谷川の淀みのすぐ傍で岩に凭れて眼を閉じていた。終えたばかりの食事は胃の中に暖かく納まりささやかな幸せを体の隅々へと送り続けている。頭上には光を求め奪い合う木々が枝葉を巡らし、照り盛る陽光は重なる青葉に遮られ散乱光となり、周囲の全てを緑色に染めている。心身共に申し分なく緩み最も満足感に耽ることの出来るひとときである。
木々の触れ合い戯れる音が風と共に山裾から尾根へと駆け登り、まるで雑踏を走り抜ける話し声とも聴取れた。声は『彼は・・休んでいる・・休んでいる・・休んでいる』と走り去った。山に入るたびの幻聴はこの北山川でも続いている。
僕のフィールドは大峰山系だが、夏と秋のはざまに少々足を南に延ばし熊野山系への足掛かりにしようと考えた。熊野山系そのものに入ってもよかったのだが、地図を見ただけでも広大なさまに圧倒されてしまい、そこまでの決心には至らなかった。なにしろ、熊野に較べれば遥かに狭い大峰の山々でもここ五年間に踏破したのはその片隅でしかなく、ここで熊野に手を出せば収拾がつかなくなると怯えてしまったのだ。それに、大峰の秋までには僅かの余裕しかなく、それまでには平地に一旦戻り十分に段取りしてから出発しなければならない。
その辺りを考慮に入れてから、東熊野街道と北山川に挟まれた東西十キロ南北五キロ程の狭いごく当たり前の低い山の連なりを選んだ。
吉野からバスで三時間をかけ浦向で降りて、南に低く続く緩やかな山並みを見上げた時には、予想通りとは言え、やはりがっかりした。
視野の端から端までの山並みは杉に覆われ、人の手入れが全てに行き渡っているように思えた。しかし、浦向の集落を抜け小川を越え森に一歩足を踏み入れたときには、見掛けとは大きく食い違う様に僕は元気を取戻した。集落の家々は荒れて人影を見掛けることもなかったが、さらに以前から人手は山から離れていた。
自然の侵食が山中の全てに行き渡り、下草は茂るに任され、あらゆる種類の陰樹が枝を広げ陽を求めて伸びつつあった。杉の防壁の外側からは、成長の早い落葉樹がなだれ込み、既にその幹や枝が大空高く突き上がっていた。
人手の薄れた森は明らかに遷移期にあり、森の内側からは長い時を堪え忍び今漸く息を取り戻した野性の草木が勢力を拡げ、外側からは、大峰山系の木々がその領域を侵すべく競い合っているのだ。しかも、北斜面での激しい気象の変化のせいか、彼等は大峰の同族とは微妙な変化を示している。そのため、三つの沢の間を調べるだけで四日もかかってしまった。
昨日、四つ目の沢の中腹でこの五十メータ四方の窪地を見付けた。山側の低い滝から僅かだが途切れることのない水が流れ込み、澄んだ水が浅く岩肌をさらして広がっている。所々に盛上がる湿地にはハンノキが茂り、池の周囲には桂が疎らな林を造っている。桂とハンノキの林は濃密な杉の壁に囲まれてひっそりと息づいていて、薄暗いばかりの山中で、ここだけは薄い葉を透過する緑青色の光がぼんやりと周囲を照らし、穏やかに通り過ぎる水と風の音が微かにこだましている。人の眼に触れることのない美の創造がここでもなされている。岩が多いためか、それとも余りの美しさを損なうことを恐れたのか、杉山造りに携わった勤勉な植林者達も手をつけた形跡は全くなかった。
幻想的な湿地が気に入り、昨日からは畔に枝を延ばす桂をベースにして山の中を歩き回っている。
食後の充実感を充分に満喫してから、眼を開け川の下手に開く彼方を眺めた。名も無い緑の山並みの上に、一段高くそそり立つ釈迦ガ岳と後衛の連山が、深みを増した空を背景に常に無く寂しげな容貌をしている。その姿に心臓が強く反応して鼓動を強め、体中に力が漲り始めた。大峰の山々の秋は明らかに深まりつつある。
