2022年8月31日水曜日

安倍元首相の葬儀は、税金を使っての国葬ではなくて、統一教会に任せたら良いのでは?

 僕は安倍は国葬に値しないと前に投稿したが、日経でさえも、遅ればせながら、安倍元首相と統一教会の深い関係が報道しだした。昨日のNHKのTV放送では、統一教会内部側で、安倍への接近が過度ではないかとの意見さえ出ていたそうだ。加えて、今日の日経夕刊の随筆プロムナードで、歴史学者の藤原辰史氏は、岸・安倍の統一教会接近はナチズムの現れだと記載している。言うならば、今回の暗殺は安倍氏自身の不逞な行為への天罰でとも言えそうだ。
そう考えるなら、国葬よりは、統一教会自身の予算での、統一教会葬が相応と思える。どうせ彼らの金も日本国民から搾取した金だし。
葬儀が外交交渉の一環だなどとの詭弁はやめてほしい。まずは安倍氏の存在・活動への評価で国葬か否かを判断すべきであろう。
しかも、政府の金使いはとめどなくなっている。今回の国葬も100億を超えるのが真相らしい。しかも、葬儀の演出は、安倍の桜の会を仕切った業者とのことだ。それも、競争なしの指名入札とのことだ。

国葬落札は1億7千万円 「桜を見る会」担当の会社

安倍晋三元首相の国葬の企画・演出の業務について、東京都江東区のイベント会社「ムラヤマ」が1億7600万円で落札したことが2日、国の入札情報で分かった。入札したのは同社だけだったとみられる。国葬の送迎バスの業務は4社が入札し、新宿区の旅行会社「旅屋」が約520万円で落札した。落札額は両業務で計約1億8120万円となった。

国の入札情報によると、ムラヤマは2015年3月以降、5年連続で安倍元首相が在任中に主催した「桜を見る会」の会場設営業務を一般競争で落札している。17~19年の会では、いずれも入札前に、ムラヤマと内閣府が打ち合わせしていたことが発覚し、野党から批判された。

ムラヤマの広報担当者は国葬について「通常の業務の一環として入札した」と話した。旅屋は「担当者がおらずコメントできない」としている。

入札は一般競争で、8月17~18日に公開された。政府は22年度予算の一般予備費から2億4940万円を支出すると閣議決定している。

ムラヤマは他に、中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬や東日本大震災10年の追悼式、秋篠宮さまが皇位継承順1位の皇嗣の地位に就いたことを内外に示す「立皇嗣の礼」事務局などの会場設営や運営業務なども落札している。

国葬は9月27日午後2時から日本武道館(東京)で行われる。入札の仕様書によると、外交団など海外からの参加者は千人程度を見込んでいる。要人のセキュリティーを万全にするとし、会場入り口で金属探知機24台を設置する計画としている。〔共同〕

旧統一教会と政治 「票」が最優先だった関係

旧統一教会と政治①

安倍晋三元首相の銃撃事件後、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治の関係が次々と明らかになった。政治家は選挙での票と運動力を頼り、教団は組織への信用や声価などのために政治家を活用した。

全国霊感商法対策弁護士連絡会の山口広弁護士は「教団は資金集め活動が中心で、宗教団体というより営利・事業体と考えたほうが実態に近い」と指摘する。

山口氏によると教団はかつて日本での経費に100億円程度を使い、韓国本部に向けて「神様の指令」として年300億円の送金を指示した。1980年代は年600億~700億円が日本から韓国側に流れたとみる。

日本で霊感商法が社会問題化した80年代後半から送金額は落ち「最近は年100億円に満たない」と分析する。それでも収益の8割以上は日本からとみている。日本が資金源になってきたとの見方は多い。

韓国への送金と対照的に日本の政治家への多額の献金が判明した例は少ない。共同通信は全国会議員にアンケート調査をした。教団に関係する組織や人から政治献金を受けたと答えた議員は、自民党の下村博文元政調会長と国民民主党の玉木雄一郎代表だけだった。下村氏は6万円、玉木氏が3万円だ。逆に関連団体に会費を払ったという議員もいた。

関係は資金より集票力に重点がある。「信者が仲間を連れてきて電話かけやビラ配りを手伝ってくれる。無償かつ有能でありがたい。宗教を理由に断れるわけがない」。衆院選で支援を受けた自民党議員の秘書は語る。

公職選挙法上、選挙の多くはボランティアに頼る。手当を出せるウグイス嬢や運転手、事務員をもし25人雇えば12日で500万円ほどになる。

7月の参院選で当選した自民党議員は今回の選挙で2回「統一教会の票をまわす」と声をかけられたが断った。「統一教会の名前を出して誘うのは関係を示したいからだと思った。『知らなかった』と弁明する議員は考えられない」と話した。

教団の元信者だった金沢大教授の仲正昌樹氏は「教団側は『政治家というVIPと共に社会的に貢献している宗教』とアピールする目的がある」と解説する。

教団の田中富広会長は8月10日の記者会見で「特定の党と関係を持つという態度はとっていない。政治工作という意味合いではなく、より良き国づくりに向かって共に志をひとつにしておこうという姿勢の中からの交わり」と述べた。政治との関係をたどると安倍氏の祖父・岸信介元首相に行き着く。「岸先生に懇意にしていただいたことが勝共運動を飛躍させる大きなきっかけ」。教団の初代会長は著書で記している。「勝共」とは「共産主義に勝つ」の意味だ。68年に教団は政治団体「国際勝共連合」をつくる。名誉会長に日本船舶振興会を創設した笹川良一氏が就いた。笹川氏が岸氏と教団を反共産主義でつないだ。両氏は極東国際軍事裁判で巣鴨拘置所にいた。

その後、福田赳夫元首相がつくった派閥・清和会を経て、現在の安倍派(清和政策研究会)まで教団との関係は引き継がれた。安倍派議員の秘書は「安倍元首相が教団の票や支援の割り振りを差配した」と証言する。

1選挙区で3~5人前後が当選する中選挙区時代、自民党の各派閥は選挙区に複数候補を立て、各派閥が後押しした。組織票が大事だった。

「韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁をはじめ皆さまに敬意を表します」。安倍氏は2021年9月、教団の友好団体のイベントにビデオでメッセージを送った。教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)氏の妻で現総裁の韓氏に「敬意」を示した。

