2021年5月12日水曜日

日本第四回目の敗戦(第二次大戦・バブル崩壊・原発崩壊・コロナウイルス&オリンピック強行戦)の責任者は誰か

 コロナウイルス戦のA級戦犯は下記だろう。全員死刑が妥当かな。
B級戦犯には、戦争を鼓舞し、コロナ戦の正しい方法を報道しなかったマスコミ各社もはいるだろう。

1)安倍晋三
2)菅義偉
3)尾身茂
4)加藤勝信
5)石原慎太郎
6)森喜朗
7)竹田恒和
8)丸川珠代
9)佐々木宏

このコロナウイルス&オリンピック強行戦での敗戦は世界の歴史での笑いものになるに違いない。
この愚行の多くは、日本の組織が衰えたか、もしくは、過去のままであったかであることが原因で生じたのだが、問題は日本が富の多くを失い、この災厄を利して金を儲ける連中も居て、日本人の富めるものと貧しきものの格差を更に拡大して、社会そのものが衰えさせているのだと思える。これらの責任は上記の戦犯たちにその原因があると思える。

なぜコロナに敗れたのか 「緩くバラバラ呑気」に原因

論説フェロー 芹川 洋一

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参院予算委で菅官房長官㊧と言葉を交わす安倍首相(2020年6月、肩書は当時)

「つぎつぎに なりゆく いきほひ」――。

政治学者の丸山真男は「歴史意識の『古層』」という論考で、昔からずっと底に流れている日本人のものの考え方を、こんなふうにいいあらわした(丸山真男集第10巻)。

昨年来の新型コロナウイルスをめぐる日本の対応をふり返るとき、同じようにひとつのフレーズにまとめることができるような気がする。

「ゆるく ばらばら のんき」――。

自粛だのみで、対応は統一がとれず後手にまわっているからだ。コロナという感染症でふきだしたこの国の問題点を示してあまりある。

思えば日本という国家の劣化をあらわしているのではないのだろうか。1945年の敗戦、90年代の経済敗戦、そしてこんどが3度目のコロナ敗戦だ。

第一の「緩い」のは制度である。法体系がそうなっている。欧州型は厳しい人権の制約がある。同時に厳しい統制もある。日本は個人への規制も行政への統制も緩やかだ。

憲法には私権を制限する緊急事態条項がない。改正後のコロナ対策の特別措置法も強い罰則はない。個人をしばるのは空気という無言の同調圧力である。法律しばりではなく世間しばりだ。

個人の権利を優先する考え方の背景には、政府が個人情報を管理することへの強いアレルギーがある。国家に対する抜きがたい不信感によるものだ。それが行政のデジタル化をおしとどめている要因でもある。

行政の対応も緩い。ワクチン接種予約の受け付けでも差をつければよいものを、それはしない。平等にやろうとして電話回線がパンクして、混乱を助長する。

河野太郎・規制改革相が「効率性より住民の平等性を重んじる自治体が多かった。これは完全に僕の失敗だ」と反省の弁を述べたとおりだ(12日・TBS番組)。

第二の「ばらばら」は運用の問題だ。90年代からの政治改革と省庁再編・内閣機能の強化をつうじて、政府と自民党による二元体制をあらため、首相官邸に権力を集中するかたちを整えた。しかしコロナの対応では、やはりうまく回らない。

安倍晋三前首相が厚生労働省にPCR検査の能力拡大を強く促しても「目詰まり」はいっこうに改善しなかった。コロナ患者の受け入れる病床を増やすよう求めても遅々として進まない。

ワクチンの供給体制もすっかり後れをとってしまう。先進各国の中で接種率はなお下位に沈む。ワクチンの接種を担当するのは市区町村で、連携もスムーズにいかない。

一義的には厚労省の対応のまずさによるものだが、官邸が全体と流れをつかんでチームとしてまとまって手を打つことができないでいる。

国と地方の関係もギクシャクしどおしだ。とくに国と東京都の意思疎通の悪さは目をおおわんばかりである。

割拠主義はある意味で、どこの組織にもある話だが、それを乗りこえて権力を一元化し、統一的な運用をめざす政治の運びが道半ばだということを今回、いやというほど思い知らされた。

第三の「呑気(のんき)」は人の問題だ。政治家の危機意識の欠如である。特措法の改正などにしても国会がなかなか動かなかった。安倍内閣で安保法制をまとめ防衛上の危機への備えは一応進めたものの、感染症にはまったく備えがなかった。

準備がないから対応はどうしても場当たり的になる。最悪の状態を想定しそこから危機をいかに最小化し管理していくかに失敗する。

ワクチン接種の政府の対応にからんで、河野克俊・前統合幕僚長が「最悪の事態を考えて、そこに至らないように手を打っていくのが危機管理だが、逆行している。危機管理として失敗している」と言い切ったように、有事対応の発想や準備がない(12日・日本記者クラブ)。

だから政治指導者がすみやかに決断し、発信して国民の共感をえることができない。

嘆いてばかりいてもはじまらない。敗因のなかから再起のきっかけを見いだすしかない。どうしたものか。そこで「ゆるく ばらばら のんき」の対義語を考えてみた。

「きつく まとまり そなえる」――。

ここに答えがあるはずだ。私権の制限をある程度認める法体系に改めるのが第一。リーダーシップとチームワークで、一元的な権力の運用を徹底するのがその次。三番目は危機意識をもったリスクコミュニケーション能力の高い政治指導者を養成していく。

一筋縄ではいかないが、そこを突破していかないと世界の三流国になってしまう。

ただわれわれには国家の危機を乗りこえた歴史がある。明治維新だ。政治学者の北岡伸一氏はその教訓を次のように集約している(「明治維新の意味」)。

「重要な判断基準は……日本にとってもっとも重要な問題に、もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知を集めて、手続き論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか、ということである」

現状でどう考えても、そうなりそうにない。とすれば明治維新のように、力量は未知数であっても一気に世代交代をして、しがらみのない若いひとたちに国の将来をゆだねる。それしかないような気がしてならない。



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