2章 「安原信夫の春」
穴の中に屈み込みスコップで軽く探っていると、こちっと微かな手応えが伝わった。『ごちっ』でもなければ『がちっ』でもない刃先の感触に背筋がぞくっと震え信夫は小便をちびりそうになった。たかが土器の固まりを相手に、何故こんなにも興奮するのだろうかと不思議に思えたが、人の心の振舞いは理屈に合わないことだらけだと頭を振るい、その疑問をほうり棄てた。
腰を地面に据えて深呼吸をした。微かに湿る土の匂いが胸に溢れて気持ちが良い。地面をじっと見詰め、それから静かに優しく土を除いていった。胸がおののくこのひとときのために土器掘りを続けているに違いない、と信夫は思った。
赤い山土は粘りもなく軽々と剥がれてゆき、すぐに壺の縁が現れた。箒で土を払うと、これまでになく黒ずんだ肌に微かな皺を無数に持つ壺の口が、赤土の上に丸く浮きだした。今までの土器と同様に注意深く埋められていて、疵はどこにも見られない。しかも、初めてお目にかかる新種の土器である。
「黒褐色の肌色は焼成温度の低い縄文式土器の特徴である。その程度のことは僕でも知っている」と呟いてから信夫の頭は空白になった。穴の地層はいよいよ縄文時代までに遡ったのだ!・・・胸に盛上る興奮は波をうって拡がり、思わず「ほほほほっ」と歓声を上げてしまった。
どういう具合に掘り出そうかとじっと思案する頭上を、からたちの薫り溢れる朝風が走り抜け、風は垣根の向こうの人声をも一緒に運んできた。生垣は路面からかなりの高さに積んだ石垣の上にあり、家の敷地もその高さで広がっている。道で話す人々の言葉はいつも舞い上がるように流れてきて思いの他に聞き取れるのだ。風の薫りは胸の中に甘酸っぱく染み込んだが聞こえる話しの内容は心地よいものではなかった。
「ねえ、こんな見すぼらしい家が私等の住宅内にあるのは情けないと思いません?」とぼそぼそ聞こえ思わず彼は耳を澄ませた。僅かに時間を置いて返事が返った。
「さあー」と自信のなさそうな声音である。
「しかも、そんな家がわたしらの住宅の上に聳えているなんて、これはなんとかするべきですよ・・・ねえ、自治会で提案して正式に抗議してもらおうと考えているんですけど、是非、署名して戴きたいのよ」と、これは三人目の声で、どうやら二人目の人物の署名を得ようと説得しているらしい。その後は暫らく言葉が途絶え、互いの心を探るような沈黙が続いた。新種の土器を見付けた喜びから一瞬に醒めて、信夫はのっそりと立ち上がり家の方を振り返った。穴の深さは彼の背丈ほどになっている。
穴の底から見上げる家はいよいよ空にそそり立ち、巨大な御殿のように見える。空は微かに霞みながらも晴れ渡っている。入母屋造りの屋根瓦はしっとりと重々しく、真壁の漆喰いは日陰にも白く輝き、杉柱は木目も香るようにと浮き立っている。
日本建築についてずぶの素人の信夫が図書館で借りた本で勉強して、知り合いの大工にも教えてもらいながら漸く修理したのだ。家の修理に注いだ生半可でない苦労を思い起こし、見すぼらしいとは誰の家のことやろかと、半信半疑で脚立に手を掛けた。
今でこそ新興住宅に隙間無く囲まれてはいるが、十年程前までは平野に点在する村落を遠くの山裾まで見渡せた。黒々とした大地を、見栄えだけは瀟洒だが、軽薄で面白みの無い家々が皮膚病そのまま闇雲に侵し、重々しい旧家が次々と取り壊されてゆくのが見てとれた。そんな旧家を遠望する度に彼はリヤカーを自転車で引っ張っては訪れ、家の部材、庭木、灯籠やら庭石とか、めぼしい物を貰い受けて持ち帰り、集めた瓦や材木を使って家を修理した。飛びきりの極上品を使っているのだ。
脚立を這い登った信夫は穴の外に出てもう一度家を振り仰いだ。 大きな鬼瓦が切妻のところで銀色に輝きながら見下ろしている。鬼瓦、掛瓦や縁瓦、そのどれもが、しっとりとした輝きを見せて鎮座している。方々から集めただけに、家紋や模様とかが入り混じってはいるが、下から見る限り違いは判別できないし、傍で見たとしてもそれなりの調和は取れている。
