2015年8月30日日曜日

野田 剛 君 追悼


野田君追悼と事態の経過について  百野正直

 大学時代の思い出といえば、私は自宅が南海沿線の南方面、しかも通学時間もかなり長かったので往復はたいてい独り、誰かといつも一緒ということは特になかった。進級、卒業に必要な単位を揃えるのが精一杯で、特に応用数学解析、一般力学との苦闘ははいまだに夢に出てくることがある。学部に進んでからの「授業の合間の野球と製図室での雑談」が一番の楽しみであった。

 野田については、成績が非常によかったが「天才」といわれるとムキになって、そうではなく自分は努力するだけだ、と言うのが常であった。誰に対しても親切で物静かな話し方をし、名前の「剛」に反して見かけは「柔」しかし内面はつねに「剛」そのものという印象だった。

 そんなことで、彼との付き合いは卒業後同窓会を通してということになる。

卒業後富士通に行った私に対し、2年後に彼は修士課程を修了してNECに入社した。当時の富士通にとって、NECは遠く先を行く大きな目標、ここでも彼は私にとって尊敬の対象であった。

 同窓会での彼は、私の記憶では「皆出席」で、いつも愛用のカメラで撮った写真を写っている人に送ってくれていたが、途中からはCDに焼いて全員に送ってくれるようになった。しかもいちいちその会合を総括するようなコメントをつけて、と大変な労力と費用で、しかも自身は写っていないのにと礼を言うと、好きでやっていることだからと、さりげなく返された。

 のちに私は富士通を退職して家業を継ぐことになったが、その後彼も同じ道を辿られた。

学んだ専門知識を100%活かせる彼に比べ、機械工学を捨てることになった私はこの同窓会に出席することすら負い目を感じていたが、彼を始めみんなが何のこだわりもなく受け入れてくれたことはいつもありがたく思っている。特に時代の流れに逆らえず、その家業をも廃業した時も野田からは労いのコメントを貰った。

 さて2006年に石野・石原幹事のもと下呂温泉で行われた同窓会のときのこと。私は迷った末電車で行くと返事したところ、幹事の石野から、テニス組の移動のための車が足りないので車で来てくれないかとの依頼があった。当時はカーナビもなく道中の自信がなかったが、もともとテニスの道具を持って電車に乗るのが嫌でもあったので承諾した。そのとき石野が決めてくれた同乗者が小川、野田、石原の諸君。

何という偶然というか運命というか…。

 小川が集合場所、時刻など道中の計画をすべて決めてくれて交代運転も引き受けてくれた。

集合場所である近鉄の壱分駅に着くと既に野田が来ていた。道中は話も弾み、ひとり電車で行くことを思えば随分楽しかった。計画は、私のテニス参加を考慮して時間配分を決めていたので昼食という段になって、野田が肉はダメということだったが、あまり吟味する余裕もなく途中のドライブインに入った。

そこはステーキが売りの店で、結局彼はカレーライスを注文した。全員食べ終わって、隅に肉だけきれいに残った皿を下げに来たウエイトレスに、彼は「ゴメンネ」と謝っていた。ここに彼の気配りの本質を見た。

 現在、我が同窓会は2年ごとで、その都度幹事が選ばれ、事前にアンケート形式で会員の希望を聞くという形式が一つのパターンになっている。その中で開催日に関しては、第一線からのリタイヤ組の増加に伴い土・日よりも平日希望というのが大勢を占めており、いまは連休と平日の中を取って、日・月で開催されることが多い。私は本来土・日でないと困る組だが、日・月で月曜日だけ休暇を取って毎回参加している。が、3日目オプションの観光旅行は参加できない。そこでせっかく空いている土曜日を利用した前泊の観光を考えた。手前勝手だが、その方が初日のテニス参加にも時間的な余裕ができる。本番で豪華なご馳走が出るので、前日は質素でもその土地の産物を食べさせてくれる民宿程度の宿泊を考えた。同じような状況であると思われる野田、河野両君を誘ったところ賛同してくれた。第1回は2010年、開催地広島に近い「しまなみ海道」の大島にある旅館で小泉も参加した。我々と同世代の主人が、定年後奥さんと二人で経営する民宿型で、自分で取ったり仲間の漁師から手に入れた地の魚をふんだんに食べさせてくれた。ホテルや温泉の大旅館では出てこない魚ばかりで、刺身、焼き魚、煮魚、から揚げ、果ては吸い物にまで多彩な姿で。肉を食うと便秘が起こって腹具合が悪くなると言っていた野田も、このときは全部食べてくれた。

 この企画は小川も交え3回続いており、宿泊先選定のための情報は、毎回河野に頼っている。野田は、最初の下呂温泉のときを含め、前々回の長野県駒ケ根温泉まで毎回参加してくれた。いつのときも彼一流の気配りで、高速路通過のたびごとにアナウンスされる料金をきちんと記録し、給油の金額や走行距離の概算から暗算や骨太の計算で各人の負担額を瞬時に決めてくれた。前回の西浦温泉のときも参加の予定で、事前計画のための食事会も来てくれたが、直前で体調を崩され同窓会も欠席された。

 同窓会の前後から何度か電話して様子は聞いていた。(心臓の)冠動脈に狭窄があり、拡張のためのステントを挿入しているが、ほかにも腹部に痛みを伴う不調があり、いろいろ検査をしているが、これといった原因はわからないということだった。折りから、山河から電話だったかメールだったかで、彼のことを聞かれたので、そのときわかっていたことをすべて伝えた。直後に、彼は野田に直接見舞いの電話をした。それを受けてそのときの二人の結論は、①冠動脈の手術は医師の判断が近く出るだろう②腹部の不調は会社を中心とする彼の周りのいろいろな出来事から来るストレスが大きな原因ではなかろうか、ということになった。ただ、野田に何かがあったら必ず知らせて欲しいということだった。加えて、幹事の乾が同窓会直後奈良に帰省したとき野田を訪問。その結果はみんなにメール配信されたとおりである。

