2013年2月27日水曜日

志水勇のライフワーク

ここはず~っと僕の自慢話だ。
以下に述べるように、困難な仕事を、しかも、赤字をださないようにと必死で努力して、実際にこれを達成したのだが、後に述べる中谷部長や丸山部長、佐薙係長は別にして、それ以外はどっちかと言えば、住友重機械特有の陰湿なパワハラで扱われ、褒められることは全く、全然なかった。会社の待遇や肩叩きのやりかたも、全く評価なしだったのだから、少々自分で自慢しても良いだろうと思う。
僕については、下記も詳しいです。
僕の優しい兄と姉について
http://isabon.blogspot.com/2014/07/blog-post.html
姉と兄の現状
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_8.html
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_16.html
僕の高校時代
http://isabon.blogspot.com/2022/07/blog-post.html
僕の蓄財法
http://isabon.blogspot.com/2023/04/blog-post_2.html
志水勇の旅行記
https://4travel.jp/traveler/isabon/album

調べてみると、GoogleMap機能が更に進化している。僕のライフワークを調べてみた。
八戸の長距離コンベヤである。港への鉄道、道路横断部分で、StreetViewでは、港の施設周囲を見ることができる。
N40.528439E141.549804
この鉄道を越えるコンベヤは、見事な懸垂曲線に設計した。今でも、StreetViewをみると、当時の感動を思い出す。就職して最初の仕事だが、正しい計算を忠実に行った結果は、常に正しい結果になることを知った経験だった。これ以降、可能な限り計算をすることで、設計根拠を確実にする癖ができたと思う。

八戸鉱山第3駆動室や第5駆動室か,八戸鉱山No.4長距離駆動室で、検索もできる。
地下をコンベヤが走っていて、今では5か所ある駆動室は全て住宅地の真ん中になってしまった。
つまり、設備の殆どは住宅地帯の地下を、しかも8kmにもわたって設置されているのだ。
 大学院を出て就職したばかりの若造の僕が誰に指導されることもなく、全長8km(総計5本のコンベヤ)の設備全体のみならず各駆動室の計画・設計をした。鉱山の地下-200mから地上まで石灰石を運ぶ斜坑コンベヤを含め、全設備が今でも日本最大級の設備である。
設計だけではなくて、据付期間中に訪れた時には、なぜか、最長コンベヤの試運転で、最先端の駆動室で、たった一人で号令・指令を発する役までさせられた。
(おそらく、現場の連中が面白がってそうさせたのだろう。だが、設備に自信があったので、何のためらいもなく大役をこなせた)
 苦労して設計したが、あれで良かったのだろうか、と今になってもふと思うことがある。客先の立場で考えると、これだけの巨大設備を大学卒業歴然な僕に任せることを良く納得したものだと思う。しかし、結果的には、今でも住金鉱業が黒字で稼働しているのだから、あれで良かったのだ。
それにしても、今になって振り返ると、恐ろしいことをたったひとりでやっていたのだ、と思う。

ところで、就職前には大学院でこれを研究した。
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/201002099477760499
僕は、同名の修士論文を出したが、僕の卒業後、後輩の西原さんが全体をまとめて機械学会誌で発表してくれた。おかげでインターネットに名前が載ったのだ。送風機からベルトコンベヤへと、華麗なる転身をしたわけだ。

八戸鉱山や港の船積機はここに出ている。
http://www.geocities.jp/walkmantm/sub26.html
ここに申し込めば見学できるらしい。
http://www.iceee.jp/sisetudb/prev.php?id=367
ここでは、「石灰鉱山として、工業都市八戸の発展の基礎を築いた、とアナウンスで説明していたのが印象的だ。」と書いている。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201208170000/
この人のブログでも紹介している。大山顕って人のブログらしい。
http://portal.nifty.com/kiji/111021149088_4.htm
この僕の設計した岸壁へのコンベヤや岸壁の船積み設備類ってすごいでしょ。
ただ、岸壁のセメント用エアーフロー積込み装置(世界最大能力)は僕が設計したが、石灰石用のシップローダーは新居浜の設計部署の製品だ。エアーフロー積込機は、長距離コンベヤや岸壁施設が出来てから、かなり後で追加したもので、サイロの下からエヤーでセメントを流し出して、大能力のバケットエレベータで上にあげてから空気の流れでセメント用船積機にセメントを供給する。これらのシステムは予算が厳しくて、たった一人で計算し、計画図を書いてこれを外注さんに詳細図を書いてもらい設計した。結果は利益を上げることができた。
長距離コンベヤの終端で岸壁につなぐコンベヤの様子やセメント用シップローダも紹介してる。
http://portal.nifty.com/kiji/111117150708_3.htm
岸壁へのコンベヤのこのカーブ!すばらしいでしょ?
http://portal.nifty.com/kiji/111117150708_2.htm
うれしいなぁ。
ここでは皆さんが、感動してくれている。
http://togetter.com/li/215888
八戸石灰長距離コンベヤの思い出
https://isabon.blogspot.com/2022/08/blog-post_55.html

住金鹿島第3焼結設備は、Googleで見える筈だが、場所が判らない。
幅広のハウスガーダースパンが50m程度もある凄い設備なんだが、他の設備も大きくて判らない。
ここは焼却設備だが、No3か、どうかもっと調べよう。
N35.928293E140.679996

次は、僕が受注ワークに参加し、搬送設備のプロマネをした米国ガルフ湾の石炭ターミナル
N29.837591W85.302744
この時は、SITEの選択をするお客さんのセスナに乗せてもらった。かなり急降下とか上昇をしたので、他の同行者は気分が悪くなったが、僕は楽しく朗らかになった。以降、お客さんは僕を親切に扱ってくれた。

バングラデッシュのは、何箇所か写真は見ることができる。
N24.024241E90.986023
かように進化するなら、ときどき調べねばならない。

ここは、僕が受注した、世界で初めて、ごみ受入れに自動倉庫を使った施設です。
N35.312958E139.645999
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200902155708973063
ここで梁瀬さんは、リサイクル施設全体のまとめ者で、僕が自動倉庫をプランして梁瀬さんの所属する事業部から受注したのだ。その後すぐに、僕は自動倉庫部から肩叩きに会い、梁瀬さんのところで働くことになった。

これも受注したなぁ。柳瀬さんの下で受注した設備だ。多分、消耗品予備品価格が安かったのが大きな要因で、営業力も良かったのかな。
N38.708863E139.733841
これも受注したが、その他プラに切り出し設備が評価されたけど、僕の本意ではないレイアウトに上司がまとめてしまった。受注よりは、受注後の設備設計で頑張って不本意なレイアウトを何とか稼働できる形にまとめた。
N35.365466E139.364448

これらの他にも、住友重機械最初の冷凍自動倉庫とか、造幣局の紙ロール自動倉庫とか、かなり特殊なタイプの受注にも成功した。僕は特殊なタイプの自動倉庫を、特殊なタイプなだけに高利益で受注し続けた。
環境施設部の外注となってからは、住重の名刺を持って、毎年20億円程度の再資源化施設を受注し続けた。

35歳ごろからは、どんなシステムが与えられても、プランし計画して見積することが出来るって自信が出来たし、実際にそれを実現した。受注には至らなかったが、実に様様な、夢のようなシステムさえ構築できた。そんな人間って企業には必要と思うのだけど、あっさりと首を切りよった。住友重機械ってほんとに馬鹿な会社だと思う。それも、同じ大阪大学卒で仕事は出来ないが首切りだけが上手な日納義郎って、とんでもない社長に追い出されたって馬鹿げた話だ。日納は造船科卒だがその技術では能力が無く、首切りって最も安直な方法で力を発揮したわけだ。彼の功績で住友重機械は回復不能なまでに技術力を失ったのだ。

僕が最も自慢すべきは、1年間程度休日出勤して、たった一人で、ベルトコンベヤの設計プログラムを開発したことだ。コンベヤ能力・速度条件等と、主要点のレベルを入力すれば、コンベヤの詳細仕様や構成部品仕様を設計レベルで出力できるプログラムであり、また、発電所や製鉄所のコンベヤ群をたった一人で短期間に見積もりできるプログラムを開発した。今思いだしても、凄いシステムを開発したものだと思う。鉄工品の設計プログラムも開発して、これらのプログラムを使うことで、東京の見積もりグループに移動した時には、港湾設備、製鉄所、発電所などの、数十億、数百億円レベルのコンベヤ設備群を一人で見積もりできるまでになった。プログラムは実施設計レベルの出力を行うので、受注後も簡単に設計できたわけだ。当時僕の所属していた住友重機械工業の運搬機事業部は、新居浜事業所に本部があり、世の中は新居浜を中心に動いているとの考えで、出先であった僕の所属する東京部門から若手を全て新居浜に移したので、数百億の見積もりでもたった一人でやることになったが、そのプログラムのおかげで十分に対処できた。これらのプログラムは、コンベヤ部門を任されたときには他社や外国にも技術的にもコスト的にも追随させないことを目的に開発したのだが、ついには東京部門が閉鎖され、僕は自動倉庫部隊に移動となった。その時点で、会社のコンピュータ内のは全て消去してしまい、プログラムそのものは自宅に持ち帰った。かくして、住友重機械は、昔も今も、労働集約型企業のままで存在する。

と言うことで、新入社員の時から海外の文献も自費で収集し、その後も国内外の施設の資料も鋭意収集したり、いろんなプラントの見積もり・実施に従事したことで、僕はバラ物搬送に関しては世界的な技術を有すると自負し続けたのだが、その後76歳になり、集めた資料の整理が必要となった。本についてはamazonで売ることにして、収集資料類は資源回収にごみとして出すことにした。かくして技術は消え去って行くのだが、恐らくそれは僕だけではなく、日本中の技術者の資料は同様に消え去るのだが、政治家や評論家、それにマスコミは、自分では口で言うだけで何をすることもなく、日本の技術力の低下を嘆いている。そんな姿を見るたびに、おまえは一体何をしているのだと馬鹿馬鹿しくなってしまう。

以下は旅行案内みたいになった。
ローマの僕の好きな安宿 FlaminioVillage
N41.956171E12.482378
RomaNomentanaの宿は、外側に建物が並び、内側は広い公園のような庭になっている。
N41.931281E12.522558
この角のBARが今はTratoriaになっていて、とてもおいしい。価格もReasonableである。
N41.897394E12.470684

Napoliの素敵な宿は、ここの木の扉の中だ。
N40.852993E14.267035

Capriの青の洞窟はここ。陸からの路がある。
N40.560993E14.205258
皇帝ティベリウスの邸宅跡はここだが、ここに至る道が素敵だった。
N40.558328E14.262571

ジョホールバルで僕の宿泊したホテル近くにジャスコがあったが写真が見える。
N1.495569E103.816777
近くに日本食レストランもあったのだ。
N1.500374E103.815404
シンガポールのこの美食屋が広くなっていてうまかった。
N1.28127E103.848503
KUANTANで宿泊したPAN HOMESTAY でとても良かった。
N3.819595E103.333411

なお、2017年に至り、東京都知事 石原慎太郎や、その側近たる浜渦とかに、東京都100条委員会での尋問が為されたが、彼らの言い分は、当時は彼等の決断は周囲から絶賛されたとんことだ。が、それから10年~20年で、今は社会から明らかに責められている。彼等に比べて、僕の造り上げた設備は30年後、40年後の今でも称賛されているわけだ。









2013年2月25日月曜日

星歌子さん はかない夫婦と後見人申請・・義姉についての哀しい話

 女房には9人もの兄弟姉妹が居て、その連合いも含めて全員が65歳以上である。15人程度の義理の兄弟姉妹が毎年、兄弟旅行と称する旅行を行うが、その中でも若手と言える僕とその下の夫婦で、その集いを計画し実行していた。


