2018年8月30日木曜日

2018年秋の畑

8月は、殆ど雨が降らず30度以上の高温が続いた。そのため、秋キャベツの8月前半の播種を忘れ、8月25日にポット植えとなった。同時に、ブロッコリ―と白菜のポット植えを行ったが、これは順調に発芽した。ただ、日蔭での育苗なので、どうしてもひょろ長くなってしまう。秋ジャガイモの植付を忘れ、種イモの購入も遅れたので、発芽が心配だ。
8月28日から曇天が続いたので、雨を待ちきれず、8月29日に、黒マルチに穴をあけて、りーフレタス、ベビーリーフ、大蔵大根、ニンジン、を撒いた。9月1日~2日に降雨の予想で、この前、8月30日~31日に秋ジャガを植付ける。黒マルチをはがして植えて、降雨の後で再被覆となるかだ。
実際には9月1日~2日の雨は無く、9月3日~4日となったので、9月2日に秋ジャガを植付、雨の後で白菜、キャベツ、ブロッコリ―の移植と玉ねぎの播種だ。
9月5日、6日で、ポット植えのキャベツ、ブロッコリー、白菜を植付けた。更に、玉ねぎの種を播種した。日照りが続きそうなので、日蔭カバーを。とり付けた。ロイヤルに電話したら、玉ねぎの予約が開始なので、早速行って、早生と中生を各100本を予約した。

2018年8月28日火曜日

種子会社 (1)


 谷川の淀みのすぐ傍で岩に凭れて眼を閉じていた。終えたばかりの食事は胃の中に暖かく納まりささやかな幸せを体の隅々へと送り続けている。頭上には光を求め奪い合う木々が枝葉を巡らし、照り盛る陽光は重なる青葉に遮られ散乱光となり、周囲の全てを緑色に染めている。心身共に申し分なく緩み最も満足感に耽ることの出来るひとときである。

 木々の触れ合い戯れる音が風と共に山裾から尾根へと駆け登り、まるで雑踏を走り抜ける話し声とも聴取れた。声は『彼は・・休んでいる・・休んでいる・・休んでいる』と走り去った。山に入るたびの幻聴はこの北山川でも続いている。

 僕のフィールドは大峰山系だが、夏と秋のはざまに少々足を南に延ばし熊野山系への足掛かりにしようと考えた。熊野山系そのものに入ってもよかったのだが、地図を見ただけでも広大なさまに圧倒されてしまい、そこまでの決心には至らなかった。なにしろ、熊野に較べれば遥かに狭い大峰の山々でもここ五年間に踏破したのはその片隅でしかなく、ここで熊野に手を出せば収拾がつかなくなると怯えてしまったのだ。それに、大峰の秋までには僅かの余裕しかなく、それまでには平地に一旦戻り十分に段取りしてから出発しなければならない。

 その辺りを考慮に入れてから、東熊野街道と北山川に挟まれた東西十キロ南北五キロ程の狭いごく当たり前の低い山の連なりを選んだ。

 吉野からバスで三時間をかけ浦向で降りて、南に低く続く緩やかな山並みを見上げた時には、予想通りとは言え、やはりがっかりした。

 視野の端から端までの山並みは杉に覆われ、人の手入れが全てに行き渡っているように思えた。しかし、浦向の集落を抜け小川を越え森に一歩足を踏み入れたときには、見掛けとは大きく食い違う様に僕は元気を取戻した。集落の家々は荒れて人影を見掛けることもなかったが、さらに以前から人手は山から離れていた。

 自然の侵食が山中の全てに行き渡り、下草は茂るに任され、あらゆる種類の陰樹が枝を広げ陽を求めて伸びつつあった。杉の防壁の外側からは、成長の早い落葉樹がなだれ込み、既にその幹や枝が大空高く突き上がっていた。

 人手の薄れた森は明らかに遷移期にあり、森の内側からは長い時を堪え忍び今漸く息を取り戻した野性の草木が勢力を拡げ、外側からは、大峰山系の木々がその領域を侵すべく競い合っているのだ。しかも、北斜面での激しい気象の変化のせいか、彼等は大峰の同族とは微妙な変化を示している。そのため、三つの沢の間を調べるだけで四日もかかってしまった。

 昨日、四つ目の沢の中腹でこの五十メータ四方の窪地を見付けた。山側の低い滝から僅かだが途切れることのない水が流れ込み、澄んだ水が浅く岩肌をさらして広がっている。所々に盛上がる湿地にはハンノキが茂り、池の周囲には桂が疎らな林を造っている。桂とハンノキの林は濃密な杉の壁に囲まれてひっそりと息づいていて、薄暗いばかりの山中で、ここだけは薄い葉を透過する緑青色の光がぼんやりと周囲を照らし、穏やかに通り過ぎる水と風の音が微かにこだましている。人の眼に触れることのない美の創造がここでもなされている。岩が多いためか、それとも余りの美しさを損なうことを恐れたのか、杉山造りに携わった勤勉な植林者達も手をつけた形跡は全くなかった。

 幻想的な湿地が気に入り、昨日からは畔に枝を延ばす桂をベースにして山の中を歩き回っている。

 食後の充実感を充分に満喫してから、眼を開け川の下手に開く彼方を眺めた。名も無い緑の山並みの上に、一段高くそそり立つ釈迦ガ岳と後衛の連山が、深みを増した空を背景に常に無く寂しげな容貌をしている。その姿に心臓が強く反応して鼓動を強め、体中に力が漲り始めた。大峰の山々の秋は明らかに深まりつつある。

 コーヒを飲もうと手を延ばしたときに、吹き上げる風の合間を縫い一筋の流れが桂の匂いを運んで山裾へと吹き降りた。思わず風を胸一杯に吸い込んでから頭を傾けた。澄み切った大気の中に微細な異臭を感じたのだが、一瞬の間に流れは変わり、そこには草いきれと桂の匂いだけが残されていた。いつもの幻覚に違いないと心に言聞かせ目を閉じた。

 植物採集には強靱な体力と磨ぎ澄ました感覚が必要で、この仕事を始めてからは特に視覚と嗅覚を高めようと意識的に努力してきた。ところが、人との会話を失った耳は僅かな音をも聞取ろうとし始めて、聴覚さえもが鋭くなってしまった。

 遠くの小鳥の囀りは勿論のこと、木々や草花の風に揺れる微かな音すら逃さずに捉えるようになり、いつの間にか、山を歩きながら木や草と話している自分に気付いた。と同時に頭の一部分に、慣れ親しんできた知覚組織とは全く異質なものの存在を感じた。

 着実に成長し続ける新しい感覚と幻聴には恐れを感じていて、違う山では気分が変わるかもしれないとの期待がこの山行にはあった。

 希望通りに最初の間は幻聴は治まりほっとした。しかし、それも素晴らしい色艶のカゴノ木を見付けるまでであった。鮮やかな色合と、くっきりとした鹿の子模様に惚れ込んで、挿し木にと枝を鋏で切ろうとした時に、『痛い、痛い』と身をよじる木の声が聞こえ、咄嗟に、『すまん、すまん、他の場所で育ててやるからなあ』と囁いてしまった。

 カゴノ木は体の震えを止め、上の方で葉を擦らせて『彼は・・他の場所に植えるって・・・』と呟き、声は風と共に森中を走り抜けた。

 それからは以前よりも激しい幻聴に襲われた。通りすがりの木々や草は『私も・・僕も・・』と催促するように枝を揺らしささやき掛けた。僕は必死になって僕の好みを説明した。

 二日目には僕の好みを完全に覚えたようで、幻聴は大峰での経験と同じように穏やかなものになった。木や草の陰から微かな音が聞こえ、そっと覗くと、上品なエビネの花弁とか、卵形の葉を振る寒葵が姿を見せていた。好ましい木々は枝を揺すって注意を惹いた。 幻聴が治らぬことで少々がっかりしたものの別に害もないと諦めた。むしろ、大峰と同じに採集は順調で、何気なく歩いているだけで珍しい草木が見つかる。だから、幻聴は直感、経験、嗅覚と、その時々の風とが織りなすだけのもので、五感が鋭くなった証拠だと思い直した。それに、強さを増している新しい感覚も、古い組織とは充分に折り合いをつけているようで、日々違和感は薄れつつある。

 しかし、ここでの幻聴には少し気になることがある。木々が僕以外の、しかも人間のことを囁いていると聞こえることがしばしばなのだ。頭上をかすった風が山頂へと流れる間に、木の葉の揺れる様が変わり、話題が突然に変化することがしばしばである。その度に耳を澄ます己れに気付き幻覚だと言聞かせるものの、この山で現われた新しい幻聴には少々恐れを感じていて、なんとか原因を捉まえたいと考えている。

 だから一度は押し殺したものの、どうしてもその微細な匂いが気になり、心を再び開いて僅かに残された匂いの記憶を追いかけた。しかしその正体よりも先に、極く最近にその匂いに接したとの記憶の端に心の指が触れた。目を彼方の山に向けたまま記憶の全体像を掴もうと指を這わせたが、引き出しにきっちりと整理している記憶とは違い、身をくねらせ指の間を潜り抜けようとするあやふやな記憶を、幾度も幾度もたぐりよせて漸く、ぐっと感じる本体に指が掛かった。

 吉野でバスの乗車券を買ったときにこの匂いに接したのだ。後には、たしか、登山服姿の若い女性が居て、彼女の香水が記憶に残っているのだ。若さのわりに地味な登山姿で、サングラスと色白な肌とのコントラストが曖昧な残像として現われたが、いくら考えてもぼやけた映像は一向に明確なものにはならず、彼女の香りだけがその記憶から抜け出し、林を走り抜けた香りの記憶と一致した。と同時に、梔子の香りだと気付いた。この季節に咲く梔子があるのだろうかと一瞬考えたが、自然の香りにしては余りにも鋭角的な匂いの記憶に、すぐに、もっとまともな考えが心に浮かび、僕はいよいよ緊張してしまった。

 山頂側に梔子の香水をつける誰かが居て監視し続けているのだ。しかも、風下を占めているということは意図的な行動の証だ。ここ数日の間、木の葉の囁き以外に人の気配は全く感じ取れず、監視する人物は、それほど慎重に巧妙に動いているのだ。

 焦りや苛立たしさとは永らく無縁の生活をしているから、監視の理由とか、監視する相手についての疑問が頭の中を交錯してパニック状態になってしまった。しかし、それも束の間のことであった。この地域の殆どが既に僕のフイールドとなっていることに気付いてからは、体の力が自然と抜けて思考は落ち着きを取り戻した。

 監視しているのは、吉野で見掛けた若い女が単独でか、それとも、彼女を仲間とするグループかのいずれかに違いないと確信した。それほど彼女から匂った香りには特色があったのだ。しかし監視の理由については欠けらほどにも思い当ることが無い。暫らくは考えたものの推測することは諦め、より核心に迫る手段を取ることにした。

 いつもより早めに午後の調査を終えて桂の木に戻り、早めの夕食と片付けを終えてからすぐに寝袋に潜り込んだ。寝袋に寝そべりフイールド記録をつけるのが習慣だが、その日だけは書く気にはなれなかった。

