2018年7月28日土曜日

岩の一族 長老の教え 添書 (2)

 1章 「伊一郎の冬」         
 その日の朝はやけに寒く、それはまた、いつもと変わることの無い冬の朝で、顔に凍て付く大気がじんじんと、眠り半ばの頭のん中を刺激して伊一郎は奇妙な心地好さを感じた。吐く息のことごとくが忽ち凝縮し白い霧となって後方に流れるさまに、休みの朝には周囲の全てが普段とは違って見えると、彼は機嫌良く一輪車を押していたのだが、木立の所に行着く直前に小母さんに引っ掛かってしまった。「ねえ、君」と呼び掛けて、伊一郎が「はあ?」と返事をすると、彼の立場も確かめず言いたいことを猛然とまくしたてた。
「池の底に、あんなビニールシートを張るなんておかしいのとちゃう?ビニールから危ないもんが漏れるかもしれんし、鴨が食べる草の芽も出えへんのとちゃうやろか。公園ちゅうたら自然を楽しむためにあるんやのに、これはやっぱり変やわ」と言い、伊一郎の弁明をじっと待っている。

 公園の中で一輪車を押しているだけで、公園の管理一切が伊一郎の手にあるような、それに管理上の不手際が彼の責任であると言わんばかりの目付きでじっと見詰めているので困ってしまった。公園で働いているのは彼だけではないが、ジャンパーとジーパン姿の見るからに素人姿をわざわざ選んで苦情を言うのも少々気にさわった。他の連中は袖や腿の所が膨らんだ本格的な鳶服を着ているから文句を言うのが恐ろしいのだ。

 こんなに朝早くから散歩する小母さんも珍しい。年は三十代半ばで整った顔立ちだが有り合わせの普段着を有るがままに身に着けて乱れた髪もそのままの散歩である。この年代頃から女は二手に別れるらしい。環境問題とか福祉とかにうるさくなる少数派と、人生を楽しく、好きなように生きてゆく多数派で、小母さんは明らかに少数派に属している。

「はあー、すんません。ここの池は谷間を堰止めて造ったもんやから、底にいろんな腐敗物があって、それでメタンガスが発生するんです。それに、葦が蔓延るのを押さえるんにも、暫らくの間はシートをしているらしいんですけど・・。なんにしても僕はただのアルバイトやから、それ以上のことは市役所の公園課の方に言うてもらわな僕にはなんともしようがありませんねん」と、もうこれで三度目めのクレームだし、おふくろに似た感じの女の扱いには伊一郎も手慣れている。本当であれば、『そんなこと知るかい』とでも言い返しても良いのだが、揉めるのはまずい事情があるし、それに、彼がこの公園で働き始めてから、なんとなくこんな小母さんを尊敬する気持ちにもなりはじめている。

 公園の状態に気付くことについては男の方が数多く、池の所々でメタンガスの圧力で浮き上がっているビニールシートを眺めながら、『ふーん、メタンガスやな』と独り言を呟いている。女よりは的確に状況を把握していながらも、それ以上の行動には移らない。それに較べて小母さんは、科学的、分析的思考力は皆無であるが、異常なことを直感で気付いて、しかもそれを誰かに訴えようとする気持ちがあるだけでもましだ。こんな小母さんが何人か集まって、市役所に文句を言ってくれれば鴨の住みよい池に戻るだろうなあと、心待ちにしているところも伊一郎にもある。

「そうか、あんたに言うてもしゃあないなあ」と今日の小母さんは簡単に引き下がってくれたから彼は出来るだけ愛想のいい顔で、にこっと笑ってから手押し車を持ちなおした。

 彼の住む住宅地は南河内の美陵の駅から南へと町中を突っ切り、しばらくは平地を、それからはどんどんと坂を登っていった所にある。最初は緩やかだが徐々に急になってゆく坂は住宅地の手前では、それはもうバスでも登るのが精一杯の坂道だ。羽曳野の丘のほぼ頂上に近い山を切り開いて造成した住宅地で、上手に残る二つの丘の間には、かなり大きな公園があり、向う側へとなだらかな下りの雑木林がずっと続き、さらに彼方には住宅地の続く平地があるらしいが、伊一郎もまだそこまでは行ったことが無い。

 公園を取巻く二つの丘を含めた一帯は市の自然保全林に指定され、名も知らない種々雑多な木々が欝蒼と茂り下草も茂るにまかされている。彼は公園で、日曜ごとに、なんの金にもならない仕事を続けているのだ。