そもそも旧家の出だけに由緒正しい瓦ばかりである。その一枚一枚には手に入れるまでのそれなりの思い出が有り、抱き締めたいほどの愛情を感じている。彼等もまた、朝陽には銀色で夕陽には金色に映えることで応えてくれる。
家のただずまいはと言えば、道路から石段を上がり大きな門を一歩入ると切妻側の玄関とその後方に長く続く二階建ての御殿のような家が眼に入る。玄関先に長く飛び出した軒の出具合や、檜の丸太を使った軒支えやら、どこを取っても見すぼらしいとは思えない。南側には広い池と周囲の本格的な庭が見えている。庭の手入れもばっちりである。
輪郭だけは金に飽かした成金の豪邸そのものだが外観も中身も多いに違っている。途方もなく高い天井のせいで冬だけは住みずらいが、素朴で味わいのある造りだ。旧家から集めた庭の石や灯籠達もまた、朴訥で素直な印象を与えている。彼等は自然と溶け合い共に銀色の息吹を放とうと心掛けている。全てがまことに・・まことに見事な調和にある。
家の向こう東側には高さ二十メータはある黒い一枚岩が朝陽を背に黒々と聳えていて、岩の北側に沿って緩やかに続く谷間は雑木の若々しい緑で埋め尽されている。
谷間をさざめき流れる水は庭の池を尽きることなく満たし、それから、諦めたかのようにゆっくりと住宅地の排水路に流れ落ち言葉もなく去ってゆく。・・住宅地を縦断するコンクリート板で蔽われた排水路は、見事にどぶ川にと変身してしまっているのだ。
北側の裏庭には今登ってきたばかりの遺物発掘用の穴が大きく口を開けていて、家と庭の趣を壊しているが、外からは見えず住宅地の美感とは無関係の筈だ。
見すぼらしいとは、むしろ平地の家々の形容にこそ相応しいと信夫は視線を平地の方に戻した。しかし、家と谷間それに谷間を挟む丘一帯が、周囲に続く住宅地の景観とそぐわなくなっていることには気付いている。以前は村や田畑と小川や林に囲まれ、丘と家は周囲の風景とも調和していたのだが、ここ十年で全てが平らな住宅地に変わり、いつのまにか、丘を囲む道を境にして周囲の景観からは完全に浮き上がり時の流れを見失ったかのような印象を与えている。知らない間に家は仲間外れになってしまったのだ。
その事に気付いた時の気持ちは、春のある朝それも突然に、軽装に着替えた人々の中に、厚いオーバを着たままの己れを見いだした時のものである。
春の装いについては着替えで済むが、家についてはどうしようもない。丘に聳える彼の家を眺めるたびに、居心地の悪い複雑な思いを感じるようになり、それからは敷地から出た時には、我家と丘を見ないようにと信夫は努めている。
とは言え、見すぼらしいとの表現にはとても当てはまらない筈だと気を持直した。多分、彼の家のことではないだろうと淡い期待を胸にそっと生垣に近寄り、垣根の上から顔を突き出した。
生垣に沿う細い道は生垣の角で二手に別れ、一方は生垣に沿って谷間に入り小川の横を登り林半ばで途切れている。他方は丘の裾を回り駅の方へと続いている。丘裾の道は敷地の端を横切る私道になっている。
丘裾の道は駅への近道になっていて、多くの人が行き来していたのだが、近頃は車を使う人が殆どで、通る人影はまばらになってしまった。丘と家と道は、恐らくは彼自身もまた、知らず知らずの間に人々からは見捨てられてしまったのだ。
生垣の下に立つ女達の頭が目に入り、髪の色艶から三人とも四十代前後で彼と同年令に見えた。普段着で自転車を支えている女性は見知っている。日々家に沿う坂を通り掛かる数少ない中の一人で、見掛ける度に軽く会釈をする感じの良い女性である。彼等の向き合う形からすると、彼女が残りの二人に呼び止められたらしい。着飾っている二人の女は見掛けたことのない女達だ。恐らく亭主の転勤とかで極く最近に移り住んできたのだろう。ここ十年で周辺に住む人々もまた彼には見知らぬ人ばかりになってしまった。
