2018年8月20日月曜日

ヤナギバ・ヒメジオン (3)


 とうとう直ちゃんの待ち望んだ土曜日がやってきた。そのことは気にはなってはいたが、僕は一旦家に帰りそのまま針中野へと向った。

 高見の里で電車に乗り約十五分、大和川を越えてすぐの所に針中野の街がある。駅の西側には繁華な商店街があり母親が月に一度くらいは買物に出掛ける。その時には荷物運びに僕も追いて行かねばならないのだが、人混みと密集する家並みの間に居るのが嫌な僕は母親が買物を終えるのを駅の脇で待つことにしている。

 母親に連れられていったある日、いつものように商店街の入り口辺りでぶらぶらと母親を待っていて、何気なく入った本屋で月刊誌の漫画少年"と初めて出会った。

 店先には漫画月刊誌のおもしろブック"少年"とかが、挟み込まれた付録ともどもに膨れ上がって山のように積んであった。僕は何気なく店の奥の方に入っていったが、書棚の片隅に漫画少年"と書かれた、聞いたこともない二、三冊の雑誌が埃だらけで付録もなく寂しそうなようすで置かれていた。なんの期待もなく手に取り、ちらちらと頁を繰ってすぐに僕は痺れてしまった。

 他の雑誌は分厚い付録と僕には興味のない記事や読者投稿文で嵩張っているが、漫画少年は始めから終わりまで漫画ばかりだった。しかも、掲載している漫画の画法やストーリィが斬新で、少し読んだだけで、僕の知らない漫画の世界がそこに有ることがわかった。それに、手塚治虫がジャングル大帝なる漫画を連載していて、これに較べれば少年"に掲載された、同じ作者の鉄腕アトム"さえもが色褪せて思い出されたほどであった。将来漫画家になろうと、漠然とではあるが希望している僕にとって、この月刊誌の存在は非常に貴重だと瞬時に思い、母親にねだって買ってもらった。

 それからは漫画少年だけを買い続けている。驚くべきことには友達の誰一人としてこの月刊誌を知らない。これ程の雑誌をなぜ知らないのだろうかと僕は不思議に思っている。 とにかく、漫画少年を買うことにはしたが、その発行はほんとに不規則で、一ヵ月遅れもしばしばである。だからいつ買いに行けば良いのかが、全く見当がつかない。他の月刊誌は河内松原の小さな本屋でも売っているが、漫画少年は針中野のその店だけに置いてある。しかも、他の雑誌はどこの書店の店頭にも山積みしてあるのに、漫画少年だけは、ひどいときには一冊だけのこともあって、すぐに売り切れてしまいそうな不安を感じ続けている。仕方なく大体の感で適当な時期に針中野に行くことにしていて、なんとか、二回に一回位の無駄足で手に入れている。それだけに漫画少年を見付けたときの喜びはまた格別で、家に持ち帰る迄の、心踊り雲の上を歩くような感覚はなんとも言えないものである。 手に入れた喜びを長持ちさせるために、家に戻るまでは中身は見ないと決心して店を出るのだが、すぐに前号のストーリィが想いだされ、あれから先はどうなるかとか、ジャングル大帝の見事な絵が眼の前にちらつきだす。かくして、僕の決心は帰りの電車に揺られるころには脆くも崩れてしまい、一ページめを開いた途端に僕の心は漫画少年の虜になってしまうのだ。読み続けるあいだも胸がドキドキして血が激しく流れ体がうずく感覚が続き、家に帰っても二度三度と、全てを読み切ったと感じるまでは読み直すのだ。

 と言うような非常に切実な理由で、つまり、そろそろ発行の筈だとの予感と、急がないと売切れてしまうとの恐怖感で、針中野へ行かねばならなかったのだ。

 予想通り、漫画少年を二ヵ月ぶりに手に入れたものの、今日ばかりは少々ようすが違ってしまった。直ちゃんは志織ちゃんの所に行っている筈である。果たして、あの花の名前は判っただろうかと、変な興奮が僕の頭の中に大きく膨らんでいた。だから、電車の中でも雑誌を開きもせずに、窓の外を流れる家々と遠くに緑の木々を明瞭にみせている生駒の山並みを茫然と眺めていた。電車が高見の里の手前のカーブに入るや僕は立上がってしまい、カーブの内側の潅漑池に顔がくっつく程に傾いた車両の中を、よろけながら最前部の出口に歩いて行き、電車が減速に入った時には扉の把手に手を掛けて、電車が停止する前には扉を開いて飛出した。プラットホームの坂を駆け下り発車寸前の電車の前を走り抜け、改札口に走り、駅員の怒鳴り声を背に受けながら住宅地への道を走った。五月の強い陽射しの下だから家に着いたときには体には汗が滴っていた。

