丘の開発についての噂があちこちで広まっているらしい。信夫は会う人毎に尋ねられ、「僕は聞いてへん」と答えると、「ふーん、変やなあ」と尋ねた人は頭を傾げ、「市会議員の柳川に聞いた方がええで」と信夫が付け加えると苦笑いして納得する。それでその話題は終わりになる。金儲けに熱中し過ぎた柳川は、古い住人内での評判をすっかり落としてしまったのだ。しかし、評判が落ちるのとは反比例して金が貯まり、金目当ての取り巻きを従える柳川は市の一勢力になった。さらには、新しく流れこんだ市民相手に得意の見栄えと愛想の良さを多いに発揮して、票を集めて市会議員になった。 安原信夫は奈良の山奥生まれで、大阪の名も無い大学を出て、同様に名も無い三流の会社に就職した。効きもしない健康カプセル錠を売りに、町から町へと、家から家へと注文を取りに歩き回り、健康カプセルの効き目を大袈裟な口上でぺらぺらと喋りながら、これでは詐欺ではないか、いや詐欺そのものだと自己嫌悪に苛まれる日々に、たまたま丘の前を通り掛かり、売り家の看板が掛かっていることに気付いた。草ぼうぼうの敷地に踏み込んで家の外を見回っただけで帰ったが、どういうわけか、誇り高げだが寂しそうな家の佇まいが彼の頭にこびり付いて離れなくなってしまった。
それは二十年以上も前のことで、まだ道路が舗装もされていない時代の田圃に囲まれた家である。借金を勘定に入れれば買って買えないものではなかったので、次の日曜日に訪れると、不動産屋の柳川が居て、これが柳川との初めての出会いであった。
付合い始めの誰もが柳川の甘く優しそうな顔付と如才の無い言葉に乗ってしまうのだ。ばたばたっと契約を終わってから家の中を見たが、とても人が住める状態ではなかった。柳川が手に入れるまでは結核療養所として使われていたとのことで、見栄えが良いのは外側だけで内部は荒れ果てていた。慌てた信夫の抗議に柳川は見事なまでに『微笑む暖簾』へと変身して、何を言ってもただにこにこと笑い、言葉通り、暖簾に腕押しになってしまった。当時はまだ消費者保護の条令もない頃で、健康カプセルの販売でも法律の不備を充分に利用していたから柳川に分が有ることは痛いほどに判っていた。 ずっと昔に豪農の隠居が建てたらしいが、その後、療養所としてかなり酷使され、しかも柳川が手に入れてからは何の手入れもせずに鴨が現われるのを待っていたのだ。品物に手を掛けて無駄金を使わずとも、口先だけで騙せる自信が彼にはあったのだろう。思惑通りにネギをしょった信夫が現われて見事に騙されてしまったのだ。 日曜毎に訪れて家を見上げて茫然と佇み、どう手をつければ良いかと思い悩んでいるところに工務店を経営する和田が通り掛かり事情と買値を聞いてから、
「また、高い買物をしたなあ。まあしゃあない。こりゃ、ゆっくりと手入れした方がええ。金が無いなら自分でやれ、俺が教えてやる。そうすりゃ、金は材料費だけですむ」と言ってくれた。
言葉通り和田は大いに助言してくれ、信夫は一年程をかけて漸く住む所だけは修理した。二度目の彼岸の早朝に岩の傍に言葉も無く現われ去り行く和田の姿を見掛け、彼が一族であることを信夫は初めて知った。一族の中でも発言権のあることは後から人伝に聞いた。「この辺りはこれから開発が進む。いっそのこと旅館みたいにしたらどうか」との和田の助言で住む部屋以外は簡易宿泊所のように改造したが、その頃から周辺は開発ブームになった。これ幸いとインチキ会社を辞めた。
一種独特の精神力と金に対する異常な執着なしに人を騙す仕事は続けられない。双方共に備わらない信夫には日々が苦痛でたまらなかった。これがまっとうな仕事に戻る最後のチャンスだと必死の思いで旅館業に専念し闇雲に働いた。
貯まった金の匂いを嗅ぎ取ったのか、柳川が再び訪れ、裏の丘を安く譲ると言ってきた。開発で値上がりした周辺の地価に較べて百分の一ぐらいの値段で持ち掛けた。前の甘言にも懲りず信夫は欲に眼が眩んですぐに手を打ってしまった。
手に入れてから和田に自慢をすると、和田は遠慮がちに、
「うーん。あの丘はなあ・・遺蹟だらけやから、開発するのは大変なんや。大阪府の遺蹟保存局の了解を得て・・これも中々許可は出えへんのやが・・それから、発掘調査し終えてからやないと開発でけへん。発掘調査は全部自前でやらないかん」と言い、がっくりした信夫の顔を見てから、
「まあ、俺等は、あの丘を君が所有してくれる方が、柳川の手にあるよりなんぼか安心や。歓迎や」と慰めた。そうして、当時初めて市議会への送り込みに成功した一族の議員を動かして、丘を市の保全林とするように画策し、少なくとも、固定資産税は市が負担することになった。
その頃までは、政治は堕落と怠惰そのものだとの意見が一族の見解であり、ボランティア活動こそが重要だとしていた。しかし、市の人口増に連れて彼らの活動への障害が目立ち始め、政治を必要悪と認めてその上で手を打つべきだとの意見が一族の若手から沸き起こった。嫌がる一族の一人を説得して選挙に出し、一族の総力を挙げて市議会に送り込んだ。その市議会議員の最初の仕事が、丘を保全林に指定することであり、彼等に取っては記念すべき活動の成果となった。市議会への食い込みとか、保全林への指定を裏で操ったのが和田であり、この成功で彼は一族の指導者として認められたと信夫は聞いている。
その時の和田のどことなく嬉しそうな協力からすると、丘を買う前に忠告しなかったことさえ彼等の画策の一つとも信夫には思えた。岩の一族、つまりは和田の謀略を感じた出来事で、柳川が丘を手放すように画策し、しかも、信夫の手に入るようにと企んだと疑っている。彼等が企めばその全てを成就させるぐらいは簡単に出来るだけの力があるのだ。その出来事が一族内での和田の存在価値を一気に高めたことをも考え合わせ、更に考えを推し進めてゆくと、柳川よりは和田の方が遥かに狡賢いことになるが、あまり一つの方向に考えすぎると、大体において考えは恐ろしい所に行き着くようである。だから、心はもっと身近に留めておいて、和田の行為の結果だけを見るようにと信夫は努めている。そうすれば、和田がいかに得難い友人であるかがよく判るのだ。
