2020年12月22日火曜日

ときどき思い出すこと(4)入社6か月後大阪に移動してから八戸長距離コンベヤ建設

 畑中さんから引き継いだ住友セメント浜松工場の長距離コンベヤは、無事客先との打ち合わせを終えて設計製作の段階に入った。さすがに自分だけでは製作図までは書けず、岐阜羽島駅近くの郷鉄工所に設計込みで発注した。郷鉄工には既に畑中さんがほぼ手配していたのでそれだけは助かった。

鉄骨構造物の殆どを製作した時点で、据付工事の手配を終えようとしたが、その時点で客先側の用地買収が難行して、製作品を郷鉄工に預けたまま、用地買収が完了するのを待つことになった。それにしても数千万円の仕事を入社一年の社員に任せるとは酷いなぁ、と思った。客先である住友セメントの白井課長は僕を相手にはもっと心配であっただろう。

だが、次の仕事はもっと酷かった。八戸の本格的な長距離コンベヤであった。浜松工場のコンベヤは何本かに別れていてその全長は1km程度であったが、八戸のコンベヤは、6本のコンベヤで総延長は8kmもあった。こちらは佐薙係長と僕での対応で、佐薙さんは概ね客先との価格交渉や人間関係が主で、その他の全ての作業は僕であった。渡された計画書に従って、全体レイアウト図を作り東京に行き、客先ビルでの打ち合わせに臨んだが、客先は住友石炭と住友セメントの上層部が一堂に会して、その前で僕が技術説明したのだが大勢の年寄りを前に足が震えた。企業生死をかける大型プロジェクトのプロマネが、大学卒そのままの若造で客先も驚いただろう。特に、そのプロジェクトの責任者菊地常務は不安であったろうと推察できる。若造のプロマネが、自筆であろうと推察できる稚拙な図面や計画案を説明するのだからこれも酷い話だ。
幸いなことに、設備群は、地下100mから地上に、爆破された石灰石を地上部まで運ぶ斜坑コンベヤと、山元から八戸鮫港の港湾設備と、住友セメント八戸工場に石灰石を運ぶコンベヤとで構成されて、斜坑コンベヤ、それに、長距離コンベヤも騒音対策のために全て地下収納で、地上配置のコンベヤフレームが殆どで、7か所のコンベヤ接続部だけに架台がある比較的簡単な構造で、全てを自分で計画図を書き、その計画図に基づいて、詳細図は、竹中係長傘下の2人の外注さんに書いてもらうことになった。
本格的な長距離コンベヤの日本における実績は住友セメントの秋吉鉱業所での設備で、住友石炭がエンジニヤリングして、全長12kmで5本のコンベヤを、住重・産機工業、日本コンベヤ等5社が1社で1本ずつ担当して納入したが、八戸のは僕一人で全コンベヤを処理することになる。なお、秋芳鉱業所の住重分は畑中さんが主として担当していて、その計算手法を住重技報に報告していた。これを参考に、更に、コンベヤ設備の先進国であるドイツの文献も自費で集めて勉強した。環境条件も厳しく、騒音や散水システムの勉強も必要となった。これらの勉強はその後の仕事でも多いに役立った。
ほぼ計画の目途がついた時点で、土建建築担当の鹿島建設が現地事務所を建てて現場工事を開始するので、機械設備との摺合わせのために現地で対応しろとのことで、真冬の八戸現地に出向となった。現地での総合ミーティングで各コンベヤの駆動室の大きさが大きな問題となった。駆動室も地下に設置されるので、巨大な空間が必要となり土建上の、特に建設コストが問題になるのだ。実は大阪での計画で、苦労したのが駆動室の寸法であった。特に重要なのは、減速機の様な大物を撤去、搬入する経路だが、いろんな寸法決定要素を設定して、各駆動室ごとに決めたのでかなりの厚さの計算書になった。最初の総合ミーティングで、突然その点が指摘されたが、予想していなかったので、かなりの枚数の生原稿の計算書をそのまま検討書として、その事務所にあったコピー機を使い、大量にコピーして配布して説明した。その詳しい検討状況に納得した様子で、何の質問‣指摘もなく了解された。
しかし、この件は今でも時々思い出して、ひょっとすると、経験を積んだ今なら、もっと小さな駆動室に出来る可能性があったかもしれないと、悩むことがある。地上から見るとそれほどではないが、地下に入るとそれほど大きな駆動室なのだ。但し、秋芳長距離コンベヤも地下の駆動室は同様に大きいのだ。

かくして、その他に大きな問題もなく、現地対応は一か月程度で順調に終えて大阪に帰ったが、間もなく、本件は一時中止となった。産出する石灰石が高炉には品質的に合わないのではないかとの根本的な問題が生じたのだ。