 家に飛込んで、雑誌を玄関脇の机替わりの木箱に放り投げた。漫画少年が此れ程の冷たい扱いを受けたのは初めてのことだろう。

 裏の木戸を通り抜けて志織ちゃんの部屋の前に立ったが、縁側のカーテンも窓の障子もいつものように閉じられたままである。なんとなく気の抜けた思いで「志織ちゃん」と声を掛けると、いつものように志織ちゃんの青白い顔がカーテンの隙間に現われて消えた。ガラス戸を引き、カーテンを押し退けながら部屋の中に入ると、小机を挟んで直ちゃんと志織ちゃんが机の上に置いた本の上で顔を寄せている。

 机の側に行って本の中を覗いてみると、色塗りの草々の絵が眼に入り、思わず「ああっ、草の本か」と僕は呟いた。直ちゃんは顔を上げて紅潮した顔を、にやっと歪ませた。

「いさぼん。あの草の名前がわかったで。それ以外にも僕の知ってる草の殆どがこの本には書いてあるんや」

「へえー、小父さん、何処で捜してきたんやろか」

「中ノ島図書館で借りてきたんや」と、今度は志織ちゃんが顔を上げて答えた。

「草の本だけやないんやで、昆虫の本も借りてくれはったんや」と直ちゃんが感動の震えを帯びた声で付加える。

「ヘーッ、それであの雑草はなんていう名前なんや」

「うーん。何種類か似た草があるんやが、花の形それに茎や葉っぱの形から考えると『やなぎばひめじょおん』という草らしいわ」

「やなぎばひめじょおん? なんか変な名前やなあ」

「そうかなあ。やなぎばひめじょおん。ええ名前やと思うけどなあ。とにかく原産地は北米やって」と言ってから直ちゃんは自慢気に続ける。「アメリカから来たんや」

 本の中を覗きこんでみると、古く黄色みを帯びた頁が数段に区分してあり、その各段には着色された草の絵が描かれている。各々の絵の上には平仮名とローマ字で草の名前を書いてあり、下には細かい字であれこれと草の特徴を書いているようだ。『やなぎばひめじょおん』の欄には、見慣れた野菊の絵がのっている。しかしその前後の草の形もまた、あの野菊と大差ないように僕には思えた。

「ふーん、どれもこれも似ているなあ」

「そうなんや。ただなあ、ここの所に花の咲く季節が書いてあるんや。今頃咲くのはこれとこれやが、葉っぱの形や花の付き方から見ると『やなぎばひめじょおん』という事になるんや」と、教科書とか一切の本に対して拒絶反応で応じる直ちゃんが、この本についてだけは信じられない程の愛着と理解力を示している。本にしがみつついたままで直ちゃんは言葉を続ける。

「ただひとつ問題があるねん。この本によれば『やなぎばひめじょおん』は主に関東に分布してるんや。せやけど、あれは確かに『やなぎばひめじょおん』に違いない。どう考えたらええんやろか・・・」

 手放そうとはしない直ちゃんの手から無理矢理に本を取り上げて、裏表紙を開けて発行年を見ると、手垢で汚れたわりにはそれ程古い本ではない。この草がそれほど短かい間に関東から関西まで拡がるとも思えない。「うーん」と僕は唸った。本が消えるのを恐れるかのように、僕の手から本を取り戻した直ちゃんは、

「まあ、ええか。とにかくこれがあの草の名前であることは間違いないんや」と独り言を言った。今日の直ちゃんは実に多弁である。

「この草も、この草も外国から来たんやて、この『ひめじょおん』も北米から来たらしいし、これはヨーロッパ、これはブラジル。ぼくらが野菊というてる殆どが外国から来たもんらしいわ。僕は外国から来た連中ばっかりと付合っていることになるんや」と直ちゃんの日焼けした顔は興奮で赤黒くなっている。

 クスクスと笑う声で頭を上げると、いつの間にか椅子に座った志織ちゃんがぼく達を見おろして言う。

「直ちゃんは、それで感動してるんや、せやけどねえ、おとうさんが言ってはったけど、家猫はエジプトが原産地やねんて。猫を見る度に感動せなあかんなあ」

 僕と直ちゃんは眼を見合わせた。神秘的な響きを持つエジプトと、そこらじゅうに居る傍若無人な猫ども、このふたつが頭の中で重なり合うのに暫らく時間が掛かり、その後で志織ちゃんの言葉が心に達して僕は吹出した。続いて直ちゃんも吹出した。締め切られ外のすがすがしさと隔絶された薄暗い部屋の中で、僕達はいつまでもいつまでも笑い続けた。