 今年は同窓会の年ではないが、いつもの前泊旅行のようなものができないか、あるいは食事会だけでもと思い、その前に5月まず野田に電話してみた。

そこで知ったのが3月に胆管がんの告知を受け、既に手術できない状態だという驚愕の事実だった。

 入院先から戻ったちょうどその日で、もう休んでいるということだったのでまた後日にと言ったが起きてくれて話を聞くことができた。行けば会える状態のようであったので、5月31日、ひとりで自宅まで見舞いに行った。同窓会前後からずっと体調不良が続き、秋にはペット検査まで受けたのに、何もわからなかった。今回、確か心療内科の先生に肝臓の数値が異常に高いことを指摘されて、初めて分かったという。胆嚢から十二指腸へ行く途中のところで、癌が管をとりまいているので手術は不可能と言う。奥様と二人から話を聞き、医師による診断書まで見せてもらった。私は動顛していて、今後どのように動けばいいのか判断できなかった。ただ、本人は食べられないということで痩せてはいたがしっかりしていて、このまま自宅療養と会社の業務も続けるというようなことだった。奥様によると、「いつもはもう少し辛そうで寝ていることが多いが、今日は百野が来るというので、小ざっぱりした服装でずっと起きて待っていた」ということであった。野田のことだから、すぐにでも幹事に連絡して彼を思う全員に現状を知らせて欲しいと思ったが、そうなったときの反響や彼の受取り方を思うとき、いますぐはそうしないでおこうと思った。彼の立場になったとき、自分ならどう望むだろうかということが想像もできなかった。

 彼の交友関係もよく知らなかったし、誰か知らせて欲しい人は、と聞いたが首を横に振ったので、また来るということでその日はそのまま辞した。

帰ってすぐに山河に電話したら、吉原と二人でと海外旅行中とのことで帰国を待った。数日後、折り返し電話があったので事実を伝え、大阪方面に来ることがあれば見舞ってやってほしいと言っておいた。

しばらくして山河から電話があり、野田に電話したら現在入院中で面会は可能、近く見舞いに行くということだったので、6月23日生駒市にある近大奈良病院への見舞いに同行した。車で行く途中の話で、彼が野田と家族ぐるみの付き合いがあったことが分り、彼から野田とクラスメートとの交友関係を詳しく聞いた。病院では二人の話がはずみ私はもっぱら聞き役に回ったが、前回私が訪問した時よりも話の範囲がずっと広がった。別れ際に握手を求めて野田が彼に手を差し出した情景は、思い出すたびこみ上げる物がある。

 帰る際、病院のロビーでしばらく山河と話をしたが、二人の結論は、思っていたより彼がしっかりしていた、奥様が気丈に応対してくれたのが何より心強い、手術はできないということだがあとは彼の免疫力に期待してできるだけストレスを避け少しでも長くいて欲しい、我々もそのサポートを続け、来年の同窓会では彼の頑張っている状態を皆に報告しようということになった。

7月に入り、氏神である神社の氏子総代を務めている関係で夏祭りの神事に忙殺され、無事終了して跡片付けが終わった翌7月21日の昼過ぎ、それを待っていたかのようなタイミングで奥様から訃報の第1報が入った。祭礼関係の支払いに神社へ行っている間のことで家内が聞いた。夜半に亡くなったので、後のことは決まり次第ファックスで連絡するとのことであった。

予想だにしなかった速い展開に動顛したが、まずはその段階で、新旧幹事の水野、乾と山河に第1報をいれ、夕方のFAX到着を待って第2報をいれた。それが全員に配信されることになった。

通夜には、近くに住む仲間が私を入れて6人、葬儀には遠方の4人と私が参列した。特に葬儀のときは山河、志水、私の3名は斎場での最後の別れ、骨揚げ、さらには当日行われた初七日の法要まで同席することができた。

 同窓会の仲間みんなが持つ印象では、おそらく野田が群を抜いて多く、今回の訃報を聞いて驚いたことと思う。現に、石野がすぐさま電話をくれて、様子を聞いたうえ、「自分の息子に不幸があったときわざわざ家まで来てくれた、今回何ができるだろうか」という相談で、いかにも何かしないといられないという思いが伝わってきた。やはり闘病中の様子を、早い段階で皆に知らせておいた方がよかったのでは、という思いが拭えない。

とはいえ、我々もみな何が起こってもおかしくないところまで来ている。

野田に対してあまりに早い逝去を惜しみつつ、冥福を祈るというよりまた会おうという思いでいる。

こちらから向こうは見えないけれど、向こうからこちらはよく見えるに違いない。どうぞ我々を見守りつつそちらでの同窓会の準備をしておいてほしい。

以上(文中敬称略)

2015年8月 百野 正直  

野田君についてのとりとめない記述です。   (志水  作成順)

高校も同じだった野田を知ったのは大学に入ってからだった。高校は同じだったが、野田は、歴史と地理の選択で地理を選択し、僕は歴史を選択したのでクラスが異なったのだ。天王寺高校は進学校で、隣のクラスでであってもクラスが違えば付合いはなかったのだ。また、我々の大学で知り合う経過についても全く覚えていない。が、野田の性格から考えるに、僕が最初に土井、殿村と知り合い、最後に野田もその仲間になったのだと思う。その知り合う過程に全く記憶が無いのだが、その点は土井、殿村達が覚えているかもしれない。そのことは僕もまた、両君に聞いてみたい。が思うに、大学の教養課程校舎は阪急宝塚線の石橋で、帰路が4人とも同じだったのが大きく関わっていることと、4人とも、恐らく家庭の環境も影響して、賭け麻雀をすることもなく、酒を飲むでもなく、パチンコに耽ることもない、極めて真面目な学生であったことと、帰宅の電車経路が殆ど同じだったことが大きく影響していると思う。(なお真面目な学生ではあっても、僕は真面目に勉強していないし、その他の3人は比較的真面目に、特に野田は人知れず真面目に勉強していたようだ。)しかし、僕と土井が阿部野橋から近鉄南大阪線に乗るので地下鉄御堂筋線の大国町経由であったのだが、殿村は近鉄大阪線か、若しくは、奈良線であった。当時、大阪線・奈良線の終点は難波まで延長する以前で両線の終点は鶴橋だった。いや、ひょっとすると上本町だったかな?とにかく、難波までは来ていなかった。だから、殿村の通学経路は大国町経由では無かった筈なので、我々のグループでの殿村との関わり始めが良く判らない。加えて、僕、殿村と土井との関係に比べて、野田は大学同クラス内に付合いの幅が多く、例えば、山河や摩耶などとも付き合っていて、野田の交友関係は我々以外にもかなり多かったと言える。特に天高卒で阪大の機械工学科に進んだのは、何故か、地理選択者が多く、従って、野田には高校で同じクラスであった友人が多かった。他方、同じ高校卒の僕は、先述の様に、地理ではなく歴史選択クラスであったから、彼等とは面識がなかった。そんな事情はあるものの、野田を加えた僕たち4人は大学休暇にも、何かと集まってはうろついていた記憶があり、それに学期中も、野田の自宅が我々の帰宅経路にあったので、しばしば野田家を訪問した記憶がある。更に野田の弟君を交えて麻雀もしたらしい、と、これは葬儀で再会した弟君から教えてもらい、そーなんだ、と、そのことが全く記憶から抜けていたので驚いてしまった。が、そうだとすると、人数的には、殿村はやはり通学経路が異なることから、その際には一緒でなかったことになる。だが、殿村とは一緒に、野田家の車を借りて遠出した記憶もあるから、殿村を含めての4人はかなり親密に交際していたと言えるだろう。

