●まえがき
5月9日から20日までイタリアに行く。既に行ったことのあるルートで、ただ今回は、女房方の兄弟姉妹総勢5人での旅である。僕に取ってイタリアは5回目になる。今までと違う点と言えば、AirChinaを使うので北京乗換になるって点と、親戚を連れて行くので、食事はちゃんとしたものを食べねばならないってことだろう。イタリア語も再勉強したし、もう後はどうなるか、まぁ、なるようになるだろう。
予算は、1人当たり、航空運賃97,000円+1000EUR 程度とした。そのうち列車料金1人当たり100EUR程度は先払いだが、5人分で、4500EURが現地で必要になる。2800EUR程度をEURの安い時に、平均レート108円程度で購入した。残りは現地キャッシングの予定で、カードは2枚(共に限度20万円)を用意した。
AIR-CHINAは、日本発が9:00AM頃で、北京乗換、7:00PMにローマ着となっている。中国東方交通は更に安いが途中一泊が必要になる。買ってから後、3月頃に再度Air-Chinaの値段をチェックしたら、更に安くなっていた。座席使用率を高める作戦なのだろうが、なんか悲しかった。ただ、Air-Chinaは座席指定が出来るので、購入が遅くなると座席位置が悪くなることも考慮すべきだろう。
かようなことで、成田発と、関空発で、北京で全員が集まることになる。宿は全てVENERE.comで予約した。ROMA着は夕方7時頃になるので、AirPortShuttleにTAXIを49Eurで予約した。ほぼ気づく点は予約したので宿と移動については確保したと思う。その宿が親戚連中の意にかなうかは別にして、まぁ何とかなるだろう。一番心配なのは食事の確保で、僕1人なら適当に済ませるものも、親戚一同だとあまり自信はない。さてさて、いかなる珍道中となるか、観光には余り執着しないで、その珍道中なるものを楽しむことにしよう。
ところで、今年は庭のツツジが見事に咲いている。庭に目をやるたびに感動してしまう。去年の津波以来、いろんなことが次々と起こる。ついでに僕は、家の修理とか外壁の塗装に挑戦して、いろんな出来事を増やすことにした。人生をいろんな経験で、それも愉快な経験で豊かにして行くことにした。去年の悲惨な出来事からの逃避かもしれないが、もう僕の活動的な人生も、それほど多くは残されていないだろう。なれば、今の間に頑張るしかないだろう、との思いだ。
出発が近づくに連れて悩んだのは服装だ。4月から5月にかけてのこの時期、シャツは中厚、薄厚のいずれかに悩む、日に寄って気温の変動が激しく、それがちょうどローマの気温も同じような変動をするのだ。だが気温の状態とは別に、5月に入ると、底寒さが無くなり、薄手主体が正解と思える状態になった。シャツの上に冒険用チョッキを着て、雨具兼用のmont-bellも持参する。
昨日若狭原発の説明会があったが、官僚は「今回は説得に来たのではなく、説明に来ただけだ」と完全に開き直りの発言をした。かような傲慢さが福島原発の事故と、その対処誤りの原因だったことに全く気付いていなのだ。日本の将来を予測させるような発言で、彼等は福島についての責任を何ら感じていないのだ。そもそも彼らに何が抜けているかと考えたが、結局のところ本気さが全く見えないことだろう。本気で日本のことを考えるのなら、例えば、全電源喪失になった場合に、彼らが自分の手で冷却機能を維持できるのだと示せば良いのだ。が、連中はいかに口先で騙すかを考えるばかりだ。これが日本の官慮や指導者層の真の姿だと思える。
●まとめ
さてっと、旅行を終えたが、素晴らしい旅になった。空港送迎や列車、ホテル等の予約は全てがうまく行き、と言うか、危機が訪れると、イタリア人達、それに、たまたま一緒の列車であった若い日本人旅行者とかが助けてくれたのだが、そんな事態もあったものの、旅行内容も予想以上に良い結果になった。外貨のキャッシングは、日本国内では1EUR=108円程度であったが、現地キャッシングでは、円高が進んだこともあって、繰上返済後で103円程度で出来た。唯一、せっかく途中下車で寄ったカゼルタが火曜日の休園であったこのだが、駅横のセルフサービス店では親切な女店員が応対してくれて、荷物も預かってくれて公園に沿った市街を散策しすることが出来た。これらの出来事を日にち順に記載してみる。
●日々の歩み
5月9日
成田空港でチェックイン時に、帰国便のリコンファームの要否、北京TRANSITでの入国カードの要否を確認したが、いずれも不要とのこと。ついでにマイレージをANAに登録した。勿論荷物はThroughでROMAとした。成田⇔北京は、機体も清潔で食事もおいしい。それにスチュワーデスは丁寧で教育が行き届いていた。なお、出国便はかなり空いていた、が帰国便の時には混んでいた。他方、北京⇔ROMA便のスチュワーデスは教育が行き届かず、それに、機体は古く、視聴システムは不調であった。でもまぁ、他の航空会社に比べて安価で、しかも、座席指定や予約も簡単なので、ここは我慢すべきだろう。
北京のTRANSITは、歩く距離は長いが簡単であった。TRANSFERの看板に沿って行くと、TRANSITカウンターがあり、そこで聞くと、次の便のゲートを親切に教えてくれるが、別に聞かなくても問題はない。更に進んだ場所で平面的に広い入国イミグレがあり、その両側端にTRANSIT審査カウンターがある。ただ、片方が閉鎖していることがあるので、その場合は反対側のカウンターに行かねばならない。審査員は傲慢な人や親切な人が居るのは世界どこでも一緒だ。審査を終えると階段を下りてセキュリチィーがあり、そこを経て接続便ゲートへと進む。
我々は乗継機ゲート前で、羽田班と関空班が合流できた。関空班は全員が個人旅行初体験であったが、問題なく合流できた。ローマFMC空港には、ほぼ定時に着いた。入国審査は全くもって簡単で、班員が荷物ピックアップしている間に僕、即ち、隊長が表に出ると、AirportShuttleの担当者が僕の名前札を持って待っていた。詐欺に会わぬようにと、どこに行くか知ってるか?と聞くと、FlaminioVillageHotelと答えたので安心した。それに、その担当者は単に僕の名札を持っているだけで、出口の直ぐ前に名前は違うが受付事務所があり、そこの窓口のおばさんがやってきて、「他のお客さんも待っているので、暫く待ってくれ」と説明があった。隊員も荷物を持って集まり、暫くすると運転手がやってきて、他の2人の客も一緒に、大型バンにと案内した。バンは一時間ほどで、ホテルに着いた。5人で49EURで契約していたのだが、我々の大量の荷物を上げ下げしてくれた運転手に55EURを渡すと運転手は多いに喜んでくれた。11EUR/1人だから安いものだ。なお、日本出発前にホテル送りはre-confirmし、帰国前には空港送り分をアルベロベッロから電話でre-confirmした。
