2013年9月23日月曜日

NHKスペシャル 神の数式

NHKスペシャル 神の数式 は素晴らしい番組だった。
2話ともに見終えて、ふと思いだしたが、僕が会社から首を切られた55歳の以前に、宇宙について地元の図書館で調べたことがあった。つまり、もう15年以上も前のことになる。
その調査と言うか、興味のままに読書しただけのことだが、地元の大和田図書館にあった宇宙に関する本から推論した結果は次の通りであった。
①無または虚無こそが、全てのあるべき姿だ。そりゃそうだろ。我々の存在する宇宙なんて、存在する可能性は零ってことは、ほぼ確実の筈だ。
②ところが、有りがたいことに、無なるものは、とても不安定で、その無を破るように、エネルギーがどっとあふれることがある。何故、無が不安定かと言うと、我々が今存在することが、その証拠である。とにかく、このエネルギーの噴出が、ビッグバンであり、巨大(あくまで人間にとっては巨大だが、無に取っては無でしかない)なエネルギーが一点に噴き出す。このエネルギーの源は、±0から発生するので、この宇宙と相似で、この宇宙とは逆のエネルギーを持つ宇宙が別に存在する可能性が高い。
③かようにエネルギーのアンバラスンスが常時(時間が存在しない状態での常時)発生し、エネルギーの放出が起こる中で、我々の宇宙が成り立つようなエネルギー形態がたまたま生じた。つまり、我々の宇宙のような宇宙は、たまたま生まれたに過ぎないのだ。
④我々の宇宙は、空間、時間共に、全てはエネルギーによって作られている。このエネルギーで作られているってことは、こう考えるより他には考えようがないのだ。ただ、重要な問題は、なぜエネルギーなどと称す、姿の見えないものから、全ての物が作られるかが問題であり、その点が次のように考えられる。
⑤エネルギーは、小さな振動体として粒子を作っている。この粒子がいろんな形で結合することで、全ては作られているのだ。このエネルギーの形態を思いつくことは案外簡単であった。エネルギーが粒になるには、円、球形にエネルギーが振動すれば良いと考えたのだ。

僕の技術的教養からして、この問題を数式的には証明できないが、形而学上的に考えれば、ほぼそこまで想定できたのだ。
僕がそこまで推定できたにも拘わらず、世界最高度の物理化学者の殆どは、振動する粒の存在を、物理的にあまりにダサいとして否定し続けたわけだ。
つまり、物理学者はもっと一般人的に柔軟に、つまり僕のように考えるべきだったと言える。物理学者達は、エネルギーの粒の大きさを有限としないことによって、大いなる矛盾に落ち込んで、長い長い時間を無駄にしたのだ。

更に僕が考えたことは、素粒子が、複数回転することで、元の面が我々の次元に現れるとの実験結果が、既に報告されていたから、我々の宇宙には別の次元がある筈だとも類推出来た。が、学者達は、高次元の宇宙を認識することにさえ長い時間を費やしたのだ。

僕の想定と殆ど変らない結論が、NHKスペシャルの結果であった。
しかし、もっとダサいヒッグス粒子が、我々の宇宙に詰まっているなんて推定は、とてもじゃないが出来なかった。その点からも、ヒッグス粒子なんてものの存在を予測するなんて凄いことだと思う。

ところで、上記の考察を行った際には、「膨張しつつある宇宙も、いずれは収縮する筈だ」と考えていたが、その後、宇宙のいたるところで、ダークエネルギーなるものが噴出して、宇宙の膨張は加速しているなんて話が出ている。これについては、今のところ、形而上学的な考察は行っていない。

2013年9月2日月曜日

素敵な本をみつけた。

神田に立ち寄ったら、ラムセス2世の本があった。
600円で買ったが、amazon見ると、
僕の買ったのは最も古い版で、500円程度、第二版だと1円+輸送費250円 第三版は、550円で買える。
内容は面白い。
で、古いのが、一番高いのは、古本価値だろうか。
ぱっと買わずにAMAZONを調べてからにすれば良かった。第二版でも良いのだ。

