2020年10月3日土曜日

本を楽しむには、読まなくても手元に置いておくって方法も有るようだ。

 確かに僕にも何冊か、それとも、何十冊のさような本があり、amazonやメルカリで売れる度に寂しく感じる本がある。「ベルトコンベヤの計画の管理」とか、「漏洩防止法」とか、「赤毛のアン」もそうだろう。無理やり売るのはやめておこう。たとえ、僕の死後にごみくずとなろうともである。


<書物の身の上 出久根達郎>愛すべき漫画の思い出
落丁騒ぎや作者との交流

2020/10/3付
1959文字
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女優・吉永小百合は、声でデビューした。昭和三十二(一九五七)年当時の子どもたちは、定刻六時になるとラジオに耳を傾けた。「ちょこざいな小僧め、名をなのれ」「赤胴鈴之助だ」。そして剣をとっては日本一に、という主題曲が流れてくる。鈴之助の師、千葉周作の娘さゆりが、吉永小百合の役だった。張りのある、歯切れのよい東京弁である。田舎の少年(筆者である)は声から絶世の美女を想像し(実際そうだが)、「さゆり」に恋をした。

「赤胴鈴之助」はもともと漫画の主人公だっ

イラスト・南伸坊

イラスト・南伸坊

た。月刊誌「少年画報」に連載されていて、熱狂的に読まれた。「漫画の神様」手塚治虫と人気を分け合っていた福井英一の作品だった。ところが第一回を発表した直後、過労で三十三歳の若さで急死した。急きょ武内つなよしが引き継いだ。武内つなよし版『赤胴鈴之助』が爆発的ヒットをしたのである。従って武内が実質的な原作者となる。福井英一は忘れられた。

昭和四十六年夏、私は友人たちと伊豆の大瀬崎でキャンプを張っていた。昼の食事を作っていたら、空の高みで遠くドーンと腹にこたえる音がした。あとでわかったが全日空機と自衛隊機が岩手の雫石(しずくいし)上空で衝突した音であった。大瀬崎入口のバス停前に、氷屋があった。私たちが氷イチゴを注文すると、奥のテレビが衝突事故を報じていた。店の壁には本棚が据えてあって、古い漫画がびっしりと詰まっていた。氷屋は夏場の商いで、本来は貸本屋なのだろう。福井英一の『豆らいでん』があった。昭和二十九年十一月発行、定価百三十円、発行所は太平洋文庫である。他の漫画に比べると、汚れが少ない。私は譲ってほしい、と交渉した。店主は難色を示したが、金額を告げると了承した。私は古本屋の番頭だったから、相手が満足する値段を提示したのである。友人たちは、しかし私がうまい商売をしたと早合点し、奢(おご)れよ、今回の酒代は皆お前が持て、とたかった。

私は福井英一がほしかったのである。転売するつもりはなかった。福井は手塚治虫や杉浦茂やうしおそうじと共に、大好きな漫画家であった。『豆らいでん』は宝ものにした。

通信販売を始めた頃、売り物の目玉に窮して、虎の子を手離すことになった。古い漫画本は、その頃、一部の愛好者が収集していて、一般人は見向きもしなかった。ブームが起こるのはこの数年後である。手塚治虫の『新宝島』に百万円の値がつき、それを小学生がお年玉を貯(た)めて買いに来た。

『豆らいでん』には二千円の売価を付した。早速、地方のお客から引きあいがあった。送金を確認し、思い出の品を郵送した。ところが数日後、落丁があったと連絡がきた。本文一頁(ページ)が抜けている、という。そんなはずはない、大瀬崎から帰ってすぐに私は読んだのである。しかし現に欠落していると断言されると、つっぱねる自信はない。漫画は拾い読みのような形で読むことが多い。物語によっては一頁飛ばしても気がつかぬ場合も、なきにしもあらずだ。証明できない。

客は大幅に値引きしてくれるならもらう、と言う。落丁本は商品にならぬ。買ってくれるだけありがたい。だが私は断った。自分で持っていたい。客は未練げに再考をうながしたが、私は返金の手続きをとった。

後年この話を同業にすると、食わせ者の手口だと教えられた。傷物は売りものにできぬので返品に及ばぬ、進呈すると詫(わ)びるや、得たりと破いた頁を復原するのだそうである。されば貴重な本は、「落丁乱丁他調査済み」の伝票を挟んで届けるよし。

『豆らいでん』の落丁本は、その後、落丁でも構わないから是非ほしい、とせがむ客に売った。傷本だろうと何だろうと、「本物」なら手元に置いて眺めていたい。それが漫画本の良さです、とその客は笑った。

二十年前になる。新聞の出版広告で著者「うしおそうじ」の名を見つけ目をみはった。『昭和漫画雑記帖』という本だった。健在だったのだ。なつかしく、取りよせて夢中で読んだ。

小学生の頃、この人の『どんぐり天狗(てんぐ)』や『朱房の小天狗』の時代劇漫画が大好きだった。丸みのあるなごやかなタッチの絵と、ストーリーの面白さ、垢(あか)ぬけたセンスが何ともこころよかった。そのはずだ、氏は東京・芝生まれのきっすいの江戸っ子、と先の本で知った。戦前、東宝の特技課で、ゴジラの生みの親の円谷(つぶらや)英二の愛弟子(まなでし)だった。『昭和漫画雑記帖』の紹介文を書いたら、それを目にした氏から丁重な手紙をいただいた。作品の雰囲気そのままの、ほのぼのとした筆跡である。何度か手紙のやりとりをした。手塚治虫伝を執筆中とあり、こんな文章があった。「彼が私を尋ねて来て意気投合した昭和二十七年春以降親交を深め福井英一の死によって私が『東京児童漫画会』に引張こまれ」うんぬん。(作家)

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