2022年2月13日日曜日

バングラデッシ Ashuganj iUrea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続き)

 僕の出向が決まった時には、既に他のメンバーも決まっていた。新居浜の鉄工課から一人と、同じく新居浜の検査課から一人で、僕も含めて3人であった。検査課からの一人は、電気工事の勉強を兼ねて電気工事担当として行くとのことで、鉄工課の彼は、僕がプロマネであった住金焼結設備の据付時に来ていて、僕も一緒に働いた男で、仕事は大雑把で、世渡り上手ってタイプであった。
出荷は、既に新居浜工場での梱包がほぼ終了していて、僕は様子を見に訪れた。梱包指示や梱包検査は鉄工課の彼が担当していた。しかも製品検査自体も彼が担当していたとのことで、新居浜工場側は大阪コンベヤ課の仕事には全く関与する気が無いのだと思えた。更に、梱包状態と梱包リストを見たが、梱包は機番毎ではなくて、ばらばらの機番の物を混載しており、膨大な量の梱包の中から、機番毎に部品を集めねばならないのかと驚いた。今更梱包のやり直しを出来ないと頭を抱えた。梱包リストはCPUデータに入っていると言うので、せめて、機番毎にソーターすれば機番毎の部品がどの梱包に入っているかが判ると、機番毎にリストを作る様にと指示した。しかし、現地に入って判ったが、指示した彼は、その指示の重要さを理解せず、機番毎のソーター資料を作っていなかった。彼の性格や性情からすれば、そのような仕事での先を読んだ仕事はできないと判断すべきであった。
一方、電気工事の彼は、勉強を兼ねて電気工事担当と行くことになったとのことで、英語が出来るとのことであったが、どうやら英語能力は僕よりちょっとましって程度で、英語通訳には殆ど役に立たず、現地に入ってから英語の勉強に精を出していた。
要するに、製品検査も梱包検査もまともに行われなかった製品の据付指導に、しかも、その指導に、工事指導の経験僅かな僕と、細かい作業や先を読んだ仕事の出来ない仕上士と、電気工事担当だが電気工事の初心者って、合計3人で、工事指導をするってことになった。実に凄い組み合わせであった。

これでどうなることか、絶望的であったが、現地に行って判ったのだが、現地には、フォスターウイーラーが別に雇った本物の据付士(erecter)や仕上士、電気工事士が居て、彼等は本物の据付、仕上げ、電気の専門職で、我が社の様に、工場現場職を派遣するよりもより工事に関しての専門職であり、他方我々は、機械納入側として納入した機械のアドバイスをすることが望まれたわけだ、と言うことが現地に入り仕事を始めてから判った。
海外出張初めての3人が、バンコック中継泊で、バングラデッシ空港になんとか辿り着いたが、到着空港で段ボール十数箱の通関をどうしようかと並んでいると、横から少年が出てきて50ドル出せば簡単に通関できるよ、と言うので、これ幸いとそれに乗ると、走り回る少年と段ボールを積んだ荷車の後を追い、倉庫のようなところを走り回り、外に出ると、そこは真っ青な空に真っ赤な太陽の屋外であった。つまり、そこは真夏でくさ~い空港ビル外であった。そこからどこに行っても、くさ~い人々の群れるダッカの街であった。なお、パスポートにはちゃんと入国審査の印があり、段ボールも足元にあった。そこには住商からの迎えの現地人がいて、その案内で、ホテルに宿泊し、翌日の列車で現地に向かった。住商の応対は日本語の出来ない住商現地社員だけで、その案内も、早朝の現地人が駅周辺いっぱいに地面に寝転ぶ駅までで、そこから現地へは3人と十数箱の段ボールで向かった。現地は、DACCAからぼろ列車で5時間ほど列車に乗ったアッシュガンジ村にあり、そこには電話も無く、日本との連絡は、フォスターウイラーのメール便でDACCA住商にメールを送り、それを、日本に送るか、ローマ字伝送するかしか方法が無く、返信を得る迄、最速でも2週間はかかった。時は8月末の雨季で、国土の20%以上が増水で水没状態のバングラデッシであった。
ずっと後になるが、英語に十分習熟してから、遅れていた設備の試運転に再出向した時には、段ボールは少なめでもあったので、正々堂々と通関をしたが、通関職員にあれこれと指摘されて100ドルも支払わねばならなかった。裏ルートの方が安いなんておかしな話だと思ったものだ。なおその際に彼は、段ボールいっぱいの日本米と段ボールいっぱいの本を持参していた。申告者は僕なので、内容の説明をすると、審査官は「我が国に米を持ち込むとは!」と嘆息した。大量の本を見て、「・・・・」言葉もなく目を向いた。これらは通関できず、後に僕がダッカに出向いて交渉したが、通関料1000ドル余を請求され、僕は放棄することにした。日本から出る際に、3000ドル程度の借受金を持参していたが、その1/3もの金を使う気がしなかったのだ。

ところで、運ぶのに往生した段ボールだが、その殆どは、勤勉でもなければ正確でもない仕上げ士の荷物なのだが、彼は仕事よりも自分の生活を快適にするとか自分の得になることに熱中し、結果として、その負担は殆どが僕に背負わされたようだ。困った人間を部下にすると本当に困る事態になるわけだ。


