1. まえがき
例の如く、前書きが長いので、これを飛ばして本文に行くも、全く読まないのでも、いずれでもOKです。
毎年、女房方の親戚が集合して旅をするのだが、今年は志賀、比叡の紅葉見物となった。その後、大学の同窓会が広島であるので、これもついでに行くことにして、更に、会社の部門OB会が大阪であり、これも行くことにした。
実は会社全社のOB会もその頃にあるのだが、長年頑張り続け、担当したプロジェクトは工夫と努力で生涯黒字を維持して、その為には宮沢賢治も驚くほどに、祝日、休日も休まず、雨の日も風の日も拘わりなく、私利私欲には一切走らず、必死で多いに儲け続けたにも拘わらず、ある歳になったら、途端に肩を叩かれた。それも、昼食を食べようと弁当持って歩いてる時に、高校の先輩ではあるが、文系で技術は全く素人で、誰の引きか、ぽっと移って来たばかりの部門長が、立ち話し1分で、しかも管理職は断れんのや、との脅し付きの肩叩きであった。誰でも彼でも55歳になれば肩を叩くって時期ではあったが、個人的には受注が続いていた時期で、それは無いだろうと思っていたが、そこまで会社の状況が悪いのなら仕方が無かろうと退職を決意した。ただ僕の担当していた仕事は当然ながら続けねばならない。そこで、外注としては働きを続けるとのことで、管理部長が以後の仕事の継続の仕方の説明をしたが、その際に、「事業部長はあっさり辞めてもらえって言ってるのだけど・・」と、これが生涯頑張って来た先輩に対する言葉かと情けなくなった。当時受注した案件で一緒に働いた環境施設の人に、退職するとの話をすると、なら、一緒に働きませんか、と声を掛けられて、環境施設で外注として働かせてもらうことになった。さて、退職間際になっての説明会で渡された離職票には、「自己都合退職」と書かれていた。これって中小の、しかも、その中でも特に悪徳企業の遣り方やないか?と、「ちょっとこれは井桁マークの重機械メーカー(後、面倒なんで、はっきり言うと、住友重機械工業 略称 住重)としてはなぁ」と抗議したけれども、会社側には無視された。通常の人情であれば、会社の都合で辞めて行く人間には、少しでも良い待遇で、と考えるのが同じサラリーマンの思いであるべきが、そのような人情さえ無い会社であったのだ、と会社生活の最後の土壇場で、とても悲しい思いを与えてくれた、そんな会社のOB会に出る気はしますかね?この問いに対する答えは人により異なりますが、僕の場合は、例え、飲み食いタダでも、出る気にはなれないって言うか、ここはパスってことで済ませることにしたいです。それにしても、そんな扱いをした退職者に、OB会の招待状を出し続けるって会社も奇妙な存在ですよね。しかも、大学の同級生が「そんなあほな!財閥系ともあろう会社が!」と誰も信じないのだが、この会社には企業年金がないのだ。そのような事情で、この会社と僕の繋がりは、抑え込んではいるが、時に、ふっと思い出しては嫌な気分になる僕の胸の内と、1年に1度のタダ飲みのお誘いのハガキだけとなっている。
とにかく、かような事情で、無料飲み食いは、意地って面倒なるもんの都合もあって、これをやめて、自分の腹を痛めての全て有料の飲み食いに参加することにはしたのだが、旅行原資を有効に使うためには、つまり腹の痛みを少なくするために、東京-大阪の往復はバス、でも健康の為にも、安い夜行はやめ昼間高速で往復して、大阪の無料宿泊場所、ここは個人的に使えるGHみたいなもんで、ここで自炊若しくは外食して、大阪から広島は鈍行で往復って旅程を計画した。で、金銭的には貧しい旅行ですが、時間的、精神的には豊かな旅になりそうです。結局、スケジュールは11月9日から20日までの旅になる。
他方、女房殿は別行動で親戚一同を引き連れて、新幹線をひかり先得きっぷでの往復てすね。
ところで後になって気づいたのですが、「離職票を自己都合にした」のは、退職金の割り増しを防ぐ手段だったのではないだろうかってことです。これが事実なら、その重機械工業は、悪辣どころか、卑劣としか言いようの無い会社ですね。先にも書いたように、会社の為にと辞めて行く人間への配慮なんて全く無く、むしろ、そのための経費をいかに少なくするかとの、これが人事や総務の作戦だったのでしょうけど、これを実行したのが高校の先輩だったって、これは悲劇のストーリィに入ります。いや、これを喜劇にするのが大阪人の真骨頂とすべきでしょう。肩を叩かれたから、僕が自分で探した就職先、と言っても別の環境施設事業部の外注として使ってもらったのですが、ここは僕の技術力を評価して使ってくれたので、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。ところで、そこでも何件か受注を果たしたのですが、それも、1件20億程度を数年間受注したところ、僕の肩を叩いた後に、元の事業部から天下りで子会社の重役として行った、その先輩が、僕の受注した案件の部分的発注を僕に頼んできました。これって喜劇でしょ?僕はその仕事の、その会社への発注は邪魔も支援もしなかったですけど、かなり厳しい値段で受注してました。
ところで、そんな先輩の居た、天王寺高校のOB会や同窓会の誘いにはどうすべきでしょうか?
そう言えば、これも喜劇なんですが、技術家である僕の肩叩きについては、当然、その後の仕事に支障がないかどうかは、僕と一緒に働いていた営業部門に確認して決めた筈ですが、肩を叩かれた後、僕がもう別の所で働いている時に、元の事業部の営業課長がやって来て、「コンテナクレーン基地の物流シュミレーションが必要なんだけど、やってくれんか?」と頼まれたのだが、心情的には遣る気は毛頭無いし、それにそもそも、もう既に別の事業部の世話になっている身としては、当然ながら断った。これに対して彼は、「君は、君が長く務めた事業部への愛着はないのか!」って怒っていた。
これって、不可思議な論理ですね。肩叩き先輩も事務家さんだけど、事務屋さんって頭のネジがおかしいのかな、と思いました。
そうそう、僕に嫌味を言った管理部長だった男、この男も部門長と一緒に同じ子会社に移ったようですけど、その元管理部長に、先日、ユーカリが丘の東邦病院で会ったので挨拶はしたのだが、何か不機嫌そうに挨拶を返しよりました、が、何で奴が僕に不機嫌なんだろうか?これって逆切れじゃないか、と頭をひねりました。これも、かなりの喜劇じゃないですか。つまり、世の中って変な人ばっかり、って言うか、むしろ、井桁マークの重機械って、変わった人ばかりじゃないかと笑っちゃいます。ねっ!充分に喜劇になりましたよね。
個人的な経験や感情は別にしても、住友重機械工業だけど、今から思うととても変な会社だった。技術が重要な業種なのだが、技術とか技能に関しては殆ど留意しない、と言うか、そんな余計なことに拘泥しない方が望まれるように思えた。実際の所、自分の担当する技術に打ち込むような人は先ず出世できない社風だ。
僕はと言えば、残念ながら技術に拘泥するタイプで、僕の専門は長距離コンベヤだが、一般的コンバヤも含んで自動設計できるプログラムで、コンベヤの屈曲点の位置情報、搬送能力情報等を仕様入力すると、部品レベルまで算出するプログラムを土曜、日曜、休日を費やして、個人的に開発した。いかに人を掛けないで、しかも最適な装置を設計するかが、企業競争の鍵だと思ったのだ。これが三十代の、ほぼ一年で完成し、その頃東京の見積部隊に転勤となり、このプログラムは更に有効に使えるようになった。後は、時々プログラムを改良し続けた。このプログラムを使うだけで、100億円程度の案件も1人で見積もり出来るようになった。東京に転勤してから自分だけで使うのではなくて取扱説明書も作って課内、部内に配布したが全く反応がなかった。それどころか、部内で、コンベヤシステムの見積プログラムを、これは多額の部門費を使って開発しだした。だが不思議なことに、開発者はコンベヤの実施設計をした経験の無い人間が選ばれた。実は、この頃、いろんな製品の見積もり方法として、詳細設計では無く、過去の実績からの推測方式がブームになっていて、この方式を採用したものと思われる。だが、そのような見積もり方法には必ず限界が存在する。あるレベルまでの見積もりは出来たとしても、激烈な競争下での最後の値決めに使える筈はない。そのような状況で、そのプログラムを使えば、最後には賭けになってしまうのだ。他方、僕のプログラムは設計プログラムそのものだから、詳細設計を元にした見積もりとなる。しかも僕の設計能力は人並み外れて有能だから、それを元にした設計は最適そのものである。そんな当然の事がなぜ判らないのだろう、と不思議で仕方無かった。特に重要なのは、受注した時点で、実行予算を作ることが重要だが、僕のプログラムでは、実行予算そのものが殆ど出来ているが、推定方式であれば、見積もりとは全く別に実行予算のための作業を開始しなければならないのだ。結果として、部長が栄転して、大金を掛けて開発されたプログラムは誰も使わないままに朽ちてしまった。この事に限らず、多くの技術的改革が同じような結果をたどった。
全社に亘って、ゼロデイフェクトから始まり、バブル頃にはTQCとか、手法そのものには意味があるとしても、その実際の適用方法が、極めて一時的と言うか、あきらかに時間の無駄ってわけの判らん手法での業務改革が取り入れられ、誰もが熱病の如くにこれに熱中しだすのだが、責任者が替わる度に彼の採用したテーマは消えて、熱病が冷めて、新しい責任者がまた新しいテーマを立ち上げる。先を読んで、最終的成果で評価されることはないと、これに積極的に応じる人間が評価され出世して、批判的な人間は左遷されないまでも無視されるのだ。つまり、業務改革手法は、ただ単に忠誠心で人を選別するシステムになっているのだと、そんな単純な事が判らなかった僕が馬鹿だったのだ、と今になって気づいた。つまり、何か花火を、例え、あっと言う間に消え去るテーマでも、派手にブチ上げて忠誠心を示さねば駄目だったのだ。
しかし、業務改革的手法について言えば、ひととき、とは言え何年にも亘って、日本中が、傲慢にも日本的TQCなるものに熱狂しまくり、大学の先生方の多くがTQC指導員として高額の報酬を得て企業の指導と只の飲み食いに走り回り、バブル崩壊と共に、これも崩壊した。その後は、小泉改革と欧米的経営で、社員の整理が当然のこととして行われた。僕の悲劇も、その成果のひとつだったのだが、米国やバングラデッシでのプロジェクト、据付経験から、日本的TQCより欧米的経営の方が効果的だと知る僕には、いささか皮肉な結末でした。しかし、今の日本の経営者達は、あれほど日本的TQCに熱中したにも拘わらず、これを一気に放棄して、更には米国型経営の悪いところばかりを追求しているとしか思えないのですけどね。
とにかく、そんなこととは無関係に、僕は着々と受注し儲けていったのだけど、そんなのは通常の業務だから評価の対象とはならなかった。
ところで、僕が専門馬鹿かと言うと、そうでもない。と言うのは、僕が大阪で所属した部門での仕事は、設計だけではなくて、プロジェクトの見積もりから納入まで、しかも、採算責任を持つ仕事であったから、プロジェクトでの金もうけには、充分に実力を発揮したし、国内だけでは無くて海外での据え付け業務や採算管理でも成功している。僕の設計、ないしは見積りした設備は、何件か、それも世界最大級のものも、ネットで見られるし、それに、対外的技術活動としては、産業機械工業会で、JISベルトコンベヤの設計基準作りでもかなりの活動を果たし、そのJISには名前も載っている。それと、この活動と並行して、勿論本来の実務としてのプロジェクトをこなしながらも、海上土木協会なるものの活動に参加して、後の、関空の土木工事受注のための活動に従事した。さらには、ずっと後になるが、日本機械学会物流部門のまとめ作業も経験したし、そこでは、かなりの力を発揮したと自分では思う。今ではあちこちで使われ平凡な言葉になったが、当時としては新鮮だった、機械学会の「進化する物流機械」って標語は僕が作ったものだ。
業務改革についてだけど、社内の熱病的改革活動には批判的だけど、会社をやめる頃になって判ったのだが、特許・実用新案申請数では、僕は社内2位だった。それに、改善提案数も社内有数であったに違いない。特許とか業務改善って日々の仕事を工夫していれば自然と出来て行くものだが、殆どの管理職、それに、指導者層は、そのようなことは人に遣らせるので、そのために、どこかの部門から人を引っ張ってくるのが有能な管理職だとみなされるのかもしれない。その評価観点からすると、僕は、結局は、井桁マークの重機械会社の社風に合わないと言うか、それに、僕には理解しがたかった「忠誠心選別方式」なるもので振り落とされたと言うのが実情だろう。
それに、会社の利益のことは一生懸命に考え実行したが、自分の利益は守れないどころか、会社の悪辣な手段に翻弄され、最低の条件で放り出されたってことは、こりゃやっぱり専門馬鹿なんでしょうかね。でも、会社が酷過ぎるんじゃないだろうか?
かなり脱線したが、話題を旅に戻して、「行ってきます」をここまで書いたところで、人生そのものが長い旅だと言うことに、今更ながらも思い至った。言い古された言い方だが、その言葉の意味は、その人生の終焉に近くなって初めて理解出来るものなのだろう。いや、より感性の高い人なれば、もっと早く理解出来たのかもしれないが、残念ながら、それは断定的に言えることなのだが、僕の感性はそれほど高度なものではないのだ。
河内の、周囲を田んぼに囲まれた疎開住宅地に生まれ育ち、歳と共に大阪府内を転々と移動して、その後一気に、これも当然だが会社都合なるもので、遠路はるばる移動して千葉の社宅に移り、今は千葉のまんなか辺りの自宅に住んでいる。これらのこと自体が人生が旅であることの証のような気がするのだ。
ただ、千葉に移ったことについては、今になって思うと、新しい経験を得られたと全く後悔はしていない。それに、かって済んだ田んぼに囲まれた疎開者住宅は、今や住宅に覆われた醜悪な地域になっていて、むしろ今の場所の方が自然に満ちているのだ。少なくとも、僕の人生の間はまだ自然が維持される程度の破壊の速さと思えるのだ。自然の面白さを知らない人にはこの感覚は理解できないだろうけども、これは僕に取っては極めて重要なことなのだ。
大阪平野の南、東西を葛城山脈と上町台地に挟まれたエリヤを河内平野と称するが、かって、古墳時代ごろには河内平野から北、つまり大阪平野の殆どは入り海になっていた。その海岸線が河内松原辺りで松並木があり、それ故にそこは松原と名付けられたのだ。僕の子供時代の河内平野は、所々の丘に村があり、僕の住む疎開者住宅は、丘に挟まれた低地にあった。住宅地の南側を狭山池からの西除川が流れ、住宅地を過ぎた辺りで流れを南に替えて、大和川、それは住宅地からはかなり離れてはいるが、東から大阪平野を横断して大阪湾に注いでいて、これに西除川は流れ込んでいた。川は住宅地よりも高い位置を流れていて、普段は穏やかに所々で美しい淀みを造って流れているのだが、大雨や台風の度に水が溢れだして、水は大和川への近道として住宅の中を激しく下って行った。住宅地は洪水に襲われ、その時には家の前を魚や蛙が泳ぎ回るのさえ見られ、親たちにはいまいましい、かような事態を、僕たち子供はこれを楽しみにしていた。
住宅の外を見渡すと、丘にある古い村々の方向を除いては、遥かなる山系の彼方にまでに田畑が続いていて、秋の台風の去った後には、彼方にあるべき山々が声の届きそうなほどに近くに見えたものだ。僕は思うのだが、おそらくそんな環境で育ったものだから、人の組織の中を、要領よく泳ぎ回ることは余りにも至難となったに違いない。
人との付き合いでは要領は悪かったが、自分がこれから何をすべきかについては、それが結果として良かったのかどうかは別にして、自分を厳しい状況には落ち込ませないとの本能には優れていたようだ。小学校ではきちんと宿題をするだけでずっと優等生を続けることができたが、ただ、4年生のクラスに朝日新聞の論説者を父に持つと評判の、特別優秀な岡明人って秀才と一緒になり、これは優等生から滑り落ちたなと覚悟したが、彼はやはり特別らしく、僕は彼よりも一段下だが優等生を保った。最近、彼の名前でググルと、朝日新聞の科学系の論説者として活躍しているのを見つけた。僕が一目を置いた人間が、何かを成し遂げたって嬉しいことだ。
話を元に戻して、中学校に入って直ぐに高校入試のことが心配になった。英語の先生が文法のことを説明なしに一気に授業を進めていったことがその最初の原因だった。引っかかったのが、be動詞と普通の動詞をどう使うかが理解できなかったことで、頭は混乱状態になった。だが、何かのきっかけで、be動詞は形容詞と組み合わさり、動詞とは組み合されない、と気づいて、それからは一気に英語の理解が進んだ。この経験で、勉強の先行きのことが心配になり、それも3年間の勉強分が高校入試に出るって事態に気づき、その大変さに恐怖を感じた。そこで考えて、授業のノートのページの1/3の所で折り曲げて、そこに毎日の授業分を、その折り曲げた所に質問として書き、毎日電車での行き帰り、それも帰りは殆ど友人と一緒にふざけまわっていたから、行きの20分程度をその復習に割いた。また、手のひらに入る程度の漢字帳を買ってこれも同じように勉強した。
定期テストの勉強は殆どしないもんだから、定期テストの結果はいつも7番程度だった。朝は家を6時30分には出て、学校に着くと7時過ぎで、それから友達と始業時間まで遊ぶ毎日を過ごしたが、3年生になってから行われた実力テストでは、成績は公表されないのだが、教師からの暗示では成績はかなり良かったらしい。そのため、進路選択で、最も難関な天王寺高校って学校を希望したらあっさり許可され、入試もなんなく通過した。受験技術が進んでいない時代は、この程度の工夫で簡単に優秀校に入れた時代なのだ。高校に入り、中学と同じように友人と遊ぼうと学校に7時過ぎに着いたら、まだ門が閉じられていて、門をよじ登って校内に入った。この出来ごと一度だけで、高校生活には、早朝に友人たちと遊ぶ習慣は無いのだと気づいた。
1年間は何もせず、土曜日には学校の帰りに映画をみて過ごした。当然だが成績は高校1年生の多分600人の末尾に近かった。だがやはり生来の臆病心が蘇り、2年になった時から1年2年の教科書をここからここまで、と勉強の予定表を作った。やはり、定期テストは無視して長期計画である。計画実行の為にはTVが邪魔だと、学校から帰ったら直ぐに寝て、TVの終わる11時頃、当時TVは11時~12時には終了だったのだが、その時間に起きて3時、4時まで勉強することにした。さすがに参考書も必要になり、数学は矢野健太郎、化学は化学精義を使った。矢野健太郎は、後の教育行政では誤った道を進んだが、彼の参考書は非常に役に立ったし、化学精義は、これは、自分を磨くに最高の参考書だった。物理は教科書だけで充分だったが、不思議なことに、結局、僕の人生、勿論、仕事を進める上での知識としては、この物理の教科書の理解だけで殆どの問題を解決できた。受験に関するこの勉強法は、3年の12月半ばまでで、それからは普通の生活に慣れるように体調を整えるだけに過ごした。
ところで成績だが、定期テストは、一気に中位程度になり、クラス担当を驚かせた。が、3年になり実力テストがあり、これは廊下に貼り出される。初回は60番程度で、2回目は、張り出された最後の落ちそうな所に名前がで友人に笑われてしまった。が、12月の最終回では一気に2番になった。クラスの友人たちはそれには何のコメントも発しなかったのだが、どう考えていたのだろう。
ところで、その時一番となったのは、中野みつ子って女性であった。かくして、一番となるチャンスをこの女性に阻止されたのだが、怨むなんて気持ちは毛頭ない。先日、偶然、彼女の結婚後の姓を知ることがあり、早速、yahooで検索すると、化学関係でかなりの成果を上げていると知った。が、やはり、学生時代に一目置いた人間が、どこかで頑張っていると知ると気持ちが良いものだ。ところで、小学校時代のライバルと言うより、あいつには勝てないって思っていた岡も同じ高校に進んでいて、実力テストでもやはり僕の上位を続けていたが、この最後のテストだけは僕が彼を追い抜いたことになる。これは誇りにしてもいいことじゃないか?しかし、今なお彼を尊敬する気持ちに変わりは無いのだが。
