳴り付けた。

「しかし、それ以外にどうすれば・・」と答える柳川の言葉半ばで、「馬鹿野郎!飲んだ金額は割勘で払うことにして、市役所の職員にはお前の身銭を渡して、それを飲み屋に払わせるんや。そもそも、今時飲み屋でこんな大金を使う筈がないやろ。お前の二号が経営する飲み屋やから、勘定を膨らませとるんやろ」と、今度は津島が歯に衣を着せない叱責である。

「いやあ、とんでもないです。そんな・・」

「阿呆!お前の口は信用できんのやから、それを証明するんやったらちゃんとした請求書を持ってこい」

「そう言われても・・・」と柳川のなんともふにゃふにゃした返答に、津島が大声で怒鳴るように話し始めた。

「そんなもんはどうでもええわい。儂の言うのわやなあ。市役所員への贈賄が表沙汰になったとしても、うちらには迷惑のかからんようになってるから、全ての責任はお前個人になるんや。それはええけど、これはお前への助言で言うてるだけでなあ。政治家と公務員への贈賄ちゅうのは、贈賄した方が損するようになってるし贈賄された方も一生を棒に振ることになるんやでえ。まっとうに商売するのが一番やというのが、まだ判らんのか」

 柳川は下を向いたままその言葉を聞き流しているように見え、津島は話の途中で声の調子を下げて、最後には面倒そうな口調になってしまった。

 盗聴テープの、この言葉を私が最初に聞いた時には津島の言葉をまともには受け取らず、柳川の考えと同じように“暴力団が何を正義ぶって”と皮肉に聞いたのだが、今では彼が本心から言ったのだと信じている。市議会議員が暴力団員に説教されている阿呆らしい情景を目撃したわけだが、この諍いの後直ぐに、「雀百まで踊り忘れずとは、よう言うたもんや」と津島は呟いて話を打切った。柳川はその卑しい性格を暴力団員にも見離されてしまったのだ。

 それから一週間後の盗聴内容をも含めて考えると、津島と瀬川とは、柳川とは関係なく二人だけで担保物件を扱っていて、柳川の方は事務所の社員を使っての一般案件を担当しているのだ。月曜日の二人の訪問は専ら柳川の仕事の捗りと状況調べと、二人が扱っている物件を柳川事務所の案件として組み込むための打ち合せであると判った。

 盗聴を初めてから高々三週間とは言え、柳川のぼろは嫌になるほど出てくるが、津島と瀬川の弱点の陰も見えず、むしろ彼等がいかに慎重に行動しているかが判るばかりで、天王寺組への恐れがいよいよ強くなった。

 翌日私はアシュラフの担当している新築現場を訪れた。三週間を彼に任せたままで過ごし、忙しかったせいと自分には弁解していたものの、少し足を伸ばせば行けた筈である。その気力もなかったのだ。最悪の時期は過ぎ去り、その反動で頭は隅々まで澄み渡っている。テンションは張りつめていて何事であれやってのけるとの気力に満ちている。しかし、残念なことにはアシュラフは十二分に彼の職務を果たしていて助力を必要としていないことが、現場敷地の前に立ち仕事の捗り具合を見ただけで判った。

「ああ、親方」と図面を手にアシュラフが近付いてきた。歳は二十四で体付きはがっしりとして肌色はくすんだ褐色で鼻はあぐらをかき唇は厚い。霞ホテルに宿泊する他のバングラデッシ人は華奢で目鼻立ちが整ったコーカサス系であるが、アシュラフには明らかに東南アジヤ系の血が入っている。しかし、霞ホテルの多くの外国人と接している内に色の白黒や容貌には余り興味がなくなり、むしろ人の内なるものだけに関心を持つようになった。アシュラフは実に勤勉、誠実でしかも全てに対して前向きである。体力や粘りについても私も一目置いている。故国での苦労からすれば日本での仕事は楽なものだと常々言っている。

「ちょっと様子を見にきただけやが、どうや仕事の方は」

「ええ、好天が続いてますから予定よりは数日早くなっています」と、天候のせいにしているが、建築仕事は仕事の段取りと細かな気配りが全てであるから、これは明らかに彼の謙遜である。

「何か問題は無いか」

「それなんですが、設計図を調べてみてちょっと気になる所がありましてねえ、工程的にはまだ先のことですから急がないので、今日でも相談に行こうと思っていたんですが」とアシュラフは設計図を開いた。気にしている辺りに赤い印と注記を入れている。

