2022年12月30日金曜日

アシュガンジ駅、それから

https://www.google.com/maps/place/Ashuganj+Railway+Station/@24.0381404,90.9994859,16z/data=!4m14!1m6!3m5!1s0x5f8a1637d684b605:0x7b9bfc75d4951fc1!2z6YCi6ZqI6aeF!8m2!3d38.067236!4d140.8547825!3m6!1s0x37541b8cbb6af1ed:0x8aab56a640983209!8m2!3d24.0381519!4d91.0016386!15sChFBc2h1Z2FuaumnheWRqOi-upIBDXRyYWluX3N0YXRpb27gAQA!16s%2Fg%2F1tgxrx2x

 アシュガンジ駅は、ダッカ駅から 北上し南下する巨大なメグナ河を西から東に渡河したところにあり、着くと北側つまり左側に降りる単一ホームである。僕の子供の頃の近鉄南大阪線でも最も貧相な二上山駅とか当麻寺駅よりもさびれた駅で、改札もなく、左側へと階段で降りて、そこから線路に沿って前方に行き、線路の下のトンネルを抜けて、まっすぐ南に1kmも行けば、メグナ河の岸に埋め立てた敷地に建つ肥料工場がある。ダッカ早朝発の列車に合わせて、木炭バスのような古いバスが肥料工場のスタッフを乗せて工場まで運ぶのだ。
自分たちで列車から大量の段ボールを下ろすと、わ~っとクーリーが集まって、命じもしないのに階段を下ろしてバスに積み込んだ。何名かの白人男女がバスに乗って待っている前で、僕は値段交渉を始めた。連中は足元を見て要求するのだろうと、実際にいくらが妥当なのか判らないが、とにかく値切ろうと汗をかきながら交渉を続けたが、なかなか切りがつかず、結局はほぼ連中の言いなりに支払ってしまった。その間、仕上師と検査員はじっと見ているだけで、バスの窓からは立派な顔つきをした西洋人男女もあきれたような顔で見下ろしていた。そもそも、1円が6タカ程度だったと記憶するが、いくらが妥当か判らないのだから、交渉の仕様も無いのだが、公費を使うのだから、やるだけは遣ったと言うことだ。
なんとか支払いを終えてバスに乗り、疲れてぼさっと窓の外を見ていると、バスは、線路と同様に両側の土を嵩上げした堤防のような道を河に沿って南に進み、あっと言う間にフェンスに囲まれたエリアに入り、そこが終点だった。とにかく荷物を下ろしたら、ユニホーム姿の白人がジープが現れて乗れという。自己紹介するまでもなく、車を発車するところを見ると、我々のことは住商から連絡があったようだ。とにかく喋れないのだから任せる以外に道はない。
ジープは居住区に入ったようで、あるアパートメントの前に止まり、荷物を下ろすと、白人は、ここが宿舎だ、1時間後に迎えに来るという。その程度はなんとか理解できた。
数人の現地ボーイが現れて、我々をそれぞれの個室に案内して段ボールやサムソナイトも運んでくれた。宿舎地区は河岸に南に沿う方向で、工場敷地の南側にあり、両敷地間はバスで工場敷地のフェンスの外の道路で繋がているのだ。宿舎地区の建物は、立派で、もうまるで、日本の新築団地のようなもので、ただコンクリート造りではあるが、レンガで外装されていて、日本の建設現場のような殺伐なものではなく、緑の木々に囲まれた静かな住宅地であった。ボーイがバス乗り場を教えて、朝6時それに、午後1時に乗るようにと教えてくれた。ボーイは朝昼晩の食事は前のレストランで食べるようにとも教えてくれた。つまり、現場には朝6時のバスで行き、昼には帰って昼食を取り、1時のバスで現場に行き、5時のバスで宿舎に戻るとのことであった。つまり昼食時間を除いて10時間労働ってことらしい。
後から宿舎周辺の敷地状況も判ったが、川に沿う方向に工場から居住区に行く道は、工場と居住地の敷地境界を過ぎて、居住区の高級宿舎地区よりも先の門に至り、そこから川の沿岸あたりまで広い道路が敷地を貫通している。その道路から工場側には、公社の高級管理者住宅、独身寮、レクリェーション施設、社員用食堂(ほぼ高級レストラン並み)があり、また、土産物屋とかスーパーが貫通道路に沿ってある。貫通道路の反対側には一般管理者住宅が並んでいるが、建設中は、その多くは、建設業者の家族同行スーパーバイザー達の宿舎として使われている。建設労働者たちは、Ashuganji駅周辺とか、敷地境界外の壊れそうな民家で宿泊しているらしい。

2022年12月29日木曜日

所得税の医療給付

 僕と女房の医療費控除を計算した。控除対象額から「民間の医療保険給付と保険還付金を引くと」、総額は数万円程度にしかならないから、医療費控除の対象となる所得の5%には至らないか、ほぼ同額になり、医療費控除は期待できないなと思った。しかし、僕の場合に適用された民間の医療保険給付は契約上、あくまで手術対象のみとなっているため、所要費用の中の手術費用を除いた金額を控除対象額として、そこから保険給付金の手術対象の費用を除くと、まだかなりの金額が残る。夫婦での移動交通費と食費(所要費の1/2とした)がかなり掛かるのだ。これは新発見だ。つまり、医療費控除を申請できることになった。
知らんけど。

ダッカからアシュガンジ現地へ

 雨季と言っても激しい雨がときたま降るだけで昼間の殆どは暑い夏だ。前に記載したように、住重の海外営業、特に天皇と呼ばれる営業部長は、僕の代打派遣に痛く怒り、事業部長への怒りを僕に向けて、あたかも本件の派遣が失敗するようにと、口で非難するだけでなく、営業部員を僕に付けようともしなかった。その意向が反映してか、現地住商もまた僕らの派遣に冷淡で、早朝に住商現地社員が車でダッカ駅に運んでくれたが、住商がかまうのはそこまでで、そこからは、大量の段ボールと3人のサムソナイトだけが道ずれだ。しかも段ボールの中は信頼できない仕上師が勝手に好みで入れた荷物で、なぜこんなに荷物が必要なのか判らないが、それを運ばせるクーリーは、自分たちで集めて指図せねばならない。連中は当然、支払いを吹っ掛けてくるから、いちいち交渉で面倒でたまらない。英語が得意(実際には僕と大差なかったが)な筈の電気担当の機械検査員は、雑事には全く手を出さないし、仕上師は英語を全く喋れないから、結局は僕が一人で、入出国手続き、税関交渉、クーリーとの交渉と、全てが僕の仕事だ。それを二人は横で見ているだけだから、他から見れば、僕が二人の部下で汗を滴らせながら二人の面倒を見ているように見えただろう。結局、この構図は帰国まで変わらなかった。さらには、帰国してからも、出張の成果は仕上師と検査員の成果であるように吹聴したのか、それを正しいと新居浜は評価したらしい。会社と言うものはそんなものだろう。
早朝のダッカ駅は、切符売り場前の小さな広場から、ホーム上にまで地面で眠る人々で占められて所定のホームに行くのにも手間取り、早朝の唯一の列車の最後尾がアシュガンジ肥料プロジェクト専用の車両だった。出発時間になるとホームに滞留していた貧民の群れが列車の天井へと怒涛のように集まってきて、次々と天井へ上るのだが、つるつると滑る窓ガラスを何とか上らねばならない。しかし、僕の窓の外のおっさんは、サンダルを履いたまま登ろうとするので、サンダルが滑って登れないので必死であった。足掛かりとなるようにと、僕は窓を少し開けてあげたので、なんとかのぼっていった。
アシュガンジへの線路は単線で、洪水を考慮して軌道は嵩上げした堤防の上に設けられていて、線路の両側は、嵩上げの土砂を掘った跡が延々と線路に沿った池となっている。雨季なので、人の居住地や細い通路を除いてはどこまでも池のようで、そこに稲が植えられている。列車の線路横の土手の上には、水がこないので、特にダッカ近辺では貧民が水を避けて粗末な小屋を作って無断占拠している。そんな景色が延々と続き、80マイル(128km)程度を、なにしろ単線だから、逆走の列車といちいち待ち合わせするため、4時間もかけて行き、この国では珍しい丘陵地帯にに入ると、遠くに尿素を作るプリルタワー(造粒塔)が見え、眼下に帆船が通る河を越え、最後に巨大な大河を越えるとアシュガンジ駅に着く。



2022年12月28日水曜日

障子張り替え、その他、年の瀬に。

 ついこの間までは、障子張り替えはどうってことない仕事だった。一畳の障子でも、あまり気構えることなく出来たのだが、年を取ると面倒になる。それでも、やらざるを得ないので、しぶしぶ準備して、面倒なので破れた下半分だけをと、障子を外して、畳の上によこに置き、カッターを手に持ち、座ろうとしたら、体のバランスを崩して障子の上に覆い被さった。障子に対しては破壊的な失敗で、おかげでカッターの刃が深く人差し指の先をえぐり血が流れだし、おまけに、その指が、破れていない障子も大きく傷つけて仕事が増えた。結局、下半分より更に大きく張り替えることになった。年のせいで、体のバランスが、特に前向きに安定さがなくなったようだ。しかし、障子の桟まで痛めなかったのが、不幸中の幸いだし、体のバランスが悪くなったことを常に考慮に入れるようになったのも大切だ。
姫ゆずが大量に実り、多くをご近所にあげたが、それでも、まだ大量に残り、ジャムを作ることにした。女房に作るようにと指示したが、大量のゆずが玄関に置きっぱなしが続いたので、これでは駄目だと、自分で皮むき、種取りを始めた、大きな鍋にいっぱいに仕上げたら、そこで漸くやる気を出した女房が後はやってくれた。なお、ジャムにするゆずの1/3程度の皮は千切りにして同じ鍋に入れて煮ることで香りが良くなる。大きな瓶2.5個分が出来たが、大いに食する積もりだ。まだ、ゆずの実はかなり残っているので、これもジャムにするつもりだ。一年間は保つかもしれない。
一年間と言えば、今年の春じゃがは芽掻きが、まだ保っている。量は少ないが秋じゃやがも収穫したので、一年間はもつかもしれない。玉ねぎは300本程度を植えたから、これも一年間はもちそうだ。ただ、うまく実ってくれたらの話だが、楽しみだ。
レタスはほぼ終わりだ。思いの外、寒さに弱かった。
JANさんに、女房の美容室からもらった女優の和服姿のカレンダーと年末グリーティングカードを送ったが、お返しにスイスのチョコレートだけが送られてきた。いつもの律儀なJANさんにしては葉書もなくシンプル過ぎる。スイスから方々へと飛び回っていたから、コロナウイルスにでも罹ったのではないかと心配だ。
あれこれで一年は終わりそうだ。