 朝、志織ちゃんと直ちゃん、それに僕はそろって住宅地の南側の田圃に出ていった。意気軒昂たる直ちゃんが、嫌がる志織ちゃんを口説いて外につれだしたのだ。漸く志織ちゃんも了解したものの何かを恐れているような感じがして、二人の様子を見ながら僕はなんとなく不安であった。しかし、梅雨にはいったにしては今日は良い天気である。雲ひとつ無い陽光の下で見渡す限りの田圃に水は行き渡っている。朝日を受けた田の表面からは水蒸気か立ち登り大気には湿気が立ち籠めている。昨日までとは一変した水の風景に僕は戸惑いを感じ、次いで水面に輝く光の群れに興奮してしまい不安はきれいに忘れてしまった。 地平線の彼方まで弱々しい苗の緑が、鼠色の水面を背景に霞のように続いている。もう一週間もすれば苗は大きくなり、緑は濃くなり、まるで緑の絨毯のように視野のすべてを覆う。さらに稲は育ち茂り緑の海となり、秋には金色の絨毯になる。彼方を見ていた僕の脳裏には、去年それにその以前の頭に刻み込んだこの地の風景の移り変りが明瞭に浮び上り、その心の情景にうっとりとしてしまった。

 本から仕入れた一週間の知識を総動員して直ちゃんは説明し、志織ちゃんは俯いて聞いている。しかし僕には志織ちゃんの様子が不自然に思えた。直ちゃんの言葉を聞く振りはしているものの、どことなく緊張しているし、常に俯き加減で決して視線を上げない。僕はそれとなく志織ちゃんのようすを窺いながら二人の後に従った。

 二人は畔道を辿り南へと向かってゆく。直ちゃんは草花だけではなく田の虫も探しているが水を張ったばかりの田圃に虫は少なく、僅かにアメンボとカエルがいるだけだ。間もなく水藻が育ち田の水は緑に彩られ、赤や緑の体を微妙に震わせて泳ぐ田金魚が現われ、かぶとえびは雑草の芽を摘み取るために水底を這い回る。ウンカが稲に取り付きユスリ蚊が空に渦を巻く。これらの虫を追って燕、蟷螂、トンボ、蜘蛛と様々な鳥と虫達が集まる。蝙蝠は夕暮の空に群れをなして飛礫のように飛ぶのだ。

 直ちゃんはあれこれと説明し続け、志織ちゃんは下を向いたままギクシャクと後に続き、僕は彼方を見詰めて空想に耽りつつ僅かに遅れて歩く。この妙な一行はゆっくりと道を進んだ。

 少しゆけば西徐川の堤防に突き当たり低い堤防を上れば小道に入る。堤防の向こうの川面へと下る傾斜部には灌木がそこここに茂っている。この辺りで河は大きな池を造っていて池の中央には草に覆われた小島があり、その上には一本の松が腕を広げている。

 堤防に座って休む志織ちゃんがえらく息を切らしている。自らの説明に興奮していた直ちゃんも、漸く志織ちゃんの様子が普通でないことに気付き、「志織ちゃん、大丈夫」と心配そうに言った。僕が見るところ、志織ちゃんは体が疲れているのではなくて、緊張が荒い息遣いになっているのだ。志織ちゃんは眼を閉じて「大丈夫」と答え、そのままじっとしていたが、すぐに息遣いは平静になった。

 池の小島全体が柔らかい緑と一面のたんぽぽの黄色に包まれていて、周囲の広い川面には空の青さがそのままに映っている。いや、あたり一杯に散乱し空の青さを減殺している陽光は水面で吸収され、川面に映る空の色はより深い青さを持っている。風もなくベタッと貼りついた空が小島の周りにあり、周囲に満ちる陽光は、この単色の世界がこれからまだ成長の段階にあることを示し、そこには、夕暮時の単色世界を覆う滅びの色はない。ここは単なる池ではなくて山や空の美しさに対抗できる、この地上でもっとも美しいところに違いない。

「きれいやねえ」と眼を開いた志織ちゃんは一言呟いた。

 後は言葉もなくその風景に見入っている。季節としては早めの蝶トンボが、ただ一匹、仲間を求めるかのように、黒く輝く羽をゆらめかせながら空高く舞っている。

「あんたらはいつもこの風景をみてる・・」と志織ちゃんがそこまで言ったとき、僅かな風が川面を走り、波立ちが川面一杯に広がり光がさざめいた。この光の囁きに僕はいよいよ恍惚となったものの、すぐに志織ちゃんの言葉が中断したままだと気付いた。横を見ると志織ちゃんの体が後に、ゆっくりと、倒れてゆくところである。

「ああっ」と僕と直ちゃんは同時に叫び、志織ちゃんの体を支えようとしたが間に合わなかった。志織ちゃんはゴロンと仰向けになり堤防の斜面に沿って滑り落ちてゆく。その動きをなんとか手で押さえるのが精一杯であった。