だが信夫の心には常に一抹の疑惑が常にあり、その疑いをこれっぽっちも感じないで世話をしてくれる和田と話していると、いつも、己れの疑い深く執念深い性格が信夫には嫌になるが、もう一つの疑問は、彼等一族が丘と家とを所有しないことである。彼等の力をもってすれば、柳川とか信夫のようなややこしい仲介なしに丘を所有して、好きな時に岩に挨拶すれば良い。他人の安眠妨害を気にすることもない。それなのに、なぜわざわざ信夫に丘を持たせて、彼岸の早朝にその敷地に集まる必要があるのだろうか。
信夫の人生経験から言えば、『率直な質問で正しい答えが得られることはない。人はその時々で都合の良い解釈を述べる』だから、むしろじっと真実の現われるのを待つほうが良くて、下手に尋ねると、真実が警戒しだして現われるのが遅れるだろうと、敢えて尋ねないことにしている。ただ、一族の真実が金に関わらないことだけはほぼ確実のようで、金に関わる柳川の企みがすぐ馬脚を現すのとは異なり、一族の真実はなかなか姿を現さない。しかも、一族の忍耐強さは予想を遥かに凌ぐもので真実はなかなか姿を見せず、山奥育ちで持久力には自信のある信夫も、そろそろ待ち疲れを感じるようになっている。
一族の協力は有り難く受け取るとして、信夫は彼なりに将来のことを考え、遺蹟調査を自分でやろうと企てた。ぼちぼちと裏庭に穴を掘始めたが、次々と土器やら農具やらが出て、それらを地層の上から順番に丁寧に掘出している。掘っても掘っても土器は出てきて、とうとう縄文時代までに到達した。二十坪程を掘始めて、ずっとそこを掘続けている。これから先は、どこまで行くのかと、ゆっくり考えると恐ろしいほどの状況になっている。たまたま遺蹟の多い所とも考えられるが、一万坪以上はある丘全域の遺蹟調査などはとても出来ないと、とっくの昔に彼は諦めている。
だが今では、土器を掘り土器の時代に思いを馳せることが喜びになっていて、丘の遺蹟の存在自体が人生の重要な一部分だとさえ思い詰めている。
二十年の歳月を経てから振り返り柳川の行為・・それとも、和田の策略なのか・・の結果だけを見直せば、信夫に取っては全てが巧く行っている。騙して買わされたものは、歳月と共に、少なくとも彼自身には遥かに価値を増している。だが、柳川のやり口を許せないし、柳川もまたその怒りを知っている。だから、再び儲けるチャンスが訪れたが、さすがの柳川も今度ばかりは陰からこっそりと策謀し、けっして姿を見せないのだ。
ただ、今度のことでは面白い点もある。丘と家を信夫に持たせることでは柳川と和田の利害が同じで、どちらが真犯人とも確定できなかったが、今度ばかりは二人の目的は全く逆になっている。ことが進むうちに和田の本心と一族の目的が解けるやもしれぬと、その結果が現われことに奇妙な恐れも感じるが、興味の方が遥かにそれを上回っている。
一ヵ月ほど大学に通ったエリサは、「机での勉強はアメリカで充分にやってきた。もっと実際の仕事を勉強したい」と言いだした。宿泊人の仕事の相談にのるのはいつものことで、宿泊代金を確実に得るためには大切なことだ。しかしそれほど面倒なことではない。毎度、和田に頼むだけのことで、霞ビジネスホテルの宿泊人は勤勉で正直だとの評判が出来ているから、和田も仕事の紹介には苦労しないとのことである。
いつものように和田の世話で橿原神宮の宮大工と奈良の日本庭園の造園師を紹介してもらい、どちらか一方を選ぶとばかりに信夫が考えていたら、エリサは双方に弟子入りして体が二つ欲しいと喚きながら仕事をこなしている。朝早くから出掛け、夜遅くに帰ってくる。それが毎日のことで土曜は勿論のこと、時には日曜にも働いている。おそるべき精神力と体力である。米国との戦争に敗れたのも当然かもしれんと信夫は舌を巻いている。
忙しさにも拘らず、エリサは世話になった和田を食事にでも招待したいと言いだした。「まあまあの所に行くだけで一人壱万円は掛かるぞ」と信夫が答えると、
「うーん、小父さんも入れてと・・・・三人で三百ドルか」と唸った。
親の援助は一切無しに、母国でのアルバイトで貯めた金で生活しているから、三百ドルは大金なのだ。宮大工と造園師からも給料を貰っているが、せいぜい交通費と切り詰めた食費程度だ。
ここをどう切り抜けるかと黙って見ていたら、「バーベキューをやったらどうやろか」と提案してきた。
「裏の川原でやったらどうやろか?、道具は作れる自信がある。ついでに、宿泊人全員を招待すれば、なんぼかかるやろか?」と、エリサは河内弁と奈良弁の入り交じった日本語で提案した。エリサの日本語の上達は著しく、二ヵ月間で河内弁と奈良弁を自由に操るようになっている。
バーベキューのアイデアを聞き、アメリカ人でも女はさすがやと信夫は感心した。野菜は裏の畑のを使えば良いし、納屋には丘の倒木を切った木切れと、木切れを有効利用しようと信夫が趣味で焼いた炭も有り余っている。肉さえ手に入れば全てがハッピーとなる。 和田の知り合いの肉屋と交渉すると、オーストラリヤ産の骨付きの牛肉ならキロ五百円でいいと言う。缶ビールも一族の酒屋では二割は引いてくれる。これならたらふく食べて飲んでも壱万円で釣りがくると、早速、信夫とエリサはバーベキューパーティの準備に取り掛かった。
岩の一族と彼等に近しい連中はあらゆる職種にわたり、しかも信夫に対しては信じられないくらいに親切で便宜を計ってくれる。彼が住み着いてからずっとのことで、なにか裏心がと疑心暗鬼になる時もあるが、そんな兆候もなく、親切は有り難く受け取ることにしているが、残念なことには親切を積極的に利用できない事情にある。あまり贅沢しないし酒も殆ど飲まないからで、なぜかと言えば誠に簡単なことで、金を持っていない事が唯一の理由である。宿が繁盛した時に儲けた金の殆どは丘に注ぎ込み柳川を潤しただけで、僅かに残った分は老後の足しにと貯金している。今はただ七人の宿泊料だけが生活費だから贅沢が出来る筈もなく、一族の好意も残念なことには宝の持ち腐れとなっている。