 眼を閉じるとすぐに体が大地に包み込まれる感触が訪れ、薄れつつある意識の底で新しい感覚が大地と繋がり大地の触手を通じて周囲を探るのを感じた。滝の少し上の辺りでの微かな動きを感じたが意識は遠退き、そのまま眠りに落ち込んだ。

 夜中の一時過ぎに眼を覚ました。薄青く広がる木の枝をじっと見詰めたまま横たわっていたが、満月がハンノキに隠れた一瞬を捉えて寝袋を抜け出し、代わりに着替えを入れたナップザックを押し込み木陰に滑り込んだ。

 茂る下草の影を伝い大きく迂回しながら這い進んで行く途中で、手頃な木の枝が転がっているのを見付け手に握り締めたものの、周囲をぐるっと見渡してから武器は必要無いと手離した。

 睡眠の間に五感はいよいよ冴え渡り、周囲十メータ四方に息づく命の全てを把握できる。月光の及ばぬ闇の中を這う小さな虫の姿さえもが感じ取れるのだ。しかもここは既に調べ尽くしたフィールドである。地形も、木々の一本一本から下草の生えようまでもが頭に入っていて、危険な物に出会えば、真一文字に走り抜けるだけの自信が体に漲っている。 切り立った崖を駆けあがることも、それとも、走り下りることも思いのままで、漏れる月光さえもエネルギィとして吸収する今の僕を、まともに相手に出来る者はない筈だ。五年に及ぶ山歩きが、それだけの力を授けているのだ。

 草木もまた応援するかのように道を開け、その間を音もなく駆け登った。登り切った所で動きを停め闇の中でじっとしていると、滝の上手で黒々と枝を延ばす杉が、根元に誰かが眠っていると囁いた。

 ゆっくりと風下に回り込み、そこで漸く微かな寝息を感じ取った。すぐ傍まで近付き、地面に這ったままヌルデの木陰から覗き込んだ。

 目指す相手はただ一人で、腰から上を寝袋の外にして眠っていた。長い髪が寝袋の上には収まり切らず周囲の地面にまで広がり、黒い長袖シャツの胸の膨らみが緩やかに息づいている。背丈だけは有るものの華奢な体形を眼前にして、やはり女であったかと呟いた。そのままゆっくりと立ち上がり下手を眺めた。

 滝の落ち口の向こうに遠く寝袋が見えている。この女は僕を見張るに最高の位置を占めている。

 ヌルデの枝の間から数歩先に眠る女の顔がほぼ真下に見え、予想もしなかったその美しさに驚いた。目鼻口の形と配置の余りの見事さに、一瞬、人形か彫像が置かれているのではないかと疑ったが、彫りの深い顔は確かに息づいている。磨ぎ澄まされた美しさに漏れる月光が壮絶な陰を与えるさまを、僕はただ茫然と見詰め続けた。それからはっと自分を取り戻し彼女の顔に想像のサングラスを掛けた。ぼんやりとした記憶の中の像が徐々に蘇り始めた。

 吉野の切符売場で見掛けた女だと確信したのだが、何かがおかしいと気付いた。息をゆっくりと吸ってから、その奇妙さの原因を捉まえた。梔子の香りの一欠けらも、ここには存在しないのだ。少し湿った女の匂いの他には、木や草の匂いだけである。あの香りはどうしたのかとの思いが頭の中を走ったが、すぐに思考を目前のことに振り向けた。

 念のためにと周囲を窺ったが、感じ取れる範囲には女以外の大型動物は存在しない。女の足元には大きなザックがあり横にはカメラとその付属品が置いてある。

 突然、女が目を開き月光を映す瞳が妖しく輝いた。僕の気配を感じたのか、彼女は上体を起こし急いで周囲を見回した。と同時に、梔子の香りが激しい勢いで周囲に溢れ、その濃密な香りが頭の中を真っ赤に染めた。体内の血が激しく流れる感覚と共に強烈な快感が下半身から沸き起こり女に対する狂暴な欲望が生まれた。女に飛び掛かろうとする衝動が体を支配しかけたが、新しい感覚がその存在を急激に拡げて僕を後にと引き戻した。“その後はどうするのだ”と問う醒めた声が心の内に響き、僕は後ずさりを始め、そのまま身を翻して坂を駆け下りた。

 命あるものを殺すことは論外で、脅すことも憎むこともできない。それ故に平地での生活よりはこうして森の中をうろついているのだ。それなのに、この狂気はどうしたのだ。なぜか、なぜかと心の中で叫びながら谷を駆け降り崖を走り下り、押し寄せる欲望と怒りを発散し続けた。闇の中には風を切る音と、時たま足に触れる草の擦れる音だけが、まるで風そのもののようにさざめいた。

 麓まで一気に降りて小川の畔で立ちすくんだ。体中に溢れる力と生命をどう発散することもできず、素裸になり水の中に飛び込んだ。冷水が皮膚に突きささり完全なる無感覚が訪れ、心臓は激しく鼓動して熱を送ろうと足掻いた。

 体が冷えるに連れて混乱した頭脳は落ち着きを取り戻した。感情の起伏を押さえようと精一杯に腕を拡げていた新しい感覚も、その拘束を緩め、徐々に意識の後方にと退いて行った。体中には信じられないほどの疲れが感じられたが、出来るだけ早くここを去らねばとの恐怖が心を占めていて、よろけながら川岸に上がり、山裾を登り始めた。荷物を纏めてこの地を離れ、すぐさま大峰山中側に潜り込み、そのまま突っ切って吉野へと戻る積もりであった。

 

 家に帰ればやることは山ほどもある。一反の稲田と畑の手入れ、椎茸、なめこ、えのき茸のホダ木の手入れ。全ては自給自足に近い生活を維持するためには欠かせない仕事だ。 いよいよ食う物がなくなれば山での暮らしそのままに木の葉や草花を食べればよいが、ここには畑も田圃もあり、一人暮らしには十分な収穫がある。

 蘭科植物の栽培は生活資金を確保するための仕事で、これも相当に忙しい。山に行っている間には自動制御装置で給水するようにはしているが、どうしても機械のやる仕事には微妙さが欠けている。だから家に居る間には、温室に入れてある二万株程の鉢を順番に手入れしなければならない。それに、迎える季節に見合う制御装置の調整と設定も今の間にしておかねばならない。

 花付き始めた鉢は富田林の駅前にある花屋に置いてもらう。売り始めた当初にはなかなか売れず、どれだけの鉢が売れるかと危ぶみながら手入れをするのは侘しい仕事だった。しかし、徐々に売り上げは延び続け今では九割ちかくも捌けるようになった。それだけで年収の約半分、百万円程にはなっている。売れ残った分は持ち帰り林の中の過ごしやすい場所を彼等の住みかにとしている。いったん僕がこの世に生み出した生命だから、最後まで責任を持って世話するのが義務だと考えている。

 温室の採光設備、排風機、給水機や自動制御装置を調整してから漸く人心地を得て畑の仕上げにかかった。

 この平地でも既に肌を滑る風は秋の感触を伝えるが、日差しはまだまだ衰えを拒んでいる。キャベツ畑の土を掻き寄せていると遠くに聞こえる鳥の囀りが僅かに変わった。

 鍬を杖に眼を細め、なだらかに下る坂道の方を眺めた。穏やかに吹き上げる風の中に微かな車のエンジン音を捉まえたものの、久しく人の手が入らぬ間に、生き生きと茂る灌木に遮られ姿は見えるはずもない。空はどこまでも澄みわたっている。

 廃村に住むのは僕だけで、畑の横を通る道は、上手に百メータも登れば行止まりになっている。草だらけの道をシーボルトミミズが我が物顔に横切り、鬼やんまやぎふ蝶が悠々と往来している。丘裾の人の住む村までは、ほぼ二キロあり、そこ迄の全ての土地はここを去った人々から買い取った。だから、朽ちた葉と柔らかい土の感触を楽しませる素敵なこの道は我家の庭道になる。道はいろんな草木、昆虫や鳥達との共有物でもあり、僕にとっては唯一の、何物にも替えがたい贅沢品ともなっている。

 ここを登って来るとすれば先ずは僕に用事がある人だろうかと、僅かの人々を心に思い浮かべたが今日この日に思い当る人はなく、ふと、昆虫採集かもしれぬと考えた。いずれにしても、道の途中には崖崩れが四ヶ所あり、崩れた土砂を片付けながら来るとすれば、ここまでまだ一時間以上はかかる筈である。暇を作って道の補修もしなければと考えながら土寄せの仕事に戻った。大峰の秋が僕を待っているのだ。

 キャベツ、ジャガ芋、茄子、蔓なしいんげんと、冬の食料となる野菜の手入れを殆んど終わり、有り余るだろう野菜はどう始末しようかと思案に暮れながら茫然と畑を眺めた。車の音は四度中断してから急に近付いてきた。

 下手には大空高く枝を広げる欅が数本立っている。今は雑草だらけになっているものの丘陵地の全てが猪垣で碁盤の目のように区切られた田畑で、彼等だけが周囲を圧してそそり立っている。畑地に影を落とす林は望ましくはないのだが、ここに住み続けた人々は誰もが手を出さず、欅達はその長い生涯の大半を人と共に暮らし続けたことになる。畑地の中の巨大な林は方々に点在する村からもはっきりと見えるので、この廃村は貧相な姿にも拘らず未だに欅村と呼ばれている。

 林の陰から軽自動車が悲鳴を上げながら姿を現した。漸くたどり着いた車は屋根には蔦を引摺り車体は泥まみれのありさまである。

 鍬の柄に乗せた手に顎を預けて誰が来たのかと興味深々で観察した。

 運転席からはジーパンとティシャツ姿の若い女性が、助手席からは同じような姿の中年の女性がよろけるようにして降り立ち、体を延ばして一息入れている。ここには不向きな彼等の服装を見ただけで地元の人間でないことが判った。その瞬間、月光に隈どられた女の顔が心の表面に現われた。彼女かそれとも彼女に関係の有る訪問であろうかと心に緊張が走った。

 あの日、僕は体を濡らしたまま桂の木に戻り荷物を纏めて山を下った。女が何者か、女の目的は何かと気になったのは、夜が明けて大峰の山筋で一休みしたときであった。白み始めた谷間の岩にもたれ僅かな後悔を覚えたが、経験したことのない体力の消耗と心に潜む狂暴な感情の思い掛けない存在に恐怖を感じ、一刻も早く北山川から離れたかったのだ。大峰を抜ける間に異常な疲労も心の緊張も穏やかになり、吉野に辿り着いた時には心身共に回復し、全てが夢の中の出来事のように思えた。

 いま若い女性を迎えてあの思い出が一気に吹き出したのだが、遠くから見ても若い娘の容貌はあの女とは違っている。そもそも北山川の女は輝く陽の下には似合わないと肩の力を抜いたものの、若い女との付合いはギブアップと言うか、それとも放棄しているのが僕のライフスタイルだから、ここ暫らくの間に二人もの若い女性の追跡と訪問は偶然にしては出来すぎている。ここは慎重にやるべきだと考えた。