 家ではどうしようもない不精者が、去年の十一月以来すでに二ヵ月半も、毎日曜日それに冬休みには大晦日から正月の三日までを除いては連日働いた。我が事ながら、これはもう気違い沙汰だと考えて、伊一郎はなんとか罷めようとは思うのだが、なかなかそのきっかけを掴めない。日曜の七時に公園の入口に行くと、赤木の爺さんが着古した薄鼠色の作業服姿で、痩せた体をかかしのように延ばし空を見上げて待っている。脇に置いてある作業用一輪車の上には鳥箱や餌台、それに脚立や金槌とかの道具一式を乗せている。それからは爺さんの指示に従って林のあちこちに鳥箱と餌台を取付けに行くのだ。この仕事は誰に頼まれたのでもなく爺さん一人のボランティアだから何処からも金は出ない。となれば、それを手伝う彼にも何の手当てもない。完全なる無償奉仕で、そのことを考えるたびに損をしているような気持が心の片隅にくすぶるが、他にやりたいことでもあるのかと心に問質せばその火はたちどころに消えてしまう。

 爺さんは手書きで公園と自然保全林の詳細な地図を作り、何処に何を設置するかのプランを綿密に記入している。一度、地図を見せてもらったが、『鳥の楽園』と表題をつけたA1サイズの手書きカラー地図には一本一本の木の配置や、何処に鳥箱や餌台を置くかが一目で判るように精密に書き込んであり、手書きながら、まるで写真印刷のような精巧な地図を見ただけで、赤木の爺さんは少なくとも作図については素人ではないと伊一郎は睨んだ。それはそれとして、二人の取組んでいることが気の遠くなるような膨大な仕事だということも十二分に判った。巣箱と餌台だけではない。地図の中に点線の印があったので、これは何かと尋ねたら、例の如く、まるで石が喋っているような口調で、鳥の好む実を着ける木だと答えた。さらに問い詰めたが、『今はまだ植えてないが、自分で買って植える予定の木だ』と言った。印は地図のあちこちに点々と散らばっていて、一目で勘定できるような数ではなかった。彼は一瞬目眩を起こし体がぐらりと揺れるのを感じた。

 そもそも公園や自然保全林の至る所に勝手に植樹してよいのかと、それに、これほどの植樹を手伝うのかとの思いが入り乱れ、彼の脳を掻き回したのだ。かすれる声で爺さんに植木の数をきいたが、『さあ・、数は日々追加しているから判らんが、だいたいのところ鳥箱が300個、餌台が50個、実の成る木が150本くらいかな』と軽く軽く答え、伊一郎は『300個・・50個・・150本・・・か』と繰り返した。

 膨大な数値に、それまで乱れていた脳味噌は却って冷却凝縮して平静な思考力を取り戻した。で、伊一郎はゆっくりと筋道をたてて考えた。

『爺さんを手伝っている僕はあくまで脇役の筈だけれども、爺さんは巣箱作りで週日は手一杯だ。だから取り付けは概ね日曜日にやることになる。しかも、65才の爺さんには高所仕事や力仕事は余り捗らず、結局僕が居なければ仕事は出来ない』と言う按配にである。そうして、これだけの仕事が一体いつになれば終わるのだろうかと、肝腎のことに考えが至った途端に頭の中には再び黄色く光るスパークがあった。

 去年の十一月初旬の早朝、伊一郎が池の鴨に餌を与えに来た時に、爺さんから『少し手伝ってくれ』と声を掛けられた。その『少しの手伝い』がかなりハードな手伝いで、帰りぎわには『また来週も頼むな』と言われ続けて二ヵ月半にもなっている。

 これは与えられた運命そのものだと、伊一郎の諦めはとうの昔についている。何故なら、それまで公園には来たことも無いのに偶々その前日の夕食時に、池の鴨がとても人に慣れていて人の手から餌を取るほどだと母親に話す親父の声を横聞きし、声に含まれた感動の響きに、つまらぬことに感激する親父だと軽蔑感を感じながらも、鴨とはそもそもどんな鳥であろうかと、今から思えばよけいな興味を持ち、翌日の朝早くに公園に行ってみた。親父の言うように、鴨は伊一郎の手にあるパン屑の袋を見ただけでギャーギャーと喚きながら集まってきて手の上の餌をつつき始めた。鴨の嘴が手に触れた瞬間、親父の口調に含まれていたのと同じ、あの嘲笑うべき感動が伊一郎を襲ったのだ。

 合成樹脂のような肌触りをもつ嘴の感触は心のどこかに火を付け、火はじょじょに大きくなった。今まで感じたことのない暖か味が体の隅々へと流れだし、今まで存在を感じたこともない新しい存在が顔を出して体を操りだした。新しい伊一郎は鴨を見ながら、ただ馬鹿のようにニヤニヤと笑っていた。

 たった一度鳥と触れ合って感動し、今は『鳥の楽園』造りを手伝っている。命に別状のない伝染病に罹ったみたいなものだと諦めて、平静な気持で受験勉強に明け暮れる週日の日々と、無賃の肉体労働で疲れ果てる日曜を彼は過ごしている。

 

 ここ二ヵ月半で三人もの小母さん達からのクレームである。これは市としても考慮すべきではないかと、考え考え歩いている間に爺さんの居る木立に着いた。彼は手押し車の上に置いた千両の木はそのままに、木立の中へと入って行った。

