2013年3月23日土曜日

雑感

ぼくがまだ現役時代に書いた雑文を3~4件投稿した。
当時は、読みやすい、と言うか、滑らかに読める文章が面白くなくなり、
ひっかかりのある文章を書き始めた頃で、読み返すと面白い。
が、今はもう書けるとは思わない。
なぜ書けないかは、これも説明が難しい。

かように気楽に生きて行くのもまずいと思うので、
イタリア語を再開し、また、英語力には磨きをかけたい。

と、思うばかりで、ほんとうに出来るかどうか。

今年は、椿、こぶし、モクレン、桜が同時に満開状態になるって奇妙な年だ。
そのことを、ここで記憶に残しておきたい。

2013年3月20日水曜日

師走

 なぜ、ここに居るのだろうかと頭の片隅で考えながら、わたしは殺風景な春日選挙事務所の折畳み椅子に座っていた。
 その日わたしは朝いちばんに、投票用紙にはもちろん春日さんの名前を書き、箱に入れてから田原さんの山林に行った。ホタルの会では、田植えとか、炭焼、それから植物調査なんぞと、いろんなことで多いに楽しんでいる。そんな遊びが会の主賓であるホタルとの付合いよりは、これはあくまで内緒だが、むしろ私には好みで、ともあれ、そんな遊びの殆どは概ね田原さんの所有地の片隅でわいわいと開催されるのだ。ところが、今年の夏に、噂では頑固と聞いているのだが我々には本当に親切であったおじいさんが突然亡くなり、遺産相続の関係でさすがの田原さんも頭が混乱していて、と言うのも、彼の所有地はもう開発計画の中に組み込まれていて、山林として残したいとの彼の意志とは関わり無く計画は着々と進み、これを阻止しようとする方策と、おばあさんとか、その他の彼の親族での財産分与がからみ合い、複雑な状況に頭がはちきれそうになっているらしい。その他にも更に事態を混乱させる事情もあり、何はともあれ、山林の樹木調査が必要だと、これも、なぜ必要かは良く理解できない点もあったが、こんなイベントは盲目的に好きなものだから、あまり考えることもなく、とにかくは調査をすることになったのだ。
 こんな時にはほんとうに便利なのだが、ホタルの会やその周辺にはいろんな特技を持つ人が多く、その一人である高校生物の先生の指導下で、朝十時から始め、昼食は駅前でうどん定食を食べて、樹木調査はまだ敷地の半分も終えていなかったが、夕方の五時になったので中断することになった。木々の幹にテ-プをホッチキスで留め、そのテ-プに油性マジックで木の番号を書込み、コンパスで胸の高さでの幹の太さを測定して記録用紙に書き込むのだが、これを成し遂げるためには数種類の道具を左右の手の親指と、人差し指、それに小指にぶらさげて、使う順序を間違えれば、道具と手がからみあって無茶苦茶になってしまうので、手順については着実に判断しながらしかも俊敏、かつ的確に事を進めのだ。なかなかテクニックの必要な仕事で、こんな仕事はごく私の性に合うようで中断は少々残念であった。
 女房が車を使っているので、と言うか、わたしは車の免許書も持っていないから、田村さんの奥さんの車に同乗して送ってもらうことになった。手にはもう道具は無かったが、長時間持ち続け、働き続けたものだから、手と頭が勝手に道具の使い方を復習していた。
「志水さん、九時から開票だけど春日さんの事務所に行く?」と田村さんが聞いた。ホタルの会にも入っている春日さんが今年の市会議員選挙に立候補して、田村さんの奥さんは推薦人にもなっているのだ。一般人が推薦者であることは、春日さんに地盤の無いことの証で、こんな時には男は屁の役にも立たず、我が家の女房殿、それに、ホタルの会の各家の女房がた総出で、できる限りの紹介をして回っているのだが、そんなことで当選するとはとても思えず、その思いは田村さんの奥さんもどうようの筈だと考えた。
 田村さんの誘いについては、そもそも、わたしが行くとして選挙事務所でどう身を処すればよいのか全く見当もつかなかった。そこでわたしは、
「あー・・えーっと、僕は朝早いですからねえ・・・」と言葉を濁した。
「そう」と、田村さんは全く気にする様子もなく、そのままわたしを我が家に送り届けてくれた。田村さん一家とは大阪で住んでいた高層住宅が偶々一緒で、わたしよりは一足先に千葉に引っ越してしまい、後からわたしも東京に転勤になり同じ市内に住むことになった。あの頃は田村さんの奥さんも若かった。みな歳を取り、それぞれがそれぞれの人生を歩んでゆくのだが、田村さん一家とは、実に人生の半分近くの近所付合いになり、特に女房同志の付合いが親密で、しかも、こちらに来てからの地域活動では亭主二人も一緒になってしまった。
 その日はわたしの誕生日ではあったが、ずっと歯の調子が悪く堅いものは駄目との事情でカレーライスとなっていた。家族全員が不思議がるのだが、子供の頃の食料事情の悪さのせいか、カレ-ライスが大好物なのだ。普段であれば体調を考えて一皿で終えるところが、誕生日でもあることからと、お替わりをしたものだから、ゲップの匂いもカレー臭気となってしまった。
 ついでに言うとすれば、歯の調子だが、通いの担当医が抜歯を薦めるのだけれども、わたしはボンドで補強することを主張し続けている。既に抜いた歯もボンドなんて便利なものが有ることを知っていれば抜かせはしなかった。ただ、どうやらその医者はボンドの処理が下手と言うか、ボンドの価値を軽視しているようで、前々回の時にはしっかりと留めるようにと苦情を言い、補助の女性がこってりと塗布してくれて三ヵ月も保ったのだが、前回は医者本人が、それも片側の歯と接続するだけで、さらには大丈夫かなと危惧する具合の塗り方で、案の状、二日で取れてしまった。その後いよいよ痛くなる按配で、先週の土曜日にはすっかり参った状態で医院を訪れた。「もっとしっかりと留めてください」と言うわたしの言葉に、担当医は口の中を覗くや否や別の女医を呼んで相談を始めた。そうして女医さんがボンドで、正確にはスーパーボンドと称するらしいが、白い二液性の接着剤で留めてくれた。その際、医者の二人が深刻に相談していたのを目撃して、その意味するところをいろいろと考えてみた。まず思いつくのは、担当医がわたしの頑固さに嫌気をさし、女医さんと替わる積もりか、それは彼女の接着の腕が良いことから、わたしには好都合で、故も無く医者に見離されたことへの個人的な誇りを抑えさえすれば満足できる状況である。次の可能性としては、その時の悲惨なわたしの口内を見せることで、抜歯を薦める仲間を増やしていたのかもしれないが、その最悪状況を招いた本人の企みとしては許しがたいと思われ、もしそうであるとすれば、二人の医者相手の答弁を考えておかねばなるまい。更に考えれば、その時の悪化状況は本当にひどくて、膿が頭の中を駆け巡るかのような耐えがたい痛さで、会社でも頭を抱えて過ごした。その時、生まれて初めての鎮痛剤を服用したが、鎮痛剤があれほど爆発的効果があることには驚いたが、痛みは嘘のように消えてしまった。とにかく、かような悪化状況であったから、口内のひどさにガンかもしれないと女医さんを呼んだのかもしれない。その点ではかなり心配はしたが、その後の経過からすれば、この線は薄れている。まあ、とにかくも、胃腸はいつも頑丈で、飲み込めるサイズに砕きさえすれば、すべてを消化する頑丈さを持っている。そんな心強い胃を持つわたしとしては、何があろうとも、スーパーボンドを主張し続けるのだと決心している。後は定期的に補強さえしてくれれば、堅いものをガリガリポリポリと噛み砕く年令は過ぎ去ったと諦めているのだから。
 などとあれこれ考えたところで、今までにもいろいろの状況で事態の推移を様々に想像したことがあるのだが概ね当たることはなくて、結局はなるようにしかならないのが結論である。とにかくそんな事情で、カレーライスの食い過ぎでパンツのボタンも閉まらないまでに腹が膨れてから、田村さんの提案のことを思い出して女房に伝えた。