バングラデッシ初の都市鉄道が開通した。

 僕が行っていたころから40年以上が過ぎているが、僕の好きなバングラデッシに初の都市鉄道が開通した。とてもうれしいが、他方、あの混雑した道路を自転車リキシャで走る面白さも捨てがたく思い出した。
現在の混雑ぶり
https://www.researchgate.net/figure/Traffic-congestion-in-Dhaka-city-The-daily-star_fig1_353931117

DACCA METROについての記事

https://www.researchgate.net/figure/MRT-Route-Map-dmtclportalgovbd_fig2_353931117

バングラデシュ初のメトロ開通へ 山手線とほぼ同じ車両 日本が支援

写真・図版
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 人口が急増するバングラデシュの首都ダッカで、初の都市型鉄道のメトロが一部区間で開通することになった。日本が事業費の多くを貸与し、車両の形はJR東日本山手線とほぼ同じ。国旗にちなんだ緑と赤色を施した。日本の技術を結集した電車が世界有数の過密都市で走行する。

 首都の南北を結ぶ6号線の建設事業には、国際協力機構(JICA)のほか、複数の日本企業が参加。2013年から整備を進め、今月28日に開業式を開催し、部分開通する予定だ。

 改札機で使うICカードは、日本で普及する電子マネーの通信規格「フェリカ」を採用し、女性専用車両も設置。慢性的な渋滞で車だと約2時間かかる道のりを約40分で結ぶ予定だ。

 国内で初の女性運転士も誕生する。アスマ・アクタールさん(31)は、1歳になる息子を育てながら約4カ月に及ぶ訓練を受けてきた。「時間通りに移動できるメトロは最高の交通機関。大勢の人の役に立つと思うので、事業に参加できて光栄」と笑みを見せる。「女性が安全に外出することも可能になるし、女性の運転士が誕生することで他の女性にも刺激になればうれしい」とも話した。(ダッカ=石原孝

2022年11月8日火曜日

企業のトップはどのような人間を重用するか

 日経新聞の春秋を読み、本当にその通りだなと思う。かくして、組織は腐ってゆくのが常なのだろう。

志水勇のライフワーク
http://isabon.blogspot.com/2013/02/blog-post_27.html

春秋(11月8日)

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「企業のトップはどのような人間を重用する傾向があるか」。イオン(旧岡田屋、旧ジャスコ)を草創期から担い、5月に106歳で死去した同社名誉顧問、小嶋千鶴子さんが著書でこう問うている。答えは、真実を真実として伝えない虚構性の強い人間なのだという。

▼特徴について「都合の悪いことは打ち消し、一部分だけをもって真実にしようとする」とか「現在の不利な状況が、他人の失敗によってもたらされていると必ず告げる」ことなどをあげている。この要注意人物、自らの担当部署の失敗も、己の責任ではないと信じ込むそうだ。トップの周囲からは排除すべし、と手厳しい。

▼あまたの従業員らと面接を重ね、働きぶりを見守り続けたゆえの眼力だろう。先月以降、政府や自民党内では、岸田首相が31歳の長男を秘書官にしたり、旧統一教会との問題で事実上更迭された閣僚が、数日後には党コロナ対策本部長に就いたり、人事の迷走と指摘された。小嶋さんの経験則があたっていなければ幸いだ。

▼こんな一節もある。「部下の不平は成長の証し。その本質を見分ける知性と押さえつけぬ寛容さが上の者には欠かせない」。権限の委譲や分権化の心構えらしい。世界的な情報基盤を築きながら、買収や人員削減で大揺れの海の向こうのIT企業。大きな社会的責任の行方も気になる。小嶋さんいわく「商いは公のこと」。

2022年10月12日水曜日

バングラデシュとアシュガンジ、それに、アシュガンジ肥料公社(AFCC)とその後

 バングラデッシュは、インドの右隣の国で、独立前には、インドの左隣のパキスタン国と共に、イスラム国として国を成していたが、激しい独立戦争を経て、パキスタンから独立して、バングラデッシュ国となった。独立戦争はかなり激しくて多くの民衆が亡くなっている。その際、インドが独立を助けたため、インドとバングラデッシュは仲が良く、反対にインドとパキスタンとは犬猿の仲となっている。僕らの世代は、その経過を目の当たりにしてよく知っていることだ。
バングラデッシュとは、黄金(バングラ)の国(デッシュ)を意味して、この国は気候が稲作に最適で、しかも国の殆どが高度数メータ以下で、毎年国の80%で洪水が起こる。僕らは8月の雨季に飛行機でダッカに入ったが、上空から見ると、この国は一面が池のようであった。なお、毎年の洪水が大地に養分をもたらすので、豊作が期待出来て、しかも、年に2度の収穫が期待できる。実際に、田んぼのこちら側では苗を植えて、他方では収穫中などとの風景も見られる。国土の広さは日本の半分程度だが、日本は平地が15%程度で、他方、バングラデッシュでは80%以上であり、米の生産だけを考えれば、日本より遥かに多くの人間を養えることになる。つまり、日本の耕作可能地は、日本は国土の0.15で、バングラデッシの農地は、日本の面積に対しては、0.5*0.8=0.4となるわけで、日本の3倍近くの農地を有しているわけだ。ただ、英国の植民地時代の収奪といびつな英国支配の国政システム、その後の独立戦争、と悲惨な経過で人口は、僕の滞在した1980年当時には8000万人以下であった。が、貧しいながらも、40年の安定期を経て、今は、なんと、2倍の1億6000万人にもなっている。しかし、先述のように、平地面積から考えれば、日本よりは過疎と言えるかもしれない。ただ、人口は都会に集中する傾向があるから、僕の滞在した1980年時点でも、首都ダッカは、人で混みあっていたから、今では、2倍以上に混みあっているだろうと恐怖も感じる。でも、僕はバングラデッシュや彼らの国民性を好ましく思っているので、出来れば再訪して実情を確かめたいと思っている。
国土は、対岸も霧にかすむほどの巨大なガンジス河、ジャムナ河とかメグナ河等の河口砂州でできていて、海岸近くは密林状態で、タイフーンが襲えばたちまち洪水になるので、首都ダッカは、河口から100km以上も上流の奥地にある。国全体が幅500kmにも及ぶ河口洲上にできていることになる。
恐らくは英国が植民地支配の首都として選んだのには、できるだけ洪水を避けた地を選んだと思われるが、それでも、しばしば水害被害が発生するような土地柄であり、道路の側溝には汚れた水がたまり道路は雨季にはぐちゃぐちゃになる。日本の戦後20年頃までの大阪の街を考えればよい。町中がたばこ臭いことまでそっくりだ。日本の中古自動車が走り回っているので、いよいよ雰囲気は似ている。ただ主要な乗り物は、リキシャと呼ばれる人力自転車風の力車で、乗用車が走るにはとても邪魔な存在だ。さらに汗臭い民衆が道路に満ちていて、なかには、空腹や疲労でぶったおれている人も大いに見かける。空腹で後部に複数の乗客を乗せたリキシャをこぎ続ければぶったおれるのも当然だろうと思う。更に、10月、11月頃を除けば、いつも気候は日本の夏が続くので、いよいよ住みずらい土地柄だが、英国人の中には寒くうっとうしい英国よりは体に良いと、ダッカに住み続ける人もいる。僕自身も年を取ると寒い気候よりは、暖かい国が望ましいと思うが、暑すぎるのもどうかと思う。
さて、バングラデッシでの特産品は、米とか麻とかの農産物で、鉱物資源は殆どなく、そもそも、道端で石ころを見つけることさえ困難だ。建設に必要な砕石はほぼ入手できないから、粘土でレンガを焼いて、これを砕いて砕石替わりにする。だから、どこかでコンクリート工事があれば、その近辺で、老人とか子供が道端に座ってハンマーでレンガを砕いている。その仕事でゴーグルを使うこともないので、破片が子供たちや老人の目を傷つけている。
そんな国で唯一の産出する天然資源は天然ガスで、これは豊富にあり、これを原料に尿素肥料を作っている。国内のあちこちに肥料公社が工場を建設して、僕の働いたのは、ダッカの北方80マイルのアシュガンジに建設された肥料工場だ。今は、Asyugaji Fertilizer Co、Limittedと称される肥料工場兼公社でメグナ河の東岸の河床に建設された。
GoogleMapで簡単に検索出来て、緯度経度は 24.023891, 90.988533
ダッカからの鉄道が、メグナ河を西から東に渡った所にashuganji駅があり、そこから南に1kmほどのところに、500m四方の工場がある。その敷地に接して、南側に500m四方の、社員用社宅があり、ともに外界とは高い柵や壁で隔離されていた。ところが、最近になりその周辺をGoogleMapで最近確認すると、居住区の仕切りは無くなり、周辺に大学や高校、小学校が建設されたようだ。アシュガンジ村は、駅の南方にあったが、今では高速道路も整備されて大きな町になっているようだ。工場のおかげで周辺はかなり開発整備が進んだと思われる。

バングラデッシには、方々で天然ガス田があり、そこにはほぼ窒素肥料生産工場が建設されていて工場毎に公社とされる。つまりアシュガンジ肥料工場はすなわち、アシュガンジ肥料公社によって運営されている。僕のいた当時、後に公社のトップになるモミンさんが建設プロジェクトのトップであり、僕が納入を終えて帰国する前にサヨナラパーティを開いてくれた。その後、チッタゴン肥料設備建設プロジェクトのトップになった時に、入札打ち合わせに訪問した時にも「ぜひ受注しろ」と激励してくれた。ただこの案件は、東洋エンジニヤリングとの営業レベルでの談合で、シップローダーだけを大幅な利益で受注できたが、実施設計からの納入業務は新居浜工場で行うので、僕自身はその案件とは関係なくなった。その後、僕がたまたま現地を訪問したのだが、わが社新居浜の納入したシップローダーの不具合を解決したので、その際も、モミンさんは僕と会ってくれて、大いに激励してくれた。それどころか、他社の納入設備もチェックしてくれと頼まれたが、さすがにこれは断った。