そのため、力が抜けている時に、永井さんが仕事を頼んできた。自動倉庫用スタッカクレーンの計画図を書いたが、米国に出張するので、その製作図を全て頼むとのことで、その説明の数日後には米国に出発してしまった。残されたのは、1番の製図用紙に書かれた計画図一枚であった。ただ、新居浜のそう開工務店からの若いのを一人付けてくれたのが救いであった。わざわざ新居浜から出張で呼ぶとは高くついたことであろうが、仕方が無かったのだろう。その若者は、バックパックで世界旅行をしていたとかの、なかなかタフな男で使い甲斐があって本当に助かった。
電気関係は茂田井さんが担当であった茂田井さんは新婚直ぐで、とても幸せそうであった。
他方、僕の方は、それからは、朝8時に出勤して夜の11時に退社して、土曜日曜関係なく計画図の製作図起こし、製作工場への出図に明け暮れた。夜の12時頃に家に帰り飯を食って寝るだけの生活であった。土曜が半ドンの時代に、残業が月200時間なんて超人的であった。
こんなわけで、我社物流部門のスタッカークレーン第一号機の設計は、僕の手で為されたと言えるだろう。その後永井さんは帰ってきたが製品は殆ど出荷されていて、そのまま据付現場に行き、僕には「昇降台の在荷検出、オーバーサイズ検出を機械式で作って欲しい」と言い残して行った。計画を始めたが、畑中さんが入社新人を連れてきて、面倒を見るようにと言った。なぜ僕が物流の新人の林君と内藤君の面倒を見るのかが判らなかったが、八戸の件が中止のままなので良しとした。
2人に指示して機械式検出器を作ったが、現地に送ると永井さんから電話が掛かって来て、「機械式ではガチャガチャで無理だったから電気式にした」との連絡があり、そうだろうなと思った。ついでに、僕の実施設計の不具合点も指摘してきた。一つはポールと走行台の接合部に穴は不要だとのことで、僕としては重量軽減のために穴が開いていると誤解したのだった。もう一つは、厚肉鋼管を昇降用巻胴としていたのだが、ワイヤーの巻き数が多すぎて、昇降台を下げてもロープの巻が残っているとの、2点であったが、文句を聞きながらも、あの短期間の設計で良く出来たものだと安堵した。
この最中に、新人の林君が、会社の検診で結核だと判り入院したと聞き、当時「片町線」と称された田園地帯の真ん中を走る鉄道沿線で、四条畷辺りの田んぼの真ん中に建てられていた療養所に見舞いに行った。彼が復帰する頃には、物流部隊は東京に移動していたので、林君はそのまま東京に行き、その後彼と会うのはずっと後年に東京で通勤中に出会っただけである。どうやら彼は我が家の近くに住んでいて、我が家が駅から15分だと言うと、遠いなぁと言っていた。物流は給料が良かったのだろうか?

スタッカークレーンの仕事を終えた頃に、八戸設備計画が再開して、長距離コンベヤと接続する港湾施設や住友セメント八戸工場内の施設が追加発注となり、その方は、中途採用の芝野君が部下になり、それも、従来設備なので、僕は長距離コンベヤに専念し、従来設備はほぼ佐薙さんが面倒を見てくれた。

その頃、コンベヤ部に管理課が出来て、山崎課長らが移動してきた。その部下に宮崎さんなる住友石炭から移動してきた人が居て、八戸の担当になり据付の面倒をみてくれることになり、僕の負担はかなり軽減された。しかも彼は長距離コンベヤに関して有名な吉田龍夫さん
https://core.ac.uk/download/pdf/39334449.pdf
と一緒に働いていたとのことであった。
当時、僕は、長距離コンベヤの制動時の張力分布、特に、制動時に駆動プーリー部でのベルトのスリップをどうすれば良いのかと悩んでいたが、たまたま僕の席に寄った宮崎さんに聞くと、「制動前後でベルトの長さが一定であるとすれば良い」とアドバイスしてくれて問題は解けた。発電制動時のコンベヤ挙動は入社後初めてで最後の初級微分方程式で解けたし、で長距離コンベヤの解析はほぼ終了した。吉田龍夫さんの解法は、その機器の特性からフーリエ級数で張力変動を解析しているが、面倒過ぎて実施には不向きと解読はあきらめた。

この頃から住金鹿島の一期工事が終了近くになったようで、松木親衛隊の抱えていた若手社員や同和設計の外注さんが我々外様社員にも使えるようになった。
松木親衛隊は手持の社員や外注の仕事を確保するために無理な受注をするようになったようで、敦賀セメントの工場内搬送設備を受注した。その設備では通常は購入するバケットエレベータやチエーンコンベヤ類も自作としていた。が、斯様な低レベル機器で専業メーカーに勝るのは少々無理もあり、かなりの赤字となったらしい。その頃、八戸設備の管理を担当していた宮崎さんが同時に敦賀の設備も管理していて、僕に、八戸の利益を敦賀に回してすまんね、と言ってきた。
八戸の黒字は敦賀への補填で困ることもなく、佐薙さんが利益の出し過ぎだと事業部長に怒られたそうである。僕としては最小限の人員でプロジェクトを推進すれば、かなりの黒字を達成できるとの自信が出来た。実際に、生涯を通じてこれを推進して、どうしても受注をと無理した案件でも工夫してこれを実行できたと思う。


他方、土居課長と松木親衛隊は、さすがに世間の動向を見ていて、その後は、石炭火力設備、更には韓国への賠償案件としての高炉設備へと進出して利益をあげて行った。
が、行け行けどんどんの時代の終了と共に、その神通力は衰え、トルコの設備では大赤字を出して、その後はいよいよ時代に取り残された。他方、畑中さんの物流設備は今でも生き残るどころか、時代の寵児として多いに頑張っている。
僕はと言えば、既存搬送施設の設計製作のコンピュータ化の夢は、住友重機械の社風には合わず、時を得ぬままに終ってしまった。しかし、異動して行った先の物流施設部でも、環境施設再資源化施設でも、その技術を応用して、しかも生涯受注総額は100億円近くで、利益は少なくとも10億近くの利益を挙げることが出来た。それが僅かながらも慰めになっている。






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