 志織ちゃんの眼は固く閉じられて、顔色は真っ青である。

「いさぼん、どうしよっ」と、直ちゃんが目を尖らせて叫んだが、僕も既にパニック状態である。

「とにかく土手の上に引っ張り上げよっ。直ちゃんはそっちの手を引っ張って」

 華奢な志織ちゃんの体は以外に重く、僕達はよいしょよいしょと掛声をあげながら手を引擦り、ようやく滑り落ちない位置に引き上げた。さてこれからどうしようと考えたが、この時ばかりは頭が回転しない。

「あんた達、どうしたんよ」との叫びと共に誰かが飛出して来た。茫然としていた僕はそれが誰かと気付くのに少々の時間が掛かり、良子と知ったときには何故かどっと安心感が押し寄せた。良子に対しては緊張を感じるばかりであったのに、この時には安心感が生まれたのだ。僕にはその感情を不思議に思う心の余裕もなかった。

「志織ちゃんが気を失ったんや」とすがり付くように直ちゃんが答えると、良子は志織ちゃんの上に屈み込みじっと顔を見ている。彼女の動きはてきぱきとしていて、何の逡巡や焦りもない。それから、くっと顔を僕達に向けると鋭く話した。

「どうも貧血らしいね。熱もないし危険なことでは無いと思うけれど、暫らく横にしておいたらいいわ」

 良子は志織ちゃんの頭と眼をハンカチで覆い、帽子を扇いで志織ちゃんの顔に風を送りはじめた。良子は僕が思いもよらぬ程に冷静に行動できるのだ。

「直ちゃん、この人が志織ちゃんね」と良子は尋ねた。直ちゃんが頷くと、

「この人の小母さんを呼んできて、小母さんには大丈夫だからと、心配させないようにね」「うん判った」と直ちゃんは何時もには似ず、かなりのスピードで堤防を駆け下りそのまま住宅地へと走りだした。

 暫らくすると志織ちゃんの顔に赤みがさしはじめ体の緊張も去っている。

「もう大丈夫みたいね」と良子は言いゆっくりと視線を僕に向けた。

 そこにはいつもの皮肉そうな眼の動きはなく真面目で真剣な光がある。その視線で志織ちゃんのことでうわずっていた僕の心は平静を取り戻し、拙い状況になったことを感じ取った。とうとう二人だけの状況になってしまったのだ。僕の顔色を機敏に感じ取って良子はにやっと笑った。

「伊三郎君。わたしが、なぜ君に皮肉を言うのか知ってるね」

 暫らくはどう答えたものかと考えていたが、こうなっては仕方がない。

「ああ、多分こうやと思うけど」と答えると、良子は僕を促すようににっこりと笑い、白くきれいな歯並びが日焼けした顔の中に現われた。この笑顔をみる人々に、彼女が可愛く正直であると思わせ、それに、彼女を助けるためには何でもしてやろうとの気持ちにさせる笑顔なのだ。しかし僕には、それが誰にも勝る彼女の精神的な強さそのものだと判っている。だから彼女の美しさそのものよりも、黒く日焼けした肌の下の溢れるような生命力を眩しく感じ僕は眼を逸らした。

「僕を・・ここから引摺り出そうとしてる」

「うん。・・確かにそう言えるわね。やっぱり知っていたんだ。・・だから逃げ回っていたんだ。でも、わたしから逃げてなんにもならない。いずれは君もここから外に出なければならない。単に時間の問題。それなら、今の間から準備をしておけば、それだけ将来の可能性は大きくなる。私は私の可能性一杯に生きてゆく積もり。君には私と同じ程の可能性があるのにここに閉じ籠もっている。それが歯痒いの。でも、それは君が自分で決めることだけどね」と、僕の一言に良子の反応は素早く、言うことは明快である。良子はそのまま僕の言葉を待っているが、僕には言うべき言葉が無かった。

 『良子は僕の天敵である』との話を聞いてからずいぶんと考えた。なぜ僕が全てに消極的なのかと考えたのだ。しかし、きっちりとした結論は出ず、ただそれが性格だとしか言いようがなかった。人の先頭にたって、みんなを引きずっていくのは性に合わず、また、誰かに引きずられることも嫌で、何故そうなのかは判らないが、とにかく一人でのんびりと好きなように生きて行くのが性に合うのだ。しかし、そのことを正直に言う気にはなれなかった。たとえ話しても良子には理解出来ないだろうし、得られるのは彼女の軽蔑だけだと思うのだ。だから黙ったまま、いかにこの状況から逃げだすかを考えていた。