「それに、林からは蚊やら蠅とかいろんな虫が飛んでくるし、鳥が多くて洗濯物に糞が付くし、困りますからねえ」とこれは新しい女達の一人である。
上品な物言いだが信夫にはこたえた。林には名も知らない小鳥があれこれと住んでいて、時には庭の虫や木の実を目当てに住宅地へと出張ってゆく。別に飼っているわけではないが、鳥が暮らす土地の所有者としての責任もなくはない。
「ちょうど、この丘周辺を開発するとの計画があるので、住民の皆さんの賛同を得ようと回っているのですよ」と言葉を続けた。
「どんな計画なんですか?」とこれは感じの良い方の女だが、何故か言葉は硬く強ばっている。
「そうですねえ。まだはっきりとは決まってないんですけど、半分を近代的な公園にして半分を住宅とかマーケットセンターにするのはどうかと、とにかく近代的で清潔感があって、しかも生活に便利な施設をと考えているらしいのですよ」
信夫は頭を捻った。家の敷地以外は市の保全林として管理を任せているが、所有権そのものは彼にある。その所有者にはなんの相談もない計画らしい。しかも、新しい住人がその計画を触れ回り所有者と家とを追い出そうとしている。彼はくそっと思った。
「で、・・そんな計画を誰が進めているのですか?」と尋ねる口調から、自転車の女性は二人とは親しい間柄ではないと思えなんとなく信夫はほっとした。
「ええ、それは、まだはっきり決まったわけでは無いのですが、市会議員の一部の人達が考えているようなんです」
「市会議員ねえ・・」と呟く声には、信夫の頭の独り言と同様に考え込む響きを含んでいる。この辺りの古い住人の間では、市会議員なる職種は信頼よりむしろ疑惑をもたらす傾向が強いのだ。
「霞岩はどうなるのですか?」と尋ねる声ではっとした。
市会議員についての反応と岩の名を知ることからすると、感じの良い方はやはり地の生まれに違いない。二、三ヵ月前に初めて自転車を押す彼女を見掛けた時から、ずっと昔にどこかで見掛けたとの思いが信夫にはあり、尋ねようと思いながらも日を過ごしてきた。余程切羽詰まらない限り信夫は新しい知人を作ることは避けている。「かすみ・・・なんですか?」
「あの、大きな黒い岩のことです」と顔を上げて指差す動きになり、信夫は急いで顔を生垣の内に引っ込めた。
「ああ、あの岩ねえ」と暫らく逡巡してから、思い切ったように言葉を続けた。
「そうなんですよ。ぼんやりと暗いあの岩が陽射しの邪魔になる元兇ですからねえ、真っ先にとっぱらってもらう積もりですよ」と何故か無理遣り同意させようとしている。
「・・・・」と、感じの良い方は息を詰めるような沈黙に入り、唐突に、見掛けからは想像出来ないような高音のはっきりとした声を発した。
「丘の家は古くからの由緒正しい家です。みすぼらしいのは・・むしろ私達の住宅やないやろか。それに、この丘が有るから緑が残っているのやし、ことに、霞岩はこの辺りでは神聖な岩やと言い伝えられているから、私はそんな計画には絶対反対ですわ!」
と、地まるだしの言葉で言い切り、頭をぐんっと振り上げ、
「失礼します」と標準語の冷たい抑揚に切り換え、吐き捨てるように言ってから自転車を押して下って行った。
残された二人と、それに信夫もまた、あっけにとられて見送っていた。彼女の姿が家の陰に消えてから喝采の声が彼の心に満ち、残された女達の胸には怒りが噴出したようである。
「あの人はいったい何や」との女達の怒りの声を聞きながら、去って行った女がこの地の出であり、しかも例の一族だとの確信を信夫は得た。
信夫がその一族を知ったのは、この家を手に入れてすぐのことである。どうにも理解出来ない連中で今もなお理解はその先に進んでいない。
この家に移ってきた最初の春の彼岸の早朝に、眼を覚ますと家の周囲に妙なざわめきを感じ外に出て驚いた。黒岩の前から裏庭にかけて礼装の人々がわんさと集まっていた。年寄から幼児までの集団で、彼等は無駄話しは一切なしで、次々と岩の前に行っては両手を合わせ黙祷をした。黙祷を終えた人々は、パジャマ姿で立ち竦む信夫に、軽く目礼をしては去って行った。奇妙な静寂の一時間を過ぎると彼だけが茫然と岩の下に佇んでいた。