ホテルの門はViaFlaminioNuovaに面していて、Receptionは門横の小さな建物にある。Venere.Comで朝食付きで最も安い、1人泊36EUR/TWIN 1部屋と二人泊52EUR/TWIN 2部屋(観光税は別に1人一泊1EUR)を予約したが、まぁまぁのバンガローであった。湯量も豊富で静かな環境であった。ただ、受付からバンガローまでは歩いて10分も掛る。しかし、8時から夕刻までは、6人乗り運搬車が常時往復してくれる。運搬車停車場からバンガローまでの間に、Delaxトイレや洗濯機置き場がある。運搬機停車場から丘側に、レストラン、ミニバー兼用カフェテリア、インフォがある。朝食は8時から、インフォは朝8:15から開いていて、Metro切符やPass類も購入できる。其の日はそのまま眠ってしまった。なお、バスタオル取り換えは5EURが必要である。何はともあれ、北京でのtransit、ローマでの送迎タクシー、FlaminioVillaggeでの受付と、部屋のレベル、レストランとか、何とかと、数々の心配はなんなくクリアーして、この日は暮れた。ところで、ローマの夜はかなり遅く訪れるようだ。かくして隊長は心からほっとしたのだ。
5月10日(木)
8時にはCAFFEに行き朝食を食べた。ビュッヘ方式で、なかなか豊富で、それに、うまい食事であった。インフォは8時15分からだがそこではMetro券もPass券も買える。インフォ担当員は20分過ぎに現れたので、メトロ1日券を買い出発した。Hotelの前は、ViaFlaminioNuovoで交通量は激しいが、門を出て右側に横断信号がある。向かい側に渡り、左に行くと地下にスーパー/カリフールがある建物で、道路側にはATMもある。その建物の構内を道路に沿って進むと、ViaFlaminioNuovoから分岐するViaFlaminioに突き当たるが、この道路の交通量は比較的少なく、それに、人が渡ろうとすると、車は速度を緩めてくれる。この道路を渡れば、後は簡単だ。渡った先の歩道をViaFlaminioNuovo側に戻れば直ぐに駅に続く小道になる。門から10分もかからずにDuePontiってRomaNord線の無人駅に出る。周辺には全く店は無い。Nord線はかなり列車頻度の多い線なので地下鉄A線のFlaminio駅には10分程度で着く。Nord線のFlaminio駅に着くと進行方向に出口があって、出口の右側に地下鉄A線の入口がある。であるからして、そこからRomaのどこにでも一足ってことですわ。ただ注意すべきは、どうやら急行がDuePontiで止らないってことと、Nord線の逆方向時に、乗降客が居ない場合は、DuePonti駅は通過の可能性があり、扉横にあるボタンを押す必要があるってことだろう。
初日はゆっくりと、アッピア街道と水道橋公園訪問とした。地下鉄A線のColliAlbani駅で降りて地上のバス停留所に行った。660番のバスに乗るのだが、バスは正規停止場所では無い向う側のホームとか、手前のバスの陰に止まるとかで2台も逃してしまった。が、バスに乗れば終点がCeciliaMetellaである。アッピア街道を更に南へと散歩し、戻って今度は北に進みCeciliaMetellaの墓を訪れた。そこの入場券はカラカラ浴場との共通券であったので、帰路にカラカラ浴場をいれることとした。アッピア街道を多いに楽しみ、来たバスに乗り駅に戻り、駅前のピッゼリアで昼食して、更に地下鉄で水道橋公園、次いで、TerminiでB線に乗換てチルコマッシモで降り、カラカラ浴場を観光した。特に水道公園は花の美しい季節で、水道橋周囲は野花が満開の美しさであった。順調に観光を終えてホテルに帰ったが受付で呼び止められた。「明日は地下鉄が朝8:30から終日ストライキになる」と告げられた。イタリア観光で初めて出会うストライキである。
これはいかん、とインフォに急ぎ、翌日の一回券を買った。翌朝早めに市内観光に向かい、帰りはTAXIで帰ることにしたのだ。インフォには大勢の人が集まっていて、明日の旅程の相談をしていた。僕らは幸いなことに、翌日はローマ観光だけなので対処が簡単だったのだ。
その後、イタリア最初の夕食をレストランで食べた。が、メニューの内容が良く判らず、前菜をプロシュートモッツアレーチーズ2皿と各種スパゲティ-4皿を頼んだ。イタリアのパスタなら大丈夫だろうと思ったが、共に塩気が多く、注文に失敗したなと感じたが、翌日は肉を頼んだ結果からすると、注文の誤りでは無くて結局、このレストランは味が濃過ぎるのだと気付いた。つまりイタリアのレストランは、注文の仕方が悪いのでは無くて、レストランの選択が必要ってことらしい。しかも味の濃すぎるレストランが多すぎるのだ。むしろ、CAFETERIAとかBuffeStyleの店の方が味が日本人に合うように思えた。それやこれやで、其の日も無事に眠りに入った。
5月11日(金)
ストを回避して出発する人が多いせいか、8時前には既にカフェテリアが開いていて、うまい朝食を腹いっぱいに食って出動だ。全隊員は元気いっぱいである。受付で鍵を預ける時に、ストは夕方5時に終わることと、本日一日だけだと教えられた。8時15分にはコロッセオに着き、切符購入はフェロロマーノの方が買いやすいとの情報あったが、早朝なのでコロッセオに並んだ。欧米人は列をきっちりとは作らないので、黄色人、特に日本人の若者は隙をついて前の方に移動するようだ。僕の横にいつのまにか30代の背の高い日本人が居て、そのうち、列のずっと前へと移動していった。その動きは子ずるく、背が高いので、その作為はあからさまで、しかも日本人って明確に判るからとても悲しかった。最近の若者には日本人としてのプライドがどんどん薄れているようだ。でも、今の政治家や東京電力の幹部、それに多くの官僚や電発技術者を見ていて、日本人のプライドなんて感じられる筈もない。かような人々に共通なのは、自分だけは要領よくやっていると思っているのだが、殆どの人から軽蔑されている点なのだが、実は帰国の途上、北京⇒成田便とか成田からの京成車内でも、日本の若者の情けない態度を見せ付けられて、結局、この旅で嫌な情景は全て日本人で、親切で優しい行為や手助けはイタリヤ人ばかりであった。いや、Materaで若い女性1人旅に助言されたことはあるが、相対的に、にっぽんじんって大っきらい!でも、イタリアではスリは状態なので彼等のことは別に考えようね。
とにかくコロッセオに感動して、パラチーノの丘の入口から入り、フェロロマーノを見降ろテラスに立ち、フェロロマーノをゆっくりと観光した。そこで隊員はふたてに別れ、1隊はカピトリーノ美術館のローマ皇帝列像を見に、他隊はエマニエル2世ガレリアから屋上のカフェテリアへと向かった。2隊はその後合流し、日本語メニューのあるとのレストランLaモンテカルロに向かった。が、何故か、モンテカルロの通り側のlBarTaboloCalda Romito Food e Beverageに入り、一皿8EURのビュッヘを頼むことになった。が、ここは味もサービスも素晴らしかった。
特に何とかってイタリア俳優に似たManagerが気持ちの良い男だった。
昼食を終えてから、ナボール広場、パンテオン、トレビの泉、スペイン広場と観光し、隊員の1名が希望する事務用品売り場での買い物を終えて、カフェテリアに入り時間を潰し、ストが5時に終わってからMETROでホテルに帰った。帰り道でカリフールで食料を仕入れ、部屋で食事を取った。今日も実に有意義な1日であった。明日はNapoliへの移動日で、ストを1日差で回避できるとは実に幸運な旅でもある。
ところで天気だが、ずっと半袖天気が続き、この天気はナポリの初日まで続き、その後は冬装備でも良い天気が続いた。
5月12日(土)