7月の参院選で教団が支援したのは、安倍氏が首相時代の秘書官で教団の「賛同会員」になった井上義行氏だ。

井上氏は全国比例の個人名で16万5千票をとった。落選した19年参院選は8万8千票ほどだから8万票近い上乗せに教団が寄与した可能性がある。全国の農協関連団体は15万~20万票を動かすとされる。その半分近い力がある計算だ。霊感商法の問題を経て、教団との関係は水面下に潜った。再び活発になったのは2009年、自民党の野党転落後だ。12年の政権復帰後はその維持のため固い組織票と運動力が必要だった。

支援を受けなかった議員は実感が乏しい。特に建設や運輸など業界団体の票を押さえた田中派、経済界と絆があった大平派といったかつての保守本流の流れにある派閥はそうだ。岸田派議員は「自民党全体の問題ではない」と強調する。

霊感商法が社会問題として取り上げられなくなると野党も支援を受け入れた。立憲民主党は14人、日本維新の会は15人の国会議員に接点があったと発表した。

「憲法の定める政教分離の原則は、宗教法人の政治的活動を排除する趣旨ではない」。岸田文雄首相は8月15日、コメントを出した。憲法は信教の自由を保障する。「政教分離」は政治と宗教を遮断する一線を引くという意味ではなく、国の宗教への介入を禁じる概念だ。国が宗教団体を弾圧した戦前のような事態を避けることに力点がある。

米欧で宗教団体が政治に関わることは普通の話だ。宗教を冠する政党もある。05~21年にドイツ首相を務めたメルケル氏はキリスト教民主同盟を率いた。

日本では創価学会を支持母体にもつ公明党が与党にいる。山口那津男代表は政治と旧統一教会の関係について「政治と宗教一般の問題ではない。社会的に問題を抱える、トラブルを多数抱える団体と政党や政治家のかかわり方の問題」と主張した。

政治は反社会的な団体と関係をもつべきではない。「集票力」の観点ばかりで宗教をみてきた歴史が今回につながった。

教団の問題は何か。各国は宗教とどう向き合うのか。関係を問う。

2022年8月16日火曜日

バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。更なる続き

 僕の経験を綿々と紹介したいのだが、バングラデッシュ国への入国から設備納入完了まで、何しろ、海外旅行が初めてで、英語もしゃべれないって僕自身の事情だけではなくて、世界最貧国で熱帯の酷暑国で、雨季には国土の80%が水没するどころか、国土の南方の海岸500kmが河口デルタなんてとてつもない国での生活、それも田舎生活なんて、それに、例えば据付期間中に完全日食が起こって、昼間に突然夜が訪れるなんて経験などと、記憶の残ることが、日々続いたので、それも延べ、ほぼ1年以上に亘ってのことで、それをいちいち記述するなんて、とくのこの暑さでは、気力が充実しないと、とてもでないが書けないとおびえてしまった。
とにかく先ずは結果だけ書くと、最初の滞在は8月から12月でいったん帰国し、1月半ばから6月で据付スーパーバイザーは終えて、1年してから試運転に再出向で、3か月程度で完了証明を、それも、据付に参加した各社の中で最初に手にして帰国できた。
前にも書いたが、本体設備FOB迄の設備機器納入損益は、僕の管轄範囲外で、僕の管轄内の客先から支払われる据付指導員費での利益だけで、それも、納入品の不足・不良に要す費用も据付指導員費で補って2000万円余りの利益を出したのだが、なぜか本拠の新居浜では、僕の頭がおかしくなった等との評判があって、この案件の成功は、新居浜から出向した、余り信頼できない仕上師と、機械専門だが、語学勉強と電気指導の勉強を兼ねての検査員によってなされたとの評価となったようだ。その僕についての悪評を仕上師や検査員は特に否定もしなかったようだ。実は、僕が挙げたその成果は、僕の努力もあったが、その案件や現地組織の特殊性もかなりの影響があり、僕の努力がいかばかりであっても、かなりの幸運に恵まれたのが事実だ。ただ、案件の最初から僕が関与していれば、物品管理や梱包管理を確実にして、そもそも、この案件のような馬鹿な事態にはなっていなかったと思う。それに不思議なことに、僕がプロジェクトする案件は、いつも幸運に出会えるか、僕を買ってくれる客先に出会い、危機的状況からも何とかしのげるようであった。つまり、社内と違い客先の人は、真面目に頑張っている人間にはいつも評価するということだろう。
ところで、姑息な新居浜の評価なんてどうでも良いが、ただ大阪コンベヤ課の課長からすると、僕の評価は一気に高まって、苛めは一切なくなってしまったので、僕に取ってはまあまあの成果だったと言えるだろう。要するに、何をやらせても、どんな苛めにあっても、挫けることなく僕は任務を達成すると知ったようなのだ。

他方、新居浜の信頼できない仕上師への信頼は、僕はこの掲示板以外では告げ口なんて一切しなかったから、新居浜だけでなくて、僕の課の課長や彼の親衛隊でも、仕上師への強い信頼は引き続いていて、本件の後の海外案件でも製品検査や梱包検査だけでなく、現地据付も任せたもんだから、大赤字になってしまったようだ。
本案件での、納品の品質管理と物品管理の欠落を、僕がカバーしたことで、痛い目に合わなかったが故に、新居浜の仕上師にはその重要さが理解できず、その後の案件でも同じ失敗を繰り返し、それをカバーできる僕のような人間が居なかったので、悲惨な結果になったのだろう。ただ僕の頑張りにしても、先に書いたように、恵まれたサイトだったから成果が出たのだが、別のサイトではうまく行かなかっただろう。でも、僕が最初からプロジェクトを運営していたら、プロジェクトの成功・不成功は、物品管理と梱包管理に係る、と知る僕なら、かようなトラブルはそもそも起こさなかったと確言できる。

ところで、詳細経過については気候が良くなってから書くことにしよう。

2022年8月6日土曜日

バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続きの詳細と、その続き)

