2020年12月15日火曜日

時々思い出すこと  大阪コンベヤ課で、わけのわからん営業部長と可哀そうな営業員と、雑感

 大阪でコンベヤ設計に従事していたころ、大阪営業の要請で敦賀セメントの見積もり案件が来た。敦賀で大阪営業の岩井部長だったかと、初対面の待合わせをして敦賀セメントの事務所を訪問した。見積りする設備の内容確認で、要求される設備の仕様を客先の担当者に確認し始めたが、通常は、荷重条件から初めて、施設計画に入るのだ。その原則に沿って、先ずは積雪荷重についてから始めた。積雪荷重は基本的には各地方で決められているが、実際には、その地方での各エリヤ毎の特色がある。例えば、東北では重荷重が設定されるが、八戸では殆ど積雪は無い。そのため、その地域特有の積雪状態を確認する必要がある。
そこで、敦賀での積雪の状況を確認したいと思い、担当者に「ところで、敦賀では、雪は良く降るのですかね?」と聞いたのだが、岩井部長が横から大きな声で、「打ち合わせの最中に天気の事なんか聞くな!」と僕を怒鳴りつけた。岩井部長の剣幕に僕が唖然としていると、事態を先に把握したお客さんが、「いえ部長、設備で積雪荷重ってとても重要なんですよ」と僕の代りに弁明したので、事態は収まった。
50年以上経って、夜中に突然、その出来事を思い出して考えたが、恐らく、大学院卒業間もなく学生然としていて、しかも、どう見ても賢そうな顔ではない、つまり冴えない顔付の僕に、不安を持っていたのか、更には、当時の課の主力部隊である課長の親衛部隊から袖にされて、代役の僕に不満をぶつけたのかと思えた。ただ岩井課長も全く冴えない顔の人であった。
そう言えば、大阪営業でやはり親衛部隊長に馬鹿にされていた営業部員が居て、客先からの要請に、せめて所要モーター動力を提示したい、えいっとでも算出してと懇願されて、親衛部隊長は本当に計算もせずに念仏で提出したものだから、その営業部員は面目を失ったとしょんぼりとしていた。僕に頼めばその程度は1時間も掛からずにやってあげたのにと、可哀そう」に思った記憶がある。土居課長や、その親衛部隊長はメリット無いと判断した案件には絶対に手を出さず、そんな時には僕に遣らせることが通常で、この傾向は移動してからの他のセクションでもずっと続いたと思う。後ろ盾がないとはそんなことなのだ。
ところが、親衛部隊長やその後の組織でも、不良案件とされた案件を処理することで、実に、いろんな設備を勉強で来たなあとも思う。大阪では東海道空気圧新幹線とか、未来宅配物搬送システムとか時代の最先端設備計画もやったし、転勤後の東京や物流設備部でも、手を就けるのが困難な変わった案件はいつも僕に回されて来たが、それが却って受注率が高く、それ故に受注すると利益率も高いのだ。繰り返しになるかもだが、住重初めての冷凍倉庫とか、世界最初のごみ処理自動倉庫、それに日本初の中性子滅菌設備を受注できたのもこの過程だ。仕事で最後の住処、環境施設部では20~30億台の受注を何件も出来た。
しかし、住友重機械では利益を上げ続けても評価も称賛もなかった。そこでは、評価も称賛も、別の条件で決まるのだろう。挙げた利益は、他の赤字埋めに使われることはあっても称賛どころか感謝の言葉もなかった。
つまり僕は、僕自身の自己満足だけが得られるのだが、実は、自己満足と言うよりは、生きて行くために頑張ったと言うのが本心だろう。僕は常におびえながら生きていたと言うことだ。
本によると、人は将来得られるものへの欲望は快楽物資ドーパミンを求めての行動らしい。そのために恐怖心を克服できるのだが、僕の場合は、恐怖心が大き過ぎて、快楽物質効果を求めないらしい。むしろ、現状満足物質(これがあるとすれば)の効果が大きいと思われる。だから、上昇志向よりも現状維持を望むのだろう。
そのため、僕は最初の所属部隊に居る時に、その部隊の将来を考えて、見積り・設計自動化プログラムを自分で開発する決心をつけた。将来自分がその部隊を率いた場合に、現状維持と言うか、受注を絶やさず、その部隊を存続させたいと思ったのだ。そのため、土曜・日曜も出勤してプログラム開発を進めた。そうしてそのプログラムは実際に完成したのだが、その時には、東京に転勤となって、その際、何年かで大阪に戻すと約束した人は他所の部署に転勤してしまっていた。その後、東京部隊は解散になり、大阪は、事業部長に東京部隊の解散を提言したチャラチャラ男の逃げ場所の転勤先になってしまった。
そんなわけで、僕のプログラムは屑になってしまった。その後、そのチャラチャラ男は見事に転身して、残された大阪部隊はいろんな経過の後に消滅してしまった。現状満足物質を満足させるには、それなりの周囲把握能力と政治力、つまりは、快楽物質の活動が必要だったわけだ。
僕は今でも確信するのだが、あのプログラムを使い、日本の小規模設備や海外の設備も市場としていれば、今でも着実な受注を得ていたに違いないと思う。これも僕の経験から判るのだが、海外では僕の能力は、日本よりも評価されて発揮されるのだ。他方、日本でも案件は小さくなったものの、信頼できる搬送機器メーカーは着実な受注を得られる時代になったようだ。道はいろいろあったなぁと思う。そんな事を想像するのは、きっと快楽物質のなせる技に違いない。


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