2018年8月18日土曜日

ヤナギバ・ヒメジオン (2)


 次の土曜日が待ちきれない直ちゃんは幾度となく「いさぼん、土曜日にはあの花の名前が判るやろうか」と問いかけた。同じ質問の繰り返しにうんざりしながら「さあー」と答え続ける毎日であった。

 「判ったら楽しいなあ」と、直ちゃんは顔を崩して独り言を言ったかとおもうと、すぐに泣きそうな顔つきになって「しかし駄目かもしれんしなあ」と呟いていた。僕にとってはたかだか雑草のことであり、付合い切れないので相づちを打つだけで、この問題にはできるだけ深入りせず全てを志織ちゃんにまかせる姿勢を貫いた。直ちゃんの顔には明るさと暗さが一時間毎に入り混じる日が続いたが、それも徐々に穏やかになっていった。草や昆虫のことになると異常な執着を示す直ちゃんでも、時間は全てを沈静化してゆくのだ。 畑地には牛が入り大地は鋤でごぼりごぼりと掘り起こされてゆく。日々強さを増す陽射しの下で黒々とした、いかにも肥沃そうな土が姿を現わし、冬から春にかけて作られた堆肥が混ぜ合わされ、土の黒さは輝きを増し始める。周囲いたる所に堆肥の少々臭いが健康そうな匂いが立ち籠めている。いよいよ田植えの時期が近付いたのだ。週末には一斉に水が張られ田植えが始まるのだろう。

 田圃にはいつも人影があり忙しく立ち働く姿が見られ、おかげで畔道に入り難くなった直ちゃんの質問はかなり少なくなり、僕にとっては平安と言える日々が続いている。一年中が田植えならいいのにと僕はつくづく思う。

 時間を持て余した直ちゃんは、アパートの南側で枝を広げる山椒の木の揚羽蝶の幼虫に時間を費やし、今も観察の真っ最中である。その傍で僕はボサッと立ったまま南に続く田圃を眺めている。

 まだ見たこともないが、南の彼方には狭山池と呼ばれる大きな池があるとかで、そこから流れ下ってきた西徐川が百メータ程彼方を住宅地に沿って東西に走っている。堤防に沿って茂る灌木の緑の列が視野の中を横断している。

 遥か遠くの霞の中へと消えてゆく大地が、灌木の帯の向こうへと盛り上がりながら続いていて、一軒の家とて無く見渡す限りの大地が黒々としている。霞の上には紫色の葛城山脈が横に連なり、山の紫は僅かずつ色合いを変え左に繋がる金剛の緑へと連続的な色調を示している。紫と空の青とは明確な境界を保ちながらも見事な調和をかもしている。

 自然の描く絵には、どの部分をとっても調和と美しさがある。その美しさを絵に描こうと試みたこともあるが、山と空は紙の上ではなんの変哲も無い単調な風景になってしまった。それに気付いてからは専ら目で楽しみ心に刻み込むことにしている。唯一自信のある記憶力を精一杯に使って、僕は心の中に自由に色を描くことができるのだ。

 いつか彼方の山まで歩いて行きたいと僕は考えた。あの山までの道の途中には一体何が有るのだろうか、田や畑が延々と続いているのか。それとも、この住宅地とは全く違う世界が有るのだろうか。いつものことだが、そのことを考えるだけで僕の心は熱く震えるのだ。

 小道の右手の方からギコギコと音が聞こえてきた。ついでにチエーンがカタカタと擦れる音もしている。その音だけで誰が来たのか察しがつき、心に動揺が生まれたが知らぬ振りをして彼方を眺め続けた。

 自転車に乗った人影がずうずうしくも僕と、僕を酔わせている風景の真ん中に入りそのまま停まった。やむをえず焦点を人影に合わせると、やはり林良子である。日焼けで黒く健康そうな顔の中の、ひときわ目立つ薄青く澄んだ白目と茶色の虹彩が真正面から僕を見詰めている。この虹彩に見詰められると僕はなぜか吸い込まれるような気持ちになる。だから思わず顔をそむけてしまった。

「ふん、嫌そうね」

「ううん、そんなことはあれへん」

 僕とは違い良子は思ったままに話す性格である。その反応の速さに考える暇も無く答えてしまったのだ。心を閉じる時間的な余裕がなかったから、返事の後で『しまった』と思った。僕の声には『嫌だ』との音色が驚く程に含まれていたのだ。僕より遥かに敏感な良子がこれに気付かぬ筈がない。強烈な反応が返ってくると僕は体を引き締めたが、良子は「ふん」とそのかたちの良い鼻を鳴らしただけである。しかし薄い虹彩がクルクルと動いている様子から頭のなかは急速に回転しているに違いない。僕も頭の回転を早めるべきかとも考えたが無意味な事はやるまいと思い直した。とにかく良子は僕を疲れさせる最も苦手とするタイプである。