人生2番手と言えば、僕はもうひとつ変なことでも2番手になった。受験勉強しながら、これでは体に悪いと、家の勝手口にちょうど懸垂運動に手ごろな門があり、暇が有ればこれにぶら下がっては牽垂をした。学校でも昼休みには鉄棒で懸垂や鉄棒運動に取り組み、小車輪までは簡単に出来るようになった。その頃、体育の時間に体力測定があり懸垂の回数を測定したのだが、記憶では33回程度は出来た筈だ。この全校成績が廊下に貼り出されたのだが、このトップは俵って、名前通りに体格頑丈な男で、2位は僕であった。この時も級友たちからは何のコメントも無かった。かような事情で、僕の体は、サイズは普通だが、腕の筋肉は太く、腹には筋ができたような体になった。体は軽いから普通に立った姿勢から体を曲げて腕を地面に置いて、ゆっくりと逆立ちが出来るようにもなった。この後、人生ではまともな運動をすることは無かったから、この時に造り上げた体力で後の人生を過ごしたことになる。
ところで、結局僕がどこの大学に進学したかだが、当時は、就職に有利な学科として、機械工学科の機械、電気、応用化学が御三家と称されていた。臆病者の僕は、地元大学の機械工学科を希望したのだが、担任は「たまたま実力テストが良かったといっても、あそこは無理だ」と、レベルを落とすようにと指導した。今であれば、その教師の気持ちは判るのだが、当時は、前後左右とかを考える心の広さは無く、将来の就職ってことばかりを考えていた。そのため教師の助言を振り切って、その大学の機械工学科を受験した。
試験では得意な筈の化学で実に馬鹿げた失策をした。「下記の条件に合う物質の化学式を示せ」との問題で、化学得意の僕には余りに簡単な設問で、裏を読み過ぎて、分子式を各分子毎の組成にまとめてしまったのだ。家に帰りそのことに気づいて愕然となり、そのため、受験は完全に失敗だとあきらめていた。が、一週間後か10日後の、中之島での受験結果発表の表示を見に行くと、なんと、僕の番号があった。茫然として、電車に乗っていったん帰ったものの、そんな馬鹿なことがある筈はない、と、もう一度電車に乗って中之島まで行った。が、やはり、僕の番号はちゃんと載っていた。
かように僕は臆病なだけではなくて、ちょっと抜けてはいるが、とても用心深いのだ。この性癖は、会社生活でもそうであったし、今でも完璧に残っている。
大学では何を考える必要もなく、遊ぶだけ遊んだって言っても、自転車で紀伊半島を一周するとか、大峰山から熊野まで歩くとかで、休みごとを過ごした。概ね友人と一緒の行動が多かったが、単独で大隅半島を縦断して、台風で荒れる海を屋久島に移動したが、2等船室の入口から波が流れ込む様には驚いた。ところで、自転車での紀伊半島一周のちゃちな紀行記を犬養先生の講座のレポートとして出したが、単位を下さった。まことに申し訳ないことをした、と後悔しきりだ。これのみでなく、もっといろいろ勉強できた筈なのだが、そこまでの自覚が不足したのだ。
会社に就職するよりは大学院の方が楽だと修士に進み、流体力学の村田研究室に入った。横断流送風機(今では電車の多くに、空調送風に採用されている、車内長手方向に長い風車を持つ送風機)の流れを研究した。この送風機は、送風機内部に渦が出来て、羽根車の一方向から他方に空気が流れ、その流れ方向は羽根車の外側に置くケーシングの位置で決まるのだ。教授に送風機内の流れ関数を作れと言われ1週間ほど考えたが、解法が全く判らないので相談すると、一晩で「こうすりゃいいのでは?」と基本的な考え方を示された。その解法は殆ど忘れてしまったが、複素関数平面のⅩ軸に対象に吹出しと吸込みを置くと、当然、流れは吹出しから吸込みに流れる。これを通常平面に変換すると、Ⅹ軸は円となり、円内の吹出しは強制渦になり、円外の吸込みは逆方向の強制渦になる。ケーシングの位置変化で渦の位置が決まると考えれば、この送風機の流れは計算式で再現されたことになる。学生時代にはこの解法を数式で追うだけで、このような考え方では理解できなかった。歳を経ると、物事を数式で追うのではなくて、ごく簡単な現象での表現で理解できるようになる。会社での技報委員や、機械学会物部門でも、自分の専門外の文献を査読することが必要な時には、このような形而上的な思考順序であらゆる技術を理解出来るようになったが、まだ若い時には、このような思考は出来ず、教授の能力に恐れ入ってしまい、2年間の修士生活を終えると、学生を続けることは断念して就職することにしたのだ。
ところで、最近、その研究がどうなってるかをNETで調べると、僕は積分の流れ方程式を数値計算で解いたのだが、僕の後継者が、方程式を解いて研究を継続していた。流体方程式を解くってことは非常に困難なことであり、これには驚いてしまった。更に彼の機械学会論文集の論文では、僕の名前も書いてくれていた。
なお、当時の計算機を使っての数値計算は、全くの機械語を使っての演算で、なが~いテープに穴をあけて、実に膨大な労力を要するものだった。ただ僕はかような数多くの変数を頭にしまいこんで、これを必要に応じて引っ張り出しては演算プログラムを作り、変数を再び頭にしまいこむって作業が得意で、先に言ったコンベアの計算プログラムではこの能力を十二分に発揮したのだ。
この頃、就職先の決定では、特に学科御三家では、どこでも選び放題なのだが、僕は言うなら最低の企業を選んだことになるが、これは充分に就職先を調べなかった自分が悪いとしか言いようがない。誰をうらむ事も出来ない。ただ、社員や技術者への待遇や、会社の精神的風土は最低だったが、仕事としては実に面白かった。恐らくこれは、ややこしい仕事は文句を言わない人間に押し付ける、って風土、や、それに、その会社の古い組織から離れた所で仕事を出来て、好きなように出来たことによるのだろうと思う。がしかし、古い組織から離れていると、いくら成果を挙げても会社のうまい部分を食うことは出来なかったってことだろう。
僕の就職した会社は、元々の本拠は新居浜で、就職の最初も新居浜での仕事だった。僕の最初の上司は、その最初の日に走行式水平引込型クレーンの全体計算書を渡し、この旋回部分を設計せよ、と命じた。さて、大学ではクレーンは天井クレーンの事しか教わったことはない、それも、クレーン鉄骨のクレモナ線図を書いただけだ。旋回装置なんて皆目見当もつかない。僕はそのまま会社の図書館に行って本を探すと、ソ連の設計者の書いた本、当然日本語に翻訳されたものだが、これを見つけ借りてきて、一週間ほどで計算して図面に書いた。まるで戦車みたいな旋回部分になってしまった。が、上司にこれを見せると、「図庫に行けば以前のクレーンの図面がいっぱいある。それに、計算基準はこのファイルだ」と渡してくれた。最初から言ってくれればよかったのにと思った。だが、以前に誰かが設計したり標準化したりしたものを設計するのはこれが最初で最後だったような気がする。自分から望んで、古い組織の新居浜から出て、大阪に移ってから以降は、殆ど、自分で見積り受注して、これを設計して予算管理と、日々身を粉にして働き、工夫し続ける仕事ばかりとなった。特に、縦割り組織の新居浜から離れ、プロジェクト全体を見るセクションに移ったことで、実に面白い仕事を出来たと考えている。
新居浜での仕事は6ヶ月程度で、それも図面台の前だけの仕事であった。しかし設計的には、旋回車輪軸のきしり運動の解析とか、前後動するクレーンブームの吊下げた荷の、旋回時の動きとか、面白いテーマも解析できた。その頃、設計部長、この人は僕の尊敬する人で、他にも僕の上司で尊敬する人も居たのだが、そんな人は、肩を叩かれた僕よりは出世出来たものの、その能力にふさわしい地位にはなれなかった。とにかく、その設計部長にスカウトされて大阪に転勤となった。行った翌日には、そこで上司となった技術者に連れられて浜松に設計打ち合わせとなった。何本かで全長3km程度のコンベヤの設計打ち合わせで、客先を前に広げた図面で、初めてベルトコンベヤとはどのようなものかを知ったのだ。ところが打合せを終えて大阪に帰ると、その上司は「僕は、もうコンベヤ担当をやめて、自動倉庫って物の開発を始める。だから、後は1人でやれ」と宣言して、その件に関するファイルを全て僕に渡してしまったのだ。嘘だろと思ったが、それは嘘ではなくて、その仕事は僕1人ですることになった。仕方が無いので、梅田の本屋旭屋に行きベルトコンベヤの本を探すと、今回は幸いなことにロシアの本ではなくて、日本語の本で、「ベルトコンベヤの設計と管理」ってかなりまともな本を見つけて買った。これを夜遅くまで勉強しながら設計を続けて、一週間後の客先打合わせには1人で行った。客先の住友セメントでは井川さんて課長が待っていて、「あれ?XXさんは?」って聞くので、「え~っと、XXは別の仕事に移りました」って答えた。「え~!本当ですか!」、課長は非常に驚いたものの、別に文句は言うことなく、しかしながらも、とても不安そうな面持ちでの打ち合わせとなった。それからは東京に転勤するまでベルトコンベヤ設備一筋に働いた。何事も調べておくと役立つって経験だが、「ベルトコンベヤの設計と管理」を勉強しながら、ベルトコンベヤの世界中の文献を私費で収集した。ドイツ語の文献が圧倒的に多く、これらをかなり勉強した。後年、産業機械工業会が、通産省工業技術院の依頼(と言うか、欧米圧力をかわす為)でJISのISO化をコンベヤ委員会でまとめたが、ISOはドイツの文献そのままのデータを元にしていたので、収集した文献は200%の効力を発揮して、ISOのそのままのJIS化ではなく、充分に吟味した上でのISO化であった。文献や実機調査の結果として、旧JISの方がISOよりも遥かに簡単で、効果的な規格であると確信できたのだが、残念ながら政治の流れにはいかんとも抵抗できなかった。
ベルトコンベヤって例えば僕が28歳で納入を終えたのがこれで、
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.from-a.jp/sansaku/fs7_sumikinn.htm
真ん中右側の写真の、紫色の線で示された、地下を走る12kmのコンベヤだ。これは、山元で採掘した石灰石を1000t/h程度の能力で、セメント工場や、港の船積み設備に送る設備なのだ。
八戸鉱山では、長距離コンベヤだけではなく、採掘した石灰石を地下100m程度から地上に送る設備、港での船積設備なども設計したのだ。この設備は騒音、振動対策を非常に重視した設備で、特に長距離コンベヤは地下に施設されている。このため、全長が12kmにも達するのに、殆どの八戸市民さえもが、この設備の存在を知らないのだ。
後年、お世話になった本、「ベルトコンベヤの設計と管理」が新刊となる際には、その長距離コンベヤの騒音対策の項で、その多くの下書きを僕が書いたし、その複数の著者の中でも特に主要な一人である、加藤竹雄さんとは、産業機械工業会の委員として御一緒することが出来た。
八戸の設備計画は、僕が25歳の時に始まり、住友系の各社、つまり住友石炭、住友セメント、住友金属、それに、鹿島建設や明電舎と僕の所属する重機械が集まる打合せ会で、僕が技術説明するのだが、さすがに足が震えたものだ。各社の人から見れば、あまりパッとしない、学生みたいな僕をよくまぁ容認したものだと、今になってみると感心するのだ。だが、最近、当時作った技術資料を見る機会があったが、我が事ながら、見事に吟味検討した資料を提出していた。ただ、いつもそうなのだが、僕の技術的資料に直接触れるせいか、外部の人の方が僕を良く評価してくれたようだ。住友セメントや八戸石灰の人の恩義は今でも忘れることは出来ない。それに、一緒に活動した産業機械工業会の人や、機械学会物流部会の人々にも本当にお世話になったと考えている。そして、それは、それぞれが楽しい思い出なのだ。それに、米国のガルフでの石炭ターミナルの建設とか、バングラデッシのASHUGANJI肥料設備の建設でも、何故かぱっとしない僕を応援する人が出来て、苦労はするものの、その苦労は評価されて無事仕事を終えることができた。
僕の働いたASHUGANJ肥料工場はここです。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.wikimapia.org/17167943/Ashuganj-Zia-Fertilizer-Factory
グーグルアースで、「24.0235647N,90.9880722E」って入れてもはっきりと見えます。
ここには延1年間据付のスーパーバイザーとして滞在した。実は設計は僕がしたものではなく、僕のプロジェクトでも無かった。それに、そもそも設計者が据付指導、それも、チーフとして派遣されるなんて有り得ないのだが、結局、この土地柄だと、行こうとする人間がおらず、それに当初予定されていた人間がイラクに派遣されることになったせいもあり、多分、新居浜製造所の裏工作で、僕が行くことに決まったのだろう。ところが、この人選には海外営業、それも当時天皇と称された営業部長が怒り、結局両者の狭間で、会社の命令は絶対と信じる僕は、東京の営業も新居浜の製造所(据付責任部署)の応援も無く、僻地に派遣された。英語も喋れないのに、現地出向の最初から営業には無視され、誰も付いて行かず、海外営業からのけしかけもあったのだろう、ダッカの商社、住友商事もほったらかしって有様でした。ひどいもんだった。
でもまぁ、一か月もすれば、現場は英国のスコットランド本拠のエンジニヤリング会社FWの運営で、そのスコットランド訛りも理解できるようになったが、問題は、新居浜製造所の管理下で作った製品が、多分、まともな検査をしないで、しかも、梱包リストとチェックせずに梱包に放り込んだらしく、何がどこに入っているか判らないってありさまだった。つまり、単体主体の製造所は、プラント設備で最も重要な、物品管理には全く考慮を払わず、しかも、製品の検査も全くしてなかったのだ。このままでは、膨大なバックチャージが掛かると、僕は、FWのElectionSupervisorのMr.Canonや、MechanicalSuperviserのMr.Atokinsに頼み、現地人の人手、それと、ガスや溶接機械を借用して、物品の改造や、物によっては、製造さえ行い、特に千個を上回る梱包は、全て自分の手で開梱して物品の整理をすることにした。FWの保管セクションに頼むと、物品の管理に困っていたFWは、バングラデッシ人の職員タマールを僕に付けてくれた。彼は教育は無いものの、かなり有能な男であった。つまり、僕に誤魔化されない為にも有能な男を付けたのだろう。そうして彼はその職責を見事に果たしたので、僕も誤魔化すことは出来なかった。いずれにしても、彼等にすれば、物品の管理や据付がきちんと進むことが何よりも重要なので僕に協力してくれたのだ。物品の管理で見つけた不足は、機械部品でさえも、手作りの代品を作ったりして、据付は順調に進んだ。ただ問題は、岸壁の肥料袋の船積機であった。これ以外の陸側の設備はFW直轄で据付だったが、船積機の据付だけは、FWから韓国の企業へと発注された。おそらく、世銀案件の汚い部分での交渉の結果なのであろうと推測した。その装置の機械部品の梱包検査は、何とか僕自身で出来るようにと交渉したが、鉄工品は梱包のまま韓国企業に渡し、韓国企業自身で管理する手順となった。案の状、品質管理も梱包管理も為されずに送りこまれたせいで、韓国企業は、改造とか部品不足による追加金額をFWに直接出始めた。FWはその請求を正式に僕の会社、つまりは、僕に請求し始めた。FW据付分での部品不足や改造に対する我々への追加は、数万円なのに、韓国企業からの追加は、どんどんと膨れ上がりだした。いち早くこれを予想していた僕は、部下の一人を韓国企業専属として、追加を抑えることも含めて据付指導では韓国企業に協力していたのたが、この親切は無視され、僕には何の相談も無く、追加をFWに直に出し続けた。しかもこんな時の追加とは追加要求する側が出来るだけ膨らませるのが常であった。つまり、最悪の状況である。
そこで僕は先ずFWのSTRAGE部門に行き、FWから韓国企業への物品の流れを調べた。それで判ったのだが、FWつまりは井桁マークの会社が納入した梱包が両社間で手渡される時に、韓国企業が梱包ごとに、梱包リスト通りの物を受け取ったとのサインをしていることを確認した。つまり、井桁マークの会社だけではなく、韓国企業も同様にスキマだらけの仕事をしていたわけだ。だが直ぐにはこの弱点を利用するわけにはゆかなかった。先に書いたように船積機の機械品の梱包だけは、僕自身がタマールと一緒に梱包内容を調べたが、ブーム先端のコンベヤベルトが梱包に入っていなかったのだ。他の梱包に入っているかと全ての梱包を開いたが結局はみつからなかった。つまり、最もアホな入れ忘れってことですがな。大した部品でも無いが、これが無いと、船積機の据付工事が終わらない。しかも、ブーム先端の部品だから、据付用のポンツーン(艀)も待機になる。つまり韓国企業の追加はすさまじい金額になる可能性がある。仕方が無いと、日本に連絡をした。当時、日本への連絡は、ダッカの住友商事現地人(日本人は対応してくれなかった)に手紙を送り、そこから日本に送るとのややこしい手順で、最低、往復2週間は掛かった。かくして日本から返信が来たが、「その部品の納入には3カ月掛かる」との、アホどころか大馬鹿な返信であった。それ待っておれば、これ幸いと韓国企業が膨大なバックチャージを要求してくることは明らかだった。この時は、対策をどうするかを思い悩んだ。2~3日は眠れないほどで、かように悩んだことは人生でこの時だけだった。3日目にはっと気付いたのだが、その部品は日本では即納の部品だから、自分で行って持って帰れば良い、と実に単純明快な解決策だった。直ぐに、客先のMr.Jordanって、現場最高責任者のチーフエンジニアに説明すると、彼は事情を直ぐに理解し、日本に帰り部品を持ち帰って良いとの支持をくれた。サイトからダッカに出るのが一苦労だったが、無理やり列車に乗り込み、2日後にはダッカに着いた。住友商事の事務所から事情説明と帰国するとのテレックスを日本に送った。すると、日本では大慌てになって、「その部品は一週間で送る」との返信が即日で来た。最初からちゃんと調べろよ、と思ったが、この連絡を得たことで直ぐにサイトに戻った。この時点では判らなかったが、僕が頭がおかしくなって戦線離脱したとの噂が社内で駆け巡ったらしいのだ。どっちの頭がおかしいんや!ぜ~んぶあんたらの、ええ加減な梱包や製品のせいやろが!と僕は大声で言いたいのだけど。
この部品が到着して、しかも、全ての梱包が引き渡され、韓国企業が全ての部品を不足無く受け取ったとのサインをした時点で、STRAGE部門に行き引渡証を借り(現地人職員は何故か日本人にはとても親切で、僕の依頼は何でも聞いてくれたのだ)、全て自分でコピーして、「韓国企業は全ての部品を受け取った筈だから物品の不足はありえない」との書類も一緒に、FWに提出することで、韓国企業の請求書を無効にし、全てをチャラにしてしまった。なぜなら、韓国企業の申し出を証明する証拠が無い以上は、その引渡証のみが物品の不足を証明するもので、そこには全て受取った、と韓国企業が認めているのだから、不足は無いとする以外に仕方がないではないか。ってことで、これ以外にも徹底的に韓国企業を攻撃して、その現場から韓国企業を追い出した。後は、FWの作業員を使って、我々がゆっくりと、しかも韓国企業よりは効率的に、更には、確実に、残された据付と仕上げを行った。だが、こちらの隙を見せないようにと頑張ったことで、却って新居浜や海外営業からの根も葉もない批難の種になったのだ。