 設計図を受け取りじっくりと調べてみた。アシュラフの気にしているのは、ドアーの開閉方向、押入の大きさと区分けの仕方、それに照明器具が部屋の雰囲気には適当でないとかの、どちらかと言えば使い勝手や見栄えに関することで、これらは出来上がってから顧客と揉めることが多く、暇とは言えない仕事の合間にもアシュラフは先を読み現場仕事の一歩先のことを考えていて、この僅かな配慮の違いが顧客の満足と利益そのものの大きな差となり表面化する。 数年前に共に働き教えたことの全てをアシュラフは充分に身に付けている。私の子供達が私とは別の道を進むことは予想通りのことで、この二年間でいよいよ明らかになってしまった。後を継ぐのは誰かと考えた時に、共に働いた人々を思い浮かべたが、気力、能力それと何よりも誠実さの点においてもアシュラフが飛び抜けた男であることには直ぐに気付いた。後は、彼に継ぐ意志があるかどうかだけで、継ぐ意志がなければそれはそれで仕方が無い。いずれにしても、その事は丘の件が片付いてからである。

 顔を上げて、「よっしゃ、お前の言うことは尤もやし、これは施主さんに聞いてみないかん。予算の中でどうやるかは施主さんと相談しろ。出来るだけ現場を見て、それに奥さんを交えて話し合うのが重要や」と答えると、アシュラフはにこっと笑い、「了解」と答えた。現場をぐるっと一回りして仕事が申し分なく進んでいることを確認してから多いに満足して帰った。やはり見所のある男だと京都の宮大工に送り込んだ二年間の奉公が、仕事のセンスや彼の自信に非常に役立ったとも満足した。

 

 柳川の行動には全く関心は無いが、もしかして天王寺組からの連絡は無いかと、二人が訪れない日々の盗聴も止めるわけにはゆかず、私は睡眠不足の状態で更に一週間を過ごした。アシュラフは、理由は判らないものの、私が重大事に巻き込まれていることを察したようで、私自身が担当している現場も見ようかと申し出してくれたが、それはもう少し軌道に乗ってから頼むと断った。

 再び月曜日の夜が訪れて私はテイプを再生した。その月曜日日の午後には柳川が先に現われたが、やはり、重要な動きは津島と瀬川の登場で始まった。部屋に入ってきた津島は柳川の机の前に立つと挨拶もなく冷ややかに尋ねた。窓ガラス越しの映像でも凄味を感じさせる冷やかさである。

「おい社長。噂によるとお前は、駅の向こうの丘の大規模開発を目論んでいるらしいな」

 向こうむきに座る柳川は居心地悪そうに体を動かせて、

「はあ・・、近々、相談に乗って貰おうと思ってたんですが、誰から聞きました?」と普段の脅しが効いているのかしどろみどろに答えたが、丘についての柳川の企みが天王寺組とは無関係であったことには、私の動揺が遥かに大きかった。これが芝居ではないかとの疑惑も沸起こったが、そんな筈はないと私はその疑惑を打ち消した。「別に相談には乗る気はないが、忠告はしてやれるがなあ」とかなりの皮肉で、誰から聞いたかについての質問を無視している。瀬川は既に応接椅子に座り込んで、いつものように事務所の帳簿を我関せずと調べている。

「いや、まあそう言わないで相談に乗って下さいよ」と、僅かながらも余裕が出てきた柳川が答えた。金を餌にすれば津島も軟化するであろうと考えているのだ。人は皆、己れの思考パターンでしか人を判断できない。果たして、津島の思考パターーンはどうであろうかと私は楽しみにさえなってしまった。

「そうか。じゃあ状況だけでもはっきりさせとくとして」

「はあ・・と言いますと?」

「お前の二号のやっとる河内屋で星川建設の社員に会わせたり、それに市役所の奴等に紹介したんは、俺等を巻込むための伏線か?」「伏線とかの大仰なものでは無いですが、いずれはと思っていまして・・」

「阿呆、それが伏線やないか。まあええわ。忠告するとすればやなあ。はっきり言うとやなあ、やめとき、やめとき。あの丘の開発なんて大きな仕事は俺等裏稼業の人間には荷が重い。そもそも、金儲けのどんな手立てがあると言うんや?」