 それら兄弟姉妹の中で、女房の三人上の姉夫婦には子供が居ない。そのせいか、その姉の夫は、義理の兄弟姉妹仲間でも愛妻家として知られていた。義兄は定年退職後も現役時代に会得したある特殊な技術能力で収入を得ていた。そうして、彼は、普段も、それに、毎年の兄弟旅行でも、姉の名前は歌子と言うので、「歌子はよう、歌子はよう」と、義姉のことを自慢げに言うのが常であった。他方、義姉はお茶の先生を、それも、裏千家の関東支部長も務めるほど活動力のある人で弟子も多く、それゆえに彼女も収入が多かったようで、義兄は「歌子の方が財産が多いんだよなぁ」と嬉しそうに言っていた。夫婦は相談して、一方が亡くなれば他方に財産を全て相続させると遺言信託を作り、「俺たちは、何かあっても信託会社が処理してくれるから心配ないんだよ」等と、これも嬉しげに話していた。僕らは、彼らの言動をほほえましいと聞き流していた。
 が、その姉が突然と言って良いほど急に認知症になってしまった。その前に少しは兆候があったらしいが、それは後になってから気づいたのだった。さらに、その症状は歌子さんが一昨年の正月に階段から転げ落ちて骨折入院した時から更に激しくなった。しかし、その年も兄弟会を計画し、これも無事に終えた翌年、それは昨年のことだが、4月に、歌子さんの亭主、つまり義姉の面倒を見ていた義兄が食道がんになった。仕方なく、義兄は、歌子さんをグループホームへ預けて入院した。当初病院は、我が家から遠い所のグループホームを紹介したのだが、それでは我が家は対応し難いと歌子さんが自宅に居た時のケヤーマネージャーに相談したところ、そのケヤーマネージャーが我が家に近い所を探してくれた。おかげで姉歌子さんの世話は女房に取ってし易くなり、しかも幸いなことに、そこは信頼できる人々が運営する施設であった。
 義兄の方は、彼の妹夫婦が近くに住んでいるので、義兄の世話に当たった。この妹夫婦は、普段から兄夫婦と密着していて、車を買うのに金を出してもらうとか、墓を共同で購入するとかと、極めて親密な関係を持っていた。他方、義姉の兄弟姉妹、つまり、僕の女房の兄弟姉妹たちは皆、それ相応の人生を送っているから、お互いに仲は良いが、自立心の高い兄弟姉妹で、金銭的な関係よりも、信頼を持ってお互いに協力する関係にあった。
言うなら、義兄の一族は親分、子分とも言える密着した関係が多く、義姉の一族は自立した人の付合いの関係と言えるだろう。しかし、その義兄は、義姉一族の年長者には子分的に接するので、これはこれで評判が良く可愛がられていた。正直なところ、この件がほぼ終わった今でも、女房一族の年長者達は、僕よりも、義兄をより信頼し、可愛く思っているに違いない。人間関係とはそのようなものだと僕は認識している。
 さて、その愛すべき義兄の病状だが、船橋中央病院に入院した当初、その進行度は中程度の食道がん、とのことで、僕は、よりよい病院探しとかセカンドオピニオン制度の活用とかをNETで調べたが、それを実行する間もなく、病状、それに、状況は激しく進んで行った。手術するために癌を抑えるための化学療法をすることで、衰弱が激しく、更に病状が悪化するように思えた。その間、義兄の兄弟たちは、兄の世話をするものの、それも実の妹は殆ど何もせず、その連合いだけがこまめに、つまり親分に従う子分のように世話をしていた。が、病気については、もうどう仕様もないとの態度での世話であった。彼の行動は良く言えば実直と言えるが、僕から見ると何事にも工夫が無いのだ。しかし、義兄はそのような妹夫婦が信頼できるようで、通帳は肌身離さず持っているのだが、印鑑は全てを預けてお金の扱いを任せていた。(いよいよ小説的な枠組みが出来たですな)
 僕の方は認知症の義姉の世話を続けたのだが、その世話の過程で、例えば、彼女の入所の契約とか、途中で急病になった時の入院保険金の給付手続きとかで、郵貯保険窓口と折衝したりしたが、窓口の人に依っては、認知症の妻、重病の夫を対象とする手続きは、法的後見人でなければ対応できないと、手続きを断る人さえ居た。厳密に言うなら、認知症の姉を市役所に連れて行き、彼女の名前で住民票とか戸籍謄本を取るだけでも、違法的行為のように思えた。
 ところで、保険の件では、これら金銭的なことは義兄から全く任されていないので気にしていなかったが、義姉歌子さんの急病入院した時点で、義兄の入院は既に3カ月にも及んでいた。義姉の発病は急で激しく、その時には、義姉はもう死ぬのではないか、と心配したが、結局、軽い肺炎とのことで経過は良く一週間の入院で済んだ。その後、姉の保険手続きをしようと考えた時、念のため、義兄に「保険給付の手続きはしているのか」と聞くと、「保険給付は無いだろう」との返事であった。妹夫婦は何をしているのか、と思ったがそれは口にせず、「保険証書などはどこに保管しているのか」と聞くと、家のタンスの中にあるとのことで、了解を得てそのタンスの中を調べさせてもらった。そこには、兄と姉の名義の、実に多額の郵貯養老保険証書、日生の保険証書、その他多数の保険証書や通帳が出てきた。また、ときどき義兄が自慢げに言っていた遺言信託の控えを見つけたのでこれを読んでみると、信託会社は、単に、一方が亡くなれば他方に全財産をゆずる、との遺言書を預かっているだけのことであった。つまり、義兄の言っていたこととはまったく違って、信託会社は義兄夫婦に若しかがあっても全く何もせず、資産の保全は全て義兄夫婦がしなければならないのだ。義兄夫婦だけではなく、家を預かった妹夫婦も 一体何をしているのだ、と思った。
 タンス内資産の総額はかなりの高額であり、義兄が肌身離さず持っている通帳以外、つまり、彼等の殆どの財産は無人の家のタンスも中に入れているのであった。余りに数が多く理解困難なので、義兄と義姉のそれぞれの資産表を作り義兄や義兄の妹夫婦にも控えを渡した。
 また、これを元に、義兄と義姉のもらえる保険給付金を調べた。結果、それまでの入院で、兄は120日分150万円強、姉は数万円をもらえることになり、これを保険会社と折衝した。先述のように、義姉の保険給付では、郵貯窓口とかなりもめることがあった。その経験から、「保険給付は出来たものの、今後のことを考えれば、義姉に後見人をつけることが必要だ」と提案し、義兄や彼の妹夫婦の同意も得た。それと同時に、法的な後見人制度では、被後見人の財産は裁判所の監視下に置かれ、後見人が被後見人の財産に手をつければ直ぐに逮捕されるシステムになっている。だから、歌子さんの財産を守るにも最適の方法であること等も、NETで出力した資料をもとに説明して彼等の納得を得た。
 後見人の申請は家庭裁判所に行うのだが、後見人には係累的に限られた人、または、弁護士とか司法書士等の資格ある人が選ばれる。女房には係累的な資格があり、また姉を世話するのに便利な所に住んでいるので、女房を後見人として推薦した。申請に必要な書類として、夫である義兄や、義姉に対する相続権を要する人々、つまり義姉の兄弟達の承認書が必要で、更には法務省への申請、その他、種々の準備が必要で、その手順は、各県の家裁でわずかに異なっている。
 必要書類、その準備作業は複雑だが、家裁WEBの様式に正確に従うことで、僕にとっては手間は掛かるが困難な仕事ではなかった。特に注意すべきは、姉の財産の把握で、その資産に基づき裁判所は資産チェックをするので正確であることが必要だが、これは、保険受給に際しての調査結果が役立った。
 WEB
には、申請後3カ月程度で審判されるとのことで、家裁への確認事項があり電話したときに、そのことを問うと、「書類がしっかりしていれば、即日受理され、審判も直ぐに下される」とのことであった。このため、申請書類内容の確実化だけなく、その内容の分析など、提出資料の正確さを確実にするとともに、義兄夫婦の生活の紹介とか、家裁に後見人候補者への信頼を得るべく、女房のみならず自分の生活態度など、説明用資料も準備した。そのような準備を910日頃から初めて920日頃には申請を行った。受付窓口で説明すると、担当者は「本職並みだ!」と感嘆の声をあげ、そのまま、相談員との打ち合わせとなった。相談員は僕の作った書類よりは世間話的な話が主で、その会話で我々夫婦の人格を見極めるような雰囲気であった。このような経過を経た後に、資料は裁判官審理には十分です。結果を待てとのことになった。疲れたが、それだけの評価を受けると、疲れが吹き飛ぶような思いであった。
 数日して、女房を義姉の後見人にする、との審判書が送られてきた。ただし、これは通常の手続きなのだが、姉の財産の明細を再調査の上で提出することが、要求されていた。その作業には、義兄のタンスに戻した各種証書類を金融機関や保険会社に示して、義姉の資産を再確認する作業が必要とされた。
 さっそく義兄に報告を、と病院を訪れ、審判が下ったと言うと、なんと、義兄は「後見人を降りてくれ、俺の生活が成り立たない」と言ったのである。さらに、「こんなに早く審判が降りることがおかしい。以前から準備していたのだろう」とも言い、それを理由に証書類の借り受けはきっぱりと断られたのであった。その後、義兄の説得に何度か病院を訪れたが、何と説明しようが、全く聞く耳を持たぬばかりか、「あんたたち夫婦は信用できない」とまで言いだした。更に、義兄の妹夫婦が話をしたいと言いだし、妹夫婦が預かっている義兄の家で話し合いの場を持った。彼らの話とは、義兄の財産に比べて義姉の資産が多すぎる。つまり、義兄の稼いだ金を義姉が自分の資産としてしまった、と主張したり、義兄の実家で家を改修するので、金が必要だ、とか、わけの判らんことを言い出したので呆れてしまった。義姉が長く茶道の教授で稼いでいることや、夫婦は二人で資産を得たのだから、どのように配分したかは判断の仕様がない、などと回答したが、その回答は彼等を満足させるものではなかったようだ。要するに、彼等が何を言いたかったのか、今になってもしかとは判らないが、ただ単に、義姉の資産が多いこと、それが不満と思える主張であった。どうやら、義兄も同様に考えているらしく、先の説得の際に、「不動産は義兄の資産だから、これを考慮すると、二人の資産は同程度」と主張しても、「今時、不動産などは二束三文だ」との反論で、とにかく、後見人を降りろと主張するばかりであった。その時の義兄の表情は、ちょうど陶器のような冷たい表情で、それこそ、爪を立てることさえ出来ない表情であった。
 後に記述するが、この後直ぐに、義兄が妹夫婦に不動産を相続させるとの遺書を与えていたことからすると、確かに、不動産はもう彼の資産ではなく、そう考えると、義兄としては姉の財産を自分が自由に出来るようにしたかったのであろう。だが、遺言書とは、彼の死後の財産処分に関するものだから、生きている間はまだ彼の資産なのだ。しかし、彼は、義姉の財産への権利を正当化するための説明に、そのような言をしただけのことかもしれない。だが、もうその時点では、彼の病状については、既に医者の説明があって、義兄の食道がんは、気管や血管と癒着を起こし、手術は出来ず、放射線治療のみで、それも半年とか1年はもつかな、と医者に宣言されていたのだから、義兄はもう自分のことではなく義姉のことだけを考えるべきであったのだ。
 そのような容態であるから、僕は保険給付金を病院の個人部屋使用に使うようにと提案したのだが、義兄は「個人部屋は好きじゃない」等と答えていたが、それは単にけちの現れで、そのような節約には何の意味もないのでは、と僕は心の中で考えたものである。
そんな感想は別にして、義兄の拒否で資産証書類の借用は出来ず、女房を後見人にすることは出来なくなった。が、実は裁判所の担当者がアドバイスしてくれたのだが、資産の所在は明らかだから、金融機関に対し証書類を紛失扱いとして、後見人管理とすることも出来たのだ。だが、女房と話し、本件の金に関してはこれ以上は深入りしないで、裁判所に任せようと決めた。
 義姉は既に、法的には後見人を要す、との立場なので、義兄には「こちらは降りるが、そちらで、後見人をたてるように」と説明し、「義姉の兄弟達の承認書も必要ですよ」とも説明した。義兄は「わかった。歌子の兄弟達も承認してくれるだろう」と答えたが、結局その後、彼は本件で何の手を打つこともなかった。先述のように、その直後に自宅を妹夫婦に譲るとの遺言書を作ったことになる。
結局、後見人申請についての努力と成果どころか、多額の保険金を得られたことさえ、誰からも感謝されることなく、得られた言葉は、「お前たちは信用できない」って言葉だけであった。

