2022年7月9日土曜日

志水勇の高校時代とそれから・・・

 僕の出身高校は天王寺高校で、同校は大阪府下でも屈指の進学校であった。当時の私学は大学受験に特化していないので、天王寺高校には優秀なのが集まっていたのだ。ところが僕は中学校では全く優秀ではなかった。僕は天王寺中学校に越境で入学したのだが、当時の天王寺中学校は一学年が14クラスもあるような巨大学校で、その一つのクラスの中での僕の定期テスト成績はクラスで10番程度だから、普通に考えれば、天王寺高校に受けることができる成績ではなかった。僕は定期テストで頑張る性格ではなく、それに、定期テストの成績に一喜一憂する性格でもなかった。兄や姉とは年齢が離れていて、両親は小学校卒だから勉強の仕方を教わることもなく、他の多くの学生が、教科書を解説する虎の巻とかを買いその内容を相互に話し合うのを不思議な思いで眺めていた。定期テストもそれほど集中することもなく過ごしていたのだが、1年の後半になり、中学を終えると高校への入学テストがある、と気づいた。そうすると、中学での3年間の勉強が試験に出てくると気づいたときに、その内容は膨大な量になると恐れを感じ、これは何とかせねばならないと思ったのだ。そこで先ず、自宅の藤井寺から阿部野橋までの30分の通学時間を漢字帳の記憶に費やした。しかし帰路は一緒に帰る友達で、北野とか国俊とかが居たので勉強はできなかった。学校での学習では学習帳面の半分、そこに授業中に記載した内容から自分で作った問題を書き、答えは織り込んだ部分に書くようにした。更に、学業ごとに繰り返し学習を、予定を立てて学ぶことにした。
3年になり実力テストが行われるようになると、結果は知らされないのだが、クラス担任以外の先生が授業中に、それとなく、僕の名前を口にするようになった。が僕としては何の話をしているのかと不思議に思った。3年の中ごろに進学校の希望を話し合うことになり、僕は、何の気もなく、天王寺高校です、と言ったら、担任は何の反対もせず、天王寺高校に受験することになった。天王寺高校を受験するのは、クラスでも優秀で毎回の定期テストで1と3番の2人で、それに場違いな僕が加わったことになる。優秀な2番の女子は越境受験を拒み別の高校に行った。なお、実際は、1番から3番の生徒は入れ替わりつつクラスを制していた。僕は彼ら上位集団とは全く関わりない位置にいたわけだ。

ところで、僕は中学で越境していて、天王寺高校では籍を戻すだけで受験できたのだ。話は逸れるが、天王寺中学校と天王寺高校は不思議なことに学区が異なるのだ。

受験当日は中学校に集まり、そこから受験高校に行くのだが、僕はどこで受験するかにも全く関心がなく、優秀な二人とその一人の母親にくっついて受験に行った。幸いなことに高校は家から中学までの中間なので学生定期をそのまま使えたのだ。
どんな試験内容かは記憶がないが、試験には合格した。

最初の授業の日に、なぜか朝寝坊して遅刻してしまい、教室に入ると、担任が、「最初の日に遅刻とは度胸があるなぁ」といったが、気の小さい僕にしては、おそらく我が人生での唯一の遅刻であった。
通学は、自宅のある藤井寺から準急で阿倍野まで行き、鈍行で一駅こぼれぐちまで戻り駅から徒歩で10分と、日々通学したが、ある日、高橋って背丈が僕と同じ程度の男が話しかけてきて友人となった。後に聞くと、背丈が同じ程度なので、その後の様子を観察しようと話し掛けたとのとのことだ。いい加減な話だ。その後、中谷って背の高くひょうろながいのが接近してきて仲間になり、次いで、高橋の知り合いである奥田が仲間になった。しかし奥田は、他に交友グループが多く、演劇部で活躍するなどとかなり活動的で、僕らは、彼の交友グループの一部にしか過ぎないって感じの付き合いで、どちらかと言えば、彼の必要に応じて付き合わされるような関係であった。かような付き合いも、2年になって文系か理系かの組み分けで、僕は就職が簡単だろうと理系を選び、高橋と中谷は文系を選ぶことで別クラスになり、顔を見れば話し合う関係ではあるが共に行動することはなくなってしまった。奥田は理系を選んだが、2組ある理系の他の組になったので、奥田との付き合いも同様な状態になった。ただ昼食時は食堂に行くのでほぼ一緒になるのだが、高橋はいつも掛うどんを注文するので、僕も彼と合わせたが、とても腹が減り、家での夕食は腹いっぱい食べるようになった。高橋は家庭の事情で節約しているのだろうと考えた。修学旅行にも行かないと言うので、僕自身も特に行きたいとは思っていなかったし、高橋に合わせることにして、皆が修学旅行に行った間は、運動場の片隅で2人で時間を過ごした。