10時発のESでNapoliに移動だ。朝食は8時からゆっくり食べて、スーツケースを運んでいると、運搬台車がきてこれに乗ることができた。レセプションでチェックアウトすると、3泊5人3室で405EUR、これに観光税1泊1EUR/人で、15EUR、タオルの交換を1回頼んだが、これで3室分15EURであった。合計435EURで実に安く済んだ。
9時にはTerminiに着いた。が、電光掲示板にはプラットホーム表示は出ていなかった。聞き回ったが、誰もが、表示されるのを待て、と言う。つまり、プラットホームは15分程度前でないと確定しないらしい。インドのシステムと一緒だ。15分前になって9番と表示され、2等の所定列車に乗ろうと移動していると、制服のようなのを着たおっさんが、列車番号は何だ、と聞く。鉄道スタッフの様な服装なので、9号車だと言って座席番号も見せた。と、男はスーツケースを取ろうとした。が、疑い深い僕は、「no!」と言って拒んだ。男は同じ車両に先に乗り込んで行った。僕らは、荷物をなんとか車両後端の荷物置き場に放り込み自分たちの、席に向かった。と男は僕らの席の上の荷物置き場に誰かの荷物を放り込んでいた。恐らく、僕らへの嫌がらせだろう。で、その荷物の所有者は、僕らの4席と通路を挟んだ席の客ので、その上の荷物置き場は空いたままである。とても判りやすい嫌がらせである。で、男は扱った荷物の持ち主達に金を要求し始めた。僕らへの嫌がらせと金儲けを同時に遣ったってことだろう。なかなか頭脳的な行動だが完全に成功とはならなかった。一個1EURと要求して老夫婦は要求に応じたが、40代の後で判ったが、ロシア人は全く無視であった。当初は彼らが家族であると誤解していたが、隊員4人の4人席から外れて老夫婦とロシア人の席に座ってから、老夫婦と話し合って状況が判った。老夫婦はきれいな英語を使うので、てっきり英国人か米人と思ったが、ドイツ人であった。この旅ではその後多くのドイツ人と出会ったが、その彼等の全てがきれいな英語を使っていた。常々、ドイツ人が喋るドイツ語は英語に似ていると思っていたが、今回での経験でも英語とドイツ語の相似性がより確信できた。英国人であろうと思う人々は全てドイツ人であった。容姿言語共に、これほど似た国民が2度にわたる世界大戦の敵対主要国であったことがどうにも理解出来ない。他方、旅の途中でネーデルランド人とも話したが、どちらかと言えば、彼等の英語は理解しにくかった。なぜだろう?それはともかく、ナポリへの列車内で老夫婦と話したが、ドイツ人は英人と話す機会があっても英語がしゃべれても、絶対に最初には英語を使わないとのことである。
ナポリにはあっという間に着いてしまった。その間、女性隊員たちはせっかくの風景はそっちのけで世間話にふけっているし、男性隊員は絵ハガキを一生懸命に書いていた。あきれた隊員たちだ。ぶつぶつぶつ・・・・
ナポリ駅は改修されて全て1階と地下になっていた。ちょっと調子が狂ったが、駅前広場に出て、これからいよいよ悪評のナポりであると緊張した。宿も評判悪いチェントラルエリアである。で、広場の北端を横断し始めたが、それほど悪い雰囲気ではなく、簡単に広場を渡り切ることができた。宿は広場の北西角から斜めに進むViaA.Poerioを1ブロック半進んだ建物内で簡単に判った。インタホンを見ていると通りがかった男が、さっとインタホンを押して、何故か扉の鍵も開けて、ここの6階だよ、エレベータは5セントで動くと行って室内階段を上がって行った。何とも簡単に事は進んでしまった。自宅兼ロビー兼受付に居たガブリエルって若者が丁寧にオリエンテーションをしてくれた。結局、部屋はきれいで広く、食事もうまく、スーパーやレストランも近くで、安全についても何ら問題はなかった。素晴らしいホテルと言えよう。
ここもvenere.com経由で手配した。
http://www.sweetsleepbeb.it/
http://www.amoitalia.com/napoli/restaurant.html
昼食を上記のレストランで楽しんでから、いざ出陣となった。
MoloBeverelloに行くにはTram1に乗れば良い。乗り場は広場西端の広場駅だが、ここで乗ると暴力スリに狙われる可能性が高い。そこで、ひとつ北側のPrincepale広場で待つことにし、切符は一日券をタバッキで買ったが、後で気付いたのだが、土曜日は週末の安い切符で良い筈だが高いWeekDay一日切符を買わされた。なお、のちの経験だと、Princepale駅のキオスクだと言うまでも無く週末券を売ってくれた。Tramも直ぐに来たが今は港から先は工事中で終点が目的のBeverello埠頭だ。港では、5月は休日だけ運転のMetroDellaMareの明日分の切符を買おうと右往左往した、が結局買えるどころか、明日の便がどうなるかも判らなかった。あきらめてUmbert一世のガレリアを突っ切って、FunicolareCentraleで丘に登り、サンテルモ城からのパロナマを充分に楽しんだ。Funikolare終点から右側に出て坂を登ると、ST.Elmeと左方向への標識がある。カルフールの前を先に進み、エスカレータのある階段を2度ほど上がり、最後の階段を上に上がって行くと緑の建物がある。この右側が目的のST.Elmeだ。
翌日は早いので、朝食のパンやジュースをガブリエルが用意してくれて、これを冷蔵庫に入れて置き、翌朝はこれで朝食を済ませて出発とした。
5月13日(日)
休日のAmarfi行きMetroDellaMareは8:50の筈だが、窓口は閉まったままだった。あきらめて、Amarfiは翌日ボスビオ巡回鉄道で行くことにして当日はCapliに行くことにした。
早速Capli行き高速船の切符を買って乗り込んだ。MarinaGrandeに着き港左側の切符売り場で一日券を買いケーブルで上に上がった。バスでAnacapliに行き乗り換えてGrottaAzuraまで行き、青の洞窟を観光した。洞内は見事なブルーであった。Capliまで帰り昼食を食べ男性隊員二人でVillaJovisを観光した。素晴らしい一日であった。夕食は例のお気に入りで食べた。最後にレモーネチェリッオなる甘くて高アルコールの飲み物が振る舞われた。この飲み物はアルベロベッロでは別名であった。
5月14日(月)
夜中に雨が降り、曇天の一気に寒い気候になってしまった。結局この気候は帰国まで続いた。人々の服装は真冬の装備と合いの服装、人によっては夏服と、複雑な様相になってしまった。今日はゆっくりと朝食を食べた。同席したドイツ人カップルとネーデルランド人カップルと楽しく話し合った。
食後出発しパエステュ-ムまでの切符U-7をCentral切符売り場で買ったが、パエステュームへの列車が12時50分発と聞き、方針変更でボスビオ巡回鉄道とした。ソレントまで着いたがトイレでごたごたしている間にバスが出てしかも、アマルフィ行きには長蛇の列であったので、ボジターノ行きに乗った。がU7の切符を見せると駄目だ、と言われ、UNICO-COSTERIAを買わされた。どうやらシステムが変わったらしい。ポジターノで昼食を取り、続いてアマルフィに行き、次いでサレルノへの向かった。全てSITAバスであった。アマルフイとサレルノがとても近いことに驚いた。サレルノでU4切符を買いNapoliに戻った。結局青空は見ることなく終わった。それでも、充分に面白い一日であった。
5月15日(火)