「それは・・先ず土地の一部でも手にいれて転売するとか、星川の代理で動けば仲介料も貰えますがな」

「成程、それはまともな商売やなあ。但しお前が市会議員でさえなければな・・・まあええわ、それはお前の問題やからなあ。そこでやなあ、俺達がどう動けばええんや?」

「まあ・・今のところは特には・・」

「反対運動でも起こってるんか?」と、津島は相変わらず凄味のある顔で睨み付けている。

「いえ、こちらも連中には判らないように動いていますから」

「連中?誰のことを言うとんのや?」

「ああ、いえ・・そんなにはっきりとしたものでは無いのですが。それに大人しい連中ですから、津島さんや瀬川さんに出てもらう場も無いとは思ってるんですが」

「講釈はええから、どんな連中か言うてみい」

「ええ、そのう・・丘の向こうに大きな岩がありまして・・その岩を信仰している一族のことですが、連中の実態は良く判らんのですが、まあ大体において大人しい連中で・・岩を崩すことになっても、口では反対するでしょうが過激な反対運動になるとは思えないのですが・・」

 津島は暫らく柳川の表情を探るように沈黙を続けて、

「問題が無いにしては憂欝な顔付やなあ」

「いや・・ただ少々不気味な連中で・・」

「ほう、俺等よりも不気味なんか?」

「まあ・・あっ、いや、そんな・・いえ、すみません。そう言うわけではないんで」

「あはははは、おい瀬川よ、俺等よりも不気味な連中がおるんやて、どんな連中か是非顔をみないかんなあ」と津島は腹の底からの笑い声を上げて瀬川を振返った。話の進み具合がまずいなあと私は考えたが、案の状、柳川は余計な事を思い出して、

「えー・・・そう言えば御二人共、連中の一人に会っていると思いますが」

「なにー!」と津島は目を剥いて怒鳴り、瀬川も背筋を伸ばして振返った。私もまた背筋を伸ばして目と耳を、それに頭の細胞を機能一杯に使うことにした。

「その・・」と津島の机の上のパソコンを指差して、

「津島さんが頼んだ羽曳野電設の和田は一族なんですよ。それにあいつの従兄は工務店を経営してるんですが、噂では一族を束ねてるとも聞いています」

「なんやとー!」と津島が叫び、柳川だけでは無くて私までもが思わず首を竦めてしまった。話の成行から予想できた進展ではあるが、それにしても、これ以上は無い最低の状況である。しかもこの会話が既に十時間以上前の出来事であることを思い起して、私はいよいよ焦ってしまった。

「津島さん、そんなに驚くことは無いですよ。この辺りには一族がごろごろ居まして、一族との商売は当たり前のことですから」

 津島はパソコンを睨みながらじっと考えていて、まるで何か恐ろしい物がパソコンの中に存在するかのように見詰めている。それから、柳川に横顔を向けたまま呟くように、

「その、従兄ちゅうのは、どんな男や」と、ほぼ答えは得ているかのように尋ねた。

「どんなと言われても・・まあ、ここに来た和田と顔付や体格がそっくりな男ですよ」

 津島はゆっくりと柳川の方に目を向けた。

 パソコンを置く場所の確認と鍵の受取りに義春は柳川と会っているし、仕事の後では集金のために津島や瀬川とも会っている。となれば電柱の下で話を交わした私のことを義春の従兄と気付くのはごく当然のことである。

 机に両手をおいたまま暫らくじっとしてから津島は「なるほど」と短く答え、体を伸ばして窓の外に視線を移した。視線は電柱上の望遠ビデオ辺りに向いていて、画像上の津島が、ほぼ私を真正面で睨み付けることになった。

 津島は机の上に置いたアタッシュケースを開けて、中から黒いケースのようなものを取出した。ケースを開けて中から取り出したものを両手で持ちサングラスの上から目に押し当てた。彼の手にするのは小型の双眼鏡であった。ビデオカメラの周辺にさ迷わせていた視線が最後には見事に私の真正面に決まってしまった。電柱のキャップに開いた穴に気付いたことはほぼ確実と思えた。

「なるほどなあ。瀬川よ、俺達が道で会った男がそいつらしいなあ」と、津島は冷静さを取戻した声で言い双眼鏡を構えたまま、

「おい柳川、俺はその件に手を出す気は無いからどうでも好きなようにやれ。但し俺達を巻込まないとの条件や。借金は返してもらわないかんから、お前の商売に支障が無いかどうかだけはチェックさせてもらう。瀬川、それでどうや?」と後に声を掛けると、津島の伸ばした体の後から「ああ」と短い返事がした。双眼鏡をゆっくり眼から離した津島はにやっと笑い、肉眼で確かめるかのようにビデオカメラの方向を見詰めながら、