それはともかく、五月中頃の土曜日を選んでパーティを開くことになった。
谷川が池に入る手前の川原に、石を集めて竈を作り大きな串焼き台と鉄製の即席フライパンを設けた。共にエリサが溶接と板金作業で作った苦心の作である。
日の沈む前から集まり、牛肉塊の焼き具合はエリサに任せ、炭や薪の準備や、野菜を焼くのと焼串を回すのを皆で分担した。フィリッピン人夫婦と、バングラデッシ人の若者四人のオール宿泊人が参加している。若者二人は和田工務店で働いているし、その他の者も就職は和田の紹介である。つまり全員が世話になっていて彼とは親しいから遠慮もない気楽な集まりになっている。
缶ビールを手に横に座る和田が、「この谷間だけが、この丘陵で残ったなあ」と感無量の顔付で谷間の方向を顎で示した。
黙ったまま信夫は視線を移し水量の増えた谷川を眺めた。いつものこの時期であれば、水は哀れなほどに細々と息をついている筈で、しかも今年は気温は高く雨も降っていない。悪条件にも拘らず水量だけは増え続けている谷川に、何かが異常なのではと考えながら視線を戻した。
和田のハンサムではないが歳と共に落ち着きと深みをました顔を見詰めた。和田の眼には侮りがたい強固な意志が現われている。彼と話をする度に、生きるすべと目標を捉まえていることを信夫は羨ましく思ってしまう。
信夫は弱々しく、「それだけが人生の成果や」と答えた。
平野が灰色で覆われつつある頃、谷川をコンクリート用水路にする計画が生まれた。と同時に、丘に農薬を撒く計画もあり、この二つの計画に徹底的に坑戦したことだけが信夫が人の意志に逆らい彼の意志を貫き通した極めて稀な経験になっている。
谷間をコンクリートで覆うことでは、意図するところが判らないと反対したが、市役所員やら土建業者それに市の有力者が次々に訪れ、有志とかの手紙が舞い込み、説得や脅迫を繰り返した。どたばたの最中に市は谷間に農薬やら除草剤を散布しようとした。
谷川に沿って田圃と畑の跡地が残っていて、信夫は一部を掘り返して米や野菜を育てている。丘の方々には枯れることのない水源があり谷間を経てから田畑を潤す。だから散布する薬の全てが田畑に流れ込み、育った収穫物を彼が食べることになる。そのことを言っても役人は、「人畜無害の薬やから全く心配することはない」と慇懃無礼に、にっこりと笑って答えたが、「そうか、人畜無害やったら、僕の前でコップいっぱいに入れて飲んでくれ」と言い返した途端に、役人の顔が引き吊り、そのまま信夫を無視して薬を撒こうとした。信夫は肥たごを持ってゆき良く熟成した中身をぶっかけて止めさせた。おおごとになり、またまた市の有力者や市役所員が走り回り、有志の手紙が舞い込み、頑固者で協調性がないと非難した。そんなに頑固で人のことを考えない性格かとノイローゼ一歩手前で和田に相談したら、
「俺はお前に賛成や」との声援で、これを頼りに頑張り通したが、その時は心身共に消耗した。役所という所はつるつるの陶器のようなもので、爪を立てようにも手掛かりがない。僅かに動かそうとするだけでも、それはそれは大仕事なのである。
和田は缶ビールに視線を注いだまま、「ふふっ」と笑い、胸を張って信夫を見つめ「立派な成果やないか、鳥や昆虫が多いに喜んでいるし、もうすぐ蛍も乱舞するやないか。いろんな命を救ったことになる。それに較べて・・俺は何もやってへん。年がら年中、家を建ててるだけや」と言った。
黙ったまま『そうやろか?』と信夫は思った。きれいで上品で働き者の奥さんと真面目な息子に娘を持ち、人を思いやり励ます性格と毅然として日々を送る気力、先を見越して革新的な手を打つ能力と、どの一つも信夫には無い力と成果の現われではないかと思えた。 流れに身を任すままに生きてきた男と、誰からも頼られ、しかも自分の道を切り開いてきた和田の人生の成果にはどこかで、それだけの違いが生まれている筈だと思う。
焼けた肉と野菜が配られ、全員が川原に腰掛けて食事をしながらの団欒が始まった。肉や野菜の味とか料理方法についての、英語と大阪弁の入り混じった奇妙な一論議が終わると、話題は政治やら美術へと、とりとめ無く続いた。フィリッピン人は故国では大学の文学教授であったし、バングラデッシ人も大学や単科大学を出た教養溢れる連中ばかりだから話しはかなり高度なものになる。しかも駅弁大学出身の信夫に較べ和田は浪華大学の経済学部出身で世界情勢やらに関心も高く、話題には世界経済や政治の動向も入ってくる。下宿人達も歓迎する話題であり、聞いているばかりとはいえ信夫にもなかなか興味深いものである。いつものことながら教養溢れるビジネスホテルだと誇りを感じた。
信夫よりは三つ上の四十六歳の和田には、一流会社の部長やら、中には役員になっている友人が多いと聞いている。なにを好き好んで大工の道を選んだのかと尋ねたときには、「運命やなあ」と答えていたが別にそのことを悔やむ様子ではなかった。
家並みの上に傾いた西陽を受けて、木や草は深い青みを帯びた緑に輝いている。生きることの喜びと哀しさと、希望と後悔を最も問われるひとときで、余り好きな時間ではない。
「俺の親戚の杏子が、ここの前の道で丘の開発を求める署名を頼まれて、かーっとなって、はしたない怒鳴り声をあげたと言うてたで」と和田が笑いながら話した。
「杏子?」
「えっ、そうか、杏子を知らんのか。高校からは大阪市内に移って、浪華外大に行って、それからずっとオーストラリヤで働いていたんやが、つい最近、いや、もう半年にはなるかな? 帰ってるのや。俺の母方の親戚で楠木杏子というのや」
エリサが現われた日の出来事と女達のことを思い出し、
「いつも、自転車で僕の家の前、通っている、感じのええ奥さんか?」