そのシップローダは新居浜工場で設計・製作して、尿素袋を船積するのに、スパイラルシュートの上を尿素袋を滑らせて船積みするタイプなのだが、スパイラルシュートでの袋の滑りを新居浜でテストして納入した。しかし、たまたま僕が新居浜に行った機会に、現場に置いてあるスパイラルシュートを見る機会があった。そのシュートは、スパイラルの滑り台で、その内側のガイドとシュートのすべり面が余りに鋭角で、滑り落ちる袋が挟まれてしまわないかと心配になった。が、新居浜工場の問題だし、それに、テストしたのなら大丈夫だろうと不安を口には出さなかった。
その後、また別件でバングラデッシュのダッカに行く機会があった時に、阪大の後輩でもある新居浜の設計担当者から電話があり、「船積機の現地性能テストで、少々問題があるのでちょっと現地に立ち寄ってほしい」との電話が入った。

新居浜の連中が何かを頼む時には、裏に何かが有るに違いないと思ったので、さて問題とは何だろうと考えたが、こんな単純な装置での問題とはスパイラルシュートでの滑り不良に違いないと想像した。スパイラルでの滑りが問題ならどうしようもないだろう、とも思えたが、仕方がないので、女房にごま油の瓶を買ってもらい、サムソナイトの中に入れておいた。

その出張で用件のあったダッカからは、ちょっと立ち寄るにしては、飛行機でチッタゴンに行き、そこから濁流の大きな川を船で建設現場に行くなどと大掛かりな旅になったことからすると、僕をそこに行かせることは営業も組んでの作戦であったようだ。
なるほど、確かにシップローダーは僕が受注したが、僕としては設備全体を受注したかったのだ。だが、東洋エンジニヤリングと我が社の営業とが裏取引をして、新居浜製造所の管轄であるシップローダーを高値で受注することで話をつけてしまったのだ。それも、全体を見積もりした僕に相談なしに決めてしまったので、僕が怒っていると考え、かような手段で僕を問題解決の担当者にしてしまったわけだ。

営業と新居浜設計部のこんな姑息な遣り方が僕には気に入らないのだ。が、これが僕の所属した事業部の基本的な姿勢だから仕方がない。
現場の建設を総監督する東洋エンジニヤリングTECが準備した宿舎に荷物を置き、作業服に着替えて現場に行き、船積機の最先端にぶらさがるスパイラルシュートの先端に行くと、ちょうど、試運転の開始で、そこまでも、新居浜設計者、それに、現場責任者と営業との話がついていたらしい。そこには我が社の現場指導員は居らず、客先の課長が心配そうに現れた。この件は客先も知る致命的な大事になっていたわけだ。結局は、僕が全く関与しない設備の責任が僕に転嫁されたわけだ。こんな所がいよいよ新居浜らしい。
運転開始後直ぐに尿素袋がスパイラルシュートの先端に来て、次々と滑り込んできたが、直ぐに詰まりが発生してスパイラルシュートの上端迄袋があふれだした。そこで、そばにあった非常ボタンを押して運転を止めた。他に誰もおらず、仕方がないので、シュートの枠組みを必死になって伝い、10mほど下に降りてゆくと、心配した通り、袋が内枠に嚙みこんで止まっていた。先端の袋を足で押して、枠から外すと滑り落ちたが、そこから上の袋は全て内枠に挟み込まれていた。大汗をかきながら上に登りながら、次々と袋を外して行ったのだが、要するに、滑り落ちる袋の1個が挟まれると、その後続の袋全てが、内枠に挟まれるとの問題で、根本的には、シュートの底面と内枠を鋭角ではなくて広角で滑らかに接続するように作り直す以外に対策は無いだろうと冷汗が出た。
そのトラブルを技術的に解説すると、シュート面は袋が遠心力で外側に行くのを考慮して、外周ほど高くしているから、袋が順調に滑り降りていれば、遠心力でシュートの内枠から離れた場所を滑り落ちるので問題はない。が、たとえ一袋でも何らかの理由で速度が落ちると、内側に寄り、内枠の滑り面の鋭角部分に挟み込むことになる。新居浜のテストでは、単個ごとに行ったので、常に順調に流れたのだろうが、大量の袋が押し合いへし合いしながら流れ込む状態を考えていなかったのだろう。それでも、シュートの形状を見るだけで気付く事態だと言える。少なくとも僕は一目で気付いた事態なのだ。
内枠の取り付けは全て溶接だから、この現場での改修は大事(おおごと)になると思えた。

こんなに詰まるのに駄目かと思ったが、それでもまぁ用意はしたのだからと、客先課長に頼み直ぐに車で宿舎に送ってもらい、持参しておいたごま油の瓶を持って戻り、スパイラルの最上端の滑り面に油を塗布し、再運転を指示した。すると、最初の袋が滑る際に、ごま油をすべり面に広げてくれるので、後続の袋も何の問題もなくスルスルスルと滑り落ちて行った。
客先課長、わが社営業員、それに、後から現れた新居浜から出向している現場指導員と共に事務所に戻ったが、客先課長はほっとした様子で大笑いしながら「住友のハイテクは素晴らしい」と興奮していた。このトラブルは船の滞船料に影響するから、大事(おおごと)としてみなされていたらしい。滑り剤には油性潤滑油ではなく植物油を使ってくれと要請すると、再び、住友のハイテクは素晴らしいとの答えで了解された。
現場課長が僕を連れて現場所長のモミンさんに説明に行くと、モミンさんも心配していたらしく、「とにかく、方法はどうでも積み込み出来たらよいのだ」と了解してくれて、「ついでに他社納入の搬送設備もチェックしてくれ」と言ったが、それは丁寧に断った。
なお、その後、帰国後二、三か月してから、「再び袋が滑りにくくなった」と連絡が来たので、「油が古くなったので、お湯ですべり面を清掃して塗りなおしてください」と回答してたが、かような姑息な対策をモミンさんが認めてくれたことで、本件は完全に解決した。
本件の解決に東洋エンジニヤリングが関わっていたら、かような解決策では満足せずスパイラルシュートの改造を要求したであろうと思うと、モミンさんの好意を今更ながら感じる。実は、国内でも海外でも、僕は同様な好意を何度も得ている。必死で仕事をすると得られるものだろうと思うが、社内では殆ど得られない好意なのだ。
ところで、本件で、スパイラルシュートの解決の最後の土壇場で現れた当社の指導員は、実は、別の項目で記載した信頼できない仕上師なのだ。僕に付いてAsyuganji肥料設備で仕事した経験を買われて、チッタゴンにも派遣されたのだが、相変わらず大切な瞬間には現われないってジンクスは守っていたようだ。が、成果は自分の物としたであろうと思われる。
この時にも、僕がごま油を塗り始めた時に現れて、尿素袋が順調に流れ、僕が「よく滑るなぁ」と言うと、平然と、「油を塗ったら当然や」と言い切った。それなら、僕が来る前にそうしろよ、と言いたかったが、どうでもいいや、と思い、口には出さなかった。

ところで、本プロジェクトをまとめる東洋エンジニヤリングは、僕の専門とするコンベヤ設備類については、インドのメーカーに発注したと聞いていたので、来たついでにと、そのメーカー名と製品の出来具合を調べるべくわが社納入品以外の設備も見学させてもらった。
その後、この国での次の肥料設備はMSECが応札受注したが、MSECからの搬送設備の見積り依頼を受けた。その際には、そのインドメーカーと連絡を取り、営業員を東京事務所に呼び見積もりを依頼した。これをMSECへの見積もりに採用しようとしたが、当時住重は新居浜の米国向けコンテナクレーンを韓国制作で納入し大赤字となったものだから、人事出身の事業部長は海外製作におびえてしまい、インド製作を許さなかった。コンテナクレーンに比べれば、肥料設備用の設備は構造的に遥かに簡単な設備なのだが、それも理解されず、日本製作での価格で応札せざるを得なかった。結局は価格で負けて逸注した。但し、尿素肥料倉庫内のポータルスクレーパーと称する単体装置だけは、受注できたが、これ以来、住重の搬送システム部門は、このコンテナクレーンでの失敗で海外進出にくじけてしまったのだ。

そもそも、この失敗がなくとも、少なくとも、住重の運搬機事業部(新居浜)って、海外事業には不向きであったようだ。上層部に全く海外案件での経験者がおらず、海外案件をコントロールする力が欠如していて、しかも、いわゆるプロジェクト力が全く欠けていて、海外工事現場には、英語も喋れない人間の集団が、いろんな部署からぞろぞろと集まって行くから、人件費が掛かり、しかも、決断や工夫が出来ないようだった。
僕が、チッタゴン案件で、ダッカの肥料公社プロジェクト本部に行くと、モミンさんが本部長として指揮されており、挨拶に行くと、東洋エンジニヤリングに負けるな、と激励してくれた。TECが日本のODAとつるんで値段を下げないことを怒っていたのだ。その時、Ashuganjiで住重について苦情がでている、と言われた。
早速Ashuganjiの現地に行くと、工場事務所のホワイトボードに「SHI(住重)に無視された」と大きく書かれていた。事務所に居た僕の滞在時の知り合いに問うと、明日から全設備の点検に入るので、機器・装置の納入者にスーパーバイザーを派遣するようにと連絡したが、住重(本件では新居浜)はべらぼうな人数の多額の見積書を出してきたので、最少人数で見直してくれと連絡したが無視された、との答えであった。今回の総点検で来ないのは住重だけだ、とも言われた。こりゃ、注文を取るにはまずい状況だと思い、「給電系や制御系で問題は生じていないか」と問うと、「電気系は専門家がいるので問題はない」との答えなので、では機械系を僕が見ましょうと、2日間を掛けて点検してまわり、問題はありませんと報告すると、それで納得してもらえた。つまり、僕一人で済ませられたものを、多人数を派遣しないと心配なのだと思える。なお、僕は日本でも住金鹿島の焼結設備の全搬送機を点検して回った経験があるので、心配なく協力できたのだ。
実はこんな経験も、僕には後ろ盾がなく、なんでも自分でやらざるを得なかったから出来たのだが、それが、僕の経験の幅を広げたとも言える。
要するに、運搬機事業部は、何をやるにも怖がりで多人数をかけるとの体質で、それゆえに決断力がなく、安全側の道を進むことで、無駄な経費での赤字が累積する傾向があった。

ところで、アシュガンジ肥料設備では、数多くの納入業者の中で、僕の担当分が真っ先に試運転テストを完了したことや、このアシュガンジでの設備点検をもうまく終えたことで、モミンさんは僕を信頼し、チッタゴンでの袋積スパイラルシュートの姑息な対策も問題なく受け入れてくれたのだ。僕は接待は下手糞で付き合いも悪いのだが、いつも客先の信頼を得ることができた。

2022年9月25日日曜日

安倍晋三元首相の死を深く悼みます、との日経意見広告

 「それはこの国の民主主義が暴力に屈しないことを示すことです」
と注記され、錚々たるメンバー名が列記されている。

安倍晋三殺害と、民主主義にいかなる関係があるのか理解できないのは、僕だけだろうか?
それとも、そう理解できないことが、僕の精神的な欠陥なのだろうか?