 女房はちょっと気になる沈黙の後で、
「だけど・・・落選した時に、激励する人も必要・・なんやない?」と、若干の疑問符とともに呟いた。
「そうやろか?誰か、そんな人を知ってんの?」と、わたし。
「あの、野村のおじさんが立候補した時には、後で人間不信に陥ったからね・・・」
「へー、落選したんか」
「うん。かつぎあげる人にも、いろんな人が居るからねえ・・」
とまあ、こんな会話の後で、
「まあ、選挙事務所といっても、別にどうちゅうこともないやろ」と、行くことにはしたが、開票が始まるのは夜の九時からで、朝の早いわたしとしては、そう遅くまでは起きておれない。途中で帰ることにして顔だけでも出そうと決めたのだ。
 開票の始まる九時ちょうどに家を出て、女房の運転する車で春日さんの事務所へと向かった。昔からの習慣で、夜九時ともなれば就眠の支度をするのが常のわたしは、夜道のネオンを見ると寂しい気分に陥る。その一方では明日を心配することなく、かような夜更けに、ネオンに照らされた店々を歩き回ることが出来ればとの思いが心をよぎるのだ。わたしには生来放浪癖があった。しかし、就職してからは仕事を果たすべく、引き続いては、心ならずも結婚してしまい子供も次々と作り、それ故に、家庭を維持せざるを得ず、ごく実直に過ごさざるを得なかった。ひとたびそのくびきが外れればとめどない放浪が待ち構えているようで、その怖れは夜の街のネオンを見るといよいよ強くなるのだ。それでも、わたしには、いつも見知らぬ街々を、それも出来れば世界の街々を巡り回りたいとの思いが心の片隅にある。つまり、わたしの人生は怠惰であることを怖れるあまりに、実直であり続けたと表現できるかもしれない。情けないと思うこともしばしばである。
 そんな思いとは関係なく車はあっと言うまに春日事務所のある横丁に付いてしまった。事務所は数軒の店が並ぶ路地の奥にあり、自己主張を必要とするイベントには適切な場所とは言えないが、大学院を卒業してからの、アルバイトでの貯金だけで市会議員選挙に立候補したのだから、春日さんとしては精一杯の場所であったのだろう。事務所の場所などはどうでも良いことで、要は当選するかどうかだが、票として期待出来るのは大学院時代から顔を出している地元の環境グループだけで、それ以外には地盤もなく、大方の予想はほぼ無理とのことで、そんな事情が食事の時の女房との会話になったのである。
 葉書書きや電話番をボランティアで努めた女房を先にして、わたしは事務所に入った。予想通り選挙臭を殆ど感じさせない事務所で、ウナギの寝床状態の事務所には片目の達磨も無ければTVすら置いていない。折畳みの長い机が二列で、その周囲に折畳み椅子が並べてあり、奥の方に春日さんが居てお母さんらしき人が隣で、中年の男女が二人、若者と言うか、三十代の男女が四人。と、居合わせた人々を見ながら、彼らを若者と言うような歳に、わたしは既になっているのだと考えた。
 一週間前の出陣式からずっと一度も訪れることはなかったから、春日さん以外の人とは初対面で、と言って、選挙戦も終わったいまになって挨拶も無いだろうと、春日さんと、「やあ」
「やあ」と声を掛合ったままで、空いている入口側の空いた椅子に腰を下ろした。お母さんらしき人がお茶を持ってこられた。壁にはいろんな紙が、それは既に終えた一週間の選挙戦の予定表らしいのが貼ってあり、まるで工事現場のプレハブ事務所みたいな按配である。事務所の人々は、寿司の出前で夕食を取っている最中で、おそらくは、開票に備えての待機のために集まったと思われるが、それがどのような仕事を意味するのかはわたしに判る筈も無かった。いずれにしても、今ここに居る人はみな選挙に深く携わる人ばかりで、一般人はわたしたち夫婦だけらしい。つまりは、わたしの頭の中に存在する選挙事務所とは思えない様相で、多くの雑草の中の一株の雑草とあろうと、もしくは、それに似た状況との期待が、始めから脆くも崩れてしまった。
 さて、これから事態がどう推移するのかとも考えたが、こればかりは何の経験もなく、全く予測が立たず、この人数の少なさでは途中で抜けることもならず、結局は選挙結果が明らかになるまでと思えた。しかも、すぐに若者達は、開票所への出掛けて行ったので、いよいよ人数は少なくなったが、一般人の夫婦が一組と、老人が一人訪れて元の人数には戻った。
 春日さんはずっと机に向かい、なにやら領収書の整理をしているようで、漸くまとめ終わったようで、ファックス操作をしてから背伸びをした。そこで漸く新しく集まった一般人に気付いたようで、ひとりひとりに声を掛けた。
「春日さん、票読みはやっておられたんですか?」と、少々間の抜けた質問ではあるが、春日事務所を訪れた人としては、まあ、妥当と思われる質問をしてみた。
「ええ、・・電話なり、面会で会った人の反応で、毎日記録はつけているんですが、集計まではしていませんでねえ。党の方では、それを早く出せと催促してくるんですが、集計するよりも、出来るだけ確実な人に会う方が重要でねえ・・」と苦笑いしてから、
「それでも、わたし一人で確実と思える人は七百人は越えていますからねえ」と、かなり自信の有る発言であるが、わたしの目を覗き込み、そこにあったであろう不信の影を見付けたのか再び苦笑いを示した。恐らく彼の自信は誰からも疑惑の目で見られ続けたと思われた。春日さんは話題を変えるように、部屋を見回してから、
「そうか・・パソコンを持って来れば、開票速報が見られますね・・ちょっと下宿に帰ってパソコンを取ってきます」と、言うや、表に出ていってしまった。
 こんな事情で、部屋には選挙参謀と思われる中年の男女を除いては、素人ばかりで、なすすべも無く折畳み椅子に座り世間話をぼつぼつと交わすだけとなった。紙面の都合もあり話を早く進めるのだが、その頃から選挙速報が出だして、開票所に行った若者たちと、下宿に戻りテレビの開票速報を見てしまいそのまま帰れなくなった春日さんの、双方からの電話で開票速報の連絡が入り始めた。
 八千代市のホームページを見れば良く判るのだが、三十分毎に報道される開票は、各候補者が先ずは三百票を得票したかどうかが報道される。時間を置いて七百票、それから千票と、越えるべきハードルが次々と上がってゆく。つまり、運動会の紅白の玉入れの後で、ひとーつ、ふたーつと玉数を勘定するのとほぼ同じ方法なのだ。春日さんは、なんと、脱落することもなく、最初の三百票のハ-ドルを越えた頃に、田原さんが現われ一気に事務所は騒々しくなった。次のハードルを越えた頃から、伊東さんとか言う人が居酒屋で酒を飲みながらテレビを見ていたのだが、春日さんが善戦と知って来たのだと、さすがの田原さんも顔負けの騒々しい人が訪れた。二人のことはこの事務所では評判らしく、二人を中心に笑い声が大きくなってきた。そうなると奇妙なもので、春日さんが当選するのではないかとの期待が我々の話し声にさえ感じられるようになり、選挙参謀の人が、「まだ、まだ!」と、気持ちを引締める声をあげ、それがまたまた、期待を高めるような具合になって、わたしの世間話の声までが上擦るようになってしまった。
 そのまま、あれあれと思う間もなく、春日さんは当選確実と報道されて、それから、果たして本当にパソコンを持ってくる積もりであったのかは判らないが、自宅に帰っていた春日さん、それに開票所に行っていた若者たちも戻り、しかも田村さんの奥さんまでもが開票所に行っていたのだと現われて、春日さんを真ん中に、万歳三唱となり、もう時間は十二時を過ぎて、あすのことを考えればもう駄目だとわたしは女房と帰ることにした。家に帰り着くまで、カレ-臭いゲップが何度も出た。
 その他にもいろいろとあり、ほんとうに忙しい師走であったが奇妙な思いもよらぬ経験の続く、それは思い出深い年末でもあった。