あれやこれやと有ったが、僕はその現場の各国からの設備では、最も早く据付を終えて、更に試運転も行い、試運転証明書も手に入れて帰国した。ところが、他社の設備はなかなか据付が終わらず、結局、最終顧客は、FWを契約不履行で訴えるなどのトラブルが続いた。が、何年か後になって、プラントは漸く稼働した。
その頃、新居浜製造所は、イラクとシベリヤでプラント建設をしていたが、共に大赤字であった。据付込みの受注だから仕事が遅れれば遅れるほど赤字がかさみ、他方、僕の方は、スーパーバイザー業務だけではなく、製品に対するバックチャージが出ないように、あらゆる工夫で製品の品質は維持したから、我々の滞在費も全額支払われた。月に200時間の、客先指定の残業もしたが、バックチャージは全く無く、しかも、僕と僕の部下全ての業務時間に対して支払いが会社に入金された。だが、会社は、イラクやシベリアの現場では、赤字で残業代も支払っていないからと、僕の残業手当は半額に減額された。新居浜の赤字を僕の残業費で少しでも賄おうって情けない手段で、基本的に彼らにはプラントを遂行する能力が無いのだろうと思った。
ここまで思い出して気づいたのだが、彼等は、僕が肩を叩かれた時も同様の思考方法で、僕の離職票を自己都合退職とすることで、金を節約したのだろう。
実はバングラデッシの件では続編があるのだ。仕事を完全に終えて、帰国したが、先に言ったように、僕のセクションでは、自分の担当するプラントは仕掛品や発生予定金額を含めて、全ての金額を自分で管理することになっている。それで判ったのだが、出張手当が、僕の部下として行った仕上げや検査の人間の方が僕より多いのだ。職階も僕の方が当然高く、出張期間は全く同じ筈だ、と大阪の総務に申し出し、大阪の総務と新居浜の総務の話し合いになったが、結局、新居浜の総務は誤魔化しまくった。残業費どころか出張費そのものも誤魔化す会社って成立つのだろうか。それよりも不思議なのだが、僕への僅かな金を誤魔化すことが、誤魔化した当人達、それに会社に取っていったい何のメリットがあったのか、それが今でもなお、理解できないのだ。当然、誤魔化した当人達は、そのことで自分が高く評価されると考え、僕の金を誤魔化した筈だが、それを彼等の上司が褒めて、それをまた、その上の重役達が褒めたってことになるのだが、そんな組織っておかしいのではないか?。これは、僕の残業代や、出張手当だけの問題でなく、離職票の偽造があったのだから、退職手当の誤魔化しにまで繋がることではないだろうか。
こんなことは、十年以上前から社内で社訓とされ、言い続けられている、遵法とか、コンプライアンス、とかの、そのまだ以前の問題じゃなかろうかと思う。
総務と言えば、今でも怒りが消えないが、会社を辞めさせられるのだからと、昔、転勤前に大阪で買った家の、会社から借金し、既に返済を終わった抵当権を抹消しようと、抹消手続きに必要な会社証明を総務から何千円かで発行してもらった。2週間ほどして時間が出来たので大阪の法務局に行って提出したら、その会社証明は期限切れだと言われ受理されなかった。連中(総務の)は、僕の頼む前に発行して保管して使わなかった古い証明書で、期限が一週間に迫ってるのを、金を惜しんで僕に渡したのだ。大阪東京の交通費は私用だから私費で、これも無駄になってしまった。が、再発行ではなくて、ちゃんと発行してくれと言うと、金を要求した。さすがにこれは拒否して、有効期間がちゃんと数カ月のを発行させた。
いかん!更に腹が立ってきた。冷静に、冷静に。
とにかく、会社の遵法精神、コンプライアンス、とかはどこに行ってしまったんでしょうか。
ところで、製品の出来の悪さ、ぐちゃぐちゃの梱包、それに重要部品の不足などで、僕が現地で悪戦苦闘している最中に、日本では、営業も新居浜製造所も、あいつは気が狂ったとか、戦線を放棄したとか、勝手気ままに悪口を流していた。
試運転証明書をもらって日本に帰っても、誰一人として、自分たちの誤解を弁解するでもなく、勿論、誰も褒める人は居なかった。
更に数年して、たまたま事業部長に会った時に、「あの設備は、大丈夫なんだろうな?」って念を押してきた。恐らく新居浜で納入したイラクの設備、それにシベリヤの設備も、まだまともに稼働出来ていないので、バングラデッシのことも心配したのだろうが、僕の仕事は、手抜きもなく、試運転証明書ももらっていて、しかも、保障期間はとっくに済んでいるのだから問題が起こる筈がない。質問に答えながら、こんなことは、プラント納入の常識ではなかろうか、と思った。
さて、今になって思うと、バングラデッシでは客先代行のエンジニヤリング会社FWの現場指導員に頼み、FWの上層部を誤魔化して、人手や工具を使いまくった、と思っていたが、実際にはFWの上層部には「英語もろくに喋れない日本人」の行動は、掌にあるが如くに充分に把握していたのだろう。彼等の製作部門(納入品の不良を改造する部門)を通して、製品の改造や新作をすれば、その費用はバックチャージされるが時間が掛かる。日本人どもが自分たちで、安い現地人の労働力を使って、無料で改造したり新作しても、それだけ早く設備が完成すれば、我々に払う高いSupervisor費も節約出来るし、最終顧客である、バングラデッシ肥料公社からの、まとめエンジニヤリング会社への評価も高くなる。そう考えて我々を泳がせていたに違いない。そう考えれば、彼等も、手間や時間の掛かる製作部門と、その部門以外に我々が作ったと同様の改造グループを組織しだしたのも納得できるのだ。
この事は、更に言うなら、最終顧客のバングラデッシの肥料公社も認めていたに違いない。後年、この現場の建設長であったMOMIN氏と、チッタゴンの案件でも御一緒したが、僕に対しては「頑張れ!」と、極めて友好的な態度で接してくれた。この件では東洋エンジニヤリングとの競合で、有能な僕が負ける筈が無いと、充分に準備をして入札書類をまとめあげた。これで勝ったと思ったのだが、ODA案件は殆ど営業的な話し合いで決まるが、これも同様の経過をたどり、氏の期待には沿えず、肥料袋の船積機だけをかなりの利益とともに受注した。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.chemicals-technology.com/projects/chittagong-urea/
船積機は新居浜の対応なので、僕とは関係なく納入が進み据付試運転となった。その頃、たまたまASHUGANJIを訪問する必要があり、出張の用意をしていると新居浜の設計から電話があった。
ASHUGANJIに行くついでに、CHITTAGONGに寄って船積機の様子を見てきて欲しいのです。ちょっと調子が悪いらしいが、たいしたことでは無い、とのことだった。
新居浜相手では、あっさり断るのが安全なのだが、CHITTAGONG肥料設備も見学したかったので了解した。船積機だけは受注したものの、東洋エンジニヤリングは、その他の搬送システムをドイツ企業に発注していた。ドイツ企業よりは日本企業の方が競争力がある筈なのに何故かと聞いてみると、ドイツ企業はインド企業に再発注したとのことであり、そのメーカーと製品レベルを調べておけば、南アジヤ、中東、アフリカ地区の仕事では必ずや将来の役に立つと考えたからだ。ただ、新居浜の依頼を了解はしたものの、かなりの大ごとだろうと推察した。袋の船積機は極めて単純な構造で、ブーム先端に長い、垂直長さ20mほどのスパイラルシュートがあり、袋はこのシュートに沿って落下して船底に運ばれる。この単純な構造からして、問題と言えば、恐らく袋が詰るのだろう、と簡単に推測できた。そのため、念のためにとゴマ油を鞄に忍ばせて出張した。現地に着き、ここではCHITTAGONG工場の工場長で、肥料公社の重役になっていたMOMIN氏に再会すると、「あの船積機には困っている。船の滞船料が莫大な金額になる」と困った顔で訴えた。早速現場に行ったが、船積はしていない状態であった。が、シュートを見て、こりゃ駄目だ、と即座に思った。スパイラル状態になった内側が袋が食い込むような形状になっているのだ。
船が着き、袋の積込みが始まると、案の状、何個かの袋が流れた後、たまたま一個が詰ると、追随する袋がこれを押して、さらに食い込みが激しく起こり、袋はシュートの上から下まで袋でいっぱいに詰ってしまった。仕方が無いので、シュートのガイドに掴まり、下まで降り、袋を一個ずつ、食い込みから外しては下に滑らせた。20mの高さでの作業で必死であった。シュートが空になってから、ゴマ油をシュート最上端に塗布して運転を再開した。最初の袋が油をシュート全体に曳いて、後続の袋は全く止まることなく流れ続けた。
その間、現地に居てトラブルを知っている筈の新居浜からの指導員は一切姿を見せず、最後の段階になって漸く姿を見せた。新居浜の人間って一体何を考えとるんだろうか・・・
一緒に行ったバングラデッシ人の現場監督は、住友のハイテクノロジーだ、と大笑いしがらいい続けた。僕も彼の笑いにつられてケタケタと笑い続けた。
事務所に戻り、MOMIN氏に状況を説明すると、
「ごま油であろうと、何であろうと、無事に船積みができりゃ、それでいいんだ。君!他の設備も調査してほしい・・ああ、そうか、君の納入は船積機だけだったのだ・・・」と、最後の言葉は寂しそうに言った。
その件から以降、東京に転勤になりバングラデッシには行っていない。MOMINさんは、どうしているのだろうか。
韓国企業とは、これ以後、更に1度だけ関わりがあったが、この時は完全に、僕の敗北であった。仕事はポスコ製鉄の第2工場である光陽製鉄所の建設工事の時だ。ところで日本は韓国、台湾、中国には膨大な金を戦後補償で提供したのだが、そのことをなぜ政府は国民に伝えようとしないのだろうといつも思うのだが、確かに、その初期ごろは、補償金の殆どを日本企業が受注って形で取り返しはしたが、そのことで各国の経済力は上がり、その後半ではむしろ日本企業は食いものとされていったのだ。まぁそれはそれとして、その光陽製鉄所は、韓国で、その後半時期に当たり、僕は既に東京に居た頃であった。韓国案件は大阪の分担であったが、うまみが無ければ巧妙に人に押し付ける傾向が、その頃の大阪部隊にはあり、その結果として東京に居る僕が担当することになった。これはいつものパターンだが、その案件では、資金は日本政府、つまり日本の税金で、日本メーカーは韓国メーカーと組み、見積もり計画は日本メーカーの担当だが、製作は韓国メーカーで行うことになっていた。日本の金と技術力を取り上げること歴然たる案件であった。井桁の重機械は韓国企業の大宇と組むことになり、僕はコンベヤシステムを担当し、新居浜はアンローダを別案件として担当することになった。僕は一生懸命に計画図を書き、見積もりをして、関係者と共に韓国に行った。僕の計画図と重量積算書を元に、韓国メーカーが見積りし、我々の設計費用と合わせて見積もりをまとめることになった。最後の値決め時点で事業部長と海外営業部長が来た。僕がバングラデシュに行った時に、二人の狭間で苦労させられた当人達だった。ただ、事業部長の方は、「あの件は大丈夫なんだろうな?」との質問にバサッと答えてからは僕への応対は良くなっていた。で、最後の値決め直前に、大宇は、「住重の積算重量で我々が見積もるのだから、見積もり重量を保証しろ」と要求してきた。計画図を作らせ、重量を積算させて、その重量を元に見積もって、受注したとしても住重は設計だけを受注するだけで、総額の20%程度を受注するだけで、それでなお、重量を保証しろとは勝手な言い分ではないか、と思ったが、井桁の営業がこれを了解したので仕方がない。僕は、積算書に、余分な重量記載、例えば、購入品の重量はしばしばいい加減な重量を書いていることがある、等を一枚一枚チェックしていった。と、うしろで、海外営業部長が「保証と言われて、とたんに、びびっとるんか!」と大声でのたまわった。それも、韓国側の重役たちも居る場での発言である。事業部長が僕の所に来て、「どうした?」と聞くので、考え通りに答えたら、「あ、そうか、これこれの事情らしいな」と、ごく普通の口調で営業部長に説明してくれた。
その後、値決めの打ち合わせが、僕、即ち、技術者を除いて行われ、夜になって営業担当者から、「大宇の要求で、両社共に、-30%で見積もり提出することになった」との連絡を受けた。全ての見積もり作業をして、その20%しか取り分がなく、それで、共にー30%はおかしいではないか、値下げをしたければ、大宇の取分だけですればよい筈だ、と考え、直ぐに事業部長の部屋に電話をしてこれを伝えた。更に、僕の見積もりではそれほど値下げしないでも勝てる筈だ、とも付け加えた。事業部長は、「そうか・・・しかし、もう交渉は終わったから・・・」との返事であった。-30%も減額すれば必ずやトップになる筈だと思い、韓国から帰る途上、それに帰ってからも、いかに設計費をー30%で実施するかのプランを考え続け、ほぼ頭の中ではプランが出来上がった。設計費を下げるのは案外に簡単なのだ。要は自分がいかに頑張り、工夫するかだけのことである。だが、しばらくしての札あけの場で、井桁・大宇のコンベヤシステムは安すぎるとして、ディスクオリファイされてしまった。同じように値下げした井桁・大宇のアンローダーは、同様に大幅に安いにも拘わらず井桁・大宇に決まったから、多分、裏で何らかの操作があったものと思われる。で、もし受注しておれば、僕のライフワークの一つが韓国に出来ていたであろうけど、技術は大宇に吸い取られ、赤字ではないものの、薄利の仕事になったことは間違いない。ところで、縦割り組織の新居浜のアンローダーは大赤字で仕事を終えたらしい。実力相応と言えるだろう。と、言うことで、僕は、と言うよりは、日本全体が韓国に敗北してゆく時代に入ったのだ。
ところで、井桁の営業人って変な人が多かった。この海外営業部長をそうだけど、北陸のお客さんとの打ち合わせで、積雪量を確認していた。北陸では積雪量による荷重が構造物の支配的要因になるのだ。と突然、同席した国内営業部長が、「おい!雪の量なんて聞いてどうするんや!」と僕を怒鳴りつけた。お客さんの方が苦笑して「いや、積雪ってほんまに重いんや。コンベヤが崩れることもあるんや」とバックアップしてくれたことがあった。技術打合せの最中に、僕が突然、世間話として雪の話を始めたとでも思ったのだろうか。かなりの年寄りの営業部長だったけど、運搬機械メーカーで何の営業をしてたのだか・・・
更に、僕の仕事をNETで探すと、グーグルアースで「ポート・セント・ジョー,フロリダ,合衆国」と入力、または、「75W29.837861N,85.302875W」と入力して、拡大してゆくと中央に、川沿いにバージが並んでいるのが見えている。その陸側に石炭ターミナルがあるが、そこのターミナルの受入コンベヤ設備以降の計画、見積から納入までのプロジェクトを管理した。
この石炭ターミナルはCentralGulfという船会社が、石炭のバージ輸送や、そのターミナルでの保管、そこから鉄道で発電所に輸送する仕事を受けて、そのために自らターミナルを建設したのだ。担当は、副社長のMr.Lahsenと称す30代後半の男で、部下として秘書1人、男職員1人だけでこの大仕事の建設から運営までを遣り遂げたのだ。全米中の業者と電話で接触し、見積もりを取り、必要に応じて走り回り、信頼できる業者を競合させ、貨物列車の支線を引き込み、水路にバージ接岸の土木工事を行い、我々に石炭ターミナルを建設させたのだ。彼は完全なる事務屋である。そんな若い彼が、これだけの大工事を、殆ど助けなしに遂行する。建設計画時には、我々をセスナ機に乗せて、何か所もの建設予定地の上空を飛び回らせて調査させたのだ。かくも大きなスケールと実行力で行動すること。これこそが本来の米国型経営なのだ、と僕は思ったものだ。僕が彼を心から尊敬したからか、彼もまた僕を信頼してくれて、僕の言うことには全面的な信頼を置いてくれた。
Mr.Rahsenのダイナミックな行動力、それにバングラデッシでの英国的現場の運営は、僕のその後の仕事の進め方に非常に役立ったと考える。要するに、例え独力であろうと、考えに考えて、工夫すれば出来ないことは無い、との自信が、その最たるものであった。だから、どんな仕事が与えられても全力でぶつかることにして、そしてそれは必ず成果を生み、不思議なことに、人が嫌がる仕事は、何故か利益が大きい、ということを知った。
円高になったことと、新居浜で受注した海外案件で大赤字が続いたことで、運搬機事業部は海外案件から撤退することになり、東京部隊は、国内の新しい装置や設備の受注に注力することになった。彼等の大赤字はそもそも見積時の検討不足、例えば、米国のタコマに据付込で納入するコンテナクレーンの見積もりを、現地調査することなく見積もるとか、そもそも彼らの見積もりは市場価格にはとても及ばないのだが、ある時は突然信じられない値下げの決断、それも根拠無しの決断をして、そのような案件は凄い赤字となり、しかも、コスト管理の素人ばかりかして赤字が赤字を生み出す体質で、更に加えて円高対応での海外製作も、海外業者に振り回されての赤字増加となり、縦割り組織であることでの実行力不足が原因なのだが、もう一気に海外案件に弱気になってしまったのだ。その頃、バングラデッシでの新しい肥料設備をMSECが受注し、そこからの見積もりを僕が担当したのだが、チッタゴン肥料設備の調査で、インドメーカーが十分に信頼に足ることを調べ、インドメーカーにコンタクトすると、わざわざ日本を訪れて見積もりをしてくれ、これだと絶対に受注できると自信を持った。たが、新居浜はインドメーカーの見積もり採用を許さなかった。
本件での競合先はドイツのメーカーで、インドの業者を使っているとの情報は得ていた。これに、国内メーカー、ないしは韓国のメーカーを使っても、輸送費の差だけでも、とても勝てる筈はなかった。
更にまた、ソ連ウランゲルのコールセンター案件では、状況は違い、僕自身がまとめたコンベヤシステムについては競争力があったらしく、なんと、客先から、僕の担当するシステム部分とドイツのメーカーの単体とで共同できないか、とのオファーがあった。だが、新居浜の単体グループはこれを受入れる筈もなく受注を諦めるしかなかった。かように、頑張っても新居浜に足を引っ張られて受注に至らない案件が続いた。
新居浜の見積もりは、各部門での見積もりを集計する遣り方で、この方法だと各部門がそれぞれ余裕を見込むため、どうしても過大な見積もりになってしまい、しかも、誰ひとりとして全体の姿を把握できていないのだ。そのため、値下げの時は、常に何も判る筈も無いトップの決断に頼ることになる。そうなると、何ら根拠も無いものだから狂ったように値下げすることになる。が、結局は赤字が赤字を呼び、事態は最悪になるのが常であった。他方、僕のように、見積もりから納入までを1人で責任を持つ形で仕事をしてきた人間は、常に全体としての余裕を見ているから、値下げの限界を充分に把握している。だから無理は絶対に出来ない、が、元々が絞った見積もりを目指しているので、黒字で且つ競合に勝つことが出来るのだ。その根本的な違いが新居浜出身の指導者たちには理解できないために、僕の見積もりに対しても、臆病な対応しかできなかったのだ。結局、新居浜製造所はどうしようもない田舎の工場から脱皮できなかったわけだ。
だが、今になって考えると、後ろ向きになって行く新居浜の首脳部、特に事業部長には僕が説得を試みるべきだったのかもしれない。結果はどうあれ、一度は説得すべきであったろう。説得できるだけのネタは充分に持っていたのだ。もし説得出来ていれば、それは今から30年ほど以前であり、その時代にインドやバングラデッシにパートナーを作っていれば、そこからの発展の可能性は素晴らしいものがあっただろう。僕自身は、その頃からパートナーとしては、中国、韓国よりはインドやバングラデッシであろうと考えていたのだ。基本的にインド人やバングラデッシ人の方が好きなのだ。だが、僕は人を説得することが苦手と言うか、非情に面倒なのだ。意見の違う人間と話し合っていると、なぜこんな事が判らんのだ、との思いが先に立ってしまうのだが、今でもそうだが、それが僕の大きな欠点だろう。