年に二回だけ彼岸に彼等は現われ消える。その風習は途絶えることなく続いている。一族の殆どは西に広がる住宅地に住んでいるが、大阪府下だけではなくて他府県にも散らばっているらしい。ようするに、裏の大岩を先祖伝来の墓と考える一族と思える。
この家に移り住んでから信夫の知り合いも増え、当然のことだが、彼岸毎に庭に現われる人もその中にいて、この風習のことを尋ねたが、彼等は黙って微笑むだけであった。質問する度に返される無言の微笑みに、尋ねることがためらわれるようになった。
岩の一族以外の人にも尋ねたが、彼等もただ静かに微笑んでいるだけで不気味に思えた。しかし数年してから、こちらの方はただ単に答えるべき何の情報も無いからだと、信夫よりも新しい住人からの質問に、ただうっすらと笑っている己れに気付いた時に判った。 岩の根元で見付けた小さな碑の表面には“霞山吹”と微かに彫り込まれている。何かの折りに彼等の一人が“霞岩”と呟く言葉を耳にして、それが岩の名前だと、霞の意味も山吹の謂れも判らないままに信夫は気付いた。
彼等一族には共通な性格があり静かで誠実で忍耐強く、しかも親切で勉強家である。これだけ、美風が揃うこと自体が異常で、奇妙な風習の目的も判らないままで不気味な感じもするが、彼等との付き合いで裏切られたことは一度も無く、別に気にする必要もないと無視することにした。新興宗教の一つで、しかも勧誘も脅迫もしない大人しく真面目な連中だと考えることにしている。強いて言えば、年に二度の安眠妨害だけが彼等の欠点で、取るに足らない問題である。
去った女は岩を崇拝する一族に違いない。連中を前にして『岩を潰す』とか『取り除く』とかは言わない方が良い。スズメバチの巣に手を突っ込むよりも恐ろしい行為なのだ。その事はこの近辺に一年も住めば判るのだが、署名を勧めた女達はまだ住みついて間が無いのだろう。
信夫は改めて彼女の去って行った道を眺めた。下の道では女達の話しは続いている。
「いったい、人をなんやと思うてるんや」
「ほんまや、せっかく開発が進んで生活し易くなると言っているのにあの態度は!」と、ひとしきり去った女性のことをあげつらい、「それにしても、何か変やねえ。署名頼んで、二、三人に一人はあの態度や。しかも、普段大人しいから、言われた通りにするやろと思う人ばかりや」
「うん、せやけど、自治会とか子供会やピーテーエーの役員やら、得にもならん事やってる人ばかりやけど、影響力のある人が多いから、どうも、この署名運動はまずいんとちゃう?」と、おぼろげながらも恐ろしいタブーの存在に漸く気付いたようだ。
「そうやねえ。いっぺん柳川さんに相談してから出直した方がええのかなあ・・」と呟く言葉で信夫の頭が忙しく回りだした。
そうか、さっき話しに出た市会議員ちゅうのは柳川のことかと彼は納得した。またまた、良からぬことを画策しているのだと、幾度も煮え湯を飲まされた思い出が蘇り、頭にかっと血が昇った。垣根から身を乗出して怒鳴りつけようとしたが、眼の隅に輝くものが動き、その尋常でない輝きが彼の大人げない衝動を押さえてくれた。さもなければ、“丘に住む変人”との評価を更に高めるところであった。
丘裾の道に視線を移すと金色の毛糸の塊りが上下している。信夫はからたちの上に身を乗出したまま二、三度、眼を瞬いた。
異常に背の高い物体がこちらに近付いてくる。頭が金色のむく毛で上半分がピンクで下半分が紺色の、精一杯に派手な色合が若葉を背に朝陽を浴びて輝いている。かような配色の存在が信じられず信夫は眼をぎゅーっと閉じてからゆっくりと開けて見ると、やはり幻覚ではない。金髪と派手なティーシャツの毛唐がこちらにやってくるのだ。やって来る人物に気付いたらしく道の女達のお喋りも突然の中断となった。
信夫は棒立ちになって見詰め、茫然とすることばかりが起こる日だと考えた。