 今日の予定は鳥箱三個の取付けと千両の植付けである。爺さんの鳥箱製作能力は最近漸く一週間に三個に向上したが、それ以上は少々むずかしいとのことだ。鳥箱にしては余りにも凝った造りで、作るのには時間が掛かるのだとは思うが、これも爺さんの性格だからしかたがない。今まで五十個は取付けたから後二百五十個、まだ一年半以上は懸かると、これは小学生でも出来る勘定で、その計算結果から推測するに、高校二年三学期の伊一郎は大学生になっても手伝わねばならないと、これはもっと簡単な推測の結論なのだ。この事実を考えまいとはするのだが、仕事の最中に、ついつい頭の中で計算、再計算、再々計算と繰返してしまい、巣箱の取付け位置をあれこれと思案する爺さんの横で、伊一郎の心とそれに肉体がそっと溜息をひとつついた。彼の思いをよそに爺さんは手に巣箱を持ち、真っすぐな体をいよいよ起てて寝癖のついた白髪頭の端正な顔をじっと木の上に向けている。どの高さと方向に巣箱を据えればと深く深く思案している。

 雲一つなく風もない今朝は穏やかな冬の朝である。紺色の世界が光の世界に徐々にその力を譲りつつあるひと時で、太陽はまだ公園を取り囲む小高い岡の向うに居て、東の空は薄赤く色付いているものの、木々の緑は墨色の影のまま丘の上に連なり、冬の緑は堅く人を拒んでいるようにも見える。しかし爺さんと一緒に働くようになってから、緑の内側に多くの動物たちが身を寄せ有って住んでいることを知った彼には、寒々とした緑の外面は単にみせかけで、むしろ厳しい環境に住む小動物たちを守るために、自然が造り上げた見事な調和を示す色とさえ感じられる。永い時の彼方には、硬い緑の壁に守られ暮らしていた人間達も、自然から遊離した生活を始めてからは、かっての彼がそうであったように真実に気付かぬようになってしまったのだと、そこまで考えて自分を取り戻した伊一郎は、『いかん、爺さんの影響をもろにうけとる』と頭を強く振った。

 口数の少ない爺さんの僅かな言葉の端から察するに、爺さんは技術関係の仕事をしてきたらしい。仕事をやめて最近になって突然、彼がその一生を掛けた仕事の意義に疑問を持ち始めたのだ。自然は長い時間をかけて営々と人なる種を育て、成長した人類は自分たちの都合で自然を改造し、また破壊し続けている。爺さんはその先頭に立って働いてきたのだと、悲しげな顔をして話したことがある。

 伊一郎にはとても理解できる心境ではない。単に人間の競争力が他の動物に優っているだけのことで、それ程大仰なこととは思えない。それどころか、人はまた人同志でも他人を押さえ付けようと競争し合っているのだ。このことを認識しているだけでも爺さんに較べて精神状態は極めて正常だなどと、伊一郎はまたまた詰まらない考えに入り込んでしまった。やれやれ爺さんと一緒にいると、どうも非生産的なことを過剰に考え過ぎると、再びじっくりと頭を振ってから視線を木の葉を通して見える池の方に向けた。

 真近の水面を真鴨が群れて騒がしく視界を横切った。池には十羽の真鴨がいる。首から上が光沢のある青緑色の三羽の雄鴨と薄茶色に黒い斑点の四羽の雌鴨、それに雌鴨に似た三羽の若い鴨である。ところが、十羽の真鴨の後に、少し小型の見かけぬ一羽の水鳥が視界をよぎった。伊一郎は慌てて林から飛出した。

 広い瓢箪形の池の端から端までをギャーギャーと騒々しく泳ぎ回る真鴨とは対照的に、その鴨はただ一羽、遠慮がちに鈍く光る微かな波を立てて静かに小さな円を描きながら泳いでいた。首から上は艶のある茶色で体は銀色に輝いている。目はまるで赤いボタンを二つ付けたようで、どこを見ているかの見当がつかない。なんて美しい鳥だろうかと一目見ただけで彼はうっとりとしてしまった。彼の罹った伝染病は、こんなときにはいよいよ激しい症状を示すらしく、体の隅々までがじんじんするような快感を伴った。

 彼は、ふと爺さんからもらったカードのことを思い出した。手伝い始めてすぐにくれたカードで、野鳥のカラー写真と鳥ごとの特徴とかが書いてあり、彼の能力の中で唯一自信のある記憶力を駆使して数十枚のカードはしっかりと覚えている。目を閉じ心のなかのカードを捜し当て、一枚づつめくってゆくと、すぐにその水鳥の名前に行着いた。目を開き眼前を泳ぐ水鳥を眺めて確認してから、伊一郎は林の中に戻り爺さんに話し掛けた。

