2020年12月18日金曜日

時々思い出すこと(2) 入社後大阪のコンベヤ課で 畑中さんとの関わり

 一つの思い出が、他の思い出を引きずりだしたら、その思いだした事柄を更に分析したりすることがある。時々思い出すことから続く思い出を書いてみる。
大阪のコンベヤ課に転勤で行った時、柴田課長なる課長が居て、そこには先輩の畑中さんが課長代理の技師で居た。畑中さんは恐らくコンベヤ課を引き継ぐ立場にあったのだろう。
転勤から数日で、畑中さんは僕を連れて浜松の住友セメントの工場に連れて行った。長距離コンベヤの設計打ち合わせだ、とのことで、恐らく畑中さんの部下として手助けすることになるのだろうと思った。が、コンベヤ設備などと称する機械は見たこともなく、どう設計するのかも知らない状態だった。が、打合せから帰ると、畑中さんは、「後は頼む。僕はコンベヤ設備はやめて、自動倉庫設備を開発するのだ」と言って、その設備の設計や交渉の全てを僕に任せてしまった。仕方が無いので、当時、梅田駅前にあった旭屋に行き、ベルトコンベヤの設計に関する本を買い、コンベヤ設備の勉強を始めた。酷い話だが、それが僕がベルトコンベヤの設計を始めた最初の経験だった。
当時のコンベヤ課の主要な顧客は、住友金属の鹿島製鉄所1期工事で、これを担当しているのが土居係長とその親衛隊の松木グループで、社員や設計外注の殆ど(多分40人以上)を率いていた。その他には、畑中さんと2人の係長だけで、その3人の部下は僕を含めて2人と設計外注者3人程度であった。ただ、2人の設計外注者は竹中係長の仕事で手一杯であった。
松木グループは、外注設計者を融通することは一切なく、僕は初めから期待することもなく、自分で設備計画図を書き鉄工物の応力計算も自分でクレモナ線図で軸力を算出して部材選定も行った。が、就職前の大学院でも何でも自分で遣っていたので特に不服は感じなかった。その後、畑中さんの下には、やはり僕の先輩の永井さんなる優秀な人が部下として来て二人で物流設備開発活動を始めたたが、永井さんは外注設計者を融通されないことをブツブツ文句を言いながらも仕方なく自分で計画図を書いていた。こんな事情で、僕は自分以外に頼れないので、出来るだけ当時の電動式計算機や複雑な計算は新居浜のIBM計算機を使うようにして省力化を図った。また、見積りでの設備計画図は自分で書くものの、受注した設備の設計には、主に設計図込みの製作外注で対処した。

かように仕方なく省力化と言うか、何でも自分で遣らざるを得ないので、設備を受注すると、少ない人員で処理せざるを得ず、その結果として、いつも多額の利益を得られるようになった。
先のことになるが、畑中さんと永井さんが物流の拠点を東京に置くとして去ったことで、かなり先の事になるとは思えたが、学歴的には僕がコンベヤ課を継ぐ可能性が出て来た時、それは何回かの不況で仕事がない経験も経て、多くの人員を確保することの困難さを痛感したので、少なくとも社員だけで案件処理できる体制が重要だと、自分で設備の自動計算プログラムを開発することにした。設備仕様だけではなく、構成機器要素の選択や鉄工物の自動計算システムを、土曜・日曜を費やして作り始めて、フォートランでの巨大なプログラムをほぼ完成した時に思いがけず東京に転勤となり、それらのプログラムは、東京での搬送見積り作業に有効に活用できた。

僕は畑中さんの後継者として、特に長距離コンベヤとか巨大設備、それに、何となく搬送設備としては誰も遣らないような特殊な設備を担当することになり、畑中さんが去ったので、佐薙係長の部下として仕事をすることになった。僕は酒も飲まず余り人付合いが良くなく、要するに、人付合いが苦手なので、その点は佐薙係長が得意なので、2人のコンビはお互いに満足するものであったと思う。

畑中さんと永井さんの始めた物流事業は、理解者の少ない社内でなんとか頑張り通し、今ではかなり有望な部門として自立している。が、創始者の彼等はあまり評価されることなく他の部門に出されていった。この辺りが住友重機械の不可思議な一面である。要するに、正しく評価されないことが住友重機械の特性だといえるだろう。要するに指導者の変わり易く恣意的な思惑で事業が推進されるのだ。
だが、それとは別に、彼等の創業時を知る僕は、二人の業績を大きく評価している。
僕が運搬機事業部から追い出されたときには、既に二人は物流事業部からは出されていたが、その設計部に配属された。受け入れ側に望まれない配属であったが、他に行くあてもなく受け入れるより仕方がなかった。ただ、その配属後は、次々と利益の多い案件を受注し物流部門にかなりの貢献をしたと思う。









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