2022年9月10日土曜日

ウクライナとロシアの起源

 10世紀から11世紀のロシアの覇権国はウクライナ公国だったが、モンゴルの大襲来で公国は破滅させられた。ロシア地域に定住したモンゴルはキプチャク汗国として広大な地域を支配して膨大な課税で地域の住民を苦しめた。徴税使が地域民に殺されたときに、キプチャク汗国が懲罰軍を送ろうとしたが、ロシア公国が反乱の首謀者として自由を回復した、と書きたいところだが、事実は逆で、ロシアはキプチャク汗国の弾圧の、その手先として働いたのがモスクワ公国で、手先としての立場を利用してのし上がったのがロシア公国であったわけだ。
ロシア人の性格がよくわかる歴史事実だ。そのロシア人に安倍は軽くあしらわれたのだが、当然のことだ。

佐藤賢一「王の綽名」 「金袋大公」モスクワ大公

モンゴル人の代わりに徴税

ロシア世界の雄といえば、10世紀このかたキーウ大公だった。それが13世紀には衰亡を余儀なくされる。モンゴル人が襲来してきたからである。圧倒的な軍事力で攻めこまれたのは、キーウ大公国だけではなかったが、南の穀倉地帯において、なまじ繁栄していただけに、ことさら激しい収奪に曝(さら)された。モンゴル軍は1239年から40年にかけて通りすぎたが、この1年だけで大袈裟(おおげさ)でなく、壊滅状態に追いこまれてしまったのだ。

モンゴル軍はポーランド、ハンガリーまで進んだところで止まり、42年には東に引き揚げとなったが、ロシアの地には43年にキプチャク・ハン国を建てて、そのまま居座ってしまった。このハンにロシア人の諸侯たちは臣従させられた。いうところの「タタールの軛(くびき)」である。が、これはモンゴル人に税金や貢租を納める義務さえ果たせば、ロシア人にも一定の自立性が認められる間接支配の体制だった。諸侯たち、とりわけ極寒の貧しい土地であったがために、モンゴル人の来襲、その破壊や収奪の被害も軽く済んだ北の諸侯たちは、そこで再び力を蓄える。キーウ大公にかわって頭角を現したのが、まずはウラジーミル大公だった。

立役者が英雄アレクサンドル・ネフスキーで、その弟たち、息子たちで、ウラジーミル大公の位は継承されていった。が、それも14世紀に入る頃から、有力な分家ふたつの間で争われるようになる。ひとつがアレクサンドル・ネフスキーの弟の家系であるトヴェリ公家、もうひとつが末子の家系であるモスクワ公家である。トヴェリのミハイル、モスクワのユーリ、トヴェリのドミートリー、トヴェリのアレクサンドル・ミハイロヴィチと続いて、トヴェリが勝利したようだが、そのままではいかなかった。1327年、トヴェリ公領では、キプチャク・ハン国が課す税が重いと不満を募らせた民衆が蜂起、徴税に来ていたウズベク・ハンの使者チョルを殺害してしまう。いうまでもなくハンは激怒した。その宮廷に行き、自ら志願し、鎮圧戦に乗り出していったのが、モスクワ公イヴァン1世だったのだ。ウラジーミル大公ユーリの弟であれば、それは大公位を奪ったトヴェリ公家に対する復讐(ふくしゅう)でもあった。イヴァンは都市を破壊、各地を荒らし、大公アレクサンドル・ミハイロヴィチを逃亡に追いやった。

それを手柄と褒めて、ハンは28年、イヴァンにウラジーミル大公の位を認めた。経緯ははっきりしていないが、この頃からモスクワ公の称号も格上げされて、モスクワ大公と呼ばれるようになる。このモスクワ大公イヴァン1世の綽名(あだな)が、ロシア語で「カリター」、英語で「ザ・マネーバッグ」、つまりは「金袋大公」だった。これはイヴァンが、ハンの徴税官になったというか、その役目を代行することになった事実に基づいている。キプチャク・ハン国も、トヴェリの反乱で懲りた。モンゴル人が金を集めにいって、殺されたり、蜂起されたりするのでは合わない。それよりはハンに忠誠厚いロシア人、それこそモスクワ大公イヴァンのようなロシア人に、一任したほうがよいという判断だ。

ハンの代理として各地で金を集めて回る奴、つまりは金袋を担いでいる奴と、かくて綽名ができあがるが、実のところ、これがモスクワ躍進の鍵だった。徴税仕事を通じて、大公は裕福になったからだ。うまみが大きいというのは、ハンは決めた金額を納めれば、もう文句をいわないからだ。より多く集めても、その差額分は現場の手数料といおうか、あるいは報酬、役得といってもよいが、とにかく自分の懐に入れることができたのだ。それも自分の領地だけではない。イヴァンが請け負ったのは、全ロシアにおける徴税代行だった。ハンに納める税金だからと、ずかずか他人の領地に踏みこみ、好きに取り立てることができたのだ。

これで手にした資金力に物をいわせて、イヴァンはモスクワ周辺の領地を買収、大公領をみるみる大きくしていった。周辺の諸侯には貸しつけもした。借金漬けにして、返済できないとなれば、諸侯はモスクワ大公のいうことを聞かざるをえなくなる。どんどん従えていけば、「金袋大公」こそロシア世界の雄、モスクワこそロシアの都になる。「タタールの軛」というが、それに対抗するのでなく、逆に利用することで、イヴァン1世はその勢力を伸張させていったのである。以後、キーウでなく、ウラジーミルでなく、モスクワがロシア史の主役になる。

2022年9月1日木曜日

マインドコントロールによる合同結婚式は、日本人女性の韓国による慰安婦問題ではないか

 韓国に連れ去られた日本人女性の調査が必要だと思う。
彼女らは助けもなく、教団から逃げる気力も失って過ごしているに違いない。

旧統一教会と政治2 韓国では「財閥」の顔

潤沢資金、発祥地で影響力 透明性の確保必要に

8月18日、ソウル中心部の王宮の城門「光化門」前に千人を超す女性が整列して座り込んだ。韓国在住の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者が大規模なデモを開いた。「世界の前で宗教弾圧問題を訴える」。日本人女性が壇上で抗議文を読み上げると、目抜き通りを行進した。

韓国には1980~90年代、多くの日本人信者が合同結婚式で移り住んだ。抗議文によると結婚して韓国で暮らす日本人信者は1万人あまり。事実なら韓国の在留邦人の4分の1を占める。

旧統一教会は54年、北朝鮮から韓国に逃れた文鮮明氏(故人)がソウルで創設した。宗教学者などによると、キリスト教の教えに儒教など血統や家族を重視する韓国の伝統思想や風俗を取り入れた。ただ、自ら「メシア(救世主)」と宣言するなどキリスト教多数派の教義とは相いれない部分が大きい。

韓国メディアによると韓国内の信者は推計30万人。500万人超のカトリックなどに比べれば少数派だが、カルトという認識は薄く、韓国社会で一定の影響力がある。霊感商法や高額献金などは大きな社会問題になっておらず、実態は不明だ。

信者は韓国内より海外に多い。聯合通信(現・聯合ニュース)が1995年に発刊した「韓国人名辞典」によると、文氏は54~77年に日米英仏や西ドイツなど137カ国に宣教部を設置した。韓国メディアの報道では300万人と推計される。

韓国では「財閥」としての顔も併せ持つ。「統一グループ」は上場企業2社、非上場企業24社からなり、有名スキーリゾート運営企業を筆頭に、旅行会社や建設会社、食品や自動車部品メーカーを傘下に抱える。

日刊紙「世界日報」は米国で保守系紙「ワシントン・タイムズ」を運営する。全米のすし店に食材を提供するトゥルー・ワールド・フーズも旧統一教会系とされる。

北朝鮮との関係も深い。1991年に訪朝した文氏は金日成主席と面会し投資を約束。現地企業と合弁会社「平和自動車」を設立し乗用車やトラックをライセンス生産した。ホテルも運営した。文氏が死去した2012年、第1書記だった金正恩(キム・ジョンウン)総書記は弔電を送った。

韓国政府機関に提出した最新の監査報告書によると、グループの主要な11社の年間売上高は計7896億ウォン(約815億円)にのぼる。監査報告書の提出義務がない残りの15社を合わせると、売上高は少なくとも1000億円規模とみられる。

日本の全国霊感商法対策弁護士連絡会によると、教団は韓国だけでなく世界で100社超の企業を経営しているという。同連絡会が「財閥」の資金源とみるのが日本で集めた巨額資金だが、不透明さも漂う。

1995年にオウム真理教事件を受けて改正された日本の宗教法人法は、宗教法人の認証を得た団体に毎年の会計書類の提出を義務付けた。

実際に全ての法人に提出を義務付けたのは財産目録のみだ。団体の収益を記す収支計算書は収益事業を行う場合や年間収入が8千万円超の場合などに限られる。

同じ公益法人の財団法人や社団法人に適用される「公益法人会計基準」も、宗教法人なら任意だ。監査法人や税理士の監査も必要なく、書類提出を受ける文化庁も「確認は主に提出の有無」(同庁宗務課)にとどまる。中身の確認や公開はしていない。