「奥さんやない。杏子は独身やが・・・多分、そうやろう。自転車で通ってるからなあ・・・うーん、確かに見た感じはええがなあ、見掛けに騙されたらあかんで。もともとお転婆やったのに加えて、オーストラリヤで、しかもずっと一人で生活してた奴や。まあ、エリサとええ勝負やろうなあ。そうそう、そう言えばエリサとはもう友達になって時々買物は一緒に行くと言うとったで」
「へえー」と答えながら、エリサの人付き合いの良さに感心し、次いで一族が外国にまで進出していることに驚いた。
「彼女も一族なんやろ?」と問うと和田は少し考え、話しても良かろうと思ったようだ。
「ここから離れれば自動的に抜けたことになるんや。戻ってきて、また一族に還ったということや」
「一族は抜けたり、戻ったり出来るんか?」
「そらそうや、やくざやあるまいし」と和田は苦笑した。
「へー、・・・それやったら、僕も一族に入れるんか」
「それは、話が別や」
「そしたら、例えば僕がその杏子さんと結婚したとすれば、一族に入れるのか」
「ひえー、杏子が好きなんか」と和田は眼を剥いた。
「阿呆言うな。まだ話ししたこともないんや。例えばと言うことや」「それはやなあ、実際にそうなってみな判らんなあ」
一族の掟については、ほぼ答えは期待できないと信夫は別の方向から攻めることにした。
「その杏子さんは、なんでまた、日本に帰ってきてこんな所で暮らしているのや」
和田は一瞬答えを捜す顔付になり「さあ、俺も判らん」と答えた。ははあー理由は知っているが話せないらしいと信夫は推察した。 和田や彼の一族の話しの端々から察するに、最近方々に散っていた一族が次々と帰っているらしい。単なる帰郷にしては期間が長すぎるし、ここは過疎地でもないから、はやりのリターン現象とも考えられない。彼等と付き合いだしてからは初めての現象である。
杏子の帰国の目的は一族に戻ることであり、一族にはなんらかの出来事が起こりつつあると信夫は確信した。
なんとなく話題を杏子のことに戻せなくて信夫はじっと地面を見詰めた。ふと和田にとって人生はどんなものかとの疑問が浮かんだ。 エリサが肉と野菜を盛った皿を二つ持ってきて二人に手渡し、和田と話し始めた。エリサの夕陽に映え燃えるように輝く黄金色の髪は秋に実る稲田を思わせ、額から頬に続く柔らかで見事な曲線と薄く高い鼻梁は血の通う大理石かと見えた。膚を微かに覆う金色の産毛が夕風に揺れている。信夫はうっとりと見惚れてしまった。
話し終えたエリサは信夫に視線を向けてにこっと笑い、ウインクを投げて離れていった。
「和田さん。あんたにとって人生とはなんやねん」と尋ねた信夫は質問の青臭さに我ながら恥ずかしくなってしまった。めったに飲まないアルコールのせいで余計なことを口走り始めたようだ。明日になれば、今日の言葉を反芻しては自己嫌悪に陥ることだろうと信夫は考えた。和田はびっくりしたような顔をして、
「あっは、突然なんやねん。また難しい質問やなあ」と戸惑いを見せたが、すぐに真剣な顔付になり信夫の顔を窺った。飲酒翌日には信夫が自己嫌悪に陥り易いことを知っているのだ。
「そんな質問は長い付き合いのなかで初めての事やなあ。こりゃ、真剣に答えなあかんなあ」と呟き、なぜか家の裏の大岩を仰ぎいとおしむように眺めた。戻した視線には奇妙な安らぎがあった。全てを厳しい眼で観察し理性で行動する和田も、岩を見るときだけは人柄が変わる。その事が非常に重要なポイントだと信夫は考えた。
「そうやなあ・・一言で言うのは難しいけど・・・結局やなあ、多くの人と触れ合って・・いろんな事を語り合うことやないかなあ」と言い、またまた岩を見上げて満足そうな笑みを浮かべた。大岩と彼の人生の深く重要な関わりがいよいよ明らかになってきた。
じっと考えたが和田の言葉を実感出来ず、「判らんなあ」と信夫は呟いた。
「いや、君には判る筈や。それやなかったら、この家を買う筈がない」とまたまた理解できないことを言い、因惑する信夫の顔を見て言葉を続けた。
「それに・・その辺りはエリサの生活を見たら理解できるやないか」と、相変わらず和田はきっちりと人をみていると信夫は感じた。「エリサの場合は、単に好奇心が旺盛なんやないか?」
「いや、仕事も趣味も、それは手段や。目的を達成するための手段に過ぎん筈や。手段と目的を混同することで人生のいろんな不幸が起こるのや」
これではまるで禅問答である。話をもっと具体化する必要があると信夫は考えた。
「エリサは目的を掴んで行動しているのやろか」
「聞いたことはないから判らんけど。エリサにはなんと言うか・・・そうやなあ、強いて言えば感性があるから、ちゃんとした自覚はなくてもそのように行動してると思うなあ」と和田は笑って答えた。「と言うことは僕には感性が無いと言うことかなあ」と信夫が不服そうに尋ねると、
「いや、人にはいろんなタイプが有る。・・感性と言う表現は正確やないから誤解したらあかんけど、感性はある時突然に開花したり、それともゆっくりと育つ場合もある。殆どはその人の心がけ次第や。エリナや君には、羨ましいことやけど・・生れ付きの感性がある。せやから君はこの家に選ばれたんや。代われるものなら代わってやりたい位や」
と朗らかに言う声には、気のせいか寂しそうな響きが含まれていた。「僕が家を選んだのやなくて・・・家が僕を選んだのか」と信夫が呟くと、
「そら、そうやろ。これだけの家や、それだけの権利はあるのと違うか」と言う和田の言葉を、てっきり冗談だと信夫は笑いかけたのだが、和田の真剣でしかも悲しそうな顔付に気付いた。どうやら、禅問答のように続いている言葉は、和田が心から信じていることらしいと驚き、笑いを引っ込めた。わざと難しく話しているのではなくて、そのようにしか表現できないことのようだ。
じっと和田の横顔を見詰めていると、バングラデッシ人の青年が近寄り和田に話し掛け始めた。かなり個人的な相談のようなので信夫はその場を離れた。