赤がえるさんの謎

 この誌面をお借りして、赤かえるさんのことを御紹介することは誠に光栄の至りとするところであります。彼女との付合い・・思い起こせばそれは谷津田での去年二月の産卵調査以来で、卵塊だけはまあ存分に見たのですが、その御姿には秋になり漸く接することが出来たのです。銀輪部隊”花の会”、彼らは、いや彼女達は自転車で市内の谷津田を走りまわり野草観察を続けていたのですが、絶滅に瀕している野草を残さんと奮い立ち、谷津の休耕田を借受けて草ぼうぼうの田圃を先ずは草刈りとなったのですが、同じく谷津田を遊び場としている私もその応援に駆出されてしまいました。そこの休耕田で、ぴょん、ぴょん、ぴょんと三跳びして雑草の陰にきえる彼女を(いえ花の会のメンバーではなくて赤がえるさんなんですよ)目撃したのです。最初のぴょんの、まさにその瞬間に、私の胸はきゅううんと音をたてました。いえいえ、心臓発作ではなくて、それは、私が小学校高学年の時に”のんちゃん雲にのる”を演ずる鰐淵晴子さんを見た時の感激と同じでした。ところで、先日NHKの銀河ドラマで、彼女が・・いえ、赤かえるさんではなくて鰐淵晴子さんですが・・彼女の出演を知りテレビのチャンネルを子供から奪ったものの、鰐淵さんは最初の一回目に殺されてしまいました。NHKさん、あんまりやないか!
  さて、その時彼女は橙色のコ-トを着て・・いえ鰐淵さんではなくて、赤かえるさんのことに話は戻っています。彼女の美しくスマ-トな姿態にほれぼれとしたのです。谷津の斜面林に住む彼女は、派手なコ-トにも似合わず人見知りする質のようで、殆ど人前には現われません。それに、かなり頑固というか保守的な性格らしく、限られた場所、ほぼ水溜まり程度の深さを好み、とにかく流水には全く産卵しないなどと、まるで人が作る田圃が最適で、人の気配が失せるともに絶滅への道を歩むようです。その頑固さ故にこそ人の変わりように追付けず、静かに静かに消えて行く運命にあるようです。
 しかしながら、彼女の卵は丸く丸く見事な形状で、ひきがえるさんの長い紐をずるずると引きずり産卵したかのような下品な卵に較べれば、それはそれは遥かに芸術的な作品でありまして、派手なコ-トで人見知り、頑固で凝り性となれば、これは明らかに芸術家と決まりました。かような人物の行動把握は極めて困難で、今年も保品谷津のみならず石神谷津でも産卵調査をしましたが、彼女の行動パタ-ンについては謎が深まるばかりです。
  今年は3月2日頃から産卵を始め、谷津田の多くの田圃から、好天が続いても干上がりにくい三ヶ所だけに産卵していまして、3/2日 37個、3/3日 47個、を確認したのですが、3/16日には寒さと干水で崩壊と死滅が始まり殆ど全滅となってしまいました。いずれにしても去年に比べれば今年の産卵数は激減となっています。
  それにしても、産卵調査を進めれば進めるほど彼女に関しての謎は深まるばかりです。先ずは広々と草も無い水を湛える水溜りには産卵の気配もなく、それはなぜか?と考えてしまいます。赤かえるの産卵場所には必ずと言っていいほど後日にはひきかえるが産卵していまして、これもまた、なぜか?と呟いてしまます。
  僅かに生き延びた卵塊では3月23日には孵化が始まったのですが、小さなお玉がぴくりとも動かず堆積する様子から生存率は極めて劣悪と窺えて、生きていること自体がいかに貴重なことかと実感したのですが、その日に新たな卵塊を数個発見することになりまして、これは果たして二度目の産卵か、それとも寝坊の赤がえるの産卵なんでしょうかねえ?。  
  4月6日に様子を窺いますと赤かえるのお玉がひきかえるの卵に付着したまま動きません。ひきがえるの卵は赤かえるに取っては危険な物なんでしょうか?その後、ひきがえるのお玉はうじゃうじゃと見掛けるのですが、赤かえるのお玉は日々目撃数が少なくなってしまいます。泥の中にでも潜り込むのかと考え込んでしまいます。
 八千代の谷津を知ってから三年になりますが、谷津とその斜面林では、テレビで放映の岩跳びペンギンとかザイ-ルのボノボやマウンテンゴリラとかの、心を打つ命の躍動と戦いのドラマに勝るとも劣らない数々のドラマが演じられていることに漸く気付きました。たいして意味の無い区画整理事業と無差別な開発からすると赤かえるさんの命も風前のともしびですが、彼女はふんと嘲笑うかのように、今年も一度だけぴょんぴょんぴょんと跳ね飛ぶ御姿を披露してくれました。彼らの運命がいずれは人にも訪れる運命だと知っているに違いありません。40億年にも及ぶ命の鎖の繋がりのなかで、恐らく、遠い昔には鎖を共有していた赤がえるさんと、この私とが、今この一瞬を共に生き、すぐに無機質となるのですが、いつかは、同じ命の中に吸収されることもあるかと思えます。その時には、かえるさん、やごさんとか、やまと蜜蜂さん、どじょうさんとかになってもいいなあと、しみじみ考える歳になってしまいました。今はただ、赤かえるさんの数々の謎をもっと究明したいと、古畑任三郎さんの心境になっています。
 えっ、何ですか?はあ、なんで赤がえるの産卵調査をしているかとお尋ねですか。そう、それもまた歳のせいやと・・言う以外には答えようがありませんなあ。
 