  僕が30代の初め頃、当時は、大阪土佐堀にあった住友重機械・運搬機事業部の土佐堀分室に勤めていた。事業部の本拠は新居浜なのだが、その1部門のコンベヤ部は大阪に進出して、土佐堀の、とあるビル内に土佐堀事務所を設けていたのだ。そうして当時は、ここに書いたように、その部のXX課長に苛められまくる奮闘の日々であった。その課長とは立場的には僕の尊敬する中谷部長の後継者なのだが、部長が彼を後継者を決めたのではなく、部長の意に反して上から指定されたようであった。

http://isabon.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html

当時僕は海上空港となる関西空港の埋め立てプロジェクトを、土建業会のワーキンググループの土取り機械設備計画の担当としてたった一人でサポートしていた。機械メーカーとしては我社だけが作業していたので、実現に際しての受注の可能性は極めて高かった。土建業者のバックアップ作業でそれなりに忙しかったのだが、XX課長は例の如く機嫌の悪い顔つきで僕を呼びつけて、超巨大コンベヤの開発プロジェクトを開始するので君がまとめろ、と命令した。関空案件では、泉南の山中から埋め立て土砂を海岸まで運び、これをバージで埋め立て現場まで運ぶのだが、膨大な土砂を短期間で搬送するため、搬送用ベルトコンベヤは、幅3m、搬送速度は300m/mと、巨大なコンベヤを必要とする。確かに、日本ではかってない巨大なベルトコンベヤだが、僕にすれば既存の技術であり、僕の技術力であれば開発プロジェクトを立ち上げるほどのことではない。そこで戸惑っている僕を無視して、誰と誰をそのプロジェクトに加える、と不機嫌に申し渡した。考えるに、受注していた製鉄所納入設備の処理に部の人員を大きく増やしたのだが、仕事が減って来たために余剰人員の人件費を開発費として本社負担に回して、その開発業務と余剰人員を僕に押し付けたわけだ。
僕が忙しい時には人員を一人も回さず、課長管轄の人員が余剰になると押し付けるってことで、その勝手な行動を隠すために不機嫌な態度となるわけだ。僕が彼の立場であれば、大量の仕事をこなすには人員を増やす以外の方法をこうじたであろうが、彼や彼の好む技術者にはそんな考え方は不要なのだろう。(住友重機械には、部下を増やすことが管理職の能力だとの風潮があるようだ)

開発と言ったところで、いったい何をすれば良かろうかと思うのだが、課長からは何の指示もなく、ただわけの判らんことを大声で怒鳴るだけなのだ。困ったことだ。そこで新しく部下となった川崎君と相談して、超大コンベヤの技術資料は僕の知る技術情報やそれを応用して巨大化に適用することなどでまとめるとして、それとは別に、自分達の技術能力を高めるべく、種々の施設での工業バラもの処理技術を集約することにした。実際の所、これらの技術情報は少なくとも、その後の自分の人生に非常に役に立ったのだ。

(これを書いている間に気付いたのだが、XX課長は、僕が八戸に納めた長距離コンベヤ設備の設計などのノウハウを知りたかったので、それを纏めることを望んだのかもしれない。しかし、長距離コンベヤのノウハウとは、ベルトコンベヤについての市販本にも書かれている基本技術とそれに、高校卒レベルの物理知識、つまり、力=質量x加速度(運動方程式) とエネルギー保存の法則、運度量保存の法則を加えるだけのことなのだ。ところが、XX課長にはそれすら理解しようとしないと言うか、臆病というか、僕が以前に実施した長距離コンベヤの設計手順を1からまとめた物が欲しかったと思われる。XX課長がちょっとは頭を使えば良かったのに、と思う。それに実際には、八戸での設計手順の殆どは部の倉庫に収納されている製番ファイルの中に納められていて、誰でもが閲覧できるようになっていたのだ。)

この開発業務に加えて、課長は「コンベヤ用ローラの開発」って課題も指示した。当時の技術からすると、コンベヤローラにはそれほどの技術的な要望があるわけではなく、価格的な競争商品であるので、住友重機械が手を出す商品ではないと思ったが、課長は高防塵の高性能ローラを開発せよと指示したのだ。
この人のやることや言うことは何が何だか判らないと思うのだが、反論すれば沸騰して絶対に言うことは聞かない、指示に従う以外に道はなかった。その件には以前からの部下であった大西君に担当してもらったが、いずれの開発案件もわけの判らない指示を何とか形にまとめるべく混乱の極みで、川崎君や大西君には本当に苦労させたと思う。今から考えると、課長の指示には関係なく、何か新しい技術分野とか、若しくは、設計・生産技術の自動化とかを推進すべきであったと思える。更に振り返って考えると、XX課長の考えは、住金の設備増強が終わった時を考えての新規製品の開発だとも思えるのだが、ベルトコンベヤ設備受注の可能性が減ることを見越しての新製品開発で、ベルトコンベヤ部品の開発をするとは支離滅裂ではないだろうか?
ベルトコンベヤ設備に替わる新製品を案画すると指示すればそれなりの検討もあったのだが、本人がローラの開発と心に決めているのだからどうしようも無かったのだ。
なお、ベルトコンベヤ設備の設計自動化とか鉄骨構造物の設計自動化については、後年、自主無賃休日出勤を続けることで成し遂げた。