朝食後、U4の切符でカゼルタに出発。しかしながら操作の不備かエレベーターが故障になり、隊員の若い方が、大きなスーツケース2個をぶらさげて6階から降りるはめになった。が、なんとか無事にカゼルタへと向かった。カゼルタに着くと宮殿への道は以前とは違い駅から簡単に行けるようになっていた。スーツケースは宮殿で預かってくれる筈だと喜びながら宮殿に向かった。が、入口をはいって行くと、警備員から本日は休館と告げられた。庭園はどうかと聞いたが、庭園も閉鎖だとのこと。そこで駅に戻り女性隊員達は世間話に注力として、男性隊員2名は街の偵察と、スーツケースを預かってくれる所を捜索にでた。しかしその内一名は事務用品の店ばかりを捜索するばかりであった。街をダンテ広場近辺まで捜索し、結局、駅を右に少し行ったビュフェ(イタリアではtratriaとも言うらしい)の愉快な女性Managerが預かってくれることになった。但し3時~6時は休みらしい。このような事情で、宮殿観光は街の観光となってしまった。でもまぁ、こんな街歩きは隊長にはとても楽しいのだ。CAZERTAからBARIへの車窓はイタリアでも極めて美しい風景であろう。これを楽しみ、我々は無事BARIに着いた。アルベロベッロへの列車は先頭車だけで、他の車両は手前の駅で別れて別の方に向かう。アルベロベッロやMateraへは2度目との油断で失敗が続いたが、多くのイタリア人それに偶々一緒の列車だった日本人女性が我々を助けてくれた。ここでも車掌やイタリア人の助けで無事アルベロベッロに着き、駅近くのAironeホテルに入ることができた。ここはやはり清潔で居心地の良いホテルだった。何よりも駅に近く行動が極めて容易であることが利点であった。ここまでくればこの旅の問題点は全てクリアーされたことになる。後は、アルベロベッロとその近郊、それに、マテーラの観光を終えるだけのことである。
5月16日(水)
朝食は8時からなので1時間ほど街の観光をした。やはり美しい街だ。今日の空は晴れているが気候は完全に冬だ。朝食はビュフェ方式で、品種はすくなくローマ、ナポリに比べると寂しいがが量は充分にある。朝食後、Locotoronndoに向かった。駅を降りて列車進行方向に進み、突き当たった大きな道を左方向に真っ直ぐに行くとそのまま旧市街のPiazza A.Moloに至る。これを右に坂を上がって行くと大戦戦死者慰霊等のある公園に至り、ここからの眺めが素晴らしい。ここで我々男性隊員は、そこから見えるトゥルッリの偵察に向かった。公園の左側の道を下った。下の広い道を右手に行きトゥルッリの方に行けそうな道を行ったが野花の美しい季節で実に楽しかった。向かいの丘からのLocotrondの円形都市の姿を楽しみ、その後公園に帰還してから街の旧市街をうろうろと探索し回った。美しい街であった。その後アルベロベッロに戻り、アルベロベッロの街を隅から隅まで見回った。スーパーマーケット(木曜日は定休)も探索し、其の日もまた多いに楽しんだ。美しい街をきままに歩きまわる。これが個人旅行の最も有意義な時間なのだ。
5月17日(木)
雨の中をMateraに向かった。Bariでは豪雨状態になったが、その中を男隊員の希望で切手を買いに走り回った。列車がMateraなんとかって駅に着いて、僕の過去の記憶では地下駅の筈が地上駅だったので下車を躊躇したが、男隊員は目が良いので「Materaだ!」とどんどんと降りてしまった。が、同じ車両に乗っていた若い日本人が、ここはMateraCentraleではありませんよ~っと声を掛けてくれて危機一髪を脱した。ただ後で調べると、その駅とCentrale駅はそれほど離れていないらしい。
昼食はVia Don Minzoni通りを少し行ったところのSpagetteria GASTROに入ったが、ここのスパゲティはとても旨くローマに来て初めて巧いスパゲティに出会うことができた。
雨は収まり曇天下を観光することができた。
5月18日(金)精算時に電話を借りてAirportShuttleに空港送迎のRe-Confirmationを行った。
列車にてローマに帰還。帰路にCASERTA宮殿を口惜しく車内から眺めた。
5月19日(土)
チェックアウト後、荷物はレセプションの荷物室に預け、先ずはSt..Pietroのてっぺんに登った。最老年隊員もしばしば休みながらもこれを無事達成したことには驚いた。途中のテラス部でのお土産場では日本人尼僧をさっと捉まえてあれこれと援助してもらったりと、熟年隊員達は実に巧妙に立ちまわる。その後Teberu川の河畔を散策後、お気に入りのエマヌエール通りのTrattoriaで昼食を食べた。女店員もManagerも歓迎してくれた。隊員達は僕の知らない間に、メロン+プロシュートを取っていた。食べたかったなぁ~。
次いでA隊員が初日の事務用品店とは別の、やはり、スペイン広場の事務用品店に行きたいとのことで、ほぼ初日と同じルートでスペイン広場に向かった。購入後Caffeにて休みたいと隊員達が言うので、あっちこっちある路上Caffeに連れて行こうとすると、屋外のCaffeは嫌だって我儘を言う。仕方が無いので、ちょっと歩いて、多分ここならあるかなと思える路地に入って行くとバッチリとあった。あ~なるほど、こんな所には斯様なCaffeがあるんだ、と、何か新しい発見をしたような気持ちになった。おかげで、もうローマは我が家の庭みたいな気持になれた。
帰路はホテル近くのカルフールで隊員全員がオリーブオイルとかを大量に購入し、預けたスーツケースを出して、レセプション前で広げまくり、肌着とかで梱包して入れておいた。
時間よりちょっと遅れてTAXIが来て無事空港に到着した。
関空と成田に別れてチェックインして、出国手続きも終えた。ただ、どうも出国口の判りにくい空港で、誤って、ブラジルの団体客の並ぶチェックインカウンターに並んでしまいそのグループの添乗員から、「ここはブラジルの団体客のPrivateなチェックインカウンターですよ」って注意されてしまった。
まいったな・・・・
空港の管理エリアに入ってから、高価な万年筆を買った隊員の、その税金還付手続きを応援したが良き教訓となった。でも、僕が高価な物を買う機会ってあるのだろうか。
帰路は順調そのもので5月20日夜に日本に着いた。親戚隊員を引き連れての旅であったことで、僕の海外個人旅行レベルは大きくアップした。この点も多いなる成果のひとつであった。なにはともあれ、よかったよかった、であります。
さて今回の旅行費用は、航空運賃96,000円や若干のみやげも含め、総額19万円/1人でした。お疲れさまでした。
5月9日から20日までイタリアに行く。既に行ったことのあるルートで、ただ今回は、女房方の兄弟姉妹総勢5人での旅である。僕に取ってイタリアは5回目になる。今までと違う点と言えば、AirChinaを使うので北京乗換になるって点と、親戚を連れて行くので、食事はちゃんとしたものを食べねばならないってことだろう。イタリア語も再勉強したし、もう後はどうなるか、まぁ、なるようになるだろう。
予算は、1人当たり、航空運賃97,000円+1000EUR 程度とした。そのうち列車料金1人当たり100EUR程度は先払いだが、5人分で、4500EURが現地で必要になる。2800EUR程度をEURの安い時に、平均レート108円程度で購入した。残りは現地キャッシングの予定で、カードは2枚(共に限度20万円)を用意した。