「お爺さん。池にホシハジロが一羽来てますよ」

 爺さんには外界の音が全く聞こえないようだ。気にせず伊一郎は二度、三度と声を掛けた。気付いた爺さんは焦点の合わない眼を向けてから漸く現実世界へと戻ってきた。

「ふん、ああ・・そうか、新しい水鳥か。ああ、そうだ。君が来る前に気付いたんだが、あれはホシ・・なんて言う鳥だって」

「ホシハジロです」

 爺さんはじっと伊一郎の眼を覗きこんだ。現実世界に戻ったときの爺さんの眼は厳しく澄んでいて、高い背筋をいよいよ高く延ばし、見下ろす眼は心の内まで入り込むようだ。

「何故わかるのだ」

 伊一郎は困って少し体を揺らした。

「何故って、・・お爺さんのくれたカードに書いてありましたよ。えー、眼は赤く茶色の頭と白い体。真鴨よりも小型の体形。だけども、実物の体の色は白と言うよりは銀色に見えるんですけど」と答えたものの、銀色と言う所で彼の声は、不本意ながらも感動で微かに震えた。

「ほー、実に素晴らしい記憶力だ。君はあのカードの全てを覚えているのか」

 誉められて気分は良くなったけれど、伊一郎には爺さんの考えが余計に判らなくなった。彼よりも早くに気付きながら、何故爺さんは鳥の名前を調べようとしないのか。ホシハジロはまるで奇跡のような存在だ。シベリヤか樺太かは知らないが遥か彼方からこの町傍の小さな池に、ただ一羽訪れて羽を休めている。奇跡的に訪れたこの美しい鳥を見て、なんの感動もないのか。そもそも、その感動なしに爺さん計画の『鳥の楽園』への執念はどこから生まれてくるのだろうか。たぶん鴨が持ち込んだ伝染病の症状には、かなりの固体差があるに違いないと伊一郎は考えた。

「ええ、あれぐらいは簡単です。なんしろ僕は受験生だし、それに僕の最大の能力は記憶力やから」との伊一郎の返事を、爺さんは噛みしめるように聞き、それから必要以上の時間を掛けて考えてから、

「うーん、そうか。私の経験から言って記憶力こそが全ての基本だ。私も若い頃は記憶力の塊りだったからその事は十分に判っている。あらゆる学問には、その学問固有の言葉があって、それを記憶することから全てが始まり、研究とは、いかなる分野においても常に新しい言葉を作ることを意味するのだ。だから君はその能力を十分に発揮することが重要だ」と、返答はホシハジロから外れ、いつものごとく哲学的な話しとなっていて、

「ところであっちの35号巣箱のところに居着いた鳥の名前は判るかね」と続けた言葉はもう、ホシハジロのことは完全に忘れている。

 以前に据えた巣箱の所で鳴声がしているのだ。巣箱のことになると鋭敏な爺さんである。しかし、姿や鳴声から鳥の名前を識別するのは伊一郎の仕事である。これもまた理解しがたいが、爺さんは鳥の鳴声をまったく記憶しようとはしないのだ。ささやかな目白の鳴声が判別できないのなら耳が遠いとも言えるが、あのけたたましいひよどりの鳴声すら判らないとなれば、これは鳥の鳴声には一欠けらの興味もないと考えるより仕方がない。

 とは言えこの点では伊一郎も偉そうなことは口には出来ない。なにしろ、爺さんの手伝いを始めるまで、この世界に鳥の鳴声が存在することすら知らなかったのだ。一歩家を出ればあちこちの屋根の上や、木の片隅で無数の小鳥達が囀り、語り合っていることを知ったのはつい最近で、それまでの彼はそれこそ耳が付いていないと言われても仕方がない。

「ええ・・、鳴声からすれば、シジュウカラに間違いありません」 ツーピーツーピーと喚いているのは、間違いなくシジュウカラで、しかも、この辺りを縄張りにする顔も声も大きな馴染みのシジュウカラだ。いでいちゃついているところからすると、とうとう相手にめぐりあえたのだ。雀と同じような体形ではありながら、雀とは違い、あくまで一匹狼で行動し、生意気にも、薄青い色合の良いスーツをきている。普段着姿でたむろするような雀とはぜんぜんちゃうんですよ、と言っているようで、お高くとまっている姿が伊一郎には余り好感が持てない。

「ふーん」と言ってから、爺さんはポケットから手帳を取り出して鳥の名前を書き込み、それから下に置いていた巣箱を持ち上げた。本日の話はこれでおしまい・・だ。

爺さんの頭脳が瞑想に入らぬうちにと伊一郎は急いで問い掛けた。
「お爺さん、僕はこれから植木を持っていきます。何処に運んでおいたらええんですか」
 段取りを任せておけば日が暮れてしまうと伊一郎は積極的に行動することにしている。
巣箱の取付け位置のことで頭が一杯になっている爺さんは、焦点の合わない眼をゆっくりと向けた。
 なんとか千両の木を植える場所を聞出した伊一郎は林の外に出た。仕事は少々後回しにしてと、新入り鳥の銀色と茶色に輝く見事な衣装を十分に堪能し、体中を幸福感で一杯にしてから一輪車のところに行った。

