2021年1月5日火曜日

今年考えること(2) SF小説とSF小説的災害

 僕は大学時代、しばしばSF小説を読んだ。大阪阿部野橋に天海堂なる古書店があり、そこで、ハヤカワ・SF・シリーズ(現在のハヤカワSF文庫の前身)や、大学への帰りに早川書店世界SF全集とかを買い愛読していた。そのSF小説の中では、毒ガス・ウイルス禍・原子力戦争等が当然のように勃発して世界が破滅の淵にたつことがしばしばであった。
入社すると、新入社員は新居浜に行って新人教育を受けるのだが、その最中に僕は肝炎と診断されて、新居浜か大阪の住友病院に入院しろと言われて大阪に決めた。3か月の入院後、新居浜に帰ったら運搬機事業部に配属されていた。そのまま務めていたが、ある時、たまたま同期の男に、原子力戦争が目の前にあるぞと警告すると、みんな死ぬからいいのじゃないか、と言われて、あっそうかと納得してしまい、SF小説も読まなくなり、世界的危機について考えることはなくなった。

そのまま、数十年を経てから、先ずは、阪神大震災で次いで東北大震災であった。特に東北震災の時には、関東は、SF小説通りの混乱に包まれた。道路は大渋滞で、給油所の前には車の列が並び、国道296は大渋滞で、国鉄駅は列車が混乱して人であふれていた。この景色はどこかで見たな、とデジャヴ感に襲われた。よく考えるとSF小説でのパニック情景だ。

更には原子力発電所の爆発で、人々は放射能の恐怖におびえた。原子炉はメルトダウンを起こしていて、行政はそれに、NHKでさえ、それを隠して大丈夫だ大丈夫だと嘘をつきまくった。これも、SF小説でしばしば書かれている情景だ。

今度は、殺人ウイルスの蔓延で、人々は全員はマスクを着けて、できるだけ人との距離を置こうとびくびくしている。これもまたSF小説の通りだ。

全てSFで予見されていたことだ。
この順から行くと、今度は、中国の原水爆攻撃だろう。中国の軍部は、戦前の関東軍なみの好戦的意欲と、恐ろしいことに中華思想でおかされている。原水爆戦争を恐れない勇猛さを持っている。原子力戦争か、すぐそこに迫っている。
でも、みんな死ねばそれで良い?と、かの同期生は言うであろう。

更に思い出すと、米国における独裁者の勃興や、世界が監視国家となり人類がその横暴な国家に支配されることなどは、既に古典的SFとなっている。中国の武力好きで横暴さから言えばその可能性は著しく高くなっている。南シナ海での中米抗争からの世界大戦もまた、古典的SFと言えるだろう。
かく考えると、世界の不安定的要因や、人類への脅威、ウイルスの脅威等の原因はほぼ全てが中國の横暴さと野蛮さから生じている。
誰にも止めることは出来ないようだ。


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