 初めて良子と話したとき、迂闊なことに、良子の頭の回転に合わせて僕も速度をどんどんと上げてしまった。最初はにこやかに笑っていた良子は一瞬オヤッと言う表情を示し、それからは真剣な顔になり、更に速度を上げたらしい。つられて僕も頑張ったが、五分も喋ると疲労困憊となってしまった。そんな経験は初めてのことで、普段は半速度で十分に過ごせる僕には最高速度での連続稼働は相当の負担になったのだ。それに僕が回転を上げるときには頭の中の何枚もの歯車の、その一番端を心のねじ棒で無理遣りに回すのだが、それには相当の力が必要なのだ。ある程度回転数が上がってからは少しは楽になるが、それでも回転数を変える度に歯車の切換えが必要で、精密な歯先がギリギリと金属音を出すような抵抗感がある。一方良子はといえば、驚いたことに疲れた様子は全くなく、いよいよ快調のようであった。その回転や変速は軽やかで、僕の機械的なものとはまるで違うらしい。そのことがあってから良子と話す時にも頭の回転は早めないことにした。人との付合いでは半速で一人考えに耽るときには高速にする。この方法が僕には最も合うらしい。 住宅地の北を通る近鉄南大阪線と、更に五百メータ程北側の長尾街道に挟まれた住宅地に良子は住んでいる。南大阪線を経営していた大阪鉄道が戦前に開発したかなり近代的な住宅地で、家々は生け垣に囲まれた敷地の大きい洋館建てである。

 良子が東京から引っ越してきたのは僕が小学校の五年生のときで、ちょうど直ちゃんよりは一年早くこの地にきた。直ちゃんとは違って成績は学年でもトップクラスで、上品で美人で、すぐに小学校での注目を集めた。継ぎはぎだらけの服を着て年中はなを垂らしている僕らの中で、良子だけは光り輝いていた。おまけに言葉は標準語で、髪型、服装その他の全てが格好いい。僕や直ちゃんよりも一年上で今は大阪市内の中学校に通っている。 自転車を持つ彼女の行動圏はどんどんと広がり、それに、平らな河内平野で自転車の行けない所はないから、五キロ四方に散らばる級友の家を次々に訪問していった。僕にとっては広大な町を我が物顔にうろつき、全く人見知りしない彼女は、級友の家族やその隣家の人々とも気楽に、まるで大人のような顔をして話し掛け、世間話しまでしたものだから、大人たちの間でさえ彼女は有名になった。半年もせぬ内に彼女を知らぬ生徒や父兄は学校中に居なくなった。

 最近は放浪にも飽きたらしいが、近くに有る僕の住宅地だけには週に二、三度はぶらっと、それもなんの目的もなくやって来るのだ。

 洗いたての白い帽子、白いブラウスと紺色のスカートが、日焼けした形の良い顔や、すらっと伸びた手足とよく似合い、まるで映画の中の少女のように可憐な見映えである。しかし、外観とは違いその中身は活発に動き疲れを知らぬ頭脳と強烈な意志の塊である。

 良子が優秀で評判も良いことは認めるし、贅沢にも、自分の自転車を持っていることも気にはならない。だが、我慢がならないのは、その鋭い言葉の棘である。

「ボサッと山を見ていたね。どんな色で書いたらよいかと考えてたんでしょ」と僕の考えを図星にあてて、そんなことは極く簡単なことだとでも言うように、にやっと笑いかけ、次いで直ちゃんに向き直った。

 直ちゃんは青虫のことも忘れ、眩しそうに良子を見詰めていたが、良子と眼が合い照れて「えへへ」と愛想笑いをしている。

「直ちゃん、なにをしているの」と良子の言葉使いは突然に優しさを帯び、鋭い刺は見事に隠されてその片鱗さえなくなっている。棘が一瞬にして暖かい友情に変わるなんて僕にはとても信じられない。しかし、この急変については母親にも時たま見受けられることだから、単に女特有の能力なのかもしれない。

 直ちゃんは吃りながら、揚羽蝶の幼虫を観察していることと、幼虫の色合いや飛び出る角の色のことを一生懸命に説明している。二人が山椒の木に触れるたびに若々しく刺激的な薫りが周囲に満ち溢れた。それはまるで良子の匂いそのものに思えた。

 良子は相手を逸らさぬ受け答えで直ちゃんの話をどんどんと引出してゆく。横で聞いていて僕はその様子に感心してしまった。良子の精神年令は既に大人達のレベルを越えているようだ。それに、生れついての巧みさが備わっている。