そんなある日、課長が僕を呼びつけたのだが、奇妙なことに、いつもの傲慢な口調ではなく、遠慮がちに話しかけた。

「FOBで納入したバングラデッシの肥料設備なんだが、鉄工課の馬場君を指導員に派遣予定していたが、彼は、イラクの肥料設備の据付監督に行くことになった。で、事業部長がバングラデッシュには据付責任者としては君に行かせろ、と言っているのだ。どうする?」
と、行けとは言わずに提案形の指示であった。中谷部長を通り越して事業部長に媚を売っている課長としては、事業部長の意向に逆らえないので、提案形の指示となったのであろう。
そもそも、設備をFOBで納入するとは、設備を構成する部材や単体機械を梱包して港で船舶に納入するまでが納入範囲で、現地での据付工事は納入範囲外となる。が、通常は客先からの要請により、現地の建設工事での据付指導員を派遣することになる。当然、指導員費用は追加として支払われる。本件では日当として、8時間/日の労働で、ほぼ30,000円/日が支払われることになっていた。現実には1日10時間労働で、土曜日もまるまる出勤だったから、住重の得る金額も、僕らの得る残業金額もべらぼうな金額になる。
住友重機械には、据付指導員の専門セクションはなく、概ね、鉄工課とか生産技術課などの現場部門から派遣されるのだ。だから、設計部門の人間が据付指導の責任者で派遣されることは無いのだ。つまり、僕の居た設計部門から、しかも、僕が設計を担当していなかった設備の、据付指導、それも、その責任者として派遣されることは通常では絶対的に有り得ないことだった。客先にしても日当いくらと金を支払って派遣者を要請する以上は、据付に経験豊かな技能者を期待しているのであって設計技術者を期待するはずが無いのだ。当然ながら客先が不適当と判断された指導員は、ディスクオリファイとして罷免されることになる。それどころか、その件の指導員派遣契約書によれば、英語も喋れないと罷免される恐れも充分にあった。
当時の事業部長は、社内では天皇と呼ばれるほど傲慢なのだが、お客さんには全く弱いとの人物で、僕も彼とは話をしたこともなかった。つまり、僕に経験を与えるとか育てるとかの意思があるはずもなく、何らかの都合で、本来は新居浜の現場部門が果たすべき任務を、それも、馬場君を他の現場に必要としたので、彼に予定されていた仕事を土佐堀のコンベヤ部門に押し付ける事情があったのだろう。なお、馬場君は僕と同期の人物で、京大卒の優秀な人材である。しかも彼は既にその件の現場も調査しており当然だが英語もぺらぺらである。
恐らく、新居浜の現場部門でも、バングラデッシュなんて国に、しかも、2~3人の少人数で、コンベヤ部の納入品であるが故に、新居浜の十分な支援も期待できない現場を、希望する人もおらず、僕を指名若しくはコンベヤ部の誰かに押し付けようとしたのだと思えた。
が、今になって考えると、事業部長が、僕を知ることもないから、我が部の課長には「馬場君はイラクの件で出せないことになったから、据付指導員はそっちで考えろ」程度に言った可能性があり、大阪コンベヤ部の管理部門には海外に派遣できそうな人材も無く、僕に白羽の矢を立てた可能性が高い。が、僕も英語会話なんてやったこともないので、海外に適当な人材とは言えない。
しかしそこで、課長は例の如く、事業部長の馬場君を確保したいとの要請に対して、都合の悪い仕事を僕に押し付けるべく、あたかも事業部長の指示であるかのように発言して、僕が断れない状況を作った可能性も高いと思われる。
据付には殆ど素人の僕を派遣して、失敗しても、自分には何の責任も無く、しかも、鬱陶しい僕を追い払える可能性さえ生まれると、実に見事な配慮ではないか。
こんな策略には僕は全く対応のしようがなく、数か月後に、据付が始まるであろう頃に僕は、バングラデッシに派遣されることになった。それも、据付指導の責任者としてである。更に、据付試運転渡しの仕事ではないから、僕が管理できる予算は、あくまで、客先から支払われる日当費用の範囲内になるわけで、若し製品の不良が原因でのバックチャージが発生してもその費用内での処理となるから、たちまち赤字になってしまう。ただ、恐らく本体収入との清算は行われるだろうが、僕の管理範囲内の収支はとにかく赤字になってしまう。しかも、設計には万全の自信のあるぼくも、据付指導に関しては全く経験も自信もなく、そんな人間を派遣された客先は、果たして、どう考えるだろうかとさえ心配になった。更には、先に書いたように、英語のヒヤリング・スピーキングも全く経験なく、それどころか、飛行機では新婚旅行で北海道へと往復に乗っただけで、海外には全く行ったこともなかった。しかも、その新婚旅行の旅程・手配も全て女房がやったのだ。こんな人間を、かような有り得ない事情で、しかも、据付指導の責任者として派遣する会社なんて、住友重機械以外には、どこにもあるまいと思う。
ただ、僕の場合は、運搬機事業部本拠の新居浜の設計部門とかとは異なり、客先の折衝から据付の手配までするプロジェクト体制的なコンベヤ部に所属して、プロジェクトの運営を、どちらかと言えば個人商店的な立場で遣っていて、当時は既に、八戸の長距離コンベヤ設備それに港湾設備の建設とか、住金の第三焼結設備やら、その他の細々を、苛め課長とは違い、最少人数で、傲慢かつ優柔不断な課長の邪魔を排除しながら、しかも大幅な利益を上げながら実行してきたから、現場の経験は、新居浜の設計者に比べればかなり有ると自信はあったが、据付に必要な重機の使い方とか、仮組の手順とか、心出しの方法とかの詳しい据付技術までは知らない。が、そもそも大学の修士課程って、何でも独力で解決する能力と言うか、気力を養う過程だから、出来なくても、出来ないとは言わないように育っている。だから、その時も何の文句も言わずに、苛め課長の指示を受け入れることになってしまった。

僕が出向することになった現場は、バングラデッシのAshuganjiの尿素製造プラントで、そこの粒尿素やそれを袋詰めした袋を搬送したり船積する設備で、世銀から借金して、英国のFosterwheelerがプラント全体をまとめる施設建設であった。つまり、英国人が現場の全てをコントロールするプラントであった。我が社が納入する物品は住友重機械の新居浜工場に集結最中で、その製品検査・輸出梱包の内容検査は、機械据付現地指導員として予定されているO君が行っていた。彼は、僕がプロマネをした住金鹿島焼結設備の指導員としても出向していて、彼の性格は十分に把握していたが、その性格は愛想良く人当たりは良いのだが、かなり大雑把で、しかもその場の偉いさんに巧妙に阿る性格で、信用できるものではなかった。が、既にXX課長には好印象を与えていて僕が変更できる状況では無かったし、そもそも僕には、人員を選ぶ選択権もない。与えられる人員で対処することで、今までのプロジェクトの経験から、その能力には自信があった。

いずれにしても、新居浜に集積された発送品の立ち合いをすべきだと新居浜を訪問した。数百にもなる梱包品の全てを調べることなど出来ないので、製品の仕上がり状況、梱包状況、と特に梱包リストをチェックした。が、梱包品はコンベヤ機番ごとにまとめるとの原則は配慮されておらず、異なった機番の物品が実に見事に混載されていた。国内での経験でも、かような梱包では据付現地に着くと、部品を求めて現場を探し回るか、膨大な梱包リストの中を探し回ることになる。O君自分が出向して据付指導する立場なのになぜ斯様なことに気づかないかと不思議に思った。が、かような細かい仕事は彼には向いていないのだろう。
既に全てが梱包されているので対処を考えねばならない。幸い、梱包リストはコンピューターに入力されていて、各品目の最後に機番が入力されている。そこで、O君に事情を説明して、機番ごとの部品の梱包番号を出力するようにと指示した。
話は飛ぶが、これで大丈夫だと思っていたが、結局彼はその作業やリストの重要性を理解できておらず、現地に入って山のように集積された梱包を前にして尋ねると、忘れていた、と答えた。あきれ果てたが仕方が無い。彼の性情を甘く見ていた僕の失敗だった。
そこで、現地では大量で膨大な梱包リストを鋏で切り分けて機番ごとに纏めるとの作業が必要になった。英国人で名前はキャノンなる据付人は、そのリストを作る前は、フオックンリスト(糞梱包ども)と連呼しながら、梱包を分解しては機番ごとに物品を並べるとの大変な作業をしていたが、僕の作ったリストでその作業は簡易化されて喜んだ。