「それからなあ柳川。その件では最後の忠告やが、あいつが相手ならお前に勝ち目はないなあ」

「津島さん、それは連中を買い被り過ぎですよ」と柳川が陽気に答えた。

「まあええ、俺達にはどうでもええことで、さあ、帳簿調べを早いとこ片付けよ」と、津島は体を返して瀬川の方に向かった。

 それからの映像はいつものような柳川のずぼらな行動と金使いを叱責するものばかりで丘の開発について触れることは無かった。半日前の映像を前に、私だけがそのことを深刻に考え続ける馬鹿気た状態が続き、熟慮の結論は極めて単純であった。

 丘の開発に、さも津島と瀬川が関係しているかのように見せ掛けたのは柳川の策謀で、見事に引っ掛かった私が過剰反応を示しただけのことである。その考えを方々から眺め、その結論に間違いが無いことを確認してから私は寝床にと向かった。

 翌朝七時には電話をして、事情を説明してから出来るだけ早くカメラを取り除くべきだと付け加ると、午前中には外してしまおうと義春は答えた。

 義春と柳川事務所の前で落合ったのは十時で、それから直ぐに高所作業車を使い、電柱のキャップの中からカメラを取出しキャップの穴には盲板を取付けた。電話のターミナルの余計な線を取り除き、誰にも判らないようにと処理するには一時間以上掛かった。

 ハーフトラックに工具を積込み後片付けをしている私の横に、静かに近付いた車が止まり、私の心臓は縮み上がった。ウインドウが下がり、恐れていた通りに津島が顔を出し、その向こうにはハンドルを握る瀬川がにやにやと笑っていた。

「おい、どうした。かなり驚いているらしいなあ」

「いえ・・突然なもので」と応える私には、いつも二人に脅かされている柳川の気持ちが理解できた。しかし、誰よりも合法的であろうとする彼等が暴力を振るう筈は無く、しかもこちらの仕事はほぼ片付いている。何も恐れることはないと思い直し、にっこりと笑い「先日は、パソコンのお買い上げ有難う御座いました」と頭を下げた。

「相変わらず立ち直りが早いなあ」と津島が驚きを隠すことも無く言い、運転席の瀬川が「あっはははは」と声を上げて笑った。

「ところで、あのパソコンは少々調子が悪いが見てくれるか?」

「ええっと・・了解しました。余分な配線が繋がっていたようですので、もう完全に接続を断ちました。ただ通信用差し込みソケットが少々特殊になっているだけですから、標準のと取替えることにします。電柱に登っている社長が明日にでも取替えに伺うと言ってますが・・」と義春を指差した。

「そうか、それでええわ。ところで柳川の件で俺達が巻込まれる恐れは無いかなあ?」

「津島さんと瀬川さんの仕事は立派なビジネスで、俺達の仕事との違いは単にハイリスク、ハイリターンな点だけだと理解しています。ですから、その恐れは全くありません。正直言って、俺は御二人をむしろ尊敬しています」と心からの事実を伝えた。

「あっはははは、おい瀬川聞いたか、この男は俺達を尊敬しているって!」と津島は大声で笑い、瀬川さえもが大きく口を開けて笑いだした。

 瀬川の笑い顔を見て、彼の顔に再び現われた、私にとっては懐かしく感じられるものの正体が理解出来た。それは丘の連中や一族の多くに見られる輝きで、まっとうに生きているとの自信を示す輝きで、恐らく津島がそのサングラスを外せば彼の顔にも現われているに違いない。ハイリスクな仕事の武器としている恐怖の表情を維持するために、瀬川は渋面で、津島はサングラスを使ってその輝きを隠しているのだ。

「とにかく、俺達の仕事では信頼されることが第一ですから、まっとうな御客さんに迷惑を掛けることは有りません」

「いよいよお前が気に入った。柳川が何か迷惑を掛けたら言ってこい。俺達のやり方はなあ・・この稼業の中では特殊な方やから他の連中には充分に注意した方がええ。もし俺達以外の極道がのさばってくるような事があれば連絡してくれ。俺達も力になってやる。まあ、せやけど柳川なんてお前の相手やないやろなあ。じゃあ、また会うたら状況を教えてくれよ」と言うと、にっこりと笑ってからウインドウを閉じた。車をゆっくりと走らせ、少し行った角で停まり、そこで若い男が家陰から飛び出してきて車に乗り込んだ。車はそのまま走りだしすぐに家の陰に消えてしまった。