「へえー、揚羽蝶の幼虫ってその虫なの。ふーん、本当に可愛いい幼虫ね。・・成程ねえー」とこんな具合である。

 幼虫のことを讃められ気を良くした直ちゃんはいよいよ説明を続け、木に付いている青虫の一匹一匹の紹介と性格分析までやっている。良子の巧妙な受け答えに自信を取戻したのか、いつのまにか直ちゃんの吃りは消えている。

「うん。それにからたちにも付くんや。強い匂いの木に付くんやと思う」

「それに、どれも刺のある木やねえ」と良子。

「いや違う。黄色い揚羽は人参の葉に付くんや、せやから、刺は関係無いと思うんや」

「ふーん」と良子は感心したように直ちゃんを見詰めた。良子には直ちゃんの良さが判る感覚も備わっているのだ。賛嘆の視線に直ちゃんはいよいよ調子を上げて話しを続ける。「ひょっとすると強い匂いもあまり関係ないかもしれん。黄色揚羽はクローバにも卵を産むようなんや。せやから要は葉っぱの味の好き嫌いらしい。このあたりは、揚羽の幼虫に聞かんと、よう判らんわ」と、そのうち揚羽蝶と話を始めんばかりの言い方である。

「ふーん」と良子は声もない。ただ尊敬の眼を直ちゃんに向けている。

 直ちゃんの話しは僕も初めて聞くことばかりである。直ちゃんに巧く話しをさせれば興味のあることがぞろぞろ出てくるらしい。

「黄色い角を出すのが普通の揚羽蝶で、ピンクの角を出すのが黒い揚羽蝶やと思うんや」「なぜ判るの」

「何匹か自分で飼ってみたんや。蛹がかえったのを調べたんや」

 良子は幼虫の飼い方をあれこれと直ちゃんに質問して、直ちゃんは得意そうに答え説明を加えてゆく。話しは揚羽蝶だけではなくて紋白蝶や紋黄蝶、それに黄蝶へと広がり、前後し混乱する直ちゃんの話を良子は見事にコントロールしている。直ちゃんの話しは非常に興味深いものであるが、良子にコントロールされる直ちゃんを見るのが嫌で、僕は視線を再び彼方の葛城山脈へと移した。

 僅かの間にも見事な光の調和はその色合いを変えて、そこにはまた新しい調和が生まれている。どの色調を与えても自然は見事にバランスを取戻すのだ。自然の色調にアンバランスを見たことがない。色の塊同志が相手の色との均衡を十分に考えた末に自分の色を決めているに違いない。それ以外にこのような調和が産まれるだろうかと思考が広がりだしたその時に、またまた良子が割込んできた。これがいつもの遣り口だ。良子はすぐさまに僕の眼を読取り、再び皮肉の刺を出した。

「伊三郎君、風景鑑賞の邪魔をして御免ね」

 ビシッと決めてやろうと口を開けたが、言うべき言葉は何も浮かばず、ただ頭の中には揚羽の幼虫から飛出したピンクの角が、まるで良子の棘を象徴するかのように現われただけである。

 僕の顔に走る嫌な思いを感じると、良子は大変満足したとの笑みを浮かべ、自転車に跨がり直ちゃんに向き直った。

「じゃあ、また来るね。伊三郎君は嫌らしいけど、直ちゃんは歓迎してくれるからね」

 直ちゃんは一瞬困ったような視線を僕に走らせてから嬉しそうな笑顔を良子に向けた。 良子はギーコギーコ、カタンカタンと走り去って行き、その後姿を口を半開きにして、さも素晴らしいものを眺めるかのように直ちゃんは見送っている。角のところで自転車を停めた良子は振り返り、直ちゃんに手を振り、直ちゃんも急いで手を上げた。

「素晴らしい子やなあ。まるでカラスアゲハのような子や」と、直ちゃんにとっては良子は揚羽蝶の一種なのである。それだからこそ良子に興味を持っているのだ。しかしながら直ちゃんが示す最大限の賛美ではある。一瞬僕にも良子の姿が黒い揚羽蝶に見え、紺色の艶を帯びた黒い羽根を一杯に広げ、鱗粉を煌めかせながら舞上がるさまさえ眼に浮かんだ。そう、いずれ彼女はこの河内から広い世界へと大きくはばたき飛出して行くに違いない。自転車に乗るカラスアゲハは角を曲がって見えなくなった。