 一輪車を押して歩いていると、池の縁で働いている造園業の人夫の横を通り掛かった。彼等は定期的にこの公園で働いている。大体は週日に入っているらしいが、やり残した仕事があるときには日曜にも仕事をするようだ。連中のは市の依頼を受けた仕事で、伊一郎の方は誰の許可を得ることもなく勝手にやっている、どう考えても違法な仕事である。だから彼等と出合った時には自然と顔をそむけてしまうのだ。彼は、何か問われたときのためにと以前から考えている回答例を思い出し念のためにと心に刻み込んだ。
 植木の穴を掘っていた筈の三人の人夫が、いつもは完全に無視されるのが常であるのに何故か、今は立ったまま通り過ぎる伊一郎をじっと見つめている。胸の鼓動が心なし早くなったようである。

「おい、兄ちゃん」と、ほぼ通り過ぎた時に声が掛かった。
 充分に聞き取れたのだが伊一郎はその声を無視して歩いた。すると今度は腹にこたえる、どすの効いた大きな声が響き渡った。
「おい、兄ちゃん!」
うへ!と飛び上がり、伊一郎は振返った。

 三人共に腕や太腿で大きく膨らんだ鳶服と地下足袋の装いで立っていて、その中でも図抜けて体の大きなおっさんが伊一郎に笑いかけていて、全く悪意は感じ取れなかった。
「兄ちゃん、ちょっと手伝ってくれんか。三人では少々手に余る仕事なんや」
と、おっさんの言葉が伊一郎の頭に入るまでは少々時間が掛かり、それから、
「ええですよ」と、伊一郎は心底ほっとしながら答えた。

 池のすぐ傍に植木の穴が深く掘ってあり、穴と池の間には土が池に落ち込むのを防ぐ仕切りが立ててある。頼まれた仕事とは衝立てを支えているだけのことであった。大きな植木を運ぶだけに三人が必要で、仕切りを支える人手が不足したのだ。
 掛け声とともに三人は木を穴に運び入れ土を放り込み、あっと言う間に手伝いは済んでしまった。
「すまんかったな、兄ちゃん」
「いえ、たいしたことありません。ほんなら」と離れようとすると、
「まあ、待ちや。わしらはここらで休憩や。あったかい缶コーヒがあるから飲んでゆきや」「いえ、ええんです」と即座に答え行きかけると、体の大きなおっさんが袖を捉まえて、
「まあ、遠慮すんな」と無理遣り押し留めた。こうなっては仕方がない。ご馳走になろうと伊一郎は決心した。

 体の小さなおっさんが、これも、にこにこ笑いながら、「ホイッ」と傍に置いてあった紙袋から缶を取出して手渡した。早くこの場を離れようと急いで飲もうとしたのだが、手にした缶はとても熱くて、じっと持っているのも大変である。仕方がないので手の中で転がしながら缶が冷えるのを待ち、まずい状況になったわいと伊一郎は考えた。案の定、体の大きなおっさんが話し掛けた。
「兄ちゃん、日曜だけのアルバイトか」
 黒く日焼けした顔に走る何本かの筋は、遠目にはてっきり皺だと思っていたのだが、すぐ傍で見るとどうやら切傷のようである。切傷の間に眼と鼻と口があるような按配である。これに気付き、伊一郎はいよいよ萎縮してしまった。『これはえらいこっちゃ』と心の中で呟き、出来るだけ愛想のいい顔をして「ええ」と答えた。公園で働くようになってから伊一郎はあちこちで愛想を振り撒くことになってしまった。

どこの会社から来とるんや」と言葉を続けるおっさんの顔をそれとなく窺ったが、おっさんは不気味な顔をほころばせていて、大きく開いた口からはヤニで黄色く汚れた歯が見えている。かなり人相の悪い面構えではあるが、笑顔には妙な愛敬があった。
「さあ、僕はおじいさんの手伝いしてるだけやから知りませんねん」
「成程なあ。あのお爺さんから金もらっとるわけやなあ」
「ええ、そうですねん」と、これも疑いを抱かせないためには必要な嘘である。
「なんぼもろとんや」
「それ人に言うたらあかんと言われてるんですわ」