 その若い男が私達の様子を監視していたに違いない。月曜毎に柳川の事務所を訪れて情報を仕入れるだけではなくて、二人は彼等独自の情報網も作り上げているのであろう。それはハイリスクなビジネスを扱うには当然の措置と理解できた。

 それにしても二人の対応の速さは私の予想を超えるものであったのだ。

 

 日曜の夜に緊急長老会を開催することにしたが、思いの外に仕事が長引き、予定よりも十分程度遅れて事務所に着いた時には、集まっていた連中はさっさとコーヒーやら紅茶を用意して女房差し入れの菓子を食べながら楽しそうに歓談していた。度々会合に使っているものだから、私よりもコンテナ事務所の使い勝手を心得てしまったようだ。

 顔を出してすぐに柳川事務所での出来事を説明し始めたが、まるで私一人だけで騒いでいたかのような事の成行と、何ともあっけない結末を迎えた経過を説明する私の声は、我が声ながらも弱々しく元気が無くかった。事態は明らかに我々に有利に展開しているのだが、私の苦労は全て取越苦労で、しかも何故無駄になったかと言えば、相手とした津島と瀬川が暴力団としては予想もできないような連中であり、そんな希有な相手とぶつかったことが不幸・・いや幸運であっただけに過ぎない。

「と言うことで、俺と義春の方の活動は頓挫と言うか・・成功と言うか・・とにかく、先週の火曜日で終了してしまった」と最後の言葉を吐き捨てるように言うと、

「全然喜んでないみたいやね」と杏子は吹き出しそうな顔付で尋ねた。彼女の質問は無視して、

「土井にも世話になったが本当にすまんと思っている。それから、杏子は、これで宗一爺さんの下宿からは引き払って良いので、ええ・・宗一爺さんの方には俺の方から事情説明をしておく。ほんまに世話になった」と頭を下げた。

「いえ、私としては非常に居心地がいいから、暫らく考えさせて貰います」と、どうやら杏子は居座る積もりらしい。どうせ六ヵ月分の家賃は私の金で先払いしているから暫らくは良いのだが、それから先をどうしょうか、と考えた途端に、

「勿論、家賃の方は私が払うことになります。でも、先払いした家賃はええでしょ?」ときた。一族から離れ長い海外生活をしていたとしても、やはり要所要所での思考パターンとその速度は一族そのものだと私は考えた。

「まあ、杏子のやりたいように遣ればええが、実家の方への説明はどうするんや?」

「その質問は、下宿するようにと言ってきた時に聞きたかったなあ」と、私の胸にぐさっと突き刺さる一言で、これは女も年頃を過ぎたことの証拠であり、女房との長い経験からそのような攻撃は黙って無視するのが最良の手立てと私は理解している。

 そこで、私は話題を変えることにした。

「ええー、とにかく、そんな事で我々の作戦は、私と義春の分担を除いては、先の打ち合せ通りとして、そっちの方は期待以上の成果を上げている。何か特に必要なことがあれば俺は手助けが出来る立場になった」と、私は杏子、康夫、義春、和泉、土井、の順にぐるっと見回したが、どちらかと言えば、明るく陽気さを取戻したメンバーの中で、土井正司だけが暗く陰欝な顔付で下を向いている。その表情は気分屋に有りがちな欝状態とはまた違って見えた。エレクトロニクスについての彼の苦労そのものは見事な成果を上げていることからして、何かが有るに違いないと私は察した。

「どうした正司、何か心配でもあるんか?」

 土井は言うべきかどうかを考えるような表情を示したが、歯切れの悪い口調で、

「ああ、・・ちょっと皆に説明しておきたいことが有るんや」と、かなり深刻な表情である。

「よし、じゃあ他に議題が無ければ・・・」と見回すと、それぞれが頷き返したので、

「じゃあ、後は土井、お前の方から話しを進めてくれ」

 私の言葉に土井は立ち上がり、手元のファイルから取り出した紙をテーブルの上に配った。

 紙を取り上げる音がガサゴソと暫らく続き、それからゆっくりと土井は口を開いた。

「実は、安原から聞いた岩鳴りについて、俺は非常に興味があって、先月から霞ビジネスホテルのすぐ裏側に音響測定器を取付けた。昨日までの測定結果を、配った紙に書いてある」と、土井の口調は相変わらず重々しい。再び紙をいじり回す音が続いてから、

