2023年10月25日水曜日

老体の健康状態について  血圧が高い

 以前にも記載したが、眠りが浅く、しかも明け方に目覚めるとその後は眠れない状態が続いた。済生会千葉病院で、ペースメーカーを入れてくれた竹田医師に相談すると、睡眠導入剤のデエビゴ5mgなる薬剤を推薦し手配してくれた。
それを飲むと、症状としては、夜中に目覚めても2度寝ができるようになった。しかも、見る夢がより具体的になり、例えば、以前なら見知らぬ電車で帰宅の路線が判らなくなり強い不安感に襲われていたのが、むしろ知らない路線や知らない街を楽しもうとする気分的余裕が生まれて、悪夢とはならなく、その他の悪夢にも襲われなくなった。それに、血圧も安定するようで、起き抜けの血圧も150前後となった。ただ、何日か服用して気づいたが、服用の翌日に僅かながら眠気が残るようなので、錠剤を半分に切って服用している。服用量が少なくしたことでの血圧の様子を見たが、起き抜け以外は135前後と安定している。しかし、起き抜けは170前後と高い。もう少し起き抜けの血圧の様子を見て、悪ければ循環器医院に相談することにする。なお、デエビゴを手配してくれた掛かりつけの中野内科医は、降圧剤を出しても良いよ、と言っているので、循環器医院での相談結果で判断する。

さて、夜にデエビゴ錠を1錠のんだところ、翌朝の起き抜け時血圧は、130前後であった。ってことで、血圧問題は一応の解決となった。しかし、夜更かし、体を冷やすことは厳禁とすべきだろう。ところで、デエビゴ剤の作用とは、覚醒を維持するオレキシンがオレキシン受容体に結合することを阻害し、脳の興奮・オレキシンがオレキシン受容体に結合することを阻害し、脳の興奮・覚醒を抑制するらしい。つまり、血圧との直接の関係はないわけだ。僕の場合の血圧上昇の原因が、睡眠時の覚醒によることで、デエビゴ剤の効果が出るのだろう。

しかし、翌日の起き抜けは160程度に揚がった。考えるのに、昨日は運動もあまりせず、塩気の多い菓子を食べ過ぎた。
そこで、イトーヨーカドーへの買い物、畑の畝作りに精を出した、そのため昼間は、130近辺の血圧を維持している。明日の起き抜けはどうだろうか。

宇宙の成り立ち その後

真空のからくり(山田克哉著)を読むと、宇宙の真空は素粒子、反素粒子に満ちていると書かれていて、しかも、その事が実験的にも確かめられていると記載されている。つまり、宇宙は素粒子が満ち満ちた、虚無の中の風船のようなものと言えるだろう。そのことから、宇宙の中に我々のような物質は僅か数パーセントしかなく、ダークエネルギーが75%も占めていることも理解できる。但し、宇宙を占める素粒子、反素粒子が、ダークエネルギーなのかどうかは未明だとは記載してある。なお、宇宙が拡大している現在は、素粒子・反素粒子がいまなお宇宙に増加していることになる。
驚くべきことだが、なんだか、当然のような気もする。
なお、素粒子と反素粒子が合体すると、大きなエネルギーを発して消滅すると思っていたが、実際には、両者が組を組んだり、消滅する場合にも、再び、同等のエネルギーを有する素粒子と反素粒子に創出されるらしい。なんとも不思議なシステムを宇宙は作りだしているのだと驚いた。
なお、宇宙の真空を占める素粒子・反素粒子のコンビの存在についての提唱は、1948年以前であり、これが実験されたのは1998年であった。

パレスチナ紛争について一言

 我々が子供の頃、イスラエル人達の建国の苦闘がよく報道され、そのせいで、パレスチナ人や周囲のイスラム国家が悪であるかのような印象を得た。しかし、歴史を学ぶ経過で、特に十字軍のエルサレム回復での蛮行・愚行や、ローマ教会の扇動に応じた子供十字軍や農民十字軍の哀れで馬鹿げた結末を知り、更には、第二次大戦後のパレスチナ地区の戦力的空白を縫って無理やりユダヤ人の国家建設を図った欧米の傲慢さを考えると、パレスチナ問題では安易にイスラエルだけではなく欧米のプロパガンダに従ってはならないと思うようになった。
更には、ナチスによってあれほど悲惨な境遇になったユダヤ人が、それと同じ、若しくはそれ以上の悲惨な思いをイスラム教徒のパレスチナ人に与えていることも考慮しなければならない。  イスラエルの外交官が、パレスチナ派閥をナチ呼ばわりしているが、客観的に見るなら、イスラエル自身がナチの暴虐を繰り返しているとあきれてしまう。