野田との関わりで最も重要なことは、山登り、と言うか、低山歩きを彼の発案で始めたことだろうと思う。僕や土井、殿村も、野田に連れられて、登山靴や、寝袋、バッグ、ニッカ、それにテントまでも、市内の場末に行き購入した。なぜ、彼がそのような商店の在り場所を知っていたのかが今になって不思議に思う。たぶん家業のハトメ製作の関連だとは思うが、彼が何故知っていたのかを聞いておくべきだったと今更ながら後悔している。それはそれとして、とにかく、我々の低山歩きは彼の先導なくしては始まることはなく、そこまで我々の面倒を見たってことは、野田の交友関係の中で、僕たちが重要な位置づけにあったことも事実だろうと思う。ただ、低山歩きの行き先の多くは、何故か、野田ではなく僕がアレンジした記憶があり、その点が不思議でならない。例えば、1年の春、秋の、大峰山から熊野までの麓歩き(山稜部は降雪で立入禁止であった)、2年時の岡山の帝釈峡、四国の室戸・佐多岬歩きなどは確かに僕が計画した。が、学部更には大学院になってからの日帰りの大台ケ原歩き、とか、高見山連系歩き、京都愛宕山山麓歩き等は野田が計画した。(なお、黒部連山歩きや、四国石鎚山系縦走は、水力研究室の小川助教授が計画し、僕と野田が同行した。)かように、野田が居なければ我々の山歩きは無かったことになるのだが、後年、野田いわく「我々の山歩きは、歩くだけが目的になってしまったなぁ」と悲しそうに僕をみつめて文句を言い、それに対して僕は、心の中で、悪いことをしたかのような気分になったことがある。がしかし良く考えてみると、彼との山歩きの経過からすると、「歩くことだけが目的になり、山野草や山鳥の観察をしなかった」との原因は、むしろ、野田にあったのではないかと、今になって文句を言いたいと思う。その件は、僕があの世に行った時に強硬に主張するとして、それはともかく、野田はその低山歩きを生涯続けた。野田の凄い所は、何事によらず、その継続の力だろうと思う。

彼にとっての色んな交友関係の中で、僕のグループがある程度は重要であったと思う。ただ、グループ外の山河や百野との、野田の付合いが、彼の人生や、彼の最後において極めて重要な役割を果たしたことも、事実だと言える。特に山河や百野の誠実で確実な性格は野田にとって重要な友であったろうと推測している。

野田には、その他に中学時代や高校時代の付合いも残っていたのだろうか、そのことについては全く知識がない。

かような僕と野田との関わりも、僕が千葉に引っ越してからは、ちょうど入れ違いに野田はNECを辞めて大阪に帰り家業を継いで、その関わりは希薄になった。特に、大学の同窓会については、僕がその意義を余り感じなくなり、出席を辞めたことから、仕事柄付合いを大切にする野田としては快く思っていなかったかもしれない、が、野田のそのことについての考えを聞いたことは無いので憶測に過ぎない。野田との付合いは希薄になる一方だったが、東洋ハトメの東京事務所設営、や、工場を名張に建設したことは何かの折に野田自身から聞いて、小企業を維持すること、特に何人かの従業員の生活を支えていることに、心から感服した記憶もあり、暫く難聴で苦労していたことや、東海道の徒歩旅行などについては年賀状の遣り取りで聞き知っていた。
かように野田との付合いは希薄になったのだが、僕としては、野田なれば、何があろうとも、いつでも、おう!と言えば、やぁ、と答えるようなお互いに認め合う間柄であったと信じている。それは大学時代の損得無い数年間の付合いから生まれた産物だと思う。つまり、野田にとっての僕の存在価値は相当衰えたと思えるが、僕にとっての野田は、今もなお、親友の一人であったと、間違いなく言える存在であった。それゆえ僕は、今年の年賀状でも、野田の体調が元に戻ったとの噂を聞いたので、一緒に海外への個人旅行に行かないかと誘ったのだ。残念ながらかような結果になり、野田と共に海外の知らない街をぶらつく機会が無くなったことをとても残念に思っている。特に、海外には野田の好きな低山があちこちにあるのだ。本当に残念だ。

ところで葬儀の日に、野田の奥さんから「志水さんの奥さんの料理を食べたのが楽しかった」と聞いた。野田夫妻が我が家を訪れたことがあったのかと驚き、帰ってから女房に聞いたら、そうではなくて、我が夫婦が野田の学園前の家を訪問し、女房同士が一緒に料理をして、それを皆で食べたとのことであった。僕の記憶からは全く消えていたが、野田夫妻とそんな風に付き合っていたとのことに、なんとなく喜びを感じた。

野田は、とても精神が安定した男だと思う。それに用心深く慎重だ。僕も慎重な方だが、往々にして慎重な精神は、悲観的で臆病になるものだ。僕の場合は典型的にその性格となっている。が、野田はそうではない。慎重でありながら楽天的で前向きだ。そもそも、ハトメ製造に関わるなんて将来性に疑問を持つ筈だが、野田にはその様子は全くなくて、着実にハトメの製造と販売に励んでいた。しかも、野田は酒を飲まず、性格的に人にへつらったり、それに中小企業では必須と思える接待なるものを出来る性格でもない。そのことも自分で判っている筈だ。僕が野田の立場であったなら、その時点でハトメからは手を引いたことだろうと思う。が、野田はその道を進んだ。楽天的としか言いようがない。しかも、その道で何事かを成し遂げ、更に何名かの従業員の生活をも維持している。東京に支店を出したり、名張に工場も建設している。とても僕のような臆病者にできることではないと感心していた。大学教育とか大学院教育の意義は、性格が臆病でも、“なんでもやれば出来る”との精神力を養うことで、実際に僕の場合は、その効果があったのだが、野田の場合は、そのような自信そのものが生来の性格の様だった。例えば、無線の資格を持ったり、天気予報図を作ったり、登山に興味を持ったりと、僕たちのグループの先取的な行動の殆どを野田が始めている。しかも、彼は勉学にも真面目に励んでいる。大学卒業時点では、成績優秀ってことで、機械工学便覧なんてものも貰っている。かように、思い出すだけで、得難い友人を失ったことだと、改めて悲しくなってしまう。