税務当局の目も行き届かない。日本は宗教法人になると自動的に宗教活動が課税対象から除外される。国税OBの税理士は「宗教法人でも収益事業などを税務調査することはあるが、日常的にみているとはいえない」と明かす。

一方、同じ税制優遇措置でも欧米は所管する官庁とは別に、課税官庁が公益性の有無などを審査したうえで課税の免除を決定するケースが多い。

米国では(1)利益の私的流用(2)違法な活動や公序良俗違反――などが確認されれば免税措置を取り消す。ドイツでも活動に公益性が認められないなどと課税当局が判断すれば税制優遇されない。

中央大の酒井克彦教授(租税法)は「日本は戦時下の宗教弾圧への反省などから行政の宗教介入を排除してきた経緯があり、課税制度が海外と比べて圧倒的に緩くなっている」と指摘する。「一定の基準を設けて税制優遇の資格を定期的に審査する仕組みを導入すべきだ」と求める。

宗教法人を巡る資金を「聖域」のままにせず、一定の透明性確保に向けた議論が欠かせない。

旧統一教会、対策阻む縦割り 霊感商法「被害」1200億円

旧統一教会と政治(3)

「救いを求める声を吸い上げる」。8月18日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題を巡る関係省庁会議。悪質商法などの被害救済を目的に法務省、警察庁、消費者庁、内閣官房が参加し、9月に被害相談を集中的に受けることを決めた。教団は1964年に日本で宗教法人の認証を得た。「霊感商法」や高額献金が社会問題化したのは80年代後半だ。安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也容疑者(41)の母親も約1億円を献金し、家庭が崩壊したことで同容疑者は教団に恨みを募らせたとされる。

国として有効な対策をとれなかった背景に、省庁の縦割りの体制がある。宗教法人を主管するのは文化庁だ。霊感商法を含む悪質商法の規制や被害相談は消費者庁、人権問題は法務省、そして刑事事件は警察――。所管が分かれてカバー範囲に限界が生じ、情報共有の壁も立ちはだかった。被害相談がたらい回しになるケースもあったという。

発足した関係省庁会議を巡っては、まず、事務局が置かれた法務省の幹部が「なぜ被害相談がほとんどなかったうちの省なのか」と戸惑った。次に、解散命令の請求を担う文化庁宗務課が入っていないことで、霞が関に「本気で対処するつもりがない」との受け止めが広がった。

消費者契約法は霊感商法を「霊感などの実証困難な能力を知見として、重大な不利益が生じるなどと不安をあおり、契約締結を迫ること」と定義する。商品販売時に脅して不安を感じさせたと認定されれば特定商取引法などに抵触する恐れがあるが、過度な献金や寄付自体を直接取り締まる法律はなく、消費者行政中心の対応は限界がある。

全国霊感商法対策弁護士連絡会の渡辺博弁護士も関係省庁会議の行方を不安げに見守る。渡辺弁護士は以前、数千万円を献金した80代の女性について文化庁や消費者庁に通知した。反応はなく救済に至らなかった。「各役所がバラバラだった」という。

同連絡会によると、87~2021年に寄せられた被害相談は計3万4537件、被害額は約1237億円に上る。

被害者の提訴で教団側の敗訴が続くなか、警察当局が霊感商法を大がかりに摘発したのが09年だ。被害弁護団が誕生して20年ほどが過ぎていた。消費者の不安をあおって印鑑を高額で売りつけたとして、販売業者らを特商法違反の疑いで相次ぎ立件。教団関連施設の強制捜査にも乗り出した。

事件を受け、教団は09年に「コンプライアンス宣言」を出した。田中富広会長は8月の記者会見で霊感商法への関与を否定し、宣言以降「社会的、法的に問題がある行動をしないよう指導を徹底している」と述べた。

一方で、09年の摘発が教団と政治の関係をさらに深めるきっかけとの見方を示すのが渡辺弁護士だ。「摘発は政治家とのつながりの弱さが原因とみて関係強化に動いた」

逆風下で政治家の存在は勧誘や信者のつなぎ留めにも効果を発揮した。選挙応援、セミナー……。元信者の男性は「集会などで政治家の名前を出せば信者を教団に引き留める『お墨付き』の効果があった」と明かす。

公安調査庁は05、06年の報告書で「不法事案を引き起こすことも懸念される特異集団」と記載。政府は今回、教団のことを指したとする答弁書を閣議決定した。当時は団体名が伏せられた経緯がある。

宗教法人に対しては、宗教法人法が解散命令について規定している。日本で過去、同法に基づく解散命令が出たのは組織的に悪質な刑事事件を起こしたオウム真理教などに限られる。強制解散を規定する破壊活動防止法はオウム真理教にも適用されず、運用は抑制的だ。規制を巡る議論も浮上したが、深まらなかった。

海外ではどう対応しているか。違法な信者勧誘などを禁じるシンガポールは、20年に韓国の団体に国内での活動を禁止した。

フランスは1995年に「法外な金銭要求」など10のセクト(カルト)行為を定義、170超の団体をカルトに指定した。

01年にセクト規制法が成立。フランスの制度に詳しい山形大の中島宏教授は同法の特徴を「違法行為に着目して規制する点」とする。対象は宗教団体に限定されず、国家と個人の間にある「中間団体」全般に及び、教育団体が指定されたケースもあるという。

指定団体や指導者が有罪判決を受ければ強制解散と規定。解散命令が出た例はないというが、被害者の通報は20年に3千件を超えた。定義の明確化で自己点検が促されたほか透明性が高まる効果があったとみられる。

国内外を問わず問題となるのは違法な活動だ。今回の銃撃事件は、違法行為が疑われる団体に社会がどう対応すべきかを問いかけている。

2022年8月31日水曜日

安倍元首相の葬儀は、税金を使っての国葬ではなくて、統一教会に任せたら良いのでは?

 僕は安倍は国葬に値しないと前に投稿したが、日経でさえも、遅ればせながら、安倍元首相と統一教会の深い関係が報道しだした。昨日のNHKのTV放送では、統一教会内部側で、安倍への接近が過度ではないかとの意見さえ出ていたそうだ。加えて、今日の日経夕刊の随筆プロムナードで、歴史学者の藤原辰史氏は、岸・安倍の統一教会接近はナチズムの現れだと記載している。言うならば、今回の暗殺は安倍氏自身の不逞な行為への天罰でとも言えそうだ。
そう考えるなら、国葬よりは、統一教会自身の予算での、統一教会葬が相応と思える。どうせ彼らの金も日本国民から搾取した金だし。
葬儀が外交交渉の一環だなどとの詭弁はやめてほしい。まずは安倍氏の存在・活動への評価で国葬か否かを判断すべきであろう。
しかも、政府の金使いはとめどなくなっている。今回の国葬も100億を超えるのが真相らしい。しかも、葬儀の演出は、安倍の桜の会を仕切った業者とのことだ。それも、競争なしの指名入札とのことだ。

国葬落札は1億7千万円 「桜を見る会」担当の会社

安倍晋三元首相の国葬の企画・演出の業務について、東京都江東区のイベント会社「ムラヤマ」が1億7600万円で落札したことが2日、国の入札情報で分かった。入札したのは同社だけだったとみられる。国葬の送迎バスの業務は4社が入札し、新宿区の旅行会社「旅屋」が約520万円で落札した。落札額は両業務で計約1億8120万円となった。

国の入札情報によると、ムラヤマは2015年3月以降、5年連続で安倍元首相が在任中に主催した「桜を見る会」の会場設営業務を一般競争で落札している。17~19年の会では、いずれも入札前に、ムラヤマと内閣府が打ち合わせしていたことが発覚し、野党から批判された。

ムラヤマの広報担当者は国葬について「通常の業務の一環として入札した」と話した。旅屋は「担当者がおらずコメントできない」としている。

入札は一般競争で、8月17~18日に公開された。政府は22年度予算の一般予備費から2億4940万円を支出すると閣議決定している。

ムラヤマは他に、中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬や東日本大震災10年の追悼式、秋篠宮さまが皇位継承順1位の皇嗣の地位に就いたことを内外に示す「立皇嗣の礼」事務局などの会場設営や運営業務なども落札している。

国葬は9月27日午後2時から日本武道館(東京)で行われる。入札の仕様書によると、外交団など海外からの参加者は千人程度を見込んでいる。要人のセキュリティーを万全にするとし、会場入り口で金属探知機24台を設置する計画としている。〔共同〕

旧統一教会と政治 「票」が最優先だった関係

旧統一教会と政治①

安倍晋三元首相の銃撃事件後、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治の関係が次々と明らかになった。政治家は選挙での票と運動力を頼り、教団は組織への信用や声価などのために政治家を活用した。

全国霊感商法対策弁護士連絡会の山口広弁護士は「教団は資金集め活動が中心で、宗教団体というより営利・事業体と考えたほうが実態に近い」と指摘する。

山口氏によると教団はかつて日本での経費に100億円程度を使い、韓国本部に向けて「神様の指令」として年300億円の送金を指示した。1980年代は年600億~700億円が日本から韓国側に流れたとみる。

日本で霊感商法が社会問題化した80年代後半から送金額は落ち「最近は年100億円に満たない」と分析する。それでも収益の8割以上は日本からとみている。日本が資金源になってきたとの見方は多い。

韓国への送金と対照的に日本の政治家への多額の献金が判明した例は少ない。共同通信は全国会議員にアンケート調査をした。教団に関係する組織や人から政治献金を受けたと答えた議員は、自民党の下村博文元政調会長と国民民主党の玉木雄一郎代表だけだった。下村氏は6万円、玉木氏が3万円だ。逆に関連団体に会費を払ったという議員もいた。

関係は資金より集票力に重点がある。「信者が仲間を連れてきて電話かけやビラ配りを手伝ってくれる。無償かつ有能でありがたい。宗教を理由に断れるわけがない」。衆院選で支援を受けた自民党議員の秘書は語る。

公職選挙法上、選挙の多くはボランティアに頼る。手当を出せるウグイス嬢や運転手、事務員をもし25人雇えば12日で500万円ほどになる。

7月の参院選で当選した自民党議員は今回の選挙で2回「統一教会の票をまわす」と声をかけられたが断った。「統一教会の名前を出して誘うのは関係を示したいからだと思った。『知らなかった』と弁明する議員は考えられない」と話した。