欧米人の殆ど、特に中流、下流の人々は、中世の十字軍騎士たちと同様の気持ちでイスラエルを応援していることにも留意すべきで、つまり、パレスチナ問題は、公正さと言うよりは、愚直に宗教を信じる主としてキリスト教徒の引き起こす宗教戦争に近いと考えるべきで、恐らく、欧米のキリスト教徒は少年時代に自分がイスラム教徒と戦う十字軍の騎士だと夢想したに違いなく、日本人としては、そのことを強く意識しながら、パレスチナ問題を論ずべきだと思う。
と同時に、より客観的な立場になれることで、両者の仲介をしたり、より人道的な支援を出来る筈だと思うが、日本の政治家にそれほどの知見と気概が有るとは思えないことが残念だ。

2023年10月11日水曜日

中谷自伝 1

 中谷哲昇君から、9/28に消滅したとの手紙が来た。まさか自殺なんてありえないが、どういうことか問い合わせ中だ。彼が今年の5月に帰国後に送ってきた彼の自伝を転載する。
第1部

人間世界の軌跡

 

原生林に包まれた我が家は、ブラジル、サン・パウロ州近郊にある、日本移民が多く住んでいるモジ・ダス・クルーゼス市の町の中心から二十キロメートルほど離れた農村地帯にある。緯度から言えば、モジ・ダス・クルーゼスと南米一の大都市サン・パウロとの中間に南回帰線がある。北回帰線と言えば、台湾の中部になる。

夜空を見上げると,雨の川が綺麗で、北斗七星は見えないが南十字星が見える。モジ・ダス・クルーゼス市は地域によって多少異なるが、標高八百メートル前後。緯度の割には標高もあるので温帯気候に近い。一年を通じて気候の変化は余り明確ではないが、十二月から二月ごろの夏は気温が摂氏三十度を越えることもある。六月から八月頃の冬は十度以下にさがりが降りることも有ったのだが、近年、ここ二十年くらい霜が降りたことは無かったよう。やはり地球温暖化は微妙に進んでいるのかなとも思える。しかし、長期的に見ればいずれは氷河期が訪れるので、現在のように炭酸ガス排出に神経を尖らせていることは、この問題に素人ながら、疑問に思う。それに、植物にとっては炭酸ガスが多い方が良いのではとの疑問も持つ。

冬でも、朝方最も温度の下がる時、室内で十度以下になることはあっても、二・三日の期間だけで、その後すぐ除に温度が上向きになる。寒さに苦手な者にとっては嫌な冬ではあるが、朝遅くまで布団を被って眠っているのも、気持ちのいいもの。こんな状況で、炬燵などの暖房は、あるに越したことはないが、特に必要と言う訳ではない。

この地の気候には雨季と乾季があるのだが、年によってかなり様相が違っていて、一応雨季は九月終わり頃から四月終わり頃まで。その他の月は乾季となる。統計によると、一年の内、最も降雨量の多いのは夏の一月、最も降雨量の少ないのは冬の八月。雨季といっても日本の梅雨のように毎日しとしとと雨が降る訳ではなく、日中晴れていて、急に雷を伴なう大雨になることも度々。また、霧雨のような雨が何日か続くこともある。

このような気候は、モジ・ダス・クルーゼス近郊の気候で、ブラジルと言っても広く二十七州あり、行政的見地から地理的特徴に基づき、北部Norte)、東北部Nordeste)、南東部 Sudeste)、中西部Centro Oeste)、及び南部Sul)、の五大地方に区分されている。北部と南部では気候も違えば、生活の有り様も違い、庶民の平均的生活レベルもかなり違い、南部の方が豊かで、全体で見れば貧富の差はかなり大きい。サン・パウロは中西部南部に位置する。ブラジルに定住するまでは南米の各国を旅行したものの、定住後は殆ど旅行などなく、自分の仕事焼き物作りに生活のエネルギーを集中した。これに就いては、後述の章で詳しく述べる。

我が家のある近辺は農業を営んでいる家族が点在している。彼らは近郊農業で、葉野菜、にんじん、とまと、大根、サツマイモ、山芋、いもの木、ごぼう、ピーマン、カボチャ、きゅうり、赤大根、赤かぶ、生姜、オクラ、等々、それに柿、ビワ,ブドウ、クリ等の果物の栽培で、大型機械を使った大農は都会周辺にはない。ブラジルの農業分野での発展に日本人移民が果たした役割は大きく、種々の野菜、果物を日本から多く持ち込んでいる。