柿の色そのままになった西の空を眺めてからエリサの所に近付いた。こうなればなんとしても和田の言うところを理解する必要があると思えたのだ。
空を眺めているエリサの横に座り横顔を見ながら、エリサに取り人生の目的とは何かと英語で尋ねた。奇妙なことに英語ではこの質問もきざには聞こえない。
微風になびく金髪をゆっくりと手で払いながら、にっこりとエリサは笑い、
「ほんまに・・あんな夕焼けを見ていると、そんな質問が沸いてくるなあ。・・でも、そら簡単なことや。ここに居るみんなと友人になれたことや、宮大工や造園師と付き合えることが目的や・・ほんまに素晴らしいことや」と河内弁で答え、さらに声を大にして、
「それに、この家のような建物に出会うことやねえ!」と大きな陰となった家の方を指差した。いよいよ判らんなあと信夫は思い家を眺めていると、
「ねえ、小父さんは、初めてこの家を見たときに、“俺は家やぞー”って家が言ったから買ったんやない?」
「うーん」と唸った。エリサも家をただの物としては見ていないのだ。
「“ぼろぼろになったぞー直してくれー”っと言ったから修理したんと違う?」
そう言われれば、ずぼらで新しい事態を恐れる信夫が、家を買ったり思い浮かぶままに修理したのには、何かがあったような気持ちがする。慎重な信夫がこの家や土地を買った時の、軽はずみと言うか、異常な行動は今もなお不思議に思える。
「そんな風に、心に訴える事物を共に語りあったり、出来れば、・・人に強く訴えるものを自分でクリエートして、それを眼の前に、共に語り合うことが人生の目的と思うわ」と緑色に染まった眼を夕焼けに向けてうっとりとしながら言った。
いよいよ判らんなあ。そもそも和田やエリサと個別に聞いても、なんやら同じような答えが返ってくること自体が不可思議やと信夫は考えて、二人の話しをじっくり考えようと大岩に昇ることにした。 霞岩に登るには後方の丘に登り、そこから階段状になった岩肌を伝ってゆく。頂上には十坪程の平たい所があり家側には垂直の崖になっている。信夫は崖の上に足を突き出して座り込んだ。
暮れる町を一望した。昼間のけばけばしさは消え去り、全てが青みがかった水墨画に見えた。
十年前の今頃は碁盤の目のような畦と灰色の水面に稲の苗の霞のような緑が延々と連なっていた。岩から眺める緑は時と共に濃くなり水面を隠し、秋ともなれば金色の稲穂が視野の全てを覆っていた。ただ岩だけは季節のうつろいとは関係なく、組成のせいか振り注ぐ陽光の全てを吸い取り、いつも黒々と切り立っていた。灰色の碁盤から、緑、金色、灰色と、季節に連れて色彩を変える絨毯のような平野のただ中で、ただ岩だけは黒い塊のままで立ち尽くしていた。 その頃は日々の二、三時間を信夫もここで茫然と過ごしたものだが、開発が進み田畑が切り崩されるさまに耐えられず、しかも働く人々に宿を提供し間接的にその破壊に手を貸しているとの呵責から、徐々にこの場所から離れて行った。
久しぶりに見る陽の沈むさまに心が融けてゆく思いを信夫は感じた。冷え行く大気にもかかわらず手のひらに触れる岩には暖かい感触を感じた。この岩はいかなる時にも人の体温のような暖かみを持っている。いかなる大雪の日にも雪に埋もれることはなく酷暑の日にはほど良い冷たさで横たわっている。丘の鳥や小動物は、暇があれば岩にあつまり体を休める。人もまた岩に座れば緩やかな喜びを感じ傷ついた心を癒すことが出来る。
全てを忘れ、ひたすら座るだけの時間を過ごしてから降りてゆくと、下には和田が佇み身動きもせずに見上げていた。
「どうやら、俺達の存在理由が判るのももう直ぐらしいなあ・・霞・・山吹か、うまいこと名付けよったなあ」としみじみと和田は呟いた。その声には岩に登る前に感じた悲しい響きは微塵もなく、いつも以上に幸せに満ちた穏やかなもので、しかも、ほっとしたような雰囲気があった。
信夫が急いで振り仰ぐと、すでに空は深い紺色に塗り潰されていて、岩全面に山吹の花程の微かな輝きが散らばっている。色は、エリサの髪の輝きよりも淡く静かな輝きで霞のようなその輝きは徐々に青みを帯び、ついには黒々とした陰に変わって行った。岩の名の謂れが漸く判ったものの、今だかって岩が色付く様子を見た記憶がなく、初めて見る岩の輝きが心に焼き付き、和田の横に立ち尽くし岩を見続けた。
和田の言葉からすると、彼もまた、碑に示される黒岩の名前の由来を今初めて知ったようだ。かって見ることのなかった岩の輝きに加えて、その新しい事実が信夫をいよいよ混乱へと導いた。
信夫には彼の周囲が派手に動き始めているように思えている。柳川の企てる傀儡市民運動はいよいよ盛り上がり、対する一族の動きも活発である。とくに和田はあの夕方以来なぜか精力的に動き始めた。今のところはいろいろと情報を仕入れることが主となっているが、先を読んだ手も打ち始めているようだ。楠木杏子に続く一族の帰郷が相次いでいて一族の醸し出す雰囲気は今までになく緊迫したものとなっている。
直接的な関わりはないものの、これら一連の出来事とエリサの存在とが無関係とは信夫には思えない。むしろ彼女の存在を核として全てが活発に動いているとさえ思えるのだ。周囲の人々を活性化させる香りのようなものがエリサから放たれているのだろう。
それだけではなくて彼女自身も次々と新しい出来事やら人間関係を引摺ってくる。河内弁が達者になったエリサは誰彼なく友人にしてしまい、その中でも彼女が特に気に入っているのは和田の友人でもある大工の仲間と林の中をうろつく人間達だ。
大工達は職人気質で偏屈なところもあるが少々世間とずれている点では信夫と同様で、それに較べると丘にたむろする連中はちょっとどころではなく変わっている。年寄りから若いのまでが入り交じりその正体が信夫にはどうにも掴めないのだ。
去年の十二月初旬に裏の畑に堆肥を入れていると、音も無く近付いた男が声を掛け、仕事熱中型の信夫は鍬を持ったまま飛び上がってしまった。背がひょろひょろと高く白髪の爺さんで、上品な雰囲気だがなんとなく浮世離れした雰囲気を感じた。