でも、原則に立ち戻るなら、技術会社の事業部長や社長って、世界の動きとか技術の動向、これらに堪能で、会社をその方向に導くのが仕事じゃないのか?でなきゃ、その地位には就いてはいけないんじゃないか?とも思えるのだが。
とにかく、かような事情で、東京部隊は輸出から撤退し、国内の新しい設備や装置の受注を目指すことになり、なんとか頑張り受注を継続したが、新居浜は過剰な人員を維持できず東京部隊を解散との方針を決めた。
東京部隊は、たとえ自分たちが受注できなくとも、長い期間にわたってコツコツと客先に技術協力することで、新居浜の単体や大阪のシステムを受注できる環境を作るのも大きな仕事であった。実際に大きな案件が東京部隊の努力で受注できていた。が、新居浜の指導者たちは、東京部隊の実力や、その地道な努力を全く評価していなかったのだ。そもそも、この時代に東京から撤退して新居浜の田舎で何を目指す積りだったのか。結局は彼らは、自ら、じり貧の道を選んだのだ。
そんな有様で、世間はバブル最盛期で金が溢れる世情ではあったが、我々は、その恩恵とは全く関係なかった。新居浜の失策での、東京部隊の解散ではあるが、新居浜に疎遠な僕には行きどころが無くなり、新居浜製造所の管轄、つまり運搬機事業部からは追い出され、あの僕の先輩が創設した東京の物流部門に引き取られた。しかし、その先輩達は既に追い出された後であった。共に、あほらしい話である。
物流部門では官公需を担当してそれなりの成果を挙げていたが、特に通信システム、運用ソフト等に慣れてくると、会社初めての冷凍倉庫の受注とか、印刷局の自動倉庫とか、なかなか面白い設備を受注できるようになり、肩を叩かれる直前には、世界初のリサイクルごみの自動倉庫システムを受注した。巨大なごみ容器を扱う自動倉庫であった。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/4040/aicle/index.html
以上の経過から判るように、僕達の年代は、世界最大級の設備を作り、この技術を持って、世界に雄飛して行った時代なのだ。
かくして世界をまたにかけ、更には日本国内でも、儲け続けたのだが、会社はいつも損益が悪いと言い続けて給料を抑え、余った金を変なものに投資し、バブル破たんと共に全てを失い大赤字になり、これを、小泉改革で公然と許されることになった「肩叩きなる人員整理と、離職票を誤魔化し」で穴埋めしたわけだが、考えてみると、僕の人生で唯一の失敗、多分、多くの真面目で有能な技術者も同じ思いだと思うが、それは、井桁マークの重機械に就職したことだろう。
この「まえがき」を読んだ人の中には、僕が言いたい放題に書いたことから、井桁の重機械の組織に情けない対応を受けたのは、僕が傲慢だったからだと考える人も居るかもしれない。だが、そうではないと確言できる。今、会社との関係が全く希薄になったからこそ、かようなことを書けるのだ。結局思うのは、サラリーマンって、井桁の中では特にそうだったが、殆どの人間は、相手の能力や人柄で付き合うのではなく、相手の後ろに控える人間を見て対応しているってことだろう。だから、後ろに大物が控えていない僕のような社員は、適当にあしらうのがその会社の風土だったのだ。だが、お客さんはそうではなくて、ちゃんとした対応をする能力や人柄で接するので僕には理解を示してくれたのだ。情けない話だが、相手の能力とか人柄なんて意味ないって言うこと、それが井桁の社内組織の真実だと思う。いや、日本社会の組織そのものがそうなのかもしれない。
たは!!そんなことは誰でも知ってることで、自力だけで遣って行けると思ってた僕が馬鹿か・・なるほどね。
でもまぁ、僕自身は僕の人生を、多いに楽しんだからそれでいいのじゃなかろうか。それに、この会社に就職していなければ、今の女房との出会いも無く、その兄弟たちとの楽しい付き合いも存在しなかったことになる。これはちょっと問題だし。仕事もまた、巨大な設備を作るって、僕に相応の仕事だったような気がする。考えてみると、大学院を出てから、仕事に関しては誰に何かを教わることも無く全ての仕事を完遂できたことになる。しかも、その仕事の困難さを考えると長いタイトロープの人生だったと思わずにはいられない。
そうして、井桁マークは、無差別に人を切るとともに、僕だけではなくて、いろんな技術世界のタイトロープを渡ってきた社員の技術力、それに、同時に技術資料をも無差別に破棄することで、もう元には戻れない状態になってしまった。企業指導者の能力、企業哲学の違いが、技術者を出来るだけ温存した三菱重工との違いだろう。この違いは、結局は、人を、それに、技術を大切にするかどうかに掛かっているように思える。辞めさせる社員の離職票にごちゃごちゃ細工をするような企業は、それ以前の問題だろう。そんなことで、今や、井桁マークの重機械は、軽機械との名前が適切な会社に落ちぶれてしまった。だが、これはこの会社としては適切な道かもしれない。実は入社3年目レポートなるものを提出する習わしなのだが、それは丁度オイルショックの時であった。で、いろいろと考えて「最も生き延び易い企業とは、機器要素を造る企業だ」とのレポートを提出したが、その数十年後ではあるものの、この企業はその道を行っているのだ。技術の先頭を行く力も頭脳も、それと、何の哲学も無い企業には、極めて妥当な道と言える。それに、社員への利益配分を最小にする方向を選ぶことでも、この会社は細々とは生き続ける道を選んだのだ。
僕の技術の記録、僕が開発したFORTRANで数千行にも及ぶプログラムや、付属プログラム、それに、僕が所属し、そうして潰されたた部門の技術の一部も、放棄される時に自分の家に持ち帰り、押し入れに貯めてあるが、いずれ整理して捨てる予定だ。笑っちゃうよね。
そうそう!もういっちょ忘れていた。
50歳になった頃に、小説を書こうと考えて、新潮新人賞に応募を始めたが、2年ほどで第一次審査は確実に通過するようになった。そのうち長編を書き始め、第1作目は、ASAHI新人賞のラスト8人までに残った。更に長編を一作書いた所で肩を叩かれて小説どころではなくなった。が、これもまた面白い経験であった。おかげで長い文章も簡単に書けるようになったのだ。
そうそう、それと、2013.11.23 伊藤忠商事が、残業禁止、早朝出勤給料5割増し を実施したらしい。
実は僕は、住重時代の退職前にはこれを実践していた。外注として働いている時にもこれを実践した。主として、膨大な入札資料造りに費やし、朝7時までには出勤して夜は7時には帰ることにしていた。しかし、早朝出勤していることを知らない人には怠惰に見えたかもしれない。が、実際にはこの時間を極めて重要な作業に使い、しかも、成果を上げていたことになる。つまり、確実に時代を先取りしていたことになる。しかも、僕の場合は早朝出勤は残業も何も付かないでも頑張ったのだ。が、仕事の成果より、太鼓持ち誠心を重視する住友重機械には、これを評価する風土は無かった。
2.本文
東京八重洲発8:10のJR中央道高速バスで大阪に向かった。景観としては東名経由の方が良いのだが、紅葉の季節は中央道が良いようだ。またバスは甲府を過ぎると南アルプスを左に北上し、八ヶ岳を右に見て、諏訪湖の南端で南アルプスの先端を反時計方向に回り、中央アルプスを右に南アルプスを左に南下する。これらの光景は実にすばらしいものだ。紅葉もかなり、と思ったが、良く見ると、針葉樹林帯の立枯れかとも思えた。だが、カラマツも紅葉、落葉するので、確言は出来ないが、もし立ち枯れなら、八ヶ岳は悲惨な状況になっていると思えた。そうして、通り過ぎる麓の村々には、穏やかな、日本の原風景とも思える風情が見られた。青春18切符とか、バスの旅は、通りすぎる風景が身近で、それと、その地方の歴史の知識も思いだされて楽しいものだ。特にこの周辺は武田信玄の侵入路でもあるのだ。信玄は諏訪を平定してから。南進して伊那峡谷を、塩尻峠を北進して松本盆地、更に北上して長野盆地を平定したのだ。(彼の北上ルートとしては佐久経由でのルートもある)
南アルプスと中央アルプスの峡谷を南下して道は中央アルプスの下を抜けて美濃に入る。春日井で東名と合流して、美濃を横断、大垣、関ヶ原を抜け、琵琶湖南端を走り、山科トンネルを経て京都府に入る。この歴史に満ちた遠路をたった8時間で走行するのだからたいしたものだ。ただ、帰路は渋滞に巻き込まれて、2時間程度遅れてしまった。東名の方が渋滞は少ないのではないだろうか。とにかく紅葉も満喫して、京都深草で降り、京阪で枚方公園駅に行き、無料のGHにたどり着いた。GHまでの途上で、野菜と牛肉や牛乳などを買いこみ、焼き肉の準備をしておいた。自炊は焼き肉が最も簡単だ。
●親戚一同で、志賀を拠点に比叡山の紅葉を楽しみ、近江八幡の古い街並みを楽しんだ。大阪で生まれ育ったにも拘わらず、かような素晴らしい街並みが有るとは知らなかった。帰路、関東の親戚たちは女房に任せて僕は京都府立植物園の紅葉を楽しんでからGHに戻った。
●大学の同窓会が広島空港の空港ホテルで開かれ、JR大阪発8:20、姫路、相生、糸崎乗換で、白市着13:56の列車の旅を楽しんだ。紅葉と美しい村々、歴史の道筋、全てが楽しい旅だった。和気駅手前には、和気清麻呂の碑を見つけた。てっぱんの尾道も通過した。帰路、鈍行が三原駅に着く前に、駅弁なんとかと書いた武者旗を掲げた一行が乗車してきて、その中の少し太めの40歳前後の男が、列車の前の席からインタビューを始めた。てっきり駅弁の宣伝かな、と思っていたが、僕の席の前に座って、僕にインタビューを始めた。完全な大阪弁で、なんで広島で大阪弁なんや、と奇妙に思えた。
「僕が誰か知ってますか?」と言うので、
「さぁ、知りませんね」と答えると、後ろに立った若い女性が写真を見せた。後で名前は知ったが、整いました、の相方の方であった。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://talent.yahoo.co.jp/pf/profile/pp290873
次いで
「夕方ネットワークって番組知ってますか?」
って質問されたが、広島のテレビなんて知らんなぁと思いながら、
「しりませんね」
と答えたが、NHKの全国ネットだと教えられて、そう言えばちょっと聞いたことあるか、と気づいた。
あと、インタビューが続いたが、インタビューのテーマが判らず、面白いインタビューにはならなかった。多分カットであろう。これからは常にインタビューがあることを予想しながら旅をすべきであろうか。
そんな馬鹿げた出来事もあったが、なかなか楽しい帰路であった。
●肥後橋の会社クラブでの物流部門のOB会に出て、大阪時代の懐かしい先輩達との楽しい会話を楽しんだ。井桁マークからの退職は物流部門の時であったが、その退職時には、そこに居た先輩たちは既に物流部門には居なかった。しかし、物流部門は、僕が大阪に来た時に、浜松のコンベヤの仕事で、僕を一度だけ打合せに連れて行き、全てを僕に放り投げた先輩が創設した部門で、当時は一緒のビルで仕事をしていたのだ。それに、物流の創設者のもう一人が、米国出張になった時に、なぜか、彼の仕事であったスタッカクレーンの開発設計が僕に押し付けられた。その創設者はA1サイズの計画図1枚を僕に渡して、そのまま米国に一カ月以上行ってしまった。後に残った僕は、製作を急ぐので、土曜日が出勤日の時代に、月200時間の残業をしながら、しかも、女房とのデートを週に1~2回はこなしながら仕事を続けてこれを果たした。つまり、2人の創設者の両者共に、僕に仕事を押し付けたって過去があるのだ。かくして、日本でも最初の自動倉庫のスタッカクレーンは僕の手で設計されたことになる。そんな関係もあり、その先輩たちの会合に僕は参加できたのだ。
僕を浜松に連れていった、もう一人の物流創設者の先輩もそこに参加していて昔話に興じた。技術に優れた彼等2人は、他の会社に就職していれば、必ずや会社の重鎮となるような人材であったが、井桁に就職したものだから、僕よりは出世したものの、彼等の能力に見合うだけの出世は出来なかった。が、しかし、そんなことは全て忘れて、昔の思い出を楽しんだ。
翌日は、彼等の数人と一緒に、法隆寺と唐招提寺を訪れて、奈良の秋を楽しんだ。
ところで、僕を浜松に連れて行った先輩は、井桁ナークの会社で、僕の特許申請数が2位であった時に、彼が1位だったことを付けくわえておきます。
●全ての予定を終えて、京都深草からJRバスに乗り、来た道を東京へと戻った。
疲れはしたが、時間に縛られることのない、楽しい足掛け12日間の旅を終えた。それと、僕の宿泊したGH、つまり大阪を拠点とすれば、中国地方、岡山、倉敷、広島は、かる~く青春18切符の行動範囲であることを知った。海外旅行も楽しいが、これにも大きな意義がありますな~。しかも焼き肉料理の腕も上げ、ついでに、企業年金も無い僕としては、一日1000円程度(これってインド生活以下ですな)の旅を過ごせる自信も出来たし・・・
帰ってから、ゆったり鉄道の旅「東海」って本を手に入れたが、僕が何故、青春18、つまり鈍行の旅、それにバスの旅が好きなのかが判ったような気がする。残る時間をもっともっと、知らない風景をゆっくりと楽しもうと思った。それを楽しむ機会が僕にはあるってことだ。
さて、明日は家の手入れだけど、家の手入れや海外旅行の計画も着々と進めて、です。
追記 これが住友重機械の本性です。
住友重機械工業(本社・東京都品川区)の横須賀市や横浜市の工場で勤務していた菱倉康彦さん(当時73歳)が肺がんで死亡したのは、会社がアスベスト(石綿)対策を怠ったためだとして、妻の節子さん(80)が3522万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が18日、横浜地裁横須賀支部であった。
杉山正己裁判長は会社側の責任を認め、2750万円の支払いを命じた。
判決などによると、菱倉さんは在職中の1977年、じん肺の診断を受け、定年退職後の98年11月、同社から補償金298万円を受け取り、今後は何ら請求しないとの念書を取り交わした。2000年8月に肺がんと診断され、同9月に死亡。01年に労災認定を受けた。
同社は08年4月に補償規定を改定、アスベストが原因の肺がんで死亡した従業員が労災認定を受ければ、遺族補償2000万円を支給する制度を設けた。
同社は裁判で、菱倉さんがその後の死亡を含む損害賠償請求を「念書によって放棄した」と主張。肺がんとアスベストの因果関係なども争点となったが、判決は原告の主張をほぼ認めた。
判決後、記者会見した節子さんは「夫は喜んでくれると思う。会社は争うことをやめて償ってほしい」と語った。一方、同社の代理人弁護士は「判決の内容を検討し、会社と相談して対応を決めたい」と話した。
例の如く、前書きが長いので、これを飛ばして本文に行くも、全く読まないのでも、いずれでもOKです。
毎年、女房方の親戚が集合して旅をするのだが、今年は志賀、比叡の紅葉見物となった。その後、大学の同窓会が広島であるので、これもついでに行くことにして、更に、会社の部門OB会が大阪であり、これも行くことにした。
実は会社全社のOB会もその頃にあるのだが、長年頑張り続け、担当したプロジェクトは工夫と努力で生涯黒字を維持して、その為には宮沢賢治も驚くほどに、祝日、休日も休まず、雨の日も風の日も拘わりなく、私利私欲には一切走らず、必死で多いに儲け続けたにも拘わらず、ある歳になったら、途端に肩を叩かれた。それも、昼食を食べようと弁当持って歩いてる時に、高校の先輩ではあるが、文系で技術は全く素人で、誰の引きか、ぽっと移って来たばかりの部門長が、立ち話し1分で、しかも管理職は断れんのや、との脅し付きの肩叩きであった。誰でも彼でも55歳になれば肩を叩くって時期ではあったが、個人的には受注が続いていた時期で、それは無いだろうと思っていたが、そこまで会社の状況が悪いのなら仕方が無かろうと退職を決意した。ただ僕の担当していた仕事は当然ながら続けねばならない。そこで、外注としては働きを続けるとのことで、管理部長が以後の仕事の継続の仕方の説明をしたが、その際に、「事業部長はあっさり辞めてもらえって言ってるのだけど・・」と、これが生涯頑張って来た先輩に対する言葉かと情けなくなった。当時受注した案件で一緒に働いた環境施設の人に、退職するとの話をすると、なら、一緒に働きませんか、と声を掛けられて、環境施設で外注として働かせてもらうことになった。さて、退職間際になっての説明会で渡された離職票には、「自己都合退職」と書かれていた。これって中小の、しかも、その中でも特に悪徳企業の遣り方やないか?と、「ちょっとこれは井桁マークの重機械メーカー(後、面倒なんで、はっきり言うと、住友重機械工業 略称 住重)としてはなぁ」と抗議したけれども、会社側には無視された。通常の人情であれば、会社の都合で辞めて行く人間には、少しでも良い待遇で、と考えるのが同じサラリーマンの思いであるべきが、そのような人情さえ無い会社であったのだ、と会社生活の最後の土壇場で、とても悲しい思いを与えてくれた、そんな会社のOB会に出る気はしますかね?この問いに対する答えは人により異なりますが、僕の場合は、例え、飲み食いタダでも、出る気にはなれないって言うか、ここはパスってことで済ませることにしたいです。それにしても、そんな扱いをした退職者に、OB会の招待状を出し続けるって会社も奇妙な存在ですよね。しかも、大学の同級生が「そんなあほな!財閥系ともあろう会社が!」と誰も信じないのだが、この会社には企業年金がないのだ。そのような事情で、この会社と僕の繋がりは、抑え込んではいるが、時に、ふっと思い出しては嫌な気分になる僕の胸の内と、1年に1度のタダ飲みのお誘いのハガキだけとなっている。
とにかく、かような事情で、無料飲み食いは、意地って面倒なるもんの都合もあって、これをやめて、自分の腹を痛めての全て有料の飲み食いに参加することにはしたのだが、旅行原資を有効に使うためには、つまり腹の痛みを少なくするために、東京-大阪の往復はバス、でも健康の為にも、安い夜行はやめ昼間高速で往復して、大阪の無料宿泊場所、ここは個人的に使えるGHみたいなもんで、ここで自炊若しくは外食して、大阪から広島は鈍行で往復って旅程を計画した。で、金銭的には貧しい旅行ですが、時間的、精神的には豊かな旅になりそうです。結局、スケジュールは11月9日から20日までの旅になる。
他方、女房殿は別行動で親戚一同を引き連れて、新幹線をひかり先得きっぷでの往復てすね。
ところで後になって気づいたのですが、「離職票を自己都合にした」のは、退職金の割り増しを防ぐ手段だったのではないだろうかってことです。これが事実なら、その重機械工業は、悪辣どころか、卑劣としか言いようの無い会社ですね。先にも書いたように、会社の為にと辞めて行く人間への配慮なんて全く無く、むしろ、そのための経費をいかに少なくするかとの、これが人事や総務の作戦だったのでしょうけど、これを実行したのが高校の先輩だったって、これは悲劇のストーリィに入ります。いや、これを喜劇にするのが大阪人の真骨頂とすべきでしょう。肩を叩かれたから、僕が自分で探した就職先、と言っても別の環境施設事業部の外注として使ってもらったのですが、ここは僕の技術力を評価して使ってくれたので、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。ところで、そこでも何件か受注を果たしたのですが、それも、1件20億程度を数年間受注したところ、僕の肩を叩いた後に、元の事業部から天下りで子会社の重役として行った、その先輩が、僕の受注した案件の部分的発注を僕に頼んできました。これって喜劇でしょ?僕はその仕事の、その会社への発注は邪魔も支援もしなかったですけど、かなり厳しい値段で受注してました。
ところで、そんな先輩の居た、天王寺高校のOB会や同窓会の誘いにはどうすべきでしょうか?