 僕が黙っていると直ちゃんは押しつけるように言う。

「あの子が男やったらこりゃ大物になるで。よその小母ちゃんが言ってたけど、あの子が町議に立候補すれば間違いなく当選やて」

「ふん、自分が女やから、それを巧く利用しとるわ」と、我慢出来なくなって僕は怒りの声を発してしまった。以前、良子の棘に堪え切れなくなって殴り付けそうになったことがあり、良子は僕の家まで逃げて行き『伊三郎さんが殴る』と言付けた。おかげで良子にぞっこん参っている母親にはこっぴどく叱られ、それからは手を出せなくなった。良子は周囲の誰彼なくを味方にしてしまい、しかもそれを巧妙に利用する手段を知っているのだ。「いさぼん。林さんは僕が苛められてるときに何度も助けてくれたんや。ほんまにええ子なんやで」と、直ちゃんは女に救けられることの情けなさは忘れ、真剣な表情で言った。「そんなに誉めるんやったら、あの野菊の花の名前を聞いたらええのに」と激しい口調で言い返すと、

「ああ、聞いてみたんや。そしたらやっぱり知らんて、それに『其々が得意の事を追求していって、お互いに知ってることを教え合うのは素晴らしいことや。その花の名前が判ったら教えて』っと言っとたわ」

くそ、知らん事でも巧い理屈で覆い隠すのが上手な奴やと僕は感心した。

「ついでに、なんで、いさぼんにきつく当たるんか、とも聞いたんや」

 直ちゃんは僕の質問を待っていたが、僕が黙っているものだから諦めて話し始めた。

「私は伊三郎さんの天敵なんよ、と答えたんや。その時は成程なあ、と思ったけども、今になるとよう意味が判らんなあ」

 良子が説明すれば誰もが成程と納得させられる。直ちゃんもそんな気になってしまったのだ。良子のやることは間違いない、と大人も含めた誰もが思ってしまう。それだけの何かが良子には備わっている。しかし彼女はその天性だけに頼っているわけでは無い。彼女のやることにはどこか一味ちがう閃きと工夫がみられるのだ。直ちゃんに説明するのに、“天敵”との表現を使うことからして実に巧妙ではないか。それにしても“僕の天敵”とはどういう意味だろうか。おそらく良子だけが僕の生活態度を非難する唯一の人間だと言っているのだ。学校では、なんとなく一応の成績を上げていて、それに満足している僕に、それでは駄目だ、本気でやればもっと出来る筈だと言っているのだ。積極性が不足していると責めているのだ。彼女が勤勉と積極的とすれば僕は怠惰と消極的である。極めて対照的だと思う。だが果たして僕は生活態度を変えれるのだろうか。

 茫然と考えている間にも山並みの紫は深みを増してゆく。僕の横で、やはり山並みを眺めながら、直ちゃんがぼそっと言った。「人間は男と女になぜ別れているんやろか。蝶々もトンボも、それに草にさえ雄蕊と雌蕊があるのは何故やろか」

 どうしてこんな難しいことを思い付くのかと僕はうんざりである。

 仕方が無いので頭の回転数を急激にあげて考えた。しかし答えは得られない。ある種の疑問は頭の回転の速さだけでは解けないし、そもそも思い付くことすら出来ないと、僕は直ちゃんの無数の質問から教えられている。そこで、ふいっと頭に浮かんだことをそのまま口にした。

「きっと昔は男と女は体がくっついていたんや。神さんがむりやり引き離したときにチンチンの所で外れたんや、せやから女のあそこはへこんでいるんや」

 話している最中にも、男と女があそこでくっついている姿が頭に浮かび、と同時に僕のちんちんがパンツの中で変に窮屈になっていることに気付いた。しかもその感覚は何故か体の芯が疼くような快感を伴っている。

 直ちゃんはと顔を見てみると、やはり、のんびりした顔を少々赤らめて下を向いている。きっと僕と同じ状態に違いないと考えた。この感覚は過去に経験の無いものである。多分子供が触れてはならない、なにかいかん事に違いない、との予感があって、

「あれっ、変なこと言うとチンチンが大きくなるんやなあ」と、わざと大声で僕は言い、それを聞いた直ちゃんは僕の顔に視線を移してから笑いだした。僕も大きく笑ったが、その間にチンチンの窮屈さは収まった。

 心の平静を取り戻した僕はもう一度直ちゃんの質問を考えてみた。

 男と女がこの世にいることになんの意味があるのか。それは単に子供を作るためだろうか。しかし子供をつくるのに男と女が必ず必要だろうか、他に方法が無いのだろうか。

 またまた直ちゃんの質問が本当に大切なことだとのいつもの感覚が蘇った。いつか直ちゃんの数々の質問に答えられるのか、それは何時のことだろうか。この世界には重要でそれに難しい疑問が次々と続いているに違いない、と少々気力が萎えるように思えた。

 僕は黙って空を仰いだ。有難いことに、嫌いな色合いが空の彼方に現われ始め、そろそろ家に帰る時間だと言っている。だがそれまでに残された時間で、光に満ち溢れた世界を、微妙に、限られた色に塗りわけてゆく自然の見事な筆使いを観賞することにした。

0 件のコメント:

コメントを投稿