 それから2カ月、11月末頃に、裁判所は、この状態を解決できる弁護士を財産関係後見人に指名し、生活関係後見人としては僕の女房を指名した。
それ以前に僕はもう、義姉を除く、義兄やこの一族と関係を持つことが嫌で、海外旅行に専念することにした。結局、11月にはネパール、1月末にはマレーシャへと旅行した。11月から1月に掛けて、ノロウイルスやインフルエンザに掛かり、施設に入っている義姉を訪問することも出来ず、当然ながら、義兄やその一族とは全く疎遠になってしまった。
その間、10月中ごろに女房に連絡があり、女房が病院を訪れたところ義兄の妹夫婦も訪れていた。話は、義兄は退院(病院からの追い出し)とのことで、しかし、1人で生活できる状態ではないので、入所先を探していて、恐らく、印西にある老人ホームがよさそうとの話であった。義兄の妹は、とてもきれいで良い所ですよ、とウキウキしていたらしい。そのような遠い所に送り込んでどうするのか?と思えるのだが、この義兄の妹は、かなり頭がおかしいことは、先の話し合いでも判っていた。家族には、どうしても、かようなちょっと頭の変なのが1人は居るようだ。
 それはともかく、女房は「夫婦のお金は夫婦で使えば良いので、何も心配することはないのですよ」と言い、義兄は涙を流して喜んだらしいが、その時には既に、自宅を妹夫婦に遺贈する遺言書を作っていたことになる。認知症の妻の行き場を全く断ち切る決断を、なぜ、義兄はしたのか、と僕には全く理解不能である。馬鹿な奴だとしか言いようがない。善意で考えれば、義兄は、認知症の妻と一緒に有料老人ホームに入れば良いと考えたのかもしれない、が、それほど元気が回復するなら、家の処分は、その時点で考えれば良いことで、むしろ、医者の説明を普通に判断すれば、自分の余命は長くて一年だと判っていた筈で、義姉より義兄の方が先に死ぬ可能性の方が高く、その場合を想定すれば、そのような遺書を残せば、義姉側親戚の軽蔑を受けるであろうことは確実なのだ。死んで後に軽蔑を受けるなんて嫌なことだし、そもそも、義兄は、もし義姉の頭がまともであれば、絶対にやらないであろうことを遣ってしまったことになる。
 ところで、今回の義兄の処遇からすると、病院は、どうせ死ぬ患者で、手術しても治りそうもなければ、退院させるのが方針らしい。こうすることで、患者側は、病院から放り出されるだけではなく、入院保険も受取れなくなってしまうのだ。保険についての、この一面も理解しておかねばならない。

 その後、義兄に携帯で連絡しても応答はなく、義兄の妹夫婦に連絡してもはっきりしたことは何も言わず、義兄の状態がどうなっているかは全く判らなくなってしまった。その後の義兄の入退院の経過からすると、義兄の妹夫婦は、無意識かもしれないが、常に僕の家から遠く離れた所に義兄を入所させ、しかも連絡を取らせないようにしていたようだ。
義姉の後見人弁護士からも、彼自身の後見人活動については全く連絡は無かった。後見人弁護士は、基本、家裁だけへの報告が義務となっていて、生活担当後見人は、言うなれば彼に使われる立場と言えるようだ。

 翌年マレーシャから帰った2月初めに、女房に、「弁護士さんが調査した義姉の財産調査の結果はどうなっているかを家裁に問合せるように」と指示した。女房が家裁に問合せると、既に提出されていて、生活関係後見人は閲覧、コピーできるとのことであった。閲覧の日程を予約したのだが、その夜、電話が鳴ったので出ると、「XXXです」と言ったのだが、相次ぐ海外旅行で呆けてしまったのか、もう、その名前さえ忘れていた義兄の妹夫婦の旦那であった。彼が言うには、退院したものの印西の老人ホームではなく船橋の老健に入ったのだが、再入院となり、その後は市川の老人ホーム、これも、我が家からは出来るだけ遠い場所で、そこに、再々入院したのだが、容態が悪く、医師から親戚に知らせろとの指示があった、との連絡であった。おい、おい、死ぬ間際まで連絡しなかったのか、と思ったが、口では「連絡ありがとうございました」と言っておいた。その連絡の後は、グループホームの歌子さんも連れて病院に行ったり、後見人の弁護士に連絡したり、と家裁に歌子さんの資産表を見に行く暇もなく、それどころか、数日で義兄は亡くなってしまった。発病後、実に7カ月足らずの病没であった。
 喪主の義姉の代理として僕の女房は、義兄の妹の夫と葬儀の手配をしたが、葬儀は親族だけ、香典なしで済ませたが、それでも300万円近い金が生じた。「義兄の口座はもう凍結されているだろうから、差し当たりは歌子さんの資産で処理するように」と弁護士に指示された女房が葬儀屋と交渉したが、訪れた義兄の親戚から、「お兄さんはあんなに稼いだのだからもっと派手にしてやりたい」と、女房はかなりの嫌味を投げられたらしい。とにかく費用は全て、領収書をもとに後見人弁護士が歌子さん資産から支払った。
 墓は義兄と妹夫婦の共同で買った墓に納骨するとして、それまで、骨壷をどこかで保管しなければならないのだが、女房の言によると、「義兄の家には保管出来ない」との妹夫婦の言であった。また、「家にも保管できない」と、妹夫婦は奇妙なことを付け足したらしい。「別に我が家で預かっても良い。彼が化けて出れば言いたい事があるし・・・しかし、一年近くも帰れなかった自宅に置いてあげるのが本筋じゃないのか?そう伝えて欲しい」と僕は女房に言った。が、結局、義兄側の故郷の親戚の要求で、妹夫婦の家に保管することになったらしい。
 この出来ごとで、僕は、義兄の家で何かが進行していると察した。さらに、義兄が、少なくとも彼の家を妹夫婦に遺贈する、と遺言書を書いたな、と思えた。
 葬儀が終わり、後見人弁護士が相続処理をするので、義兄の資産で判るものは無いかと問合せしてきたので、先に調べておいた資産表を送った。義兄が肌身離さず持っていた通帳や印鑑、タンス内の証書類も全て妹夫婦が保管している筈だが、そのことについて、後見人には何の説明も為されていないようであった。義兄の全資産を預かったままで、相続人の後見人には何も渡そうとしないのだが、義兄の妹夫婦は何を考えていることやら・・・

 家裁と再度連絡し、後見弁護士の家裁に提出した義姉の資産表のコピーを手に入れたが、僕の調べた資産よりも八百万円程度も多くなっていた。つまり、義兄が肌身離さず所持していた通帳の中には、義姉の分も何冊かあったのだ。が、義兄はそれについては一言も言わなかったのだ。しかし、後見人には金融機関に依頼して被後見人の資産を調べる法的権限があるため、ごまかしは出来ないのだ。義兄の遺産に関しても、今では義姉の後見弁護士には調査の権限があるため、全てが明らかになるだろう。
ところで、義姉の資産表よりも、僕たちを驚かせたのは、義兄からの署名入りの後見弁護士への申し出書であった。そこには、
 「今後の治療を考えると、歌子の生活費や施設費は負担できない。歌子は歌子の資産でこれを賄い、私の治療費や生活費に必要な資産が不足したら、歌子の資産を使う」
と書かれていた。
 直後に後見人弁護士から、義兄が自宅を妹夫婦に遺贈するとの遺言書、それも、昨年の10月にはそれを書いたらしい、との連絡があった。
 つまり義理の兄は、夫婦の資産、特に自分の将来に準備すべき自分の資産の中で、少なくとも不動産は人に遣ってしまい、さらに「不足するなら、その場合は女房の財産を使う」などと、ふざけたことを言っていることになる。
 更に奇妙なことは、義理の兄はさらに長い治療を想定しているようなのだが、それならば、別にそれほど急ぐこともなく、ゆっくりと遺言書のことを考えればよかったのに、後見人を拒絶した直後には、むしろ、それ以前に自分の資産の内の大きな資産を人に遣ることにしたのだ。ただ、それは彼の死後に渡す遺産であって、それまでに売却すれば、残すことにはならない、とも言えるのだが、どうやら、遺言書作成と同時に、自宅を妹夫婦に使って良しとしていることから、確実に遺贈しようとの考えであったと言えるだろう。
 いずれにしても、資産説明した時に義兄が「不動産は二束三文だ」と言ったことの意味が理解できた。つまり、妹夫婦に与えるので、自分の資産には参入できない、とのことであったのだ。それに、これを書きながらふと思い出したが、後見人のことを考える以前、義姉をグループホームに入れた頃に、義兄の妹夫婦が義姉の茶器とか衣服を整理し始めた。僕はなんとなく嫌な気分になって、そのことを女房に言うと、「あの夫婦も、義兄の家の整理を任されて大変なんだから、そんなことを言うもんやない!」と僕を怒鳴りつけた。そんなものかなぁと、以後、その件には触れなかったが、これで、その経過が理解できた。が、その時点で、その経過を正しく把握したとしても、義兄やその妹夫婦の動きを止めることは出来なかったから、結果は同じことであっただろう。
 それにしても、遺言信託、それも夫婦の信頼の証として大金を掛けて作った遺言信託を、簡単に反故にすることで、義兄は、その妻の信頼を完全に裏切ったことになる。それだけではなくて、その兄弟親族の信頼を完全に断ち切ったことになる。そのことに、義兄は思いが至らなかったのだろうか。
後の関心は、果たして、義兄の家はどのようになっているか、義兄の遺書はどのような内容か、である。考えると義兄夫婦のいろんな思い出の品々はどうなっているのか、もし残っているとすれば、それらをどのように保管、処分すべきかだが、義兄の妹夫婦であれば、貴重品は自分たちの物として、その他は全て焼却ゴミや粗大ごみとして処分している可能性が高い。それならそれで、仕方がなく、残っていたとしても、義兄の思い出の品々を引き取る気も起きない。
 それどころか、今や、義兄があっさりと亡くなってくれたことが有りがたく思えてしまう。さもなければ、思考力の衰えた義兄の資産を、あれこれと操作する時間を妹夫婦に与えてしまうことになっただろう。
 一年前には、義姉の認知症でいろいろ応援したり、その後の義兄の食道がんで、NETで対応を調べまわったりしたが、それらもほぼ終わり、後は、義姉の世話を着実にするだけで、それも、信頼できるグループホームの人々が殆どやってくれる。それに後見人申請がぎりぎりのタイミングで間に合ったので、義姉歌子さんの資産は、家裁の手で確実に保全されることになっている。しかも、仮に義兄が、不動産のみならず、彼の動産資産を妹夫婦に譲ると遺産書に記していても、義姉歌子さんには遺留分は確保される。更には、遺族年金も手にすることができる。これらのことから、歌子さんの生活は、今後、長生きしたとしても先ず不足なく維持できるに違いない。

 義兄夫婦のことは、かくして、夫婦や夫婦関係そのものだけでは無く、家そのもの、家に置かれていた夫婦の写真、装飾品、茶器、絵画や衣服など、夫婦の存在していた証しの全てが、一年足らずで、全てが消え去ってしまったのだ。はかないものだ。しかも、そのようにしたのは、他ならぬ義兄自身であったことが、いよいよ哀しさを感じさせるのだ。

 更にこの物語を哀しくさせるのは、義姉のために、義兄のためにと考え実行した法的後見人制度の適用が、要約すれば、義姉の財産を、義兄から守るために役立った、との結果であろう。しかし、そのように行動しなかったなら、義姉の財産がぼろぼろにされたであろうことも事実なのだ。それがまた、哀しい現実なのだ。