そう言えば、これも喜劇なんですが、技術家である僕の肩叩きについては、当然、その後の仕事に支障がないかどうかは、僕と一緒に働いていた営業部門に確認して決めた筈ですが、肩を叩かれた後、僕がもう別の所で働いている時に、元の事業部の営業課長がやって来て、「コンテナクレーン基地の物流シュミレーションが必要なんだけど、やってくれんか?」と頼まれたのだが、心情的には遣る気は毛頭無いし、それにそもそも、もう既に別の事業部の世話になっている身としては、当然ながら断った。これに対して彼は、「君は、君が長く務めた事業部への愛着はないのか!」って怒っていた。
これって、不可思議な論理ですね。肩叩き先輩も事務家さんだけど、事務屋さんって頭のネジがおかしいのかな、と思いました。
そうそう、僕に嫌味を言った管理部長だった男、この男も部門長と一緒に同じ子会社に移ったようですけど、その元管理部長に、先日、ユーカリが丘の東邦病院で会ったので挨拶はしたのだが、何か不機嫌そうに挨拶を返しよりました、が、何で奴が僕に不機嫌なんだろうか?これって逆切れじゃないか、と頭をひねりました。これも、かなりの喜劇じゃないですか。つまり、世の中って変な人ばっかり、って言うか、むしろ、井桁マークの重機械って、変わった人ばかりじゃないかと笑っちゃいます。ねっ!充分に喜劇になりましたよね。
個人的な経験や感情は別にしても、住友重機械工業だけど、今から思うととても変な会社だった。技術が重要な業種なのだが、技術とか技能に関しては殆ど留意しない、と言うか、そんな余計なことに拘泥しない方が望まれるように思えた。実際の所、自分の担当する技術に打ち込むような人は先ず出世できない社風だ。
僕はと言えば、残念ながら技術に拘泥するタイプで、僕の専門は長距離コンベヤだが、一般的コンバヤも含んで自動設計できるプログラムで、コンベヤの屈曲点の位置情報、搬送能力情報等を仕様入力すると、部品レベルまで算出するプログラムを土曜、日曜、休日を費やして、個人的に開発した。いかに人を掛けないで、しかも最適な装置を設計するかが、企業競争の鍵だと思ったのだ。これが三十代の、ほぼ一年で完成し、その頃東京の見積部隊に転勤となり、このプログラムは更に有効に使えるようになった。後は、時々プログラムを改良し続けた。このプログラムを使うだけで、100億円程度の案件も1人で見積もり出来るようになった。東京に転勤してから自分だけで使うのではなくて取扱説明書も作って課内、部内に配布したが全く反応がなかった。それどころか、部内で、コンベヤシステムの見積プログラムを、これは多額の部門費を使って開発しだした。だが不思議なことに、開発者はコンベヤの実施設計をした経験の無い人間が選ばれた。実は、この頃、いろんな製品の見積もり方法として、詳細設計では無く、過去の実績からの推測方式がブームになっていて、この方式を採用したものと思われる。だが、そのような見積もり方法には必ず限界が存在する。あるレベルまでの見積もりは出来たとしても、激烈な競争下での最後の値決めに使える筈はない。そのような状況で、そのプログラムを使えば、最後には賭けになってしまうのだ。他方、僕のプログラムは設計プログラムそのものだから、詳細設計を元にした見積もりとなる。しかも僕の設計能力は人並み外れて有能だから、それを元にした設計は最適そのものである。そんな当然の事がなぜ判らないのだろう、と不思議で仕方無かった。特に重要なのは、受注した時点で、実行予算を作ることが重要だが、僕のプログラムでは、実行予算そのものが殆ど出来ているが、推定方式であれば、見積もりとは全く別に実行予算のための作業を開始しなければならないのだ。結果として、部長が栄転して、大金を掛けて開発されたプログラムは誰も使わないままに朽ちてしまった。この事に限らず、多くの技術的改革が同じような結果をたどった。
全社に亘って、ゼロデイフェクトから始まり、バブル頃にはTQCとか、手法そのものには意味があるとしても、その実際の適用方法が、極めて一時的と言うか、あきらかに時間の無駄ってわけの判らん手法での業務改革が取り入れられ、誰もが熱病の如くにこれに熱中しだすのだが、責任者が替わる度に彼の採用したテーマは消えて、熱病が冷めて、新しい責任者がまた新しいテーマを立ち上げる。先を読んで、最終的成果で評価されることはないと、これに積極的に応じる人間が評価され出世して、批判的な人間は左遷されないまでも無視されるのだ。つまり、業務改革手法は、ただ単に忠誠心で人を選別するシステムになっているのだと、そんな単純な事が判らなかった僕が馬鹿だったのだ、と今になって気づいた。つまり、何か花火を、例え、あっと言う間に消え去るテーマでも、派手にブチ上げて忠誠心を示さねば駄目だったのだ。
しかし、業務改革的手法について言えば、ひととき、とは言え何年にも亘って、日本中が、傲慢にも日本的TQCなるものに熱狂しまくり、大学の先生方の多くがTQC指導員として高額の報酬を得て企業の指導と只の飲み食いに走り回り、バブル崩壊と共に、これも崩壊した。その後は、小泉改革と欧米的経営で、社員の整理が当然のこととして行われた。僕の悲劇も、その成果のひとつだったのだが、米国やバングラデッシでのプロジェクト、据付経験から、日本的TQCより欧米的経営の方が効果的だと知る僕には、いささか皮肉な結末でした。しかし、今の日本の経営者達は、あれほど日本的TQCに熱中したにも拘わらず、これを一気に放棄して、更には米国型経営の悪いところばかりを追求しているとしか思えないのですけどね。
とにかく、そんなこととは無関係に、僕は着々と受注し儲けていったのだけど、そんなのは通常の業務だから評価の対象とはならなかった。
ところで、僕が専門馬鹿かと言うと、そうでもない。と言うのは、僕が大阪で所属した部門での仕事は、設計だけではなくて、プロジェクトの見積もりから納入まで、しかも、採算責任を持つ仕事であったから、プロジェクトでの金もうけには、充分に実力を発揮したし、国内だけでは無くて海外での据え付け業務や採算管理でも成功している。僕の設計、ないしは見積りした設備は、何件か、それも世界最大級のものも、ネットで見られるし、それに、対外的技術活動としては、産業機械工業会で、JISベルトコンベヤの設計基準作りでもかなりの活動を果たし、そのJISには名前も載っている。それと、この活動と並行して、勿論本来の実務としてのプロジェクトをこなしながらも、海上土木協会なるものの活動に参加して、後の、関空の土木工事受注のための活動に従事した。さらには、ずっと後になるが、日本機械学会物流部門のまとめ作業も経験したし、そこでは、かなりの力を発揮したと自分では思う。今ではあちこちで使われ平凡な言葉になったが、当時としては新鮮だった、機械学会の「進化する物流機械」って標語は僕が作ったものだ。
業務改革についてだけど、社内の熱病的改革活動には批判的だけど、会社をやめる頃になって判ったのだが、特許・実用新案申請数では、僕は社内2位だった。それに、改善提案数も社内有数であったに違いない。特許とか業務改善って日々の仕事を工夫していれば自然と出来て行くものだが、殆どの管理職、それに、指導者層は、そのようなことは人に遣らせるので、そのために、どこかの部門から人を引っ張ってくるのが有能な管理職だとみなされるのかもしれない。その評価観点からすると、僕は、結局は、井桁マークの重機械会社の社風に合わないと言うか、それに、僕には理解しがたかった「忠誠心選別方式」なるもので振り落とされたと言うのが実情だろう。
それに、会社の利益のことは一生懸命に考え実行したが、自分の利益は守れないどころか、会社の悪辣な手段に翻弄され、最低の条件で放り出されたってことは、こりゃやっぱり専門馬鹿なんでしょうかね。でも、会社が酷過ぎるんじゃないだろうか?
かなり脱線したが、話題を旅に戻して、「行ってきます」をここまで書いたところで、人生そのものが長い旅だと言うことに、今更ながらも思い至った。言い古された言い方だが、その言葉の意味は、その人生の終焉に近くなって初めて理解出来るものなのだろう。いや、より感性の高い人なれば、もっと早く理解出来たのかもしれないが、残念ながら、それは断定的に言えることなのだが、僕の感性はそれほど高度なものではないのだ。
河内の、周囲を田んぼに囲まれた疎開住宅地に生まれ育ち、歳と共に大阪府内を転々と移動して、その後一気に、これも当然だが会社都合なるもので、遠路はるばる移動して千葉の社宅に移り、今は千葉のまんなか辺りの自宅に住んでいる。これらのこと自体が人生が旅であることの証のような気がするのだ。
ただ、千葉に移ったことについては、今になって思うと、新しい経験を得られたと全く後悔はしていない。それに、かって済んだ田んぼに囲まれた疎開者住宅は、今や住宅に覆われた醜悪な地域になっていて、むしろ今の場所の方が自然に満ちているのだ。少なくとも、僕の人生の間はまだ自然が維持される程度の破壊の速さと思えるのだ。自然の面白さを知らない人にはこの感覚は理解できないだろうけども、これは僕に取っては極めて重要なことなのだ。
大阪平野の南、東西を葛城山脈と上町台地に挟まれたエリヤを河内平野と称するが、かって、古墳時代ごろには河内平野から北、つまり大阪平野の殆どは入り海になっていた。その海岸線が河内松原辺りで松並木があり、それ故にそこは松原と名付けられたのだ。僕の子供時代の河内平野は、所々の丘に村があり、僕の住む疎開者住宅は、丘に挟まれた低地にあった。住宅地の南側を狭山池からの西除川が流れ、住宅地を過ぎた辺りで流れを南に替えて、大和川、それは住宅地からはかなり離れてはいるが、東から大阪平野を横断して大阪湾に注いでいて、これに西除川は流れ込んでいた。川は住宅地よりも高い位置を流れていて、普段は穏やかに所々で美しい淀みを造って流れているのだが、大雨や台風の度に水が溢れだして、水は大和川への近道として住宅の中を激しく下って行った。住宅地は洪水に襲われ、その時には家の前を魚や蛙が泳ぎ回るのさえ見られ、親たちにはいまいましい、かような事態を、僕たち子供はこれを楽しみにしていた。
住宅の外を見渡すと、丘にある古い村々の方向を除いては、遥かなる山系の彼方にまでに田畑が続いていて、秋の台風の去った後には、彼方にあるべき山々が声の届きそうなほどに近くに見えたものだ。僕は思うのだが、おそらくそんな環境で育ったものだから、人の組織の中を、要領よく泳ぎ回ることは余りにも至難となったに違いない。
人との付き合いでは要領は悪かったが、自分がこれから何をすべきかについては、それが結果として良かったのかどうかは別にして、自分を厳しい状況には落ち込ませないとの本能には優れていたようだ。小学校ではきちんと宿題をするだけでずっと優等生を続けることができたが、ただ、4年生のクラスに朝日新聞の論説者を父に持つと評判の、特別優秀な岡明人って秀才と一緒になり、これは優等生から滑り落ちたなと覚悟したが、彼はやはり特別らしく、僕は彼よりも一段下だが優等生を保った。最近、彼の名前でググルと、朝日新聞の科学系の論説者として活躍しているのを見つけた。僕が一目を置いた人間が、何かを成し遂げたって嬉しいことだ。
話を元に戻して、中学校に入って直ぐに高校入試のことが心配になった。英語の先生が文法のことを説明なしに一気に授業を進めていったことがその最初の原因だった。引っかかったのが、be動詞と普通の動詞をどう使うかが理解できなかったことで、頭は混乱状態になった。だが、何かのきっかけで、be動詞は形容詞と組み合わさり、動詞とは組み合されない、と気づいて、それからは一気に英語の理解が進んだ。この経験で、勉強の先行きのことが心配になり、それも3年間の勉強分が高校入試に出るって事態に気づき、その大変さに恐怖を感じた。そこで考えて、授業のノートのページの1/3の所で折り曲げて、そこに毎日の授業分を、その折り曲げた所に質問として書き、毎日電車での行き帰り、それも帰りは殆ど友人と一緒にふざけまわっていたから、行きの20分程度をその復習に割いた。また、手のひらに入る程度の漢字帳を買ってこれも同じように勉強した。
定期テストの勉強は殆どしないもんだから、定期テストの結果はいつも7番程度だった。朝は家を6時30分には出て、学校に着くと7時過ぎで、それから友達と始業時間まで遊ぶ毎日を過ごしたが、3年生になってから行われた実力テストでは、成績は公表されないのだが、教師からの暗示では成績はかなり良かったらしい。そのため、進路選択で、最も難関な天王寺高校って学校を希望したらあっさり許可され、入試もなんなく通過した。受験技術が進んでいない時代は、この程度の工夫で簡単に優秀校に入れた時代なのだ。高校に入り、中学と同じように友人と遊ぼうと学校に7時過ぎに着いたら、まだ門が閉じられていて、門をよじ登って校内に入った。この出来ごと一度だけで、高校生活には、早朝に友人たちと遊ぶ習慣は無いのだと気づいた。
1年間は何もせず、土曜日には学校の帰りに映画をみて過ごした。当然だが成績は高校1年生の多分600人の末尾に近かった。だがやはり生来の臆病心が蘇り、2年になった時から1年2年の教科書をここからここまで、と勉強の予定表を作った。やはり、定期テストは無視して長期計画である。計画実行の為にはTVが邪魔だと、学校から帰ったら直ぐに寝て、TVの終わる11時頃、当時TVは11時~12時には終了だったのだが、その時間に起きて3時、4時まで勉強することにした。さすがに参考書も必要になり、数学は矢野健太郎、化学は化学精義を使った。矢野健太郎は、後の教育行政では誤った道を進んだが、彼の参考書は非常に役に立ったし、化学精義は、これは、自分を磨くに最高の参考書だった。物理は教科書だけで充分だったが、不思議なことに、結局、僕の人生、勿論、仕事を進める上での知識としては、この物理の教科書の理解だけで殆どの問題を解決できた。受験に関するこの勉強法は、3年の12月半ばまでで、それからは普通の生活に慣れるように体調を整えるだけに過ごした。
ところで成績だが、定期テストは、一気に中位程度になり、クラス担当を驚かせた。が、3年になり実力テストがあり、これは廊下に貼り出される。初回は60番程度で、2回目は、張り出された最後の落ちそうな所に名前がで友人に笑われてしまった。が、12月の最終回では一気に2番になった。クラスの友人たちはそれには何のコメントも発しなかったのだが、どう考えていたのだろう。
ところで、その時一番となったのは、中野みつ子って女性であった。かくして、一番となるチャンスをこの女性に阻止されたのだが、怨むなんて気持ちは毛頭ない。先日、偶然、彼女の結婚後の姓を知ることがあり、早速、yahooで検索すると、化学関係でかなりの成果を上げていると知った。が、やはり、学生時代に一目置いた人間が、どこかで頑張っていると知ると気持ちが良いものだ。ところで、小学校時代のライバルと言うより、あいつには勝てないって思っていた岡も同じ高校に進んでいて、実力テストでもやはり僕の上位を続けていたが、この最後のテストだけは僕が彼を追い抜いたことになる。これは誇りにしてもいいことじゃないか?しかし、今なお彼を尊敬する気持ちに変わりは無いのだが。
人生2番手と言えば、僕はもうひとつ変なことでも2番手になった。受験勉強しながら、これでは体に悪いと、家の勝手口にちょうど懸垂運動に手ごろな門があり、暇が有ればこれにぶら下がっては牽垂をした。学校でも昼休みには鉄棒で懸垂や鉄棒運動に取り組み、小車輪までは簡単に出来るようになった。その頃、体育の時間に体力測定があり懸垂の回数を測定したのだが、記憶では33回程度は出来た筈だ。この全校成績が廊下に貼り出されたのだが、このトップは俵って、名前通りに体格頑丈な男で、2位は僕であった。この時も級友たちからは何のコメントも無かった。かような事情で、僕の体は、サイズは普通だが、腕の筋肉は太く、腹には筋ができたような体になった。体は軽いから普通に立った姿勢から体を曲げて腕を地面に置いて、ゆっくりと逆立ちが出来るようにもなった。この後、人生ではまともな運動をすることは無かったから、この時に造り上げた体力で後の人生を過ごしたことになる。
ところで、結局僕がどこの大学に進学したかだが、当時は、就職に有利な学科として、機械工学科の機械、電気、応用化学が御三家と称されていた。臆病者の僕は、地元大学の機械工学科を希望したのだが、担任は「たまたま実力テストが良かったといっても、あそこは無理だ」と、レベルを落とすようにと指導した。今であれば、その教師の気持ちは判るのだが、当時は、前後左右とかを考える心の広さは無く、将来の就職ってことばかりを考えていた。そのため教師の助言を振り切って、その大学の機械工学科を受験した。
試験では得意な筈の化学で実に馬鹿げた失策をした。「下記の条件に合う物質の化学式を示せ」との問題で、化学得意の僕には余りに簡単な設問で、裏を読み過ぎて、分子式を各分子毎の組成にまとめてしまったのだ。家に帰りそのことに気づいて愕然となり、そのため、受験は完全に失敗だとあきらめていた。が、一週間後か10日後の、中之島での受験結果発表の表示を見に行くと、なんと、僕の番号があった。茫然として、電車に乗っていったん帰ったものの、そんな馬鹿なことがある筈はない、と、もう一度電車に乗って中之島まで行った。が、やはり、僕の番号はちゃんと載っていた。
かように僕は臆病なだけではなくて、ちょっと抜けてはいるが、とても用心深いのだ。この性癖は、会社生活でもそうであったし、今でも完璧に残っている。
大学では何を考える必要もなく、遊ぶだけ遊んだって言っても、自転車で紀伊半島を一周するとか、大峰山から熊野まで歩くとかで、休みごとを過ごした。概ね友人と一緒の行動が多かったが、単独で大隅半島を縦断して、台風で荒れる海を屋久島に移動したが、2等船室の入口から波が流れ込む様には驚いた。ところで、自転車での紀伊半島一周のちゃちな紀行記を犬養先生の講座のレポートとして出したが、単位を下さった。まことに申し訳ないことをした、と後悔しきりだ。これのみでなく、もっといろいろ勉強できた筈なのだが、そこまでの自覚が不足したのだ。
会社に就職するよりは大学院の方が楽だと修士に進み、流体力学の村田研究室に入った。横断流送風機(今では電車の多くに、空調送風に採用されている、車内長手方向に長い風車を持つ送風機)の流れを研究した。この送風機は、送風機内部に渦が出来て、羽根車の一方向から他方に空気が流れ、その流れ方向は羽根車の外側に置くケーシングの位置で決まるのだ。教授に送風機内の流れ関数を作れと言われ1週間ほど考えたが、解法が全く判らないので相談すると、一晩で「こうすりゃいいのでは?」と基本的な考え方を示された。その解法は殆ど忘れてしまったが、複素関数平面のⅩ軸に対象に吹出しと吸込みを置くと、当然、流れは吹出しから吸込みに流れる。これを通常平面に変換すると、Ⅹ軸は円となり、円内の吹出しは強制渦になり、円外の吸込みは逆方向の強制渦になる。ケーシングの位置変化で渦の位置が決まると考えれば、この送風機の流れは計算式で再現されたことになる。学生時代にはこの解法を数式で追うだけで、このような考え方では理解できなかった。歳を経ると、物事を数式で追うのではなくて、ごく簡単な現象での表現で理解できるようになる。会社での技報委員や、機械学会物部門でも、自分の専門外の文献を査読することが必要な時には、このような形而上的な思考順序であらゆる技術を理解出来るようになったが、まだ若い時には、このような思考は出来ず、教授の能力に恐れ入ってしまい、2年間の修士生活を終えると、学生を続けることは断念して就職することにしたのだ。