 車から降り立った二人は崩れそうな家の有様を、茫然とした様子で観察していた。表側からでは廃屋としか見えない有様に、どこかで道を間違ったのではないかと疑心暗鬼に陥っているのだ。数少ないが、ここを訪れる人には共通の思考と行動のパターンである。

 二人は、住人の存在を捜す行動に移り、ハンカチを取り出し吹き出る汗を拭いながら、ぐるっと周囲を見回した。そこで漸く、斜め後方に居る僕に気付いて体を強ばらせた。

 さて、昆虫採取でない。とすれば新興宗教の勧誘かもと考えた。いずれにしても待てば良いと、まずはサングラスを掛け汗だらけのティシャツを脱いでランニング一枚の姿になり、そのままの姿勢で待ち構えることにした。

 動く気配を見せない僕をじっと見詰めてから、二人は真剣に忙しく何事かを討論し始めた。それから心を決めたかのように眼を僕に据えて歩み始めた。

 昨日の雨で濡れた畔道を草に足を取られ、泥だらけのスポーツシュウズをいよいよ泥だらけにして二人は傍までやってきた。

「き、木津さんでしょうか」と、緊張に息を切らせながら尋ねる若い娘の肩のあたりまでに泥がこびり着いている。途中の土砂崩れの手直しにかなりの奮闘をしたらしい。

 娘は瓜ざね顔で鼻筋が通った芯の強そうな顔付である。髪は短く切り揃え、広い額の下で活発に動く眼が僕の動きを油断無く捉まえている。華奢な体をしているものの心身共に健康なことが陽光に輝く色艶と眼に表れている。山で出会った女の艶やかさと見事な対照を示す素直で陰のない容貌である。こんな娘こそが、眩しい陽光にふさわしいのだ。

「むむ」と僕は肩を上下させて筋肉をもりもりと動かした。

 二人は一瞬後ずさりして顔を見合わせた。背丈はそれほどではないが、筋肉だけは盛り上がっている体を、より大きく見せる作戦は大いに効果をあげている。

 僅かの沈黙の後に、若い娘が顔を引き締め決心したような表情を示した。大きく息を吸うと僕のサングラスを睨み付けて話し始めた。

「あのー、近ごろ富田林の駅前の花屋でエビネを売っているので、・・店の人に聞いたのですけど」

 再び肩の筋肉をもりもりと動かした。中年の女性は後退りし逃げ場を確かめるように後を窺ったが、若い娘は口だけは閉じたものの体は微動もしなかった。どうやら、中年の女性は単に付き添いで、若い娘が主役らしい。

 娘は小さく息を吸い込んでから、

「・・木津さんがエビネや野草を卸しておられると、教えてもらいました」

 新興宗教でもないらしいと、頷いた。

「実は・・、私は野草の会という組織に入っていまして、その南大阪支部に所属しています」と言い、そこで娘は、僕を刺激しないようにと口籠もった。

 言葉を待つまでもなく話の辻褄がおおよそ理解できた。完全なる誤解である。彼女達は北山川の女とも新興宗教とも関係がない。つまるところ、僕が野草を採集しては売っていると推察した野草の会の娘が、必死の抗議にきただけのことだ。

「私たちは、・・野草の保護について真剣に考えています・・それで」

 このままでは日が暮れてしまう。

 二人を早く追い払うにも舞台進行を早めるべきだ。娘の健気な声音に感心しながらも、言葉が終わるのを待たずにサングラスを外した。何事が始まるのかと、娘は言葉を止め口を開けたまま見詰めている。

 ティシャツを着て笑い掛けた。

 突然の動きに驚いたものの、威圧感を与えるサングラスと筋肉が隠れたことで、二人はなんとなくほっとした表情になっている。

「ちょっと追いてきてください」と言ってから鍬を背負い家に向かい、そのまま二人を案内して家の並びにある温室の所に連れていった。

 納屋は、譲り受けた時に方々から丸太をかすがいにして補強し、東側の壁をぶち抜き温室を建て増ししている。南側の畑に沿って家と納屋、温室が長く続いている。

「この納屋では、エビネ、春蘭、寒蘭、その他の蘭科植物の胚培養や組織培養をしているのや。培養を終わった株は、その横の温室で固形培地へ移して育てて、それから温室の中央部で順化する。温室のいちばん向こうには鉢植えで花芽の出るまで育てている。だから僕は山で植物を採取するのやなくて増殖して売っているのや」と、一気に説明した。

 娘も小母さんもぽかんと見詰めている。娘の肌からは汗と一緒に健康な若い娘そのものの匂いがしていて、なんとなく幸せな気分に陥った。

「あのー、何を言っているのかよく判りません」と戸惑う表情の娘に、思わず笑ってしまった。

「いや、すまんすまん。要するに、あんた達は僕が山野草を採集するのがいかんと言うてるんやろ」

「・・まあ、そうです」

「富田林で売っている野草は山で採取したんやなくて、この納屋で増殖したものやと言うてるのや」

「・・・」

「勿論、種や葉芽は採取したのやけれど、母体そのものには少しも傷付けずにそのままにしている。せやから、あんた等の抗議にあたる行為はしていないということや」

「へえー、そんな方法もあるんですか」と娘はまだ釈然とはしていない。

 誤解は充分に晴らしておく必要があると、二人を五十メータは続く温室の向こうに連れて行き換気窓から中を覗かせた。

「ほら、一番手前の方が成長した鉢で、向うの端のはまだ二年はせんと花が咲かない鉢、それに、ここにあるのは殆どは組織培養で育てている」

「ひえー、ものすごい数なんですねえ。これ全部種から育てたのですか」

 組織培養を知らない言葉に、説明をまだ完全には理解していないとの歯痒さを感じたが、それはそれで仕方がないことと諦めた。しかし、

「そう言うこと。正確には葉芽から育てたのが殆どだ」と一応の修正は試みた。

 膨大な鉢の数に圧倒された二人はその言葉を理解するどころではない様子だ。

「それから、こっち」と声を掛けて、畑を区切っている猪垣の扉を抜けた。そこも以前は畑であったのだが、今は山野草の培養地にしている。

 僕の背丈よりは頭ひとつ低い猪垣は、山地に住みついた人々が生活を守るために何代にも渡り営々と築き続けたもので、引き継いだ土地の殆どを碁盤の目のように、おおよそ一反毎に仕切っている。それどころか更に細かく区切ろうとした形跡さえ窺われ、猪垣を見る度に加えられた労力の膨大さと、託された夢の大きさに圧倒されてしまう。彼等の労力と夢は極く最近になって無視され放棄されてしまったが、僕の生活様式にはぴったりだから、猪垣はここに住み着いた理由のなかでも最大のものだ。

「ここは山野草、それも陽性の山野草の培地や。これは皆、種を播いて育てた」

「うわー、きれいやなあ」

 娘は頬を染めて、紫、赤、白、ピンクと、様々に彩り塗り分けられた畑地に見入った。「向こうの区画には、いろんな樹を植えてあって、その樹の下には陰性の山野草を種付けしてある。株が増えた分を富田林の花屋で売ってもらってるのや」

「どのくらいの品種があるんですか」

「そうやなあ、向こうの樹の下の分も入れて五百種類はあるやろなあ。まあ主に雑草のなかでも花や葉がきれいなものや、それに珍しいものは殆ど揃ってるなあ」

「うわあー、凄いなあ。あのー、ちょっと見物してもいいですかあ」と、本来の用事は全く忘れたようである。

「ああ、僕は畑の仕事をやっているから、自由に見て回ったらええ。ただ草叢には入らんほうがええよ。ひょっとすると蝮がいるかもしれんからなあ」

「ひえっ!蝮がいるんですか?」と、一言も喋っていない小母さんも共に悲鳴を上げた。「猪垣の内側からは追い出した筈やけれど、また戻っている可能性もある。注意するほうが無難や。この時期には人に気付けば逃げる筈やからあまり心配ないけど、念のために棒を持って地面を叩きながら行けば全く心配ない」

「地面を叩く?」

「そう。蛇は音が聞こえんけど、振動は感知するのや」

「ああ、なるほどね。でも、それでも噛まれたらどうしたらいいのですか」と慎重である。虹彩の薄い瞳を見詰めながら、かなり頭の鋭い娘に違いないと考えた。

「一応の薬は持っているし、もしかの場合は電話で町役場に血清を頼むからその点も心配はない。もうここには五年も住んでいるけど僕は噛まれたこともないし、そもそも蛇に信号しながら、ゆっくりと行動すれば百パーセント安全やから心配することはない」

「そうですか・・それに、何か、蜂がぶんぶん翔んでいるようやけど、大丈夫ですか?」「ああ、あれは日本蜜蜂や。あの蜂は刺すことはないから大丈夫」

「そう・・。刺さない蜂なんてあるんやろか」と話し合いながらも二人は野草畑へと向かった。

 おどおどとした二人の姿に吹き出しそうになりながら野菜畑へと戻ることにした。 今日取入れた野菜は当座の分と、冬のための漬物に使う。収穫時期がずれるように植え付け無駄の無いように取入れる工夫はしているが、これから一ヵ月は留守にする。山では新芽や木の実、それに雑草を食べるから野菜は必要ないのだ。だから使い道のない野菜の山を眼の前にして思案に暮れてしまった。

 野菜の前に立っている時に二人が戻って来た。二人からは霞のように幸福感が立昇っている。仄かに上気した彼等の顔を見て野菜の始末法を思いついた。

「いやー、凄かったなあ。木津さん本当に有難うございました。草花毎に名札まで立ててあるから本当に勉強になりました。一度は見たいなあと思うてた野草までみられて、それに可憐な花がほんまにきれいやったなあ」と顔を見合わせ感動の言葉を言い交している。ここに来た用事のことは完全に忘れてしまったようであるが、僕としても話を蒸し返す気はない。

「そうか、それは良かった。それでやなあ。・・ちょっと頼みがあるんやけど、聞いてもらえんかなあ?」

「ええ、できることやったらなんでも」と、夢心地の二人は何の警戒心もなく答えた。

 野菜を指差して、

「実は、野菜がこんなに余ってしまってなあ、出来るだけ持って帰ってもらいたいのや」 上擦った気分から一気に醒めた二人は眼を丸くした。

「そら、貰うのは有り難いことやけど、・・何故売りに出さんのですか」

「僕の野菜は化学肥料を使わんから大きさが不揃いでみすぼらしい。それに農薬使わんから穴だらけで売り物にはならんのや。農協に持って行っても屑値でしか売れんから運搬の費用を考えると却って赤字になるのや」

「ひえー、無農薬で有機肥料野菜ということですか。それやったら余計に価値があるのと違いますか?」

「それはやなあ、それだけの販売組織が有る場合のことで・・、そんな組織に入れば一定量の供給の義務が生じるのや。しかし僕の場合はしょっちゅう山歩きに行くから供給量を保証できんし、そもそも量がつくれん。だから組織には入らんのや」