 僕としては、義姉に後見人の設定を、それもギリギリのタイミングで成功させたことで、義姉の資産を保全するとの僕の義務を、それも、ネパールやマレーシャ、シンガポールを旅行する合間に果たしたことを、誰もほめてくれそうにもないから、自賛するだけのことだ。そうして、こんな馬鹿な人生のむなしさを忘れるべく、安々旅行を更に数多く計画しなくちゃと考えている。

 ところで、後見人として貰える費用だが、その申請準備や法務局、市役所等の書類費用は全て申請者の負担になるので、全ての費用は我が家の負担となった。
女房を後見人に推薦した時点では、後見人費用として、ガソリン代5000/月だけを申請して認められたが、その後、弁護士が資産関係後見人になった時点で、同様の申し出をしたが一蹴されてしまった。恐らく、最初のけじめ、との考えだろうが、それなら一切要求すまいと、僕は決心した。
 それ以後、後見人の我が家は、義姉に必要な衣食住、医療費等を除いては、一銭も受け取らずに生活後見人の役目をはたしている。そうして、この状態を裁判所が果たして気づくのか否か、気づいたらどうするのか等を楽しみにしている。更に、それほど厳しい弁護士がいかほどの報酬を得ているのかもまた興味深く、いずれ裁判所に確かめることにしている。ただ、相続処理の費用は別費用であろうとは理解している。この費用も、弁護士が果たしてどの程度を得るのかも、楽しみに見守っている。

 これらの話は、たまにここを訪れる誰かが読むかもしれないが、女房の兄弟達、特に年長者達はここを訪れることも無いし、それに、この話を彼等にはしない積りだ。彼等は、死んだ義兄を愛していたし、それに、僕そのものをそれほど評価していない。だから、僕が話しても、その話を信じることはないだろう。むしろ、そうすれば嫌われるに違いない。
 義兄が恐らく多くの金を出し、妹夫婦と共同で買った墓に、僕は訪れることは無いだろう。女房の兄弟達も、あのような変な場所にある墓を訪れはしないだろうから、僕が訪れずとも、誰も気にしない筈だ。それに、義姉さえも、あの墓に入れることは無いだろう。かくして、義兄の人生は誰からも忘れられて行く。それは、結局は、誰もが歩む道ではあるが、僕は、彼とは違う道を歩んで、その終わりを迎えたいと思う。

その後の経過1 3月28日
 歌子さんは船橋市に住んでいる。他方、我が家は八千代市だ。で、義兄夫婦の自宅が妹夫婦に遺産相続された場合には、歌子さんは住所不定になってしまう。我が家に住民登録することは僕としては問題ないが、居住する市が変わると、今、入っている施設から出なくてはならない。
遺骨を49日間置くことさえ拒否するグループホームが、歌子さんの住所登録を受け入れる筈もないだろうから、と女房に、そのことをしきりに言い続けたのだが、女房、それどころか、後見弁護士でさえ、そのことにあまり関心がなかったのだ。
要するに、先見性が不足なのだろう、と考えた。
 3月末になって、ようやく、そのことに気付いたのか、弁護士が「船橋氏に親戚は居ませんかね?」と女房に言ったらしい。僕は前々から女房に、そのことを弁護士と相談しろと言い続けていたのだが、なぜか、おそらく、弁護士なんだからきちんと処理するだろうと、信じ切っていたせいだろうが、弁護士には伝えていなかった。弁護士も気付いていなかったってことだろう。
そのことを聞いて僕は怒り心頭で、義兄の遺書の内容さえまだ確認していないことと共に、女房を責めた。これも良く判らんのだが、後見弁護士は、生活後見人たる女房にも義兄の遺書は見せないのだ。(だが、後になって判るが、後見人弁護士は、なかなか優秀な男であった。)
 僕に責められて、女房は電話で家庭裁判所に相談を始めた。本件で家裁に相談してもどうにもなるまい、家裁に相談するなら、義兄が50年以上連れ添った女房を追い出すとした遺言書が有効かどうかであろう、とこれも女房に、後見弁護士に相談しろ、と、遺言書の存在を知った時にアドバイスしたのだが、女房は、あれやこれやと、出来ない理由を勝手に並べて、結局は弁護士に相談しなかったのだ。全て、女房が弁護士なるものに全面的な信頼を置くことから、そうなるのだろう。
女房が家裁に電話した結果は、「心配するのも理解できるが、後見弁護士を経由しないでの相談は控えるように」と言われてしまった。結果として、女房は、僕の怒りが不当だからこうなったと思っているようだ。なんと理不尽な、と僕は感じたが、言っても仕方ないと何も言わなかった。
ただ、家裁にも、本件の情報が流れることは、結果が期待できなくても良かったのかもしれない。

 僕が思うに、義兄の酷い遺書をそのまま認めるのなら、歌子さんは、住むべき家を失い、船橋市内にワンルームマンションを持つ以外に仕方がないだろう。

 なお、後見人弁護士は、”その酷い遺書をそのまま認めるより仕方ないだろう。さもなくば、多額の現金を義兄の妹夫婦に支払うかのいずれかだ”とも女房に話しているらしい。しかし、僕からすれば、かような遺書を書いた時点で、義兄の頭はおかしいのだから、その遺書そのものが無効とすべきで、それ以前に作った遺言信託が有効だと思えるのだ。
 だが、僕一人がそう考えてもどうしようもない。
 そのような事情で、幸せであった夫婦の夫はあっけなく亡くなり、その夫の心無い遺言書で、その妻は住所不定になり、これを改善するために、ワンルームマンションを借りることになるのだ。

その後の経過2 3月30日
 本日は、後見人弁護士、遺言執行司法書士、義兄の妹夫婦と共に、夫婦の自宅の、義兄の遺品と、歌子さんの財産品の確認日だった。
 僕にとっては、義兄の遺品はどうでもよく、歌子さんの思い出となる品物をピックアップしようと行ったのだが、法的にはそれはできないらしい。つまり、歌子さんの資産は全て後見人の管理下に置かれるからだ。ただ、義兄の妹夫婦は監視の無い時点で家の整理を自由に出来たから、その管理下には入らずに行動できたとは考えられる。つまり、義兄が亡くなって2カ月近くも経っているのだから、めぼしい物品は全て彼の兄弟姉妹によって食い散らかされて筈で、この立会は殆ど無意味と言えるだろう。
 歌子さんの資産は、食い散らかされた残りではあるが、それでも、大量の茶器と和服であった。、家を追い出されるので、後見人弁護士が、コンテナのような貸倉庫に保管するとのことだ。遺品の中で、記念硬貨が100万円程度あったが、これは行方不明になったようだ。
 その後、遺言執行人が、歌子さんと義兄兄弟の遺産額の相談を始めたが、どうやら、義兄の妹夫婦の義兄の金の管理のつじつまが合わず、更には、自宅の電話代金を基本料を含めて義兄の経費に入れているとかでもまたもめていた。しかも、義兄の金が500万円、義兄の実家に送金されていたとのことらしい。義兄指定の司法書士の遺言執行人は、それらのことを、歌子さんの後見弁護士に認めてもらおうとするが如く、だが、とても認められないであろうと思いつつも、説得するような、わけのわからない説明を続けていた。
 その間、つまり、上記のような折衝が続いている間中、義兄の妹達は、歌子さんが義兄の財産を自分のものにした、とわめき続けていた。更には、義兄自身が、歌子さんに後見人を置いたことを失敗だったと言っていた、ともわめいていた。
 あれほど世話になった歌子さんのことを、かようにさげすむ発言を続ける人間の存在が信じられないし、それに、こんな妹たちを持つ義兄、と、夫婦そのものが危機的状況にある時に、実家へ金を援助するとか、女房を住所不定にするような遺言をするなどと、大馬鹿としか言いようのない義兄のことが、いよいよ厭になってしまった。
 夫婦が行っていた遺言信託では、1銭も金が入らない筈であったが、義兄の心変わりで、彼の兄弟たちには、夫婦の家とかなりの金が入ることになったのに、それでも満足できず、歌子さんに比較的多くの金が入るのが許せないらしい。
 でも、そんなことが言えるのは、歌子さんが認知症だからだ、ってことにも気付いていないのだ。歌子さんが正常なら、全ての金が歌子さんのものになっても、何も言えなかっただろう。
それにしても、これら馬鹿な連中は、なぜ、かなりの世話になった歌子さんを、たとえ認知症になっているとは言え、これほど非難し続けるのだろう。むしろ、彼らが歌子さんの資産を貪るのを妨げた僕達夫婦を非難しべきではないか、と思うのだが・・・。

 この喜劇の最後になって、義兄の妹夫婦の夫が、「これから先も義兄の法事を定期的にするが、これに出席して費用の負担もすると約束してほしい」と言ったので、
「その時に連絡ください」と答えたが、
誰がゆくものか!と心中で思った。これで連中には、僕たち夫婦を非難する口実を与えたことになる。
 やれやれ、歌子さんの財産を食い散らかされないためには、後見人申請がぎりぎり間に合ったこと、それに、後見人に弁護士がなってくれたことを心から感謝した時間であった。また、このドタバタ劇の中でも冷静に事を進める若い後見人弁護士の姿に、彼をみくびっていたことに僕は気付いた。弁護士って、修羅場を経て成長するものだと、つくづく感じた。おそらく、彼は歌子さんの住所不定状態もなんとか解決するであろうと考えるようになった。

 それに比べて頼りにならないのは、他ならぬ我が夫婦であった。ごみの山の多さに驚いて、主張すべきを全て忘れてしまった。例えば、義兄の部屋には洋服タンスがあり、そこに入れてある紙袋に、夫婦の財産たる証書類が雑然と入れてあって、入院保険給付の時に、その内容を調べたのだが、そのタンスの様子がちょっと以前と違っていた。妹夫婦の夫の方に、「これは、違うタンスじゃないですか?」と問うと、その夫は、「同じですよ!!」と怒った声を挙げた。奇妙な気がして中を見たら、財産の入った紙袋は無く、衣服もきっちりと整頓されていた。後で考えると、この男は、怪しい点を指摘されると、怒った声をあげて誤魔化す男であったようだ。つまり、この男はもうそこに居着いて、義兄の部屋を我が物としていたのだ。あきれた男だが、僕自身も呆れたことに、財産の入った紙袋が無くなっていることを弁護士さんに告げるのを忘れてしまった。かように、かような修羅場を経験するか否かで、このような場での対応力は全く違うのだ。
 でもまぁ、その資産の詳細表は、僕が調べた分、つまり、全ての情報を、弁護士には先に送ってあるから、問題は無いとは思う。ただ、そのように情報を与えても、何も言葉が無いことが、弁護士君の欠点ではあるが・・・。

 それはともかく、歌子さんの亭主は稀代の馬鹿であったようだ。そう言えば、義兄は、自分の兄弟たちにはかなり気前が良いらしいが、世話にはなっても、歌子さんの兄弟には、金に関しては、極普通に、僕と同様のけちであった。
 それに歌子さんの兄弟姉妹たちは、歌子さんが先に亡くなり、義兄が全ての財産を継いでも誰も文句を言わないだろうし、仮に義兄の兄弟姉妹の立場にあったとして、兄嫁が認知症になったとしたら、痴呆症の兄嫁が全財産を継ぐのを当然とするだろうし、もしその幾ばくかを取るような人間は兄弟姉妹として失格と見なされるに違いない。
 ところで、こんな義兄と彼の兄弟姉妹達のありさまを経験して、目的は全く違ったのだが、後見人申請と、わが女房の後見人責務を義兄から拒絶された時に、弁護士にこれを引き継いだことは、僕の人生最大の功績かもしれないと考えた。

 歌子さんには、とにかく長生きしてもらおう。幸い、アルツハイマーへの特効薬が研究中だから、それが完成して歌子さんの記憶が少しでも戻ることを祈っている。
それに、考えるのだが、若し歌子さんが認知症にならなかったら、夫婦の財産を全て相続しても、誰も文句を言えなかっただろう。そうして、歌子さんの最後には、義兄の兄弟姉妹たちに、家とそれに多くの金を残したことだろう。歌子さんとは、そんな人柄の人なのだ。そう考えれば、歌子さんの引き継ぐべき義兄の資産の多くが、義兄の兄弟たちにむしり取られても、それはそれで良いのではないかとも思える。更には、そう考えることで、この一連の出来ごとの全てを、愉快な喜劇として受け取ることが出来るのだ。