そんな付き合いがあるものの、2年生以降の僕らの付き合いはかなり希薄になった。
勉強については、中学校の時に恐怖を感じた以上に大学受験に恐怖を感じた。受験科目が多くなるのと夫々の科目の学習量が高校受験に比べて格段と量が多く質も高いからだ。先ず目標は、世界史が不要な阪大の工学部機械科を選び、中学校とは違って参考書が必要だと本屋で調べて、数学は矢野健太郎の参考書として、物理の高校で学ぶ内容は、要するに運動方程式、運動量保存則、エネルギ保存則だけのことで内容が単純なので教科書のみの学習として、化学は複雑なので参考書の化学精義って本を購入した。英語は単語は豆単の内容を全て覚えることとして、副読本として眠れぬ夏の夜、を自分なりに翻訳し、日本史は教科書の隅から隅まで覚えることにした。2年間で試験範囲の3回は繰り返し勉強することとして予定表を作った。当時TVの放映は夜の十時までだったので、学校から帰れば直ぐに睡眠し、食事時間を挟んで夜の十時まで眠り、それから、3時ころまで勉強して、6時ころには起きて学校に行った。なお夕食は前述のように、昼の小食を補って腹いっぱいに食った。
学校には7時前には着いて、時には門扉がまだしまっていたので、乗り越えて入ることもあった。冬には誰よりも早く着くので、当番の代わりにストーブを燃やした。毎朝、その日の当番が用務員の所に石炭を取りに行くのだが、僕が勝手当番で石炭を取りに行ったある日、用務員が[あんたのクラスは昨日ストーブの後始末ができていない」とグズグズと文句を言い出したので、僕は無視して石炭を放ったらかしで教室に戻り、当日の当番は、登校してからストーブが燃えていないので石炭を取りに行き、かなり叱られたと帰ってきてから愚痴った。

ところで、勉強ばかりだと体力が落ちると、毎日、我が家の勝手口の高い門梁で懸垂をやり続けたので、筋肉が盛り上がり腹筋には割れ目ができた。僕の体力はこの行動で一生分を作れたようだ。

1年生の定期テストの成績は、学年の最後尾近かったが、これを続けることで、定期テストも若干は改善を始めたが、余り変わりはなかった。が、3年に入っての実力テストでは60番程度になり、貼りだされる100人の氏名リストの中に入った。しかし、皆も頑張りだしたのか、2回目は貼り出された順位表の最後尾、つまり100番になり、たまたま居合わせた高橋に笑われた。しかし、秋の全国模試では、結果掲載紙に僕の名前も載った。12月には勉強予定の全てを終えたせいか、最終実力テストでは、科目ごとに返却される点数を加えてゆくと、早々と700点になり、今回はそんなに簡単だったのかと、運動場で出会った小学校時に同級だった特別秀才の岡明人に尋ねた。しかし、岡明人でも700点を超えていないとのことで、結果に期待したが、上位常連の中野光子に次いで2番となった。しかし、なぜか僕が2番になったことを誰も話題にする様子はなかった。ところで、岡明人は1浪で東大に入り、その後、朝日新聞で科学担当で宇宙関係の翻訳本をだしたりしている。彼と小学校で同級だったことが僕の自慢だ。ところで、中野光子は小柄で可愛い子で京大の化学科に進んだと思う。なお同学年では女子が優秀で、中野と、確か、中野とは違って親分肌の多田女史が上位常連だった。