野田君との付合いで出来るだけ「忘れるように」しているのが、野田の結婚式の司会のことだ。何か途中で疲れてしまって、適当に飛ばしてしまった記憶があり、その後、その件には一切触れることなく付き合ってきた。この機会に謝罪してしまい、気兼ねなくこれからの僕自身の生と死を受け入れることにしてしまう。

NHKで放映された、白熱講義によると、悲観的な人は過去の出来事で、自分に取って嫌な思い出を選択的に記憶するようです。その悲観的な僕が、上記の結婚式の司会のみを覚えているってことは、野田との付合いの多くが楽しいことであったとのことだろう。つまり残念ながら、僕が悲観的なために、更に多くの楽しい付合いについての記憶が残らず、そのために、それらの事々を伝えられないってことのようです。しかし、時に野田との、特に旅の記憶の断片、例えば、熊野の山中でなぜか犬が数日に亘り我々の仲間の如く附いてきて、後2~3日で帰阪する日に、たまたま出くわした猟師がその犬に興味を覚え「連れて行って良いか」と尋ね、我々の了解を得て綱を掛けて連れて行ったが、その後はどうしたのだろうか、とか、同じ旅で、テント内で眠っていると川底を転がる小石の音がうるさかったとか、四国への旅では、室戸岬でテントを吹き飛ばされ、急ぎ撤収して、会計担当の野田が財布を失ったとか、佐多岬で小学校で泊めてもらった朝に、野田と北村の靴が消え去り、どうやら子犬が咥えて行ったらしく床下で見つかったとか、思い出すと、途切れなく続く、それも細々とした思い出に、その懐かしさに、思わずにやにやとしてしまうのは、これは人間の脳が、悲観的か楽観的かに関わらず、いろんな記憶を脳内に持っているからだと思える。これからも、折に触れてかような彼との思い出が現れることだろうと思う。

と書いている最中に、ある出来事を思い出した。広島での同窓会で、我々に指定された待ち合せ室で菅波と二人だけで居たときに、突然、菅波が「財布が無い」ことに気づいた。彼の荷物の中も十分に調べたが見つからず、僕も同行して、落し物の届けが無いかとリセプションに行ったり、菅波の自宅に電話したりとドタバタして、待合わせ室に戻ると野田が居た。彼に事情を話すと、突然野田は、待合わせ室の椅子を動かして後ろの隙間を探し始めた。と、直ぐに、ひとつの椅子の後ろで菅波の財布がみつかった。この挿話が野田の性格を良く示していると思う。なお、同窓会の後、菅波から、面倒を掛けたね、と僕には菓子箱が送られてきたが、野田にも送られたことだろう、と、これも突然に思い出した。 

ところで歳を取ると、とても怒りっぽくなるようだ。少なくとも僕はそうだし、あの善良な山河でさえそう言っていた。たぶん、自分がなんとか人並みの人生を過ごしてきたとの自信の、逆の表れだと思うが、その点は野田はどうだったのかな、等とも自分のあり方を野田との比較で考えてしまうこともある。それに答えてくれる野田、恐らく、とても有用な助言を与えてくれるであろう男がいないことにも、とても残念な思いを感じる。

野田君との付合いとか、彼についての雑多な思いを、思いつくまま記述しました。野田剛君についての、ご家族のとは異なる観点からの彼についてのプロフィールだと読んで戴ければ幸いです。 

大切な人を失った落胆に加えて、とても暑い夏です。体調を崩されることのないよう、心から願っています。 
                         20158月 志水勇

野田君についての取りとめのない記述    (山河 作成順)

 ミステリー小説の懸賞作品に応募して、準決勝位まで(確か)残った筆力を持つ志水の後にこれを書くのは、気が進まないのだが、他ならぬ野田についての思い出だからと、勇を奮って書くことにする。

 今年は、吉原と63日まで、14日間のバルト3国の旅に出ていて、帰ってくるなり、家内から百野さんから電話があったと。直ぐ電話すると、野田が「がん」らしいとのこと。早速見舞いにと思ったが、今回の旅行は年のせいか、体調の回復が思ったより掛かり、ようやく見舞いに行けたのが、623日だった。

百野も快く付き合ってくれて、何時も同窓会の時に大阪組が、前泊旅行の際に集合する環状線「森の宮」で落ち合って彼のVWで、近大奈良病院に向かった。

病院では、久しぶりの野田だったけど、体は痩せていたが、顔はあの野田で、先ずは一安心をして、奥方を交え、とりとめのない話をあれこれした。彼は結構人望があり、この状況を知れば、多くの人が見舞いに来る事になるが、彼に尋ねてみた。具体的な人名も出したが、多分遠慮が半分以上と思うが、二人が来てくれればいいという事で、百野とも話をしてこの件は我々の間で納めておこうと決めた。

その時の様子から、多分また会えると思い握手をしてその場を辞した。それが、1カ月を経ずに逝ってしまうとは、本当に驚いた。

この時も、百野から連絡を貰ったのだが、7/20から、東京の娘の所に行っている時に、家内から百野さんから電話があったとのことで、早速折り返したら、野田が亡くなったとのこと。又会えると思っていただけに言葉を失った。

しかし、東京に来ているから式服もなく、夏のジャケットで葬式に参列するわけにいかないなと思っていたところ、大竹から宅急便で送れば、23日の葬儀の朝、式場に届くとの事。幸い朝一番で届いていて、葬儀には礼を失することなく参列できた。

葬儀では、棺で彼と別れをすると共に、斎場まで志水、百野と共に同行させて頂いて、骨も拾わせて頂いた。彼の人柄を示すような綺麗な真っ白な骨を持った時はこみ上げるものがあった。その後初七日まで勤めさせて頂いて、帰路に就いたが、両君と共に「東洋ハトメ」の工場の前に行き、新しくなった事務所の前まで入らせてもらった。事務所の感じは同じで、良くここに上がりこんで野田と話をした事を思い出していた。
 さて、そもそも何故野田と親しく付き合うようになったか、そのきっかけは思い出せない。志水の文にもあるように、野田、志水、土井、殿村の4人は良くつるんでいて、どのメンバーの名を言っても4人の顔が同時に浮かぶほどだった。機械製図は、出席番号順だから、山岡とか村岡などとは話すことはあったが、野田は少し離れていてそれほど話す事もなかった筈。確かに彼は大国町で、私は地下鉄で2つ先の岸の里だから近いことは近かったが、石橋も京橋も一緒に通学した事はなかった。

(もっとも、私は航空部などクラブに属していたせいもあるが) 