2014年1月半ばになって漸く、義兄の遺言書と、遺産配分についての、後見人弁護士の家庭裁判所への報告書を見ることが出来た。
 裁判所に行き、相談受付番号票を取り、担当者を経由して裁判官の承認のうえで閲覧できる。一件当たり収入印紙で150円、3件で合計450円だった。僕はコピー作業担当として同行した。
相続権の無い僕が閲覧して良いのか否かは判らない。が、女房が閲覧しコピーすれば、結局は僕も見ることができるのだから、同じことだ。
 女房によれば、閲覧時間は30分と限られているので、その間にコピーもすることは大変なのだ。そもそも30分なんて限定することすら変に思える。
 報告書は、特に、義姉の資産報告書は、銀行の通帳のコピーも添付されているのでページ数は極めて多い。そのため、どこをコピーするかを選ぶことさえ大変だ。
 ただこの作業の為に、夫婦で往復2000円以上の交通費も掛け、半日以上を費やして、全て自費である。そうして目的は、歌子さんの資産を守ることと、歌子さんの兄弟姉妹達への状況報告のためだ。僕には何の得るところはない。やれやれと思う。

 ところで、本題に戻るが、閲覧することで、我が女房が歌子さんの後見人への就任を、裁判所の任命が出てから、それまでは少なくとも同意していた義兄が、突然、これを拒否した9月末、それから2ヶ月後には、遺言書を正式なものとし公証役場に提出していたことが判った。と、言うことは、9月末からそれほど経っていない時期から作成着手されたものと思われる。つまり、女房が歌子さんの後見人になることが、義兄の考える遺言書の内容にそぐわなかったので、それを拒否したことが明らかになった。
 内容は、予想通り、義弟(妹の旦那)に自宅を譲り、その他を義兄の兄弟、姪達合計6人に均等配分としていた。遺言書は極めて正式なもので、最初に何年も前に夫婦で交わした遺言書を破棄するとうたっていて、妻つまり歌子さんが死んだ場合には、妻の遺留分も7人に等分に別けるとしていることから、まだまだ生きる積りであったようだ。ただ、歌子さんの兄弟側は、当初の遺言書、つまり、片方が死ねば他方が全てを受け継ぐとの遺言書を書き換えるなんて考えていないから、歌子さんが先に亡くなれば、義兄が全て相続することに何ら異論はなかったのだ。
 さらに、遺書とは別の、後見人弁護士への申し送り書によると、義兄は、自分の資産は、可能な限り、彼の兄弟姉妹、甥、姪までに遺し、それ故に、自分の治療費が不足する場合は、歌子さん名義の資産を自分の為に使おうと考えていたことになる。
 通常と言うか、あれほど愛妻的発言を続けていた人間であれば、後に残る認知症の女房のことを気遣うと共に、後の面倒をする我が女房への気遣いを示すべきが、後見人になるのは以前から画策していただろうと、我が女房を悪しざまに言った義兄には思い出すたびに腹が立つ。
が、一歩下がって考えると、義兄は、自分の財産処理を正当化するには、女房を悪人に仕立て上げる以外に方法はなかったのだろう。
 なお、遺言公正証書作成の少し前、12月中旬には、義兄は福島の実弟に500万円を贈与していた。義兄側司法書士の報告書には、遺産の詳細が記載されていたが、義兄の掛けていた生命保険や年金保険類は全て解約され、銀行口座の金もぐちゃぐちゃに変更されていた。
これらを見ると、歌子さんの資産も、後見弁護士が資産保全に入っていなければ同様にぐちゃぐちゃにされた可能性が高かったと思われる。
 さらに、僕が義兄の資産を調べておいたことで、資産の総額で交渉できることから、資産内容はぐちゃぐちゃになったものの歌子さんの遺留分は、僅かな損失で確保できたようだ。500万円の件も、この過程で明らかにせざるを得なかったのだろう。
 義兄兄弟側のことで、どうでも良いのだが、本来は相続権の無い、義兄の妹の旦那に、金額的には高額の自宅不動産を残し、他の兄弟姉妹、おい姪には、その1/10にも満たない資産が遺されるとは奇妙な話だが、もっと隠し資産を配られているのかどうかは確かめようは無い。それに、生前贈与分の500万円を見つけられ、これも遺産に含まれることで、各人遺産から配分に比例して歌子さん遺留分を返却することについて、これは歌子さんには拘わり無いことではあるが、義兄側司法書士の書類に記載されていた。それも、妹の旦那は不動産だけを得ただけだからと、「負担を無しとする場合」と、「やはり負担して、その負担分は、現金を遺されていないのでを現金で支払う」の2案がわざわざ記載されていたのを奇妙に感じた。ただ、彼(妹の旦那)の行動からすれば、その程度の金は、兄の闘病生活のごたごたちゅうに手に入れているだろうから、特に問題でもなかろうと思う。
 ただ人間とは、いったん手にした富を強制支出されることを極端に嫌がるものだから、その恨みは、誰かに向かっていることであろう。
 ただ、義兄の妹の旦那の継いだ不動産は、なかなかやっかいな場所にあり、これが歌子さんに遺されていれば、そのメンテに僕が動かねばならず、歌子さんが現金だけを継いだことは、帰る家を失った歌子さんには悪いが、我が家には救いとも考えられる。かような不動産を継いだことには、あるひと固まりの資産を相続権の無い男に与えることと、それに、妹の旦那が、義兄の代わりに一族の長になる気分を味わいたかったのかもしれない。
と言うことで、義兄の遺言書の内容と、作成意図や、作成経過については、僕の想定通りであったこと。歌子さんの遺留分はほぼ保全できたことが確認できた。

 つまり、義兄の意向は、歌子さんと協議して決めた相互遺言信託とは異なり、やはり、星家のスターとして、義弟や実家に遺産相続をさせたかったのだ。が、それだけではなくて、歌子さん名義の資産も同様に自分の宰領で使いたかったのだ。だから、我が女房を歌子さんの後見人にすることに同意したものの、後見人設定と同時に、歌子さんの資産が裁判所で保全されることを知ったことで、後見人設定を拒否したのだ。本筋は以上の様に要約されるだろう。他のこと、例えば、「不動産は二束三文だ」とか、我が女房を策略家にあげつらう等は、そこから派生するたわごとに過ぎないと言えるだろう。

 状況はそう理解できるとして、今回の出来事は、義兄の妹の旦那が、かなりの旨い汁を吸ったであろうことを除けば、僕の人生のひとつの成果とも言えるだろう。我が両親の遺産相続の件では、僕の実兄や実姉には酷いめに合わされたが、他人のことになると、上手く処理できること、それも、自分には何の利益もなく、それどころか、かなり余計な出費と時間を伴っているのだが、それでも、なかなかの出来栄えになるのが、いかにも不思議だ。
 ただ、歌子さんの後見弁護士の存在が大きな意味を持っていることは事実だ。しかし、僕であっても、同程度には処理できたであろうとは思う。が、僕は歌子さんの後見人になる資格はないので、自分では行動できず、女房を操縦せねばならないが、女房の操縦はうまいとは言えないので、その場合の結果についてはかなりの未知数である。

ところで、星夫婦の相互遺言書の、義兄の分は、新しい遺言書の作成で無効になったが、義姉の分は有効で、しかも、義姉が被後見人となっているので、その遺言書は相互性つまり、「義姉が亡くなった時には、相方つまり義兄が相続する」との項目は有効となっている。ただ義兄も亡くなっている場合には、そのばあいについての追記の遺言書を作成するの常らしい。その場合、義兄側の兄弟姉妹に相続するのが、やはり、常らしい。そうであれば、義姉がなくなると、全てが、歌子さんの兄弟姉妹には相続されないことになる。我が家は、そのような不安定な条件下で、歌子さんの面倒を見なければならないのだが、女房は、そんなことはどうでも良いと言いつつ、着実に歌子さんの面倒を続けた。

その後の経過
 我が家の女房は、無償の「歌子さんの生活担当成人後見人」として、毎週施設に通っている。歌子さんの資産は弁護士により管理されており、毎年、報告書が家庭裁判所に提出される。提出後、女房殿が閲覧のために裁判所を訪れるが、僕もそれに付いて行く。書類は100ページ以上もある膨大なもので、とてもではないが、指定された30分、それも、職員がいっぱい居る会議席で読み切れる筈もない。コピーは出来るのだが、20円/枚もする。しかも、書類は紐とじで、これをばらさないとちゃんとコピー出来ないほどに分厚いのだ。
 初年度2012年の分は、20枚程度をコピーして持ち帰り、それを読み解いた。初年度のには、遺産相続についての書類もあり、コピー分は中途半端であった。
 2年目は、家裁担当者から「紐を外さないで」と言われたが、実は、最初からコピーでなく写真撮影の予定で行ったのだ。家裁担当者の了解を得て、写真撮影とした。
 事務所椅子に座り、女房がページをめくり、僕が「はい!はい!」と言いながら写してゆき、110ページの全てを30分で撮影して、家に帰ってから印刷した。十分に読める状態であった。
凄い時代になったものだ、と感心した。
かくして、歌子さんの財産は、弁護士によって管理され我が家により監視されているので大丈夫だろう。なお、弁護士さんは、我が家を危険視するのか金の管理については全く情報を漏らさない、というか、情報が漏れないようにと注意しているようだ。それはともかく、歌子さんの資産は十分に守られている。
ただ、我が女房殿を後見人とする席上で、歌子さんの財産の一部で外貨定期を購入する方が良いと提案したが、それは駄目だ、と指示された。が、あの時点で、ドルであれ、豪州ドルであれ、外貨定期としておれば、歌子さんの財産は相当増えていたのに、と、それだけが残念であった。

2019年6月2日に、歌子さんは誤嚥による肺炎を発症し、千葉徳洲会病院に入院した。入院治療の後に状態は安定したので、担当先生から症状についての説明があり、退院後の今後は、栄養点滴の出来る施設に入る必要ありと説明された。つまり、現在入っている坪井の愛の郷では対処が難しいだろうとのことであった。早速、愛の郷に何とか対応できないかと問い合わせると共に、近辺で、対応できる施設を探そうと始めたのだが、その矢先の6月21日16:00頃、病院から血圧が急激に低下しているとの連絡があり、直ぐに病院に行ったが、歌子さんは16:34に息を引き取った。
直ぐに葬儀の手配をして、6月26日に(株)シモカワの村上葬儀所で、関東地区の親戚と、大阪からは女房の妹夫婦が参列して葬儀を終えた。歌子さんの人柄を偲ばす気持ちの良い葬儀であった。

なお、6月21日夜には、後見人弁護士さん、及び、家庭裁判所に歌子さんの逝去を連絡した。
そこで判ったのだが、葬儀費用は、歌子さんの遺産では支払われないとのことで、女房殿の預金を使って支払った。葬儀後、後見人弁護士さんに電話して、歌子さんの遺産相続は、歌子さんの兄弟姉妹になされるのかと問い合わせたが、後見人弁護士さんは、彼が後見終了報告書を2か月後の8月21日までに提出するが、それまでには歌子さんの遺産相続は決定するとのことであった。
つまり、それまでは、誰が相続するのかは知ることが出来ないってことなのだ。