「そうですか。そんなことで役に立てるのやったら、私らには有り難いことですわ。車に入るだけ貰って行きます」といよいよ幸せ一杯の顔付きになった。

 別に話をすることもなく、後部座席とトランクに野菜を一杯に積込んだ二人はそのまま帰路についた。欅林の中に車の姿が消えるまでは、仕事の邪魔が無くなりほっと出来るとばかりに考えていたが、手を振る彼等の姿が消え、車の音が徐々に遠退くに連れて、寂しさが冷え冷えと体に沁みるような心地がした。

 付合う人の全てが僕を変人だと不思議がるのだが、感動の眼を見張ったのはあの二人が最初である。何を言われようと好きなように生きてゆくと割切っているが、やはり、成し遂げた仕事を認めてくれる誰かを求めているのだろうかと、消えた車の方向に眼を据えて佇んでいた。その内、彼等の感動の眼差しの奥に光っていたものを何処かで見たとの思いがあり、それは二年前に初めて開いたエビネを前にした時、僕の心と体に輝いたものと同じだと気付いた。

 野草の売上が延びていることと、それを契機とする二人の訪れが、共に何かが変わりつつある兆しと思え、その予感は体内に淀んだ寂しさを溶かし、ゆっくりと暖かい流れへと変えていった。やるべき仕事を思い出し体を返して田圃の手入れに向かった。 
 


 

2018年8月24日金曜日

メグナの蝉


 ダッカ市南端の駅、そこから南下する唯一の線路は十キロも下れば港町ナラヤガンジに達してあっさりと途切れてしまう。そこから南には、バングラデッシの国土を東と西からとうとうと横断してきた想像もつかないほどの大河、ガンジス河とジャムナ河が合流と分岐を繰り返し、陸と河の境目も定かでない湿地帯がひろがっている。そこではもう、河の片隅に陸があると表現すべきで、その僅かな陸地も樹木に占有されているものだから線路どころか人影さえ途切れてしまい、広大な森に覆われたその湿地帯は二百キロ程も続き漸くベンガル湾に達する。そんな事情で、バングラデッシのインド洋に面した五百kmもの沿岸、つまり東京から名古屋までの距離なのだが、その全てがガンジス河の河口とよばれているのだ。こんな大河だから巨大な海洋船も遡上が可能で、海から二百キロも内陸にありながら、ダッカ市はバングラデッシの主なる港湾都市でもあるわけだ。

 南を閉ざされた線路は仕方なくダッカからは北に向うのだが、列車は人力車で溢れる道路と平行し、ときに交差しながら市の中央部を貫くが、すぐ飛行場に突当り東に逸れて、ふたたび方向を立直し真直ぐに北へと延びている。その飛行場はかっては国際空港で、その昔に日本赤軍のハイジャック機が着陸したことで有名だが、古い話でもあり、それに、市の北方には新しい国際空港が開港してしまったから、この旧国際空港での出来事はほぼ人々の記憶からは忘れ去られたようである。

  初めて訪れた人々には、ダッカ市街、車窓の風景はあまり創造力を掻き立てるものではなく、それは単調と言うことではなくて、むしろ複雑さに満々ちていて、共存する貧しさと悲しさが余りにすさまじく、全ての創造力を奪い去ってしまうのだ。しかし街を幾度か訪れれば、人の順応力は際限無いもので、その慌ただしさにはすぐに慣れるし、それに、敗戦後三十年代半ばまでの日本の都市の騒々しさを知る人々には、リキシャを掻き分けて走り回る懐かしい車種に出会う時には特に、あたかもあの頃から時間が停止したかのような錯覚を得て、懐かしい喧燥と悲哀と汗と安物の煙草の臭いと、それゆえの人間臭さを充分に満喫出来る都市だと気付くのだ。それらの臭いはダッカ空港のドアーを一歩この国に踏み出した瞬間に五感に迫る体臭ともなり、初めての訪問者を怖じ気付かせてしまうのだ。

  ダッカ駅もまた、その異臭に満ちた所で、さらには空港よりも遥かに喧燥に溢れていて、列車の到着しない夜中にも、明日の列車を待つ人々が打ちっぱなしのコンクリート床を埋め尽くし横たわり、日の出と共に人々は起き出して、駅には再び埃と臭いと騒々しさが満ち溢れる。

  駅を出た列車は、レンガ作りの煤けた建物や、傾き崩壊しそうなバラックの軒先をかすめて走る。古ぼけた重々しいディーゼル機関車は、くすんだ客車の列を引摺りながら甲高い軋み音をあげ、巨体を震わせて進み、街中に連なる警報機はカンカンカンカンと遠くこだまのように警報を打ち続ける。

 この国では早朝でも太陽は全てを焼尽くす炎となっている。陽光を体一杯に受け黒い膚を汗で光らせるリキシャ(人力車)の運転手達とリキシャに腰掛ける慎ましげな客たちが遮断機の前で長い列車の通過を待ち、列車の天井にまで溢れる乗客や、手摺りにぶら下がる乗客の無数の眼と、疲れ切った灰色の視線を交わす。

 三十分も走ればすでにそこは田園地帯である。進むに連れて、耕された田と人の住む丘とが交互に限りなく現れ去って行く。丘の上には、太陽にさらされ黒々と変色した葉を茂らせる常緑樹が並び、ひねくれた幹を見せる木々の合間には、崩れ落ちそうな土壁、藁葺きの人家が見え隠れしている。

  国土は概ね平らで、ほぼ隅から隅まで人に溢れているが、平坦であるが故に雨季になれば国土の三十パーセントは水に覆われてしまい、水没する低地を逃れ、人家は僅かに盛上がった丘の上に寄り添っている。丘々を結ぶ、か細い道は水没を防ぐために土盛りしているが、毎年のように襲う洪水が根を削り、小道は心細くそそり立っている。道の所々には低地への潅水や排水のための溝が崩れた姿を見せていて、上には木切れを組合わせた橋が架かっている。

 進めど進めども代り映えのない眺めの中を、列車は、時には駅もない湿地帯の真中で対向列車の通過をまち、ぎこちなく走り進む。

 ほぼ一時間を走りトゥンギの分岐点で列車は東への道を取り、さらに百キロの道程を三時間ほど走れば、鉄路は小高い丘の峰を伝って進む。時に現れる河は驚くほど深い谷間の下を流れている。河幅は広く水は緩やかで、青い空を写す河面は陽に輝く白い砂州に隈どられ、何艘もの白い帆掛船が静止しているかのように浮んでいる。一方、線路周囲の乾燥しきった丘陵地帯には潅木が茂り、人家の気配も感じられず、かように照り盛る太陽の下では、大地には、乾燥と湿潤が容易に隣り合うことが出来るのだ。

 やがて、右手前方の低く連なる丘の上に、白く巨大な円筒状の建設物が、青空を背景に聳え立つ先端を現わす。周囲の景観を全く拒絶する白い円筒は、流れ去る丘の上に姿を晒し続け、しかも徐々に高さを増してゆく。

 突然丘は途切れ、鉄道線路とは平行していながら一向に姿を見せなかったメグナが目の前に横たわっていて、列車は轟音をあげながら赤錆色の鉄橋へと突進してゆく。洋々と水を湛えるメグナは対岸の鉄橋の真下辺りを頂点にして、大きく緩やかに流れの方向を変えている。河幅は峰が迫る鉄橋付近だけが狭く、下流側と、それに上流側でも一気に広がっていて、まるで二つの大きな湖が鉄橋の下の狭い水路で繋がっているかのように見える。洪水のたびに大きく流れを変えるメグナも、この峡谷だけは打ち破ることが出来ず、そこで、この周辺は港として栄えてきたに違いない。

 対岸の遥か下流の砂州上に、白い地肌のコンクリート円塔が漸く全貌を見せ、周囲には建設途上の鉄骨群が立ち並んでいる。巨大なクレーンが円筒の先端に届くほどに長い腕を伸ばしている。

 列車は古い鉄橋を揺るがながら走り続け、渡り終える直前に減速して、そのままアシュガンジ駅へと走り込む。鉄橋の振動音と列車のブレーキ音が激しく交差しながらメグナに突きささり細かいうねりが河面に広がる。うねりはゆっくりと河の上手と下手へと広がり、徐々に消え去り、灰色の表情に戻ったメグナは照り盛る日の光を静かに受けとめている。

 

 いまいましいGE社製東南アジヤ仕様クーラは温度調整を受付けず、室内は氷点下の世界となっていた。と言って、クーラーを止めれば、獰猛な蚊が我が物顔に跳梁するものだから、氷点下の方が遥かに耐え易く、わたしは薄いシーツにくるまって夜を過ごすことにしている。

  その日朝早くわたしはアパートの一室を出た。扉一枚外は亜熱帯で、冷え切った体に熱気が気持ち良かったが、眼鏡には湿気が白く凝結した。

  わたしは居住区の周囲を巡る道路をゲートの方向にと向かった。道の真正面には既に太陽が、輪郭も定かでない白く巨大な炎となっていた。圧倒的な陽光は雲ひとつない空全体を白っぽく染めていて、十月になっても真夏と変わらぬ太陽と空に、わたしはうんざりして眼をそむけた。冷え切っていた体は既に常温を越え体のあちこちで汗が垂れ始めていた。

 そむけた視線の向こうに横道があり、レンガ造りのアパート群の隙間を通して、建設中の建物、どれもが同じ外観のアパートなのだが、その姿を遠くに見た。居住区の奥辺りはまだまだ建設途上で、ここに来てからの二ヵ月以上も、外観には不思議な程に変わりがない。

普段は気にも止めない建設風景に突然の興味を覚えてわたしは様子を見に行く積りになった。だが、体を回してすぐに『逃避的行動だ』と呟いて足を停めた。

 折角の日曜日なのに、ここから出掛けねばならないことでわたしの心は逃避的行動を選んだに違いない。衝動的逃避はしばしばのことで、それに失敗を招くことが多いから、常々心の動きを見なおすことにしている。その問い掛けに、『この暑い中を』と、わたしの心は強調し、次いで『塀の外に較べれば天国のような居住区から出掛けることに気が進まないのも事実だが、この国では日曜は平日と聞いてはいるものの、早朝に訪問するのはまずくはないか? だから、道草で時間潰しをするには十分の意味がある筈だ』と、心は弁解に努めた。

 弁明には納得したものの、念には念をいれ、寄り道することのデメリットも考えることにした。だが、どう考えても暑さで疲れる以外に特に支障はないと思え、わたしは再び足を建設途中の建物へと運び始めた。

 レンガ塀とレンガ造りのアパートに挟まれた道を出来るだけゆっくりと歩いたが、突刺すような陽光と、軟化したアスファルト道の茹でるような熱射と湿気が体にまといつき這い上がり、すぐに汗が吹き出した。この国では汗を吹き出さずには何も出来ない。どうせ村まで行き着くまでには汗まみれになるのだ、と思い直して普段の歩調に戻した。

 予想通りに建設現場への僅かな道程で下着も上着も汗でぐちゃぐちゃになってしまった。 コンクリート造りの柱と梁はアパートの二階部分まで出来上がっていた。多数の太い竹を、ささくれたジュートの縄でくくりつけた傾斜路が、地上から二階まで続いている。その傾斜路を、痩せた労働者達が容器に入れた生コンクリートを頭に載せて運ぶのだから、これでは工事が捗る筈もないと、そのことを、わたしは十分に納得出来たのだ。