長い足を見事に操り垣根の角に近付いた人物は、彫りの深いまるで西洋人形そのままの若い娘で、陽を斜めに浴びる鼻筋が鋭い陰影を造っている。
垣根の上、下を交互に見てにっこりと笑い、「ハイーッ」と手を上げてから、どちらに近付くべきかと躊躇したようだが、それも瞬時のことで、泥だらけの仕事着よりは着飾った女達を選び下の道へと歩みだした。ごく当然の選択だと信夫は頷いた。
娘は女達の傍まで行き、大きなバッグを地面に置いて話し掛けた。「ドウー、ユー、ノウ、カスミ、ビジネスホテル?」とゆっくりと話すのだが、音節の間をあけるだけで、日本人にとっては、早く喋っているのと変わりない。音節が最小の発音単位だからそれ以上には言葉を分割しては発音できない。そこが今信夫の家に宿泊しているフィリッピン人やバングラデッシ人の発音と根本的に違う点で、英語を母国語とする人の特徴である。しかも、彼女の言葉は米国人そのものを示している。
金髪娘の期待に反して、女達は両手を横に振り金魚のように口をパクパクしているだけで、その有様に信夫は溜飲を下ろし、それに、朝六時半からの初級英語会話の成果に多いに満足した。
門柱には大きな一枚板の表札を掲げてあり、そこには霞ビジネスホテルと墨色鮮やかに書き隅には小さく“安原信夫”と氏名も記してある。“霞ホテルさん”若しくは“おじさん”が通称で、知人達でさえ彼の名前を失念することが度々である。とにかく、この周辺では霞ビジネスホテルの名はかなり有名なのだが、新来の米国人と新しい住人が、ホテルのことを英語で会話する状況は考えられる限りで最悪のパターンと思えた。
諦めた金髪娘はやれやれとでも言うように両手を上げてから、信夫の事を思い出したらしく上を向いた。
金髪娘の動きに女達も驚いて振り仰いだ。余りに急な動きに顔を引っ込む暇もなく女達と信夫は真正面で見詰め合うことになった。中年の二人は、かなり整ってはいるが何の奥行もない顔に驚愕した眼を貼りつけていて、他に方法も無く信夫はその眼を睨み付けた。 女達は強烈な視線に居たたまれなくなったように背を見せて道を下って行った。
急いで離れて行く二人を不思議そうに振返っていた娘は、ゆっくりと顔を戻し、野良着姿の小父さんが、英語を喋れる筈も無いと、諦め切った声音で同じ質問を繰り返した。
「イエース、ディス イズ 霞ホテル」と答えると、眼が丸くなり青い虹彩に囲まれる薄茶色の瞳孔が大きく開いた。その途端に朝陽が眼に入り瞳孔はすぼまり虹彩は緑色に変わった。忙しく色と形を変える目はまるで猫の眼に見えた。娘の顔に微笑みが浮かび、金色の肌に赤みが射し、「おお、神よ有難う」と両手を合わせ大仰に叫んだ。
ちょうどその時に、からたちに引き寄せられた揚羽蝶が、金色の輝きを確かめるかのように彼女の髪の周りを羽ばたき巡ったものだから、幸せそうに上気する白い肌と金髪と、揚羽蝶の緑と紺色の輝きが入り交じり、そこに若い汗とからたちの薫りが色を添えて、全てがどこかで見た絵のように思えた。
季節には早く半袖を着ているが、彼女の額からは汗が滴っている。重い荷物のせいもあるが、ここまで来るのにかなりの苦労をしたようだ。
石段の下まで来た娘は、門を見上げて「ワオー」と叫び、そのまま駆け上がり、門を入り家を振り仰いで「ワンダフル!」、庭を見て「ウヒー」と叫んだ。家の中を案内している間中にも、娘は「アンビリーバル」とか「イクセレント」とかの、特上の称賛と喜びの雄叫びを上げ続けた。おかげで、つい先程まで感じていた愛する家についての劣等感は、信夫の頭からは完全に吹き飛んでしまった。 東の端にある応接に座り宿泊費や注意事項を話したが、その間も、彼女は絶えず部屋の造りや装飾品を見回しては、微笑みが内側から沸上がっていた。信夫は彼女の表情を大いに気に入り、まるで昔からの友人と話しているように感じた。
名前は エリサ ラーセン
、オハイオ州クリーブランド出身、ク
リーブランド総合大学 建築デザイン学科卒、日本建築を勉強しよ