「岩が鳴る正確な原因は判らんが、その音の周波数は非常に高音域で生じていて、殆どが我々人間の可聴域には無いことが判ったのや。せやから、我々に聞こえる時がむしろ稀で、通常は聞こえない音域で音が発生している。その現象は・・」と紙を見て、

「このグラフを見れば一目瞭然で、岩鳴りの強度、頻度共に指数カーブで増大していて・・・・測定を開始した頃には、日に数度やったのが、今では一時間に数回は起こっている。頻度と強度はほぼ比例して増加し続けている。・・近頃では・・恐らくこの周辺は非常にエネルギィの強い高周波数で溢れかえっていると表現出来る。最近、犬の遠吠えが夜中じゅう続いているのは、犬が高周波音を知覚出来るからやと思われる」

と、そこで紙から顔を上げ、

「グラフのカーブを延長すれば、今年の末、若しくは来年の始めには、その頻度は無限大になる・・と予測出来る」と言葉を切り天井を向いたまま沈黙した。極めて芝居がかったスピーチに思え、

「おい、能書きはええから、どういうことになるか説明してくれよ」と声を掛けた。

 土井は照れたような顔付になり、

「それがやなあ・・どうなるかが判らんから、どう説明の仕様もないのや」と、頭を抱えて座り込んだものだから、聞いていたメンバーは呆れてしまった。常々科学的なことに関しては知らぬことは無いと豪語する土井が“判らない”と発言することはこれ以上ない屈辱で、それがために陰欝な表情を続けていたのだ。

 暫らくは全員が沈黙していたが、突然、楠木康夫がのんびりとした声で、

「このカーブはゾウリムシの増殖に似ているなあ・・」と呟いた。「・・・・?」と、悲壮な心境を全く顧慮しない康夫の言葉に土井は一瞬言葉を失ったが、直ぐに怒りが頭に沸上がり、

「何を言うとるんじゃ、お前は」

「いやなあ、ゾウリムシを壜に入れて置くと、指数関数的に増えてゆくのや。単細胞生物やから細胞増殖で増えてなあ、一匹が二匹、二匹が四匹、四匹が八匹、八匹が十六匹と、十六匹が三十二匹・・」と、康夫は、マイペースである。苛立った土井は康夫の勘定を中断させるべく、

「判った、判った、それで、どうなるんや!」

 康夫はゆっくりと全員の顔を見回してから、にんまりと笑い、

「それがやなあ、容器の中がゾウリムシだらけになると、突然に全滅してしまう。絶滅の理由は今のところは定説が無いがなあ」と言ったその言葉で、土井の示した岩鳴りの強度、頻度曲線がなんとも恐ろしい結果を示唆してように思えて、康夫を除く全員が背筋を震わせた。暫らくして、今度は義春がやはりのんびりと、

「俺が工業高校の頃に、熱力学の先生が日本のエネルギィ需要のカーブを書かせたことがある。もの凄いカーブでなあ、その結果を今でも覚えてるわ」と、そこで義春は言葉を切ったが、

「・・・・・」とやはり不吉な予感がして全員が無言である。仕方なく義春は、

「要するに、その頃は年率十%で需要が増加していたから、そのカーブを書いてゆくと、千九百九十年代には、需要が無限大になるとなったんや。俺は千九百九十年代に何が起こるかと楽しみにしてたんやが」

 土井は直ぐに義春の言葉の意味を悟り、

「その結果が、あのバブルやと言うのやな。康夫と義春によれば、つまり、破滅か停滞かのいずれかが起こる・・・」と呟いてから、「岩の地下電位の変化が無限大になる場合の結果は・・破滅や、それ以外には考えつかんなあ」とそこまで、天井に呟いた土井は、やにわに視線を私に向けて、

「おい、賢一!大地震を予想すべきや。これが結論やで!これは科学的には緻密かつ正確であろうとする俺の結論ではなくて、康夫と義春の意見やが」

「おい、おい、そんな結論、勝手に出してええんか?」と私が反論すると、土井は暫らく考えてから、ゆっくりとした口調で、

「科学的な測定の結果が何事かを示していてやなあ・・俺にはそれが正確には説明出来んのやが、康夫と義春の知識から類推すると、それが“地震の兆候ではないか”となって、それ以外には今のところ妥当な説明が無い。正確な表現を望むならこうなる」と、土井は言葉を選んではいるものの、ほぼその結論を肯定しているのだ。