 今日は休みらしく人の気配はない。塀の外とは違い居住区では日曜が休日のようだ。塀一枚の内外では習慣や貧富それに通用する言葉などと、人が造り上げるものは事毎に違っているのだと、暗い建物の内部を見上げながらわたしは感心した。

 一階部分の外壁は粗末な薄柿色のレンガを積んでほぼ出来上がっている。鉄骨は全く見当らず、外壁はレンガを積上げてモルタルで接着しているだけだ。日本なみの地震があれば脆くも崩壊となる構造だ。多分わたしの住むアパートも同様であろうと、思った途端に、柿色のレンガに挟まれた白いモルタルにひびが入り、続いてレンガの一枚づつが崩れる様までもが心に浮かび、胸の奥から頭の方に気怠い焦りが走ったが、この国では地震は希の筈だと呟いて、漸く心を押し止めた。

 建物の向う側でなにやら石を砕くような音が続いていて、わたしは建物の向こうに回り込んだ。そこで、虚ろな建物の横に座る老人と少年を見かけた。横にはレンガが山のように積んであった。脇のいじけた木の幹に、大きな蝙蝠傘を括りつけ、彼等はその下で一心にハンマーを振るい、レンガをコツコツと割っていた。

 朝の光は傘の下を斜めにくぐり抜け、二人の顔だけが陰のなかにあった。傘と彼等の長い影がものうげに草地の上に延びていた。地面に置いたレンガの角に別のレンガを片手で支え、ハンマーを叩き付けては割っている。レンガの破片が四方に飛び散り、二人の裸の上半身は黒い肌と薄赤いレンガの屑でまだらになっていた。汗はレンガ屑を押し流し、何本もの黒い肌色の筋を描いて滴り落ちていた。

 危険な仕事だなあと、よせばいいのに垢にまみれた老人の手をじっと見てしまった。懸念通りレンガ屑にまみれた指の爪の何枚かは矧がれ、爪の跡が周囲の黒い膚のなかで白く浮立っていた。時たま、それもかなり頻繁にハンマが目標を外れて指を傷付けるのだと、わたしは心から怯えてしまった。

 彼等の砕いたレンガをセメントに混入して掻き混ぜれば、生コンクリートが出来上がる。世界最大の堆積層デルタ上に、スッポリと乗っかったこの国の大地は微細な砂で積上げられているから砂利は手に入らず、先ずは泥でレンガを造り、それを砕いて砂利の替わりとしているのだが、果たして、レンガ片と彼等の爪が混じったコンクリートが、砂利で造ったコンクリートと同等の強度を持つのだろうかと、またまた心の中に泥色に渦巻く思いが生まれた。とても無理である。要求される剪断強度と圧縮強度を満たせる筈がない。ここの建設物は労働者の安全だけではなく、そこに住む人々の命に関わる耐震強度をも無視したものに違いない、と無益な焦りが細かい波となって体の中を走り反響を繰り返した。

 わたしの気配を感じた老人はゆっくりと頭を上げ、続いて少年も顔を仰いだ。彼等の動きは影と同様に物憂く、朝からの重労働で力を使い果たしたことを示していた。老人の瞳は白く濁り、ああっ、見えないのだとわたしは悟った。それでも僅かに人影が判別出来るのか、老人は仕事の動きを留め片手を差し出し「ボクシーシ(御奉謝を)」と言った。少年は彫りの深い顔に、その歳には不似合いな暗い悲しみを浮かべている。老人の皺だらけの顔には何の表情もなく灰色の心が浮かんでいて、それに較べれば周囲の明るさとはかけ離れてはいるが少年の悲しみは、それでも、まだ彼の若さを示しているように思えた。

  仰いだ少年の眼は幼年期の澄んだ青みを湛えているが、レンガ片に傷付き所々が赤く充血していた。幾年もせず、この少年もまた視力を失うのだろうか。東南アジアで、そうしてこの国の塀の外でもわたしの心は幾度も幾度も締付けられ、既に心の壁は十分に厚くなった筈なのだが、今またわたしの心のどこかが微かな音をたてて傷を開いてしまった。

 老人の動きにつられて少年も手を差出し「ボクシーシ」とか細い声で言った。栄養不足で痩せ細った体からは大きな元気の良い声は出せないのだろう。

 わたしは再び心を閉じ、眼の奥に圧力を加えて、当然のことながら二人の願いを無視することにした。全てこの世は『ギブ アンド テイク』だ。これが塀の中のヨーロッパ式現場での生活方式である。この二人は悲しみ以外に与える何ものをも持たない。だから何かを与える必要は無い。いや与えてはならない、と心で呟いた。これは長年の低開発国での経験から得た、心を正常に保つためのわたしの儀式でもある。

 二人は手を差出した状態を十秒ほど続け、それから、何も得られないことを悟り、のろのろと手を降ろし仕事に戻った。そこで再び、ごつんごつんとレンガを叩く音が周囲のレンガ壁の間にこだまし始めた。一方わたしは、燃え盛る太陽に顔を向けて何箇所かで綻びかけた心臓を縫い直した。太陽は塀の内外別け隔てなく焼尽くすような光の槍を四方に突出していた。

 予想とは違い、この衝動的行動で得たのは肉体的疲労だけではなかった。それどころか、心の中には重いしこりが出来てしまった。鋭い頭脳を維持すべき時に、これはまずかったと後悔しながら元の道へと戻ることにした。

 ゲートは太陽の方向に有り、その存在は塀の外に危険があるからではなく、外の悲惨と貧困が入り込むのを阻止するためにある。だから内側に住むわたしが外に出るのは全く自由だけれども、やむを得ない事情のない限りこの自由を行使する気にはなれない。今日は、ゲートから出てゆくだけの十分な事情があるのだ。

 制服に身を固めた二人の兵士が敬礼して見送った。日本ではただの技術者でも、このゲートではMVP並みに扱われているのだ。

 外には数台のリキシャとオートリキシャ(原動機付ミニ三輪車)が客を待っていた。汚れたランニングシャツと濃い緑色の腰巻きを身に纏う痩せた運転手達が期待に眼をぎらつかせて見詰めている。町まで約二キロ、さてどうするかと考えた。やはり急いで行っても仕方がない。それに汚れ切った、虫が巣食っているような車よりは、徒歩が朝の散歩にはふさわしいと、わたしは近付こうとする運転手を手で遮って村への道を歩きだした。

 道は堤防の上にある。居住区から陸地伝いに外部にでるにはこの道が唯一の道で、東向きのゲートの前からすぐ横に折れて現場の塀に沿い北に向かい、プラント工場の門の所で再び太陽の方に折れて、そこからは村まで見通しを妨げるは何も無い一本道である。アシュガンジ村の手前にある鉄道の駅までただひたすらに真直ぐに延びているから、暑さをものともせずただと歩き続ければ村に着く。

 

2018年8月20日月曜日

ヤナギバ・ヒメジオン (3)


 とうとう直ちゃんの待ち望んだ土曜日がやってきた。そのことは気にはなってはいたが、僕は一旦家に帰りそのまま針中野へと向った。

 高見の里で電車に乗り約十五分、大和川を越えてすぐの所に針中野の街がある。駅の西側には繁華な商店街があり母親が月に一度くらいは買物に出掛ける。その時には荷物運びに僕も追いて行かねばならないのだが、人混みと密集する家並みの間に居るのが嫌な僕は母親が買物を終えるのを駅の脇で待つことにしている。

 母親に連れられていったある日、いつものように商店街の入り口辺りでぶらぶらと母親を待っていて、何気なく入った本屋で月刊誌の漫画少年"と初めて出会った。

 店先には漫画月刊誌のおもしろブック"少年"とかが、挟み込まれた付録ともどもに膨れ上がって山のように積んであった。僕は何気なく店の奥の方に入っていったが、書棚の片隅に漫画少年"と書かれた、聞いたこともない二、三冊の雑誌が埃だらけで付録もなく寂しそうなようすで置かれていた。なんの期待もなく手に取り、ちらちらと頁を繰ってすぐに僕は痺れてしまった。

 他の雑誌は分厚い付録と僕には興味のない記事や読者投稿文で嵩張っているが、漫画少年は始めから終わりまで漫画ばかりだった。しかも、掲載している漫画の画法やストーリィが斬新で、少し読んだだけで、僕の知らない漫画の世界がそこに有ることがわかった。それに、手塚治虫がジャングル大帝なる漫画を連載していて、これに較べれば少年"に掲載された、同じ作者の鉄腕アトム"さえもが色褪せて思い出されたほどであった。将来漫画家になろうと、漠然とではあるが希望している僕にとって、この月刊誌の存在は非常に貴重だと瞬時に思い、母親にねだって買ってもらった。

 それからは漫画少年だけを買い続けている。驚くべきことには友達の誰一人としてこの月刊誌を知らない。これ程の雑誌をなぜ知らないのだろうかと僕は不思議に思っている。 とにかく、漫画少年を買うことにはしたが、その発行はほんとに不規則で、一ヵ月遅れもしばしばである。だからいつ買いに行けば良いのかが、全く見当がつかない。他の月刊誌は河内松原の小さな本屋でも売っているが、漫画少年は針中野のその店だけに置いてある。しかも、他の雑誌はどこの書店の店頭にも山積みしてあるのに、漫画少年だけは、ひどいときには一冊だけのこともあって、すぐに売り切れてしまいそうな不安を感じ続けている。仕方なく大体の感で適当な時期に針中野に行くことにしていて、なんとか、二回に一回位の無駄足で手に入れている。それだけに漫画少年を見付けたときの喜びはまた格別で、家に持ち帰る迄の、心踊り雲の上を歩くような感覚はなんとも言えないものである。 手に入れた喜びを長持ちさせるために、家に戻るまでは中身は見ないと決心して店を出るのだが、すぐに前号のストーリィが想いだされ、あれから先はどうなるかとか、ジャングル大帝の見事な絵が眼の前にちらつきだす。かくして、僕の決心は帰りの電車に揺られるころには脆くも崩れてしまい、一ページめを開いた途端に僕の心は漫画少年の虜になってしまうのだ。読み続けるあいだも胸がドキドキして血が激しく流れ体がうずく感覚が続き、家に帰っても二度三度と、全てを読み切ったと感じるまでは読み直すのだ。

 と言うような非常に切実な理由で、つまり、そろそろ発行の筈だとの予感と、急がないと売切れてしまうとの恐怖感で、針中野へ行かねばならなかったのだ。

 予想通り、漫画少年を二ヵ月ぶりに手に入れたものの、今日ばかりは少々ようすが違ってしまった。直ちゃんは志織ちゃんの所に行っている筈である。果たして、あの花の名前は判っただろうかと、変な興奮が僕の頭の中に大きく膨らんでいた。だから、電車の中でも雑誌を開きもせずに、窓の外を流れる家々と遠くに緑の木々を明瞭にみせている生駒の山並みを茫然と眺めていた。電車が高見の里の手前のカーブに入るや僕は立上がってしまい、カーブの内側の潅漑池に顔がくっつく程に傾いた車両の中を、よろけながら最前部の出口に歩いて行き、電車が減速に入った時には扉の把手に手を掛けて、電車が停止する前には扉を開いて飛出した。プラットホームの坂を駆け下り発車寸前の電車の前を走り抜け、改札口に走り、駅員の怒鳴り声を背に受けながら住宅地への道を走った。五月の強い陽射しの下だから家に着いたときには体には汗が滴っていた。