コーヒを飲もうと手を延ばしたときに、吹き上げる風の合間を縫い一筋の流れが桂の匂いを運んで山裾へと吹き降りた。思わず風を胸一杯に吸い込んでから頭を傾けた。澄み切った大気の中に微細な異臭を感じたのだが、一瞬の間に流れは変わり、そこには草いきれと桂の匂いだけが残されていた。いつもの幻覚に違いないと心に言聞かせ目を閉じた。
植物採集には強靱な体力と磨ぎ澄ました感覚が必要で、この仕事を始めてからは特に視覚と嗅覚を高めようと意識的に努力してきた。ところが、人との会話を失った耳は僅かな音をも聞取ろうとし始めて、聴覚さえもが鋭くなってしまった。
遠くの小鳥の囀りは勿論のこと、木々や草花の風に揺れる微かな音すら逃さずに捉えるようになり、いつの間にか、山を歩きながら木や草と話している自分に気付いた。と同時に頭の一部分に、慣れ親しんできた知覚組織とは全く異質なものの存在を感じた。
着実に成長し続ける新しい感覚と幻聴には恐れを感じていて、違う山では気分が変わるかもしれないとの期待がこの山行にはあった。
希望通りに最初の間は幻聴は治まりほっとした。しかし、それも素晴らしい色艶のカゴノ木を見付けるまでであった。鮮やかな色合と、くっきりとした鹿の子模様に惚れ込んで、挿し木にと枝を鋏で切ろうとした時に、『痛い、痛い』と身をよじる木の声が聞こえ、咄嗟に、『すまん、すまん、他の場所で育ててやるからなあ』と囁いてしまった。
カゴノ木は体の震えを止め、上の方で葉を擦らせて『彼は・・他の場所に植えるって・・・』と呟き、声は風と共に森中を走り抜けた。
それからは以前よりも激しい幻聴に襲われた。通りすがりの木々や草は『私も・・僕も・・』と催促するように枝を揺らしささやき掛けた。僕は必死になって僕の好みを説明した。
二日目には僕の好みを完全に覚えたようで、幻聴は大峰での経験と同じように穏やかなものになった。木や草の陰から微かな音が聞こえ、そっと覗くと、上品なエビネの花弁とか、卵形の葉を振る寒葵が姿を見せていた。好ましい木々は枝を揺すって注意を惹いた。 幻聴が治らぬことで少々がっかりしたものの別に害もないと諦めた。むしろ、大峰と同じに採集は順調で、何気なく歩いているだけで珍しい草木が見つかる。だから、幻聴は直感、経験、嗅覚と、その時々の風とが織りなすだけのもので、五感が鋭くなった証拠だと思い直した。それに、強さを増している新しい感覚も、古い組織とは充分に折り合いをつけているようで、日々違和感は薄れつつある。
しかし、ここでの幻聴には少し気になることがある。木々が僕以外の、しかも人間のことを囁いていると聞こえることがしばしばなのだ。頭上をかすった風が山頂へと流れる間に、木の葉の揺れる様が変わり、話題が突然に変化することがしばしばである。その度に耳を澄ます己れに気付き幻覚だと言聞かせるものの、この山で現われた新しい幻聴には少々恐れを感じていて、なんとか原因を捉まえたいと考えている。
だから一度は押し殺したものの、どうしてもその微細な匂いが気になり、心を再び開いて僅かに残された匂いの記憶を追いかけた。しかしその正体よりも先に、極く最近にその匂いに接したとの記憶の端に心の指が触れた。目を彼方の山に向けたまま記憶の全体像を掴もうと指を這わせたが、引き出しにきっちりと整理している記憶とは違い、身をくねらせ指の間を潜り抜けようとするあやふやな記憶を、幾度も幾度もたぐりよせて漸く、ぐっと感じる本体に指が掛かった。
吉野でバスの乗車券を買ったときにこの匂いに接したのだ。後には、たしか、登山服姿の若い女性が居て、彼女の香水が記憶に残っているのだ。若さのわりに地味な登山姿で、サングラスと色白な肌とのコントラストが曖昧な残像として現われたが、いくら考えてもぼやけた映像は一向に明確なものにはならず、彼女の香りだけがその記憶から抜け出し、林を走り抜けた香りの記憶と一致した。と同時に、梔子の香りだと気付いた。この季節に咲く梔子があるのだろうかと一瞬考えたが、自然の香りにしては余りにも鋭角的な匂いの記憶に、すぐに、もっとまともな考えが心に浮かび、僕はいよいよ緊張してしまった。