うと浪華市立大学に私費留学で来たと聞いて漸く、家についての彼女の感性と大仰な感動を納得できた。『このホテルは通学には最適の場所だ、身長は185センチ、髪の毛は栗色、眼の色は灰色』とも言った。
しみじみと彼女の髪と眼を観察すると、外で見た時とは確かに髪も眼も色が違っている。信夫の戸惑う様子にエリサは、「陽を浴びると髪は金色になり、そうでないと栗色で、晴れた空の下では瞳は青いが普段は灰色だ」と微笑みながら付け加えた。まるでカメレオンだと信夫は感心した。小麦色に焼けた肌に微かにそばかすが散らばっていて、映画俳優と話しているような気分になった。
僅かに鼻に掛かる英語は気品があり、どうやら裕福な家庭の生まれと窺えたが、何故こんな駅から遠い素泊り旅館を訪れたのかと信夫は不思議に思った。このビジネスホテルをどうして知ったのかと尋ねると、京都で出会ったモハムド
アシュラフ に聞いたとのことで、その男は、確かに以前に長期間滞在していたバングラデッシ人で、今は京都で働いている。非常に気持ちの良い勤勉な男であり、彼が居なくなった時に信夫は寂しく感じたものだ。宿泊人の誰もが言わないが、どうやら、慎重に相手を調べてから信夫のホテルを教えるらしい。つまり共同生活をするのに支障の無い相手を選んでいるのだ。ホテル主に黙ってそんなことをするとは文字通り主客転倒である。しかし、日本人は勿論、近頃は韓国人や中国人もこんな宿には泊まらない。泊まるのは金が無いか、よほど節約の必要がある人だけで、しかも、ホテルの宣伝もしていないから主導権は泊まる側にあり、信夫の商売は客が客を選ぶという奇妙な方程式で成立している。
一階と二階にそれぞれ十部屋あり、埋まっているのは二階の六室だけだから、もう少し客が居ても良いが、泊り客が教えようとしないので客が増えない。それだけに泊まっているのは気持ちの良い連中だけであり、まあいいだろうと信夫は大目に見ている。
エリサはアシュラフの眼にかなったということになり、信夫はアシュラフの観察眼を信じることにした。連中は異国で苦労しているだけに人を見る眼は慎重で確かである。
どの部屋を選ぶかと聞くと、迷うこと無く「一階の貴方の部屋の横」と答えた。玄関横の応接の向こうには庭向きに彼の部屋があり、更に奥には庭を楽しもうと書院風に改造した部屋がある。床の間の配置、障子の大きさと採光の加減とかのバランスや、使った材料もいちいち吟味して、旧家から運んだ見事な欄間も使っている。信夫が最も好む部屋で宿泊人が選ばないようにと、わざと鍵を取り付けていない。
「ロックがないぞ」と警告したが、「世の中にはロックよりも重要なものがある」と答えた。部屋を選ぶ眼とその返事が大いに気にいったものの信夫は腕を組んで考え込んだ。
ギリシャ彫刻そのままの若い娘が、鍵が無く、しかもすぐ隣の部屋に起居するのはどんなものだろうか。どう考えても欲望を制御し切るだけの自信が無い。そこで、
「その部屋は、僕が庭を楽しむところだから駄目だ」と信夫は答えた。娘は暫らく考えてから頷いて、「成程、判った。それなら、その向こう側を選ぶ。しかし、その部屋を楽しむ権利があることを条件にする」と、米人らしい言い草である。
信夫は条件を飲むことにした。これで、エリサは庭と部屋の造りを楽しむことができ、しかも貞操の危機からは一部屋分だけ遠ざかることになった。だが直ぐに、見事なプロポーションではあるものの、彼女の大きく強靱そうな肉体は貞操の危機とは縁遠いと気付き心の中で大いに笑ってしまった。
彼の思案も知らずエリサは無邪気に喜び、アシュラフの眼力通り、泊まったその日からたちまち同宿人に溶け込んでいった。和風ビジネスホテルには似合わない彼女の服の派手な色合が、ひらひらと舞い、その度にめまいを起しそうな日が続いたが、信夫も、それにホテルの住人達もすぐに慣れてしまった。
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