出発前に英会話の勉強も始めたが、出張も多く余り進展はなく、あっと言う間に現地出張の時となった。出張の前に、本件や本体設備の受注を担当した東京の輸出部に挨拶に行ったが、東京の天皇と言われる輸出部部長(住重はあっちこっちに天皇と言われる男が居るのだ)は機嫌が悪かった。運搬機事業部が優秀な京大卒で、鉄工課の馬場君の代りに、名も知れぬ大学卒で、とても貧相そうな僕を、しかも仕事違いな男を選んだから不機嫌だと思えた。それどころか、今回の出張には営業部員は派遣できないと言う。自分で勝手にやれってことだった。先の話になるが、本件担当商社のバングラデッシ支店も、本件の担当には日本語の喋れない現地人社員だけを担当にして、しかも、建設現地には行かないとのことだった。その現地人は建設現地と日本との連絡業務を処理するだけの担当とのことだった。建設現場とダッカの商社とは無線だけの連絡とのことだが、無線も、現場とダッカとはまともにつながらなかった。日本に連絡する時は、ローマ字で書いた原稿をダッカの商社に送り、それを商社がダッカから日本にテレックス送信なんて手間の罹り、往復に最低10日以上掛かることになる。
どうやら営業関係の連中は、東京貿易部の天皇の意向を反映して、本件がどうなろうとお前の責任だとの意思表示を示しているようだった。営業だけでは無くて、新居浜の運搬事業部も、何の応援も無く、僕の所属するコンベヤ事業部も何のバックアップ体制もない状態での案件処理となった。
が、元々所属するコンベヤ部でも課長勢力からの助けなしと言うか、むしろ邪魔されながら、八戸の長距離コンベヤ関連は僕が独りで、その後の住金鹿島署結設備以降は大西君と二人での仕事を続けていたので特に気にはならなかった。

電気担当の指導員として新居浜製造所が選んだのはN君で、検査部の機械担当であった。電気設備の訓練を兼ねて選出したとのことで、英語が喋れるからとのことであった。電気工事の勉強を兼ねて派遣されてもなぁ、と思ったが、それが新居浜製造所の僕への対応であろうとあきらめた。英語が喋れるのは有難いとおもったが、その実力は僕と大差なく、現地で英国人指導員にくっついて英会話の練習をしていた。そうして僕は、チーフとしての立場で実務での英語会話勉強が心ならずも必要となった。

現地へは、僕,O君と、電気工事を勉強にとのN君、以上の3人で行くことになったのだが、持参する荷物は各人の私物を入れるスーツケースに加えて、段ボール20箱程度があった。その段ボールの内、僕が準備したのは設備図面や据付要領書の技術図書一式で5箱程度だったが、残りの殆どはO君のもので、殆んどが彼の私物であった。何が入ってるのか不明だが、彼は仕事よりも私用を優先するようで、先のことになるが、帰国時には誰に頼んだのか、大きな木箱を用意してその中に新居浜の上司たちへのお土産を山のように入れていた。仕事よりもそのようなことに頭がよく回るので、その仕事ぶりには注意しないとトラブルを招く恐れがある、と言うより、彼が行く所にはトラブルがつきものであった。実際、本件でも帰国時にはその木箱の中にエッチ本を隠していて、別送品倉庫に受取に行くと通関職員から責められた。いらざる行為でトラブルを起こすほど馬鹿げたことは無い。が、そもそも、このサイトでの滞在で、殆どの据付上の問題は、特に製缶品の寸法違いと、梱包ごとの構成を示す梱包リストと個別梱包品の内容不一致で生じていて、僕の従来からの経験では、プラントの成否は補給と製品の整理供給で決まるのだが、本件ではそれ以前の問題が混乱を起こし、その殆どはO君が新居浜で彼の職務をまじめに対応していれば生じなかった問題であった。
この経験から、その後、僕の担当したアメリカ案件では新居浜には任さない、と言うか、新居浜は大阪コンベヤ部の仕事をやりたがらず、その結果として、その頃、僕の部下であった松本清君を新居浜に派遣して、検査と梱包に立ち合わせたが、現地に納入してから製品o不具合や梱包不具合は一切発生せず据付は極めて順調だった。結局は仕事に携わる人が大切なのだ。が、上層部の人は概ね、最前線での実情を知らないから、上層部への気遣いの行き届くO君のような人材を好むのが会社での実情だ。しかも、本件では結局、成功裏に終わったのだが、運搬機の本拠、それに、我が課長や親衛隊には、その成功は不真面目なO君や、英語勉強がてらのN君の業績と評価されたようである。この案件の後で、親衛隊はトルコの案件を据付込みで受注し、その梱包や製品検査を不真面目な仕上師のO君に任せたようだが、風評では大赤字となったらしい。
ところで誤解が無いように書いておくと、新居浜の現場の若手の殆どは真面目で有能な連中が多い。彼等には、住金鹿島の焼結設備の据付では多いに助けてもらったし、楽しく仕事を出来た。実際に、本件でも、後の試運転時にはそんな連中を連れて行った。彼等は大いに助けてくれたし、一緒に働いて楽しかった。そもそも工業高校卒の彼等の多くは、家庭環境さえ良ければ一流大学に進学できたであろうほどに優秀で真面目で、彼等と一緒に働くとお互いに仲間意識が生まれるが、O君はその範疇では無かったのだ。なお本件では、その後の試運転時の再出向では、O君は仕上士なので試運転が本職にも拘わらず、恐らく彼が選んだと思われるが、トルコの案件に行ってしまい僕の現場には来なかった。それが、僕には幸いしたのだ。なおその後、トルコの案件では彼が浮き上がっているとの噂を聞いた。彼が原因かどうかは判らないが、その後トルコ案件は大赤字となったが、一緒に仕事をすると、彼の担当部分では問題が多発して、しかも問題が起こる時には彼はどこかに行ってしまって不在との、彼の行動や人間性は直ぐに判るのだ。