AIR-CHINAは、日本発が9:00AM頃で、北京乗換、7:00PMにローマ着となっている。中国東方交通は更に安いが途中一泊が必要になる。買ってから後、3月頃に再度Air-Chinaの値段をチェックしたら、更に安くなっていた。座席使用率を高める作戦なのだろうが、なんか悲しかった。ただ、Air-Chinaは座席指定が出来るので、購入が遅くなると座席位置が悪くなることも考慮すべきだろう。
かようなことで、成田発と、関空発で、北京で全員が集まることになる。宿は全てVENERE.comで予約した。ROMA着は夕方7時頃になるので、AirPortShuttleにTAXIを49Eurで予約した。ほぼ気づく点は予約したので宿と移動については確保したと思う。その宿が親戚連中の意にかなうかは別にして、まぁ何とかなるだろう。一番心配なのは食事の確保で、僕1人なら適当に済ませるものも、親戚一同だとあまり自信はない。さてさて、いかなる珍道中となるか、観光には余り執着しないで、その珍道中なるものを楽しむことにしよう。
ところで、今年は庭のツツジが見事に咲いている。庭に目をやるたびに感動してしまう。去年の津波以来、いろんなことが次々と起こる。ついでに僕は、家の修理とか外壁の塗装に挑戦して、いろんな出来事を増やすことにした。人生をいろんな経験で、それも愉快な経験で豊かにして行くことにした。去年の悲惨な出来事からの逃避かもしれないが、もう僕の活動的な人生も、それほど多くは残されていないだろう。なれば、今の間に頑張るしかないだろう、との思いだ。
出発が近づくに連れて悩んだのは服装だ。4月から5月にかけてのこの時期、シャツは中厚、薄厚のいずれかに悩む、日に寄って気温の変動が激しく、それがちょうどローマの気温も同じような変動をするのだ。だが気温の状態とは別に、5月に入ると、底寒さが無くなり、薄手主体が正解と思える状態になった。シャツの上に冒険用チョッキを着て、雨具兼用のmont-bellも持参する。
昨日若狭原発の説明会があったが、官僚は「今回は説得に来たのではなく、説明に来ただけだ」と完全に開き直りの発言をした。かような傲慢さが福島原発の事故と、その対処誤りの原因だったことに全く気付いていなのだ。日本の将来を予測させるような発言で、彼等は福島についての責任を何ら感じていないのだ。そもそも彼らに何が抜けているかと考えたが、結局のところ本気さが全く見えないことだろう。本気で日本のことを考えるのなら、例えば、全電源喪失になった場合に、彼らが自分の手で冷却機能を維持できるのだと示せば良いのだ。が、連中はいかに口先で騙すかを考えるばかりだ。これが日本の官慮や指導者層の真の姿だと思える。
●まとめ
さてっと、旅行を終えたが、素晴らしい旅になった。空港送迎や列車、ホテル等の予約は全てがうまく行き、と言うか、危機が訪れると、イタリア人達、それに、たまたま一緒の列車であった若い日本人旅行者とかが助けてくれたのだが、そんな事態もあったものの、旅行内容も予想以上に良い結果になった。外貨のキャッシングは、日本国内では1EUR=108円程度であったが、現地キャッシングでは、円高が進んだこともあって、繰上返済後で103円程度で出来た。唯一、せっかく途中下車で寄ったカゼルタが火曜日の休園であったこのだが、駅横のセルフサービス店では親切な女店員が応対してくれて、荷物も預かってくれて公園に沿った市街を散策しすることが出来た。これらの出来事を日にち順に記載してみる。
●日々の歩み
5月9日
成田空港でチェックイン時に、帰国便のリコンファームの要否、北京TRANSITでの入国カードの要否を確認したが、いずれも不要とのこと。ついでにマイレージをANAに登録した。勿論荷物はThroughでROMAとした。成田⇔北京は、機体も清潔で食事もおいしい。それにスチュワーデスは丁寧で教育が行き届いていた。なお、出国便はかなり空いていた、が帰国便の時には混んでいた。他方、北京⇔ROMA便のスチュワーデスは教育が行き届かず、それに、機体は古く、視聴システムは不調であった。でもまぁ、他の航空会社に比べて安価で、しかも、座席指定や予約も簡単なので、ここは我慢すべきだろう。
北京のTRANSITは、歩く距離は長いが簡単であった。TRANSFERの看板に沿って行くと、TRANSITカウンターがあり、そこで聞くと、次の便のゲートを親切に教えてくれるが、別に聞かなくても問題はない。更に進んだ場所で平面的に広い入国イミグレがあり、その両側端にTRANSIT審査カウンターがある。ただ、片方が閉鎖していることがあるので、その場合は反対側のカウンターに行かねばならない。審査員は傲慢な人や親切な人が居るのは世界どこでも一緒だ。審査を終えると階段を下りてセキュリチィーがあり、そこを経て接続便ゲートへと進む。
我々は乗継機ゲート前で、羽田班と関空班が合流できた。関空班は全員が個人旅行初体験であったが、問題なく合流できた。ローマFMC空港には、ほぼ定時に着いた。入国審査は全くもって簡単で、班員が荷物ピックアップしている間に僕、即ち、隊長が表に出ると、AirportShuttleの担当者が僕の名前札を持って待っていた。詐欺に会わぬようにと、どこに行くか知ってるか?と聞くと、FlaminioVillageHotelと答えたので安心した。それに、その担当者は単に僕の名札を持っているだけで、出口の直ぐ前に名前は違うが受付事務所があり、そこの窓口のおばさんがやってきて、「他のお客さんも待っているので、暫く待ってくれ」と説明があった。隊員も荷物を持って集まり、暫くすると運転手がやってきて、他の2人の客も一緒に、大型バンにと案内した。バンは一時間ほどで、ホテルに着いた。5人で49EURで契約していたのだが、我々の大量の荷物を上げ下げしてくれた運転手に55EURを渡すと運転手は多いに喜んでくれた。11EUR/1人だから安いものだ。なお、日本出発前にホテル送りはre-confirmし、帰国前には空港送り分をアルベロベッロから電話でre-confirmした。
ホテルの門はViaFlaminioNuovaに面していて、Receptionは門横の小さな建物にある。Venere.Comで朝食付きで最も安い、1人泊36EUR/TWIN 1部屋と二人泊52EUR/TWIN 2部屋(観光税は別に1人一泊1EUR)を予約したが、まぁまぁのバンガローであった。湯量も豊富で静かな環境であった。ただ、受付からバンガローまでは歩いて10分も掛る。しかし、8時から夕刻までは、6人乗り運搬車が常時往復してくれる。運搬車停車場からバンガローまでの間に、Delaxトイレや洗濯機置き場がある。運搬機停車場から丘側に、レストラン、ミニバー兼用カフェテリア、インフォがある。朝食は8時から、インフォは朝8:15から開いていて、Metro切符やPass類も購入できる。其の日はそのまま眠ってしまった。なお、バスタオル取り換えは5EURが必要である。何はともあれ、北京でのtransit、ローマでの送迎タクシー、FlaminioVillaggeでの受付と、部屋のレベル、レストランとか、何とかと、数々の心配はなんなくクリアーして、この日は暮れた。ところで、ローマの夜はかなり遅く訪れるようだ。かくして隊長は心からほっとしたのだ。
5月10日(木)