教団の元信者だった金沢大教授の仲正昌樹氏は「教団側は『政治家というVIPと共に社会的に貢献している宗教』とアピールする目的がある」と解説する。

教団の田中富広会長は8月10日の記者会見で「特定の党と関係を持つという態度はとっていない。政治工作という意味合いではなく、より良き国づくりに向かって共に志をひとつにしておこうという姿勢の中からの交わり」と述べた。政治との関係をたどると安倍氏の祖父・岸信介元首相に行き着く。「岸先生に懇意にしていただいたことが勝共運動を飛躍させる大きなきっかけ」。教団の初代会長は著書で記している。「勝共」とは「共産主義に勝つ」の意味だ。68年に教団は政治団体「国際勝共連合」をつくる。名誉会長に日本船舶振興会を創設した笹川良一氏が就いた。笹川氏が岸氏と教団を反共産主義でつないだ。両氏は極東国際軍事裁判で巣鴨拘置所にいた。

その後、福田赳夫元首相がつくった派閥・清和会を経て、現在の安倍派(清和政策研究会)まで教団との関係は引き継がれた。安倍派議員の秘書は「安倍元首相が教団の票や支援の割り振りを差配した」と証言する。

1選挙区で3~5人前後が当選する中選挙区時代、自民党の各派閥は選挙区に複数候補を立て、各派閥が後押しした。組織票が大事だった。

「韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁をはじめ皆さまに敬意を表します」。安倍氏は2021年9月、教団の友好団体のイベントにビデオでメッセージを送った。教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)氏の妻で現総裁の韓氏に「敬意」を示した。

7月の参院選で教団が支援したのは、安倍氏が首相時代の秘書官で教団の「賛同会員」になった井上義行氏だ。

井上氏は全国比例の個人名で16万5千票をとった。落選した19年参院選は8万8千票ほどだから8万票近い上乗せに教団が寄与した可能性がある。全国の農協関連団体は15万~20万票を動かすとされる。その半分近い力がある計算だ。霊感商法の問題を経て、教団との関係は水面下に潜った。再び活発になったのは2009年、自民党の野党転落後だ。12年の政権復帰後はその維持のため固い組織票と運動力が必要だった。

支援を受けなかった議員は実感が乏しい。特に建設や運輸など業界団体の票を押さえた田中派、経済界と絆があった大平派といったかつての保守本流の流れにある派閥はそうだ。岸田派議員は「自民党全体の問題ではない」と強調する。

霊感商法が社会問題として取り上げられなくなると野党も支援を受け入れた。立憲民主党は14人、日本維新の会は15人の国会議員に接点があったと発表した。

「憲法の定める政教分離の原則は、宗教法人の政治的活動を排除する趣旨ではない」。岸田文雄首相は8月15日、コメントを出した。憲法は信教の自由を保障する。「政教分離」は政治と宗教を遮断する一線を引くという意味ではなく、国の宗教への介入を禁じる概念だ。国が宗教団体を弾圧した戦前のような事態を避けることに力点がある。

米欧で宗教団体が政治に関わることは普通の話だ。宗教を冠する政党もある。05~21年にドイツ首相を務めたメルケル氏はキリスト教民主同盟を率いた。

日本では創価学会を支持母体にもつ公明党が与党にいる。山口那津男代表は政治と旧統一教会の関係について「政治と宗教一般の問題ではない。社会的に問題を抱える、トラブルを多数抱える団体と政党や政治家のかかわり方の問題」と主張した。

政治は反社会的な団体と関係をもつべきではない。「集票力」の観点ばかりで宗教をみてきた歴史が今回につながった。

教団の問題は何か。各国は宗教とどう向き合うのか。関係を問う。

2022年8月16日火曜日

バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。更なる続き

 僕の経験を綿々と紹介したいのだが、バングラデッシュ国への入国から設備納入完了まで、何しろ、海外旅行が初めてで、英語もしゃべれないって僕自身の事情だけではなくて、世界最貧国で熱帯の酷暑国で、雨季には国土の80%が水没するどころか、国土の南方の海岸500kmが河口デルタなんてとてつもない国での生活、それも田舎生活なんて、それに、例えば据付期間中に完全日食が起こって、昼間に突然夜が訪れるなんて経験などと、記憶の残ることが、日々続いたので、それも延べ、ほぼ1年以上に亘ってのことで、それをいちいち記述するなんて、とくのこの暑さでは、気力が充実しないと、とてもでないが書けないとおびえてしまった。
とにかく先ずは結果だけ書くと、最初の滞在は8月から12月でいったん帰国し、1月半ばから6月で据付スーパーバイザーは終えて、1年してから試運転に再出向で、3か月程度で完了証明を、それも、据付に参加した各社の中で最初に手にして帰国できた。
前にも書いたが、本体設備FOB迄の設備機器納入損益は、僕の管轄範囲外で、僕の管轄内の客先から支払われる据付指導員費での利益だけで、それも、納入品の不足・不良に要す費用も据付指導員費で補って2000万円余りの利益を出したのだが、なぜか本拠の新居浜では、僕の頭がおかしくなった等との評判があって、この案件の成功は、新居浜から出向した、余り信頼できない仕上師と、機械専門だが、語学勉強と電気指導の勉強を兼ねての検査員によってなされたとの評価となったようだ。その僕についての悪評を仕上師や検査員は特に否定もしなかったようだ。実は、僕が挙げたその成果は、僕の努力もあったが、その案件や現地組織の特殊性もかなりの影響があり、僕の努力がいかばかりであっても、かなりの幸運に恵まれたのが事実だ。ただ、案件の最初から僕が関与していれば、物品管理や梱包管理を確実にして、そもそも、この案件のような馬鹿な事態にはなっていなかったと思う。それに不思議なことに、僕がプロジェクトする案件は、いつも幸運に出会えるか、僕を買ってくれる客先に出会い、危機的状況からも何とかしのげるようであった。つまり、社内と違い客先の人は、真面目に頑張っている人間にはいつも評価するということだろう。
ところで、姑息な新居浜の評価なんてどうでも良いが、ただ大阪コンベヤ課の課長からすると、僕の評価は一気に高まって、苛めは一切なくなってしまったので、僕に取ってはまあまあの成果だったと言えるだろう。要するに、何をやらせても、どんな苛めにあっても、挫けることなく僕は任務を達成すると知ったようなのだ。

他方、新居浜の信頼できない仕上師への信頼は、僕はこの掲示板以外では告げ口なんて一切しなかったから、新居浜だけでなくて、僕の課の課長や彼の親衛隊でも、仕上師への強い信頼は引き続いていて、本件の後の海外案件でも製品検査や梱包検査だけでなく、現地据付も任せたもんだから、大赤字になってしまったようだ。
本案件での、納品の品質管理と物品管理の欠落を、僕がカバーしたことで、痛い目に合わなかったが故に、新居浜の仕上師にはその重要さが理解できず、その後の案件でも同じ失敗を繰り返し、それをカバーできる僕のような人間が居なかったので、悲惨な結果になったのだろう。ただ僕の頑張りにしても、先に書いたように、恵まれたサイトだったから成果が出たのだが、別のサイトではうまく行かなかっただろう。でも、僕が最初からプロジェクトを運営していたら、プロジェクトの成功・不成功は、物品管理と梱包管理に係る、と知る僕なら、かようなトラブルはそもそも起こさなかったと確言できる。

ところで、詳細経過については気候が良くなってから書くことにしよう。

2022年8月6日土曜日

バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続きの詳細と、その続き)

  僕が30代の初め頃、当時は、大阪土佐堀にあった住友重機械・運搬機事業部の土佐堀分室に勤めていた。事業部の本拠は新居浜なのだが、その1部門のコンベヤ部は大阪に進出して、土佐堀の、とあるビル内に土佐堀事務所を設けていたのだ。そうして当時は、ここに書いたように、その部のXX課長に苛められまくる奮闘の日々であった。その課長とは立場的には僕の尊敬する中谷部長の後継者なのだが、部長が彼を後継者を決めたのではなく、部長の意に反して上から指定されたようであった。

http://isabon.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html

当時僕は海上空港となる関西空港の埋め立てプロジェクトを、土建業会のワーキンググループの土取り機械設備計画の担当としてたった一人でサポートしていた。機械メーカーとしては我社だけが作業していたので、実現に際しての受注の可能性は極めて高かった。土建業者のバックアップ作業でそれなりに忙しかったのだが、XX課長は例の如く機嫌の悪い顔つきで僕を呼びつけて、超巨大コンベヤの開発プロジェクトを開始するので君がまとめろ、と命令した。関空案件では、泉南の山中から埋め立て土砂を海岸まで運び、これをバージで埋め立て現場まで運ぶのだが、膨大な土砂を短期間で搬送するため、搬送用ベルトコンベヤは、幅3m、搬送速度は300m/mと、巨大なコンベヤを必要とする。確かに、日本ではかってない巨大なベルトコンベヤだが、僕にすれば既存の技術であり、僕の技術力であれば開発プロジェクトを立ち上げるほどのことではない。そこで戸惑っている僕を無視して、誰と誰をそのプロジェクトに加える、と不機嫌に申し渡した。考えるに、受注していた製鉄所納入設備の処理に部の人員を大きく増やしたのだが、仕事が減って来たために余剰人員の人件費を開発費として本社負担に回して、その開発業務と余剰人員を僕に押し付けたわけだ。
僕が忙しい時には人員を一人も回さず、課長管轄の人員が余剰になると押し付けるってことで、その勝手な行動を隠すために不機嫌な態度となるわけだ。僕が彼の立場であれば、大量の仕事をこなすには人員を増やす以外の方法をこうじたであろうが、彼や彼の好む技術者にはそんな考え方は不要なのだろう。(住友重機械には、部下を増やすことが管理職の能力だとの風潮があるようだ)

開発と言ったところで、いったい何をすれば良かろうかと思うのだが、課長からは何の指示もなく、ただわけの判らんことを大声で怒鳴るだけなのだ。困ったことだ。そこで新しく部下となった川崎君と相談して、超大コンベヤの技術資料は僕の知る技術情報やそれを応用して巨大化に適用することなどでまとめるとして、それとは別に、自分達の技術能力を高めるべく、種々の施設での工業バラもの処理技術を集約することにした。実際の所、これらの技術情報は少なくとも、その後の自分の人生に非常に役に立ったのだ。