華僑などは商業を営む者ばかりで、中国人が農業に従事しているのを見かけたことはない。唯、台湾からの移民者でシメジなど茸類を栽培している人達は、サン・パウロ周辺に多い。

一九七八年、この土地に住み始めたころは、電気はあったものの、電話は無く、バスに乗って町への買い物は、アソファルトの街道まで四キロメートルの土道をリュックを担いでの往復であった。

この道のりは、ユーカリの植林地がところどころにあり、原生林を切り開いた農地がところどころにあると言った風景である。

野生の鹿、リス、サグとよばれる小型の猿の群れ、飛ばない鶏のように地面を走る鳥、ヤマアラシ、アルマジロ、大きいのは一メートルくらいのトカゲ、青蛇や色んな種類の毒蛇、毒蜘蛛、コウモリ、吸血コウモリ、ハチドリ、ふくろう、大きな嘴の色は綺麗だが鳴き声はガーガーというトウカーノ、カラスに似た大きさの黒い色のジャク、死体を漁るハゲタカ、その他種々の鳥類などを家の周りで見かけることが出来る。ある時など、野生の鹿が何かに追われてか、家の中に跳びこんで来たこともあった。夏には蛍が飛び交う。日本の蛍は後部に光を出すが、ブラジルの蛍は頭部が光る。

 

我が愛する妻(則子)は、サン・パウロの奥地の日系人の植民地から出来た町の生まれで、家業は農業と養鶏であった。当時は農業の傍ら小規模の養鶏もする農家が沢山あった。

彼女は子供の時から馬を可愛がっていて、裸馬を乗りまわっていたという。蝶々の採集をしたり、金魚や鯉も飼っていたとのこと。こちらは、大阪のまだ田園風景は残っているやや田舎で小さい時を過ごしたとはいえ、まずは都会育ち。

我が家の周りの木を倒し、少し高いところにある倒れたその木の上を少々こわごわ歩いているのを見て、彼女、少し茶化しぎみに笑うのである。聞くところによれば、木登りも良くしたそうで、木から落ちて、腕の骨を折ったこともあるという。そんな彼女なので、動物、植物、特に花は大好き。

ここに居ついてから飼った動物は、彼女の育った実家から連れてきた雑種のコロと言う名の黒い犬、アヒル、ガチョウ、鶏、烏骨鶏、鶉、兎、山羊、プードル、マルチーズなど。その他に巣から落ちて飛べない山鳩、他の鳥の巣に卵を産みつけるこの地でシュピンと呼ばれている小鳥、怪我で飛べないフクロウ、等々。