しかし、我々が「数解」と呼んでいる数学解析の城教授は、機械科の学生にはとりわけ厳しく、「数解」の単位を取れずに1年半の教養課程を終えることが出来ない話は良く聞いた。だから、この教科については、皆結構ナーバスになっていた。

ここで思い出すのは、流石に家で一緒に勉強は無かったが、長電話で「数解」について野田と教え(?)教えられるを繰り返していたことを思い出す。

という事は石橋の教養時代から野田とは親しく付き合っていたと言う事だ。

あまり関係ないが、卒業後三菱レイヨンに就職して、大竹に配属され、独身寮に入ったら、7-8年先輩のちょっと変わった阪大の先輩「城さん」が居て、当時白いコロナを乗り回していた。我々もあの年代になると車に乗れるかなと微かに憧れをもっていたが、何とこの城さんはあの城教授の息子さんだとのこと。成程と妙に感じいった事を今でも思い出す。(詰まらないことはよく覚えている)

 学生時代、確か野田、土井、殿村などと天城峠を歩いたような気がする。先日志水と話をしたら彼は一緒ではなかったとのことで、大学からの工場見学の東京方面組が、その帰りに行ったようだ。ただ、他の連中はタフだったから結構しんどかった様な気がする。

 卒業後は、彼はNECで東京だったのでそう会う機会もなかったが、大阪に戻ってからは、広島から大阪に帰省する機会をとらえて何回か彼の家を訪ねた。家に行くとお母さんが出てこられて話に加わって話が弾んだ。どんな内容の話か思い出せないが。

その後、大体同じ時期に結婚したので、これも家内を大阪に連れて帰った時、野田の家に挨拶に行った。しかし、何故か野田の結婚式には出なかったので、志水の迷司会振りの記憶はない。

家内と奥方とは結構気があったようで、昭和54年頃私がポルトガルに長期出張に出かけている時に、奥方が子供さん2人を連れて社宅のアパートに遊びに来られた。社宅だからそう広くはなかったが、その頃、若くてそんなことは気にもしなかったのだろう。

先日健一郎君に聞いたら覚えてないとの事だった。

結局、大昔だけど家族は大竹まで来られたが、野田は大竹に足を踏み入れることがなかった。暇になったら「奥方と2人で大竹に来いや」と言ってたが、実現することはなかった。その後、子会社の大阪営業所所長の時には、やはり会社経営の実務的な相談でちょくちょく彼の事務所を訪ね教えを乞うたこともあり、本も借りた。

 阪大の同窓会は、成るべく参加しているが、彼は律義に毎回参加して、皆の写真を幹事が頼むわけでもないのにしっかり撮って、CDにコピーして配布してくれた。これからこういう事もない。

彼の場合、百野、石原、小川、小泉などと同窓会の前泊旅行を楽しんでいた。

私も、渥美半島の伊良湖岬方面で同窓会をした時は、彼の車で、何人かと伊勢に行き、向かいの渥美半島に渡った記憶がある。この時石原が別荘を持っていて、そこに立ち寄ったから石原がいたことは確かだ。でも彼も故人となって今はいない。

また石川県の志賀原発の近くでの同窓会の時は、彼の家に泊めてもらって、翌日車で出かけた。今思うと、大体親戚の家でも泊る事がないのに、何故か彼の家には泊めてもらった。優しい言葉を掛けるでもないが、何か彼には人の気持ち和ませるものがあり、お言葉に甘えさせてもらった。

と書いてくると結構同窓会でも彼と一緒の機会が多いのに気付かされる。

 彼と顔を合わすと、硬派の面目躍如で、会社の経営の話、技術の話、特許の話と淡々とした話し方ではあるが、彼が精力を注いでいる様が良くわかるし、それを着実に一つ一つ実現している様は聞いていて感服するばかりだった。名張の工場も案内してくれて、この機械は石原の特許事務所で特許を出しているとか説明してくれた。

我々サラリーマンでは、うかがい知れない苦悩もあっただろうけど、私と会った時は、ぶつぶつ愚痴をこぼしても、人柄であろうけど前へ前への気持ちが出ていて快いものであった。大竹では、工場に出入りする協力企業の社長さんのイメージは、ゴルフをやり、夜は飲みに行くと言うパターーンを良く知っているだけに、彼の堅実で剛直なところが際立って感じられた。

 また最近の年賀状では、社会保険労務士の試験を受けるとあったが、これは難関で、内の娘もなんとか試験を受かったが、会社の休日を利用して塾に通ったり、塾仲間と過去問などの情報交換をしながらようやく通ったような試験で、この歳になってようやると驚いた。流石に病院に行った時、ちょっとやり過ぎたかなと語っていたのが印象的だった。

 今回、遠く離れていても、百野が迅速に手際よく連絡を取ってくれて、会社関係の花輪のなか、我々の花輪がしっかりあったり、大学時代の仲間が集まれたのは何よりで、改めて彼に感謝の意を表したい。

 長々と思いつくまま取りとめもない話ではあるが、これを書きながら彼との交流を思い出した。それにしても、奥方の事を気にかけながらの最後だったが、野田には、やはりもう少し頑張ってほしかった。

もう一つ付け加えると、義父の命日は5年前の720日かだから、野田の命日を忘れる事はない。

                     20158月    山河功資

野田君についてのとりとめのない記述  (土井 作成順)

 野田と付き合い始めたのは、志水の言うように帰路が同じで、真面目な学生で授業をサボることなく1日の最後のコマまで出席し、帰路の時間が同じだったということが大きくきく影響したと思う。

 麻雀については、かけることはしなかったが、お互いに負けず嫌いで、野田の奈良の新居や志水の藤井寺の別宅で徹夜で勝負した記憶がある。野田の弟君を交えたのは面子が足りなかった時だと思う。最後に勝負に勝つのは、冷静に確立の高い手で待って上がった野田が多かったと記憶している。これに関しては、野田、志水両君のご母堂にいろいろご迷惑をかけたと思うので、この場をかりて感謝したい。

 山歩きについては、ワンゲルをもじって「ワンダ-フント」(老婆心ながら‘渡り犬‘のドイツ語)と称して野宿中心の旅行を楽しんだ。資金の少ない小生にとって、御誂えの企画だった。野田は皆勤のメンバ-だったと記憶している。体つきに似合わず持久力があった。

 大峰山方面の旅行の時は、途中で道に迷い水の音を頼りに下って行ったが、滝に出会ってしまい行く手を遮られた。どうするかと議論した結果、野田の提案で元の尾根道に戻ろうということになり、瓦礫道を上るのに難渋したが、無事尾根道に復帰できた。そこでテントを張り、山の湧き水を腹一杯飲んだ時の安堵感は今も忘れられない。さすが冷静な野田の提案であった。