(これを書いている間に気付いたのだが、XX課長は、僕が八戸に納めた長距離コンベヤ設備の設計などのノウハウを知りたかったので、それを纏めることを望んだのかもしれない。しかし、長距離コンベヤのノウハウとは、ベルトコンベヤについての市販本にも書かれている基本技術とそれに、高校卒レベルの物理知識、つまり、力=質量x加速度(運動方程式) とエネルギー保存の法則、運度量保存の法則を加えるだけのことなのだ。ところが、XX課長にはそれすら理解しようとしないと言うか、臆病というか、僕が以前に実施した長距離コンベヤの設計手順を1からまとめた物が欲しかったと思われる。XX課長がちょっとは頭を使えば良かったのに、と思う。それに実際には、八戸での設計手順の殆どは部の倉庫に収納されている製番ファイルの中に納められていて、誰でもが閲覧できるようになっていたのだ。)

この開発業務に加えて、課長は「コンベヤ用ローラの開発」って課題も指示した。当時の技術からすると、コンベヤローラにはそれほどの技術的な要望があるわけではなく、価格的な競争商品であるので、住友重機械が手を出す商品ではないと思ったが、課長は高防塵の高性能ローラを開発せよと指示したのだ。
この人のやることや言うことは何が何だか判らないと思うのだが、反論すれば沸騰して絶対に言うことは聞かない、指示に従う以外に道はなかった。その件には以前からの部下であった大西君に担当してもらったが、いずれの開発案件もわけの判らない指示を何とか形にまとめるべく混乱の極みで、川崎君や大西君には本当に苦労させたと思う。今から考えると、課長の指示には関係なく、何か新しい技術分野とか、若しくは、設計・生産技術の自動化とかを推進すべきであったと思える。更に振り返って考えると、XX課長の考えは、住金の設備増強が終わった時を考えての新規製品の開発だとも思えるのだが、ベルトコンベヤ設備受注の可能性が減ることを見越しての新製品開発で、ベルトコンベヤ部品の開発をするとは支離滅裂ではないだろうか?
ベルトコンベヤ設備に替わる新製品を案画すると指示すればそれなりの検討もあったのだが、本人がローラの開発と心に決めているのだからどうしようも無かったのだ。
なお、ベルトコンベヤ設備の設計自動化とか鉄骨構造物の設計自動化については、後年、自主無賃休日出勤を続けることで成し遂げた。

そんなある日、課長が僕を呼びつけたのだが、奇妙なことに、いつもの傲慢な口調ではなく、遠慮がちに話しかけた。

「FOBで納入したバングラデッシの肥料設備なんだが、鉄工課の馬場君を指導員に派遣予定していたが、彼は、イラクの肥料設備の据付監督に行くことになった。で、事業部長がバングラデッシュには据付責任者としては君に行かせろ、と言っているのだ。どうする?」
と、行けとは言わずに提案形の指示であった。中谷部長を通り越して事業部長に媚を売っている課長としては、事業部長の意向に逆らえないので、提案形の指示となったのであろう。
そもそも、設備をFOBで納入するとは、設備を構成する部材や単体機械を梱包して港で船舶に納入するまでが納入範囲で、現地での据付工事は納入範囲外となる。が、通常は客先からの要請により、現地の建設工事での据付指導員を派遣することになる。当然、指導員費用は追加として支払われる。本件では日当として、8時間/日の労働で、ほぼ30,000円/日が支払われることになっていた。現実には1日10時間労働で、土曜日もまるまる出勤だったから、住重の得る金額も、僕らの得る残業金額もべらぼうな金額になる。
住友重機械には、据付指導員の専門セクションはなく、概ね、鉄工課とか生産技術課などの現場部門から派遣されるのだ。だから、設計部門の人間が据付指導の責任者で派遣されることは無いのだ。つまり、僕の居た設計部門から、しかも、僕が設計を担当していなかった設備の、据付指導、それも、その責任者として派遣されることは通常では絶対的に有り得ないことだった。客先にしても日当いくらと金を支払って派遣者を要請する以上は、据付に経験豊かな技能者を期待しているのであって設計技術者を期待するはずが無いのだ。当然ながら客先が不適当と判断された指導員は、ディスクオリファイとして罷免されることになる。それどころか、その件の指導員派遣契約書によれば、英語も喋れないと罷免される恐れも充分にあった。
当時の事業部長は、社内では天皇と呼ばれるほど傲慢なのだが、お客さんには全く弱いとの人物で、僕も彼とは話をしたこともなかった。つまり、僕に経験を与えるとか育てるとかの意思があるはずもなく、何らかの都合で、本来は新居浜の現場部門が果たすべき任務を、それも、馬場君を他の現場に必要としたので、彼に予定されていた仕事を土佐堀のコンベヤ部門に押し付ける事情があったのだろう。なお、馬場君は僕と同期の人物で、京大卒の優秀な人材である。しかも彼は既にその件の現場も調査しており当然だが英語もぺらぺらである。
恐らく、新居浜の現場部門でも、バングラデッシュなんて国に、しかも、2~3人の少人数で、コンベヤ部の納入品であるが故に、新居浜の十分な支援も期待できない現場を、希望する人もおらず、僕を指名若しくはコンベヤ部の誰かに押し付けようとしたのだと思えた。
が、今になって考えると、事業部長が、僕を知ることもないから、我が部の課長には「馬場君はイラクの件で出せないことになったから、据付指導員はそっちで考えろ」程度に言った可能性があり、大阪コンベヤ部の管理部門には海外に派遣できそうな人材も無く、僕に白羽の矢を立てた可能性が高い。が、僕も英語会話なんてやったこともないので、海外に適当な人材とは言えない。
しかしそこで、課長は例の如く、事業部長の馬場君を確保したいとの要請に対して、都合の悪い仕事を僕に押し付けるべく、あたかも事業部長の指示であるかのように発言して、僕が断れない状況を作った可能性も高いと思われる。
据付には殆ど素人の僕を派遣して、失敗しても、自分には何の責任も無く、しかも、鬱陶しい僕を追い払える可能性さえ生まれると、実に見事な配慮ではないか。
こんな策略には僕は全く対応のしようがなく、数か月後に、据付が始まるであろう頃に僕は、バングラデッシに派遣されることになった。それも、据付指導の責任者としてである。更に、据付試運転渡しの仕事ではないから、僕が管理できる予算は、あくまで、客先から支払われる日当費用の範囲内になるわけで、若し製品の不良が原因でのバックチャージが発生してもその費用内での処理となるから、たちまち赤字になってしまう。ただ、恐らく本体収入との清算は行われるだろうが、僕の管理範囲内の収支はとにかく赤字になってしまう。しかも、設計には万全の自信のあるぼくも、据付指導に関しては全く経験も自信もなく、そんな人間を派遣された客先は、果たして、どう考えるだろうかとさえ心配になった。更には、先に書いたように、英語のヒヤリング・スピーキングも全く経験なく、それどころか、飛行機では新婚旅行で北海道へと往復に乗っただけで、海外には全く行ったこともなかった。しかも、その新婚旅行の旅程・手配も全て女房がやったのだ。こんな人間を、かような有り得ない事情で、しかも、据付指導の責任者として派遣する会社なんて、住友重機械以外には、どこにもあるまいと思う。
ただ、僕の場合は、運搬機事業部本拠の新居浜の設計部門とかとは異なり、客先の折衝から据付の手配までするプロジェクト体制的なコンベヤ部に所属して、プロジェクトの運営を、どちらかと言えば個人商店的な立場で遣っていて、当時は既に、八戸の長距離コンベヤ設備それに港湾設備の建設とか、住金の第三焼結設備やら、その他の細々を、苛め課長とは違い、最少人数で、傲慢かつ優柔不断な課長の邪魔を排除しながら、しかも大幅な利益を上げながら実行してきたから、現場の経験は、新居浜の設計者に比べればかなり有ると自信はあったが、据付に必要な重機の使い方とか、仮組の手順とか、心出しの方法とかの詳しい据付技術までは知らない。が、そもそも大学の修士課程って、何でも独力で解決する能力と言うか、気力を養う過程だから、出来なくても、出来ないとは言わないように育っている。だから、その時も何の文句も言わずに、苛め課長の指示を受け入れることになってしまった。

僕が出向することになった現場は、バングラデッシのAshuganjiの尿素製造プラントで、そこの粒尿素やそれを袋詰めした袋を搬送したり船積する設備で、世銀から借金して、英国のFosterwheelerがプラント全体をまとめる施設建設であった。つまり、英国人が現場の全てをコントロールするプラントであった。我が社が納入する物品は住友重機械の新居浜工場に集結最中で、その製品検査・輸出梱包の内容検査は、機械据付現地指導員として予定されているO君が行っていた。彼は、僕がプロマネをした住金鹿島焼結設備の指導員としても出向していて、彼の性格は十分に把握していたが、その性格は愛想良く人当たりは良いのだが、かなり大雑把で、しかもその場の偉いさんに巧妙に阿る性格で、信用できるものではなかった。が、既にXX課長には好印象を与えていて僕が変更できる状況では無かったし、そもそも僕には、人員を選ぶ選択権もない。与えられる人員で対処することで、今までのプロジェクトの経験から、その能力には自信があった。

いずれにしても、新居浜に集積された発送品の立ち合いをすべきだと新居浜を訪問した。数百にもなる梱包品の全てを調べることなど出来ないので、製品の仕上がり状況、梱包状況、と特に梱包リストをチェックした。が、梱包品はコンベヤ機番ごとにまとめるとの原則は配慮されておらず、異なった機番の物品が実に見事に混載されていた。国内での経験でも、かような梱包では据付現地に着くと、部品を求めて現場を探し回るか、膨大な梱包リストの中を探し回ることになる。O君自分が出向して据付指導する立場なのになぜ斯様なことに気づかないかと不思議に思った。が、かような細かい仕事は彼には向いていないのだろう。
既に全てが梱包されているので対処を考えねばならない。幸い、梱包リストはコンピューターに入力されていて、各品目の最後に機番が入力されている。そこで、O君に事情を説明して、機番ごとの部品の梱包番号を出力するようにと指示した。
話は飛ぶが、これで大丈夫だと思っていたが、結局彼はその作業やリストの重要性を理解できておらず、現地に入って山のように集積された梱包を前にして尋ねると、忘れていた、と答えた。あきれ果てたが仕方が無い。彼の性情を甘く見ていた僕の失敗だった。
そこで、現地では大量で膨大な梱包リストを鋏で切り分けて機番ごとに纏めるとの作業が必要になった。英国人で名前はキャノンなる据付人は、そのリストを作る前は、フオックンリスト(糞梱包ども)と連呼しながら、梱包を分解しては機番ごとに物品を並べるとの大変な作業をしていたが、僕の作ったリストでその作業は簡易化されて喜んだ。