いさ 」と突然良子は舌を噛みそうにして喋ったが、僕には聞き取れなかった。

「へえ?」と僕。

「ちがったか。い 、いや、いさぼん、あれ?」

「林さん、何言うてんの」

「困ったな、伊三郎君の愛称を言おうと思ったけど、河内弁は難しいなあ」

 その突拍子も無い話に、僕は思わず「プーッ」と吹き出してしまった。

「笑うことはないでしょ、親愛の情を籠めようと考えたんだから」と良子は膨れている。「ごめん、ごめん、せやけど笑わずにおれんがな。正しくは尻を上げて『いさ 』と言

うのやけど、林さんには似合わんからやめといたほうがええわ」

「ぷーっ、河内弁では真面目な話ができそうもないね。あっはっははっはは」と笑いが止まらないようである。ぼくも、つい一緒に笑ってしまった。

 これで完全に緊張の糸が切れてしまい、僕は本当のことを言うことにした。一瞬良子の手に乗ってしまったかとの思いも頭の中をよぎったが、もうどうでもよかった。格好をつけるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。そもそも、欝とうしい悩みをずっと持ち続けこともまた僕には苦手なのだ。

「林さん。正直に言うと、僕には君みたいな強い心がないんや。人を自分の思い通りに動かしたり、人の反対に逆らって事を進めるなんて僕にはとても出来ん。いや、林さんが結局は相手のために良かれと考えて行動しているのは十分知っている。せやけど、例えどうあれ、とても真似のできることやないと・・、これは十分に考えた僕の結論なんや」

 川面に向けていた視線を紫の山並みに移してから良子は独り言のように話し始めた。

「だれにも言ったことはないけど・・・。私がこの町をうろつき回ったときに、私はいろんな事を知ったわ。私のことをいやらしく言う評判や、嫉妬や、それに憎しみ。私が善意でやったことすらいろんな噂を産んだの。始めは信じられなかった。それに本当に悲しかった。でもそのうち気付いたの。そんな悪意に、なにくそと向かってゆくことが自分を強くして、それに悪意に対抗する唯一の手段だって。それからはわたしも強くなったわ」

 僕は良子の横顔をじっと見詰めた。良子がそんな経験をしているとは思いもしなかった。生れつきの能力に頼っているだけではなくて、自分を強くそれに賢明にするための苦労しているのだ。いや、苦労するだけの意志力を持っているのだ。

「ふーん。林さんがそんな経験をしてるとは思いもせんかった・・・。せやけど、僕にはやっぱりそんな気力は無いと思うわ」と言ったものの、こんな弱音を、しかも女に告白することが耐えられない程に情けなくて、僕の声はだんだんと弱々しくなっていった。

 風に流される良子の髪は細く黒々とし黒揚羽の鱗粉の艶を持っている。良子をカラスアゲハとよぶ直ちゃんの表現は実に適切だと思った。

「君は悪意に出会うと、すぐに後に下がってしまう。そもそも悪意が出ないように暮らしている。でも他の人はもともと自分を持っていないからそれでいいけど、君は違う。直ちゃんもそうだけど、人の意見には惑わされず自分の意見を持っている。これからも自分の生き方を続けたければ、いずれ闘わねばならない時がくる筈よ。そのためにはもっと積極的になる必要があると思うの。この住宅地に潜んでいるだけでは駄目だと思うよ。だから今頑張らないと、いずれは惨めなときが来るような気がするの。それでもいいの」

 どう惨めであるか、何故惨めであるかも理解できず、答えようのない僕は黙っていた。心には志織ちゃんの小父さんの姿が浮かんできた。このままでは小父さんのようになると言っているのだろうか、物知りなのにサラリーマンとしては失格か・・と僕は思った。

 彼女は薄い虹彩をしっかりと向けて、僕の心の内を読み尽くすかのように見詰めた。僕の眼に浮かぶ怯えを見付けたのだろうか、なにかを言い出そうとした良子は再び口を閉じて顔を背けた。その横顔はもうこれ以上には口を出さないとの意志を示していた。

 それからは僕達は黙って座り、直ちゃんが小母ちゃんを連れてくるのを待っていた。

 志織ちゃんは穏やかに横たわっている。その横で僕達は並んで池と田と、それに彼方に連なる山並み、雲一つ無い大空を見ていた。僕は彼等の一部であり、彼等が歓迎する声さえ聞こえているように思われた。僕はここに居るだけで満足であり幸せなのだ。

 しかし、僕には貴重なこの風景も、良子にとっては単なる美しい絵に過ぎないようだ。良子には彼等に融け込むことのできない何かが既に心の一部に芽生えていて、この世界の美しさを本当に理解することは出来ないのだ。

 ああそうか、人はいずれかの道を選ばねばならないのだと僕は思った。

 だが、良子には広い広い世界があり、僕には遠くに紫色の山並みが見える、ふたつの丘に挟まれた狭い世界しかないのだ。それがいかに美しいものであっても、良子の世界に較べればありきたりで夢の無いところに思える。何故こんなに無気力に生まれついているのだろうかと僕はつくづく厭になってしまった。