近くの道端などにある芝生を採り集めて来て、家の前にあるかなり広い二十五メートルx三十五メートルくらいの平地の所々に植えて置いたのが、三年ほどすると自然と全体に広がって、まずまずの芝生の広場となっていた。夏の雨季になると芝生の成長も早く、これを手入れするために電動式の刈払機を購入した。時たまこれで芝生刈をするのだが、アヒルを飼えば芝生も食べてくれると聞いたので芝生刈も助かるのではと思い、近くの農家から番いのアヒルを貰って来た。番いから卵、そして雛と孵っていく。雛は黄色で、親についてのよちよち歩きで、可愛いの一言。この様にして時が経つにつれて五匹くらいに増えただろうか。アヒルの糞はべたべたしていて、芝生を食べてくれるのはいいが、アヒルが増えるにつれて芝生のあちこちに、べたべたの糞がつくのでもくろみ違い。それでアヒルは手放すことにした。まとめて池のある近くの農家に貰い受けてもらう。
アヒルを貰った同じころ、地鶏の番いと、地鶏にする雛も購入した。また、子供達が学校から、養鶏場で鑑別された雄の雛も貰ってきたりして、地鶏も少しずつ増えていった。地鶏は家の物置の隅や、森の木の下など、放し飼いなのであちらこちら、好きなところを探して巣を作る。しかし先にも述べた大きなトカゲが地鶏の卵を狙うので、地面から少し高いところに、鶏が卵を孵化させるための幾つかに区切った場所も作る。
養鶏場を訪問するとどこもハエが群がっているので、鶏が増えるとハエも増えるのかなと思っていたが、放し飼いにすると、ハエはいなくなる。恐らく、犬や鶏などの糞に産み付けるハエの卵や孵った幼虫を、鶏が食べ尽くしてしまうのだろう。また、毒蛇などいるところには家の周りに鶏を放し飼いすると良いとも言われる。
地鶏の卵の黄身の色は濃く、別に売るつもりで飼っているのでないが、わざわざ地鶏の卵を買い求めに来る人もいる。それに、鶏の卵は白色か茶色としか思っていなかったが、青みがかった色の卵を始めて見ることが出来た。
彼女の育った実家から連れてきたコロはもうかなりの老犬であって、間もなく老衰で死亡。それで、黒い子犬を貰って来て、鶏と一緒に育てたので、鶏を追い回すなどということもなく、鶏と共存。
放し飼いにしている犬は夜に森の中でヤマアラシに出会うと噛み付くのだろう、ヤマアラシに生えている棘は簡単に抜けて犬の口に刺さる。ある日の朝、家の外に出てみると口の周りにヤマアラシの棘が刺さったコロがいる。ヤマアラシの棘は放って置くと中に食い込んでいく。一人が噛みつかれないように布かなにかで犬をがっしり取り押さえ、もう一人がペンチで、棘をはさんで抜いていく。抜くごとに痛いので、犬はキャンキャン騒ぐが仕方ない。
さて話は芝生に戻るのだが、アヒルは諦めたものの、ガチョウも芝生を好んで食べると聞いていた。またガチョウは知らない人が来るとガーガー騒ぐので家の守りにもなると言われているので、ガチョウを飼ってみようと,いろんな人に当たって探して見た。ガチョウはアヒルや鶏と違い近くで飼っている人は見当たらない。町で動物の飼料や鳥の雛を売っている店にも置いていない。買うとなると値段も高い。後で知ることになるのだが、番いで卵を産んでも、鶏のように雛に孵る率が少ない。偶然、知り合いのつてで隣の町に飼っている人がいると聞いて、早速連絡をとってもらい、訪問することにした。

訪問したところは、家の奥にかなり広い奥行きのある裏庭がある。そこに囲いがありガチョウを飼う為に作られた二つ池があって、六匹のガチョウが居た。そして、ところどころに卵が転がっていている。泥沼のようになったところにも卵が埋まっている。一見したところ余り手入れの行き届いた飼い方には見えなかった。飼い主に、ガチョウの番いを買う交渉をするも、売らないとの返事。しかし、卵なら持って行ってもいいと言うことで、とにかく転がっているいる卵を拾い集め、それを貰って来た。養鶏場で育った彼女は、その卵を鶏の巣に入れ、鶏にガチョウの卵を抱かせるつもりらしい。この頃には地鶏もかなりの数に増えていた。鶏の羽毛の色はとりどり。黒色、茶色、白色、灰色と茶・白色の混ざったのなど一羽ずつ違って一羽として全く同じ羽毛のはいないが、見慣れない者には区別がつかない同じ様な羽毛の地鶏も沢山いる。彼女には、どの地鶏が卵を産んで孵化に入るか分かるらしい。

貰って来た卵は二十あったが鶏に抱かせて雛に孵ったのは二個の卵だけであった。幸いにも、二匹の雛は雄と雌であり、彼女の細かいところまで気がつく動物に対する感性による飼育のお陰で、二匹の番いに成長していった。白い羽毛の首のやや長い、黄色の嘴のガチョウに育つ。ガチョウは水の中で交配するので、小さな池というか、水溜りのようなところをセメントで作ってはいたが、出来上がるまでの間、かなり大きなプラスチックの桶のようなものを用意した。ここに水を入れると、ガチョウは中に入って、水浴びをするように羽をばたばたする。この番いが卵を産んで、鶏に抱かせて孵化させるのだが、すぐに卵を産んで孵化に入る地鶏がいない時は、何日か待つ間、卵に印を付けて時々卵を裏返す。それから地鶏に抱かせて雛にすることによって、ガチョウが増えていった。

彼女の育った環境と、自分が育った環境とはかなり違うというか、全く違うというか。男と女の違いもあるが、男でも動物に対する鋭い感性の持ち主はいる。彼女には、同じ環境で育った姉と弟たちがいるが、彼らも彼女と同様に、動物に接している訳ではない。ここで考え込んでしまうのは、人の人格を形成する過程を観察したとき、生来持ち合わせている資質と育った環境についてである。