「丘の林に鳥の巣箱を取り付けたい、それに、鳥の好む実を着ける木を植えたい」と聞取れない声でぼそぼそと言い、信夫が突然の申し出に茫然としていると、はにかむような顔付きになり、「勿論、今ある木を抜いたりはしない」と付け加えた。そのようすで信夫は警戒を解いた。長い旅館経営から身についた直感である。
「丘は市の保全林になっているから市の許可さえ出れば問題ない」と答えると、「それは助かります」と、ぼそぼそっと言いそのまま猫背の背を向けて丘の陰に戻って行った。 それからは何の連絡も無く、少しは気になった信夫が丘や丘の向こうの公園まで様子を見に行くと、言葉通り木には数多くの巣箱が取り付けられていて、方々に南天やグミとかが植えられていた。その数は日に日に増えていった。はたして市の許可を取ったのだろうかとも疑ったが別に口出しすることでもないと放っておいた。
鳥を見て回るのか数人が日曜毎に林の中を音もなくうろつき、ときには黙々と木を植え巣箱を取り付けている。信夫に気付くと黙ったまま軽く頭を下げる。まるで幽霊のような連中である。その頃から丘に住む鳥がどんどんと増えてゆき、昼間には鳥の囀りと葉陰を飛ぶ羽音がうるさいほどになっている。鳥が増えるに連れて木々もまた輝きを取り戻し、丘と林は徐々に様相を変え命に溢れだしている。
好奇心の塊と自称するエリサはそのことを知ると早速何をしているかと見物に行き、その日から連中と付き合い始めた。エリサの参加を得て彼等の行動は加速度を付けた。やはりエリサは人々を活発にするホルモンを放っているに違いない。
エリサによれば、彼等は鳥の楽園をこの丘に造り上げると頑張っているらしい。白髪の爺さんがリーダーで、高校生の男女が数人と中年の女性や公園の庭師が一緒に働いているとかで、てんでばらばらな組合せらしい。
それからは休日毎に、ジーパンや鳶服を着たなんともまとまりのない連中と一緒に、珍しい鳥の後を追い、林の中を右往左往するエリサの姿をよく見掛けるようになった。エリサに連れられ家の辺りに現われることもしばしばだが、言葉少なく陰のような連中のなかでエリサと女子高校生だけがころころと小鳥のように囀っている。彼等はまるで木々や小鳥や昆虫かのように丘の一部分となり存在している。
エリサから聞いた名前や風体を和田に告げたが、既に和田は知っていた。この頃は特に、丘に関する少しの動きにも神経質なほどに注意を怠らないようだ。
「白髪の老人は丘の北側の住宅地に住む赤木さんで、彼は元大学教授で今は退官して、言葉通り鳥の楽園造りを道楽にしている。どちらかと言えば浮世離れしていて、むしろ連中の中心としては高校生の土井砂恵子というのが居る。土井砂恵子は丘の東に住む旧家の娘で身元は確かだ。同じ高校の男子も加わっている。公園を手入れする鳶職の連中もいるが、彼等も信用の置ける連中だ」と信夫に教えた。
その言葉を疑ったわけではないが、鳶職が加わっていることに奇異な感じがして、どんな連中かと信夫は丘を越えて北斜面にある公園まで行ってみた。
公園の階段の所でエリサを含めて数人が歩道のブロック貼りをやっていた。通り過ぎる振りをして窺ってみると、鳶服を着た男が三人いて、そのうちの一人がまとめ役らしく、体も声も大きい五十前後の男で、大声でみんなに指図して、その声に愉快そうな返事が挙がった。彼等は心からブロック貼りを楽しんでいるらしい。鳥の楽園造りとブロック貼りとの間にいかなる関係があるのだろうかと信夫は考えた。
信夫も年中作業着を愛用しているから鳶服には不安を感じることもないが、まとめ役のおっさんの顔には切傷があちこちに付いていた。心配になり和田に電話で尋ねると、
「ああ、それは熊木さんや。通称、“熊さん”というて、ずっと昔にはこの辺りではかなり鳴らした男や。その頃に高校生の息子を病気で無くして、しかも死に目に会えなんで、それからはきっちりと足を洗ったらしい。今は富田林に住んでいるから君とは面識は無い。あのグループに加わったのは、亡くなった息子に似た高校生がいるかららしい。今は公園の修理を請負っているが、とにかく熊さんは心配の無い男や」と即座に答えた。
元やくざと大学教授と、中年の主婦と、男女高校生、それに今ではエリサまでも加わり日曜毎に林をうろつき、それに多分、時には熊さんの手伝いもしているのだ。どうやら楠木杏子も加わっているらしい。杏子もまたエリサのような生気を放っているのだろうか。 夕方になると連中はそろって裏の岩に登り頂上に仲良く並んで座り、そのままじっと遠くを眺めている。その姿を見掛ける度によく岩に登ったころを信夫は思い出した。
輝く岩を目撃してからはときどき眺めるようにしているが、岩はずっと黒いままである。そんなある日の夕方に再び金色に輝く姿を信夫は見掛けることになった。畑で野菜を取り家に戻る通りすがりに何気なく見上げると、夕陽を浴びて金色に映える岩が目に入った。 その瞬間には別に気にすることもなく、そのまま家に入り掛けたが、はっと気付いた信夫は表に飛び出した。岩は薄い金色の幕に覆われ、まるで金色の霧が掛かっているかのように見えた。以前の輝きよりも冴えた姿であった。見続けているうちに陽が沈んだが、輝きは微かに残り続けた。やはり岩の輝きは陽光のせいだけではないらしい。徐々に輝きは薄れてゆき、次いで岩から下りてくるエリサと公園の仲間たちの声が聞こえてきた。
和田の調べでは“美陵市近代化の集い”と名付けられた市民運動が着々と進行しているらしい。柳川の指揮で事は運んでいるらしく、彼はゼネコンを巻き込んで丘周辺を開発し、そのどさくさに紛れて金を得ようとしているらしい。さすがの一族も柳川の具体的な計画とか、どんなからくりかまでは十分には掴んでいない。とにかく、柳川は表面には一切出ないで後方からコントロールしているようで、彼の動きは一族の市会議員から逐一和田に連絡されている。柳川一派は市会だけではなくて府会議員や国会議員をも動かそうと懸命に運動しているらしい。