出発前に英会話の勉強も始めたが、出張も多く余り進展はなく、あっと言う間に現地出張の時となった。出張の前に、本件や本体設備の受注を担当した東京の輸出部に挨拶に行ったが、東京の天皇と言われる輸出部部長(住重はあっちこっちに天皇と言われる男が居るのだ)は機嫌が悪かった。運搬機事業部が優秀な京大卒で、鉄工課の馬場君の代りに、名も知れぬ大学卒で、とても貧相そうな僕を、しかも仕事違いな男を選んだから不機嫌だと思えた。それどころか、今回の出張には営業部員は派遣できないと言う。自分で勝手にやれってことだった。先の話になるが、本件担当商社のバングラデッシ支店も、本件の担当には日本語の喋れない現地人社員だけを担当にして、しかも、建設現地には行かないとのことだった。その現地人は建設現地と日本との連絡業務を処理するだけの担当とのことだった。建設現場とダッカの商社とは無線だけの連絡とのことだが、無線も、現場とダッカとはまともにつながらなかった。日本に連絡する時は、ローマ字で書いた原稿をダッカの商社に送り、それを商社がダッカから日本にテレックス送信なんて手間の罹り、往復に最低10日以上掛かることになる。
どうやら営業関係の連中は、東京貿易部の天皇の意向を反映して、本件がどうなろうとお前の責任だとの意思表示を示しているようだった。営業だけでは無くて、新居浜の運搬事業部も、何の応援も無く、僕の所属するコンベヤ事業部も何のバックアップ体制もない状態での案件処理となった。
が、元々所属するコンベヤ部でも課長勢力からの助けなしと言うか、むしろ邪魔されながら、八戸の長距離コンベヤ関連は僕が独りで、その後の住金鹿島署結設備以降は大西君と二人での仕事を続けていたので特に気にはならなかった。

電気担当の指導員として新居浜製造所が選んだのはN君で、検査部の機械担当であった。電気設備の訓練を兼ねて選出したとのことで、英語が喋れるからとのことであった。電気工事の勉強を兼ねて派遣されてもなぁ、と思ったが、それが新居浜製造所の僕への対応であろうとあきらめた。英語が喋れるのは有難いとおもったが、その実力は僕と大差なく、現地で英国人指導員にくっついて英会話の練習をしていた。そうして僕は、チーフとしての立場で実務での英語会話勉強が心ならずも必要となった。

現地へは、僕,O君と、電気工事を勉強にとのN君、以上の3人で行くことになったのだが、持参する荷物は各人の私物を入れるスーツケースに加えて、段ボール20箱程度があった。その段ボールの内、僕が準備したのは設備図面や据付要領書の技術図書一式で5箱程度だったが、残りの殆どはO君のもので、殆んどが彼の私物であった。何が入ってるのか不明だが、彼は仕事よりも私用を優先するようで、先のことになるが、帰国時には誰に頼んだのか、大きな木箱を用意してその中に新居浜の上司たちへのお土産を山のように入れていた。仕事よりもそのようなことに頭がよく回るので、その仕事ぶりには注意しないとトラブルを招く恐れがある、と言うより、彼が行く所にはトラブルがつきものであった。実際、本件でも帰国時にはその木箱の中にエッチ本を隠していて、別送品倉庫に受取に行くと通関職員から責められた。いらざる行為でトラブルを起こすほど馬鹿げたことは無い。が、そもそも、このサイトでの滞在で、殆どの据付上の問題は、特に製缶品の寸法違いと、梱包ごとの構成を示す梱包リストと個別梱包品の内容不一致で生じていて、僕の従来からの経験では、プラントの成否は補給と製品の整理供給で決まるのだが、本件ではそれ以前の問題が混乱を起こし、その殆どはO君が新居浜で彼の職務をまじめに対応していれば生じなかった問題であった。
この経験から、その後、僕の担当したアメリカ案件では新居浜には任さない、と言うか、新居浜は大阪コンベヤ部の仕事をやりたがらず、その結果として、その頃、僕の部下であった松本清君を新居浜に派遣して、検査と梱包に立ち合わせたが、現地に納入してから製品o不具合や梱包不具合は一切発生せず据付は極めて順調だった。結局は仕事に携わる人が大切なのだ。が、上層部の人は概ね、最前線での実情を知らないから、上層部への気遣いの行き届くO君のような人材を好むのが会社での実情だ。しかも、本件では結局、成功裏に終わったのだが、運搬機の本拠、それに、我が課長や親衛隊には、その成功は不真面目なO君や、英語勉強がてらのN君の業績と評価されたようである。この案件の後で、親衛隊はトルコの案件を据付込みで受注し、その梱包や製品検査を不真面目な仕上師のO君に任せたようだが、風評では大赤字となったらしい。
ところで誤解が無いように書いておくと、新居浜の現場の若手の殆どは真面目で有能な連中が多い。彼等には、住金鹿島の焼結設備の据付では多いに助けてもらったし、楽しく仕事を出来た。実際に、本件でも、後の試運転時にはそんな連中を連れて行った。彼等は大いに助けてくれたし、一緒に働いて楽しかった。そもそも工業高校卒の彼等の多くは、家庭環境さえ良ければ一流大学に進学できたであろうほどに優秀で真面目で、彼等と一緒に働くとお互いに仲間意識が生まれるが、O君はその範疇では無かったのだ。なお本件では、その後の試運転時の再出向では、O君は仕上士なので試運転が本職にも拘わらず、恐らく彼が選んだと思われるが、トルコの案件に行ってしまい僕の現場には来なかった。それが、僕には幸いしたのだ。なおその後、トルコの案件では彼が浮き上がっているとの噂を聞いた。彼が原因かどうかは判らないが、その後トルコ案件は大赤字となったが、一緒に仕事をすると、彼の担当部分では問題が多発して、しかも問題が起こる時には彼はどこかに行ってしまって不在との、彼の行動や人間性は直ぐに判るのだ。

英語が話せず、海外旅行も初めてなんて僕が据付指導に行くなんて馬鹿げた状態だから、何をやるにも戸惑ってばかりであった。航空機はタイでのトランスファーで一泊してバングラデッシ航空でダッカに向かう。海外のホテルなんて初めてで英語も喋れず夕食・朝食の頼み方さえ判らない。
なんとかダッカに着くと入国審査である。大量の荷物の審査さえ心もとない。入国審査の長い列に並んでいると、少年が近づいてきて、スルーで行けるよと手まねで説明した。いくらかと聞くと、50ドルだと言う。これで行こうと決断してOKと言うと、荷物のある所に案内してどれが荷物だと聞き、指示すると台車に乗せて走り出し、途中で我々のパスポートにバンバンバンとハンコを押して走りだした。遅れまいと走ってついて行ったが、あっと言う間に気が付くと、なんともくさい臭いの空港の出口に立っていた。
話は先に飛ぶが、再出向の時には、英語も話せるようになっていたし、しかも、荷物を整理して少なく抑えていたから、少年の要請は無視して、まともに審査を受けたがあれこれ指摘されて結局は120ドルもかかった。しかも、特にO君が持ち込んだ大量の日本米には審査官が「我が国に米を持ち込むなんて・・・」と絶句していた。一緒に持ち込んだ大量の日本の本と共に持込は禁止となった。
それはともかく、最初の入国で安く済んだのはビギナーズラックってことだろう。

当時のダッカ空港は市内にあり、空港を一歩出ると、9月であるが陽光はぎらぎら輝き空は白みを帯びた青空で、とてもくさかった。それは何の臭いだろうか、貧乏臭とも言える、終戦後から中学校頃までの大阪市の臭いによく似ていた。そうだ大阪の昔の臭いだ、と思うと、それらの臭いも気にならなくなった。特に安煙草の臭いが強いのだ。
空港前には、住友商事の車とRAHMAN・KHANなる人物が待っていて、この人が以後の、現地と祖国の中継窓口となった。現場からダッカへは、全体管理のFosterWheel(FW)の無線連絡または手紙で、DACCAと祖国はテレックスでの連絡となる。無線電話を使う場合は、先ずは手紙でDACCAの住友商事に連絡してFWの無線部署に来てもらうのだ。RAHMAN/KHAN氏とは日本語は喋れず英語連絡だが、彼も英語のnativeではないのだ、なんとか僕の片言英語で通じた。車はそのままホテルに行き、翌日にはDACCAの鉄道駅に運んでくれた。
列車は早朝発車のFW指定列車があり、最後尾に特別列車が付けられていてそれに乗るのだが、鉄道駅には多くの難民のような人々が床に眠っていて、その間を踏みつけないようにホームへと進む。この辺りになるとさすがに怖気ついてしまった。

 列車は、ダッカ駅から200kmの単線を6時間もかかり、列車がAshuganji駅に着いて、大量の段ボール箱を下し、何人もの汚れまくった人足に持たせて、駅に待機したバスに運ばせて、チップの金額で暫くもめて、これらを殆ど僕一人で仕切った。部下である英語が堪能なはずの電気指導員見習いは、なぜか、かような汚れ仕事には口を出さない性格で、それに、仕上指導員は英語が全く出来ないので横で見ているだけだから、結局は僕が、段取りや交渉を、拙い英語で、人足共に怒鳴りまくるわけだ。情けない立場の現場責任者である。しかし考えてみると車内で後ろ盾の無い僕にはいつもの状態ではあった。
バスは巨大なメグナ河に突き出した突堤の上を、川岸に埋め立てられた広大な工場敷地に向かったのだが、着いた当時にはどこをどう走っているかは判らなかった。門からはジープが用意されプレハブの仮事務所のような所で降ろされ、まとめ会社、FosterWhillerとの最初の打ち合わせとなった。