この問題に関しては後で少し深く考えることにして、ガチョウの話に戻る。

彼女の手際の良さで、ガチョウは増える一方。家の前の広さの芝生には、五六匹ぐらいの時が丁度良かったのだけれど、それ以上に増えるにつれ、芝生の成長がガチョウの食べる量に追いつかない。そして、所々芝生の生えている部分に地肌が見えるようになって来た。それでも、彼女はお構いなしに増やし、十三匹くらいまで増えただろうか、その頃になると芝生が無くなりつつあった。そんな訳で彼女には申し訳なかったのだが、増えたガチョウを皆まとめて、卵を貰った元の家に引き取ってもらった。元の主人は増えて帰って来たので、満足の表情であった。

あるとき家の周りを綺麗にすべく草刈機で野草を刈っている時、草むらに巣から飛び立とうしたのだろうが飛べないでいる山鳩を見つけた。後に生物学を専攻する小学生の次女が、抱きかかえて家に持って入る。食べるものはどうも植物性のものらしいが、何をやればいいのか分からない。長女が動物園などに電話で聞くと、鳩は、植物の種子、穀類、豆類などを食べる生き物とのこと。

まだ小さいので、とりあえず始めは米を焚いたの、ファロファというトウモロコシを粉にしたの、家の周りに生えている草の種などで育てた。その頃の我が家は寝室、台所、仕事場と続いているし、また止り木などを作ってやったりしたので、家の中を飛びまわったり、台所の食台を歩き回ったり、よく懐いていた。しかし、ある程度大きくなったとき、開いてあった戸口から外に出るようになり、その内、戻って来なくなった。恐らく野生に戻ったのだろう。

 

托卵(たくらん)といって繁殖に際し自分で巣を作らず,他の鳥の巣に卵を産んで卵を孵らせる鳥がいる。 ホトトギス科,ミツオシエ科,ムクドリモドキ科,ハタオリドリ科,カモ科の鳥に見られ、 日本ではホトトギス,カッコウ,ジュウイチ,ツツドリの四種にみられるそうだ前にも述べたが、ブラジルの私達が住んでいる地域にはシュピンというこの種の黒い小鳥がいる。

次女が学校からの帰り、坂道の上にある我が家への登り道でこのシュピンの雛を拾ってきた。巣主の鳥の卵が孵るより托卵で孵る方が早く、托卵で孵った雛が巣主の卵を巣から落としてしまうなどと言うこともあるらしい。この様なことで、托卵の鳥を嫌う人も多い。人間世界にも良く似た様相がありそう。それはともかく、次女が拾ってきたシュピンも我が家で育てることになった。シュピンは人間と同じ雑食性で人間が食べる物なら何でも食べる。前に飼った山鳩は、どこにでもけっこう糞をするので、それを綺麗にするのに手が掛かったが、シュピンは殆ど糞をしない。それに、托卵性の小鳥の特性でもあるのか、育てた者によく懐いて、家族の者の頭の上や肩にとまりにも来る。同じ育て方であっても山鳩の時は、そういうことは無かった。

唾をのせて舌を口から出してやると、唾を突っつきにくる。時に手の指の皮をむくと、それをたべる。人間の性か、懐くものは可愛くなるもの。成長して雀くらいの大きさになり、家族の一員と思えるほど家の誰にでも懐いていた。扉の外に出しても人の元にもどって来る。半年くらい飼っただろうか、何時ものように扉を開けっ放しで仕事をしていた。シュピンも外に出て仕事をしている家族の傍にいたが、屋根の上に飛び上がりそのまま暫くじっとしていたが、次に目を遣った時はもういなかった。恐らく森の方に飛んで行ったのだろう。

 

サン・パウロの植物園近くにあるかなり大きな催し物会場で、多分毎年だと思うが、家畜の販売を兼ねた展示会が行われているのを、何かの広告で見て、家族で出かけた。ブラジルで飼われているほとんどの家畜を見ることが出来る。

乳牛、肉牛、鶏卵・鶏肉の鶏、アヒル、ガチョウ、豚、ヤギ、羊、荷馬、競争馬、ロバ、ウサギ、犬、猫、鑑賞用の小鳥等々書き尽せない。ブラジルでは料理に子ヤギを食べる習慣を持つ人々もいて、この会場には子ヤギの販売場もあった。ヤギを飼うのはほとんど乳を採るのが目的で、雌は早くに売り切れていて、そこには食用にする雄の子ヤギが二匹残っていただけだった。我が家には既に雌ヤギが二匹いたので、この雄の子ヤギを買うことにした。値段も手ごろである。この雄ヤギ、ザーネン種の白い子ヤギでシロロと名づけて育てると、立派な大きな雄ヤギに育って行った。真意のほどは確かでないが、ブラジルではヤギの乳は人間の乳に似てるといわれ、牛の乳より重宝がられる。ヤギには、耳がだらりと下った種やピンと立った種などがある。ヨーロッパ系の乳用種はほとんど耳がピンとなった種である。ヤギを飼い始めてから、ヤギを飼っているいろんな所を見学させてもらったが、モジ・ダス・クルーゼスではザーネン種とトッケンブルグ種しか見かけなかった。ザーネン種の飼っているところから雌の子ヤギを買ったり、道端で見かけた垂れ耳の黒い雑種なども買って、ヤギは増えて行った。