山頂側に梔子の香水をつける誰かが居て監視し続けているのだ。しかも、風下を占めているということは意図的な行動の証だ。ここ数日の間、木の葉の囁き以外に人の気配は全く感じ取れず、監視する人物は、それほど慎重に巧妙に動いているのだ。
焦りや苛立たしさとは永らく無縁の生活をしているから、監視の理由とか、監視する相手についての疑問が頭の中を交錯してパニック状態になってしまった。しかし、それも束の間のことであった。この地域の殆どが既に僕のフイールドとなっていることに気付いてからは、体の力が自然と抜けて思考は落ち着きを取り戻した。
監視しているのは、吉野で見掛けた若い女が単独でか、それとも、彼女を仲間とするグループかのいずれかに違いないと確信した。それほど彼女から匂った香りには特色があったのだ。しかし監視の理由については欠けらほどにも思い当ることが無い。暫らくは考えたものの推測することは諦め、より核心に迫る手段を取ることにした。
いつもより早めに午後の調査を終えて桂の木に戻り、早めの夕食と片付けを終えてからすぐに寝袋に潜り込んだ。寝袋に寝そべりフイールド記録をつけるのが習慣だが、その日だけは書く気にはなれなかった。
眼を閉じるとすぐに体が大地に包み込まれる感触が訪れ、薄れつつある意識の底で新しい感覚が大地と繋がり大地の触手を通じて周囲を探るのを感じた。滝の少し上の辺りでの微かな動きを感じたが意識は遠退き、そのまま眠りに落ち込んだ。
夜中の一時過ぎに眼を覚ました。薄青く広がる木の枝をじっと見詰めたまま横たわっていたが、満月がハンノキに隠れた一瞬を捉えて寝袋を抜け出し、代わりに着替えを入れたナップザックを押し込み木陰に滑り込んだ。
茂る下草の影を伝い大きく迂回しながら這い進んで行く途中で、手頃な木の枝が転がっているのを見付け手に握り締めたものの、周囲をぐるっと見渡してから武器は必要無いと手離した。
睡眠の間に五感はいよいよ冴え渡り、周囲十メータ四方に息づく命の全てを把握できる。月光の及ばぬ闇の中を這う小さな虫の姿さえもが感じ取れるのだ。しかもここは既に調べ尽くしたフィールドである。地形も、木々の一本一本から下草の生えようまでもが頭に入っていて、危険な物に出会えば、真一文字に走り抜けるだけの自信が体に漲っている。 切り立った崖を駆けあがることも、それとも、走り下りることも思いのままで、漏れる月光さえもエネルギィとして吸収する今の僕を、まともに相手に出来る者はない筈だ。五年に及ぶ山歩きが、それだけの力を授けているのだ。
草木もまた応援するかのように道を開け、その間を音もなく駆け登った。登り切った所で動きを停め闇の中でじっとしていると、滝の上手で黒々と枝を延ばす杉が、根元に誰かが眠っていると囁いた。
ゆっくりと風下に回り込み、そこで漸く微かな寝息を感じ取った。すぐ傍まで近付き、地面に這ったままヌルデの木陰から覗き込んだ。
目指す相手はただ一人で、腰から上を寝袋の外にして眠っていた。長い髪が寝袋の上には収まり切らず周囲の地面にまで広がり、黒い長袖シャツの胸の膨らみが緩やかに息づいている。背丈だけは有るものの華奢な体形を眼前にして、やはり女であったかと呟いた。そのままゆっくりと立ち上がり下手を眺めた。
滝の落ち口の向こうに遠く寝袋が見えている。この女は僕を見張るに最高の位置を占めている。
ヌルデの枝の間から数歩先に眠る女の顔がほぼ真下に見え、予想もしなかったその美しさに驚いた。目鼻口の形と配置の余りの見事さに、一瞬、人形か彫像が置かれているのではないかと疑ったが、彫りの深い顔は確かに息づいている。磨ぎ澄まされた美しさに漏れる月光が壮絶な陰を与えるさまを、僕はただ茫然と見詰め続けた。それからはっと自分を取り戻し彼女の顔に想像のサングラスを掛けた。ぼんやりとした記憶の中の像が徐々に蘇り始めた。