2013年3月19日火曜日

薬園の森

 束の間の人生で何を学んだろうかと、それに何かを学ぶことが出来ただろうかと、通勤電車の吊革にすがり視線を流れ去る窓の外に向けながら、取留めなく過去の映像を追い続けることが多くなった。しかし、情けないことには、自己を明確に意識するようになってからの人生は、どう生きてゆくかに終始したようで、どうやらわたしの本質はそれ以前の、まだ意識のはっきりしない混沌の時代にあったように思える。
  疎開者用住宅地に住んでいたその頃、私はまだ小学校にも行かない幼児であったから、いろんな記憶の断片は順序脈絡も定かではなく、頭の中に広がる薄暗い領域の、所々に浮かぶ、微かに照らされる静止画像でしかない。しかも、画像に登場する人々の殆どは輪郭とか雰囲気だけが感じ取れる霧のような存在となっている。輪郭に焦点を合わそうとすれば、すぐさま霧は吹き飛び、残された映像は目鼻もなく、のっぺらぼうで雰囲気さえ感じ取れない代物になってしまい、失った雰囲気を取戻そうと、頭の中でうろうろと焦ってしまうのが常である。
 ただ中には鮮明な画像を持つものもあり、その一つは、空のリヤカーを引く母親の後ろ姿と、荷台に腰掛けているわたし自身の、いずれもが貧しそうな姿で、己の姿がまるで中空から眺めているかのように見えるのも奇妙に思えるのだが、その映像はおそらく丘の上にある古い村に買出しに行く時の光景に違いないと考えている。戦後間も無いその時期にはこんな風体の母子連れで、近くの村に買出しに行ったのだろうと、今は既にない母親の食べ物を手に入れるための苦労を考えてしまう。しかし、兄や姉達には残る飢餓の鮮明な記憶はわたしには無く、ただ、楽しかったとの感触だけが残されている。
  大阪南河内の古い村々の外れに急造された疎開者住宅は、当時はなんとも思わなかったが、今から考えると実に奇妙な位置に造られていた。和歌山との境に連なる和泉山系から、幾筋もの丘が、微かな皺のように南の低地へと続いていて、古い部落は全てこの丘の上に群がっていた。丘と丘の間は、それは永い歳月を耕され続け、川筋の疎らに連なる木々を除いては地面はただ平坦な田畑が、しかも、南と東の山々まで昇り勾配で広がっていたから地平線も無く、地面は徐々に上にと昇り、最後は紫色に霞む遙か彼方の和泉山系や金剛山系の麓へと、それから急に頂上へと至り、そこで区切れて青空となっていた。山裾までの勾配面は、梅雨頃には、ただ真っ平で鼠色の水面となり、秋の収穫時期には吹き抜ける風になびく黄金色の、ただ一枚の平面として存在していた。
  この光景を眺めた記憶もまた鮮明で、幼心には理解出来ない、それは、歳を経た今になっても往々にして心に蘇り、あれこそは感動であったと確認する心の震えを感じたものだが、更に考えれば、その住宅地は南河内の、あたかも浅い鍋の底に位置するわけで、しかも、もっと上の方には、弘法大師が開削したと言われる巨大な狭山池から流れる二本の川の一つが、真っ直ぐに住宅地に向かいながらも、住宅地のすぐ手前で西にと方向を変えて、鍋の底周辺の四分の一周を迂回してから再び南へと下っていった。つまり、さすがの川も、鍋の底に入っては抜けられないと考えたに違いない。
 
山裾からの勾配は住宅地の北側へとまだ続くのだが、そこには近鉄南大阪線の線路が嵩上げされた堤防の上を東西に走り、この鍋の底を、逃げ場の無い底にすることにとどめを刺していた。
  こんな状況であったから、一旦何事かが起これば只では済まなかった。僅かとは言え高い丘の上に設けられた村々とは違い、毎年、梅雨から台風シーズンに掛けて、川の水位が僅かでも増せば、南の縁に沿う川筋のあらゆる所から全ての水が鍋の底へと押し寄せた。つまり、住宅地は年に一度、二度と、時にはおまけの三度、更には四度と、床下浸水に侵されるのが常で、水流と共に川に棲み付く様々な生き物も水につられて押し寄せては住宅地の道を泳ぎ回ることになった。
  大人達にとっては苦労の種であったこの有り様も、わたしにはまたとない遊びの時期となり、まるで一匹の蛙になったかのような気分で腰まで水につかりながら走り回った。本物の蛙達は緩やかな水の流れに乗り流れ去り、やがては線路際に所々作られた暗渠周辺に生じる濁流に呑まれて下流へと消えて行った。轟音と見事な渦模様を造る暗渠への流れは、わたしにとっては極めて魅惑的な存在で、あたかも新しい世界への入口かのように見えたのだが、心の奥底の声がわたしも引き止めた。そのため、幸か不幸かわたしは流されること無く住宅地に残された。その頃から既に、わたしは新しい出来事に臆病であったようだ。
  春になれば周囲は麦畑とレンゲ畑で風景は占められた。梅雨前の田植えが終われば、田圃に現れる様々の虫たちを眺めて楽しんだ。とくに田金魚は体をくねらせ、掴まえどころの無い美しい色を変えながら泳ぎ回り、かぶとえびは泥の中をその奇妙な体型で這い回っていた。秋から冬にかけては霧が全てを乳色の刷毛で柔らかく覆い隠してしまうのが常であった。そうして冬には必ず雪の訪れがあり、大空を除く全ての世界が白一色で覆われた。
  それにしても、人と関わる記憶のずさんなことにくらべて、この風景とか、虫とか魚それに蛙とか蛇とか、水の流れとか、それに言葉には現せない香りとか色についての記憶の、この鮮明さはどうしたものであろうかと、これを書きながらもわたしは考える。それは彼等が常にそこに居て、その折々の変化も瞬時ではなく、またある時には繰返し繰返し訪れることで、記憶の中に焼付けられたのかと、更には、往々にしてある古い記憶の美化により、記憶が事実以上に鮮明に、つまりは記憶の再創造がなされるのかとも考えたが、わたしのこれらの記憶は、実に、幼児期も過ぎてから、ずっと変わらぬまま続いていることからすると、更には、旅先で極めて稀ではあるが同様の風景に出会うことからすれば事実そのままの姿に近かったと言えそうだ。
  とにかく、わたしはそんな、何の憂いもない四季を存分に楽しみながら暮らしてはいたのだが、いつも気にかかる存在が、住宅地の西のすぐそばにあった。遊び呆けているある瞬間に、頭を上げるとその存在は存在そのものを強く現した。今から思えば、それは、僅かに小高い丘の上に並ぶ古い農家の茶色の土塀と、その並びに続く木々の列に過ぎないのだが、数枚の田圃を挟んだ住宅地の向こうに、言葉通りの壁を形造っていた。
 