8時にはCAFFEに行き朝食を食べた。ビュッヘ方式で、なかなか豊富で、それに、うまい食事であった。インフォは8時15分からだがそこではMetro券もPass券も買える。インフォ担当員は20分過ぎに現れたので、メトロ1日券を買い出発した。Hotelの前は、ViaFlaminioNuovoで交通量は激しいが、門を出て右側に横断信号がある。向かい側に渡り、左に行くと地下にスーパー/カリフールがある建物で、道路側にはATMもある。その建物の構内を道路に沿って進むと、ViaFlaminioNuovoから分岐するViaFlaminioに突き当たるが、この道路の交通量は比較的少なく、それに、人が渡ろうとすると、車は速度を緩めてくれる。この道路を渡れば、後は簡単だ。渡った先の歩道をViaFlaminioNuovo側に戻れば直ぐに駅に続く小道になる。門から10分もかからずにDuePontiってRomaNord線の無人駅に出る。周辺には全く店は無い。Nord線はかなり列車頻度の多い線なので地下鉄A線のFlaminio駅には10分程度で着く。Nord線のFlaminio駅に着くと進行方向に出口があって、出口の右側に地下鉄A線の入口がある。であるからして、そこからRomaのどこにでも一足ってことですわ。ただ注意すべきは、どうやら急行がDuePontiで止らないってことと、Nord線の逆方向時に、乗降客が居ない場合は、DuePonti駅は通過の可能性があり、扉横にあるボタンを押す必要があるってことだろう。
初日はゆっくりと、アッピア街道と水道橋公園訪問とした。地下鉄A線のColliAlbani駅で降りて地上のバス停留所に行った。660番のバスに乗るのだが、バスは正規停止場所では無い向う側のホームとか、手前のバスの陰に止まるとかで2台も逃してしまった。が、バスに乗れば終点がCeciliaMetellaである。アッピア街道を更に南へと散歩し、戻って今度は北に進みCeciliaMetellaの墓を訪れた。そこの入場券はカラカラ浴場との共通券であったので、帰路にカラカラ浴場をいれることとした。アッピア街道を多いに楽しみ、来たバスに乗り駅に戻り、駅前のピッゼリアで昼食して、更に地下鉄で水道橋公園、次いで、TerminiでB線に乗換てチルコマッシモで降り、カラカラ浴場を観光した。特に水道公園は花の美しい季節で、水道橋周囲は野花が満開の美しさであった。順調に観光を終えてホテルに帰ったが受付で呼び止められた。「明日は地下鉄が朝8:30から終日ストライキになる」と告げられた。イタリア観光で初めて出会うストライキである。
これはいかん、とインフォに急ぎ、翌日の一回券を買った。翌朝早めに市内観光に向かい、帰りはTAXIで帰ることにしたのだ。インフォには大勢の人が集まっていて、明日の旅程の相談をしていた。僕らは幸いなことに、翌日はローマ観光だけなので対処が簡単だったのだ。
その後、イタリア最初の夕食をレストランで食べた。が、メニューの内容が良く判らず、前菜をプロシュートモッツアレーチーズ2皿と各種スパゲティ-4皿を頼んだ。イタリアのパスタなら大丈夫だろうと思ったが、共に塩気が多く、注文に失敗したなと感じたが、翌日は肉を頼んだ結果からすると、注文の誤りでは無くて結局、このレストランは味が濃過ぎるのだと気付いた。つまりイタリアのレストランは、注文の仕方が悪いのでは無くて、レストランの選択が必要ってことらしい。しかも味の濃すぎるレストランが多すぎるのだ。むしろ、CAFETERIAとかBuffeStyleの店の方が味が日本人に合うように思えた。それやこれやで、其の日も無事に眠りに入った。
5月11日(金)
ストを回避して出発する人が多いせいか、8時前には既にカフェテリアが開いていて、うまい朝食を腹いっぱいに食って出動だ。全隊員は元気いっぱいである。受付で鍵を預ける時に、ストは夕方5時に終わることと、本日一日だけだと教えられた。8時15分にはコロッセオに着き、切符購入はフェロロマーノの方が買いやすいとの情報あったが、早朝なのでコロッセオに並んだ。欧米人は列をきっちりとは作らないので、黄色人、特に日本人の若者は隙をついて前の方に移動するようだ。僕の横にいつのまにか30代の背の高い日本人が居て、そのうち、列のずっと前へと移動していった。その動きは子ずるく、背が高いので、その作為はあからさまで、しかも日本人って明確に判るからとても悲しかった。最近の若者には日本人としてのプライドがどんどん薄れているようだ。でも、今の政治家や東京電力の幹部、それに多くの官僚や電発技術者を見ていて、日本人のプライドなんて感じられる筈もない。かような人々に共通なのは、自分だけは要領よくやっていると思っているのだが、殆どの人から軽蔑されている点なのだが、実は帰国の途上、北京⇒成田便とか成田からの京成車内でも、日本の若者の情けない態度を見せ付けられて、結局、この旅で嫌な情景は全て日本人で、親切で優しい行為や手助けはイタリヤ人ばかりであった。いや、Materaで若い女性1人旅に助言されたことはあるが、相対的に、にっぽんじんって大っきらい!でも、イタリアではスリは状態なので彼等のことは別に考えようね。
とにかくコロッセオに感動して、パラチーノの丘の入口から入り、フェロロマーノを見降ろテラスに立ち、フェロロマーノをゆっくりと観光した。そこで隊員はふたてに別れ、1隊はカピトリーノ美術館のローマ皇帝列像を見に、他隊はエマニエル2世ガレリアから屋上のカフェテリアへと向かった。2隊はその後合流し、日本語メニューのあるとのレストランLaモンテカルロに向かった。が、何故か、モンテカルロの通り側のlBarTaboloCalda Romito Food e Beverageに入り、一皿8EURのビュッヘを頼むことになった。が、ここは味もサービスも素晴らしかった。
特に何とかってイタリア俳優に似たManagerが気持ちの良い男だった。
昼食を終えてから、ナボール広場、パンテオン、トレビの泉、スペイン広場と観光し、隊員の1名が希望する事務用品売り場での買い物を終えて、カフェテリアに入り時間を潰し、ストが5時に終わってからMETROでホテルに帰った。帰り道でカリフールで食料を仕入れ、部屋で食事を取った。今日も実に有意義な1日であった。明日はNapoliへの移動日で、ストを1日差で回避できるとは実に幸運な旅でもある。
ところで天気だが、ずっと半袖天気が続き、この天気はナポリの初日まで続き、その後は冬装備でも良い天気が続いた。
5月12日(土)
10時発のESでNapoliに移動だ。朝食は8時からゆっくり食べて、スーツケースを運んでいると、運搬台車がきてこれに乗ることができた。レセプションでチェックアウトすると、3泊5人3室で405EUR、これに観光税1泊1EUR/人で、15EUR、タオルの交換を1回頼んだが、これで3室分15EURであった。合計435EURで実に安く済んだ。