吉野の切符売場で見掛けた女だと確信したのだが、何かがおかしいと気付いた。息をゆっくりと吸ってから、その奇妙さの原因を捉まえた。梔子の香りの一欠けらも、ここには存在しないのだ。少し湿った女の匂いの他には、木や草の匂いだけである。あの香りはどうしたのかとの思いが頭の中を走ったが、すぐに思考を目前のことに振り向けた。
念のためにと周囲を窺ったが、感じ取れる範囲には女以外の大型動物は存在しない。女の足元には大きなザックがあり横にはカメラとその付属品が置いてある。
突然、女が目を開き月光を映す瞳が妖しく輝いた。僕の気配を感じたのか、彼女は上体を起こし急いで周囲を見回した。と同時に、梔子の香りが激しい勢いで周囲に溢れ、その濃密な香りが頭の中を真っ赤に染めた。体内の血が激しく流れる感覚と共に強烈な快感が下半身から沸き起こり女に対する狂暴な欲望が生まれた。女に飛び掛かろうとする衝動が体を支配しかけたが、新しい感覚がその存在を急激に拡げて僕を後にと引き戻した。“その後はどうするのだ”と問う醒めた声が心の内に響き、僕は後ずさりを始め、そのまま身を翻して坂を駆け下りた。
命あるものを殺すことは論外で、脅すことも憎むこともできない。それ故に平地での生活よりはこうして森の中をうろついているのだ。それなのに、この狂気はどうしたのだ。なぜか、なぜかと心の中で叫びながら谷を駆け降り崖を走り下り、押し寄せる欲望と怒りを発散し続けた。闇の中には風を切る音と、時たま足に触れる草の擦れる音だけが、まるで風そのもののようにさざめいた。
麓まで一気に降りて小川の畔で立ちすくんだ。体中に溢れる力と生命をどう発散することもできず、素裸になり水の中に飛び込んだ。冷水が皮膚に突きささり完全なる無感覚が訪れ、心臓は激しく鼓動して熱を送ろうと足掻いた。
体が冷えるに連れて混乱した頭脳は落ち着きを取り戻した。感情の起伏を押さえようと精一杯に腕を拡げていた新しい感覚も、その拘束を緩め、徐々に意識の後方にと退いて行った。体中には信じられないほどの疲れが感じられたが、出来るだけ早くここを去らねばとの恐怖が心を占めていて、よろけながら川岸に上がり、山裾を登り始めた。荷物を纏めてこの地を離れ、すぐさま大峰山中側に潜り込み、そのまま突っ切って吉野へと戻る積もりであった。
家に帰ればやることは山ほどもある。一反の稲田と畑の手入れ、椎茸、なめこ、えのき茸のホダ木の手入れ。全ては自給自足に近い生活を維持するためには欠かせない仕事だ。 いよいよ食う物がなくなれば山での暮らしそのままに木の葉や草花を食べればよいが、ここには畑も田圃もあり、一人暮らしには十分な収穫がある。
蘭科植物の栽培は生活資金を確保するための仕事で、これも相当に忙しい。山に行っている間には自動制御装置で給水するようにはしているが、どうしても機械のやる仕事には微妙さが欠けている。だから家に居る間には、温室に入れてある二万株程の鉢を順番に手入れしなければならない。それに、迎える季節に見合う制御装置の調整と設定も今の間にしておかねばならない。
花付き始めた鉢は富田林の駅前にある花屋に置いてもらう。売り始めた当初にはなかなか売れず、どれだけの鉢が売れるかと危ぶみながら手入れをするのは侘しい仕事だった。しかし、徐々に売り上げは延び続け今では九割ちかくも捌けるようになった。それだけで年収の約半分、百万円程にはなっている。売れ残った分は持ち帰り林の中の過ごしやすい場所を彼等の住みかにとしている。いったん僕がこの世に生み出した生命だから、最後まで責任を持って世話するのが義務だと考えている。
温室の採光設備、排風機、給水機や自動制御装置を調整してから漸く人心地を得て畑の仕上げにかかった。
この平地でも既に肌を滑る風は秋の感触を伝えるが、日差しはまだまだ衰えを拒んでいる。キャベツ畑の土を掻き寄せていると遠くに聞こえる鳥の囀りが僅かに変わった。