飼うのは放し飼いである。森に入って、立って届く木の葉や樹皮も食べる。家周りにある草木は何でも食べる。花も食べる。家の周りに何も植えることも出来ない。あるとき家の近くの森で、夜ヤギの鳴き声がしていたので、朝、鳴き声の方を探して見ると、背伸びして木の上の葉っぱを食べようとして足を滑らせたのか、二股になった木に首を吊って雌ヤギが死んでいた。仕方なく、このヤギの皮を採り食用にするしかなかった。しかし、私達ではどのように捌くのか全く経験もない。それで、近くの農家で働いているブラジル北部から南部に移民して来た使用人が、その経験があるというので、彼に頼むことにする。

余談になるが、ブラジルでは中部、南部に比べて北部、東北部地域に貧困層が多く、職を求めてサン・パウロや南部地域に国内移住をする人が多い。元々サン・パウロや南部地域に住んでいた人達は、この移住して来た人達を「田舎者」と言って、やや見下した話し方をする人達も多い。

さてヤギについて、彼によるとヤギで一番おいしいところは脳ミソだそうで、彼が一番おいしいところを取るということで、喜んでこの作業を引き受けてくれた。我が家では始めてヤギの肉を食べたし、彼に教えてもらって、腸詰めのソーセージのようなもの、ここで言うリングイッサも作った。これも、始めて食べるもので、皆喜んで美味しく食べさせてもらった。

小さなヤギ小屋は建てたものの、先ずしなければならないのは、家の周りにアミで作った垣根のような柵を作ることだった。これは家の中にヤギが入って来ないようにするため。飼う前には想像もしていなかったのだが、これはかなりの仕事だった。そのうち、可愛い子ヤギも生まれヤギが殖えていく。例によって、彼女は増やすのに神経が行き届く。この頃には、雌ヤギが六匹になっていた。

その頃は我が家の近くに農家はなく、道の向こう側の山ひとつ越えたところにサン・パウロの飲料水用ダムの建設現場がある。そこに行く道筋の両側にヤギ達が食べ歩く丁度良い林があって、毎日そこへ出かけては夕方戻ってくる。

毎日、ヤギ達は食べ物を求めて出かけて行く。こちらも本業の仕事があるので、どこに行くのか後

を追って見分ける訳ではない。ヤギは食を求めてかなり遠くまで行くようになっていた。

ある日、かなり離れているところにある農家の主人が、我が家に苦情を言いに来た。ヤギが彼の畑まで行って農作物を食べるというのだ。これには参った。

ヤギ小屋を立ててそこで飼うしかない。ヤギを飼い始めてから、飼い方の本や雑誌、それに飼っているところも見学しているので、どのようなヤギ小屋を作ればいいか解ってはいるが、建てる場所、建材の用意など、やや大仕事。

あまり豊かな暮らしでもないので、建材の大部分はユーカリ材を使うことにするため、近くにあるユーカリ林の持ち主と交渉、こちらが切り出すのならタダでくれると言う。それでチェンソーを買い、家族総出でユーカリ林から必要分の、できるだけ真っ直ぐのユーカリを切り出す。それを車で引っ張って家まで持ってくる。床はヤギの糞が下に落ちるよう、五センチ角の角材を隙間を空けて床に敷きつめて行く。この角材とそれを支える太い、水にも強い角材、そして板や屋根に使う波型のスレートなども購入しなければなれなかった。とにかく急がねばならない。ヤギ小屋を建てる間は、出来るだけ家で餌をやったりして、ヤギが遠くに行かないように管理しなければならなかった。

凡そ一ヶ月ほどで十一メートルx六メートル半の大きさのヤギ小屋ができる。ヤギが飛び越えれない高さで仕切った、二・三匹は入れることができる部屋が五つあるかなりの建物に仕上がった。中には乳を搾るところ、葦や藁のような草を切り刻む機械などを置く場所も採ってある。唯、雄ヤギは力も強く、ツノで辺り構わずごつんごつんとぶつけるので、雄用のがっしりとした別の小屋を、少し離れたところに作った。餌を食べるところ、水を飲むところなど、前記の本や雑誌を見ながら、工夫を加えて設備した。