2022年2月8日火曜日

所得税の申告

 所得税の申告の時期になった。
年金生活者で、収入は限られているので、配当金の源泉徴収分の還付や医療費の還付は小遣い稼ぎには必須である。投資での損害は通算控除できるし、医療費控除もある。
医療費控除は10万円以上が対象だとの通念は、現役時代の妄想で、現役時代給与に比べて少ない年金収入の場合は、所得に応じて上限が下がるのだ。
僕の場合は、趣味とは言え、大阪拠点を民泊にしていて、これのメンテにかなりの費用をかけている。大阪までの交通費や食費にかなりの金額を使うのだが、コロナ直前には民泊収入も増えてきたのだが、今は、恐ろしくて、ほぼ閉鎖状況だ。だが、メンテ費用は掛かるので、収入ゼロで、赤字になる。
民泊経営は雑所得で、損益通算範囲が限られるが、なんと、年金所得も雑所得だから損益通算できる。医療費は元々、全所得から控除できる。
なお注意すべきは、投資損失、特に、株の売却損などは、奇妙なことに、総合課税ではなくて、分離課税での申告でしか通算されない。他方、配当の源泉徴収分の還付については、総合課税での申告となる。が、総合課税だと、市・県民税が、特に、現役時代の給与の場合は、上がる可能性が大きい。また、介護保険料は所得の8%を課税されるから、配当所得を総合課税にした場合、逆に、課税金額が大きくなる可能性がある。国税を総合課税にして、地方税では分離課税のままって方法もある。
今は、税務署の所得税計算ソフトがあるから、総合課税の場合と源泉分離課税の場合を算出して比較すれば良い。更に、市・県民税の計算もして、総合的にいずれが有利かを調べることだ。市・県民税の計算は、その前年の所得税申告額を元に算出されていて、昨年の市・県民税のお知らせに書かれている。
今年の僕の場合は、総合課税で申告することで、株の源泉徴収分をほぼ全額返却されるので、ありがたいことだ。
提出は、2月15日からだが、混雑が激しいので、25日頃にする。自分でデータ入力して出力した分は、必要確証(民泊経営は、確証と損益計算・医療費は費用表)と共に、提出窓口に直接持参できる。税務署のアドバイスで入力する場合は、予約を取る必要がある。

歳を取ると、医療費が嵩むので、医療機関での領収書や購入医薬品の領収書を残して整理することが必須だ。なお、老人には、国民健康保険範囲内の支払いについては、支払上限額(入院がある月の月額56700円、通院費のみの月の場合は、18000円)があり、市が計算してオーバー分を還付してくれるが、自分でも算出しておくことだ。医療費の算出に際してはこの還付金や、民間医療保険の給付金も通算しなければならない。
なお、高齢者医療保険と後期高齢者医療保険は、団体が異なり、我々は知らぬ間に異なった団体間を移動しており、それゆえに、還付金の計算は共有されない。この点は注意すべきだ。

2月24日頃に税務署に提出に行く予定であったが、救急車で病院に運ばれたために3月1日になってしまった。税務署では殆ど混乱はなく、待つこともなく受理された。


2022年2月2日水曜日

追悼 亀田さん

 亀田さんは、確か、神戸大学出で、大阪コンベヤ課出身です。

ただ、僕が大阪コンベヤ課に移動した前年に、異動された後でした。
噂では、亀田→神野→志水 の順に、XX課長からのパワハラ、苛めにあったようで、
亀田さんへの苛めが最も激しかったとの噂を聞いています。神野さんへの苛めは僕も目撃しています。恐らく、課長の愛弟子Mの脅威となる年齢の順に苛め度がちがったのでしょう。なお、僕の後輩からは年齢的にMの部下になる年代で、実際にMの部下になった阪大卒も苛められることはなかったです。その彼等からすれば、苛められる僕は情けない男にみえた事でしょう。実際に苛められる僕を見続けた彼等は、腹の底では、出来ない男として僕を馬鹿にしていた様子でした。僕にしても、苛め課長が神野さんに叩きつける叱責に、神野さんが何ら反論しないのを情けなく見ることもありましたが、苛める人間の強烈な言葉なるものは相手の意思を叩き潰す力があり、苛める側の不当な言葉にも反論はだせないことを、僕は人生初めて経験し、神野さんの立場が漸く理解できました。人間ってそんなものです。
でもね、大学院での経験から、1人で何でも出来るって自信と、入社後、特に大阪移籍後に大きな案件を自力で次々、それも、与えられる部下や外注人員も最少で、更には、大きな利益を上げながらこなしているから、苛めにもすぐ慣れて、湯気を上げて怒鳴っている課長の頭越しに窓の外の淀川の季節ごとの風景を愛でて嵐をやり過ごすって根性になりましたな。亀田さんも恐らくそんな心境でやり過ごしたのでしょう。それに、後で出会った亀田さんは生来、楽しいひとでしたから、苛めなんて気にする人ではなかったでしょう。神野さんも亀田さんも優れた技術者であったと確信出来ました。

其の後、ず~と後に亀田さんは自動倉庫に移籍されて、自動倉庫の標準化を担当されたのですが、見事にこれを果たされ、僕が物流に行った時は、その技術成果は、競争力の強さとして強力な受注の助けなり、僕もそのお蔭で次々と受注できました。 

でも、亀田さんも、神野さんも、素朴で相当有能な技術者でありながら、配属先の上司で人生がかなり歪められたと言えるでしょう。

でも、亀田さんはさようなことには拘らず、物流でも頑張り、確か、地元の合唱グループで頑張っておられた筈です。
僕とは違い、明るく周りの人々に好まれた人生を過ごされたと推測します。

亀田さんのご冥福を心から願います。