 伊一郎の答えにおっさんは、大きく笑ってから、
「そらそうやわなあ。企業秘密やからなあ。あの先生と話しとったらどうもピントが合わんので兄ちゃんに聞いたんやが、先生も大事なとこではしっかりしとるんやなあ・・わしが思うに、あの爺さんはただもんやないな。話し方、それに物腰見とったら、まず大会社の偉いさんか、大学教授やったちゅうとこやな。なんでこんな仕事しとるんか知らんか?」と、伊一郎の回答予定には無い質問を真剣な顔付で言った。成程爺さんの風貌はそう言われればそのようにも見える。まさか引退して趣味で勝手に公園を荒らしているとも言えないので頭を捻り考えたが巧妙なストーリイも思い浮かばない。そこで伊一郎は気付いたのだが、このことについては真実を言ってもなんの問題もないのだ。
「さあー、僕も、道で声を掛けられて、それから働いているだけやからよう知りまへん」 
 おっさんは「あっははは」と大口を開け豪快に笑ってから、

「二人とも大したもんや。ところで、お前、高校生か」と言った。 伊一郎は頷きながら、まだまだ熱いコーヒを一気に飲み干した。喉の奥に熱いものが流れこみ涙が出そうになったので、頭を振って熱さを我慢した。

「大学教授と苦学生か、なかなかええ取り合せやなあ。まあ頑張りや、これからもよろしゅうな」と、頭まで下げるものだから、伊一郎は「ご馳走さまでした」と慣れない言葉に舌を噛みそうになりながら急いで頭を下げた。

 このことが有ってからは、伊一郎はしばしばおっさん達に話し掛けられるようになった。見慣れない彼と爺さんのことを知りたいのだとも考えたが、理由は判らぬものの、どうもそれだけではないと思えるところがあった。

 鳶服に身を固めたおっさん達は、見かけとは違って気の良い男達であった。体の大きな顔が傷痕だらけのおっさんは熊さんと呼ばれている。名が熊木だから熊さんである。頭に白髪が混じってはいるが胸幅の広い頑健な体からは生き生きとした生命力が発散している。中背で痩せ形のおっさんは姓が芝田で芝やんと呼ばれている。東北から出稼ぎに来ている成田なるおっさんは東北はんと呼ばれていて、二人とも余り特色のない人の良さそうな顔にいつも笑顔を浮かべていた。

 三人の中でも兄貴格の熊さんは特に伊一郎のことが気に入ったらしい。伊一郎が居るときには機嫌がよく、それを知る芝やんや東北はんも、ちょっとしたことでも仲間に誘うのだ。さらに困ったことには、この公園以外のあちこちでも働いている熊さん達は、公園で働く日をわざわざ日曜日に決めたらしく、週毎に顔を合わせるようになってしまった。

 爺さんと二人で巣箱を据えていると、時々芝やんか東北はんがやって来て応援を要請し、その殆どに爺さんが気安く応じて伊一郎は駆りだされる。行けば、仕事半ばや後には必ず休憩があり、ジュースとか菓子をご相伴にあずかり、手伝いを終えて戻るときには爺さんへの土産が手渡された。

 公園での人間関係は二人から五人へと一気に二倍半にもなったが、その人間関係はこれ以上は望めないほどに単純明快で全く気楽である。熊さん達と一緒に居るときには彼等の馬鹿話に適当にあいずちをうっておれば、それで熊さん達は満足しているし、それが熊さん達の習慣か、人のことをあまり詮索しないという流儀もいよいよ伊一郎の気にいった。二度三度と話している間に彼も馬鹿話をやっていて、それが又熊さん達には受けている。しかし折々に爺さんについての質問があるので、いつの間にか伊一郎はストーリイを捏造することになってしまった。しかも幾度も話している間にストーリイはかなり綿密なものになっったのだ。

  ストーリイの中では、市役所には衛生課環境係なるものがあり自然動植物の保護を積極的に推進している。環境係のスローガンは“野性動物が住めない場所には人も住めない”とか、もっと格好良くて気に入っているのは“努力なしに自然は得られない!自然都市宣言 市”である。そうして、爺さんの役割は、衛生課環境係から特別に依頼された自然環境保護のエキスパートで、この公園に野鳥を呼び戻す仕事を請負っていることにしたのだ。残念なことに伊一郎の役割は単なる日曜日だけのパートである。それ以上の役柄を与えればもっと詳しいことを知っている筈になるから、これは仕方がない。しかし、口から出任せの作り話を調子に乗って熊さん達にした日の夜にはきっと、家に帰り部屋の机の前に座るひとときになると伊一郎は自己嫌悪に陥ってしまった。

 彼が小学校六年の冬休みの習字の宿題に、手本をなぞって仕上げたのを提出した。優しい女先生から『なぞったのではないか』と質問され、後から考えれば、素直に認めればそれだけのことで済んだのに、彼はきっぱりと否定してしまった。その時の女先生の困ったような、それとも、悲しげな目付きが何かの折りに心の奥底からふっと現われ、居ても立ってもおれない気持に襲われる。以来彼は嘘をつくことには神経質なほどに臆病になってしまったのだ。今度の場合はどうにも仕方がない、と自分を納得させているものの、きっと後悔することになるぞと呟く部分が心の中にあって、なんとか嘘を終息させようと決心するのだが、やはり次の週に爺さんのことが話題になると、どうしても嘘は嘘を呼んで話しはいよいよエスカレートするのだった。