鍬を杖に眼を細め、なだらかに下る坂道の方を眺めた。穏やかに吹き上げる風の中に微かな車のエンジン音を捉まえたものの、久しく人の手が入らぬ間に、生き生きと茂る灌木に遮られ姿は見えるはずもない。空はどこまでも澄みわたっている。
廃村に住むのは僕だけで、畑の横を通る道は、上手に百メータも登れば行止まりになっている。草だらけの道をシーボルトミミズが我が物顔に横切り、鬼やんまやぎふ蝶が悠々と往来している。丘裾の人の住む村までは、ほぼ二キロあり、そこ迄の全ての土地はここを去った人々から買い取った。だから、朽ちた葉と柔らかい土の感触を楽しませる素敵なこの道は我家の庭道になる。道はいろんな草木、昆虫や鳥達との共有物でもあり、僕にとっては唯一の、何物にも替えがたい贅沢品ともなっている。
ここを登って来るとすれば先ずは僕に用事がある人だろうかと、僅かの人々を心に思い浮かべたが今日この日に思い当る人はなく、ふと、昆虫採集かもしれぬと考えた。いずれにしても、道の途中には崖崩れが四ヶ所あり、崩れた土砂を片付けながら来るとすれば、ここまでまだ一時間以上はかかる筈である。暇を作って道の補修もしなければと考えながら土寄せの仕事に戻った。大峰の秋が僕を待っているのだ。
キャベツ、ジャガ芋、茄子、蔓なしいんげんと、冬の食料となる野菜の手入れを殆んど終わり、有り余るだろう野菜はどう始末しようかと思案に暮れながら茫然と畑を眺めた。車の音は四度中断してから急に近付いてきた。
下手には大空高く枝を広げる欅が数本立っている。今は雑草だらけになっているものの丘陵地の全てが猪垣で碁盤の目のように区切られた田畑で、彼等だけが周囲を圧してそそり立っている。畑地に影を落とす林は望ましくはないのだが、ここに住み続けた人々は誰もが手を出さず、欅達はその長い生涯の大半を人と共に暮らし続けたことになる。畑地の中の巨大な林は方々に点在する村からもはっきりと見えるので、この廃村は貧相な姿にも拘らず未だに欅村と呼ばれている。
林の陰から軽自動車が悲鳴を上げながら姿を現した。漸くたどり着いた車は屋根には蔦を引摺り車体は泥まみれのありさまである。
鍬の柄に乗せた手に顎を預けて誰が来たのかと興味深々で観察した。
運転席からはジーパンとティシャツ姿の若い女性が、助手席からは同じような姿の中年の女性がよろけるようにして降り立ち、体を延ばして一息入れている。ここには不向きな彼等の服装を見ただけで地元の人間でないことが判った。その瞬間、月光に隈どられた女の顔が心の表面に現われた。彼女かそれとも彼女に関係の有る訪問であろうかと心に緊張が走った。
あの日、僕は体を濡らしたまま桂の木に戻り荷物を纏めて山を下った。女が何者か、女の目的は何かと気になったのは、夜が明けて大峰の山筋で一休みしたときであった。白み始めた谷間の岩にもたれ僅かな後悔を覚えたが、経験したことのない体力の消耗と心に潜む狂暴な感情の思い掛けない存在に恐怖を感じ、一刻も早く北山川から離れたかったのだ。大峰を抜ける間に異常な疲労も心の緊張も穏やかになり、吉野に辿り着いた時には心身共に回復し、全てが夢の中の出来事のように思えた。
いま若い女性を迎えてあの思い出が一気に吹き出したのだが、遠くから見ても若い娘の容貌はあの女とは違っている。そもそも北山川の女は輝く陽の下には似合わないと肩の力を抜いたものの、若い女との付合いはギブアップと言うか、それとも放棄しているのが僕のライフスタイルだから、ここ暫らくの間に二人もの若い女性の追跡と訪問は偶然にしては出来すぎている。ここは慎重にやるべきだと考えた。
車から降り立った二人は崩れそうな家の有様を、茫然とした様子で観察していた。表側からでは廃屋としか見えない有様に、どこかで道を間違ったのではないかと疑心暗鬼に陥っているのだ。数少ないが、ここを訪れる人には共通の思考と行動のパターンである。