同じころに鉄棒での懸垂テストがあり32回を記録して、筋肉の塊の俵って男に次いで校内2番となった。これも誰も話題にすることはなく、ただ昼休み出会った高橋が、ゴマ化したのじゃないかと言うので、鉄棒の所に行って、28回を懸垂したがあとが続かず残り4回は勘弁してもらった。
1月からは、日常生活を通常に戻して、ほとんど勉強もせずに毎日を過ごした。余りにのんびりと過ごしているので、兄の嫁さんは彼女の家族に、勇さんは絶対に入試は滑るわ、と話していたそうだ。
入試は化学での失敗があり、結果発表までは、くよくよと過ごしたが、予想に反して入試発表の掲示板には僕の番号があり一旦は家に帰ったが、本当に間違いなかったのだろうかと、再度、淀屋橋の大学掲示板を確認に行った。
高橋は大阪市立大学の経営学科、奥田は同大学の理学部、中谷は京都産業大学、にとそれぞれ進学した。ごくまれに連絡することはあったが、ほぼ無連絡で大学を過ごし、それぞれがそれぞれの道をたどった。ただ、1年の夏休みに紀伊半島を小学校や寺で眠らせてもらって一周して、この旅行記を万葉集解説で有名な犬養先生に提出した(これで単位をくれた)が、それを聞いた中谷も、翌年に自転車で紀伊半島を一周した。後述するように、最近中谷に会ったが、その時に、その時泊めてもらった寺にお礼に行くと言っていた。割り切りが得意な中谷にしては律儀な話である。

僕は、特にやりたいことも無いので大学院に入り、それから、くそ住重に就職した。くそ住重の貧弱で不公平な人事評価システムのため出世はできなかったが、ただ仕事としては、自分で何でもできるセクションであったことが性格にあっていたし、誰にも負けない成果を挙げ続けたと思う。

高橋は商社の蝶理に就職し、中谷はインテリア会社に就職したが、1年ほどでやめて、陶器つくりの道に入り、子弟システムの中で勉強して、その後、海外青年協力隊でエルサルバドルに行き、それから、世界中をうろつき、最後にブラジルで相方を見つけて定住した。広い土地を買い、のぼりがまを作り、家や展示場も自分で造るなどがんばっていた。中谷はなぜか割り切りが早く、自分の目的とすることから外れていると判断するとさっと方向を変えるタイプで、僕はその点では失敗したなと思っている。しかし、割り切りが早くて失敗する可能性も高いから、一般的にはいずれが正しいとも言えないだろう。高橋はどちらかと言えば僕に似ているが、社会では、特に今のサラリーマン社会では僕のように長期的な目的を大切にする者は必要とされないようで、その点では高橋の方が社員生活は性格に合うようで、しかも、環境的には恵まれていて、引退時には退職金条件も大幅に良好で、聞いてみると、退職後の年金金額も彼の方がかなり多く、「くそ住重に企業年金がないはずはない」と、僕の言うことを信じられないようだった。そんな高橋に、「くそ住重では、退職優待金もないどころか、肩を叩いたのに本人が知らない間に、自己都合で退職させられていた」、等とは恥ずかしくて言えなかった。が、よく考えると、誰にも負けないほどに利益を上げ続けた僕には何ら恥じることはなく、恥じるべきは、くそ住重(くそ住友重機械)の方だと気づいた。まともな人事評価システムもなく、肩叩き退職を自己都合退職に捏造して、早期退職優遇もなく、おまけに、企業年金もない。歴代の社長は実務能力はなく、それ故に、作業改善手法にのみのめり込んでいる。そこで、くそ住重のことは大声(太文字)で言うことにした。