英語が話せず、海外旅行も初めてなんて僕が据付指導に行くなんて馬鹿げた状態だから、何をやるにも戸惑ってばかりであった。航空機はタイでのトランスファーで一泊してバングラデッシ航空でダッカに向かう。海外のホテルなんて初めてで英語も喋れず夕食・朝食の頼み方さえ判らない。
なんとかダッカに着くと入国審査である。大量の荷物の審査さえ心もとない。入国審査の長い列に並んでいると、少年が近づいてきて、スルーで行けるよと手まねで説明した。いくらかと聞くと、50ドルだと言う。これで行こうと決断してOKと言うと、荷物のある所に案内してどれが荷物だと聞き、指示すると台車に乗せて走り出し、途中で我々のパスポートにバンバンバンとハンコを押して走りだした。遅れまいと走ってついて行ったが、あっと言う間に気が付くと、なんともくさい臭いの空港の出口に立っていた。
話は先に飛ぶが、再出向の時には、英語も話せるようになっていたし、しかも、荷物を整理して少なく抑えていたから、少年の要請は無視して、まともに審査を受けたがあれこれ指摘されて結局は120ドルもかかった。しかも、特にO君が持ち込んだ大量の日本米には審査官が「我が国に米を持ち込むなんて・・・」と絶句していた。一緒に持ち込んだ大量の日本の本と共に持込は禁止となった。
それはともかく、最初の入国で安く済んだのはビギナーズラックってことだろう。

当時のダッカ空港は市内にあり、空港を一歩出ると、9月であるが陽光はぎらぎら輝き空は白みを帯びた青空で、とてもくさかった。それは何の臭いだろうか、貧乏臭とも言える、終戦後から中学校頃までの大阪市の臭いによく似ていた。そうだ大阪の昔の臭いだ、と思うと、それらの臭いも気にならなくなった。特に安煙草の臭いが強いのだ。
空港前には、住友商事の車とRAHMAN・KHANなる人物が待っていて、この人が以後の、現地と祖国の中継窓口となった。現場からダッカへは、全体管理のFosterWheel(FW)の無線連絡または手紙で、DACCAと祖国はテレックスでの連絡となる。無線電話を使う場合は、先ずは手紙でDACCAの住友商事に連絡してFWの無線部署に来てもらうのだ。RAHMAN/KHAN氏とは日本語は喋れず英語連絡だが、彼も英語のnativeではないのだ、なんとか僕の片言英語で通じた。車はそのままホテルに行き、翌日にはDACCAの鉄道駅に運んでくれた。
列車は早朝発車のFW指定列車があり、最後尾に特別列車が付けられていてそれに乗るのだが、鉄道駅には多くの難民のような人々が床に眠っていて、その間を踏みつけないようにホームへと進む。この辺りになるとさすがに怖気ついてしまった。

 列車は、ダッカ駅から200kmの単線を6時間もかかり、列車がAshuganji駅に着いて、大量の段ボール箱を下し、何人もの汚れまくった人足に持たせて、駅に待機したバスに運ばせて、チップの金額で暫くもめて、これらを殆ど僕一人で仕切った。部下である英語が堪能なはずの電気指導員見習いは、なぜか、かような汚れ仕事には口を出さない性格で、それに、仕上指導員は英語が全く出来ないので横で見ているだけだから、結局は僕が、段取りや交渉を、拙い英語で、人足共に怒鳴りまくるわけだ。情けない立場の現場責任者である。しかし考えてみると車内で後ろ盾の無い僕にはいつもの状態ではあった。
バスは巨大なメグナ河に突き出した突堤の上を、川岸に埋め立てられた広大な工場敷地に向かったのだが、着いた当時にはどこをどう走っているかは判らなかった。門からはジープが用意されプレハブの仮事務所のような所で降ろされ、まとめ会社、FosterWhillerとの最初の打ち合わせとなった。

2022年8月4日木曜日

八戸石灰長距離コンベヤの思い出

 八戸石灰鉱業の長距離コンベヤの試運転が問題なく終わり、住友セメントや住友鉱山のプロジェクト組織が閉鎖されて、菊地次長は住友セメントの彦根工場長に栄転された。その後任に、安倍次長と吉瀬課長が就任された。
菊池次長とは見積もり依頼に対するプレゼンテーションからの付合いで、大学出たてありありの僕が設計することに何らの異論もなく対応してくれて、本当に有難いことだったと、今になって思う。吉瀬さんからは、ここの設備の図面には設計・承認印は全て貴方だけなんですねと、頼りにされた。

八戸石灰工業の長距離コンベヤは、日本では、コンベヤメーカー数社で設計した秋吉長距離コンベヤと、日本コンベヤが鳥形山に納入した長距離コンベヤに続いて建設したもので、そのすべては僕一人で設計した。設計費は通常のコンベヤ設計に要する勝手基準で積算して見積もったが、実際には標準設計品が多く使えて、それに、重量的にも工夫したことで大きな利益を上げることができた。設備納入後、建築業界のグループ見学(関空用土砂搬送計画の参考のための見学会)でバスに同乗して設備の案内をしたり、阿部次長の要請で、新ベルトコンベヤの計画と整備なる、コンベヤに関しては最先端の本の原稿を提出した。
八戸石灰工業へは、その後、セメントを船積する設備も納入した。セメントは比重が軽く、さらさらしているため、通常のバケット型の船積期では扱えず、とゆ型のケースに帆布を張り、帆布下からエヤーを噴き出してセメントを滑らる装置で船積するが、その方式で時間当たり800tの世界最大の能力を有する船積機を設計した。
セメント船積設備を受注・納入する間、阿部次長や吉瀬課長はとても好意的に対応してくれた。ただ客先の予算が厳しく、当初から赤字予算であった。が、改善法として、設計は社員は僕一人で、外注さんを使っての作業となり、結局は黒字化した。そのため、環境対策の騒音測定も夜中に訪れて暗騒音を自分一人で行ったりした。

住金鹿島の焼結設備

 僕が住金鹿島焼結設備のプロマネをしている時、納期が差し迫るなかで、数多くの図面を課長承認に出した。課長は図面を殆ど見ることもなく、あれこれと難癖を付け始めた。何を言いたいのか全く理解できない難癖で、どう対処すれば良いのか見当が付かず、部下に適切な修正指示は不可能だった。

今思えば、余りにも多数の図面が出てくるので、承認のハンコを押すのが面倒だったのかとも思うが、それならハンコを渡して押しといてくれと言えば良いのだ。
課長の難癖をどう対処すれば良いかが判らず、部下に指示できないので、僕の机の上に置いておくしかなかった。納期は迫っている。
そこで、日曜日に出勤して、課長の机からハンコを取り出して、自分で全て押して、翌日には出図した。これを休日ごとや、夜誰も居ない時に繰り返して、結局、膨大な図面の課長印は全て自分で押した。