ところで、最近、その研究がどうなってるかをNETで調べると、僕は積分の流れ方程式を数値計算で解いたのだが、僕の後継者が、方程式を解いて研究を継続していた。流体方程式を解くってことは非常に困難なことであり、これには驚いてしまった。更に彼の機械学会論文集の論文では、僕の名前も書いてくれていた。
なお、当時の計算機を使っての数値計算は、全くの機械語を使っての演算で、なが~いテープに穴をあけて、実に膨大な労力を要するものだった。ただ僕はかような数多くの変数を頭にしまいこんで、これを必要に応じて引っ張り出しては演算プログラムを作り、変数を再び頭にしまいこむって作業が得意で、先に言ったコンベアの計算プログラムではこの能力を十二分に発揮したのだ。
この頃、就職先の決定では、特に学科御三家では、どこでも選び放題なのだが、僕は言うなら最低の企業を選んだことになるが、これは充分に就職先を調べなかった自分が悪いとしか言いようがない。誰をうらむ事も出来ない。ただ、社員や技術者への待遇や、会社の精神的風土は最低だったが、仕事としては実に面白かった。恐らくこれは、ややこしい仕事は文句を言わない人間に押し付ける、って風土、や、それに、その会社の古い組織から離れた所で仕事を出来て、好きなように出来たことによるのだろうと思う。がしかし、古い組織から離れていると、いくら成果を挙げても会社のうまい部分を食うことは出来なかったってことだろう。
僕の就職した会社は、元々の本拠は新居浜で、就職の最初も新居浜での仕事だった。僕の最初の上司は、その最初の日に走行式水平引込型クレーンの全体計算書を渡し、この旋回部分を設計せよ、と命じた。さて、大学ではクレーンは天井クレーンの事しか教わったことはない、それも、クレーン鉄骨のクレモナ線図を書いただけだ。旋回装置なんて皆目見当もつかない。僕はそのまま会社の図書館に行って本を探すと、ソ連の設計者の書いた本、当然日本語に翻訳されたものだが、これを見つけ借りてきて、一週間ほどで計算して図面に書いた。まるで戦車みたいな旋回部分になってしまった。が、上司にこれを見せると、「図庫に行けば以前のクレーンの図面がいっぱいある。それに、計算基準はこのファイルだ」と渡してくれた。最初から言ってくれればよかったのにと思った。だが、以前に誰かが設計したり標準化したりしたものを設計するのはこれが最初で最後だったような気がする。自分から望んで、古い組織の新居浜から出て、大阪に移ってから以降は、殆ど、自分で見積り受注して、これを設計して予算管理と、日々身を粉にして働き、工夫し続ける仕事ばかりとなった。特に、縦割り組織の新居浜から離れ、プロジェクト全体を見るセクションに移ったことで、実に面白い仕事を出来たと考えている。
新居浜での仕事は6ヶ月程度で、それも図面台の前だけの仕事であった。しかし設計的には、旋回車輪軸のきしり運動の解析とか、前後動するクレーンブームの吊下げた荷の、旋回時の動きとか、面白いテーマも解析できた。その頃、設計部長、この人は僕の尊敬する人で、他にも僕の上司で尊敬する人も居たのだが、そんな人は、肩を叩かれた僕よりは出世出来たものの、その能力にふさわしい地位にはなれなかった。とにかく、その設計部長にスカウトされて大阪に転勤となった。行った翌日には、そこで上司となった技術者に連れられて浜松に設計打ち合わせとなった。何本かで全長3km程度のコンベヤの設計打ち合わせで、客先を前に広げた図面で、初めてベルトコンベヤとはどのようなものかを知ったのだ。ところが打合せを終えて大阪に帰ると、その上司は「僕は、もうコンベヤ担当をやめて、自動倉庫って物の開発を始める。だから、後は1人でやれ」と宣言して、その件に関するファイルを全て僕に渡してしまったのだ。嘘だろと思ったが、それは嘘ではなくて、その仕事は僕1人ですることになった。仕方が無いので、梅田の本屋旭屋に行きベルトコンベヤの本を探すと、今回は幸いなことにロシアの本ではなくて、日本語の本で、「ベルトコンベヤの設計と管理」ってかなりまともな本を見つけて買った。これを夜遅くまで勉強しながら設計を続けて、一週間後の客先打合わせには1人で行った。客先の住友セメントでは井川さんて課長が待っていて、「あれ?XXさんは?」って聞くので、「え~っと、XXは別の仕事に移りました」って答えた。「え~!本当ですか!」、課長は非常に驚いたものの、別に文句は言うことなく、しかしながらも、とても不安そうな面持ちでの打ち合わせとなった。それからは東京に転勤するまでベルトコンベヤ設備一筋に働いた。何事も調べておくと役立つって経験だが、「ベルトコンベヤの設計と管理」を勉強しながら、ベルトコンベヤの世界中の文献を私費で収集した。ドイツ語の文献が圧倒的に多く、これらをかなり勉強した。後年、産業機械工業会が、通産省工業技術院の依頼(と言うか、欧米圧力をかわす為)でJISのISO化をコンベヤ委員会でまとめたが、ISOはドイツの文献そのままのデータを元にしていたので、収集した文献は200%の効力を発揮して、ISOのそのままのJIS化ではなく、充分に吟味した上でのISO化であった。文献や実機調査の結果として、旧JISの方がISOよりも遥かに簡単で、効果的な規格であると確信できたのだが、残念ながら政治の流れにはいかんとも抵抗できなかった。
ベルトコンベヤって例えば僕が28歳で納入を終えたのがこれで、
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.from-a.jp/sansaku/fs7_sumikinn.htm
真ん中右側の写真の、紫色の線で示された、地下を走る12kmのコンベヤだ。これは、山元で採掘した石灰石を1000t/h程度の能力で、セメント工場や、港の船積み設備に送る設備なのだ。
八戸鉱山では、長距離コンベヤだけではなく、採掘した石灰石を地下100m程度から地上に送る設備、港での船積設備なども設計したのだ。この設備は騒音、振動対策を非常に重視した設備で、特に長距離コンベヤは地下に施設されている。このため、全長が12kmにも達するのに、殆どの八戸市民さえもが、この設備の存在を知らないのだ。
後年、お世話になった本、「ベルトコンベヤの設計と管理」が新刊となる際には、その長距離コンベヤの騒音対策の項で、その多くの下書きを僕が書いたし、その複数の著者の中でも特に主要な一人である、加藤竹雄さんとは、産業機械工業会の委員として御一緒することが出来た。
八戸の設備計画は、僕が25歳の時に始まり、住友系の各社、つまり住友石炭、住友セメント、住友金属、それに、鹿島建設や明電舎と僕の所属する重機械が集まる打合せ会で、僕が技術説明するのだが、さすがに足が震えたものだ。各社の人から見れば、あまりパッとしない、学生みたいな僕をよくまぁ容認したものだと、今になってみると感心するのだ。だが、最近、当時作った技術資料を見る機会があったが、我が事ながら、見事に吟味検討した資料を提出していた。ただ、いつもそうなのだが、僕の技術的資料に直接触れるせいか、外部の人の方が僕を良く評価してくれたようだ。住友セメントや八戸石灰の人の恩義は今でも忘れることは出来ない。それに、一緒に活動した産業機械工業会の人や、機械学会物流部会の人々にも本当にお世話になったと考えている。そして、それは、それぞれが楽しい思い出なのだ。それに、米国のガルフでの石炭ターミナルの建設とか、バングラデッシのASHUGANJI肥料設備の建設でも、何故かぱっとしない僕を応援する人が出来て、苦労はするものの、その苦労は評価されて無事仕事を終えることができた。
僕の働いたASHUGANJ肥料工場はここです。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.wikimapia.org/17167943/Ashuganj-Zia-Fertilizer-Factory
グーグルアースで、「24.0235647N,90.9880722E」って入れてもはっきりと見えます。
ここには延1年間据付のスーパーバイザーとして滞在した。実は設計は僕がしたものではなく、僕のプロジェクトでも無かった。それに、そもそも設計者が据付指導、それも、チーフとして派遣されるなんて有り得ないのだが、結局、この土地柄だと、行こうとする人間がおらず、それに当初予定されていた人間がイラクに派遣されることになったせいもあり、多分、新居浜製造所の裏工作で、僕が行くことに決まったのだろう。ところが、この人選には海外営業、それも当時天皇と称された営業部長が怒り、結局両者の狭間で、会社の命令は絶対と信じる僕は、東京の営業も新居浜の製造所(据付責任部署)の応援も無く、僻地に派遣された。英語も喋れないのに、現地出向の最初から営業には無視され、誰も付いて行かず、海外営業からのけしかけもあったのだろう、ダッカの商社、住友商事もほったらかしって有様でした。ひどいもんだった。
でもまぁ、一か月もすれば、現場は英国のスコットランド本拠のエンジニヤリング会社FWの運営で、そのスコットランド訛りも理解できるようになったが、問題は、新居浜製造所の管理下で作った製品が、多分、まともな検査をしないで、しかも、梱包リストとチェックせずに梱包に放り込んだらしく、何がどこに入っているか判らないってありさまだった。つまり、単体主体の製造所は、プラント設備で最も重要な、物品管理には全く考慮を払わず、しかも、製品の検査も全くしてなかったのだ。このままでは、膨大なバックチャージが掛かると、僕は、FWのElectionSupervisorのMr.Canonや、MechanicalSuperviserのMr.Atokinsに頼み、現地人の人手、それと、ガスや溶接機械を借用して、物品の改造や、物によっては、製造さえ行い、特に千個を上回る梱包は、全て自分の手で開梱して物品の整理をすることにした。FWの保管セクションに頼むと、物品の管理に困っていたFWは、バングラデッシ人の職員タマールを僕に付けてくれた。彼は教育は無いものの、かなり有能な男であった。つまり、僕に誤魔化されない為にも有能な男を付けたのだろう。そうして彼はその職責を見事に果たしたので、僕も誤魔化すことは出来なかった。いずれにしても、彼等にすれば、物品の管理や据付がきちんと進むことが何よりも重要なので僕に協力してくれたのだ。物品の管理で見つけた不足は、機械部品でさえも、手作りの代品を作ったりして、据付は順調に進んだ。ただ問題は、岸壁の肥料袋の船積機であった。これ以外の陸側の設備はFW直轄で据付だったが、船積機の据付だけは、FWから韓国の企業へと発注された。おそらく、世銀案件の汚い部分での交渉の結果なのであろうと推測した。その装置の機械部品の梱包検査は、何とか僕自身で出来るようにと交渉したが、鉄工品は梱包のまま韓国企業に渡し、韓国企業自身で管理する手順となった。案の状、品質管理も梱包管理も為されずに送りこまれたせいで、韓国企業は、改造とか部品不足による追加金額をFWに直接出始めた。FWはその請求を正式に僕の会社、つまりは、僕に請求し始めた。FW据付分での部品不足や改造に対する我々への追加は、数万円なのに、韓国企業からの追加は、どんどんと膨れ上がりだした。いち早くこれを予想していた僕は、部下の一人を韓国企業専属として、追加を抑えることも含めて据付指導では韓国企業に協力していたのたが、この親切は無視され、僕には何の相談も無く、追加をFWに直に出し続けた。しかもこんな時の追加とは追加要求する側が出来るだけ膨らませるのが常であった。つまり、最悪の状況である。
そこで僕は先ずFWのSTRAGE部門に行き、FWから韓国企業への物品の流れを調べた。それで判ったのだが、FWつまりは井桁マークの会社が納入した梱包が両社間で手渡される時に、韓国企業が梱包ごとに、梱包リスト通りの物を受け取ったとのサインをしていることを確認した。つまり、井桁マークの会社だけではなく、韓国企業も同様にスキマだらけの仕事をしていたわけだ。だが直ぐにはこの弱点を利用するわけにはゆかなかった。先に書いたように船積機の機械品の梱包だけは、僕自身がタマールと一緒に梱包内容を調べたが、ブーム先端のコンベヤベルトが梱包に入っていなかったのだ。他の梱包に入っているかと全ての梱包を開いたが結局はみつからなかった。つまり、最もアホな入れ忘れってことですがな。大した部品でも無いが、これが無いと、船積機の据付工事が終わらない。しかも、ブーム先端の部品だから、据付用のポンツーン(艀)も待機になる。つまり韓国企業の追加はすさまじい金額になる可能性がある。仕方が無いと、日本に連絡をした。当時、日本への連絡は、ダッカの住友商事現地人(日本人は対応してくれなかった)に手紙を送り、そこから日本に送るとのややこしい手順で、最低、往復2週間は掛かった。かくして日本から返信が来たが、「その部品の納入には3カ月掛かる」との、アホどころか大馬鹿な返信であった。それ待っておれば、これ幸いと韓国企業が膨大なバックチャージを要求してくることは明らかだった。この時は、対策をどうするかを思い悩んだ。2~3日は眠れないほどで、かように悩んだことは人生でこの時だけだった。3日目にはっと気付いたのだが、その部品は日本では即納の部品だから、自分で行って持って帰れば良い、と実に単純明快な解決策だった。直ぐに、客先のMr.Jordanって、現場最高責任者のチーフエンジニアに説明すると、彼は事情を直ぐに理解し、日本に帰り部品を持ち帰って良いとの支持をくれた。サイトからダッカに出るのが一苦労だったが、無理やり列車に乗り込み、2日後にはダッカに着いた。住友商事の事務所から事情説明と帰国するとのテレックスを日本に送った。すると、日本では大慌てになって、「その部品は一週間で送る」との返信が即日で来た。最初からちゃんと調べろよ、と思ったが、この連絡を得たことで直ぐにサイトに戻った。この時点では判らなかったが、僕が頭がおかしくなって戦線離脱したとの噂が社内で駆け巡ったらしいのだ。どっちの頭がおかしいんや!ぜ~んぶあんたらの、ええ加減な梱包や製品のせいやろが!と僕は大声で言いたいのだけど。
この部品が到着して、しかも、全ての梱包が引き渡され、韓国企業が全ての部品を不足無く受け取ったとのサインをした時点で、STRAGE部門に行き引渡証を借り(現地人職員は何故か日本人にはとても親切で、僕の依頼は何でも聞いてくれたのだ)、全て自分でコピーして、「韓国企業は全ての部品を受け取った筈だから物品の不足はありえない」との書類も一緒に、FWに提出することで、韓国企業の請求書を無効にし、全てをチャラにしてしまった。なぜなら、韓国企業の申し出を証明する証拠が無い以上は、その引渡証のみが物品の不足を証明するもので、そこには全て受取った、と韓国企業が認めているのだから、不足は無いとする以外に仕方がないではないか。ってことで、これ以外にも徹底的に韓国企業を攻撃して、その現場から韓国企業を追い出した。後は、FWの作業員を使って、我々がゆっくりと、しかも韓国企業よりは効率的に、更には、確実に、残された据付と仕上げを行った。だが、こちらの隙を見せないようにと頑張ったことで、却って新居浜や海外営業からの根も葉もない批難の種になったのだ。
あれやこれやと有ったが、僕はその現場の各国からの設備では、最も早く据付を終えて、更に試運転も行い、試運転証明書も手に入れて帰国した。ところが、他社の設備はなかなか据付が終わらず、結局、最終顧客は、FWを契約不履行で訴えるなどのトラブルが続いた。が、何年か後になって、プラントは漸く稼働した。
その頃、新居浜製造所は、イラクとシベリヤでプラント建設をしていたが、共に大赤字であった。据付込みの受注だから仕事が遅れれば遅れるほど赤字がかさみ、他方、僕の方は、スーパーバイザー業務だけではなく、製品に対するバックチャージが出ないように、あらゆる工夫で製品の品質は維持したから、我々の滞在費も全額支払われた。月に200時間の、客先指定の残業もしたが、バックチャージは全く無く、しかも、僕と僕の部下全ての業務時間に対して支払いが会社に入金された。だが、会社は、イラクやシベリアの現場では、赤字で残業代も支払っていないからと、僕の残業手当は半額に減額された。新居浜の赤字を僕の残業費で少しでも賄おうって情けない手段で、基本的に彼らにはプラントを遂行する能力が無いのだろうと思った。
ここまで思い出して気づいたのだが、彼等は、僕が肩を叩かれた時も同様の思考方法で、僕の離職票を自己都合退職とすることで、金を節約したのだろう。
実はバングラデッシの件では続編があるのだ。仕事を完全に終えて、帰国したが、先に言ったように、僕のセクションでは、自分の担当するプラントは仕掛品や発生予定金額を含めて、全ての金額を自分で管理することになっている。それで判ったのだが、出張手当が、僕の部下として行った仕上げや検査の人間の方が僕より多いのだ。職階も僕の方が当然高く、出張期間は全く同じ筈だ、と大阪の総務に申し出し、大阪の総務と新居浜の総務の話し合いになったが、結局、新居浜の総務は誤魔化しまくった。残業費どころか出張費そのものも誤魔化す会社って成立つのだろうか。それよりも不思議なのだが、僕への僅かな金を誤魔化すことが、誤魔化した当人達、それに会社に取っていったい何のメリットがあったのか、それが今でもなお、理解できないのだ。当然、誤魔化した当人達は、そのことで自分が高く評価されると考え、僕の金を誤魔化した筈だが、それを彼等の上司が褒めて、それをまた、その上の重役達が褒めたってことになるのだが、そんな組織っておかしいのではないか?。これは、僕の残業代や、出張手当だけの問題でなく、離職票の偽造があったのだから、退職手当の誤魔化しにまで繋がることではないだろうか。
こんなことは、十年以上前から社内で社訓とされ、言い続けられている、遵法とか、コンプライアンス、とかの、そのまだ以前の問題じゃなかろうかと思う。
総務と言えば、今でも怒りが消えないが、会社を辞めさせられるのだからと、昔、転勤前に大阪で買った家の、会社から借金し、既に返済を終わった抵当権を抹消しようと、抹消手続きに必要な会社証明を総務から何千円かで発行してもらった。2週間ほどして時間が出来たので大阪の法務局に行って提出したら、その会社証明は期限切れだと言われ受理されなかった。連中(総務の)は、僕の頼む前に発行して保管して使わなかった古い証明書で、期限が一週間に迫ってるのを、金を惜しんで僕に渡したのだ。大阪東京の交通費は私用だから私費で、これも無駄になってしまった。が、再発行ではなくて、ちゃんと発行してくれと言うと、金を要求した。さすがにこれは拒否して、有効期間がちゃんと数カ月のを発行させた。
いかん!更に腹が立ってきた。冷静に、冷静に。
とにかく、会社の遵法精神、コンプライアンス、とかはどこに行ってしまったんでしょうか。