だが、弁護士さんからの相続人への連絡は、9月19日であった。その連絡書では、歌子さんの遺書では、夫秋芳さんに全てを遺贈するとなっているが、既に秋芳さんは亡くなっているため、歌子さんの法定相続人が相続すると書かれていて、相続関係図も書かれていた。つまり、歌子さんの遺産書には、相方が亡くなっている場合の追記はなく、全ては歌子さんの兄弟姉妹に相続されることになったのだ。ってことで、我が女房の奉仕は無駄にならないことになった。
弁護士さんからの連絡では、歌子さんの父母・祖父母は亡くなっているので、歌子さんの9人の兄弟姉妹が相続となり、兄弟姉妹で亡くなっているのが4人で、その子供たちが父母の分を受け継ぐ。総数12人で相続するとなっていた。なお、そこには、長男で、生まれてから6か月で亡くなった長男のことも記載されていて、よく、ここまで調べたものだと感心した。
連絡書には、さらに、代表相続人を希望するか否かを、弁護士さんに返送することとなっていた。不思議に思えたのは、問い合わせは、誰を希望するかとして、多数決で決めれば最も簡単なのに、かような問合せの、自己申告ならもめる可能性が高いのでは?と思った。連絡のついている兄弟姉妹や甥姪は、我が女房殿を代表者と思い、代表者には応募しないと返送したが、心配通り、行方も知れなかった姪が代表者希望を返送したらしい。そこで弁護士殿は、再度、我が女房とその姪殿に代表者希望の意思を問い合わせた。
その問合せに、姪殿の住所・電話番号が記載されていたので漸く姪殿と接触できることになった。
女房殿が連絡を取り、公正に法定相続通りに分割すると説得しても、要領を得る返答はなく、代表相続人への応募を降りる様子は見えなかった。
最悪時、家裁の調停が必要だろうと、残りの相続人の応援を得るべく、財産の等分割を記載した相続財産分割書と、女房殿への委任状を作成して他の兄弟姉妹甥姪に回覧とした。ついでに、その書類を対向する姪殿にも送った所、漸く安心して代表者を希望しないとの返信を弁護士殿に送ってくれた。つまり彼女は、親族への連絡が切れていることで、自分が相続者から外れることを心配したのだと思えた。
彼女のために相続手続きが半月以上遅れ、僕が大阪・京都の秋を楽しむ今年の機会は失われてしまった。が、彼女の連絡先が判ったとの利点もあった。

かくして、歌子さんの資産である多数の通帳類・保険証書類を、弁護士殿事務所で、10月19日に受け取った。歌子さんが亡くなって4カ月も経っていた。
ことはこれで終わりではない。凍結された5銀行の通帳とかんぽ生命保険の現金化と相続者への配分を行わねばならない。集める謄本類も膨大な量となるわけだ。ただ、相続人が多く、基礎控除3000万円+各相続人分控除600万円x人数だから、納税の必要は無く、その点では気楽なものの、相続手続きはしんどい仕事となることが予想できた。

最も喜ばしかったことは、先に書いたように、「歌子さんが認知症になったことで、歌子さんを中傷誹謗した秋芳どのの兄弟姉妹への遺贈が遺言書に記載されていなかったこと」で、もし秋芳さんの遺族への遺贈が記載されていたならば、我が女房殿の9年間の歌子さんの看病、それに葬祭費用とかも、全て無償になっていたのだ。

遺言書なるものは、安易に書くべきでないことが痛く理解できた。
なお、歌子さんの遺言書では、夫秋芳さんへの遺贈を記載すると共に、彼女の兄弟姉妹に残さないことを謝罪していた。つまり、歌子さんには兄弟姉妹の誰にも遺贈する気がなく、事態がこうなった以上は、法定相続に基く兄弟姉妹への遺産配分がもっとも妥当な方針と言えるだろう。
ところで、夫婦相互遺言の秋芳さんの遺言書では、秋芳さんが先に亡くなった時に、全遺産を歌子さんに遺贈することについては、なんと、秋芳さん兄弟全員の合意書までも作っていた。このために遺書作成費がかなりの金額になったのであろう。他方、歌子さんの兄弟姉妹へは、先のように、遺書の中の一行であった。つまり、歌子さんの彼女の兄弟姉妹への信頼は万全であったと言えるだろう。その後の経過は、歌子さんの信頼に間違いが無かったことを表している。

遺産相続手続きは下記のようになった。
http://isabon.blogspot.com/2019/10/blog-post_22.html

なお、強調すべきは、歌子さんの後見人を務めた 尾崎弁護士が、非常に公正で確実な人であったことだろう。歌子さんに対しては誠実であったと言えるだろう。しかし、尾崎弁護士は、生活面後見人の我が女房殿にさえ、歌子さんの個人情報を漏らすことはなかった。しかも、財産管理を抜けなく公正に実行したといえるだろう。心から感謝している。
ただ、生活面で9年間も歌子さんを支えた、僕の女房や僕に対してさえも、余りに公正過ぎて、歌子さんの相続情報については、他の兄弟姉妹への対応と全く変わることなく、それでは余りに酷いのじゃないかと思うほどだった。が、それが弁護士の行動としては正しいのだろうと諦める他はなかった。



2013年2月22日金曜日

インドビザセンターでの経験

茗荷谷インドビザセンターでの経験です。
●先ずはONLINE申請が必須ですが、以前に比して極めて面倒な入力が必要です。
●添付写真は正方形サイズで、容量は250KB以下です。
●ONLINE入力ですから、その内容が細かい誤りがあっても、再入力と出力が必要です。
センターでの手書き修正は許されません。ですから、遠方地から来られる場合は、若しかを考えて入力装置を持参の方が安心でしょう。
私の場合、既に無効になっている以前のインドVISAの発給日で、xx/Aug/20XX がVISAに記載されているのを、ONLINE入力は、月も数字入力ですが、間違って、xx/09/20XX と書いてしまい、出力は再び月は英語表記に変換されて、xx/Sept/20XX となっていました。これだけで、再提出となり泣く泣く家に帰りました。
●WEB申請ページには、申請書の枚数は書いていませんが、一枚だけで良いのです。
●SingleVISAもあるかのような料金表示ですが、Singleとして記載しても、結局はMultiVisaが発給され、その金額が徴収されます。関東地区の人は、2135円で、九州の人はなぜか500円高いです。
●添付写真は、背景が色が着いていると受付けてくれません。必ず白に近い色であることが重要です。眼鏡は着けない写真が無難です。待っている間に背景色がだめだと、近所の証明写真を撮りに行く人が二人も居ました。僕の写真の背景はクリーム色だったので、露出を強くして変色させましたが、それでもOKでした。
●申請は、観光VISAはB窓口です。別の窓になる可能性もあり、何の説明書も書いていませんから、解らない場合は必ず聞くことです。ビサセンターは、ただ待っていても無意味です。
●申請日時の指定は、突然無くなりました。その記載は、ビザセンターWEBの端にちょこっと出ました。混むと再び再開になるかもですから、WEBを必ずチェックしましょう。
●受取日は一週間後(観光ビザの場合)と言われます。何の記載もありません。
●受取は、夕方の5時からですが、私が5時前に入ったら、30人分はある椅子にはびっしりと申請者が座っていました。受付はひとつの窓口(受取説明書に書かれたカウンターとは全く違う)の紙箱に受領書を入れるのですが、箱が満杯になるといったん箱は取られてしまうので、その後で来た人はどうすれば良いのか全く分からなくなります。その時でも、必ず窓口に聞きましょう。
それにしても、夕方の5時からって、遠方から来る人にはつらい時間帯です。冬は特に寒いので困ります。近くに図書館があり、地下鉄駅前の掲示板に位置は書いていますから、そこで休憩できます。でも図書館は月曜は休みですよね。
●定刻になると、一つの窓口から一人ずつ名前が呼ばれます。ひとりずつひとりずつ呼ばれるので、衆人環視状態下での手渡しです。変なシステムです。パスポートを受取ったら、ありがとうって礼を言いましょうね。僕は、二人の老嬢分を、代理受取したので、礼を言う気分的余裕がなかったです。委任状を用意したのですが、委任状を殆ど確かめないのが不思議でした。
てなことで、皆さん、ONLINE方式になり状況はより複雑になりましたが、がんばってください。

その後、自分のVISA取得分パスポートを受領に行った時は、5時20分前に行ったのだが、既に受領者が来ていて、紙箱に順次受取書を入れていた。ただ、受領そのものは、5時少し前から順次名前を呼ばれた。前回と同様に、箱に受領書を入れないでただ座る人も居たので、注意してあげた。旅人はお互いに助け合わねばである。

2013年2月9日土曜日

なんとなくマレーシャへ単独の旅 2013 1月21日~2月2日

ここんとこ親戚の連中の部隊長としての旅が多かったが、人数が多く老嬢の数も多い旅は、無理な行動には文句が多く、ちょっと金を出し合えば、交通費も安く行動できるので、どうしても安易な方向に進んでしまう。それはそれで、楽しい旅になるのだが、基本に戻り単独行を計画した。
マレーシャとなれば、当然、AirAjiaだ。15kgまでの預け荷物費、坐席指定と帰路夕食を含み往復39,140円で手配した。なお、後に述べるがMELAKAからのバスで一緒になった人に依ると、座席指定はしないで当日取れた席が通路側で無ければ、その席を買うとの方式だと節約できるとのことであり、それに、同じ日数を旅行するにも拘わらず、彼は背荷物だけであった。これだけで10,000円弱安くできるのだ。それはともかく、KLからMelakaに直行し、その後ジョホールバルを拠点にシンガポールも訪れる。あれこれ調べたが、シンガポールは僕には余り興味ある所でもないので、一日観光とした。その後列車で、北上し、イポーで泊まり、そこからコタバルに行き、今度は南下して、クアンタンからKLに向かう。
宿はAGODABOOKING.COMで手配を終えた。後は、列車の予約となる。楽しみだ。これでもやはり、出発前にはブルーになるのだろうか。
12月に入り列車の予約を試みたが、列車・シートリストは出るのだが、予約までには至らなかった。で、国鉄にメールしたが返信無く、数日後に再トライすると簡単に予約出来た。安いほうのASCクラスで、JBからIPHOまで、46MRであった。
これで、バスと食事以外は全て予約を終えた。
年末はノロウイルスにやられ、1月半ばは長い風邪に悩まされた。インフルエンザ予防接種が効かないウイルスで、香港A型とのことだ。早めに医者に行けば、例のクスリで簡単に治り、家族にも迷惑をかけないで済んだのだろうかと後悔しきりである。
121日は降雪が予想されたためか、KL便は10分程度早く出発になった。荷物を機内持ち込みだけにしようとがんばったが、鍋やナイフも持参となると手荷物だけでは収まりきれなかった。が、荷物が重しになったのは、羽田帰着時に、なかなか荷物が出て来ないので、当日中に家に帰れるかどうかを心配したときだけであった。
往路は夜行便で、やはり体にこたえるようになってしまった。歳のせいだろう。
KL
LCCT6時半で、マラッカ行きバス7:30には十分に間に合った。機内での冬服をバス待合ベンチの上でスーツケースに納めた。半そで3着持参は良かったのだが、冬用長ズボン2着は暑くて数も少なすぎた。3着の内1着は尻に穴があいたズボンであると旅先で気づき、2着しか使えないことになった。結局、ジョホールバルのジャスコで450円の短パンツを2着購入し、これが役にたった。暑いマレーシャでは汗で直ぐに臭くなるので、毎日洗濯を続けた。実に強迫観念に追われるかのように選択をし続けた。マレーシャは気温は高いが、この時期は湿度は低いようで、朝にはほぼ乾いているのでありがたかった。
22日 (火)
先に述べたが、6:30定刻にLCCTに着き、荷物をピックアップして7:10にはMELKA行きバス乗り場(5)に着き、7:30MELKA行きに乗れた。(歳を取ると同じ事を何度も言うようになるのだ)
10時にはマラッカバスターミナルに着き、ATMで現金を補充した。ATMの操作で、ENTERのスイッチが判らなかったのと、クレジット処理を選ぶと駄目で、WITHDRAWを選ばねばならないことに手間取った。が、横で操作していた兄ちゃんが丁寧に教えてくれた。

