2022年9月10日土曜日

ウクライナとロシアの起源

 10世紀から11世紀のロシアの覇権国はウクライナ公国だったが、モンゴルの大襲来で公国は破滅させられた。ロシア地域に定住したモンゴルはキプチャク汗国として広大な地域を支配して膨大な課税で地域の住民を苦しめた。徴税使が地域民に殺されたときに、キプチャク汗国が懲罰軍を送ろうとしたが、ロシア公国が反乱の首謀者として自由を回復した、と書きたいところだが、事実は逆で、ロシアはキプチャク汗国の弾圧の、その手先として働いたのがモスクワ公国で、手先としての立場を利用してのし上がったのがロシア公国であったわけだ。
ロシア人の性格がよくわかる歴史事実だ。そのロシア人に安倍は軽くあしらわれたのだが、当然のことだ。

佐藤賢一「王の綽名」 「金袋大公」モスクワ大公

モンゴル人の代わりに徴税

ロシア世界の雄といえば、10世紀このかたキーウ大公だった。それが13世紀には衰亡を余儀なくされる。モンゴル人が襲来してきたからである。圧倒的な軍事力で攻めこまれたのは、キーウ大公国だけではなかったが、南の穀倉地帯において、なまじ繁栄していただけに、ことさら激しい収奪に曝(さら)された。モンゴル軍は1239年から40年にかけて通りすぎたが、この1年だけで大袈裟(おおげさ)でなく、壊滅状態に追いこまれてしまったのだ。

モンゴル軍はポーランド、ハンガリーまで進んだところで止まり、42年には東に引き揚げとなったが、ロシアの地には43年にキプチャク・ハン国を建てて、そのまま居座ってしまった。このハンにロシア人の諸侯たちは臣従させられた。いうところの「タタールの軛(くびき)」である。が、これはモンゴル人に税金や貢租を納める義務さえ果たせば、ロシア人にも一定の自立性が認められる間接支配の体制だった。諸侯たち、とりわけ極寒の貧しい土地であったがために、モンゴル人の来襲、その破壊や収奪の被害も軽く済んだ北の諸侯たちは、そこで再び力を蓄える。キーウ大公にかわって頭角を現したのが、まずはウラジーミル大公だった。

立役者が英雄アレクサンドル・ネフスキーで、その弟たち、息子たちで、ウラジーミル大公の位は継承されていった。が、それも14世紀に入る頃から、有力な分家ふたつの間で争われるようになる。ひとつがアレクサンドル・ネフスキーの弟の家系であるトヴェリ公家、もうひとつが末子の家系であるモスクワ公家である。トヴェリのミハイル、モスクワのユーリ、トヴェリのドミートリー、トヴェリのアレクサンドル・ミハイロヴィチと続いて、トヴェリが勝利したようだが、そのままではいかなかった。1327年、トヴェリ公領では、キプチャク・ハン国が課す税が重いと不満を募らせた民衆が蜂起、徴税に来ていたウズベク・ハンの使者チョルを殺害してしまう。いうまでもなくハンは激怒した。その宮廷に行き、自ら志願し、鎮圧戦に乗り出していったのが、モスクワ公イヴァン1世だったのだ。ウラジーミル大公ユーリの弟であれば、それは大公位を奪ったトヴェリ公家に対する復讐(ふくしゅう)でもあった。イヴァンは都市を破壊、各地を荒らし、大公アレクサンドル・ミハイロヴィチを逃亡に追いやった。

それを手柄と褒めて、ハンは28年、イヴァンにウラジーミル大公の位を認めた。経緯ははっきりしていないが、この頃からモスクワ公の称号も格上げされて、モスクワ大公と呼ばれるようになる。このモスクワ大公イヴァン1世の綽名(あだな)が、ロシア語で「カリター」、英語で「ザ・マネーバッグ」、つまりは「金袋大公」だった。これはイヴァンが、ハンの徴税官になったというか、その役目を代行することになった事実に基づいている。キプチャク・ハン国も、トヴェリの反乱で懲りた。モンゴル人が金を集めにいって、殺されたり、蜂起されたりするのでは合わない。それよりはハンに忠誠厚いロシア人、それこそモスクワ大公イヴァンのようなロシア人に、一任したほうがよいという判断だ。

ハンの代理として各地で金を集めて回る奴、つまりは金袋を担いでいる奴と、かくて綽名ができあがるが、実のところ、これがモスクワ躍進の鍵だった。徴税仕事を通じて、大公は裕福になったからだ。うまみが大きいというのは、ハンは決めた金額を納めれば、もう文句をいわないからだ。より多く集めても、その差額分は現場の手数料といおうか、あるいは報酬、役得といってもよいが、とにかく自分の懐に入れることができたのだ。それも自分の領地だけではない。イヴァンが請け負ったのは、全ロシアにおける徴税代行だった。ハンに納める税金だからと、ずかずか他人の領地に踏みこみ、好きに取り立てることができたのだ。

これで手にした資金力に物をいわせて、イヴァンはモスクワ周辺の領地を買収、大公領をみるみる大きくしていった。周辺の諸侯には貸しつけもした。借金漬けにして、返済できないとなれば、諸侯はモスクワ大公のいうことを聞かざるをえなくなる。どんどん従えていけば、「金袋大公」こそロシア世界の雄、モスクワこそロシアの都になる。「タタールの軛」というが、それに対抗するのでなく、逆に利用することで、イヴァン1世はその勢力を伸張させていったのである。以後、キーウでなく、ウラジーミルでなく、モスクワがロシア史の主役になる。

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