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ところで奥田だが、物理学の博士課程まで行き、電気工業大学での教職に就き、それに本人も言うように、人の心の機微を知り理屈も立ち、人生を謳歌していたようだが、詳しいことは知らない。ただ、僕が大阪で務めているときには、2~3年に一度程度は電話が掛かってきて、葛城山に昼寝に行こうとか、玉手山の遺跡を見に行こうとか、貴志山の地下道散歩に行こうとか、訳の分からん申し出があり、僕はついて行った。

さて人生も最終局面になった3月ごろにブラジルの中谷からメールがあり、心臓の頻脈を抑えるカテーテル手術に日本を訪れるとのことで、帰国時の平野区役所での手続きを調べてほしいとのメールがきた。一年ほど前に、中谷のライフワークの陶芸類を厚い本にまとめたのを送ってくれたし、その前には、ブラジル産プロポリスを大量に送ってくれたし、これは良い恩返しだと、早速、平野区役所に電話して詳しく聞いた。中谷が海外青年協力隊で現地に居ついた、と最初に言ったのも効いて、丁寧に教えてくれた。中谷のように日本国籍があれば、住民届を区役所に登録すれば、すぐに、健康保険証(中谷の場合は後期高齢者)発行手続きが始まり、保険証が届く以前には、発行申請書で病院を受けることができるとのことで、昨年の年収は0として治療費の上限は決まるとのことだ、と大阪市での上限額も聞き、中谷に返信した。中谷からはコロナで手続きが掛かり8月ごろになるだろうとの連絡がきた。
それならば、大阪で会えるだろうと、その前に大阪の拠点を整理しておこうと4月7日から14日を大阪で過ごし、除草と、ついでに壁の塗り替えを終えた。
ところで中谷の症状は、頻脈を抑えるためにペースメーカーを埋め込み、投薬も行っているが、特に投薬効果が衰えてゆくので、心臓の頻脈発信部をカテーテルで焼却する手術で、殆どの治療が無料のブラジルでは、この手術は国民医療保険の対象とならず、べらぼうな費用が必要とのことで、日本なら、国民健康保険の上限額で済ませ得るのだ。
4月末になり状況確認をメールしたら、2日後には出発して4月末に着く、実家が今は空き家になっているので、そこに滞在するとの連絡がきて驚いた。
日本に着いてから電話連絡があり、日本に着いたが1週間はコロナで自宅待機だと言う。大阪では北大阪医療センターに行く、と言うので、医療センタだと紹介で無いと受診できないと伝えたものの、一週間後には連休に入ってしまい、保険証の発行が遅れるなと心配になった。
一週間後に連絡があり、医療センタに行ったが、やはり紹介が必要だとのことで、帰り道を歩いているときに偶々通りがかった医院が紹介してくれることになったことや、平野区役所での保険証発行手続きも終えたとのことだった。運のよい奴だ。