それほど多くの図面が、彼を通過することなく出図されたことに彼は本当に気づかなかったのだろうか、と今になって思った。あれほどのプロジェクトの図面が、彼の手元を全く通過しなかったことに気づかない筈は無いと思えた。
結局彼は、”図面に関することは全てお前の責任だ”としたくて、それを許容したに違いない。僕にハンコを渡して、押せと指示すれば、責任は課長の自分になる、と彼は思ったのだろう。が、僕が勝手にハンコを押せば僕の責任になるのだ、とも考えたに違いない。
こう考えると凄く頭の回る男だと感心する。だが、通常は誰がそんな姑息な事を考えるだろうか。課長自身がハンコを押したとしても、プロジェクトマネージャは僕だから、全ては僕の責任だ、と少なくとも僕はいつもそう考えて仕事をしてきた。
多分、”お前の仕事の責任は一切持ちたくない”と、課長は僕に声なき声で言ったに違いない。その声なき声が聞こえないのが僕の性格なのだろう。

休日出勤のついでにと、課長のキャビネットを調べると、課長が書いた課員の人事考査書が出てきた。早速僕のを見ると、かなりの酷評であった。入社してから、業績は悪くはなく、むしろ素晴らしい成果続きの筈で、それに、言われた仕事を文句も言わず黙々としている。それにしては、これは酷いなぁと思ったが、課長の日々の僕への態度を見れば当然であるとも思った。要するに秘蔵子親衛隊との差別化を図ったと思え、実際、親衛隊長の人事考査書は満点に書かれていた。課長の作戦は成功して、僕は他の同期にくらべれば、1年から2年は昇格が遅れた。住重の人事は、個人の業績とは全く無関係に課長の恣意的判断で決まるのだ。

焼結設備の据付が始まったが、その初期に人身事故が起こり、1人の作業員が亡くなった。その原因は設計部門には無く、基本はコンベヤ管理部の問題だが、事故の主原因はあきらかに作業員の不注意にあった。だが、作業員の不注意が生じる原因は据付の管理側にもあり、住金は死亡事故に対してはその後の据付に厳しい対応を要求した。このため、据付総監督は新居浜鉄工課の課長が新たに任命され、据付指導員も大幅に増員となった。設計者も現地駐在を要求され僕は現地滞在となった。
その鉄工課課長や課長の取巻き課員、それに鉄工課の若い連中とは多いに気が合い、鉄工課長を含めて麻雀を一緒にするなどと仲良くなり、いろいろ話をしていたが、あるとき、鉄工課課長は「君は愉快な男だなぁ。・・・君の課長は、君の事を暗~い男だと言っていたがなぁ」と教えてくれた。事務所では所属課長に朝から晩まで怒鳴られていて、それでも明るいなんて却っておかしいだろうな、と思った。そうでなくとも、八戸の据付現場でもそうだったが、現場に入ると僕は気分が高揚して、楽しくなる性格のようだ。

据付は順調に進んだが、ただ、試運転に入る時点で、住金の生産課の若い担当者が赴任して、これは時々あることだが、下請け、つまり、僕の所属する住友重機械の人間に特に技術的には馬鹿にされたく無い、との思いでか、あれこれとクレームをつけ始めた。例えば、無負荷運転時の電流値が大き過ぎると主張するのだが、コンベヤは慣性質力が大きいとの機構上、どうしても無負荷運転動力は大きいのが通常だと説明しても言うことを聞かない。モーターを取り替えるなんて出来ないから、負荷運転が開始されて負荷電流値を測定出来る迄無視せざるをえなかった。無視すると、いよいよあれこれ指摘してくる。住金側据付担当者も生産課を無視できないので、彼の主張の内、せめて、焼結鉱のコンベヤ接続点での落差を下げるように、生産課の要求に従ってくれ、と生産課担当者の書いた計画図まで持参して頼まれた。既設焼結鉱コンベヤの落差と同じ程度だから問題ないと訴えたが、代官様には勝てず最後には仕方なく、焼結鉱ラインのコンベヤ乗継点各所に、落差を下げるための落下棚を図面通りに取つけた。

が、負荷試運転を開始すると、僕の指摘通りに、落下棚に落ちた焼結鉱が少し溜まると、一気に後続の鉱石が溜まり激しい詰りが生じた。ベルトコンベヤでの搬送とはかように大量なのだ。一転、住金の据付担当者は、すぐさま落下棚を撤去してくれと依頼してきた。追加金額の要求どころではない、試運転は急いで終わらねばならないと、直ぐに撤去した。かように、当方の落ち度は殆どなく、試運転も無事に終えた。
実は、焼結装置下それも世界最大級の焼結装置下に、通常は高熱に強いチエーンコンベヤを使って焼結鉱を運び出すのだが、その代りに、要求された高温ではあるが、その温度に耐える耐熱・不燃コンベヤベルトを使ったが、その結果が心配だった。が、それも無事に運転できた。
唯一の設計的失策は、焼結原料ラインで、焼結設備へのコンベヤを従来より大容量なのでベルト張力が大きく、帆布ベルトでは張力不足なのでスチールコードベルトを使ったのだが、その折れ曲がり部を帆布ベルトの従来機と同様の角度でまげたことで、折れ曲がり部でベルト端部に波のような屈曲が発生した。従来の帆布とは違ってスチールコードが曲がりにくいことに配慮が抜けていたのだ。
スチールコードベルトは扱いにくいものだと知っているので、修正の自信はなかったが、仕方なく、作業員3人に指示して短い区間でコンベヤを少しずつ曲げて行くように改造したら、見事に修正できた。やった~と気分は高揚して、翌日からは土日の休日なので、着替えてそのまま鹿島駅にタクシーで走り、特急に乗り、新幹線で大阪の家に帰り、何カ月かぶりに1日半を女房といちゃついて過ごし、課長にはマスターベーションとは言わせないと思いながら再び鹿島に戻った。帰路は恐らく精液臭をぷんぷんと発散していたであろう、と、どうだ課長のマスタベーション発言より凄いだろう。なお、この休暇と言うか帰宅旅行は全て自費で済ました。