『あーあ』と私は声には出さず、心で嘆息しながら頭を抱えてテーブルに肘をついた。地震が来るとした場合に準備すべきことが、どんなに大掛りなことになるかが瞬時に頭に浮かび、そのことだけでもう疲れ果ててしまったのだ。しかも地震の起こる可能性は天王寺組が丘の開発に関わっている可能性よりは更に少なく思え、天王寺組に費やした労力以上に大掛りな準備作業と、それが徒労に終わった時のことを考えると耐えられそうもない、と私は考えたのだ。

 しかし、観察会やら図鑑作りが巧く行っていて元気一杯の連中は、天王寺組の件で気落ちする私には御構いなく話しを進める姿勢である。先ずは和泉が口火を切った。

「大地震が関西を襲うとした場合には、三陸遥か沖地震や奥尻島の例からすると、その悲惨さは比較にならんほど大きいと思える。それを前提として行動すべきだが、この程度の証拠では市役所を動かすことはできんなあ」

「そう・・無理やろねえ。とすれば、この長老会が行動する以外にはないねえ」と杏子は元気そのものである。これはいかんと私は、気落ちしている心のテンションを無理遣り引上げて反論することにした。

「まてまて、先ずはこの件が本当に対応すべきことか、例え地震が来るとしても、俺達一族や長老会で対処すべきかを論議すべきや」「そうやろか、一族をここに呼び戻したのは賢一さん、いえ長老じゃあないの? それが“長老の教え”の指示だとしても、その理由が地震だとなれば、地震対策をする責任が生じるのや無いの?」

と、杏子は私の痛い所を見事に突いてくる。

「それはその通りや。せやけど良く考えてみろ。“長老の教え”の指示は“岩が煌めく時には一族を集めよ”や。これはなあ、何事かが起こっても岩の傍にいる限りは危険を逃れることが出来る、と解釈すべきや。つまり、仮にその危険が地震であるとしても、この周辺に住んでいる限りは心配無いということで、それ以上の指示はなされてない」

と私の必死の答弁を、杏子は憐れむような顔付きで聞き、

「まあ!そうやろか?ほんまにそれでええの?賢一さんは一族以外の人はどうなってもええ言うの」と、私のことをまるで人殺しのような眼で見詰めた。

「まあ、まて杏子!それは言い過ぎや。賢一さんは一族か否かに関係なく公平に扱う人やし、その事は長老役をどんな姿勢で努めてきたかを見ている俺達が一番知っている」と、康夫が見兼ねて口を挟み、一応は杏子をたしなめる姿勢を示したものの、視線を私に返し、「ただなあ賢一さん。この件はやっぱり杏子の言うように長老が前向きに進めるべきやと俺は思うけど・・」

 そこで私は「あーあ!」と呻き、それから「みんな、地震対策がどんなに大ごとなことかが判っているのか」と、全員を見回した。 考え込むように暫し沈黙が続いてから、杏子が口を開いた。

「賢一さん。御免なさい。貴方の長老としてのありかたを非難してしているのでは無くて、私は・・長老会のこれからの有り方について提案したいの」と杏子は言うなり、椅子から立ち上がりゆっくりと息を吸ってから話し始めた。

「宗一さんの所に下宿して改めて感じたけど、老夫婦の生活態度は一族の特徴を見事に示していて、それはもう着実で、世間一般に比較すると安定した不安の少ない家庭を作ってるわ。でも、夫婦共に外の世界には無関心ではなくて、何か役立てることはないかと考えているようで、私が図鑑作りをやっていると、積極的に手助けをしてくれているの。恐らく一族の中には宗一さん夫婦と同様な意識を持っている人が大勢居るに違いないと思うの。そんなパワーを有効に発揮させることが、これからの長老会の方向とすべきじゃないかと考えるのだけど」と、まことに正論であり論理そのものには反論の余地はない。

「杏子、お前の言うことは極めて尤もやと思う。しかし、例えば地震対策のことを例として何をなすべきかを考えてみよう。ちょっと考えるだけでも・・・」と私は手を前にして指折りをして示した。「地震で危険な家屋はどれだけ有るか。危険な家屋をどう補強するかも検討する必要がある。それでも崩壊が生じた時のために、各家庭の家族構成とか幼老者を把握することが必要や。火災が起こった時のことを考えて退避ルートの選定も必要になる。避難者のための食料、水の確保、薬品の確保、病院、トイレ、住宅の確保、そんな生活に関する対策だけでも限りが無い。医者は?、医療組織は?、救助者は?、救助組織は?、その連絡方法は?、組織はと、人と物と運営組織論にまで話しは広がってゆく。仮に方策が決まったとしてもそれを実行するに足るだけの資金をどう確保するか。それらの全てを長老会でやれると思うのか?」