9時にはTerminiに着いた。が、電光掲示板にはプラットホーム表示は出ていなかった。聞き回ったが、誰もが、表示されるのを待て、と言う。つまり、プラットホームは15分程度前でないと確定しないらしい。インドのシステムと一緒だ。15分前になって9番と表示され、2等の所定列車に乗ろうと移動していると、制服のようなのを着たおっさんが、列車番号は何だ、と聞く。鉄道スタッフの様な服装なので、9号車だと言って座席番号も見せた。と、男はスーツケースを取ろうとした。が、疑い深い僕は、「no!」と言って拒んだ。男は同じ車両に先に乗り込んで行った。僕らは、荷物をなんとか車両後端の荷物置き場に放り込み自分たちの、席に向かった。と男は僕らの席の上の荷物置き場に誰かの荷物を放り込んでいた。恐らく、僕らへの嫌がらせだろう。で、その荷物の所有者は、僕らの4席と通路を挟んだ席の客ので、その上の荷物置き場は空いたままである。とても判りやすい嫌がらせである。で、男は扱った荷物の持ち主達に金を要求し始めた。僕らへの嫌がらせと金儲けを同時に遣ったってことだろう。なかなか頭脳的な行動だが完全に成功とはならなかった。一個1EURと要求して老夫婦は要求に応じたが、40代の後で判ったが、ロシア人は全く無視であった。当初は彼らが家族であると誤解していたが、隊員4人の4人席から外れて老夫婦とロシア人の席に座ってから、老夫婦と話し合って状況が判った。老夫婦はきれいな英語を使うので、てっきり英国人か米人と思ったが、ドイツ人であった。この旅ではその後多くのドイツ人と出会ったが、その彼等の全てがきれいな英語を使っていた。常々、ドイツ人が喋るドイツ語は英語に似ていると思っていたが、今回での経験でも英語とドイツ語の相似性がより確信できた。英国人であろうと思う人々は全てドイツ人であった。容姿言語共に、これほど似た国民が2度にわたる世界大戦の敵対主要国であったことがどうにも理解出来ない。他方、旅の途中でネーデルランド人とも話したが、どちらかと言えば、彼等の英語は理解しにくかった。なぜだろう?それはともかく、ナポリへの列車内で老夫婦と話したが、ドイツ人は英人と話す機会があっても英語がしゃべれても、絶対に最初には英語を使わないとのことである。
ナポリにはあっという間に着いてしまった。その間、女性隊員たちはせっかくの風景はそっちのけで世間話にふけっているし、男性隊員は絵ハガキを一生懸命に書いていた。あきれた隊員たちだ。ぶつぶつぶつ・・・・
ナポリ駅は改修されて全て1階と地下になっていた。ちょっと調子が狂ったが、駅前広場に出て、これからいよいよ悪評のナポりであると緊張した。宿も評判悪いチェントラルエリアである。で、広場の北端を横断し始めたが、それほど悪い雰囲気ではなく、簡単に広場を渡り切ることができた。宿は広場の北西角から斜めに進むViaA.Poerioを1ブロック半進んだ建物内で簡単に判った。インタホンを見ていると通りがかった男が、さっとインタホンを押して、何故か扉の鍵も開けて、ここの6階だよ、エレベータは5セントで動くと行って室内階段を上がって行った。何とも簡単に事は進んでしまった。自宅兼ロビー兼受付に居たガブリエルって若者が丁寧にオリエンテーションをしてくれた。結局、部屋はきれいで広く、食事もうまく、スーパーやレストランも近くで、安全についても何ら問題はなかった。素晴らしいホテルと言えよう。
ここもvenere.com経由で手配した。
http://www.sweetsleepbeb.it/
http://www.amoitalia.com/napoli/restaurant.html
昼食を上記のレストランで楽しんでから、いざ出陣となった。
MoloBeverelloに行くにはTram1に乗れば良い。乗り場は広場西端の広場駅だが、ここで乗ると暴力スリに狙われる可能性が高い。そこで、ひとつ北側のPrincepale広場で待つことにし、切符は一日券をタバッキで買ったが、後で気付いたのだが、土曜日は週末の安い切符で良い筈だが高いWeekDay一日切符を買わされた。なお、のちの経験だと、Princepale駅のキオスクだと言うまでも無く週末券を売ってくれた。Tramも直ぐに来たが今は港から先は工事中で終点が目的のBeverello埠頭だ。港では、5月は休日だけ運転のMetroDellaMareの明日分の切符を買おうと右往左往した、が結局買えるどころか、明日の便がどうなるかも判らなかった。あきらめてUmbert一世のガレリアを突っ切って、FunicolareCentraleで丘に登り、サンテルモ城からのパロナマを充分に楽しんだ。Funikolare終点から右側に出て坂を登ると、ST.Elmeと左方向への標識がある。カルフールの前を先に進み、エスカレータのある階段を2度ほど上がり、最後の階段を上に上がって行くと緑の建物がある。この右側が目的のST.Elmeだ。
翌日は早いので、朝食のパンやジュースをガブリエルが用意してくれて、これを冷蔵庫に入れて置き、翌朝はこれで朝食を済ませて出発とした。
5月13日(日)
休日のAmarfi行きMetroDellaMareは8:50の筈だが、窓口は閉まったままだった。あきらめて、Amarfiは翌日ボスビオ巡回鉄道で行くことにして当日はCapliに行くことにした。
早速Capli行き高速船の切符を買って乗り込んだ。MarinaGrandeに着き港左側の切符売り場で一日券を買いケーブルで上に上がった。バスでAnacapliに行き乗り換えてGrottaAzuraまで行き、青の洞窟を観光した。洞内は見事なブルーであった。Capliまで帰り昼食を食べ男性隊員二人でVillaJovisを観光した。素晴らしい一日であった。夕食は例のお気に入りで食べた。最後にレモーネチェリッオなる甘くて高アルコールの飲み物が振る舞われた。この飲み物はアルベロベッロでは別名であった。
5月14日(月)
夜中に雨が降り、曇天の一気に寒い気候になってしまった。結局この気候は帰国まで続いた。人々の服装は真冬の装備と合いの服装、人によっては夏服と、複雑な様相になってしまった。今日はゆっくりと朝食を食べた。同席したドイツ人カップルとネーデルランド人カップルと楽しく話し合った。
食後出発しパエステュ-ムまでの切符U-7をCentral切符売り場で買ったが、パエステュームへの列車が12時50分発と聞き、方針変更でボスビオ巡回鉄道とした。ソレントまで着いたがトイレでごたごたしている間にバスが出てしかも、アマルフィ行きには長蛇の列であったので、ボジターノ行きに乗った。がU7の切符を見せると駄目だ、と言われ、UNICO-COSTERIAを買わされた。どうやらシステムが変わったらしい。ポジターノで昼食を取り、続いてアマルフィに行き、次いでサレルノへの向かった。全てSITAバスであった。アマルフイとサレルノがとても近いことに驚いた。サレルノでU4切符を買いNapoliに戻った。結局青空は見ることなく終わった。それでも、充分に面白い一日であった。
5月15日(火)
朝食後、U4の切符でカゼルタに出発。しかしながら操作の不備かエレベーターが故障になり、隊員の若い方が、大きなスーツケース2個をぶらさげて6階から降りるはめになった。が、なんとか無事にカゼルタへと向かった。カゼルタに着くと宮殿への道は以前とは違い駅から簡単に行けるようになっていた。スーツケースは宮殿で預かってくれる筈だと喜びながら宮殿に向かった。が、入口をはいって行くと、警備員から本日は休館と告げられた。庭園はどうかと聞いたが、庭園も閉鎖だとのこと。そこで駅に戻り女性隊員達は世間話に注力として、男性隊員2名は街の偵察と、スーツケースを預かってくれる所を捜索にでた。しかしその内一名は事務用品の店ばかりを捜索するばかりであった。街をダンテ広場近辺まで捜索し、結局、駅を右に少し行ったビュフェ(イタリアではtratriaとも言うらしい)の愉快な女性Managerが預かってくれることになった。但し3時~6時は休みらしい。このような事情で、宮殿観光は街の観光となってしまった。でもまぁ、こんな街歩きは隊長にはとても楽しいのだ。CAZERTAからBARIへの車窓はイタリアでも極めて美しい風景であろう。これを楽しみ、我々は無事BARIに着いた。アルベロベッロへの列車は先頭車だけで、他の車両は手前の駅で別れて別の方に向かう。アルベロベッロやMateraへは2度目との油断で失敗が続いたが、多くのイタリア人それに偶々一緒の列車だった日本人女性が我々を助けてくれた。ここでも車掌やイタリア人の助けで無事アルベロベッロに着き、駅近くのAironeホテルに入ることができた。ここはやはり清潔で居心地の良いホテルだった。何よりも駅に近く行動が極めて容易であることが利点であった。ここまでくればこの旅の問題点は全てクリアーされたことになる。後は、アルベロベッロとその近郊、それに、マテーラの観光を終えるだけのことである。