翌日は熊野川の川下りの船旅を満喫することができた。この折は、殿村が体調が悪くて参加せず、山河が参加したのではなかったかな。
(志水注記:尾根越えに失敗したので、169号線下北山村まで戻り、バスで熊野市まで出た。翌年尾根越えに再挑戦してこれに成功し瀞渓谷を新宮市まで歩いた)
 岡山の帝釈峡の時は、沢の近くでテントを張った。その夜、蛍が弧を描いて乱舞する光景は幽玄で素晴らしかった。また、翌日高原で休息していた時、食料(即席ラ-メン)の塩分のにおいで放牧されている牛の群れが寄ってきて、追い払うのに苦労した。小生は牛には慣れていたが、他のメンバ-は気味が悪かったものと思う。

 天城峠越えについては、志水も参加していたと思っていたが、先日の電話で一緒でなかったとのこと。山河の一文で彼が参加したのを知った。ただ、この時もテントで野宿したので、山歩きの装備の大きさから考えて、工場見学の帰路の帰りに行ったという山河の記憶には疑問がある。この時は三月の春休みだったと思う。(志水注記:修学旅行兼企業訪問の帰路ですから、山河の記憶が正しい)前日は小生が育英資金を受給していた関係で、日本育英会と提携している東京四谷の旅館で一泊した。翌日、天城峠でテントを張って野宿した。春なので寒さは大したことは無いと考えていたが、夜は冷え込み、ウイスキ-を飲んで寒さを凌いだのを記憶している。酒を飲まない他のメンバ-はどうしたのかな。

 同窓会では、野田は酒を飲まないので、一手に写真撮影を引き受けCDを配布してくれた。さすがに多忙なためか、律儀な彼に似合わず、配布は次回の同窓会の直前であったが。写真には凝っていたらしく、「白黒の画像は趣があり、古刹の壁の鄙びた風情、特に白壁の雨風でかびた自然の作り出した模様が素晴らしい」と言っていた。その時は“へえ~~。どこが面白い”と思っていたが、近年趣味で俳画を習いだして、墨の濃淡を生かして風景を描いてみると、その趣が解ってきた。これも野田の昔の一言に触発されたのかもしれない。

 山河が幹事で企画してくれた広島での同窓会の帰路、野田と大阪まで一緒しいろいろ雑談した。その中で彼は「よく一部上場の会社の役員になったな」と誉めてくれた。真面目に仕事をしているだけではだめで、“業界で生き抜く術を見出さないと成り立たないという会社経営の厳しさ”をよく解った彼の言葉だけに、嬉しく思ったのを覚えている。また、「大学院生の中には試験の際カンニングさせろという先輩がいる。俺は絶対に協力しなかった」と嘆いていた。彼は、ハトメ製造以外に、製造技術を生かして宝飾品の分野に進出し、会社を発展安定させて後継者に引き継いだ。これから、いよいよ自分自身の趣味の分野を楽しもうと思っていたと推察する。確か“奈良検定”とか、“数学の検定?”に挑戦すると言っていた。

 殿村の言うように逝くのは10年早かった。野田は前回の同窓会には体調がすぐれないとかで参加しなかったが、次回の同窓会では再会できるものと思っていた。そのため、お見舞いにもいかなかったが、今回の訃報を聞いてもすぐには信じられなかった。酒を飲み、タバコも嗜んでいる小生の方が生き永らえている。世にいう佳人薄命ということか。惜しい友人をなくしたものだと思う。我々も遠からず合流するので、その時はよろしく仲間に入れてもらえるよう祈る。

                    20158月 土井初治

野田君についてのとりとめのない記述   (殿村 作成順)

阪大機会工学科学生仲良し4人組(野田,志水、土井、殿村)が出来上がったのは志水の言うように、帰りの阪急電車が同じで、梅田駅まで4人で一緒に帰ることになったことと、4人ともまじめでマージャンや遊びでサボることなく全講義を聴講するという共通点があったため、何となくフィーリングが合う4人のグループが出来上がったと思う。

とはいっても、4人4様でそれぞれ異なる個性の持ち主であって、個性はそれぞれ違うけれども、違いを認めつつお互い何か新鮮なものが感じられてバランスを保ちながらグループを維持してきたように思う。

家が奈良県の郡山であったため大阪から距離が遠く、野田と一緒に遊んだ経験は私が一番少ないのではないかと思う。野田のお宅や会社にお邪魔したことはなく、一緒にマージャンをした記憶もない。

一番記憶に残っているのは、帝釈峡にリュックを担いで4人でのぼったことである。4人組に入れてもらったおかげで生まれて初めてワンダーフォーゲルなるものを楽しむことが出来たわけである。しかし、湖のそばでキャンプしたとき耳が痛くなって1日切り上げて引き上げることになり、皆に迷惑をかけたことを覚えている。野田は身体が小さい割にタフで感心した。

帝釈峡での一番の思い出と言えば、急な坂をやっと高原まで上り詰めたところで不意に牛の首がニューと目の前に現れ危うく転げ落ちそうになったことを思い出す。びっくりした―。どうもリュックの中にあるインスタントラーメンの塩の匂いに引き寄せられ、牧場の牛が寄ってきたらしい。その後も牛にまつわりつかれて必死で追い払うのに苦労したのを覚えている。

同窓会で野田との共通点は、お互い酒が飲めないことであった。ビールコップ半分で顔が真っ赤になる体質なのでウーロン茶で野田との旧交を温めるのが常だったが、野田は毎回カメラマンを買って出て皆の写真をとてくれ、あとで各出席者に郵送してくれた。野田の面倒見の良さにいつも感心し、感謝していた。

昨年(2014年)10月の西浦温泉での同窓会で幹事役をやらせてもらったが、毎回皆勤賞の野田が今回は体調不良で来られないということなので心配していた。その後野田に電話する機会があって様子を聞いたが、その時は声が少し細かったけれどこんなことになろうとは思いもよらなかった。この電話が野田の声が聞けた最後になろうとはーー。

米国に出張中であったため、葬儀に参列できなかったので先日(8月18日)大黒町の会社の方にお邪魔してお線香をあげさせてもらった。満中陰で仏になる前に野田にあって言っておきたかったからだ。奥さんと社長を継いだ息子さんにもお会いし、お悔やみをもうしあげいろいろ話を伺うことが出来てよかったと思っている。

「今、日本男性の平均寿命は80歳、女性は86歳の由。野田!逝くのは10年早かったなー。次回同窓会ではまた会えると思っていたのに」と心の中で野田に伝えておきました。