フェニキア人―古代海洋民族の謎 って本は、図書館で見たが、これも面白かった。
が、amazonでは高い。ので、図書館で借りるのであきらめる。

この経験から、Amazonで面白そうな本を安くかえないかと考えた。そこで、NHKで放送中の八重の桜から、「山本八重」で検索した。
すると、山本八重については、楠戸義明って作家が最初に本にしたらしい。(後で判ったが、楠戸氏より先に大勢の人が出版しています。が、それほど以前ではなく、彼女への高い評価は最近になってのものらしい)

Amazonでは1円で売っているので早速購入手配した。更に地域の図書館で楠戸義明で検索すると色んな本が出てきた。早速、そのうちの5冊を予約手配した。かような本の検索方法はなかなか興味深い。今後もおいおい面白そうな本を探し出してみよう。山本八重の本を読んだが、会津の人々は悲惨な経過を辿っている。長州、島津からすれば、関ヶ原の仕返しなのだが、関ヶ原では長州、島津共に、ろくに戦っては居ない。と言うことは、彼等は関ヶ原で面目を失ったことに対しての仕返しだったのだが、それは別として、会津では市民も含めて想像以上に多くの人々の人生が悲惨な道を歩むことになった。かような悲惨さは歴史の中では簡単に埋もれてしまうようだ。西南の役では今度は仕返しをされたのは島津であって、ここでも想像以上に大勢の人間が悲惨な目にあった。ただ、西南の役では、政府側にも島津出身者がいたが、彼等の心境はどうであっただろうか。これはかなり興味深い視点だ。それと西南の役では、今度は島津は武器能力が劣ることで敗北したが、戦いでの勝敗に武器性能が大きく影響することを当時の彼等は認識し、その認識は、日清、日露戦争までは強く意識されていた。が、この認識は昭和に入ると急激に薄れ、精神力への依存が強くなって行き、これが太平洋戦争での日本軍の馬鹿げた敗北にとつながった。なぜ精神論への傾斜がはじまったか?これも、歴史的に興味ある視点だ。恐らく、日清、日露での連勝が、資金調達の困難さ、武器能力の不足にも拘わらず、たまたまの幸運が助けてくれたこと、等に気付かなかったこと、それを、軍人養成機関や学校で正しく教育しなかったことが原因だろう。
ところで、三谷幸喜の清州会議が面白そうだ。安くなったら買おう。

山本八重の本に感動です。
八重以外にも、あの動乱を男並みに行きぬいた女性や、それに、義に準じた多くの男たちの事が書かれています。
惜しむらくは、彼等のエネルギーが、結局は灰燼になる運命だったことです。
が、生き残った人々は、思い存分生きたようです。特に女性たちの生きざまが見事だったようです。
新撰組の剣客、斎藤一のことは、京都で薩長を脅かしたことは知っていましたが、彼が会津で籠城したとは知らなかったし、
会津の女性と結婚し、しかも、松平容保の仲人で結婚し、一生を会津と共に生きたとは知らなかったです。
彼は、西南の役に従軍し、薩摩に復讐を果たしたようです。
薩摩の抜刀隊にてこずった政府軍は、政府軍の中の旧武士を組織して、これに対抗できたとのことですが、
恐らく、斎藤一もかような部隊でがんばったのでしょう。
そうして死ぬ間際には、明石出身の彼が、会津に帰りたいと言ったのは、会津の人々への強烈な尊敬の念があったものと思えます。
僕自身は、会津は徳川であり、徳川が政権を取る時のあくどさ故に、余り好かんのですが、
会津の人々は、300年前の徳川とはかなり変形していたようです

ところで、かように戦争の悲惨さ、戦争での新式武器の重要性、を共に経験した会津と薩摩に比較して、それらの経験を厳しく感じなかった長州は、その経過として日本のリーダーとなり、これら重要な経験を見事に忘れて、日本を悲惨さへと導いたことには、なんとなく、皮肉さを感じます。

ケイトモートンの、忘れられた花園は、読み始めたところだが、物語の進め方が見事だ。
が、話が複雑すぎる感がある。

スティーヴン・ロジャー・フィッシャー の文字の歴史を緑が丘図書館でみつけた。なかなか重厚で興味深い。