 なんの疑問も持たず伊一郎の話しを信じている熊さんは、

「そうか、野鳥を呼び戻すのか、それは良いこっちゃ、昔はここも山地で、ほんまに欝蒼と木が茂っとった。考えれば鳥や狸に狐、その他にも仰山おったからなあ。よっしゃ、及ばずながら儂等も手伝うで」と大いに興味を持ち、しかも、やさしいことを言い伊一郎をほろっとさせ、ついでに良心の呵責をも引摺り出した。

 言葉通り熊さん達は、仕事の合間には爺さんの応援もするようになった。爺さんが巣箱の位置とか高さとかの構想をあれこれと練っている間には、伊一郎はその日の段取りと熊さんの仕事の手伝いをして、爺さんの構想が纏れば熊さん達三人が伊一郎の手伝いをする。 彼等の応援で爺さんのプランは素晴らしく捗るようになったものの、伊一郎はいよいよ忙しくなってしまった。特に熊さんの仕事は、穴堀りとか、コンクリートを練るとかの力仕事が多く、なかなか疲れるものであったが、嘘をついているとの負い目もあって彼は一生懸命に働いた。しかし、真面目さは負い目のせいだけではなかった。こんな日曜日が待ちきれないほどに楽しむ心が彼の中に潜んでいるのだ。彼はいよいよ心の構造が理解できなくなった。

 夕方の四時頃になれば日は弱々しく丘の陰に沈もうとする。冬のささやかな夕焼けの下で彼等は池の傍の空地にゴミや枯枝を集めて焚火をする。朝からの忙しさに疲れ、寒さに冷え切り固く萎縮した体は炎に暖められゆるゆると弾性を取り戻し、体の隅々の毛細血管には流れを回復した血流を感じ、僅かに残る気怠い疲れさえもが気持良く思える。 

 微かに白みを帯びた紺色の空を高く低く横切り鳥達は林へと戻ってくる。みんなは焚火にあたりながら空を見上げ、あの鳥はなんだと伊一郎に問い掛ける。空は暗く鳥達はただの黒い陰となって矢のように空をよぎる。しかし姿、大きさそれに飛びかたから、彼は殆どの鳥を識別出来る。皆は感心して、どうして判るのかと問うので、その度に鳥の見分け方を教えるが、幾度教えても覚えられないようである。

 伊一郎は空を見上げた。丘に挟まれてはいるものの公園の空は大きく開いていて、既に鳥達の時間は過ぎ去り紺色が全ての空に手を拡げ、赤い夕焼けがその最後の光で空の片隅を染めている。冷気が触手を延ばし大気が急速に冷えてゆくのが感じられたが、赤い焚火と、それに胸のなかに息づいた何かが身も心をも暖めている。伊一郎達を除いて人の気配はない。「春が待遠しいなあ」と思わず呟いた伊一郎が、はっと周りを見回すとみんなは彼を見詰めている。集まった視線に照れて頭に手をやったが、

「ほんまやなあ」と熊さんがしみじみと言い、爺さんと芝やんは頷き、東北はんは「んだ、んだ」と呟きながら眼を閉じた。故郷の春を思い出しているに違いない。

 何故春を待っているのだろうかと伊一郎は考えて、心を覗いて驚いてしまった。厳しい寒さを乗り越えた鳥達が、生き生きと飛び回る姿をそこに見いだしたのである。明らかに彼の心は鳥達の春を心待ちにしている。やれやれ鳥の心で考えるようになってしまったのかと、伊一郎は爺さんの顔を横目で盗み見た。その時熊さんが爺さんに言った。

「先生」

 爺さんが自然環境保護のエキスパートだと聞いてからは、熊さんは“先生”と呼びかけ始め、今では全員がそう呼んでいる。

 熊さんの呼掛けにも、爺さんはただ空を見詰めたままである。爺さんの気性を十分に知った熊さんはくすっと伊一郎に笑いかけ、爺さんの返事を待たずに続けた。

「自然環境維持とゆうたら、鳥だけでなしに狸や狐なんかも、それに木や草も相手にせなあかんのやないですか」

 爺さんは腕組みをして空を見上げたまま「うーん」と唸っている。 伊一郎はそれを見て悪い予感がした。爺さんのあらゆる行動は完全主義者の兆候を示している。顔には表さないがプランの不足を指摘されて頭のなかであれこれと考えているのだ。自分の計画に抜けがあると気付けば必ず徹底的な対策を講じて、なんとしても実行しようとするだろう。熊さんも余計なことを言ってくれるなあ、と伊一郎は熊さんを睨むこともならず、俯いて地面を睨み付けた。