壁の色そのものが見慣れないものであったのと、木々がそれほどにも並ぶ姿が異様に思えたのだが、その存在は、いつもいつもわたしを眺め下ろしているように感じられた。しかも木立の上に聳える鼠色の建物は、周囲の風物から全く孤立して見下ろしていた。大人達はこの建物を「やくせん」と呼んでいて、「やくせん」の話が出れば必ず、「大戦中には、あの建物の上に高射砲があり、B29を目掛けて撃っていたんや」と話しは続き、それがまた、わたしには眩しいというか、無視できない存在として残った。
  こんな状況であったから、いずれはその存在を確かめることにはなったであろうが、その時は真夏の最も暑い時間になってしまった。その時間帯と言えば、虫も蛙も、あらゆる生き物が日陰に潜む時間で、そのためわたしは時間を持て余したに違いない。わたしの記憶はそこから、とても広い間隔を隔てて並んでいる家々の、土塀に挟まれた狭い道を歩んでいるところに跳んでいる。わたしは右を左を、そうして前後を忙しく観察しながら歩いていたと記憶している。たしか、道の左手には小さな、水の流れていない溝ともいえる川があった。道は途中で右に折れて溝を渡り真っ直ぐに続いていた。土塀の間にある門はとても大きくて、まるで一軒の家のように屋根があり、庭はその奥にずっと続いていた。しかし、土塀は所々崩れ落ち雑草が生えていて大きな門の屋根瓦も剥げ落ちている有り様に、遠くから見た時に感じた威厳はなく、何故かほっとする気持ちを感じたのだ。わたしの影は白く乾燥した大地の足元辺りにあり蝉の鳴声以外に聞こえるものは無かった。
 
村を抜けると僅かに道は広くなり、右の向こうには近鉄電車の踏み切りが見えていて、左手の突き当たりには、木々の茂る森と、その上には「やくせん」がいよいよ聳えて見えた。当然ながらわたしは「やくせん」への道を取った。
  やくせんとは、これはわたしが高校になってから、ふと思い出したときに地図を調べて判ったが、薬科専門学校の略称で、なぜまた、当時はあんなに田舎であった場所に専門学校を造ったのかと疑問を感じたことも覚えている。
  薬専への道の途中には石橋があった。そこまでは迷いも無く進んで来たが、橋の上でわたしはうろうろと考えた。水の流れ来る方向からすると、川はわたしの住宅地の南をかすめる川に違いないと思った。再び薬専に目を移すと、建物がすぐ傍に、しかも本当に大空に聳えていて、その周囲には建物にも劣らない高木が立ち並んでいた。なによりも恐ろしく見えたのは、薬専の建物のど真ん中に明いた黒々とした穴であった。そうして遠くから見えた薬専の建物とは、何かもっと広い領域の入口に過ぎないことに初めて気付いたのだ。しかもその入口の、歳月を経てまだらになった鼠色の表面の殆どが、濃い緑と茶色の入り混じった蔦の葉で覆われていた。
  なんとも恐ろしいこの様相に脅えながらも、わたしは建物に近付いた。穴には重そうな鉄製の、両開きの扉が付いていて、大きく開いた向こうにはもっと背の高い四角の建物が建っていた。それも一つでは無くて、奥の方へと何棟かが並んでいる。人影は全く無く、それもまた後から考えれば当然なことで、夏休みの暑い盛りに学校を訪れる人は、わたし以外に居る筈もなかったのだ。
  これはとても入って行けないとわたしは諦めた。そこで左右を見ると道は薬専の生垣に沿って両側にある。そのいずれの道も両脇には鬱蒼と木が茂り薄暗く、しかしそれでもまだ、暗く蔦に覆われた門よりはましに思えたが、その有り様は田圃の中で暮らすわたしには殆ど信じられない光景であった。その臆病さゆえに、もう帰ろうかと
思ったのだが、何故か、今も判らない理由でわたしは右への道を進み始めた。
 
恐らく、それは、やはり臆病さと共にわたしの心の特徴とも言える好奇心の故だろうと思う。そう言えばわたしは、知らない街を、そこが如何に汚らしく汚れた通りであったとしても、恐れを感じながらも歩き回るのが好きであった。旅先では少しでも暇があれば街路を徘徊した。そんな習癖がその頃から備わっていたのだろう。
  とにかくわたしは、門の建物に沿う右の道を取り、暫く歩けば薬専の敷地の角に達した。道はそこで直角に右に曲がっていた。見ると、道は敷地境界の金網柵に沿って真っ直ぐと続き、金網の内側と道の反対側に立ち並ぶ木々の垂下がる枝々に遮られて果ても見えない有り様であった。この道を行けばどんな所に行着くのだろうかと、ちらっと考えはしたのだが、もうわたしの恐怖心は限界に達していた。わたしは、何か得体がしれないものに襲われるかのように思え、後ずさりして門の方へと下がって行った。それから、どのようにして家に帰ったかの記憶はない。
  小学校も三年を過ぎた頃から絵を描くことが好きになり、、春夏秋冬の季節の移り変わりの中で二度と同じ姿を見せることの無い山々の、一瞬の姿を絵に残そうと試みた。しかし、描かれた風景は、みすぼらしく単調な形骸でしかなかった。それが何故か、どうして彼等を表現できないのかと突詰める努力があれば、新しい道が開かれたかもしれないが、例え描くことが出来なくとも、そのものが目の前に日々存在することで、その努力もなく、わたしは描くことを諦めただけであった。
  小学6年生の時にわたしの一家は、田圃の中の家から、同じ南河内ではあったが、疎開者住宅地を脱出して、もう少しまともな住宅地に移り住んだ。しかし、そのことは後から考える限りにおいて、わたしの人生の最も光輝く部分からの別離であった。その後の人生は、ときたま、例えば、女房との数ヶ月の恋愛期間とか、仕事で何事かを成し遂げた時の充実感はあったものの、日々が輝きであった頃に比べれば、色褪せたものでしかなかった。それに、これからの残された人生であれほどの輝きの時を作り出す気力も自信も無く、つまりは二度とは経験できない貴重な日々であったのだ。
 