奥さんには次のように話をさせてもらった。

「考えてみれば、息子さんに社長を引き継いで会社の先行きに道をつけたし、お孫さんにも恵まれたし、男としての人生のフルコースは一通り歩んだといえるのではないでしょうか。10年早いことは誠に残念だけれど、やるべきことはやったのではないでしょうか」

奥さんと話をしていて、思いのほかしっかりしておられるのが判って安心した。

4人組の中で一番曲がったことの嫌いな性格で、一番頑固で、一番おとなであった野田。

安らかに眠ってくれ。いずれ俺たちも後を追っかけてゆくから。

その時はまた、4人組で仲良くやろう。

               2015年 8月 殿村兆史

2015年8月10日月曜日

JETSTARに釣られて屋久島・種子島へ

JETSTARのキャンペーンで鹿児島航路が安かった。
1人当たり、往復10,800円である。女房と話して屋久島に行くことにした。序に、植物学者の稲田さんに声を掛けたら奥さんも一緒に行くことになった。屋久島に行くのに植物学者が一緒ならこれほど楽しいことはないだろう。要するに、植物辞典と一緒に旅行するようなものだ。しかも、彼は何処に行くにも本物の巨大な辞典も常時持っている。
ところで、預け荷物無しで予約したがそれでいいのでしょうか。心配なのでもう一度確認する。
稲田さんに予定案を作成してもらい、手配関係は僕が担当した。
かなりあれこれと綿密に調べたのだが、今回は要約して記述すると以下のようになる。
先ず交通だが、鹿児島⇒屋久島 種子島⇒鹿児島はJALを予約した。こっちは、1人当たり21,000円とかなり高い。
屋久島⇒種子島はtoppyを使って6,000円となる。
宿は、屋久島3泊を安房の一軒家を予約した。
http://www11.ocn.ne.jp/~jyochiku/index.html
1人当たり3,000円/日で、素泊まりだが、隣が食堂だ。楽しみだ。
種子島ではビジネスイン種子島で朝夕食事付で、5,500円だ。
http://business-in-tanegashima.com/index.htm
種子島では、ヤクタネゴヨウって松の群生林を調べるとのことだ。
先生には、レンタカーの手配と運転をお願いした。完全無料のガイド兼運転手ですな。有りがたいことだ。
ってことで後はJetstarに乗るだけだ。いや!荷物をまとめなきゃ。