二人は、住人の存在を捜す行動に移り、ハンカチを取り出し吹き出る汗を拭いながら、ぐるっと周囲を見回した。そこで漸く、斜め後方に居る僕に気付いて体を強ばらせた。
さて、昆虫採取でない。とすれば新興宗教の勧誘かもと考えた。いずれにしても待てば良いと、まずはサングラスを掛け汗だらけのティシャツを脱いでランニング一枚の姿になり、そのままの姿勢で待ち構えることにした。
動く気配を見せない僕をじっと見詰めてから、二人は真剣に忙しく何事かを討論し始めた。それから心を決めたかのように眼を僕に据えて歩み始めた。
昨日の雨で濡れた畔道を草に足を取られ、泥だらけのスポーツシュウズをいよいよ泥だらけにして二人は傍までやってきた。
「き、木津さんでしょうか」と、緊張に息を切らせながら尋ねる若い娘の肩のあたりまでに泥がこびり着いている。途中の土砂崩れの手直しにかなりの奮闘をしたらしい。
娘は瓜ざね顔で鼻筋が通った芯の強そうな顔付である。髪は短く切り揃え、広い額の下で活発に動く眼が僕の動きを油断無く捉まえている。華奢な体をしているものの心身共に健康なことが陽光に輝く色艶と眼に表れている。山で出会った女の艶やかさと見事な対照を示す素直で陰のない容貌である。こんな娘こそが、眩しい陽光にふさわしいのだ。
「むむ」と僕は肩を上下させて筋肉をもりもりと動かした。
二人は一瞬後ずさりして顔を見合わせた。背丈はそれほどではないが、筋肉だけは盛り上がっている体を、より大きく見せる作戦は大いに効果をあげている。
僅かの沈黙の後に、若い娘が顔を引き締め決心したような表情を示した。大きく息を吸うと僕のサングラスを睨み付けて話し始めた。
「あのー、近ごろ富田林の駅前の花屋でエビネを売っているので、・・店の人に聞いたのですけど」
再び肩の筋肉をもりもりと動かした。中年の女性は後退りし逃げ場を確かめるように後を窺ったが、若い娘は口だけは閉じたものの体は微動もしなかった。どうやら、中年の女性は単に付き添いで、若い娘が主役らしい。
娘は小さく息を吸い込んでから、
「・・木津さんがエビネや野草を卸しておられると、教えてもらいました」
新興宗教でもないらしいと、頷いた。
「実は・・、私は野草の会という組織に入っていまして、その南大阪支部に所属しています」と言い、そこで娘は、僕を刺激しないようにと口籠もった。
言葉を待つまでもなく話の辻褄がおおよそ理解できた。完全なる誤解である。彼女達は北山川の女とも新興宗教とも関係がない。つまるところ、僕が野草を採集しては売っていると推察した野草の会の娘が、必死の抗議にきただけのことだ。
「私たちは、・・野草の保護について真剣に考えています・・それで」
このままでは日が暮れてしまう。
二人を早く追い払うにも舞台進行を早めるべきだ。娘の健気な声音に感心しながらも、言葉が終わるのを待たずにサングラスを外した。何事が始まるのかと、娘は言葉を止め口を開けたまま見詰めている。
ティシャツを着て笑い掛けた。
突然の動きに驚いたものの、威圧感を与えるサングラスと筋肉が隠れたことで、二人はなんとなくほっとした表情になっている。
「ちょっと追いてきてください」と言ってから鍬を背負い家に向かい、そのまま二人を案内して家の並びにある温室の所に連れていった。
納屋は、譲り受けた時に方々から丸太をかすがいにして補強し、東側の壁をぶち抜き温室を建て増ししている。南側の畑に沿って家と納屋、温室が長く続いている。
「この納屋では、エビネ、春蘭、寒蘭、その他の蘭科植物の胚培養や組織培養をしているのや。培養を終わった株は、その横の温室で固形培地へ移して育てて、それから温室の中央部で順化する。温室のいちばん向こうには鉢植えで花芽の出るまで育てている。だから僕は山で植物を採取するのやなくて増殖して売っているのや」と、一気に説明した。