マレーシャ人は親切なのが多い。が、油断できないのも多いと言うか、下手な失敗を自ら行うことがあるので注意を怠らないことが重要だ。今回もIPOHの市場(果物や魚の巨大な市場である)で梨をかったが、袋の中でちょっと汚れているなと気になったが、ホテルに戻り食べようとすると、一個は完全に腐ってカビまで生えていた。シンガポールのQueenStreetバスターミナルでは、トイレで金集めの婆さんが30セントと言うので、50セント渡したら、つりを寄越さない雰囲気なので、20セント取ろうとしたら、手を出すなと、黄色い声を挙げられた。等々と、うっとうしいことも起こるのも旅の常でもあろう。ただし、単にトイレを預かっているだけの婆さんに馬鹿にされてたまるものかと、こちらも、NoThankYou、と怒鳴り、50セントを取り戻した。トイレは無料のジョホールバル側のきれいなトイレで済ませた。
なお、ジョホールバルからの早朝のシンガポール入りは、通勤者が多く、概ね、東京駅の地下鉄を通勤者が流れるような中で、旅行者が一人、うろうろとする有様になる。このようなのも精神的には疲れるものだが、その状況下で彼らの生活と僕のそれを比較すると、遥かに僕の方が幸せな行動をしているわけで、そう考えれば、そんなことで滅入るなんてあってはならないことなのだ。
話を元に戻して、MelakaBusセンターは、遠距離バスと市内バスのターミナルが二つの円形を太い通路でつないだ形なので、ある場合は、外部をトコトコと行けば移動できるし、ある場合は中央の通路を移動しなければならない。とにかく運ちゃんに「市内バスCityBusは?」あるいは、「HighWayBusは?」と聞けば、あっちだと教えてくれる。市内バスは別名PanoramaBusと称し、17番のバスがバスステーションと市内、特にDuchSquuareと結んでいる。このバスはDuchSquareまでは1.4MR程度だが、これは遠く、マラッカ海峡を見下ろすところまでも巡回するので、BusStationに戻るときには2MRかかる。ところで、僕は2泊後の10時半発JohorBahru行きMujiBusの切符も買っておいた。話は先になるのだが、帰路にDuchSquareで朝7時のバスに乗ったので余りにも早くバスステーションに着いたので9時半のバスに変更した。
MELACAのホテルはDatchSquareの少し北側のYellowMansionHotelで、横にレストランが併設し、食事はマレーシャ風の食べやすい食事だ。バイキング式と言うか、皿に並んだ惣菜から好きなのを選んで入れて、これを見せると会計してくれるシステムで、バイキングとは違い、食べ放題では無い。中華街では雑食と書かれているシステムだ。だが夕方には殆ど無くなるので、その場合は、フライドライス卵焼き付と言えば、直ぐに作ってくれる。一食6~7MRだから食事予算は大幅に助かった。
当日は荷物を置いて、DutchSquareから上流に散策した。この街は花が美しく、また町並みも興味深い所だ。昼食は途中の市民用オープンレストランで食べたが、カレー味ヌードルでこれもうまかった。紅茶付でやはり6MRだ。が、これを観光地たる中華街で食べるとすれば一気に値段が上がるようだ。
帰り路の中華街で、李10個とマンゴー3個を買ってホテルで食べたが、どれも、特にマンゴーは濃厚でうまかった。そのあと丘に登り涼しい風で体を冷やした。丘の周囲をぐるっと歩き、大体の見所を見終えた。再び起点のDucheSquareに戻り、Squareのリキシャ運転手と仲良くなり、花壇のコンクリに座り話して時間を過ごした。
ホテルは一泊食事つきで65RMと、今回の旅では高いほうだが、それなりの価値はあった。
23日(水)
翌日は、Squareからの17番のバスターミナル行きバスの運行状態を見るため、7時にはSquareに行き、リキシャ運ちゃん、それにバス待ちのポーランド人とあれこれ話した。バスは確かにSquareバス乗り場に停車することを、それも、来た時と同じ方向に止る(そこは一方通行だし、バスは巡回してバスステーションに戻ってゆくのだ)ことも確認した。後顧の憂いを無くして先ずは中華街を散策した。かような遣り方は失敗は少ないのだが、かなり無駄な時間を浪費する。
ところで、中華街は、なんとも懐かしく涙がこぼれそうな町並みだ。恐らく、なぜ懐かしさを感じるかは判らないが、とにかく、懐かしさを感じるのだ。主なる3通りを歩き、ゆっくりと街を楽しんだ。それから河の右岸の沿って、マラッカ海峡までを歩いた。少しもどり低い橋を渡り今度は河の左岸を町に戻った。とにかく河口部はそれほど良い景観で無いことは確認した。ところで、マラッカバスセンターへのバスはこの河口の高いほうの橋をぐるっと回ってバスセンターに行くことを翌日に知った。
先に書いたように、準備万端を済ませていたので翌日には7時のバスに乗り、早くバスセンターに着いたので、Johorbahruへのバスを一台早くに変更した。
なお、バスセンターでの市バス(PanoramaBus)の乗り場は市バス側の17番(バス番号も17番)で、Muji 遠距離バスの乗り場は、遠距離バス側の18番であった。Platformナンバーは建物外に出ないと判らないのが難点だ。
124日(木)
7時にdutch squareから乗った市バスは信じられないほど、グルグルと市内を循環して、最後に河口にかかる橋を越えてからバスセンターにと向かう。橋の上から河口部とマラッカ海峡がよく見える。BusSenntaerでは、バスは17番乗り場につかず乗客を降ろしてから17番乗り場に向かう。HighwayBUS?と聞くと指押さしてくれるのだが、真っ直ぐに行くと、HighwayBUS乗り場も通り過ぎるので、途中で何度も聞く方がよい。
早く着き過ぎたので、MujiBusの窓口で、9時半のバスに変更してもらった。乗り場は18番だというが、内側からは見えない。外に出てようやくプラットホーム番号が見えるようになっている。
適当に座って待っていると、同年齢程度の日本人らしい人がバスの写真を撮っていた。
バスに乗って日本人ですか?って聞くと、そうだって答えたので、いろいろと旅の情報を話し合った。ちょっと驚いたのは、僕が、旅の出発前になると気分がブルーになると言うと、彼にはその考え方が全く理解できず、楽しくて仕方がないと答えたことだった。とにかく、かなり楽天的な性格に違いない。
彼は、ジョホールバルのZONってフェリー乗り場から小島に渡るとのことで、ラーキンBusStationにて別れた。バス乗り場の係員に、今日の宿のあるPerumasjayaと聞くと39番のバスだと言う。これは僕の調べた情報に一致していた。が、運転手に再確認すると、「LINKだから途中で乗換だ。123番に乗換えれば良い」と言う。これも、僕の得ていた情報に一致した。支払いは1.75RMとのことで、これが乗換えてからのことを含むかどうかが分からなかった。なお、彼とは帰路クアラルンプールのLCCTで再開したが、ラーキンbusstationからZONEまで25RMも支払ったらしい。調査力の差が僕が勝っていたようだ。しかし、彼はAIRASIAの座席指定はしないで、空港で席が悪いと金を出して良い席を確保するし、荷物は手持ちだけにせいりしている。これだけで往復1万円近くも節約できているから、僕は細かく儲けたに過ぎない。どうも、これが僕の欠点だろう。
上記情報には、JuscoPermasujyayaに行くBUSも特別に書かれているが、23番もCausewayLinkとして同地に行くようだ。
バスは直ぐに、ジョホールバルSentralと思われる近代的なバス乗り場に着いたが、降りる人も無くUターンして、東に向かった。T字路で、ここで降りて123のバスに乗れと運転手が言い、僕は降りたが、どこにもバスストップを示すものはなかった。不安になり通り合わせたTAXIに乗ると、これはメーター付で、今回の旅行で唯一のメーター付TAXIであった。
TAXI
は川(入江か?)を越えて行き、ホテルには直ぐに着いた。メーター支払いは15RMだった。その後、いろんな所で乗るTAXIは、メーター付きでなく、日本人だと15MRが相場であったから、ここで乗ったTAXI15RMが最も距離的に長かった。なお、帰国時に再び先の日本人にあったが、彼は、ラーキンBusSenntralからZON、それは、JB Sentralの近傍だが、そこまで25MR支払ったとのことで、彼と比較すると、僕の方が有利な交渉をしたことになる。ZONJBの僕の住みかPerumasujyayaからJB Sentralに至るバスのRouteにあり、JBの直ぐそばであった。
N1.499902 E103.814739
ところで宿は、ジャスコマスジャヤの商店集合街の北の奥の方であった。南のメイン道路にジャスコがあり、バスがその西側から出るらしい。これらの探検を終えて宿に帰る途中に果物屋があり、そこでパイナップルを2個購入し宿で食べてみた。とても美味くて2個を一気に食べたのだが、口の中がとても痛くなった。後で調べるとパイナップルには短波気質を分解する酵素があり、かぶれを起こしやすいやしい。痛い勉強をした。それと長ズボンばかりでは暑いのでジャスコで15RMの短パンツを2着買った。ジャスコの位置はここ。
N1.495966,E103.818344
123
番のバスはジャスコの南側に着き、Sentralへのバスはジャスコの西側に着く。
125()早朝に宿を出てJUSCO前でバスを待った。セントラルまで1.6RMらしい。バスが直ぐに来て20分足らずでセントラルに着いた。2階の連絡通路を経て隣のイミグレーションビル3階に上がった。出国審査を受けて、下に行くと、2階と1階へと続々と進む通勤者の列があった。
誰も喋らず、ただ陸続とトラック乗車の列に並び進んで行くのだ。なぜか通勤者が並んでいないバスがあり、Queen
sStreetに行くと言う。乗ろうとすると、切符は車内では売らず金を箱に入れろと言う。どこかに切符売り場があったはずだが通り過ごしたのだろう。が、切符が無いとWoodlandで入国審査した後で同じ会社のバスでも支払いが必要になる。が、たかが2RMのことだと乗車した。車内は整然として座席に座る人は喋ることなく、殆どが眠っていた。Woodlandへは直ぐに着き、入国審査前で置かれた入国書類に記入し、審査カウンターではJBでの宿泊宿、マレーシャからの帰国便を確認された。再び1階に下りて、2RMを箱に入れてバスに乗車した。バスは渋滞で一時間程度掛かりQueensStreetに着いた。
そこから徒歩で、大噴水、マーライオン、ラッフル像、中華街を経てQueen
sStreetに戻りバスでマレーシャへと戻った。帰りは車内で2.5SDで切符を買い、簡単に戻れた。
126日(土)
10:15
発の列車に乗れたが、予約席は窓なしに近い席であった。列車もわけの判らんとこで止まり、なかなか前進しない。どうやら単線で、列車待ちをしているようだ。が、それを終えると突然猛速で走り出した。単線でこのスピードでは怖い、そんな速度だ。バス路線に比して人家はよくあるが、それでも海の見えない田舎町の間を走るって感覚である。乗客が降りて窓際の席が空いたので移動した。良好!良好!
だが直ぐに客車は混みだした。席に戻ると僕の席の横におっさんが座っていた。話によると、シンガポールで働いていて、休日ごとにIPOHの家に帰るのだが、渋滞で列車に遅れ、TAXIを使って列車を追っかけてきたとのことだ。IPOHでは是非ともWhiteCoffeeを飲めとのことであった。あとで実際にのんだが、濃厚なミルク味と口当たりの良さが印象に残る飲料であった。
列車は山の中、それも、やし林の延々と続く中を走るだけであった。しかし僕はこんな旅でも楽しい。列車にはビュッヘもついていたが、僕は買い置きしておいたパンやビスケットで昼食を済ませた。列車はKLも通過して、定刻にIPOHに着いた。駅を出るとTAXIの運ちゃんが寄ってきて20RMだと言うが、MAX10だ!と言うと15RMとなった。結局、今回の旅では距離に関わりなく15RMばかりを払った。ただ、JBからJuscoPermasJayaまでがメーターTAXIで、14RMだったが、乗る距離は一番長かった。
宿は今回の旅では最悪であった。案内された部屋はまっくらでカーテンを開ければ埃が立ちそうで開ける気にはならず、それにそちらは廊下であった。シャワーが無く文句を言ったが英語が通じない兄さんで何を文句を言ってるのか理解できないようであった。何でも、この土日はインド人の祭りで部屋は全てFULLってことらしい。あきらめて手桶で水をかけてシャワー代わりとした。食事は近所のフードコートでぶっ掛けご飯を食べた。ナシチャンプルってやつだ。おいしかった。それより近くにインド食堂があったが、これはやはり味が濃すぎた。もっと駅近くの公園辺りにWhiteCoffeeって中華店があり、翌日の散歩時に、そこで、WhiteCoffeeと目玉焼き付パンを10RNで食べたが、これはうまかった。しかし、値段的に高いので以後は行かなかった。