試運転も無事に終えて、大阪に帰任となり、プロジェクトの清算となり、多くの指導員を増やしたことで据付費用の大幅増額となったが、それを含めてもなお極めて大幅な黒字となった。なお、けちな僕は、僕の原価把握が綿密で確実で、抜けが無いことには200%の自信を持っている。経理から製番別の計上リストを得て、未入力分を加えれば良いだけで、綿密な僕には、それほど難しいことではないのだが、その実績書を課長に提出すると、
「こんなに利益が出る筈がないやろ!マスタベーションはやめろ」といつものように課内に響き渡るほどに怒鳴られた。この”マスタベーション”を万座の中で怒鳴ることが、課長の得意技なのだ。これを言われると殆どの人は反論の戦意を無くすのだ。
その週の休日に出勤して、課長の机の中を調べると、彼が作ったらしい焼結設備の実績書があった。彼が実績を調べた形跡は無いのに、なぜ実績書を作れるのだろうと不思議に思った。おそらく鉛筆を転がして作るのだろう。そうとしか考えられなかった。恐らく経理の製番別清算リストの存在すら知らないと思えた。要するに彼は、信じられないことだが、予算管理を勘でやっているわけだ。その鉛筆ころがしの実績書では、僕の算出値よりも遥かに利益が低く、殆ど利益が無いようになっていた。だが仕方が無いと、彼の算出値に合わせて実績書を修正して提出すると、
「そうだろ、そんまもんだよ」と上機嫌になって受け取った。
一か月ほどして、新居浜の管理部から、最終積算書が送られてきたらしく、
「お前は、どんな積算をしてるんだ。(マスタベーションの遣り過ぎか)」とまたまた大声で怒鳴られた。括弧内は僕の想定だが・・・

結局は、僕の最初に提出した実績書を再度そのまま提出したが、それが管理部作成分と一致していたらしく(勿論、一致するはずなのだが)課長は、文句も称賛も無く黙って受け取った。
膨大な利益を挙げたのにも拘わらず、正しい予算書を出せば、利益が出すぎていると怒られ、僕の予算書通りの利益でも怒られと、往復ビンタで怒鳴られるとはどうしようもないなぁと思った。

ところで、この思い出を書いてから気付いたのだが、僕の長い設計生活で、計画当初の計画は自分で遣るものの、その後の手順、つまり、外注さんの図面作成、社員のチェック、僕のチェックの手順で、実際には、社員生活当初には、その全てを一人でやっていたが、大阪に移動してからは、徐々に、僕の分担は減り、住金鹿島の頃には、必要とされる膨大な図面の、出来た図面をチェックする暇もなく、目くら判とせざるを得なかったが、それで製作品に支障があったことは一度もなかった。高卒であれ大卒であれ、機械技術者って、それほどに真面目と言うか優秀であったのだ。今になって気付いて驚き、僕の部下であった連中に改めて感謝している。

僕の大学院生活とそれから

 ときどき思い出すことを書き続けて、はっと気づいた。
課長の価値観と僕の価値観が全く違うので、彼や彼と同様の考え方の上司の意図が理解できなかった理由に漸く気づいたのだ。
僕は大学院で、流体力学の教授村田進先生の下でテーマを与えられた。横断流送風機は、今では殆どの電車車両で使われている天井に車体の方向にずっと伸びているエアコンに使われている送風機で、送風機内での流れは羽根車に関して非対称で、回転する羽根車の上から入り下から出る。当時はまだ、その送風原理が解析し始められた時期で、その流れ特性を解析するのが僕のテーマだった。過去に提出された僕の先輩が書いた論文を元に、送風機の内部案内羽根が設けられた場合の性能を解析及び実験するテーマだった。
僕の先輩は、案内羽根の無い場合の流れを解析していたが、その計算方法は案内羽根のある場合には全く適用できなかった。僕の大学院生活は、これを先ずは解析することを村田先生から任されて始まった。その最初の一週間を研究室に籠って考えたが、何としても解けなかった。そこで、村田先生に相談したら、「うむ、やってみよう」と答えた。何と、翌日にはⅹ複素面での水平線を複素変換して円形のファンになる式を提示してくれた。そこで複素平面にて流れの式を作りこれを逆変換すれば平常面でのファンの流れ式が出来る。確か、流れ方程式は積分式になり、これの解析は難しいので、数値計算することにした。一般に流体方程式を式解析できるのは極めてまれなケースなのだ。当時、阪大には、テープに穴あけをして全くの機械語で解析する電算機があった。テープへの穴あけから電算機の操作まで全て自分一人でやるのだが、複雑な式と数多くの数値を入力しての数値計算は、穴あけも含めて全て自分でやるのだが、穴あけを一か所だけ間違っただけで、これを修正することで解析は出来た。が、これはあくまで力仕事だ。なお、僕が卒業してから、小川助教授が積分式を解いたのだから驚きだ。僕の大学院2年目は実際に機械装置を使っての性能実験で、村田先生が三井三池製作所に実験用送風機の製作を依頼済みで、三井三池の九州工場に行き、一週間程、送風機の図面を書き、その後装置が研究室に着くと、それを設置するのだが、架台材料の切断、架台の製作と取付けを独力でやった。更には実際の送風機性能実験、送風機内の空気の流線測定、それに、真夜中の騒音測定、更に、煙を使っての流線測定等、全てを一人やった。実験室では、ドクターコースの先輩たちや同輩達も同様に、各人が頑張っていたから、それが当然なのだ。
要するに、全てを単独でやり遂げるのが僕の受けた教育だった。
大学院マスターコース後は、村田教授や小川助教授の、特に流体力学解析能力にはとても及ばないと、ドクターコースは諦めた。ただ今になって気付いたが、数学も英語能力と同様に、継続しつづければ、ある時には、突然理解の峠を越えて、そのような式も解けるようになっていただろうと思う。そこまでは学ばなかったことを悔いている。
つまり、大学や大学院での授業での貴重な講義を、完全に理解し操れるまでに繰り返しての勉強が必要だったのだが、途中で、ここまでで試験は通るだろうと怠けたのが駄目なのだ。実は、高校ではとことん勉強したが、大学の授業内容は、そのレベルでは駄目だったのだ。
この大学院生活に比べて、会社での仕事は、技術解析も含めて、全てが力仕事で、僕が単独で出来ないことはなかった。誰に相談せずとも出来る仕事ばかりであった。ただ時間的期限はあるので、その分を、時間を惜しんで頑張って突き進めば良いだけで、誰に相談する必要もなかったのだ。しかも会社での仕事で、微分方程式を解いたのは一回だけで、回生制動についての計算では、制動力が回転数に比例するリニアーな外力の解だから容易に解けたし、ただ、実を言うと、新居浜で水平式クレーの引っ込み停止での吊り荷の挙動は、コリオリの座標変換が必要で、この解析は同期の馬場洋一郎の助言を得た。