娘も小母さんもぽかんと見詰めている。娘の肌からは汗と一緒に健康な若い娘そのものの匂いがしていて、なんとなく幸せな気分に陥った。
「あのー、何を言っているのかよく判りません」と戸惑う表情の娘に、思わず笑ってしまった。
「いや、すまんすまん。要するに、あんた達は僕が山野草を採集するのがいかんと言うてるんやろ」
「・・まあ、そうです」
「富田林で売っている野草は山で採取したんやなくて、この納屋で増殖したものやと言うてるのや」
「・・・」
「勿論、種や葉芽は採取したのやけれど、母体そのものには少しも傷付けずにそのままにしている。せやから、あんた等の抗議にあたる行為はしていないということや」
「へえー、そんな方法もあるんですか」と娘はまだ釈然とはしていない。
誤解は充分に晴らしておく必要があると、二人を五十メータは続く温室の向こうに連れて行き換気窓から中を覗かせた。
「ほら、一番手前の方が成長した鉢で、向うの端のはまだ二年はせんと花が咲かない鉢、それに、ここにあるのは殆どは組織培養で育てている」
「ひえー、ものすごい数なんですねえ。これ全部種から育てたのですか」
組織培養を知らない言葉に、説明をまだ完全には理解していないとの歯痒さを感じたが、それはそれで仕方がないことと諦めた。しかし、
「そう言うこと。正確には葉芽から育てたのが殆どだ」と一応の修正は試みた。
膨大な鉢の数に圧倒された二人はその言葉を理解するどころではない様子だ。
「それから、こっち」と声を掛けて、畑を区切っている猪垣の扉を抜けた。そこも以前は畑であったのだが、今は山野草の培養地にしている。
僕の背丈よりは頭ひとつ低い猪垣は、山地に住みついた人々が生活を守るために何代にも渡り営々と築き続けたもので、引き継いだ土地の殆どを碁盤の目のように、おおよそ一反毎に仕切っている。それどころか更に細かく区切ろうとした形跡さえ窺われ、猪垣を見る度に加えられた労力の膨大さと、託された夢の大きさに圧倒されてしまう。彼等の労力と夢は極く最近になって無視され放棄されてしまったが、僕の生活様式にはぴったりだから、猪垣はここに住み着いた理由のなかでも最大のものだ。
「ここは山野草、それも陽性の山野草の培地や。これは皆、種を播いて育てた」
「うわー、きれいやなあ」
娘は頬を染めて、紫、赤、白、ピンクと、様々に彩り塗り分けられた畑地に見入った。「向こうの区画には、いろんな樹を植えてあって、その樹の下には陰性の山野草を種付けしてある。株が増えた分を富田林の花屋で売ってもらってるのや」
「どのくらいの品種があるんですか」
「そうやなあ、向こうの樹の下の分も入れて五百種類はあるやろなあ。まあ主に雑草のなかでも花や葉がきれいなものや、それに珍しいものは殆ど揃ってるなあ」
「うわあー、凄いなあ。あのー、ちょっと見物してもいいですかあ」と、本来の用事は全く忘れたようである。
「ああ、僕は畑の仕事をやっているから、自由に見て回ったらええ。ただ草叢には入らんほうがええよ。ひょっとすると蝮がいるかもしれんからなあ」
「ひえっ!蝮がいるんですか?」と、一言も喋っていない小母さんも共に悲鳴を上げた。「猪垣の内側からは追い出した筈やけれど、また戻っている可能性もある。注意するほうが無難や。この時期には人に気付けば逃げる筈やからあまり心配ないけど、念のために棒を持って地面を叩きながら行けば全く心配ない」
「地面を叩く?」
「そう。蛇は音が聞こえんけど、振動は感知するのや」
「ああ、なるほどね。でも、それでも噛まれたらどうしたらいいのですか」と慎重である。虹彩の薄い瞳を見詰めながら、かなり頭の鋭い娘に違いないと考えた。
「一応の薬は持っているし、もしかの場合は電話で町役場に血清を頼むからその点も心配はない。もうここには五年も住んでいるけど僕は噛まれたこともないし、そもそも蛇に信号しながら、ゆっくりと行動すれば百パーセント安全やから心配することはない」