一族の多い丘の南、西の住民を巻き込むことは諦め、市民運動は市の東側と北側それも丘からは離れた新興住宅地で組織化している。運動に乗る住民の殆どは単に付き合いで、積極的に行動するのは柳川の子飼い連中や最近この辺りに移ってきた連中だけとのことらしい。見栄えがよくて口当たりの良い柳川には誰もが最初は騙されるが暫らく付き合えば本性が判り、まともな連中は彼から離れてゆく。付き合いが続くのは甘い汁を期待する連中ばかりである。
だが、と和田は言う。そんな金を目当てとする集団ほど危険だ。目的が単純で明確なだけにまとまりが良く、それに手段を選ばないから一番恐ろしい。充分に気を付けるようにと忠告した。欲しくなったものを手に入れるまでは満足できない、幼児的な性癖がそのまま大人になったタイプの典型が柳川で、政治家にはしばしば見受けられる性格だとも言う。まともな人間であれば責任の重い政治家になるのをためらうが、柳川タイプの人間は元々自分のことしか頭にないから何の責任感もなく政治家になれるのだ。強烈な欲望と精神力だけで行動するから最も恐ろしいタイプだと付け加えた。
「ただなあ、そんな性格が生れ付きか、それとも幼児体験から産み出されるのかが判らんなあ。もし子供のときの体験からとすれば、欲しい物を際限無く与えられるとか、若しくは全く逆に欲しい物を全く拒絶されたときに醸成されるのかなあ」と空を仰いで考えている。その辺りまで真剣に考えるところが和田らしいと信夫は思った。「せやけど、僕も子供の時の貧乏では、誰にも負けへんで。欲しいも何も、とにかく買ってもらったものは何も無い」と反論すると、和田はにっこりと笑い、
「しかし、両親は君のことを愛してたんやないか」と尋ねた。その読みの正確なことに信夫は思わず眼をまばたいた。と同時に、奈良の奥の貧しい谷間での生活が蘇った。
大学を出た頃に父母共に日頃の重労働がたたって死んでしまった。そうでなくても貧しい両親は信夫の学資を少しでも送ろうと頑張りすぎたのだ。そうして恩返しをする時間も与えずにこの世から消えてしまった。彼等の墓は廃村の朽ちた家の陰に並んでいる。残されたその僅かの土地だけは手放す気はなく、信夫もいずれは彼等と並んで眠ることにしている。和田のいう通り、両親は信夫を愛し続けてくれた。残念ながら期待に答えるだけの才能が無かったのだが、これだけはどうしようもないことだと信夫は考えている。
梅雨の到来を予感させる六月初旬の朝、どたばた続きで途絶えた土器掘りを再開した。大気は僅かに湿気を帯び空には微かに霞が掛かっている。昨日の雨で大地は適度に潤い、木々の緑は湿気を満喫した後の気怠さを思わせた。強い日差しを約束する朝である。
縄文式土器の製作者は地下二メータの所で突然変わっている。土器はほぼ完全な姿のまま数メータ四方にわたり口を接するようにきっちりと並んでいる。ここに土器を埋めた製作者達は、その誰もが特別な意図をもって埋めたようだ。
土器の表面には浮き彫りがほどこされている。厚手に造った土器の表面を丹念に削り繊細な風景を描いているのだ。前面にあしらった樫の葉陰から鵯が顔を出して微笑んでいる。その愉快なデフォルメに思わず笑い、最初の一個を掘り出すやいなや製作者の意図を信夫は明確に捉まえた。未来の人間との会話を楽しむために埋めたのだと確信した。
上層の土器に較べ年代的には古い筈なのに構図は斬新で、土器そのものの形も実用性を損なわない程度にデフォルメしている。そこには並みではない造形能力が窺えた。土器を手にしながら本当に縄文時代の作品だろうかと彼は疑った。
だが上層の・・つまり一代後の土器には馴染み深い線描画があしらわれている。その土器の下に埋まっているからには縄文時代の作品に違いない。
そういえばと信夫は気付いた。上層の作品にしても実用一点ばりの姿ながらも、描かれた線描画には工夫とユーモア、それに侮れない力強さがあった。彼等は共に最高の出来栄えの土器を埋め、卓越した能力を将来の誰かに伝えようとしたのだ。この場所こそが彼等の意図を示すに足る特別の場所なのかもしれない。
信夫は穴の中に座り込みゆっくりと考えることにした。
この家の周囲に次々と居着いた住人達が後に続く住人へのメッセージをなんらかの形で残しているのではないだろうか。彼の誇る家や庭も、家の中の造りにも、時代を隔てるいろんな人々の工夫の跡がある。移ってきた時から有る庭の石や灯籠や木々も、慎ましいながらも心に訴え掛ける品々である。彼等も皆、時代を越えた対話を試みたとも思える。過去から未来への一方的な会話ではあるが、それはそれで素晴らしいことだと考えた。
ふたたび土器の絵を見直した時に懐しいものに出会った感じがした。それが何かと見詰めたときに、
「すんません」と、突然大きな声を穴の上から掛けられたものだから、信夫は飛び上がってしまった。裏庭には垣根もなく谷道からそのまま入れるものだから、時々こんなことになる。小太りで白髪の交じった男の顔が穴の上から覗き込んでいた。その眼の光を見ただけでエリサと同類だと信夫は感じた。なにしろ好奇心に満ち満ちた光で輝いている。何か楽しい発見がどこかに転がっている筈だと浮き立っている。エリサの香に引き寄せられて来たに違いない。
「驚かせてすんません」と男は信夫の驚きに恐縮しながら謝った。「田圃や谷川を見せてもらいました」と言い、男は穴の縁に腰掛けてゆっくりと話す姿勢を取った。
「おたくの田圃は生きてます。昔そのままですわ。カブトエビや田金魚がいっぱい泳いでました。水藻に覆われてる田圃は子供の頃そのままです。・・それに・・谷川には蛍の餌のカワニナがあちこちに居るから、蛍がいることは間違いありません。やごがいっぱい居ますから、もうすぐ蜻蛉が飛び回りますね。・・ここは貴重な丘です。・・大和川あたりの田圃は、ここに較べれば完全に死んでます。除草剤のせいで水は恐いぐらいに澄んでますわ。」と一言一言に感動を込めながら話しているが誰に話すでもなく、まるで独り言のように聞こえた。返す言葉を期待しているとも思えず黙ったままでいると、