 そこで和泉が手を上げた。

「賢一さん。資金の件については市の方もかなりを負担できると思う。奥尻島の津波火災の時にはうちの市でも二千万は支出している。こんな被災地援助を単に金でやるのでは無くて、人、物で有効に出来る組織があれば、より効果的な援助になると思うがなあ」

 義春が手を上げて、

「人手については、一族だけでもかなり集まると思うが、消防署、市役所、警察、それに、そうや自衛隊はほんまに役に立つで。連中を仲間にすればこれは万全や。このコンテナに少し手を加えるだけで司令本部や前線指揮所、にはうってつけやしなあ」

 康夫が手を上げ「俺は学生を組織出来る。医者の仲間も大勢知っている。医療組織は任せてくれ」と言い、土井が「俺も学生を組織出来るし、連中に無線連絡組織を作らせる。もっと他にかなりな事が出来ると思うが」と言葉を継いだ。今度のことで自信満々の連中の意気を、どう留めれば良いのだろうか。

 私は腕を組んでじっとメンバーを見回した。

「まだ丘の件は終わっていない。当分は手いっぱいの状況が続く中で、地震のことに手を出すには大変な努力がいる。それに、例え丘の件が終わったとしても地震の事に一歩でも踏みだすことで、地震だけやなしに、遣るべきことはどんどんと広がるに違いない。それでも遣れると思うのか」と厳しく尋ねた。

「遣れるだけは遣りたいなあ」と義春が言い全員が頷いたので私は言葉を失ってしまった。私の言葉を待つ全員の注視を受けながら、暫らく考え私は最後のあがきを口にした。

「俺達が組織を作ったとして活躍出来るのは、たかだか十年や。次の世代が引き継いでくれるやろか?」と重々しく尋ねると、漸くは全員が考える様子であったが、それも束の間のことで、

「インターネット、携帯電話、ISDN・・と、今は誰でもが情報を共有出来る時代や。インターネットで徴兵すれば、意気を同じくする連中はどんどんと集まってくるやろ」と土井が言い、杏子がぱっと表情を明るくして呟いた。

「そう、それにあの岩が、あの霞岩が、信頼に足る人々を集めているような気がするんだけど・・後を継ぐ人々は次々と現われると、私は思う・・」

 その杏子の一言が私の心に衝撃を与えた。安原を、赤木老人を、木津青年と土井砂恵子、それに彼等と共に活動する仲間達、霞ホテルに集まったアシュラフ、エリサのような気持ちの良い連中、それに、津島や瀬川達でさえ、大岩が呼寄せたのかもしれない。そのことは・・私もまた肌で感じたことがあったが忙しさに紛れて忘れていたのだ。

「賢一さんが以前に言っていたように、これからの社会は自分たちで自分を守る時代になってきたのよ。その足掛かりを作って、続く世代に渡してゆくことが私たちの務めのような気がするのだけど・・」と言う杏子の眼が輝いている。

 私は腕組をして考えた。丘の存続のことで長老会のメンバーと丘に関係する連中に火をつけたことが思いもよらぬ結果になってしまった。それに、私の役割は結果としては華々しいものでは無かったものの、心には常に今までに無い緊張を感じ続けたことを思い出した。しかも私はいずれこの狭い一族の社会から新しい世界に冒険を求めて飛び出す積もりでいたのだが・・・今ここに居る連中も同じように考えているのだと気付いた。

 なるほど、こんな風に飛び出す方法もあるのだと私は面白くなってしまった。仲間と一緒なら、しかも、これ以上には期待出来ない程に信頼できる仲間と一緒なら、例え失敗したとしても、それもまた大いに笑いあえるだろう、と私は決断した。その忙しさと緊張を考えれば、当分の間は私の心が欝状態になる暇も無かろうと考えて、私は更に愉快になってしまった。

 常には鳴くことを知らぬ隣家の犬が突然喚き始め、鳴声は徐々に高く長く遠吠えとなってゆき、それは次々と伝達され、遥か彼方の犬までが唱和していった。何とも不気味に続く遠吠えから、周囲の大気中に岩の鳴動が満ち満ちていることを感じ、我々は恐怖に歪んだ顔を見合わせた。耳には聞こえぬその鳴動が、取るに足らない人々が手を携え助け合い歩む時代の到来を暗示しているかのように、私には思えた。

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