 良子はと言えば、じっと眼を閉じたままで、この話題を再び出す気は無いようである。後は僕の判断だと言っているのだ。

 振り返るとアパートの陰から直ちゃんが、続いて谷口の小母ちゃんが飛出してくるのが見えた。ああ、直ちゃんだ、との僕の呟きに良子は立上がりスカートに付いた土を払いながら、「とにかく、もし、もっと強くなりたいのなら私に相談して。教えてあげることがいろいろ有ると思う」と、そっと呟いた。

 だが僕には、少なくとも今の僕には、この良子の提案を受けることは出来ない。そもそも、彼女の期待自体が僕に取っては重苦しいのだ。

 彼女は突然声の調子を変えて話し掛けた。そこには笑いさえ含まれている。

「ところであの草の名前は判ったの」

 突然話題が変わったものだから、僕は一瞬戸惑ってから、

「・・・ああ、あれね。『やなぎばひめじょおん』って言うらしい」

 良子は僅かに驚きの表情を示した。すぐに隠されたその表情のうちになぜか奇妙に感じられるものがあった。まるでその答えを以前から知っていたかのように思えるのだ。

「ふーん、どうして判ったの」と良子。

「志織ちゃんの小父さんが図書館で草の本を借りてきて、それで判ったんや」

 僕の言葉に、彼女は実に楽しそうな笑顔を示した。そうして僕にはその意図が判らない独り言を付加えた。

「成程ねえ。あの草に気付いて・・役にも立たないその草の名前まで調べたのは直ちゃんだけのようね。すごいわねえ。世の中が直ちゃんみたいな人ばかりならいいのになあ」

 

 その翌日からは厚い雲が空を覆い雨が降ったり止んだりの日が続いた。傘を差しゴム長靴を履き学校に通う毎日であった。稲は日に日に成長し、田を覆う緑はいよいよ濃くなっていった。川は増水しはじめていて、もう間もなく床下浸水が始まると思われた。親達はそのときのためにと準備を始めていて、僕達は時々川の様子を見に行き、いつ洪水が始まるだろうかと心待ちにしていた。

 その間もずっと志織ちゃんのことが気にはなっていたが、顔を見るのが悪いような気がして延び延びになっていた。しかし図書館の本を返す期限の近付いた直ちゃんが志織ちゃんに会いに行こうと誘いに来た。雨に濡れぬようにと、大事そうに胸に本を抱えた僕達が部屋に上がったとき、志織ちゃんはいつものように刺繍をしていた。いつもと変わらぬ姿にほっとして直ちゃんと僕は顔を見合わせ、どちらからともなく安堵の笑顔を交わした。「志織ちゃん、大丈夫」

 僕の問い掛けに志織ちゃんは顔を上げて笑顔を浮かべている。

「ええ、大丈夫よ。あの病気は普段はなんともないの」

 ふーん、変な病気だなあ、と僕は思った。

 安心した直ちゃんは、ここ一週間の雑草調査の成果を話し始めた。田圃には漸く人影が絶え、雨の降るのを気にしなければ自由に畔道に入れるようになったのだ。

 草のことになれば前後の見境がなくなる直ちゃんのこと、話しは延々と続いたが、僕とは違い志織ちゃんは心底雑草の話を楽しんでいる。とくに、直ちゃんが最近見付けた西洋たんぽぽと白花たんぽぽのことを、二人は興奮して話し合っている。

 二人の横で僕はじっと座っていたが、部屋の様子がどこか、いつもとは違うように思えた。部屋の中をゆっくりと見回してから気付いた。

 本棚の上の壁に、何枚もの刺繍を施した白木綿が押しピンで止めてある。家具の上にはもう置く場所もなくなったのだ。雨音が静かに響く薄暗い部屋に、白地と刺繍の鮮やかな原色が色褪せた壁の白さの上に浮き立っている。部屋の壁が彩られたために壁が迫ってくるような感じがして、僕の心に緊張が走った。

 これからも、壁の刺繍は数を増してゆくのだろうか、壁に場所がなくなればどうするのかなどと僕は漠然と考えた。

「だから、ねえちゃん今度見に行こうよ」と言う直ちゃんの言葉が耳に入り、僕はビクッと体を震わし、直ちゃんもまた、ああっと気付いた。

 二人とも志織ちゃんのようすを窺うものだから、部屋にはへんな雰囲気が漂ってしまった。志織ちゃんは僕達の硬直した様子をしげしげと見詰め、はてっと言うような顔をしてから、漸くその理由に思い到ったようである。

「あっははは、なんや二人ともそんなことを気にしていたのか。そんなことは気にしなくてええの。あれは時々起こることなんやから。あんたらは、うちがあの発作を起こすことを知らんかったんやね」