「そうですか・・それに、何か、蜂がぶんぶん翔んでいるようやけど、大丈夫ですか?」「ああ、あれは日本蜜蜂や。あの蜂は刺すことはないから大丈夫」
「そう・・。刺さない蜂なんてあるんやろか」と話し合いながらも二人は野草畑へと向かった。
おどおどとした二人の姿に吹き出しそうになりながら野菜畑へと戻ることにした。 今日取入れた野菜は当座の分と、冬のための漬物に使う。収穫時期がずれるように植え付け無駄の無いように取入れる工夫はしているが、これから一ヵ月は留守にする。山では新芽や木の実、それに雑草を食べるから野菜は必要ないのだ。だから使い道のない野菜の山を眼の前にして思案に暮れてしまった。
野菜の前に立っている時に二人が戻って来た。二人からは霞のように幸福感が立昇っている。仄かに上気した彼等の顔を見て野菜の始末法を思いついた。
「いやー、凄かったなあ。木津さん本当に有難うございました。草花毎に名札まで立ててあるから本当に勉強になりました。一度は見たいなあと思うてた野草までみられて、それに可憐な花がほんまにきれいやったなあ」と顔を見合わせ感動の言葉を言い交している。ここに来た用事のことは完全に忘れてしまったようであるが、僕としても話を蒸し返す気はない。
「そうか、それは良かった。それでやなあ。・・ちょっと頼みがあるんやけど、聞いてもらえんかなあ?」
「ええ、できることやったらなんでも」と、夢心地の二人は何の警戒心もなく答えた。
野菜を指差して、
「実は、野菜がこんなに余ってしまってなあ、出来るだけ持って帰ってもらいたいのや」 上擦った気分から一気に醒めた二人は眼を丸くした。
「そら、貰うのは有り難いことやけど、・・何故売りに出さんのですか」
「僕の野菜は化学肥料を使わんから大きさが不揃いでみすぼらしい。それに農薬使わんから穴だらけで売り物にはならんのや。農協に持って行っても屑値でしか売れんから運搬の費用を考えると却って赤字になるのや」
「ひえー、無農薬で有機肥料野菜ということですか。それやったら余計に価値があるのと違いますか?」
「それはやなあ、それだけの販売組織が有る場合のことで・・、そんな組織に入れば一定量の供給の義務が生じるのや。しかし僕の場合はしょっちゅう山歩きに行くから供給量を保証できんし、そもそも量がつくれん。だから組織には入らんのや」
「そうですか。そんなことで役に立てるのやったら、私らには有り難いことですわ。車に入るだけ貰って行きます」といよいよ幸せ一杯の顔付きになった。
別に話をすることもなく、後部座席とトランクに野菜を一杯に積込んだ二人はそのまま帰路についた。欅林の中に車の姿が消えるまでは、仕事の邪魔が無くなりほっと出来るとばかりに考えていたが、手を振る彼等の姿が消え、車の音が徐々に遠退くに連れて、寂しさが冷え冷えと体に沁みるような心地がした。
付合う人の全てが僕を変人だと不思議がるのだが、感動の眼を見張ったのはあの二人が最初である。何を言われようと好きなように生きてゆくと割切っているが、やはり、成し遂げた仕事を認めてくれる誰かを求めているのだろうかと、消えた車の方向に眼を据えて佇んでいた。その内、彼等の感動の眼差しの奥に光っていたものを何処かで見たとの思いがあり、それは二年前に初めて開いたエビネを前にした時、僕の心と体に輝いたものと同じだと気付いた。
野草の売上が延びていることと、それを契機とする二人の訪れが、共に何かが変わりつつある兆しと思え、その予感は体内に淀んだ寂しさを溶かし、ゆっくりと暖かい流れへと変えていった。やるべき仕事を思い出し体を返して田圃の手入れに向かった。
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