5月16日(水)
朝食は8時からなので1時間ほど街の観光をした。やはり美しい街だ。今日の空は晴れているが気候は完全に冬だ。朝食はビュフェ方式で、品種はすくなくローマ、ナポリに比べると寂しいがが量は充分にある。朝食後、Locotoronndoに向かった。駅を降りて列車進行方向に進み、突き当たった大きな道を左方向に真っ直ぐに行くとそのまま旧市街のPiazza A.Moloに至る。これを右に坂を上がって行くと大戦戦死者慰霊等のある公園に至り、ここからの眺めが素晴らしい。ここで我々男性隊員は、そこから見えるトゥルッリの偵察に向かった。公園の左側の道を下った。下の広い道を右手に行きトゥルッリの方に行けそうな道を行ったが野花の美しい季節で実に楽しかった。向かいの丘からのLocotrondの円形都市の姿を楽しみ、その後公園に帰還してから街の旧市街をうろうろと探索し回った。美しい街であった。その後アルベロベッロに戻り、アルベロベッロの街を隅から隅まで見回った。スーパーマーケット(木曜日は定休)も探索し、其の日もまた多いに楽しんだ。美しい街をきままに歩きまわる。これが個人旅行の最も有意義な時間なのだ。
5月17日(木)
雨の中をMateraに向かった。Bariでは豪雨状態になったが、その中を男隊員の希望で切手を買いに走り回った。列車がMateraなんとかって駅に着いて、僕の過去の記憶では地下駅の筈が地上駅だったので下車を躊躇したが、男隊員は目が良いので「Materaだ!」とどんどんと降りてしまった。が、同じ車両に乗っていた若い日本人が、ここはMateraCentraleではありませんよ~っと声を掛けてくれて危機一髪を脱した。ただ後で調べると、その駅とCentrale駅はそれほど離れていないらしい。
昼食はVia Don Minzoni通りを少し行ったところのSpagetteria GASTROに入ったが、ここのスパゲティはとても旨くローマに来て初めて巧いスパゲティに出会うことができた。
雨は収まり曇天下を観光することができた。
5月18日(金)精算時に電話を借りてAirportShuttleに空港送迎のRe-Confirmationを行った。
列車にてローマに帰還。帰路にCASERTA宮殿を口惜しく車内から眺めた。
5月19日(土)
チェックアウト後、荷物はレセプションの荷物室に預け、先ずはSt..Pietroのてっぺんに登った。最老年隊員もしばしば休みながらもこれを無事達成したことには驚いた。途中のテラス部でのお土産場では日本人尼僧をさっと捉まえてあれこれと援助してもらったりと、熟年隊員達は実に巧妙に立ちまわる。その後Teberu川の河畔を散策後、お気に入りのエマヌエール通りのTrattoriaで昼食を食べた。女店員もManagerも歓迎してくれた。隊員達は僕の知らない間に、メロン+プロシュートを取っていた。食べたかったなぁ~。
次いでA隊員が初日の事務用品店とは別の、やはり、スペイン広場の事務用品店に行きたいとのことで、ほぼ初日と同じルートでスペイン広場に向かった。購入後Caffeにて休みたいと隊員達が言うので、あっちこっちある路上Caffeに連れて行こうとすると、屋外のCaffeは嫌だって我儘を言う。仕方が無いので、ちょっと歩いて、多分ここならあるかなと思える路地に入って行くとバッチリとあった。あ~なるほど、こんな所には斯様なCaffeがあるんだ、と、何か新しい発見をしたような気持ちになった。おかげで、もうローマは我が家の庭みたいな気持になれた。
帰路はホテル近くのカルフールで隊員全員がオリーブオイルとかを大量に購入し、預けたスーツケースを出して、レセプション前で広げまくり、肌着とかで梱包して入れておいた。
時間よりちょっと遅れてTAXIが来て無事空港に到着した。
関空と成田に別れてチェックインして、出国手続きも終えた。ただ、どうも出国口の判りにくい空港で、誤って、ブラジルの団体客の並ぶチェックインカウンターに並んでしまいそのグループの添乗員から、「ここはブラジルの団体客のPrivateなチェックインカウンターですよ」って注意されてしまった。
まいったな・・・・
空港の管理エリアに入ってから、高価な万年筆を買った隊員の、その税金還付手続きを応援したが良き教訓となった。でも、僕が高価な物を買う機会ってあるのだろうか。
帰路は順調そのもので5月20日夜に日本に着いた。親戚隊員を引き連れての旅であったことで、僕の海外個人旅行レベルは大きくアップした。この点も多いなる成果のひとつであった。なにはともあれ、よかったよかった、であります。
さて今回の旅行費用は、航空運賃96,000円や若干のみやげも含め、総額19万円/1人でした。お疲れさまでした。
話は変わるが、相変わらず野田は、原発の安全性について具体的な説明はなく抽象的な発言だけで国民を納得させようとしている。細野は「大飯原発に副大臣を常駐させる」と言っている。副大臣を原発現場に置くことで原発が安全になるのなら、福島の時に副大臣を現場に置けば良かったのだ。日本の指導者連中ってどうしてこう馬鹿ばかりなのかと思う。どうせなら、大飯原発近辺で国会開催すると決めればいいのだ。でもそうしても原発事故を防ぐのには何の意味もないのだが。これらの弁解はもちろん官僚の言う通りの説明なのだろうが、物事の本質が全く把握できていない。なぜ安全なのか科学的な説明が欲しいのだが、それが理解できていない。福島原発事故であの危機的状況を脱することができなかったことが何の経験にもなっていない。が、福井県知事はこれで納得し再稼働を了承しようとしている。仮に原発が危機的な状況になったとして物理的、科学的な副大臣の存在効果はいったい何なんだろうか?もう、言うべき言葉もない。
そう言えば、海外旅行で外国人との話をで、日本の指導者の話をしたとして、「日本の指導者や官僚はFoolishである」と説明し、その理由をいろいろと言うことはできるだろうが、逆に、彼らが優秀であることの理由を挙げることはほぼ不可能と言えるだろう。それが日本の指導層の実情なのだ。
連中のことはもう忘れて、奥の細道でも読み直してみよう。
そう言えば、海外旅行で外国人との話をで、日本の指導者の話をしたとして、「日本の指導者や官僚はFoolishである」と説明し、その理由をいろいろと言うことはできるだろうが、逆に、彼らが優秀であることの理由を挙げることはほぼ不可能と言えるだろう。それが日本の指導層の実情なのだ。
連中のことはもう忘れて、奥の細道でも読み直してみよう。
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