 家に飛込んで、雑誌を玄関脇の机替わりの木箱に放り投げた。漫画少年が此れ程の冷たい扱いを受けたのは初めてのことだろう。

 裏の木戸を通り抜けて志織ちゃんの部屋の前に立ったが、縁側のカーテンも窓の障子もいつものように閉じられたままである。なんとなく気の抜けた思いで「志織ちゃん」と声を掛けると、いつものように志織ちゃんの青白い顔がカーテンの隙間に現われて消えた。ガラス戸を引き、カーテンを押し退けながら部屋の中に入ると、小机を挟んで直ちゃんと志織ちゃんが机の上に置いた本の上で顔を寄せている。

 机の側に行って本の中を覗いてみると、色塗りの草々の絵が眼に入り、思わず「ああっ、草の本か」と僕は呟いた。直ちゃんは顔を上げて紅潮した顔を、にやっと歪ませた。

「いさぼん。あの草の名前がわかったで。それ以外にも僕の知ってる草の殆どがこの本には書いてあるんや」

「へえー、小父さん、何処で捜してきたんやろか」

「中ノ島図書館で借りてきたんや」と、今度は志織ちゃんが顔を上げて答えた。

「草の本だけやないんやで、昆虫の本も借りてくれはったんや」と直ちゃんが感動の震えを帯びた声で付加える。

「ヘーッ、それであの雑草はなんていう名前なんや」

「うーん。何種類か似た草があるんやが、花の形それに茎や葉っぱの形から考えると『やなぎばひめじょおん』という草らしいわ」

「やなぎばひめじょおん? なんか変な名前やなあ」

「そうかなあ。やなぎばひめじょおん。ええ名前やと思うけどなあ。とにかく原産地は北米やって」と言ってから直ちゃんは自慢気に続ける。「アメリカから来たんや」

 本の中を覗きこんでみると、古く黄色みを帯びた頁が数段に区分してあり、その各段には着色された草の絵が描かれている。各々の絵の上には平仮名とローマ字で草の名前を書いてあり、下には細かい字であれこれと草の特徴を書いているようだ。『やなぎばひめじょおん』の欄には、見慣れた野菊の絵がのっている。しかしその前後の草の形もまた、あの野菊と大差ないように僕には思えた。

「ふーん、どれもこれも似ているなあ」

「そうなんや。ただなあ、ここの所に花の咲く季節が書いてあるんや。今頃咲くのはこれとこれやが、葉っぱの形や花の付き方から見ると『やなぎばひめじょおん』という事になるんや」と、教科書とか一切の本に対して拒絶反応で応じる直ちゃんが、この本についてだけは信じられない程の愛着と理解力を示している。本にしがみつついたままで直ちゃんは言葉を続ける。

「ただひとつ問題があるねん。この本によれば『やなぎばひめじょおん』は主に関東に分布してるんや。せやけど、あれは確かに『やなぎばひめじょおん』に違いない。どう考えたらええんやろか・・・」

 手放そうとはしない直ちゃんの手から無理矢理に本を取り上げて、裏表紙を開けて発行年を見ると、手垢で汚れたわりにはそれ程古い本ではない。この草がそれほど短かい間に関東から関西まで拡がるとも思えない。「うーん」と僕は唸った。本が消えるのを恐れるかのように、僕の手から本を取り戻した直ちゃんは、

「まあ、ええか。とにかくこれがあの草の名前であることは間違いないんや」と独り言を言った。今日の直ちゃんは実に多弁である。

「この草も、この草も外国から来たんやて、この『ひめじょおん』も北米から来たらしいし、これはヨーロッパ、これはブラジル。ぼくらが野菊というてる殆どが外国から来たもんらしいわ。僕は外国から来た連中ばっかりと付合っていることになるんや」と直ちゃんの日焼けした顔は興奮で赤黒くなっている。

 クスクスと笑う声で頭を上げると、いつの間にか椅子に座った志織ちゃんがぼく達を見おろして言う。

「直ちゃんは、それで感動してるんや、せやけどねえ、おとうさんが言ってはったけど、家猫はエジプトが原産地やねんて。猫を見る度に感動せなあかんなあ」

 僕と直ちゃんは眼を見合わせた。神秘的な響きを持つエジプトと、そこらじゅうに居る傍若無人な猫ども、このふたつが頭の中で重なり合うのに暫らく時間が掛かり、その後で志織ちゃんの言葉が心に達して僕は吹出した。続いて直ちゃんも吹出した。締め切られ外のすがすがしさと隔絶された薄暗い部屋の中で、僕達はいつまでもいつまでも笑い続けた。

 朝、志織ちゃんと直ちゃん、それに僕はそろって住宅地の南側の田圃に出ていった。意気軒昂たる直ちゃんが、嫌がる志織ちゃんを口説いて外につれだしたのだ。漸く志織ちゃんも了解したものの何かを恐れているような感じがして、二人の様子を見ながら僕はなんとなく不安であった。しかし、梅雨にはいったにしては今日は良い天気である。雲ひとつ無い陽光の下で見渡す限りの田圃に水は行き渡っている。朝日を受けた田の表面からは水蒸気か立ち登り大気には湿気が立ち籠めている。昨日までとは一変した水の風景に僕は戸惑いを感じ、次いで水面に輝く光の群れに興奮してしまい不安はきれいに忘れてしまった。 地平線の彼方まで弱々しい苗の緑が、鼠色の水面を背景に霞のように続いている。もう一週間もすれば苗は大きくなり、緑は濃くなり、まるで緑の絨毯のように視野のすべてを覆う。さらに稲は育ち茂り緑の海となり、秋には金色の絨毯になる。彼方を見ていた僕の脳裏には、去年それにその以前の頭に刻み込んだこの地の風景の移り変りが明瞭に浮び上り、その心の情景にうっとりとしてしまった。

 本から仕入れた一週間の知識を総動員して直ちゃんは説明し、志織ちゃんは俯いて聞いている。しかし僕には志織ちゃんの様子が不自然に思えた。直ちゃんの言葉を聞く振りはしているものの、どことなく緊張しているし、常に俯き加減で決して視線を上げない。僕はそれとなく志織ちゃんのようすを窺いながら二人の後に従った。

 二人は畔道を辿り南へと向かってゆく。直ちゃんは草花だけではなく田の虫も探しているが水を張ったばかりの田圃に虫は少なく、僅かにアメンボとカエルがいるだけだ。間もなく水藻が育ち田の水は緑に彩られ、赤や緑の体を微妙に震わせて泳ぐ田金魚が現われ、かぶとえびは雑草の芽を摘み取るために水底を這い回る。ウンカが稲に取り付きユスリ蚊が空に渦を巻く。これらの虫を追って燕、蟷螂、トンボ、蜘蛛と様々な鳥と虫達が集まる。蝙蝠は夕暮の空に群れをなして飛礫のように飛ぶのだ。

 直ちゃんはあれこれと説明し続け、志織ちゃんは下を向いたままギクシャクと後に続き、僕は彼方を見詰めて空想に耽りつつ僅かに遅れて歩く。この妙な一行はゆっくりと道を進んだ。

 少しゆけば西徐川の堤防に突き当たり低い堤防を上れば小道に入る。堤防の向こうの川面へと下る傾斜部には灌木がそこここに茂っている。この辺りで河は大きな池を造っていて池の中央には草に覆われた小島があり、その上には一本の松が腕を広げている。

 堤防に座って休む志織ちゃんがえらく息を切らしている。自らの説明に興奮していた直ちゃんも、漸く志織ちゃんの様子が普通でないことに気付き、「志織ちゃん、大丈夫」と心配そうに言った。僕が見るところ、志織ちゃんは体が疲れているのではなくて、緊張が荒い息遣いになっているのだ。志織ちゃんは眼を閉じて「大丈夫」と答え、そのままじっとしていたが、すぐに息遣いは平静になった。

 池の小島全体が柔らかい緑と一面のたんぽぽの黄色に包まれていて、周囲の広い川面には空の青さがそのままに映っている。いや、あたり一杯に散乱し空の青さを減殺している陽光は水面で吸収され、川面に映る空の色はより深い青さを持っている。風もなくベタッと貼りついた空が小島の周りにあり、周囲に満ちる陽光は、この単色の世界がこれからまだ成長の段階にあることを示し、そこには、夕暮時の単色世界を覆う滅びの色はない。ここは単なる池ではなくて山や空の美しさに対抗できる、この地上でもっとも美しいところに違いない。

「きれいやねえ」と眼を開いた志織ちゃんは一言呟いた。

 後は言葉もなくその風景に見入っている。季節としては早めの蝶トンボが、ただ一匹、仲間を求めるかのように、黒く輝く羽をゆらめかせながら空高く舞っている。

「あんたらはいつもこの風景をみてる・・」と志織ちゃんがそこまで言ったとき、僅かな風が川面を走り、波立ちが川面一杯に広がり光がさざめいた。この光の囁きに僕はいよいよ恍惚となったものの、すぐに志織ちゃんの言葉が中断したままだと気付いた。横を見ると志織ちゃんの体が後に、ゆっくりと、倒れてゆくところである。

「ああっ」と僕と直ちゃんは同時に叫び、志織ちゃんの体を支えようとしたが間に合わなかった。志織ちゃんはゴロンと仰向けになり堤防の斜面に沿って滑り落ちてゆく。その動きをなんとか手で押さえるのが精一杯であった。

 志織ちゃんの眼は固く閉じられて、顔色は真っ青である。

「いさぼん、どうしよっ」と、直ちゃんが目を尖らせて叫んだが、僕も既にパニック状態である。

「とにかく土手の上に引っ張り上げよっ。直ちゃんはそっちの手を引っ張って」

 華奢な志織ちゃんの体は以外に重く、僕達はよいしょよいしょと掛声をあげながら手を引擦り、ようやく滑り落ちない位置に引き上げた。さてこれからどうしようと考えたが、この時ばかりは頭が回転しない。

「あんた達、どうしたんよ」との叫びと共に誰かが飛出して来た。茫然としていた僕はそれが誰かと気付くのに少々の時間が掛かり、良子と知ったときには何故かどっと安心感が押し寄せた。良子に対しては緊張を感じるばかりであったのに、この時には安心感が生まれたのだ。僕にはその感情を不思議に思う心の余裕もなかった。

「志織ちゃんが気を失ったんや」とすがり付くように直ちゃんが答えると、良子は志織ちゃんの上に屈み込みじっと顔を見ている。彼女の動きはてきぱきとしていて、何の逡巡や焦りもない。それから、くっと顔を僕達に向けると鋭く話した。