127日(日)
翌日6時に起きて、暗い中を街北部の市バスターミナルに向かった、宿からは30分掛かった。その周辺で直接Kotabahruに行くバスは無いかと知らべたが、どうも無さそうだった。仕方がなく、通り掛かりの人に、ペダン・ゴペンと聞くと、そこに行く市バスターミナルを教えてくれた。市バスターミナルも行く方面で別れているらしい。教えられたターミナルに入り、カウンターで「メダン・ゴペン?」と言うと、そこと指差し、「7:10にバスが来る、切符は中で買え」との事だった。バスの運転手と車掌は夫婦で勤めていて、これは、ジョホールバルの123番バスでも経験したことだった。翌日に乗ったのは6:50分のバスだったが、これは運転手単独で、車掌の替わりに電子機器が使われていた。どうやら、バス運営システムが変わりつつあるらしい。夫婦で運営のバスシステムとは実際にはどのように運営されているのか想像するだけでも楽しいではないか。
バスは市内に戻りぐるっと一周してから南下してゴペンに着いた。運転手がゴペンだ!と言うまで分からないような場所で、道路の向こう側、屋根付きの駐車場の更に向こうにバスセンターがあった。翌日8時のコタバル行きバスの切符を買うと、出発30分前に来ればバスナンバーを教えるとのことであった。市内へのバスを待ったが、当日はインド人の祭りがあり、市内バスが来ないとのことで、15RMTAXIで駅まで帰った。その後は市内をうろついて過ごした。小さな街だが、他の街と同様に居心地の良い街であった。
夜中にバケツをひっくりかえすような豪雨が延々と続き明日のバスが出発できるのかと危ぶんだ。
128日(月)129日(火)
昨夜の雨が嘘のように早朝の街はほぼ乾いていた。615分に宿を出て徒歩でIpoh市バスBusStationに向かった。昨日来ているから簡単で715分前には着き、カウンターで聞くと待っている一台がメダン・ゴペンバスステーション行きだと言う。乗ったら直ぐに出発した。そのバスは運転手の爺さんだけで、切符の積算は機械でやっていた。夫婦運転だけでは無いらしい。乗客は僕と出発して直ぐの停車場で乗った婆さんだけだ。どうせ昨日と同様に市内をうろつきまわってからゴペンに向かうだろうと油断していたら、直ぐに運転手が「ここだ、ここだ」と言う。確かに道路の状況は昨日来たゴペンだ。急いで降りて道路を渡ったが、早朝で猛スピードの車にはねられそうになった。715分には着いて、昼の準備の購入とかを終えても時間をもてあました。僕のいつものパターンだ。
9
時になりTansnationalの窓口に行くと、昨日受け取った930分の切符に DAU6405 と車の番号を書いた。多くの車から探すと、端の方の車であった。
車は定時に出て、一路北方に向かったが一時間ほど走った所で、ゴムの焦げるにおいがして路壁に止った。一時間ほどで修理が終わり再び北に向かった。Gerikを過ぎた名も無き小さなバスターミナル、これはどうも、乗客たちの食事に特化したターミナルに2時ころに着いてゆっくりと食事が始まった。が僕は既に買っておいたクリームパン類を食べてしまっている。彼らの食事の量を見ると、どうも彼らの食事は昼食が優先かもしれない。30分程度でバスは再び出発した。更に4時間の旅だから到着は6時を過ぎることになりそうだ。このバスはコタバル市内の中央部のコタバルバスセンターに着くから今日の宿からはちょっと距離がある。タクシーに乗るとして必ずや15RMを主張するだろう。10RMに下げられるだろうが、5RM150円のことで面倒なことである。恐らく、もういいやってことになるだろう。コタバルからクワンタンへのバスだが、トランスナショナルのバスは市の中心からで31.4RMで、NiceDeckBusは宿に近い所の、LanggarBusTerminalからで,54RMである。宿から歩いて行くとしてTransnatinalを使うことにして、切符は本日着いた時に買うこととした。そこまで考えて、バスの時間が8時か9時か、明日実際に歩いてから決める方がよかろう。ただしそうなるとTAXIの運ちゃんへの支払いは細かいのが無いから50RM札になる。運ちゃんとの交渉で注意せにゃなどと、仕事をしていた時と同様にこんな感じで旅をするから精神的に疲れるのかもしれない。だが、頭を使うことに慣れることも重要だろうと思う。
椅子と車体の間に変な物があると見たら、thailand人のpassportであった。BA-E
Mr.ABDULLOH
 N982124 って人の物で、困ってるだろうな、と思った。KotaBahruに着いたら直ぐに届けてあげよう。と、実際にはTAXIの運ちゃんとの交渉や、KUANTANへのバス切符購入で頭がいっぱいになり、購入カウンターに拾ったパスポートを渡すのを忘れた。
KotabahruJalanPedekバスステーションは、市の中央部にあり、狭い場所で、むしろ市バスの方が数も動きも多い。他にもバスステーションが有る筈なのだが、歩いて調べたら見当たらなかった。宿はバスステーションから南東に歩いて40分程度のところにあったが、行ってみるとリフォーム中で閉館していた。が、親切なオーナーが近くの宿を紹介してくれた。その宿はハンサムな青年、オーナーの息子とのことだが、彼が管理していて、設備的には良い宿だが、どうもメンテが今ひとつであった。その青年は、定刻になると神への祈りを捧げる敬虔なムスリムだが、敬虔であることと、物事を管理する能力とは関係が無いらしい。ただ宿は近くに食堂もあり便利な住宅地街の中にあった。街は特に北側が古く懐かしい街並みであったが、開発が進行中のようであった。川に水上生活者の建物があるとのことで行ってみたが、2~3軒しか浮いていなかった。
街北側のミニバスステーションからPCB海岸へのバスが出ていると行ってみたが、今は、JalanPendekBusStationから出ているとのことで、行くのをあきらめた。どうも、この街のことでは、地球の歩き方情報は古いのだと思えた。なお、市バスはCityLinerと称されている。この街で見どころは、バスセンターから北側の街並みと言えるだろう。
130日(水)1月31日(木)
バスセンター発が8時なので、宿を6時に出た。道は十分に把握済みの筈が、ちょっと迷った。しかし、7時過ぎにはバスステーションに着いた。朝食はバスセンター東側のレストランで、ケースに入ったお菓子系のパン類で済ました。バスは30分遅れで出発した。
KUANTAN
への道は、左に長いビーチが延々と続き、それに周囲の田園風景も素晴らしく、今回の旅で最も美しい道であった。
KUWANTAN
近くになると、石油精製の巨大なプラントが建設中であった。横の方の席のカレッジの講師さんの説明では、近海に石油が産出したらしい。労働者が急増し物価上昇が著しいと嘆いていた。
僕の考えでは、この辺りで日本の厳しい夏から逃げてくるのが良いと考えていたのだが、彼のこの説明で、更に調査の必要があるかな、と考えた。
バスセンターはプラットホームが7レーンで2階が切符売り場、駅中って、なかなか立派なんものだった。明後日のきっぷも買って運転手と交渉したが、やはり15RMで成立した。が、宿は今までで最も近い位置にあった。運転手が望んだので、明後日の朝の7時に来いと約束したが、結局、当日7時には現れず、駅まで歩いたが、道はもちろん調べておいたので問題なかった。むしろ、バスステーションに着いてからスコールになったから、下手に運転手を待たなくて良かった。
話を元に戻して、宿は、街の東側を南北に走るJyalanBessera沿いの高級住宅地の中にあり、今回の旅で最も施設の整った宿であった。この宿であれば女房も満足すること確実であった。近くの中華料理屋でナシゴレン(多分中華チャーハン)を食べたが実にうまかった。
ただ値段は、10RMとちょっと高かった。
翌日は7時に宿を出て街を見て回った。今までで最も小さな街であったが、その雰囲気は素晴らしい街であった。特にいろんな種類の街路樹が美しい花を咲かせていた。河畔に遊歩道がある筈だったが、遊歩道は再建設途上で、遊歩道の店は全て閉店になっていた。遊歩道入口のレストランが漸く開店していたので、ナシルマを食べた。
街歩きに満足して、MEGA MALLを訪れたが、僕に取っては特に関心が生まれる店ではなかった。街を歩いて感じるのだが、マレーシャでは道を歩く人を殆ど見かけない。全くの車社会になっている。そのせいか、建設は続いているのだが、何となく、意気込みが感じられない点が気になるのだ。
2月1日、2月2日
朝7時には行動を開始した。宿の前で待って7時にTAXIが来ないのを確認して、直ぐにバスステーションに向かった。徒歩30分程度で着いたが、着いてすぐ後にはスコールが始まった。つまり、TAXIを待たなくて良かったのだ。朝食は裏手のレストランでナシレムを食べた。そこのナシレムはココナツが濃く、飯が粘つくようであった。
バスが遅れて着き、スーツトランクを開けてくれと言うと、持ち込め、とのことで、その処置に苦労した。席の番号が5Aで、席の上の番号を見て行くと、4の後ろがMになっていたが、おそらく、これが5であろうと、スーツケースを隣の席に上に置いて座った。後から来た人が、そこは私の席だと言ったので、スーツケースを下ろそうとしたが、いい!いい!と彼は後ろの席に移った。この辺り、マレーシャ人はなんとなく日本人的、それも関西風で融通が効くようだ。僕の座った席の後ろからは、横3席で広い通路になっていた。よく見ると、その席の上に5Aと表示があり、そこ、つまり僕の指定席は広い通路なので、運転手は荷物を持ってゆけと言ったのであろう。だが、今さら席を変える気もなく、そのままにした。山越えの高速はあいかえあらずヤシ林が延々と続く道であった。
ところで、バスチケットを買う時に、プドラヤ行きと要請すると、8:001030と言われ8時を買ったのだが、切符を再確認すると、HentianPEKULILINGと書かれていた。同乗する人に聞くと、クアラルンプールへのバスは、KLの北から入り、PEKULILINGを経由してプドラヤに行くのだとのことで安心した。PUDORAYAに着けば、もう後は勝手知ったるチャイナ街である。定宿のAlmandに入れば、そこから外に出れば、すぐにフードコートがあり、困ることは何もない。以前よりもこの街の楽しみ方もうまくなったようだった。
KL鉄道駅の近くのLAKE公園に行こうと、PasirSuniの方向に急いでいると、日本語、それも関西訛りで話しかけてくる若い女性が、「日本人ですか?」と聞くので、そうです、と答え、貴方は、と問うと、「さっきから日本語で話しているでしょう?」と言い返された。その通り確かに失礼である。いや関西訛りだったし・・と弁解にならない弁解をした。なんとなく明るい雰囲気の女性で、同じ方向に向かう彼女と何言か話したが、彼女はPasirSuniからブキブッタンに紫色の無料バスで行くとのことで、直ぐに駅に着いて別れた。蝶々公園とかLake公園を延々と歩き、疲労困憊で宿に帰り、夕食も済ませて歩いていると再び彼女と出会った。話好きなのか、お茶にさそわれ、いろいろと馬鹿話をしたが、彼女は30RM程度の安宿で暮らしているらしい。厳しい日本から離れ、ここKLで新しい仕事にチャレンジしているとのことだった。
翌日、MYDIN前のSTARバス停留所発11時の便でLCCTに向かった。日本へのAirasiaは、なぜか、50分も早く着いた。そのため予定していた羽田での夜明かしは不要となり家に帰ることができた。また当日は寒さが和らいでいて、気分良く帰宅できた。
とにかく、暑くはあったが、マレーシャの方々を十分に見ることのできる旅であり、今回の旅で、マレーシャで生きてゆくすべは会得した。
後半は疲れて記述が雑になったけど、我慢してください。
ところで所要費用ですが、航空機代約40,000円、ATMでキャッシング1,000RM=30,000
50SD
5,000円 その他予約支払分を含めて、合計80,000円程度でした。ネパールやインド旅行より高くなりますね。