2022年7月27日水曜日

神は妄想である リチャード・ドーキンズ

 神は存在しないことを延々と述べている。その中には哲学的な考察があると思えるが、僕のような無神論者には無意味な説教だし、神を信じる者は、本の名前を見ただけで手に取ろうとはしないだろう。神を信じる者の中には著者を暗殺しようと試みるものも居るかもしれない。だが、それでも、神をどっぷりと信じる以前の人々には、この本には啓発的な価値があるかもしれない。
宇宙は神が作ったものではなく、存在すべく存在して、人は神が作ったものではなくて、作られるべくして作られた、と言うのが、僕の考え方だ。僕の存在は誰に感謝するべきものではなくて、ただ存在するに過ぎないのだ。重要なのは、宇宙はどのように生まれたのか、人はどのように生まれたのかを研究し推論することだろう。
なお、その巻初に、カール・セイガンの著書 惑星へ  について言及しているが、僕の小学校の同級生 岡明人 がこの本を翻訳している。たいした奴だ。

また、本書にも書いているが、旧約聖書を読むと、彼らの神なるものは意地が悪く、扱いにくい存在だ。”フェニキア人” なる本によると、砂漠の悪環境下で生き延びるために、さような性格の神になったらしく、フェニキア人は生贄も行っていたらしい。キリストが愛を唱えるまでの元の宗教は、一神教特有のやっかいな宗教だったようだ。フェニキア人の宗教またはそれと同系統の宗教がユダヤ教で、旧約聖書はその世界の話を記載していて、キリスト自身はその宗教をほぼ否定したのだが、彼の後継者は、旧約聖書もまたキリスト教の聖典としてしまい、旧約聖書の厳しい教えがキリスト教の根幹の一つとなってしまったようだ。例えば、キリストを神の子とするか、それとも神自体とするかで、闘争が起こり、ユダヤ教の厳しい神エホバを信じるキリスト教一派も生まれたりしたわけだ。

ところで神が世界を作ったのではないとすれば、いかなる成り立ちがあるだろうかと、僕が推論するのは下記だ。
先ず、無限なるものは存在しないとすれば、宇宙は有限の筈で、宇宙が存在する現実からすると、何も存在しない虚無は不安定で、虚無が崩れることでエネルギーが虚無の中に放出されるのだろう。我々の宇宙は、そのエネルギーが振動体なる微細物から構成されているのがが我々の宇宙で、しかし、エネルギーが他の形態で存在するのが、ダークエネルギーとかダークマテリアルとして、エネルギーの存在そのものとして計測されるわけだ。神の存在の余地はない。

0 件のコメント:

コメントを投稿