「どうも貧血らしいね。熱もないし危険なことでは無いと思うけれど、暫らく横にしておいたらいいわ」

 良子は志織ちゃんの頭と眼をハンカチで覆い、帽子を扇いで志織ちゃんの顔に風を送りはじめた。良子は僕が思いもよらぬ程に冷静に行動できるのだ。

「直ちゃん、この人が志織ちゃんね」と良子は尋ねた。直ちゃんが頷くと、

「この人の小母さんを呼んできて、小母さんには大丈夫だからと、心配させないようにね」「うん判った」と直ちゃんは何時もには似ず、かなりのスピードで堤防を駆け下りそのまま住宅地へと走りだした。

 暫らくすると志織ちゃんの顔に赤みがさしはじめ体の緊張も去っている。

「もう大丈夫みたいね」と良子は言いゆっくりと視線を僕に向けた。

 そこにはいつもの皮肉そうな眼の動きはなく真面目で真剣な光がある。その視線で志織ちゃんのことでうわずっていた僕の心は平静を取り戻し、拙い状況になったことを感じ取った。とうとう二人だけの状況になってしまったのだ。僕の顔色を機敏に感じ取って良子はにやっと笑った。

「伊三郎君。わたしが、なぜ君に皮肉を言うのか知ってるね」

 暫らくはどう答えたものかと考えていたが、こうなっては仕方がない。

「ああ、多分こうやと思うけど」と答えると、良子は僕を促すようににっこりと笑い、白くきれいな歯並びが日焼けした顔の中に現われた。この笑顔をみる人々に、彼女が可愛く正直であると思わせ、それに、彼女を助けるためには何でもしてやろうとの気持ちにさせる笑顔なのだ。しかし僕には、それが誰にも勝る彼女の精神的な強さそのものだと判っている。だから彼女の美しさそのものよりも、黒く日焼けした肌の下の溢れるような生命力を眩しく感じ僕は眼を逸らした。

「僕を・・ここから引摺り出そうとしてる」

「うん。・・確かにそう言えるわね。やっぱり知っていたんだ。・・だから逃げ回っていたんだ。でも、わたしから逃げてなんにもならない。いずれは君もここから外に出なければならない。単に時間の問題。それなら、今の間から準備をしておけば、それだけ将来の可能性は大きくなる。私は私の可能性一杯に生きてゆく積もり。君には私と同じ程の可能性があるのにここに閉じ籠もっている。それが歯痒いの。でも、それは君が自分で決めることだけどね」と、僕の一言に良子の反応は素早く、言うことは明快である。良子はそのまま僕の言葉を待っているが、僕には言うべき言葉が無かった。

 『良子は僕の天敵である』との話を聞いてからずいぶんと考えた。なぜ僕が全てに消極的なのかと考えたのだ。しかし、きっちりとした結論は出ず、ただそれが性格だとしか言いようがなかった。人の先頭にたって、みんなを引きずっていくのは性に合わず、また、誰かに引きずられることも嫌で、何故そうなのかは判らないが、とにかく一人でのんびりと好きなように生きて行くのが性に合うのだ。しかし、そのことを正直に言う気にはなれなかった。たとえ話しても良子には理解出来ないだろうし、得られるのは彼女の軽蔑だけだと思うのだ。だから黙ったまま、いかにこの状況から逃げだすかを考えていた。

いさ 」と突然良子は舌を噛みそうにして喋ったが、僕には聞き取れなかった。

「へえ?」と僕。

「ちがったか。い 、いや、いさぼん、あれ?」

「林さん、何言うてんの」

「困ったな、伊三郎君の愛称を言おうと思ったけど、河内弁は難しいなあ」

 その突拍子も無い話に、僕は思わず「プーッ」と吹き出してしまった。

「笑うことはないでしょ、親愛の情を籠めようと考えたんだから」と良子は膨れている。「ごめん、ごめん、せやけど笑わずにおれんがな。正しくは尻を上げて『いさ 』と言

うのやけど、林さんには似合わんからやめといたほうがええわ」

「ぷーっ、河内弁では真面目な話ができそうもないね。あっはっははっはは」と笑いが止まらないようである。ぼくも、つい一緒に笑ってしまった。

 これで完全に緊張の糸が切れてしまい、僕は本当のことを言うことにした。一瞬良子の手に乗ってしまったかとの思いも頭の中をよぎったが、もうどうでもよかった。格好をつけるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。そもそも、欝とうしい悩みをずっと持ち続けこともまた僕には苦手なのだ。

「林さん。正直に言うと、僕には君みたいな強い心がないんや。人を自分の思い通りに動かしたり、人の反対に逆らって事を進めるなんて僕にはとても出来ん。いや、林さんが結局は相手のために良かれと考えて行動しているのは十分知っている。せやけど、例えどうあれ、とても真似のできることやないと・・、これは十分に考えた僕の結論なんや」

 川面に向けていた視線を紫の山並みに移してから良子は独り言のように話し始めた。

「だれにも言ったことはないけど・・・。私がこの町をうろつき回ったときに、私はいろんな事を知ったわ。私のことをいやらしく言う評判や、嫉妬や、それに憎しみ。私が善意でやったことすらいろんな噂を産んだの。始めは信じられなかった。それに本当に悲しかった。でもそのうち気付いたの。そんな悪意に、なにくそと向かってゆくことが自分を強くして、それに悪意に対抗する唯一の手段だって。それからはわたしも強くなったわ」

 僕は良子の横顔をじっと見詰めた。良子がそんな経験をしているとは思いもしなかった。生れつきの能力に頼っているだけではなくて、自分を強くそれに賢明にするための苦労しているのだ。いや、苦労するだけの意志力を持っているのだ。

「ふーん。林さんがそんな経験をしてるとは思いもせんかった・・・。せやけど、僕にはやっぱりそんな気力は無いと思うわ」と言ったものの、こんな弱音を、しかも女に告白することが耐えられない程に情けなくて、僕の声はだんだんと弱々しくなっていった。

 風に流される良子の髪は細く黒々とし黒揚羽の鱗粉の艶を持っている。良子をカラスアゲハとよぶ直ちゃんの表現は実に適切だと思った。

「君は悪意に出会うと、すぐに後に下がってしまう。そもそも悪意が出ないように暮らしている。でも他の人はもともと自分を持っていないからそれでいいけど、君は違う。直ちゃんもそうだけど、人の意見には惑わされず自分の意見を持っている。これからも自分の生き方を続けたければ、いずれ闘わねばならない時がくる筈よ。そのためにはもっと積極的になる必要があると思うの。この住宅地に潜んでいるだけでは駄目だと思うよ。だから今頑張らないと、いずれは惨めなときが来るような気がするの。それでもいいの」

 どう惨めであるか、何故惨めであるかも理解できず、答えようのない僕は黙っていた。心には志織ちゃんの小父さんの姿が浮かんできた。このままでは小父さんのようになると言っているのだろうか、物知りなのにサラリーマンとしては失格か・・と僕は思った。

 彼女は薄い虹彩をしっかりと向けて、僕の心の内を読み尽くすかのように見詰めた。僕の眼に浮かぶ怯えを見付けたのだろうか、なにかを言い出そうとした良子は再び口を閉じて顔を背けた。その横顔はもうこれ以上には口を出さないとの意志を示していた。

 それからは僕達は黙って座り、直ちゃんが小母ちゃんを連れてくるのを待っていた。

 志織ちゃんは穏やかに横たわっている。その横で僕達は並んで池と田と、それに彼方に連なる山並み、雲一つ無い大空を見ていた。僕は彼等の一部であり、彼等が歓迎する声さえ聞こえているように思われた。僕はここに居るだけで満足であり幸せなのだ。

 しかし、僕には貴重なこの風景も、良子にとっては単なる美しい絵に過ぎないようだ。良子には彼等に融け込むことのできない何かが既に心の一部に芽生えていて、この世界の美しさを本当に理解することは出来ないのだ。

 ああそうか、人はいずれかの道を選ばねばならないのだと僕は思った。

 だが、良子には広い広い世界があり、僕には遠くに紫色の山並みが見える、ふたつの丘に挟まれた狭い世界しかないのだ。それがいかに美しいものであっても、良子の世界に較べればありきたりで夢の無いところに思える。何故こんなに無気力に生まれついているのだろうかと僕はつくづく厭になってしまった。

 良子はと言えば、じっと眼を閉じたままで、この話題を再び出す気は無いようである。後は僕の判断だと言っているのだ。

 振り返るとアパートの陰から直ちゃんが、続いて谷口の小母ちゃんが飛出してくるのが見えた。ああ、直ちゃんだ、との僕の呟きに良子は立上がりスカートに付いた土を払いながら、「とにかく、もし、もっと強くなりたいのなら私に相談して。教えてあげることがいろいろ有ると思う」と、そっと呟いた。

 だが僕には、少なくとも今の僕には、この良子の提案を受けることは出来ない。そもそも、彼女の期待自体が僕に取っては重苦しいのだ。

 彼女は突然声の調子を変えて話し掛けた。そこには笑いさえ含まれている。

「ところであの草の名前は判ったの」

 突然話題が変わったものだから、僕は一瞬戸惑ってから、

「・・・ああ、あれね。『やなぎばひめじょおん』って言うらしい」

 良子は僅かに驚きの表情を示した。すぐに隠されたその表情のうちになぜか奇妙に感じられるものがあった。まるでその答えを以前から知っていたかのように思えるのだ。

「ふーん、どうして判ったの」と良子。

「志織ちゃんの小父さんが図書館で草の本を借りてきて、それで判ったんや」

 僕の言葉に、彼女は実に楽しそうな笑顔を示した。そうして僕にはその意図が判らない独り言を付加えた。

「成程ねえ。あの草に気付いて・・役にも立たないその草の名前まで調べたのは直ちゃんだけのようね。すごいわねえ。世の中が直ちゃんみたいな人ばかりならいいのになあ」

 

 その翌日からは厚い雲が空を覆い雨が降ったり止んだりの日が続いた。傘を差しゴム長靴を履き学校に通う毎日であった。稲は日に日に成長し、田を覆う緑はいよいよ濃くなっていった。川は増水しはじめていて、もう間もなく床下浸水が始まると思われた。親達はそのときのためにと準備を始めていて、僕達は時々川の様子を見に行き、いつ洪水が始まるだろうかと心待ちにしていた。

 その間もずっと志織ちゃんのことが気にはなっていたが、顔を見るのが悪いような気がして延び延びになっていた。しかし図書館の本を返す期限の近付いた直ちゃんが志織ちゃんに会いに行こうと誘いに来た。雨に濡れぬようにと、大事そうに胸に本を抱えた僕達が部屋に上がったとき、志織ちゃんはいつものように刺繍をしていた。いつもと変わらぬ姿にほっとして直ちゃんと僕は顔を見合わせ、どちらからともなく安堵の笑顔を交わした。「志織ちゃん、大丈夫」