 僕と直ちゃんは頷くだけであった。志織ちゃんは真剣な表情に戻って続けた。

「うちの発作は広い場所に出ると起こるんや。そんな場所で光の煌めき、特に水面での煌めきを見た時に特別発作が起こりやすいのや。そんな時には突然意識がなくなって、ある瞬間から全く記憶が途切れてしまう。せやから苦しいとか痛いとかは全くないんよ。うちはその発作が特別頻繁におこる方やけど、それでも、いつでも起こるとは限らへん。どうも、いつ起こるかと緊張していると余計におこるようや」

 その言葉で、あの日の志織ちゃんのぎこちない動きの原因が判った。周囲に何も無い広々とした場所に出て、しかもそこは水に囲まれていた。発作を恐れ水の煌めきが眼に入るのを避けようとしていたのだ。

 広い場所にでると発作が起こるのか、と考えた途端に僕はぎくっとした。それとは反対に僕は人混みや、この志織ちゃんの部屋のように外界から閉じられた場所に入ると緊張を感じるのだ。これもまた一種の発作ではないのだろうか。この考えに茫然として壁の刺繍をじっと眺め、暫らくして志織ちゃんに視線を移した。

 志織ちゃんは遠くを、壁の向こうが見えるような目付きで見詰めている。

「でもあの池とあの小島の美しかったこと・・・。ついじっと眺めてしまった。その時に風が吹いたもんやから、川面に小波が立って陽の光が煌めいたんよ。それにあの時にはほんまに緊張していたからよけいに・・それであんなことになってしまったんや」

 明るく話していた志織ちゃんの顔に僅かだが、寂しそうな表情が現われ、

「もっと大人になったら、うちの発作は自然と治るらしいけど、それでも・・・あんた達はいつもあんなにも美しいものを見ておれる。でも、うちにはそれが安心しては見られないのや。それは、ほんまに・・・」

 そこまで言ってから、志織ちゃんは気を取り直したようである。

「本に書いてあったけど、人類の祖先が樹上の生活から地上におりたんは、うちのような発作が原因やったらしい。木の葉を洩れる光で発作を起こし易い祖先が、しょうなしに地上へと降りていった。それが人間が地上での生活を始めるもとやと書いてあった。もしこれがほんまやとすれば、何百万年も前の使命を、うちはまだ引きずってることになるんや。こんな阿呆なことてある」と言って志織ちゃんは明るい声で笑いだした。

 志織ちゃんはわざと明るく振舞っているに違いないと僕は思った。住宅地のすぐ傍に溢れる生命すら安心して見ることのできない志織ちゃんの現実に僕の胸は締付けられた。この部屋の中だけが志織ちゃんの安心できる世界である。僕は眼に涙が盛上るのを感じ下を向いた。直ちゃんはただ茫然として志織ちゃんの方を向いている。

 だが、志織ちゃんの笑い声には悲しさのかけらも含まれていない。僕は不思議に思い、上目づかいに志織ちゃんの方を窺った。

「でもねえ、うちはあれこれ考えてみたんや・・。人間にとって何百万年は長いようやけど自然に取ってはただの一瞬のことに違いない。・・そう考えると、この発作は自然が人間に与えた大切な贈り物、それも少し前に呉れた、ほんまに重要な贈り物と言えるのや」 志織ちゃんは彼女自身の言葉を確かめるかのように大きく頷いた。志織ちゃんの眼は僕を突き抜けて遠くの方に向けられている。

「そう。うちには巧くは言えんけど・・、長い長い時間のなかで、うちらはその一瞬一瞬の役目を果たしているといってもええんや。一人一人が、ある世界を与えられて、その中で精一杯に生きることが、うちらに与えられた役割なんや」

 言葉を切った志織ちゃんは、眼の焦点を僕に戻した。

「うちには、狭い世間しかないけども、それはそれで深ーい喜びがあると思うんや。それに本を読むとか、ラジオとか、外の世界を知る手立てもいっぱいにあって、外からしか眺められへん世間もまた興味深いもんなんや。いずれ大人になって発作が治まれば、うちの世間は一気にひろがるやろうけども、果たしていまのこの狭い世間と比較してどちらが面白いか、なんとも言えんなあと思てるねん」

 あの日の僕と良子の話を、志織ちゃんが聞き取っていたことが僕には判った。僕を励まそうとする志織ちゃんの気持ちが、その言葉の中に感じられたのだ。

 志織ちゃんの話の一部しか理解できないけれども、なぜか突然、昨日見た、雨足が一瞬遠退いた時の山と田の姿を思いだした。濃い鼠色に陰った山々の中腹を一条の白い雲が山肌に纏いつくように走り、雲間からの久しぶりの陽光を浴びて田の緑は喜びに輝いていた。僕は心に浮かんだその情景に恍惚となってしまった。そうして、その喜びと志織ちゃんの言葉が一体となって僕の心に押し寄せた。