乳搾りは息子の仕事。ヤギの乳は乳牛に比べると、脂肪分の少ないあっさりした感じ。ヤギの乳でアイスクリームを作ったりもした。お客さんに食べてもらうと、初めて食べたと言う人が殆どで喜んでもらえた。

始めは、買った餌を与えていたのだが、経費が掛かり過ぎるので、草を切り刻む機械を購入、我が家の入り口にあるかなり広い平地に生えている雑草を刈り取ってきて、機械で切り刻み餌に混ぜるようにしていった。こちらは本業の仕事があるので、これは則子と子供達の仕事。放し飼いにしていた時は、気楽に飼えたが、ヤギ小屋で飼い始めてからは、ヤギの数も増え、草を刈り取ってくるなど仕事が増えるで、少々仕事が重荷になって来ていた。そんな時我が家で飼っているヤギをまとめて全部売らないかという、ヤギを飼いたいという人が現れたので、きっぱり全部まとめて売ることにした。五年ほど飼っただろうか。ヤギの子は可愛かった。息子たちが小学生の終わり頃から、中学生のころで、彼らは今でもヤギのことが良い記憶として残っているようだ。

苦労して建てたヤギ小屋は物置として役にたっているので、まあ良しとするか。

 

サン・パウロに住んでいる友人が、知人から雌の烏骨鶏と雄のポーランド系の、日本語では英訳のポーリッシュと言う鶏を貰ったが、自分の家では飼えないので、我が家に欲しいかと行って来た。それでこの二羽の鶏を貰うことにする。こちらは、地鶏と一緒に放し飼いするだけである。烏骨鶏は、羽毛は白いが皮膚・肉・骨が黒色で、頭の上に羽冠があり、脚も羽毛でおおわれている。一般の鶏と比べて産卵数は少ないが卵は栄養学的に優れていて、卵は高価でもある。ポーリッシュは頭全体をほぼ覆う大きな紋章で飾られている鑑賞用の鶏の様烏骨鶏も番いではないので生まれてくるのは、みんな雑種。しばらく飼っていたが、烏骨鶏を何羽も飼っている人が譲ってくれないかと頼まれた。烏骨鶏を増やす積もりもなく、雌の烏骨鶏が一羽いてもどうということはないので、その人に譲ることにした。

 

一九九十年代初め、ブラジルでプードル種の犬を飼うのが流行した。プードルは全ての犬種のなかでコリーに次ぐ知能の高さを持っている犬種。当時、愛玩犬種としては最も人気が高かった。

例の友人の奥さんはサン・パウロの奥地に農場をもつ家族の一員、彼女の姉さんが犬好きで、プードルも飼っている。子が生まれると売るために、サン・パウロの友人の家に持ってくるのだ。友人の自宅には狭い庭もあり、プードルを飼うのにも問題はなく、子犬を売るということもしていた。しかし、プードルを求める人の多くは雌を欲しがる。それで、どうしても、雄が残る。そんな訳で、我が家に雄の子犬を貰い受けないかと、子犬を持って来た。その子犬を見た、子供達と妻の則子は、即OKとなった。この子犬は誰が見てもかわいい。

これが後々、我が家の大きな問題となるとは、想像も出来なかった。

子犬が大きくなると、子供達や妻は、雄だけではかわいそうだ、相手に雌犬をあてがって遣らないと、などと言い出す。そこで例の友人から雌のプードルを買うことになった。これで番いになる。

番いからは子犬が産まれれる。則子は子犬が産まれると自分で臍の緒を縛り切り離し、尾も短く切る。現在では、尾を短く切ることは動物虐待行為として法律で禁じられているが、あの当時は愛玩犬として普通に行われていた。親は子犬の糞を食べ、子犬をなめて綺麗にする。彼女はある程度育つまで付っきりで子犬の面倒を見る。子犬が多く産まれた時は、強くて大きいのや、弱々しのもいて、強いのは弱いのを押しのけて乳を吸う。放っておくと強いのは益々育ちがよくなるので、弱い子犬を乳が吸えるようにしてやるよう気をつけている。