ところで、製品の出来の悪さ、ぐちゃぐちゃの梱包、それに重要部品の不足などで、僕が現地で悪戦苦闘している最中に、日本では、営業も新居浜製造所も、あいつは気が狂ったとか、戦線を放棄したとか、勝手気ままに悪口を流していた。
試運転証明書をもらって日本に帰っても、誰一人として、自分たちの誤解を弁解するでもなく、勿論、誰も褒める人は居なかった。
更に数年して、たまたま事業部長に会った時に、「あの設備は、大丈夫なんだろうな?」って念を押してきた。恐らく新居浜で納入したイラクの設備、それにシベリヤの設備も、まだまともに稼働出来ていないので、バングラデッシのことも心配したのだろうが、僕の仕事は、手抜きもなく、試運転証明書ももらっていて、しかも、保障期間はとっくに済んでいるのだから問題が起こる筈がない。質問に答えながら、こんなことは、プラント納入の常識ではなかろうか、と思った。
さて、今になって思うと、バングラデッシでは客先代行のエンジニヤリング会社FWの現場指導員に頼み、FWの上層部を誤魔化して、人手や工具を使いまくった、と思っていたが、実際にはFWの上層部には「英語もろくに喋れない日本人」の行動は、掌にあるが如くに充分に把握していたのだろう。彼等の製作部門(納入品の不良を改造する部門)を通して、製品の改造や新作をすれば、その費用はバックチャージされるが時間が掛かる。日本人どもが自分たちで、安い現地人の労働力を使って、無料で改造したり新作しても、それだけ早く設備が完成すれば、我々に払う高いSupervisor費も節約出来るし、最終顧客である、バングラデッシ肥料公社からの、まとめエンジニヤリング会社への評価も高くなる。そう考えて我々を泳がせていたに違いない。そう考えれば、彼等も、手間や時間の掛かる製作部門と、その部門以外に我々が作ったと同様の改造グループを組織しだしたのも納得できるのだ。
この事は、更に言うなら、最終顧客のバングラデッシの肥料公社も認めていたに違いない。後年、この現場の建設長であったMOMIN氏と、チッタゴンの案件でも御一緒したが、僕に対しては「頑張れ!」と、極めて友好的な態度で接してくれた。この件では東洋エンジニヤリングとの競合で、有能な僕が負ける筈が無いと、充分に準備をして入札書類をまとめあげた。これで勝ったと思ったのだが、ODA案件は殆ど営業的な話し合いで決まるが、これも同様の経過をたどり、氏の期待には沿えず、肥料袋の船積機だけをかなりの利益とともに受注した。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.chemicals-technology.com/projects/chittagong-urea/
船積機は新居浜の対応なので、僕とは関係なく納入が進み据付試運転となった。その頃、たまたまASHUGANJIを訪問する必要があり、出張の用意をしていると新居浜の設計から電話があった。
ASHUGANJIに行くついでに、CHITTAGONGに寄って船積機の様子を見てきて欲しいのです。ちょっと調子が悪いらしいが、たいしたことでは無い、とのことだった。
新居浜相手では、あっさり断るのが安全なのだが、CHITTAGONG肥料設備も見学したかったので了解した。船積機だけは受注したものの、東洋エンジニヤリングは、その他の搬送システムをドイツ企業に発注していた。ドイツ企業よりは日本企業の方が競争力がある筈なのに何故かと聞いてみると、ドイツ企業はインド企業に再発注したとのことであり、そのメーカーと製品レベルを調べておけば、南アジヤ、中東、アフリカ地区の仕事では必ずや将来の役に立つと考えたからだ。ただ、新居浜の依頼を了解はしたものの、かなりの大ごとだろうと推察した。袋の船積機は極めて単純な構造で、ブーム先端に長い、垂直長さ20mほどのスパイラルシュートがあり、袋はこのシュートに沿って落下して船底に運ばれる。この単純な構造からして、問題と言えば、恐らく袋が詰るのだろう、と簡単に推測できた。そのため、念のためにとゴマ油を鞄に忍ばせて出張した。現地に着き、ここではCHITTAGONG工場の工場長で、肥料公社の重役になっていたMOMIN氏に再会すると、「あの船積機には困っている。船の滞船料が莫大な金額になる」と困った顔で訴えた。早速現場に行ったが、船積はしていない状態であった。が、シュートを見て、こりゃ駄目だ、と即座に思った。スパイラル状態になった内側が袋が食い込むような形状になっているのだ。
船が着き、袋の積込みが始まると、案の状、何個かの袋が流れた後、たまたま一個が詰ると、追随する袋がこれを押して、さらに食い込みが激しく起こり、袋はシュートの上から下まで袋でいっぱいに詰ってしまった。仕方が無いので、シュートのガイドに掴まり、下まで降り、袋を一個ずつ、食い込みから外しては下に滑らせた。20mの高さでの作業で必死であった。シュートが空になってから、ゴマ油をシュート最上端に塗布して運転を再開した。最初の袋が油をシュート全体に曳いて、後続の袋は全く止まることなく流れ続けた。
その間、現地に居てトラブルを知っている筈の新居浜からの指導員は一切姿を見せず、最後の段階になって漸く姿を見せた。新居浜の人間って一体何を考えとるんだろうか・・・
一緒に行ったバングラデッシ人の現場監督は、住友のハイテクノロジーだ、と大笑いしがらいい続けた。僕も彼の笑いにつられてケタケタと笑い続けた。
事務所に戻り、MOMIN氏に状況を説明すると、
「ごま油であろうと、何であろうと、無事に船積みができりゃ、それでいいんだ。君!他の設備も調査してほしい・・ああ、そうか、君の納入は船積機だけだったのだ・・・」と、最後の言葉は寂しそうに言った。
その件から以降、東京に転勤になりバングラデッシには行っていない。MOMINさんは、どうしているのだろうか。
韓国企業とは、これ以後、更に1度だけ関わりがあったが、この時は完全に、僕の敗北であった。仕事はポスコ製鉄の第2工場である光陽製鉄所の建設工事の時だ。ところで日本は韓国、台湾、中国には膨大な金を戦後補償で提供したのだが、そのことをなぜ政府は国民に伝えようとしないのだろうといつも思うのだが、確かに、その初期ごろは、補償金の殆どを日本企業が受注って形で取り返しはしたが、そのことで各国の経済力は上がり、その後半ではむしろ日本企業は食いものとされていったのだ。まぁそれはそれとして、その光陽製鉄所は、韓国で、その後半時期に当たり、僕は既に東京に居た頃であった。韓国案件は大阪の分担であったが、うまみが無ければ巧妙に人に押し付ける傾向が、その頃の大阪部隊にはあり、その結果として東京に居る僕が担当することになった。これはいつものパターンだが、その案件では、資金は日本政府、つまり日本の税金で、日本メーカーは韓国メーカーと組み、見積もり計画は日本メーカーの担当だが、製作は韓国メーカーで行うことになっていた。日本の金と技術力を取り上げること歴然たる案件であった。井桁の重機械は韓国企業の大宇と組むことになり、僕はコンベヤシステムを担当し、新居浜はアンローダを別案件として担当することになった。僕は一生懸命に計画図を書き、見積もりをして、関係者と共に韓国に行った。僕の計画図と重量積算書を元に、韓国メーカーが見積りし、我々の設計費用と合わせて見積もりをまとめることになった。最後の値決め時点で事業部長と海外営業部長が来た。僕がバングラデシュに行った時に、二人の狭間で苦労させられた当人達だった。ただ、事業部長の方は、「あの件は大丈夫なんだろうな?」との質問にバサッと答えてからは僕への応対は良くなっていた。で、最後の値決め直前に、大宇は、「住重の積算重量で我々が見積もるのだから、見積もり重量を保証しろ」と要求してきた。計画図を作らせ、重量を積算させて、その重量を元に見積もって、受注したとしても住重は設計だけを受注するだけで、総額の20%程度を受注するだけで、それでなお、重量を保証しろとは勝手な言い分ではないか、と思ったが、井桁の営業がこれを了解したので仕方がない。僕は、積算書に、余分な重量記載、例えば、購入品の重量はしばしばいい加減な重量を書いていることがある、等を一枚一枚チェックしていった。と、うしろで、海外営業部長が「保証と言われて、とたんに、びびっとるんか!」と大声でのたまわった。それも、韓国側の重役たちも居る場での発言である。事業部長が僕の所に来て、「どうした?」と聞くので、考え通りに答えたら、「あ、そうか、これこれの事情らしいな」と、ごく普通の口調で営業部長に説明してくれた。
その後、値決めの打ち合わせが、僕、即ち、技術者を除いて行われ、夜になって営業担当者から、「大宇の要求で、両社共に、-30%で見積もり提出することになった」との連絡を受けた。全ての見積もり作業をして、その20%しか取り分がなく、それで、共にー30%はおかしいではないか、値下げをしたければ、大宇の取分だけですればよい筈だ、と考え、直ぐに事業部長の部屋に電話をしてこれを伝えた。更に、僕の見積もりではそれほど値下げしないでも勝てる筈だ、とも付け加えた。事業部長は、「そうか・・・しかし、もう交渉は終わったから・・・」との返事であった。-30%も減額すれば必ずやトップになる筈だと思い、韓国から帰る途上、それに帰ってからも、いかに設計費をー30%で実施するかのプランを考え続け、ほぼ頭の中ではプランが出来上がった。設計費を下げるのは案外に簡単なのだ。要は自分がいかに頑張り、工夫するかだけのことである。だが、しばらくしての札あけの場で、井桁・大宇のコンベヤシステムは安すぎるとして、ディスクオリファイされてしまった。同じように値下げした井桁・大宇のアンローダーは、同様に大幅に安いにも拘わらず井桁・大宇に決まったから、多分、裏で何らかの操作があったものと思われる。で、もし受注しておれば、僕のライフワークの一つが韓国に出来ていたであろうけど、技術は大宇に吸い取られ、赤字ではないものの、薄利の仕事になったことは間違いない。ところで、縦割り組織の新居浜のアンローダーは大赤字で仕事を終えたらしい。実力相応と言えるだろう。と、言うことで、僕は、と言うよりは、日本全体が韓国に敗北してゆく時代に入ったのだ。
ところで、井桁の営業人って変な人が多かった。この海外営業部長をそうだけど、北陸のお客さんとの打ち合わせで、積雪量を確認していた。北陸では積雪量による荷重が構造物の支配的要因になるのだ。と突然、同席した国内営業部長が、「おい!雪の量なんて聞いてどうするんや!」と僕を怒鳴りつけた。お客さんの方が苦笑して「いや、積雪ってほんまに重いんや。コンベヤが崩れることもあるんや」とバックアップしてくれたことがあった。技術打合せの最中に、僕が突然、世間話として雪の話を始めたとでも思ったのだろうか。かなりの年寄りの営業部長だったけど、運搬機械メーカーで何の営業をしてたのだか・・・
更に、僕の仕事をNETで探すと、グーグルアースで「ポート・セント・ジョー,フロリダ,合衆国」と入力、または、「75W29.837861N,85.302875W」と入力して、拡大してゆくと中央に、川沿いにバージが並んでいるのが見えている。その陸側に石炭ターミナルがあるが、そこのターミナルの受入コンベヤ設備以降の計画、見積から納入までのプロジェクトを管理した。
この石炭ターミナルはCentralGulfという船会社が、石炭のバージ輸送や、そのターミナルでの保管、そこから鉄道で発電所に輸送する仕事を受けて、そのために自らターミナルを建設したのだ。担当は、副社長のMr.Lahsenと称す30代後半の男で、部下として秘書1人、男職員1人だけでこの大仕事の建設から運営までを遣り遂げたのだ。全米中の業者と電話で接触し、見積もりを取り、必要に応じて走り回り、信頼できる業者を競合させ、貨物列車の支線を引き込み、水路にバージ接岸の土木工事を行い、我々に石炭ターミナルを建設させたのだ。彼は完全なる事務屋である。そんな若い彼が、これだけの大工事を、殆ど助けなしに遂行する。建設計画時には、我々をセスナ機に乗せて、何か所もの建設予定地の上空を飛び回らせて調査させたのだ。かくも大きなスケールと実行力で行動すること。これこそが本来の米国型経営なのだ、と僕は思ったものだ。僕が彼を心から尊敬したからか、彼もまた僕を信頼してくれて、僕の言うことには全面的な信頼を置いてくれた。
Mr.Rahsenのダイナミックな行動力、それにバングラデッシでの英国的現場の運営は、僕のその後の仕事の進め方に非常に役立ったと考える。要するに、例え独力であろうと、考えに考えて、工夫すれば出来ないことは無い、との自信が、その最たるものであった。だから、どんな仕事が与えられても全力でぶつかることにして、そしてそれは必ず成果を生み、不思議なことに、人が嫌がる仕事は、何故か利益が大きい、ということを知った。
円高になったことと、新居浜で受注した海外案件で大赤字が続いたことで、運搬機事業部は海外案件から撤退することになり、東京部隊は、国内の新しい装置や設備の受注に注力することになった。彼等の大赤字はそもそも見積時の検討不足、例えば、米国のタコマに据付込で納入するコンテナクレーンの見積もりを、現地調査することなく見積もるとか、そもそも彼らの見積もりは市場価格にはとても及ばないのだが、ある時は突然信じられない値下げの決断、それも根拠無しの決断をして、そのような案件は凄い赤字となり、しかも、コスト管理の素人ばかりかして赤字が赤字を生み出す体質で、更に加えて円高対応での海外製作も、海外業者に振り回されての赤字増加となり、縦割り組織であることでの実行力不足が原因なのだが、もう一気に海外案件に弱気になってしまったのだ。その頃、バングラデッシでの新しい肥料設備をMSECが受注し、そこからの見積もりを僕が担当したのだが、チッタゴン肥料設備の調査で、インドメーカーが十分に信頼に足ることを調べ、インドメーカーにコンタクトすると、わざわざ日本を訪れて見積もりをしてくれ、これだと絶対に受注できると自信を持った。たが、新居浜はインドメーカーの見積もり採用を許さなかった。
本件での競合先はドイツのメーカーで、インドの業者を使っているとの情報は得ていた。これに、国内メーカー、ないしは韓国のメーカーを使っても、輸送費の差だけでも、とても勝てる筈はなかった。
更にまた、ソ連ウランゲルのコールセンター案件では、状況は違い、僕自身がまとめたコンベヤシステムについては競争力があったらしく、なんと、客先から、僕の担当するシステム部分とドイツのメーカーの単体とで共同できないか、とのオファーがあった。だが、新居浜の単体グループはこれを受入れる筈もなく受注を諦めるしかなかった。かように、頑張っても新居浜に足を引っ張られて受注に至らない案件が続いた。
新居浜の見積もりは、各部門での見積もりを集計する遣り方で、この方法だと各部門がそれぞれ余裕を見込むため、どうしても過大な見積もりになってしまい、しかも、誰ひとりとして全体の姿を把握できていないのだ。そのため、値下げの時は、常に何も判る筈も無いトップの決断に頼ることになる。そうなると、何ら根拠も無いものだから狂ったように値下げすることになる。が、結局は赤字が赤字を呼び、事態は最悪になるのが常であった。他方、僕のように、見積もりから納入までを1人で責任を持つ形で仕事をしてきた人間は、常に全体としての余裕を見ているから、値下げの限界を充分に把握している。だから無理は絶対に出来ない、が、元々が絞った見積もりを目指しているので、黒字で且つ競合に勝つことが出来るのだ。その根本的な違いが新居浜出身の指導者たちには理解できないために、僕の見積もりに対しても、臆病な対応しかできなかったのだ。結局、新居浜製造所はどうしようもない田舎の工場から脱皮できなかったわけだ。
だが、今になって考えると、後ろ向きになって行く新居浜の首脳部、特に事業部長には僕が説得を試みるべきだったのかもしれない。結果はどうあれ、一度は説得すべきであったろう。説得できるだけのネタは充分に持っていたのだ。もし説得出来ていれば、それは今から30年ほど以前であり、その時代にインドやバングラデッシにパートナーを作っていれば、そこからの発展の可能性は素晴らしいものがあっただろう。僕自身は、その頃からパートナーとしては、中国、韓国よりはインドやバングラデッシであろうと考えていたのだ。基本的にインド人やバングラデッシ人の方が好きなのだ。だが、僕は人を説得することが苦手と言うか、非情に面倒なのだ。意見の違う人間と話し合っていると、なぜこんな事が判らんのだ、との思いが先に立ってしまうのだが、今でもそうだが、それが僕の大きな欠点だろう。
でも、原則に立ち戻るなら、技術会社の事業部長や社長って、世界の動きとか技術の動向、これらに堪能で、会社をその方向に導くのが仕事じゃないのか?でなきゃ、その地位には就いてはいけないんじゃないか?とも思えるのだが。
とにかく、かような事情で、東京部隊は輸出から撤退し、国内の新しい設備や装置の受注を目指すことになり、なんとか頑張り受注を継続したが、新居浜は過剰な人員を維持できず東京部隊を解散との方針を決めた。
東京部隊は、たとえ自分たちが受注できなくとも、長い期間にわたってコツコツと客先に技術協力することで、新居浜の単体や大阪のシステムを受注できる環境を作るのも大きな仕事であった。実際に大きな案件が東京部隊の努力で受注できていた。が、新居浜の指導者たちは、東京部隊の実力や、その地道な努力を全く評価していなかったのだ。そもそも、この時代に東京から撤退して新居浜の田舎で何を目指す積りだったのか。結局は彼らは、自ら、じり貧の道を選んだのだ。
そんな有様で、世間はバブル最盛期で金が溢れる世情ではあったが、我々は、その恩恵とは全く関係なかった。新居浜の失策での、東京部隊の解散ではあるが、新居浜に疎遠な僕には行きどころが無くなり、新居浜製造所の管轄、つまり運搬機事業部からは追い出され、あの僕の先輩が創設した東京の物流部門に引き取られた。しかし、その先輩達は既に追い出された後であった。共に、あほらしい話である。
物流部門では官公需を担当してそれなりの成果を挙げていたが、特に通信システム、運用ソフト等に慣れてくると、会社初めての冷凍倉庫の受注とか、印刷局の自動倉庫とか、なかなか面白い設備を受注できるようになり、肩を叩かれる直前には、世界初のリサイクルごみの自動倉庫システムを受注した。巨大なごみ容器を扱う自動倉庫であった。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/4040/aicle/index.html
以上の経過から判るように、僕達の年代は、世界最大級の設備を作り、この技術を持って、世界に雄飛して行った時代なのだ。
かくして世界をまたにかけ、更には日本国内でも、儲け続けたのだが、会社はいつも損益が悪いと言い続けて給料を抑え、余った金を変なものに投資し、バブル破たんと共に全てを失い大赤字になり、これを、小泉改革で公然と許されることになった「肩叩きなる人員整理と、離職票を誤魔化し」で穴埋めしたわけだが、考えてみると、僕の人生で唯一の失敗、多分、多くの真面目で有能な技術者も同じ思いだと思うが、それは、井桁マークの重機械に就職したことだろう。