 そうか僕には僕の世界があり、良子には良子の世界があって、それはそれで良いのだと志織ちゃんは言いたいのやな、と、そこまで考えたとき頭の中の歯車が勝手に、しかも今まで経験したことがない程の高速で廻り始めた。それは信じられないほどに静かで軽い回転である。そうして僕には判った。人はそれぞれがいろんな形に生まれついているのだ。良子は広い世界に生きていて、そこで彼女の力いっぱいに生きてゆく。志織ちゃんはこの部屋に美しい刺繍の世界を作り上げている。直ちゃんは気弱く生まれ、それだからこそ、雑草や昆虫に囲まれた世界を見ることが出来る。僕は怠惰な性格に生まれていて、それゆえに、山と田圃の姿を誰よりも楽しむことが出来る。

 だが、それぞれの世界はいつまでも同じとは限らない。いずれ志織ちゃんは大人になって病気が治り、刺繍の部屋から離れ、違った世界を作り上げるのだ。だが僕の場合は、この怠惰な性格が治るかどうかは判らない。もし治らないとすれば、この水の世界がずっと僕の世界で、そこで生き続けるように生まれついていて、僕はこの自然の一部となり、この自然がなくなった時にはその思い出を持ち続ければよいのだ。人と接して、争い、憎みあい、愛し合い、激しい感情の波で疲れるよりは遥かに望ましいし、そこでは他の世界に住む人が味わえない喜びもまた有るのだ。

 心からこの考えを受け入れた時、頭の歯車は静かに回転をゆるめカチッと微かな音がして、有るべき位置に停まった。あちこちの歯先がきっちりと合わさったような感覚があり、いよいよ透明度を増した頭の中でいろんな記憶がかすかにその触手を触れ合った。

 その触合いは『やなぎばひめじょおん』が何故今年からこの河内に花開いたかを解いていた。良子は始めからあの草の名前を知っていたのだ。彼女が種を東京から持込んで、河内のあちこちに蒔き散らしたのに違いない。誰がそのことを見付けるかと興味津々であったに違いない。いかにも良子らしい、と僕はかすかに笑ってしまった。

 しかしこの事は些細で僅かに楽しさを感じさせることでしかなかった。黄蝶の動きは素早いのはなぜか、どうして男と女がいて子供が出来るのか、なぜ良子は積極的で僕は臆病にうまれついているのか、人はなぜ憎み、苛め、笑いそれに泣くのか、なぜ志織ちゃんは光の瞬きに意識を失い、また広い場所を嫌うのか、それとは反対になぜ僕は狭い場所に恐怖を感じるのだろうか。その他諸々の何故が僕の歯車の上で一線に並んだ。

 いろんな何故は全てそれなりに必要で、しかもただ一つの流れの上にあるのだ。いやそれどころか。この世界に住む全ての命自体がこの波の上で共通の何かに沿って生きているのだ。直ちゃんは、理屈からではなくて、生まれついてそのことを身につけている。だからこそ誰もが気付かない、いろんな命が気になり、それで、あんなにも多くの疑問が生まれてくるのだ。

 しかし、何故そうなのかを示すもう一方の歯車の上には何も見あたらなかった。それは僕の知識が不足しているからに違いない。

 今までに得た何故は、その何かを示す糸口だと、しかも答えは僕のすぐ傍にいて、僕の知識を高めればいずれ答えを得ることが出来る筈だとの確信もあった。僕は僕の世界で生きてゆくだけではなくて、何かを捜し、そうしていつか、見付けることさえ出来るのだ。そのことを知り僕はこころからほっとした。

 顔を上げると志織ちゃんの眼がじっと僕を見詰めている。僕の眼の中に何を見いだしたのだろうか志織ちゃんはにっこりと微笑んだ。僕はその笑顔が本当にすばらしいと思った。 直ちゃんが草花や昆虫の話で志織ちゃんを喜ばすのなら、僕はあの山と田を叶わぬまでも描いてみよう。あの色合を紙の上に写すことは本当に不可能かどうかを見極めてみよう。そうして、志織ちゃんの部屋の壁に飾られた刺繍の隙間に僕の絵を並べるのだ。そうすれば志織ちゃんは、この刺繍の部屋だけでなく直ちゃんと僕の世界との全てを知り楽しむことが出来る。それに、いずれ僕が見付けるだろう全ての何故の答えをも教えてあげるのだ。

 雨足はいよいよ激しくなり屋根に降り注ぐ音が刺繍の部屋にこだましている。西除川から溢れゆっくりと住宅地に押し寄せる水の姿が僕の心にありありと描けた。明日からは直ちゃんと長靴をはき水の中を歩き回り、水の世界と水の季節を楽しむのだ。


 

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