だが、あれこれと考えてから、わたしはそのことを悲しむことも、自分に哀みを感じることも無いと考えた。なぜなら、あれほどの輝きを得ることが出来ただけでわたしの人生には意義があり、それと同時に、わたしそのものが、大地のほんの一部ではあるが、たんに動き回る微小部分として存在したに過ぎないと気付いたのである。しかも、わたしは幼児期から変わることなく、いやそれどころか、生命なるものを得る以前から、それに、これからも変わることなく大地の一部であり続けることにも気付いたのだ。

谷津の中で

 その頃わたしはしばしば思ったものだ。木々の枝に覆われ崩壊が続く小道に仰向けに寝転がり、辺りには夏の盛りは過ぎて秋の気配が訪れていたが、わたしの周り、そこは欝蒼たる木々に遮られ大気は澱み、おかげでまだまだむし暑く、視野の端から端、つまり、谷筋とは、ほぼ直角に横たわるわたしの視野の端から他方の端までに、谷を包む斜面林の梢に挟まれた細長い空は、深く遠く、それでいて心を穏やかにするやさしさに輝いていた。青い空の奥深くから、わたしの姿を眺めるとすれば、わたしは単なる点か、それよりもまだ遥かに小さな存在で、そもそもわたしの寝転ぶ谷は長さはたかだか二キロで、谷の両側になんとか残された斜面林の間隔は、それが谷幅なのだが、最も下流でも百メ-タにも満たず、そんな谷は地球の表面に刻まれた、かすかなかすかな皺にしか見えないだろうと。その有様では仮に神が存在するとしても、わたしを眼に止める程の視力はとても期待できず、神の存在については明らかに出来ずとも、このことだけは事実に違いないと思えた。
 なぜその頃わたしが谷津に、つまり地球の皺のひとつに寝転ぶことが多かったかと言えば、話はかなり長くなり、それはまた、日々の過ぎ行く中でしばしばのこと、何が何の原因で、どれがどれに引き続く出来事であるかは捉まえがたく、つまりは、これらいろんな出来事の関わりとわたしの心情が谷津に向けられていただけのことと思える。
 腰を起こし眼の前に広がる二枚の休耕田を眺めていたわたしの奥深くには、機械の振動が残像のように残っていて、その振動は胸を圧迫するかのように重々しく体を捉えていたが、心だけは何事かを、それもかなり困難な仕事を果たしたときの浮き立つ気分に膨らんでいた。かってはその気持ちをビジネス上で持つことが極く普通であったのだが、歳と共に世間を知り人なるものの本質を知るようになってからは、感動は既に消え去り、むしろいろんなことへの嫌悪感が先立つようになってしまった。
 青々と育ち始めていた背高アワダチソウはほぼ刈り取られ、草刈機を引き継いだ原田さんが仕上げの草刈りを続けていた。
我々の手の及ばない、それは距離や労力の問題ではなくて、人の世の約束事となる所有権と法規の関係で手を出してはならない領域となる田圃には、どうしようも無いほど育ち過ぎた背高アワダチソウは春から一度も刈取られることもなく膚は褐色で、あたかも木々のように茂り頂上には枯れた綿毛をいっぱいに着けていた。綿毛に守られていた種子は去年の秋には放たれ、この皺のどこか、それとも更に遠くの地表で新しい命を育んでいるに違いなく、残された脱け殻は既に占領した彼等の領域を他種の命に奪い返されることを拒絶する存在として残り、どういう仕掛けかその試みは充分に効力をそなえていて他の草木は芽をだせないでいる。 
 人影の薄れた斜面林には笹が、田圃には背高アワダチソウが繁茂するのが常だと、これは原田さんの言葉だが、そんな谷津には手を加えず、有るがままの自然の盛衰を観察するのも一興かなと、だが、そもそも休耕田を整えてレンゲを咲かそうと提案したのも原田さんで、その困難なことを考えれば、わたしはどちらからと言えば渋々同意したのだが、なんとしても遣り遂げればならないと理解しがたい情熱に駆られた原田さんは謄本から地主を調べまわり、草刈りとレンゲを播く了解を得ようと努力して、谷津の多くの所有者の二軒の農家の了解を取り付けた。しかし、そう広くは思えない二枚の休耕田だけでも、結局はわたし達の手に余ることになったのだが、とにかくわたしは原田さんの企てに労力だけは提供することにした。
 最初の年、つまりわたしが寝転がっていた年の前年のことで、最初は鎌で刈っていたがそれはもう大変な重労働であった。谷筋の真ん中の光を遮る物も無い所で、草刈りの時期は暑い最中だから、我々の体は絞り切った雑巾のようになってしまうのが常であった。これでは草を倒す前に体が消耗してしまうと金を出しあって草刈機を買うことにした。提供は労力だけとの約束は崩れたが、これは原田さんもどうようで、金まで必要とは彼も思っていなかったに違いない。
 たった一台ではあったがその効果たるや抜群であった。みるみる休耕田は丸刈りとなっていった。しかし草刈機の扱いは容易なことでは無くて、手刈りとはまた違った種類の疲れが、重い機械を操る疲労と、それに加えて体の奥底に残る振動は、その夜から朝にかけての睡眠中に体がばらばらになるような気怠さとして現われた。しかし、それでもまだ手刈りの疲労よりはましではあった。
 もうひとつの短所は、ただ一台を交互に扱うことで、もともと話下手なわたしと寡黙な原田さんとでは話が弾むはずもなかったのが、いよいよ話をする機会が少なくなり、我々は単に草刈りだけに集まるような関係に陥ってしまった。
 草刈機の扱いは、それは全ての道具に等しく言えることだが、機械と体とが一体にならなければ満足な仕事とはならない。原田さんの動きはそれは見事なもので、機械が体の完璧な一部であるかのように、唸りをあげて回転する刃先が見事に地面を舐めて右から左へ、軽く戻してまた右から左へと、彼の手の延長であるかのように、しかも腰と共にその新しい手が廻る角度は毎回測ったかのように一定している。それに較べてわたしの場合には、力まかせのブルドーザーのようにただ、草々を切り裂いてゆく。判ってはいるのだが、これはもう性格的なもので、私の生き方そのものと同様にどうしようも無いものに違いない。わたしの欠点が、ある視点では長所でもあるように、全ての遺伝子は違った可能性を秘めて、環境や境遇の変化に備えているのだ。全ては数十億年の進化の過程で命が得た厳しい教訓のなせる技に違いない。
わたしと原田さんが、この谷津の中で時と場所を共有する、それが偶然とも見えようとも、その背景には、永い時を経た自然の織り成す教訓の成果が織り込まれているのだ。
 今も原田さんはその無駄の無い動きで、、わたしが彼の視線を感じたように、わたしがじっと観察していることを背中に感じながら、機械を軽やかに扱っていた。しかしそれは見掛けだけのことであって、機械の重さと草の切り裂かれまいとする様々な抵抗、それに切り裂いた草を前進と次の旋回の動きの邪魔にならない所に押し倒すためには、全身の筋肉を継続的に動かし、コントロールしているのだ。