その後連絡があり、6月9日に入院し、6月10日手術の予定とのことであった。そこで手術前に会おうと、5月19日から大阪拠点に行くことにした。

何十年ぶりかで会うので、一週間を予定していった。僕の大阪拠点で会うことにして僕が大阪に着いた翌日5月20日に中谷が大阪拠点にやってきた。初日はあれこれと昔話に興じ、二日目は枚方の古い街並みを見て回った。ただ彼は手術前で、コロナにかかることも恐ろしく、それ以上に外出することは控えた。僕としては、何をするでもなく一緒におれば良いと思うのだが、割り切りの早い中谷は、一緒に居ることの限界というか、もっと別の経験が必要だと思うのか、彼の実家に帰ると言い出した。止めても聞かないだろうとあきらめて送り出し、僕の予定の一週間の残りは、拠点の整備に費やした。
その後、中谷は6月10日には手術して、翌日には無事退院した。ブラジルへの帰国は8月10日だと言うので、帰国前に再度会うことにして、高橋にも声を掛けることにした。僕の都合で、7月2日から一週間を予定したが、高橋は都合で2日から4日までとなった。中谷と連絡すると、やはり2日程度と言う。どうやら、陶芸仲間とか陶芸地を訪問することを予定に入れているようだった。梅雨明けが例年より早く予想外に暑くなると思えたが、その2日間はたまたま曇りと小雨で過ごしやすかった。いつものように東海道昼間バスで往復したが、はじめはバス旅行も楽しいと言っていた高橋は、バスの中で酒缶とかビール缶を間断無く飲み続け、これはアル中だと思えた。しかも、旅の終わりごろには、「住重たる財閥にも務めた志水が、なぜバスなんかを使うのか?」と彼としての本音が飛び出した。
2日目には中谷も来て、3人で回顧話に耽った。それで初めて知ったのだが、二人は、天高が嫌で嫌でたまらなかったらしい。特に高橋は特に嫌だったらしく、大学に入り心底ほっとしたとのことで、会社に入ると更に楽しかったと言う。話を聞くと、どうやら、二人は、定期テスト型性格で、その時その時に力を注力するするタイプで、僕のような実力テスト型人間ではなかったようだ。
2日目は、高橋は大阪市内をぶらつきたいと単独行動で、僕と中谷は宇治の平等院に出掛けた。翌日には、ふたりはさっさと帰ってしまい、僕はまた一人で、拠点の整備作業を終えて千葉に帰った。この姿勢もまた、定期テスト型人間と実力テスト型人間の違いだろうと思った。
なお中谷に、新幹線の1/4の費用でゆける高速バスといずれを選ぶ?と聞くと、中谷は、そりゃバスだろ、と答えたので、高橋のバス旅行に対する意見は、新幹線に慣れたサラリーマン風の感覚なのだろう。
恐らく、3人で会うのは、人生で最後の機会だなと思う。
ところで、天高の最終実力テストで1番だった中野光子については、中谷によると中学で同級生で、家は薬局を営んでいて、中谷が腎臓病を疑われたときに、薬を段取りしてくれたらしい。また高橋によれば、「いや、中野は東大医学部に行った」と言い、僕の記憶との差異があった。なお、僕もまた中学校で腎臓病を疑われ、夏休みの特別授業を家で過ごした記憶があり、それは、思春期の排出物のせいではないかと話し合った。そういえば、中野光子も腎臓病との噂があったなとも話し合った。
7月半ばになり、中谷から電話があり、帰国を早くしようかと計画したが、航空便が満席で、結局は8月10日頃になる。また会うかと聞いてきた。が、割り切りの中谷は、どうせ2日程度しか居ないだろうし、夏の盛りで、しかも急増するコロナ禍では、外をうろつくことも出来ないだろうと、その要請は受けなかった。
なお、最後の出会いであろうと、中谷の希望で数冊の本と、陶芸に必要なmgを測れる質量計を中谷に提供した。

天王寺高校同期の関東在住者の幹事をしている西野Tさんによると、上記の中野光子さんの名前はひらがなで「みつ子」、筑波在住、科学技術庁の研究所にいて、東大は工学部で、東京の同期会にはよく参加しているとのことで、また、多田宏子さんは、京大の理学部物理学科。名古屋で大学の教授をしていた、とのことであった。また西野氏は京大の数学科らしく、おそらく、天高の実力テスト上位の常連であったのだろうと思える。残念ながら僕は男子学生のことには思いが至らなかったようだ。そう言えば、難波って名前がよく成績順位表の上位にでていた記憶がある。
なお、京大 数学 西野 で検索するとこれが出た。能ある鷹は爪を隠すですな。
https://www.math.kyoto-u.ac.jp/alumni/bulletin1/ueda.pdf

なお中谷は、8月14日にブラジルへの帰国の途に就いた。運のよいことに、13日に台風で日本の交通路は乱れたが、14日は台風は去り平穏で、無事にブラジルに着いたことと想定する。また、その後連絡もあった。


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