2020年12月25日金曜日

ときどき思い出すこと(5)僕と物流部隊とのかかわり

 物流部隊の創始者たちと言えば、森さんを忘れてはならない。畑中さんと永井さんが頑張っている時から、森さんが関わっていた。どんな立場で関わっていたかまでは知らないが、かなり深い関わりと見えた。
永井さんと森さんが米国の物流学者の原本の輪読勉強会を始めて、僕にも声が掛かった。加わったのものの、内容はかなり哲学的なもので僕には良く判らなかった。そのため、輪読中に僕は居眠りを始めて、2人を困惑させた。
僕が別の階で八戸の長距離コンベヤの、頭部架台の計画図を書いている所に、たまたま永井さんが来て、僕の図面を覗き込んで、「やる時はやるじゃないか」と声を掛けたが、永井さんの米国主張中に、僕にスタッカクレーンを任せても大丈夫かな、との様子を見に来たと思えた。
ところで、永井さんは仕事だけでは無くて、私生活も行動的な人で、ある時には、奈良の西大寺近くの住宅敷地の見学に連れてゆかれた。公私ともに幅広い人だなと感じた。

他方森さんも明るく楽しい人だが、加えて幅の広い人で、森さんと話していると、自分の視野の狭さを感じさせるような間口の広い意見を示す人で、いつも圧倒される思いであったが、何かの折に、女房が福岡の添田出身だと話すと、森さんが下関出身で、若い時に足を骨折して、その治療のため遥かに遠い添田の宮城接骨医に通ったのだと話し、奇妙な繋がりがあるものだと感じた記憶がある。宮城接骨医はそこまで有名なんだとも驚いた。但し今は接骨はやめて消化器内科となっている。

物流部隊には、その後、八木さんを初め次々と人員の補給があり、更には東京に移動して僕の出る幕は無くなった。その後、何十年かしてお世話になるとは思いもしなかった。更にその後、永井さん、それに森さんと会う機会があり、共に仙人のような姿であらわれた。森さんはともかく、ダンディボーイの永井さんの姿は想定外であった。

皆が年を経て、森さんは昨年なくなった。あの明るく楽しい森さんが亡くなるとはと思う。とともに、死が他人事でなくなった思いがいよいよ強くなった。

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