 水さえ使えれば田圃に水を湛えて背高アワダチソウのみならず、陸性の雑草を一掃できるのだが、谷津田の水利組合はとっくの昔に解散してしまい、谷津の方々にある給水用ポンプ室への電源線も取り除かれている。谷津は急激な衰退の最中にいて、衰退を押し止める意義については、草刈りをする本人のわたし達にも明確な主張もなく、そのように稀な行動をする人への配慮は行政には無かろうと、水を使っての作戦はあきらめている。ただ、あきらめているのは私だけで、原田さんがそう洩らしたことはないから、彼の心中ではこの作戦がくすぶり続けているに違いない。
 一週間に一日の、しかも草刈り始めと終わりの僅かな時間で交わす会話で、私は原田さんの境遇とか人となりを、できるだけ探ろうと努めたのだが、原田さんもまた私のことを探ろうとしたものだから、いわゆる心の探り合いのようになってしまい、お互いに疲れてどうでもよくなってしまった。それからは相手のことを気にしないで、ありふれた世間話とか会社での出来事とかを話題とすることにした。それはそれで、異なる世界での異なった心のありようにはお互いに新鮮な驚きを感じることも多く、谷津でのひとときは捨てがたい魅力を持つこととなった。
 谷津は新しく出来た東葉線の八千代緑が丘駅から徒歩で十数分の所にある。住宅地の小道を入り込むとすぐに谷津の入り口で、こんな所に自然が、しかもそこから二キロに渉り続いていることには、その事を知ったときにはわたしも驚いたものだ。谷津の両側に薄く続く斜面林と立並ぶ工場とか住宅に遮られて谷津の存在には気付く人は稀で、気付いている人々にとっても彼等の生活とは関係の無い存在として無視されている。
 原田さんも、この東葉線の開通を狙って緑が丘の駅近くに家を得たのだが、開通は遅れに遅れて目論みが外れ、都内の勤務地に二時間近くをかけて通う日々が十年いじょうも続いてしまった。その終わりちかくの散歩の途中で迷い込んだ小道の奥に谷津があったのだ。何度も谷津を訪れるようになり、そこで彼は田を育てる人とあたかも彼等と共存するかのような様々の動植物に魅入られたらしい。
 彼がしばしば呟く「ぼくは単なるピュア-エンジニヤでねえ」との言葉には、自嘲のような響きを帯びてはいるが、それはまた彼の誇りでもあるのだろうと想像し、わたしには計り知れない心の傷が、彼をこの谷津へと引き付けているに違いないと、彼との会話から推察したのだが、その推測が合っているのか、それとも誤っているのかは、聞いて確かめたこともないし、仮に確かめたとしても、彼の心の内をそのまま吐露するとは限らず、結局はわたしの想像のままだと信じる以外に道はない。人は他人を推察する以上には真実を知ることは出来ず、またそれ以上の真実が存在する筈もないと、そう常々わたしは考えている。
 さすがの原田さんの動きも鋭さが衰えてきた。刃先の切り返し、腰の切れ、それに前進の運び、全てが惰性となったかのような動きになっている。そろそろ交替する時機だと私は立ち上がり、道脇の勾配を下り遠回りに原田さんの前面へと廻った。草刈り中には後から近付いてはならない。それがわたし達の約束となっている。
 噴き出す汗が眼に流れこむのか、原田さんは眼を瞬いきながら顔を上げて私を見詰めた。微かに微笑んでからアクセルをゆるめた。爆音は即座に収まり不連続な騒音となった。「交替しよう」とわたしが音に負けないようにと大声を掛けた。
「ああ・・」と口は呟きの形となり、呟きと共に刈り取られた草々の青臭い臭いがわたしの方へと押し寄せた。
 草刈機は、そこが鎌仕事との大きな違いなのだが、一種熾烈な破壊を伴う仕事で、動物の悲鳴の代わりに、草々は死の薫り噴出するのだ。しかし、死の薫りは私たちを怯ませることは無く、むしろこの強烈な破壊と死の薫りにある種の喜びを感じてしまうのだ。
「ちょっと、ボルトが緩くなったようで、それに、グリースを入れた方がいいでしょう」と、原田さんの声には力がなく言葉の殆どを唇を読むことになった。
 わたしは頷き、体を返して道に戻ることにした。
 肩から外した草刈機を道端に置き、ぐっと背を反らした原田さんが、
「レンゲの花が咲いたとして、それがなになんでしょうかねえ?」と空を見上げたまま言った。腰を落とし刃先を外そうとするスパナを握ったまま、わたしは少々硬直してしまった。原田さんの心を推し量りかねて下を向いたままじっと考えた。それから、
「どうですかねえ。長くとも、それに短いとも思える人生で、何か意味のあることが有りましたかねえ」と答えてから視線を上げて原田さんの表情を観察した。
 彼には時に思いもよらぬ質問で人の反応を試す傾向のあることを、最近になり漸く気付いた。そのような質問には、できるだけ曖昧模糊、意味不明な答えを返すことにしている。わたしに向けられた原田さんの顔には普段の笑顔が浮かんでいるだけであった。
「苦労して、生きてきたようで、それでもたった五十数年・・・」とわたしは続けて、後は言葉に出さず、その僅かな年月に人は愛し、憎み、喜び、悲しみながら暮らしているのだと考えた。この歳になれば、日々を大事に暮らそうとは思うのだがなかなか思い通りにならないのも人生で、人並みの生活を維持するには働かねばならず、働く内容はいよいよ夢の無いものとなり、とても喜びを見いだせる代物ではない。それでも人は生きてゆかねばならないと、思考は奇妙な具合に続いたが、わたしは出来るだけ剽軽な口調で、
「草刈りを楽しみ、それにレンゲが咲けば花を楽しめますね。そう草刈りは・・今年はこれで、えーっと・・三度目で、これで種を播くから一年に四回楽しめることになりますかね・・こんな楽しみを出来るのも、あと二十年、いや十数年といったところですね」
「確かに・・」と言い休耕田に顔を向けた原田さんはわたしの話題に乗ってこない。
「レンゲの寿命が一年で、我々は多くて百年。一年と百年って、差があるようで、あまり変わりはないですねえ」と再び無意味な言葉を続けてから、わたしは視線を刃先に戻し、差し当たりの仕事に戻ることにした。ところが、原田さんは突然考えを変えたように、
「そう、動物の生命期間には、それほどの差は無いですねえ、植物にしても長くて千年とか二千年ってところですから・・・」
 急がねば日が暮れてしまうとは思ったが、久しぶりの会話も悪くはない。それにしても原田さんは何を言いたいのだろうかと、わたしは再び視線を原田さんに向けて、
「そんなふうに考えると、死ぬことは当然のことで・・・死に対しての恐ろしさも無くなってしまいますね・・・」
「そう・・頭の中で冷静に考える限りは・・しかし、いざとなって死を見詰めた場合にはどうですかねえ。恐らく、生きてゆくために必要な生への執着が、つまり死への恐怖が蘇るでことになるのでしょう」と、言いながら原田さんは僕の横に腰を下ろして言葉を続けた。
「アカガエルの産んだ数多くの卵の中で成長するのは僅かにすぎないし、蜂たちもまた、巣の外では生死をかけた餌探しを続けていますねえ。自然の中では常に生と死が同居しているんですからねえ」
 わたしは刃先の取り替えを後にすることに決めて、腰を回し休耕田に体を向けて両腕で膝を抱いた。ところが原田さんの言葉はそこまでで、傾いた陽に照らされた休耕田を見詰めたまま、何事かを考え続けていた。わたしは再び仰向けに寝転び、視野の端から端までの青空を眺めてから、眼を閉じたのである。閉じた目蓋の裏側には青空の補色を背景に白く原田さんの背姿が彫り込まれていた。