 僕の問い掛けに志織ちゃんは顔を上げて笑顔を浮かべている。

「ええ、大丈夫よ。あの病気は普段はなんともないの」

 ふーん、変な病気だなあ、と僕は思った。

 安心した直ちゃんは、ここ一週間の雑草調査の成果を話し始めた。田圃には漸く人影が絶え、雨の降るのを気にしなければ自由に畔道に入れるようになったのだ。

 草のことになれば前後の見境がなくなる直ちゃんのこと、話しは延々と続いたが、僕とは違い志織ちゃんは心底雑草の話を楽しんでいる。とくに、直ちゃんが最近見付けた西洋たんぽぽと白花たんぽぽのことを、二人は興奮して話し合っている。

 二人の横で僕はじっと座っていたが、部屋の様子がどこか、いつもとは違うように思えた。部屋の中をゆっくりと見回してから気付いた。

 本棚の上の壁に、何枚もの刺繍を施した白木綿が押しピンで止めてある。家具の上にはもう置く場所もなくなったのだ。雨音が静かに響く薄暗い部屋に、白地と刺繍の鮮やかな原色が色褪せた壁の白さの上に浮き立っている。部屋の壁が彩られたために壁が迫ってくるような感じがして、僕の心に緊張が走った。

 これからも、壁の刺繍は数を増してゆくのだろうか、壁に場所がなくなればどうするのかなどと僕は漠然と考えた。

「だから、ねえちゃん今度見に行こうよ」と言う直ちゃんの言葉が耳に入り、僕はビクッと体を震わし、直ちゃんもまた、ああっと気付いた。

 二人とも志織ちゃんのようすを窺うものだから、部屋にはへんな雰囲気が漂ってしまった。志織ちゃんは僕達の硬直した様子をしげしげと見詰め、はてっと言うような顔をしてから、漸くその理由に思い到ったようである。

「あっははは、なんや二人ともそんなことを気にしていたのか。そんなことは気にしなくてええの。あれは時々起こることなんやから。あんたらは、うちがあの発作を起こすことを知らんかったんやね」

 僕と直ちゃんは頷くだけであった。志織ちゃんは真剣な表情に戻って続けた。

「うちの発作は広い場所に出ると起こるんや。そんな場所で光の煌めき、特に水面での煌めきを見た時に特別発作が起こりやすいのや。そんな時には突然意識がなくなって、ある瞬間から全く記憶が途切れてしまう。せやから苦しいとか痛いとかは全くないんよ。うちはその発作が特別頻繁におこる方やけど、それでも、いつでも起こるとは限らへん。どうも、いつ起こるかと緊張していると余計におこるようや」

 その言葉で、あの日の志織ちゃんのぎこちない動きの原因が判った。周囲に何も無い広々とした場所に出て、しかもそこは水に囲まれていた。発作を恐れ水の煌めきが眼に入るのを避けようとしていたのだ。

 広い場所にでると発作が起こるのか、と考えた途端に僕はぎくっとした。それとは反対に僕は人混みや、この志織ちゃんの部屋のように外界から閉じられた場所に入ると緊張を感じるのだ。これもまた一種の発作ではないのだろうか。この考えに茫然として壁の刺繍をじっと眺め、暫らくして志織ちゃんに視線を移した。

 志織ちゃんは遠くを、壁の向こうが見えるような目付きで見詰めている。

「でもあの池とあの小島の美しかったこと・・・。ついじっと眺めてしまった。その時に風が吹いたもんやから、川面に小波が立って陽の光が煌めいたんよ。それにあの時にはほんまに緊張していたからよけいに・・それであんなことになってしまったんや」

 明るく話していた志織ちゃんの顔に僅かだが、寂しそうな表情が現われ、

「もっと大人になったら、うちの発作は自然と治るらしいけど、それでも・・・あんた達はいつもあんなにも美しいものを見ておれる。でも、うちにはそれが安心しては見られないのや。それは、ほんまに・・・」

 そこまで言ってから、志織ちゃんは気を取り直したようである。

「本に書いてあったけど、人類の祖先が樹上の生活から地上におりたんは、うちのような発作が原因やったらしい。木の葉を洩れる光で発作を起こし易い祖先が、しょうなしに地上へと降りていった。それが人間が地上での生活を始めるもとやと書いてあった。もしこれがほんまやとすれば、何百万年も前の使命を、うちはまだ引きずってることになるんや。こんな阿呆なことてある」と言って志織ちゃんは明るい声で笑いだした。

 志織ちゃんはわざと明るく振舞っているに違いないと僕は思った。住宅地のすぐ傍に溢れる生命すら安心して見ることのできない志織ちゃんの現実に僕の胸は締付けられた。この部屋の中だけが志織ちゃんの安心できる世界である。僕は眼に涙が盛上るのを感じ下を向いた。直ちゃんはただ茫然として志織ちゃんの方を向いている。

 だが、志織ちゃんの笑い声には悲しさのかけらも含まれていない。僕は不思議に思い、上目づかいに志織ちゃんの方を窺った。

「でもねえ、うちはあれこれ考えてみたんや・・。人間にとって何百万年は長いようやけど自然に取ってはただの一瞬のことに違いない。・・そう考えると、この発作は自然が人間に与えた大切な贈り物、それも少し前に呉れた、ほんまに重要な贈り物と言えるのや」 志織ちゃんは彼女自身の言葉を確かめるかのように大きく頷いた。志織ちゃんの眼は僕を突き抜けて遠くの方に向けられている。

「そう。うちには巧くは言えんけど・・、長い長い時間のなかで、うちらはその一瞬一瞬の役目を果たしているといってもええんや。一人一人が、ある世界を与えられて、その中で精一杯に生きることが、うちらに与えられた役割なんや」

 言葉を切った志織ちゃんは、眼の焦点を僕に戻した。

「うちには、狭い世間しかないけども、それはそれで深ーい喜びがあると思うんや。それに本を読むとか、ラジオとか、外の世界を知る手立てもいっぱいにあって、外からしか眺められへん世間もまた興味深いもんなんや。いずれ大人になって発作が治まれば、うちの世間は一気にひろがるやろうけども、果たしていまのこの狭い世間と比較してどちらが面白いか、なんとも言えんなあと思てるねん」

 あの日の僕と良子の話を、志織ちゃんが聞き取っていたことが僕には判った。僕を励まそうとする志織ちゃんの気持ちが、その言葉の中に感じられたのだ。

 志織ちゃんの話の一部しか理解できないけれども、なぜか突然、昨日見た、雨足が一瞬遠退いた時の山と田の姿を思いだした。濃い鼠色に陰った山々の中腹を一条の白い雲が山肌に纏いつくように走り、雲間からの久しぶりの陽光を浴びて田の緑は喜びに輝いていた。僕は心に浮かんだその情景に恍惚となってしまった。そうして、その喜びと志織ちゃんの言葉が一体となって僕の心に押し寄せた。

 そうか僕には僕の世界があり、良子には良子の世界があって、それはそれで良いのだと志織ちゃんは言いたいのやな、と、そこまで考えたとき頭の中の歯車が勝手に、しかも今まで経験したことがない程の高速で廻り始めた。それは信じられないほどに静かで軽い回転である。そうして僕には判った。人はそれぞれがいろんな形に生まれついているのだ。良子は広い世界に生きていて、そこで彼女の力いっぱいに生きてゆく。志織ちゃんはこの部屋に美しい刺繍の世界を作り上げている。直ちゃんは気弱く生まれ、それだからこそ、雑草や昆虫に囲まれた世界を見ることが出来る。僕は怠惰な性格に生まれていて、それゆえに、山と田圃の姿を誰よりも楽しむことが出来る。

 だが、それぞれの世界はいつまでも同じとは限らない。いずれ志織ちゃんは大人になって病気が治り、刺繍の部屋から離れ、違った世界を作り上げるのだ。だが僕の場合は、この怠惰な性格が治るかどうかは判らない。もし治らないとすれば、この水の世界がずっと僕の世界で、そこで生き続けるように生まれついていて、僕はこの自然の一部となり、この自然がなくなった時にはその思い出を持ち続ければよいのだ。人と接して、争い、憎みあい、愛し合い、激しい感情の波で疲れるよりは遥かに望ましいし、そこでは他の世界に住む人が味わえない喜びもまた有るのだ。

 心からこの考えを受け入れた時、頭の歯車は静かに回転をゆるめカチッと微かな音がして、有るべき位置に停まった。あちこちの歯先がきっちりと合わさったような感覚があり、いよいよ透明度を増した頭の中でいろんな記憶がかすかにその触手を触れ合った。

 その触合いは『やなぎばひめじょおん』が何故今年からこの河内に花開いたかを解いていた。良子は始めからあの草の名前を知っていたのだ。彼女が種を東京から持込んで、河内のあちこちに蒔き散らしたのに違いない。誰がそのことを見付けるかと興味津々であったに違いない。いかにも良子らしい、と僕はかすかに笑ってしまった。

 しかしこの事は些細で僅かに楽しさを感じさせることでしかなかった。黄蝶の動きは素早いのはなぜか、どうして男と女がいて子供が出来るのか、なぜ良子は積極的で僕は臆病にうまれついているのか、人はなぜ憎み、苛め、笑いそれに泣くのか、なぜ志織ちゃんは光の瞬きに意識を失い、また広い場所を嫌うのか、それとは反対になぜ僕は狭い場所に恐怖を感じるのだろうか。その他諸々の何故が僕の歯車の上で一線に並んだ。

 いろんな何故は全てそれなりに必要で、しかもただ一つの流れの上にあるのだ。いやそれどころか。この世界に住む全ての命自体がこの波の上で共通の何かに沿って生きているのだ。直ちゃんは、理屈からではなくて、生まれついてそのことを身につけている。だからこそ誰もが気付かない、いろんな命が気になり、それで、あんなにも多くの疑問が生まれてくるのだ。

 しかし、何故そうなのかを示すもう一方の歯車の上には何も見あたらなかった。それは僕の知識が不足しているからに違いない。

 今までに得た何故は、その何かを示す糸口だと、しかも答えは僕のすぐ傍にいて、僕の知識を高めればいずれ答えを得ることが出来る筈だとの確信もあった。僕は僕の世界で生きてゆくだけではなくて、何かを捜し、そうしていつか、見付けることさえ出来るのだ。そのことを知り僕はこころからほっとした。

 顔を上げると志織ちゃんの眼がじっと僕を見詰めている。僕の眼の中に何を見いだしたのだろうか志織ちゃんはにっこりと微笑んだ。僕はその笑顔が本当にすばらしいと思った。 直ちゃんが草花や昆虫の話で志織ちゃんを喜ばすのなら、僕はあの山と田を叶わぬまでも描いてみよう。あの色合を紙の上に写すことは本当に不可能かどうかを見極めてみよう。そうして、志織ちゃんの部屋の壁に飾られた刺繍の隙間に僕の絵を並べるのだ。そうすれば志織ちゃんは、この刺繍の部屋だけでなく直ちゃんと僕の世界との全てを知り楽しむことが出来る。それに、いずれ僕が見付けるだろう全ての何故の答えをも教えてあげるのだ。

 雨足はいよいよ激しくなり屋根に降り注ぐ音が刺繍の部屋にこだましている。西除川から溢れゆっくりと住宅地に押し寄せる水の姿が僕の心にありありと描けた。明日からは直ちゃんと長靴をはき水の中を歩き回り、水の世界と水の季節を楽しむのだ。