この「まえがき」を読んだ人の中には、僕が言いたい放題に書いたことから、井桁の重機械の組織に情けない対応を受けたのは、僕が傲慢だったからだと考える人も居るかもしれない。だが、そうではないと確言できる。今、会社との関係が全く希薄になったからこそ、かようなことを書けるのだ。結局思うのは、サラリーマンって、井桁の中では特にそうだったが、殆どの人間は、相手の能力や人柄で付き合うのではなく、相手の後ろに控える人間を見て対応しているってことだろう。だから、後ろに大物が控えていない僕のような社員は、適当にあしらうのがその会社の風土だったのだ。だが、お客さんはそうではなくて、ちゃんとした対応をする能力や人柄で接するので僕には理解を示してくれたのだ。情けない話だが、相手の能力とか人柄なんて意味ないって言うこと、それが井桁の社内組織の真実だと思う。いや、日本社会の組織そのものがそうなのかもしれない。
たは!!そんなことは誰でも知ってることで、自力だけで遣って行けると思ってた僕が馬鹿か・・なるほどね。
でもまぁ、僕自身は僕の人生を、多いに楽しんだからそれでいいのじゃなかろうか。それに、この会社に就職していなければ、今の女房との出会いも無く、その兄弟たちとの楽しい付き合いも存在しなかったことになる。これはちょっと問題だし。仕事もまた、巨大な設備を作るって、僕に相応の仕事だったような気がする。考えてみると、大学院を出てから、仕事に関しては誰に何かを教わることも無く全ての仕事を完遂できたことになる。しかも、その仕事の困難さを考えると長いタイトロープの人生だったと思わずにはいられない。
そうして、井桁マークは、無差別に人を切るとともに、僕だけではなくて、いろんな技術世界のタイトロープを渡ってきた社員の技術力、それに、同時に技術資料をも無差別に破棄することで、もう元には戻れない状態になってしまった。企業指導者の能力、企業哲学の違いが、技術者を出来るだけ温存した三菱重工との違いだろう。この違いは、結局は、人を、それに、技術を大切にするかどうかに掛かっているように思える。辞めさせる社員の離職票にごちゃごちゃ細工をするような企業は、それ以前の問題だろう。そんなことで、今や、井桁マークの重機械は、軽機械との名前が適切な会社に落ちぶれてしまった。だが、これはこの会社としては適切な道かもしれない。実は入社3年目レポートなるものを提出する習わしなのだが、それは丁度オイルショックの時であった。で、いろいろと考えて「最も生き延び易い企業とは、機器要素を造る企業だ」とのレポートを提出したが、その数十年後ではあるものの、この企業はその道を行っているのだ。技術の先頭を行く力も頭脳も、それと、何の哲学も無い企業には、極めて妥当な道と言える。それに、社員への利益配分を最小にする方向を選ぶことでも、この会社は細々とは生き続ける道を選んだのだ。
僕の技術の記録、僕が開発したFORTRANで数千行にも及ぶプログラムや、付属プログラム、それに、僕が所属し、そうして潰されたた部門の技術の一部も、放棄される時に自分の家に持ち帰り、押し入れに貯めてあるが、いずれ整理して捨てる予定だ。笑っちゃうよね。
そうそう!もういっちょ忘れていた。
50歳になった頃に、小説を書こうと考えて、新潮新人賞に応募を始めたが、2年ほどで第一次審査は確実に通過するようになった。そのうち長編を書き始め、第1作目は、ASAHI新人賞のラスト8人までに残った。更に長編を一作書いた所で肩を叩かれて小説どころではなくなった。が、これもまた面白い経験であった。おかげで長い文章も簡単に書けるようになったのだ。
そうそう、それと、2013.11.23 伊藤忠商事が、残業禁止、早朝出勤給料5割増し を実施したらしい。
実は僕は、住重時代の退職前にはこれを実践していた。外注として働いている時にもこれを実践した。主として、膨大な入札資料造りに費やし、朝7時までには出勤して夜は7時には帰ることにしていた。しかし、早朝出勤していることを知らない人には怠惰に見えたかもしれない。が、実際にはこの時間を極めて重要な作業に使い、しかも、成果を上げていたことになる。つまり、確実に時代を先取りしていたことになる。しかも、僕の場合は早朝出勤は残業も何も付かないでも頑張ったのだ。が、仕事の成果より、太鼓持ち誠心を重視する住友重機械には、これを評価する風土は無かった。
2.本文
東京八重洲発8:10のJR中央道高速バスで大阪に向かった。景観としては東名経由の方が良いのだが、紅葉の季節は中央道が良いようだ。またバスは甲府を過ぎると南アルプスを左に北上し、八ヶ岳を右に見て、諏訪湖の南端で南アルプスの先端を反時計方向に回り、中央アルプスを右に南アルプスを左に南下する。これらの光景は実にすばらしいものだ。紅葉もかなり、と思ったが、良く見ると、針葉樹林帯の立枯れかとも思えた。だが、カラマツも紅葉、落葉するので、確言は出来ないが、もし立ち枯れなら、八ヶ岳は悲惨な状況になっていると思えた。そうして、通り過ぎる麓の村々には、穏やかな、日本の原風景とも思える風情が見られた。青春18切符とか、バスの旅は、通りすぎる風景が身近で、それと、その地方の歴史の知識も思いだされて楽しいものだ。特にこの周辺は武田信玄の侵入路でもあるのだ。信玄は諏訪を平定してから。南進して伊那峡谷を、塩尻峠を北進して松本盆地、更に北上して長野盆地を平定したのだ。(彼の北上ルートとしては佐久経由でのルートもある)
南アルプスと中央アルプスの峡谷を南下して道は中央アルプスの下を抜けて美濃に入る。春日井で東名と合流して、美濃を横断、大垣、関ヶ原を抜け、琵琶湖南端を走り、山科トンネルを経て京都府に入る。この歴史に満ちた遠路をたった8時間で走行するのだからたいしたものだ。ただ、帰路は渋滞に巻き込まれて、2時間程度遅れてしまった。東名の方が渋滞は少ないのではないだろうか。とにかく紅葉も満喫して、京都深草で降り、京阪で枚方公園駅に行き、無料のGHにたどり着いた。GHまでの途上で、野菜と牛肉や牛乳などを買いこみ、焼き肉の準備をしておいた。自炊は焼き肉が最も簡単だ。
●親戚一同で、志賀を拠点に比叡山の紅葉を楽しみ、近江八幡の古い街並みを楽しんだ。大阪で生まれ育ったにも拘わらず、かような素晴らしい街並みが有るとは知らなかった。帰路、関東の親戚たちは女房に任せて僕は京都府立植物園の紅葉を楽しんでからGHに戻った。
●大学の同窓会が広島空港の空港ホテルで開かれ、JR大阪発8:20、姫路、相生、糸崎乗換で、白市着13:56の列車の旅を楽しんだ。紅葉と美しい村々、歴史の道筋、全てが楽しい旅だった。和気駅手前には、和気清麻呂の碑を見つけた。てっぱんの尾道も通過した。帰路、鈍行が三原駅に着く前に、駅弁なんとかと書いた武者旗を掲げた一行が乗車してきて、その中の少し太めの40歳前後の男が、列車の前の席からインタビューを始めた。てっきり駅弁の宣伝かな、と思っていたが、僕の席の前に座って、僕にインタビューを始めた。完全な大阪弁で、なんで広島で大阪弁なんや、と奇妙に思えた。
「僕が誰か知ってますか?」と言うので、
「さぁ、知りませんね」と答えると、後ろに立った若い女性が写真を見せた。後で名前は知ったが、整いました、の相方の方であった。
http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://talent.yahoo.co.jp/pf/profile/pp290873
次いで
「夕方ネットワークって番組知ってますか?」
って質問されたが、広島のテレビなんて知らんなぁと思いながら、
「しりませんね」
と答えたが、NHKの全国ネットだと教えられて、そう言えばちょっと聞いたことあるか、と気づいた。
あと、インタビューが続いたが、インタビューのテーマが判らず、面白いインタビューにはならなかった。多分カットであろう。これからは常にインタビューがあることを予想しながら旅をすべきであろうか。
そんな馬鹿げた出来事もあったが、なかなか楽しい帰路であった。
●肥後橋の会社クラブでの物流部門のOB会に出て、大阪時代の懐かしい先輩達との楽しい会話を楽しんだ。井桁マークからの退職は物流部門の時であったが、その退職時には、そこに居た先輩たちは既に物流部門には居なかった。しかし、物流部門は、僕が大阪に来た時に、浜松のコンベヤの仕事で、僕を一度だけ打合せに連れて行き、全てを僕に放り投げた先輩が創設した部門で、当時は一緒のビルで仕事をしていたのだ。それに、物流の創設者のもう一人が、米国出張になった時に、なぜか、彼の仕事であったスタッカクレーンの開発設計が僕に押し付けられた。その創設者はA1サイズの計画図1枚を僕に渡して、そのまま米国に一カ月以上行ってしまった。後に残った僕は、製作を急ぐので、土曜日が出勤日の時代に、月200時間の残業をしながら、しかも、女房とのデートを週に1~2回はこなしながら仕事を続けてこれを果たした。つまり、2人の創設者の両者共に、僕に仕事を押し付けたって過去があるのだ。かくして、日本でも最初の自動倉庫のスタッカクレーンは僕の手で設計されたことになる。そんな関係もあり、その先輩たちの会合に僕は参加できたのだ。
僕を浜松に連れていった、もう一人の物流創設者の先輩もそこに参加していて昔話に興じた。技術に優れた彼等2人は、他の会社に就職していれば、必ずや会社の重鎮となるような人材であったが、井桁に就職したものだから、僕よりは出世したものの、彼等の能力に見合うだけの出世は出来なかった。が、しかし、そんなことは全て忘れて、昔の思い出を楽しんだ。
翌日は、彼等の数人と一緒に、法隆寺と唐招提寺を訪れて、奈良の秋を楽しんだ。
ところで、僕を浜松に連れて行った先輩は、井桁ナークの会社で、僕の特許申請数が2位であった時に、彼が1位だったことを付けくわえておきます。
●全ての予定を終えて、京都深草からJRバスに乗り、来た道を東京へと戻った。
疲れはしたが、時間に縛られることのない、楽しい足掛け12日間の旅を終えた。それと、僕の宿泊したGH、つまり大阪を拠点とすれば、中国地方、岡山、倉敷、広島は、かる~く青春18切符の行動範囲であることを知った。海外旅行も楽しいが、これにも大きな意義がありますな~。しかも焼き肉料理の腕も上げ、ついでに、企業年金も無い僕としては、一日1000円程度(これってインド生活以下ですな)の旅を過ごせる自信も出来たし・・・
帰ってから、ゆったり鉄道の旅「東海」って本を手に入れたが、僕が何故、青春18、つまり鈍行の旅、それにバスの旅が好きなのかが判ったような気がする。残る時間をもっともっと、知らない風景をゆっくりと楽しもうと思った。それを楽しむ機会が僕にはあるってことだ。
さて、明日は家の手入れだけど、家の手入れや海外旅行の計画も着々と進めて、です。
追記 これが住友重機械の本性です。
住友重機械工業(本社・東京都品川区)の横須賀市や横浜市の工場で勤務していた菱倉康彦さん(当時73歳)が肺がんで死亡したのは、会社がアスベスト(石綿)対策を怠ったためだとして、妻の節子さん(80)が3522万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が18日、横浜地裁横須賀支部であった。
杉山正己裁判長は会社側の責任を認め、2750万円の支払いを命じた。
判決などによると、菱倉さんは在職中の1977年、じん肺の診断を受け、定年退職後の98年11月、同社から補償金298万円を受け取り、今後は何ら請求しないとの念書を取り交わした。2000年8月に肺がんと診断され、同9月に死亡。01年に労災認定を受けた。
同社は08年4月に補償規定を改定、アスベストが原因の肺がんで死亡した従業員が労災認定を受ければ、遺族補償2000万円を支給する制度を設けた。
同社は裁判で、菱倉さんがその後の死亡を含む損害賠償請求を「念書によって放棄した」と主張。肺がんとアスベストの因果関係なども争点となったが、判決は原告の主張をほぼ認めた。
判決後、記者会見した節子さんは「夫は喜んでくれると思う。会社は争うことをやめて償ってほしい」と語った。一方、同社の代理人弁護士は「判決の内容を検討し、会社と相談して対応を決めたい」と話した。
(2013年2月19日 読売新聞)
2013年9月23日追記
昨日のNHKの「神の数式」って宇宙に関する番組を見て、僕の形而学的思考に自信ができた。
その経過は以下の通りだ。
そのNHKスペシャル 神の数式 は素晴らしい番組だった。
2話も見終えて、ふと思いだしたが、僕が会社から首を切られた55歳の以前に、宇宙について地元の図書館で調べたことがあった。つまり、もう15年も前になる。
その結果、つまり、地元の大和田図書館にあった宇宙に関する本から推論した結果は次の通りだ。
①無または虚無こそが、全てのあるべき姿だ。
②が、無は、とても不安定で、その無を破るように、エネルギーがどっとあふれることがある。これが、ビッグバンであり、巨大(あくまで人間にとっては巨大だが、無に取っては無でしかない)なエネルギーが一点に噴き出す。このエネルギーの源は、±0から発生するので、この宇宙と相似で、この宇宙とは逆のエネルギーを持つ宇宙が別に存在する可能性が高い。
③かようにエネルギーのアンバラスンスが常時(時間が存在しない状態での常時)発生し、エネルギーの放出が起こる中で、我々の宇宙が成り立つようなエネルギー形態がたまたま生じた。つまり、我々の宇宙のような宇宙は、たまたま生まれたに過ぎないのだ。
④我々の宇宙は、空間、時間共に、全てはエネルギーによって作られている。このエネルギーで作られているってことは、こう考えるより他には考えようがないのだ。ただ、重要な問題は、なぜエネルギーなどと称す、姿の見えないものから、全ての物が作られるかが問題であり、その点が次のように考えられる。
⑤エネルギーは、小さな振動体として粒子を作っている。この粒子がいろんな形で結合することで、全ては作られているのだ。このエネルギーの形態を思いつくことは案外簡単であった。エネルギーが粒になるには、円、球形にエネルギーが振動すれば良いと考えたのだ。
僕の技術的教養からして、この問題を数式的には証明できないが、形而学上的に考えれば、ほぼそこまで想定できたのだ。
僕がそこまで推定できたにも拘わらず、世界最高度の物理化学者の殆どは、振動する粒の存在を、物理的にあまりにダサいとして否定し続けたわけだ。
つまり、物理学者はもっと一般人的に柔軟に、つまり僕のように考えるべきだったと言える。物理学者達は、エネルギーの粒の大きさを有限としないことによって、大いなる矛盾に落ち込んで、長い長い時間を無駄にしたのだ。
更に僕が考えたことは、素粒子が、複数回転することで、元の面が我々の次元に現れるとの実験結果が、既に報告されていたから、我々の宇宙には別の次元がある筈だとも類推出来た。が、学者達は、高次元の宇宙を認識することにさえ長い時間を費やしたのだ。
僕の想定と殆ど変らない結論が、NHKスペシャルの結果であった。
しかし、もっとダサいヒッグス粒子が、我々の宇宙に詰まっているなんて推定は、とてもじゃないが出来なかった。その点からも、ヒッグス粒子なんてものの存在を予測するなんて凄いことだと思う。
日経に面白いのが出ていた。
2014年8月8日の日経夕刊 高橋秀美さんのエッセイに書いていたが「出世する人は、仕事が出来ない人」ってことらしい。
しかし住友重機械は酷過ぎる。
退職者の書いているように、ある時期から出世出来ない人を見境なく切ったものだから
残ったのは仕事が出来ない人ばかりになってしまった。
仕事が出来ない出世した人ばかりが集まって会社の方針を決めているかと思うと
ある意味面白い。
ただ、高橋さんの法則は日本だけにあてはまると思う。世界標準では、仕事が出来ない人は取り残されてしまう。
2013年9月23日追記
昨日のNHKの「神の数式」って宇宙に関する番組を見て、僕の形而学的思考に自信ができた。
その経過は以下の通りだ。
そのNHKスペシャル 神の数式 は素晴らしい番組だった。
2話も見終えて、ふと思いだしたが、僕が会社から首を切られた55歳の以前に、宇宙について地元の図書館で調べたことがあった。つまり、もう15年も前になる。
その結果、つまり、地元の大和田図書館にあった宇宙に関する本から推論した結果は次の通りだ。
①無または虚無こそが、全てのあるべき姿だ。
②が、無は、とても不安定で、その無を破るように、エネルギーがどっとあふれることがある。これが、ビッグバンであり、巨大(あくまで人間にとっては巨大だが、無に取っては無でしかない)なエネルギーが一点に噴き出す。このエネルギーの源は、±0から発生するので、この宇宙と相似で、この宇宙とは逆のエネルギーを持つ宇宙が別に存在する可能性が高い。
③かようにエネルギーのアンバラスンスが常時(時間が存在しない状態での常時)発生し、エネルギーの放出が起こる中で、我々の宇宙が成り立つようなエネルギー形態がたまたま生じた。つまり、我々の宇宙のような宇宙は、たまたま生まれたに過ぎないのだ。
④我々の宇宙は、空間、時間共に、全てはエネルギーによって作られている。このエネルギーで作られているってことは、こう考えるより他には考えようがないのだ。ただ、重要な問題は、なぜエネルギーなどと称す、姿の見えないものから、全ての物が作られるかが問題であり、その点が次のように考えられる。
⑤エネルギーは、小さな振動体として粒子を作っている。この粒子がいろんな形で結合することで、全ては作られているのだ。このエネルギーの形態を思いつくことは案外簡単であった。エネルギーが粒になるには、円、球形にエネルギーが振動すれば良いと考えたのだ。
僕の技術的教養からして、この問題を数式的には証明できないが、形而学上的に考えれば、ほぼそこまで想定できたのだ。
僕がそこまで推定できたにも拘わらず、世界最高度の物理化学者の殆どは、振動する粒の存在を、物理的にあまりにダサいとして否定し続けたわけだ。
つまり、物理学者はもっと一般人的に柔軟に、つまり僕のように考えるべきだったと言える。物理学者達は、エネルギーの粒の大きさを有限としないことによって、大いなる矛盾に落ち込んで、長い長い時間を無駄にしたのだ。
更に僕が考えたことは、素粒子が、複数回転することで、元の面が我々の次元に現れるとの実験結果が、既に報告されていたから、我々の宇宙には別の次元がある筈だとも類推出来た。が、学者達は、高次元の宇宙を認識することにさえ長い時間を費やしたのだ。
僕の想定と殆ど変らない結論が、NHKスペシャルの結果であった。
しかし、もっとダサいヒッグス粒子が、我々の宇宙に詰まっているなんて推定は、とてもじゃないが出来なかった。その点からも、ヒッグス粒子なんてものの存在を予測するなんて凄いことだと思う。
日経に面白いのが出ていた。
2014年8月8日の日経夕刊 高橋秀美さんのエッセイに書いていたが「出世する人は、仕事が出来ない人」ってことらしい。
しかし住友重機械は酷過ぎる。
退職者の書いているように、ある時期から出世出来ない人を見境なく切ったものだから
残ったのは仕事が出来ない人ばかりになってしまった。
仕事が出来ない出世した人ばかりが集まって会社の方針を決めているかと思うと
ある意味面白い。
ただ、高橋さんの法則は日本だけにあてはまると思う。世界標準では、仕事が出来ない人は取り残されてしまう。
0 件のコメント:
コメントを投稿