2013年3月15日金曜日

屋根塗装(1)

ずっと寒く、天気が良ければ、風が暴風状態の日が続き、作業がこわいので中断していた。
が、突然、風が治まったので屋根塗装の準備ワークを再開した。
写真のように、屋根に上る足場は、これは寒くても出来たので、冬の間に造っておいた。
なお、足場にはベランダアンテナを取り付けた。元のベランダアンテナ用サポートが、足場の邪魔になったからだ。なお、ベランダアンテナはタワーの方向とは逆の方向に向けて、反射波をとらえている。これでも、新しいタワーの試験受信時には確実に画像は良くなった。
将来のことだが、足場が不要になったら、足場のハンドレール等に使っている32径x2mパイプでアンンテナ台を作ることにしている。その際には、今回使った屋根馬もサポートに利用する予定だ。
我が家の屋根はちょっと変な形をしている。
ロープワークするにも、ロープで棟押えが損傷しないためと、それと、ロープがずれない工夫のために、屋根馬を利用するのだ。
屋根馬を取り付け、四方から支持線で止めた。

下から見るとこんな風景だ。

屋根勾配30度で、屋根材質がセキスイブリックだと、靴底をしっかりと当てれば転げることはないが、前向きに降りるのは素人にはちょっと無理だ。
ロープでブルージック結びを使うと、より安全感がある。
慣れれば大丈夫と思える。
屋根馬がロープを支え切れるかも心配だから、ロープを屋根の四方からは無理でも、工夫してロープだけでも支えれるようにする積りだ。
これほど天気の良い日に、屋根の上から四方を眺めるのって気持ちが良い。

しかし、花粉と中国からの粉じんがいっぱいなのだろう。
いずれにしても、塗料缶を開ければ一気に事を進めねばならないが、
4月初旬には大阪に行く。大阪から帰ってスタートとする。
それまでは、屋根の上でロープワークの練習と考えている。
ところで、靴は底の溝が多い特殊なのを使い、
ブルージック結び用スリングは細引きを適切な長さに切って私作しました。

ロープワークの実例としては、この人のが参考になります。
自給自足に関しては、井戸堀とか、いろんなことでも参考になります。


なお、壁塗りの時でもそうだが、作業を女房に知られるのは、既成事実化してからでないと、
猛反対されるのは明らかだから、今は、こっそりと作業を進めている。
ベランダの足場も、ベランダアンテナの支えだと言ってごまかしている。

追記
ここを読んだ友人から、「ロープワークとかブルージック結び、バッチマン結びとか、不明な言葉が多く、危険な作業と思える」との反応があった。が、実際に作業した感覚では、実際の危険さよりも、恐怖感の方が強いと感じたので、これを分析してみる。
6分勾配とは、水平距離10に対して登りが6、つまり約30度の勾配である。この勾配でのバランスを考えると、垂直の体重は力の三角形を描けば、斜面に直角な力10と斜面に平行(斜面方向)な力6とで支えられる。ピタゴラスの定理では、その合力は、垂直の力136のルート(1/2乗)=11.66 となる。つまり僕の体重55kgは、屋根面に垂直な力 55 x 10/11.66g  と斜面に平行な力 55 x 6/11.66kg の合力に等しい。この場合、斜面に平行な力は、滑り力となり、これを斜面が支えられないと滑り落ちることになる。
通常、斜面の支える力は、斜面に直角に掛かる力の0.1~0.3程度(これを摩擦係数と称している)だから、6分勾配では斜面に掛かる力の0.6を支えねばならず、通常の物体では必ず滑り落ちることになる。
だが、靴底に十分に溝がある場合、ちょうど今回の場合だが、ちょうどバランスしている状況のようだ。つまり、溝の多い靴の摩擦係数は0.6程度はあり、屋根上で、補助道具が無い場合の作業限界を6分勾配とするのは、理にかなっていることになる。
このような状況だから、仮に体が滑りそうになっても、ロープで僅かに支えるだけで、この屋根上でのバランスは確実に維持されることになる。ただし、斜面が濡れた場合には、摩擦係数は極端に低下するので、とても危険なことになる。その点だけは十分に配慮が必要だ。安全に対する配慮としては、仮に足を滑らせたとしても、ロープが体重を保持できるだけの強度を有し、落下を防止するような配置であることが必須でもある。その点を特に配慮してロープがどう有るべきかを常に考えねばならない。というか、このブログでは、作業内容を簡単に書いているが、臆病者の僕としては、いつも、その点にびくびくしながら作業しているのが実情なのだ。