 夕陽は丘の下のそのもっと下へと行ってしまい、全てが深い紺色に覆われた。焚火に照らされた彼達とその周囲の地面だけが赤い光の中に残されている。きっと永い永い昔から、人はこうしてお互いを見詰め合う時をもっていたに違いない。しかし伊一郎にとっては十七才にして始めての経験である。

 伊一郎の予感はずばり的中した。

 次の日曜、早速爺さんは“野草"と表題の付いた古本を渡し、春になれば草が生えだす。それまでに草の名前を覚えろと言った。其々の雑草に名札を付ける。木については熊さん達が知っているから、樹名を聞いて名札を付けるのだとも言った。受け取った本をじっと見詰め、なんで草の名前なんか覚えなあかんねん、と伊一郎は小さい声でぼやいた。

 偶然のなせるわざかその日のプレセントはそれだけではなかった。熊さんは帰る間際に紙に包んだものを伊一郎に与えた。

「今度から使え、そのジーパン姿ではいかにもみっともない」とのことで、家に帰ってから袋を開けてみると使いふるしの鳶服である。あの風が吹けば風圧を体一杯に受けそうに袖と腿とが膨らんだ鳶服である。厚く長い靴下と地下足袋も一緒に入っていた。

 勉強部屋で床に拡げた服を前にして伊一郎は腕を組み「うーん」と唸った。これを着て家から公園へ、時には爺さんや熊さんの頼みで仕事に必要な資材を買いに、町中の雑貨店にも行かねばならない。果たしてこれを着てゆく勇気があるだろうかと思ったが、暫らく考えてから、これは勇気の問題ではないと気付いた。人の善意を踏躙る行ないほど熊さんを怒らす行為はあるまい。だからなんとしてもこの鳶服は着なければならないのだ。野草については、もし覚えることに集中できねばそれまでのことだと割り切り、受験勉強の支障になるまでのことはやるまいと考えた。しかしことは思いの他に容易であった。

 翌日からの通学電車の中で彼は野草の本を拡げてみた。なんのことはない、鳥の名前を覚えるのとどうように、野草の名前はすうすうと頭の中に入っていった。むしろ、何故鳥や野草のことになれば、こんなに簡単に覚えることができるのかと、そのことが不安になるほどであった。生存競争にはなんの効果も無いこのような特技が、はたして彼にとってどんな意味をもつのかと、新しい疑問が伊一郎の頭に浮かんだ。

 日曜日、勉強部屋で鳶服を身に付けて、まだ眠っている両親に知れぬように伊一郎は、こそこそと家をでた。日曜毎に行方知れずになることでは、特に気にしていない両親も、いくらなんでも鳶服を纏っていれば、あれこれと詮索するに違いない。いずれは知れるとは思うが説明はなかなか難しい。これは出来るだけ後に延ばしたいのが彼の本心である。公園に着いてから漸く服の着心地に気付いた。思いの他に動きやすいのだ。しかし、何故、かくも凄まじい格好をせねばならないのかとの思いが頭の中を駆け巡った。

 待っていた爺さんは「ほー」と言って、まじまじと伊一郎を見詰めたが、ただそれだけでいつもと変わりない爺さんに戻ってしまった。

 熊さんはと言えば、眼を細め「うむ、なかなか決まっとるな」と言っただけだが、その口調には、なにか浮き浮きとしたものが感じられた。

 その日から熊さんに頼まれる仕事がとてつもなく忙しくなった。新しい階段を公園の方々に作るので、木枠を作り、トロ箱でコンクリートを練っては流し込む作業が続いた。階段一つ造るにしても熊さんは一切の手抜きを許さない。セメントと砂それに砂利の混合比や練り具合、配筋のピッチや組み方、木枠の中へのコンクリートの流れこみ具合、これらを着実に確認しながら仕事を進めてゆく。完全主義者の爺さんと、職人肌の熊さんに使われて伊一郎は体中の筋肉がくたくたになる日曜の連続であった。それと共に体のあちこちの筋肉が固く大きくなったようである。それに骨も一回り大きくなったようだ。学校の昼休みには体を持て余し、一人で鉄棒にぶらさがり、家でも、勉強に疲れたときには逆立ちや腕立て伏せをやっている。鳶服ももらったころには胸の辺りがゴソゴソとしていたが、三週間も過ぎたこの頃はまあまあの具合である。空気を一杯に吸って胸板を両手で叩くと、ドンドンとゴリラがたてるような音がするので、オッホオッホ、と唸るといよいよゴリラに似てきた。これは面白いと真夜中、勉強に飽きたころに何回かやっていると、母親が眠気顔で扉から顔をだして、「あんた、やめといてんか、どこかにゴリラがおるんかと恐ろしかったやないか」と言いに来た。
 鉄棒では、大車輪とまではゆかないが小車輪や前回り、逆上がりは自由にこなせるし、懸垂は三十回は楽にやれる。腕立て伏せも五十回は楽勝である。なんとなく楽しくなって伊一郎はいよいよ体を酷使するようになってしまった。
 

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