「この町にもこんな場所があることを初めて知りました」と輝く眼で見詰め、
「大和川沿いの住宅では丘の開発を推進する市民運動が始まっていて頑固な所有者を非難するビラが出回ってます。それで私はどんな所かと見にきたのですが、来てよかった。・・私はあなたを支持する運動を組織する積もりです。頑張って下さい」と続け、にっこり笑った。
「そうそう。谷川には目高がいっぱい泳いでいます。・・東住宅には“目高の会”と言う
のがありまして、彼等は大和川を目高の住める環境にしようと頑張っています。彼等も一緒に行動することは間違いありません」と言い切った。それから、ゆっくりと空を見上げ立ち上がり信夫の話を聞くこともなく、白髪混じりの顔は穴の向こうに消えて、そこには霞がかる青空だけが残った。
信夫は黙ったまま手元の土器を見詰め、男が現われる前の思考を取り戻そうと努めた。暫らくして、土器の絵に感じた懐かしさの原因に気付いた。描かれている鵯は岩の上に留まっていて、その岩が見紛うことなく裏の霞岩なのだ。
信夫は穴から出て谷川に沿う田圃の傍に立った。男が言う以上に今年の蛍は凄まじいに違いない。去年の秋から谷の湧き水は徐々にその水量を増し始め、しかも今年の気温は平年に比べるとかなり高く、蛍の生育には絶好の条件となっている。緑がかる蛍光を帯びた無数の幼虫が、さながら兵隊蟻の群れのように川岸や田の畦に上陸する姿を毎夜目撃している。ここに住んでからは初めて経験する光景である。もうすぐ彼等は土から出て夜空を乱舞するだろう。
信夫が除草剤や農薬散布に反対したのは、蛍や鬼やんま、それにカブトエビや目高の立場を考えてではない。だが、その結果として蛍や蜻蛉が生き永らえ、そのことが今の男を引き付けたのだ。いずれ、それもごく近い時期に彼はエリサや鳥の楽園の面々と出会うに違いない。そうなれば丘の開発反対運動は爆発するだろう。火の手は柳川の地元にあたる東と北の住宅でも上がることになる。
実を言えば信夫は谷の開発には積極的には反対していない。
丘は遺蹟の指定地になっていて売るに売れない土地である。市が先に立ち指定地の解除でもしてくれればかなりの金額で売れることになる。たとえ柳川が好きなだけかすめ取っても信夫の手には一生遊んで暮らせる金が残る筈だ。好き好んで、住宅に囲まれた窮屈な所に住み周囲の住民に馬鹿にされることもない。金さえ有れば家ごと引っ越し出来るし、故郷の山は住みよいだろう。薬剤の入らぬ水を飲み薬剤を使わない食物を必要なだけ作れば良い。だが、そのことは流れに任せよう。柳川の勝ち負けにも関心は無い。
田の面を覆う水藻とその影に集う虫達を見ながら、信夫は土器の表面に描かれた岩を思い出した。間違いなくあれは裏の霞岩であった。まだ埋もれている他の土器のいずれにも、霞岩と憩ういろんな鳥や、虫や、小動物を描いているに違いない。もし、信夫が土器の製作者ならそうした筈だと、そこまで考えて頭が澄み渡っていることに気付いた。年に二、三度は経験する極度に鋭敏になった感覚が体中に満ちていた。
土器の製作者は岩に深い愛着を感じていたのだ。岩は一万年の昔から崇拝される対象となっていて、それは連綿と一族へと伝えられ彼等は今もまだ岩を崇拝している。崇拝する丘と岩なればこそ、一族はそれらを物としては扱うことは出来ず所有できないのだ。・・それに、彼等も単に言い伝えを守っているだけでその崇拝の結果として何事が起こるかまでは明確には知らない。そのことは岩が金色を帯びる姿を目撃してから漸く和田の動きが活発になったことで判る。それまでは彼も一族も確たる自信はなかったのだ。
この頭の冴えはどうしたことだろうかと、ふと疑問を持つと同時に、なにやら、暖かい陽光を浴びているような気がして信夫は視線を岩の方向に向けた。岩が鮮やかに輝き金色の光を向けていた。横から見る岩の一部には、まるで眼のような金色の模様があり、その金色の眼と彼の視線がまともにぶつかった。眼が戸惑うように瞬き、それからゆっくりと笑みを浮かべてから消えていった。それにこれは何の音であろうか、まるで鈴を連続して鳴らしているような、耳には心地よく聞こえる高い音が、それは輝きが消えた後にも微かに鳴り響き、暫らく続いてから静かに消えていった。
不気味さは全く感じず後には清々しさだけが残った。ただ・・またまた、やっかいな奴が現われたとの思いが信夫の心に浮かんだ。それとも、奴が信夫をも含むやっかいな連中を呼び寄せているのだろうか。深く考えれば、あの柳川でさえ奴が呼んだとも推察できる。それとも・・谷間に満ちる緑や鳥や蛍に引かれて出て来たとも考えられる。
いずれにしても奴こそが一族の崇拝し待ち望んでいたものらしいと信夫は考えた。和田や杏子は大喜びし奴はその正体と御利益を披露するのだ。しかし御利益と言ってもしれたものに違いない。要は心の在り方であり、既に一族の皆がマスターしていることだから、光はそのことを再認識する力を与えるに過ぎない。いずれにしても一族に属さない信夫には無関係なことと思え、奴のことは一族に任せようと考えた。
信夫にはもっと大切なことがあると思えた。土器の製作者のように未来へのメッセージを、この地上に存在した証として残すのだと心に決めた。
残せるものはいったい何だろうか。緑と命に溢れる林と岩と家と、それにできれば彼でなければ出来ない何かが必要だ。ここはひとつ土器の作り方でも勉強するかと考え、穴に戻ろうと体を返した。岩の一族の目的は静観している内にその真実が判るだろう。和田とエリサの生きざまに関しては心底から理解出来た。気持ちを惑わす何事も残ってはいない。後は気楽にやって行けば良いと、いよいよ信夫の心は冴え始めた。
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