7月6日(月)
梅雨が遅れ更に突如台風が発生との悪条件で、生憎の雨天霧雨の中を、稲田さんが車で空港に連れて行ってくれた。列車だと5時に出発して、出発時間7:40の1時間前の6時40分着の予定が、高速を使えば1時間掛からずに着いた。空港そばのUSAとの名前のガレージ屋さんに行き、そこから送迎だが、第2ターミナルに行く。第2から第3まではShuttleBusだ。荷物は登山ステッキと、稲田さんのステッキ替わりの蝙蝠傘を、預け荷物とした。
飛行は順調で時間通りに鹿児島に着いたが、12:40発のJAL鹿児島⇒屋久島便が天候調査中であった。その便より前の便は運休となっていた。どうやら、屋久島の天候を甘く見ていたらしい。かような事態になると、僕のハイテンションスイッチが入り、頭の回転が速度を増すのだ。が、その回転が威力を発揮する前に、屋久島の霧(雲)が若干晴れて、我々は無事に出発することができた。但し、引返す可能性ありとの条件付きであった。が、これもクリアできて無事に屋久島に降り立った。
屋久島は、どうやら、朝便が天候の影響を大きく受けるようだ。
実は、帰路の種子島⇒鹿児島空路では更に混乱が起こり、種子島から鹿児島はTOPPYに替えて帰ることができた。これらの異常事態があれこれと生じたので、僕のハイテンションは旅の間はずっと続くことになった。おかげで、家に帰ってからは気分が鬱になってしまった。
ところで、今回の経験からすると、屋久種⇔鹿児島は、船便の方が安心で、但し、波高は6mを超えると欠航になるらしい。だから常に航空便の方が安心だとは言えないのだ。なお、高速船Toppyよりも、フェリーとか夜行船の方が荒天には弱いようだ。また、航空便に比べて、港と空港の間のバス1,200円が余分に掛かることも忘れないように。また、特別な場合を除き、Toppyが満席ってことは先ず無いようにも思えた。これらを考えて、鹿児島と屋久種との便を考えれば良いと思う。
さて、屋久島空港でレンタカーに乗ったが、その時点では豪雨となっていて、今回の旅の先行が心配され、それゆえに、僕の気分はハイテンションが続いた。
豪雨の中を安房の宿泊所に到着した。駐車場の手前が写真に掲載されていた一軒家であったが、案内されたのはその裏側のみすぼらしい一軒家であった。どうやら、こぎれいな一軒家は外国人に貸しているようであった。あれほど早くから予約してこんな扱いとは酷いのではないか。それに、日本の特に田舎の一軒家は、世界標準どころか東南アジアのアパートメントと比べて、特に手入れが不良で、ほこりの手入れとかは全く駄目で、更にトイレは狭すぎた。備え付けの調味料等は賞味期限も判らず、冷蔵庫は臭く、食器棚はかなり長期間清掃を怠っているようだった。惜しい施設だ。
http://www.booking.com/hotel/jp/tirol.ja.html?aid=357029;label=yho748jc-hotel-ja-jp-tirol-unspec-jp-com-L%3Aja-O%3Aunk-B%3Aunk-N%3AXX-S%3Abo;sid=f30d480c4b16f8e47c346c9455256349;dcid=1;checkin=2015-07-06;checkout=2015-07-09;ucfs=1;srfid=3b395b3883668e2436ea116fc66b1409ac10aa20X1;highlight_room=
なぜ評価が良いのか理解できなかった。
4人で、風呂を順番に入るのも時間が掛かり、翌日からは温泉を巡り歩いた。最初の「まんてん」は、1,600円と高く、公営は200~300円と妥当な値段であった。これ以上は細かく書かないが、屋久島の宿の選択は、要するに、大失敗であった。東南アジアの方が遥かに安く、しかも、住み心地が良いなんて悲しい話だ。
だが旅そのものは、特に、天候的なアクシデントはあったが、とても素晴らしいものであった。初日は、空港から安房へのレンタカーでの移動途中に豪雨となり、午後に予定していた屋久島ランドをやめて、大川の滝、栗生のリンゴ椿やメヒルギの群落、その後、麦生の千尋の滝を見学した。帰路、翌日の朝昼の弁当を安房、宿近くの弁当屋に予約した。その弁当屋は、昼間は人影の見えない店で、朝の弁当引渡しの4~5時頃だけ人が居るようで、注文の電話での受け方が、余りにも簡単で、大丈夫かと恐れたが、ちゃんと準備してくれていて、本当に助かった。が、屋久島の食事は、弁当に限らず、レストランでも味が濃すぎるようであった。
7月7日(火)
本日も雨が降っていたが、屋久スギランドまで行くと雨は小ぶりになり、車内で弁当を食べ、トイレを終えて、淀川登山口まで行ったら雨はほぼ止んでいた。
長石で特徴的な登山道を、淀川小屋→高盤岳展望台(霧が深く何も見えなかった)→小花之江河→花之江河に至り、昼食を食べて帰路についた。花之江河はとても美しい湿地で、しかも、若い鹿や猿の集団とお目に掛かることが出来た。帰路はキリが晴れて、高盤岳展望台からとうふ岩が良く見えた。なお、先導する植物学者がいろんな植物の説明を興味深くしてくれたが、旅を終えるとすっかり忘れて、それどころか、種子島に着いた時に地図に記された島北端のメヒルギ群落との記載で、「メヒルギって何?」と質問してあきれられた。そんな事情で、ここでは植物についての記載は省きます。なお、屋久島の長石はかなり特徴的なものらしいです。
http://www.ynac.com/forest/animalindex/basic.htm
夜は永田浜へ亀の産卵観察を予約していた。豪雨の中を永田浜に行くと、数十人の人が集まっていて、他に修学旅行生が観察するので彼等の見学を待ってから出動となった。幸い、雨は収まり、真っ暗の中を前の人にしたがって亀の産卵場所へと進んだ。極めて感動的な観察であった。
7月8日
本日、荒川登山口から縄文杉への登山を予定していたが、天気予報によれば、8日だけが晴れで、その後は接近する巨大台風の影響で荒れるとのことなので、予定を変更し、宮之浦から白谷雲水峡までレンタカーで行き、そこから白谷小屋までを行くこととした。ここは、入り口から素晴らしく、そこだけでもこの旅の意義があったと言えるほど感動的なコースであった。ただ、登りは河に沿いもののけ姫の森まで行き、帰路は奉行杉とか2代杉を通るコースで、帰路は支流を次々と渡らねばならず、我が細君は其の旅に無理だ!無理だと叫びながらのルートであった。が、其の度に何とか飛び越えることが出来たのが奇跡的であった。
さて、ここからが、この旅の、何と言うか、かって経験したことのない、ハイテンションな旅となった。
夜になり夕食を終えてから、宿の支払いをと、宿のオーナーの居るレストランに行くと、台風の接近で、波高が6mになると、高速船のトッピーが運休になるとのことであった。そこで、翌日夕刻にトッピーで種子島に渡るとしていたのだが、遅くなれば遅くなるほど台風が近づくので朝の便で行こうとなった。港に電話するも営業時間外との声がするだけなので翌日朝に宮之浦港に行くことにした。
7月9日
港に行ったが、事務所は9時までは閉鎖とのことであった。(実際は事務所ではなくて、待合ロビーに行けば良かったのだ)仕方なく、朝食を土産物屋奥で取り、再度、港に行き事務所に行くと、扉に、受付はロビーでと記載されていることに気づいた。直ぐにロビーに行き、夕方17:40発の種子島便を9:20のに変更した。が、到着保証無しとのことであった。しかし、船は殆ど揺れることもなく1時間弱で西表港に着いた。そこでレンタカーを借りて、宿のロビーに荷物を預け、翌日に行く予定のヤクタネゴヨウ松の群落地へと向かった。が、なかなか見つからず、まずは空港に行き、翌日夕刻のANA鹿児島便を、台風接近前に鹿児島に行くべく、ANA昼便に変更した。その後、空港近くの小学校校庭のヤクタネゴヨウを観察し、次いで、島南端の門倉岬、次いで、古代米施設を経て宇宙センターを訪問した。なかなか興味深い旅であった。
7月10日
いよいよ巨大台風が接近中である。航空便の様子を聞こうと空港に電話するが全く通じない。仕方なく、空港の様子を見るべく、観光前に空港に向かった。が、空港は全く深い霧の中であった。で、港に戻ると鹿児島行きトッピーの朝の便が、到着不確実の条件ながらも運航であることが判った。直ぐにこれを予約し、空港にキャンセル連絡しようと電話するがやはり全く通じない。あきらめて船に乗ると昼過ぎに無事鹿児島に着いた。鹿児島港の道路向かいにレッドペッパーがあり、ここで昼食とした。スイーツが食べ放題でかなりお得な昼食であった。
高速バスで空港に行きチェックイン3時間前になりチェックインしようとしたら、JETSTARの成田便は成田からの便が遅くなったがために欠航になっていた。案内嬢が小さな声で申し訳なさそうに言うには、良く聞き取れないが、宿泊と食事は無料らしい。で、宿は空港傍と町中を選べるらしい。とのことで、空港そばの鹿児島空港ホテルを選んだ。送迎バスがありこれでホテルに行きチェックインすると金を払えと言う。が、食事も宿泊も無料の筈だと言うと、とにかくチェックインしてくれた。後で、メールをチェックすると、空港で欠航を知った後で、Jetstarからメールが来ていて、ホテル代金10,000円/部屋と朝夕食事2,000円+3,000円/人の領収書での代金払いとなっていた。その後RECEPTIONに確認するとOKとのことだからホテルとJETSTARで話がついたのだろう。で、今回の旅行で最も住み心地良く、おいしい食事を味わえることになった。
なお、翌日、鹿児島空港で確認すると、前日の種子島→鹿児島便の中で、なんと、便変更後に、我々の乗る予定だった種子島→鹿児島便だけが、なんとか運航出来たらしい。これでは、キャンセル料金は返金されないのか、と心配したが、帰ってからANAに「キャンセル連絡しようとしたが電話が通じなかった」との言い訳と共に電話すると、その場で状況確認し、全額返金しますとのことであった。
ところで、JETSTAR成田便に乗ろうとカウンターに行くと、スーツケースが重すぎると言う。そこで、預け荷物許容15kgが5kgであったので、スーツケースの中身を預け荷物に移すことでスーツケースは許容重量内に収めることにした。
そんなことで、あれやこれや、どたばたとしたものの、全てが上手く運び、何となく、後味の良い旅として記憶に残ってしまった。どうも、特に後半は特巨大台風対策でハイテンションな状況で走り回った旅であった。こんなこともあるのだな、って思いだ。

旅費は、1人当たり約75,000円程度であった。
写真はここ。https://plus.google.com/photos/107577963727362767237/albums/6172771520846665089