産まれて三・四週間すると犬特有の病気に対する何種類か混合の予防接種をする。そして、一月おきに二度、計三度の予防接種となる。

彼女は子犬のなかで気に入った雌や雄は売らずに残していく。プードルを飼い始めてからは、町のペットショプや近くでプードルを飼っている人の情報も入ってくる。育った雌が交尾期になると、雄の持ち主と交渉し交尾するためその家に雌を預ける。

昔、映画で見た、男の黒人奴隷が檻の中にいれられていて、そこに女の黒人奴隷を放り込む場面が脳裏に残っている。本当にそいうことがあったのかどうか分からないが、有りうることだろう。動物の本能だけではなく、大脳細胞の働きによって行動する人間だから、同種(ホモ・サピエンス)に対してこのようなことが出来るのかなあとも思う。

交尾して子が産まれれれば、産まれた子の一匹雄の持ち主に譲ることになる。このようにしてプードルの数は少しずつ増えていった。

ここまで、アヒル、ガチョウ、ヤギ、などを飼った経緯を綴ってきたのを見て気づかれた方も居られると思うが、我が家の動物(家畜)の飼い方には、ある種のパターンがあるようだ。

地鶏が卵を温め孵化させるところをつくったり、ヤギ小屋をつくったり、どこそこでプードルを飼っている人がいると聞けば、彼女をそこまで案内したり、彼女の要望には出来るだけ応えてきた。しかし、食べるためにも、そして職人として良いものを作るようできるだけ本業に従事しなければならない。それで、家で飼う動物には、時に興味を持つことはあっても、かなり無頓着であったと言って良い。つまり家で飼ってきた動物に関しては、彼女が面倒を見、彼女の遣り方にこちらが付き合うという、成り行きに任せての状態だった。彼女は動物の細かいところまで気がつく。プードルなどは特に可愛がり、抱きかかえてノミを捕ってやったりもする。子を産ませ、増やすのもうまいのでプードルも増える一方である。買いに来る人もいるし、ペットショップに売り込むこともあるが、それでも増える方が多い。四・五匹くらいならまだいいのだが、時が経つにつれて増えるばかり。

これには家族も困惑状態になった。放し飼いなので、焼き物の窯場には糞をする。次女などは、夜中犬が吼えて眠れないという。

プードルにはその大きさに従ってトイ、ミニチュワ、ミクロなどと呼ばれている。アパート等で飼う人も多く、中でもミクロが最も小さく買い手が多い。彼女の飼い方を見ていると産まれた子の小さいのを残し、できるだけ近親交配を避けながら、飼っている犬を小さいものにして行くのに、関心が注がれている。

ある時彼女に頼まれ、猫やプ-ドル、マルチーズなどを飼育している婦人の家を訪問した。この婦人の飼育場は我が家と異なり、種別に網の柵を設け、かなり手入れしている風であった。則子はマルチーズを見て気に入ったらしく、プードルと交換しないかと交渉。婦人も我が家のプードルに興味を持ったらしく、プードルを見てから交換をする意向で、マルチーズを連れて我が家を訪問する手筈となった。そして何日か後、婦人が我が家を訪問、気に入ったプードルとマルチーズの雄との交換となった。

則子は最近流行っている、プードルとマルチーズの交配種マルチプーに興味があるらしい。この後、マルチプーも産ませ、犬はどんどん増え三十匹ほどになっただろうか。さすがに家族からの苦情にはどうすることも出来ず、彼女の持つ資金で犬を飼う場所を作ることになった。我が家の土地の入り口より坂道を登りつめたところに、かなりの広場があるので、そこに建てることにした。登り坂を登りつめた丁度我が家の入り口辺りで、人が来ると吼えるので都合が良いだろうとの考えもあった。十メートルx十メートルほどの大きさで、真ん中を区切って二場所にした。アミの柵の中の奥には広さ二メートルx五メートルの床がセメントの、ブロックの壁に屋根の付いた寝所も作る。左柵内には九匹の雌、右柵内には八匹の雌。その他、以前小さな畑にヤギが家に入らないように作ったアミの柵を利用して、犬を入れるようにした。ここには四匹の雄。更に仕事場の裏庭、ブロックで囲ったところに、九匹の雄。元ヤギ小屋であったところに二匹の雌と、計三十二匹分けて飼うことになる。一緒に入れると虐められる弱い犬もいるので,相性を見ながら分けて入れているようだった。

自然界に於ける人間と家畜の関係、昔の方が共に生活する傾向が強かったのではと思ったりする。

ここまでは、我が家のブラジルでの生活状況の在り様を紹介してきた。

 

次章より筆者がここに至る道のりなどを紹介していきたい。