JETSTARが、往復7000円なんて破格の値段だし、枚方のGuestHouseのメンテも兼ねて行くことにした。
便は、成田14:24発、帰路 関空発16:10 発と極めて好ましい時間であった。が、その後、成田発21:05、関空発20:40 と変わってしまった。これだと、往路で関空に着いてから、その日の内に、枚方にたどり着けない。そのため、天王寺の動物園前辺りの、朝食付2200円の宿を予約した。懐かしい天王寺も楽しめるかと楽しみにしていた。
ところが、そののち、また連絡が来て、成田16:10発が無くなって、早朝6:15発になった。動物園前の宿はキャンセルしたが、この便には乗れる筈がないと、キャンセルしようかと電話したら、成田の宿を無料で予約してくれるってなった。今回はいいのだが、これから、この便に乗るにはどうすりゃいいのだろうか。こんなことしてたら、JetstarJapanに乗る人が無くなってしまうのじゃ、と心配だ。どうやら、やはりバス便が僕の身に合っているのだろうか。
どうせならと、小学校の友人をネットで探したら、古墳を楽しむ会に所属する、それらしき人名の人に連絡を取ったら、やはり、小学校の友人であった。彼と会う約束もした。
楽しい旅になりそうだ。
出発当日のホテルは、成田ビューホテルと称され、送迎バスが駅、空港の双方を結んでいるらしい。夕食は、京成成田駅で降りてJR成田駅に行く途中のコンビニで買い、国鉄駅前のロータリー前で送迎バスの停留所を探したが見当たらない。また戻ってゆくと先ほど買い物をしたコンビニの眼前に目当てのバスらしきものが停まっていた。乗り込むとしばしで出車した。ホテルにまっすぐに向かうかと思いきや、なんと、イオンの前に停まり多くの乗客が降り出して心配になり、運転手に聞くと、そのあと、ホテルに向かうとのことで安心した。ホテルはかなり空港に近い場所にあるが、やはり早朝送迎バスでないと行けない。そのため翌日は早いので、早々に就眠とした。
結局、LLCとは、あまりサービスも求めない僕向きのFLIGHTだってことだった。が、早朝便のことだけあって、雲は多い日であったが、富士山が実に見事に見える旅であった。
何のトラブルも無く、天王寺に着いて朝食を食べ、河内松原駅に向かった。ところで、関空発の市内行きの列車は、日根野って所で和歌山線(阪和線)と合流するから、これを頭に路線を組むのが重要だ。また、関空線は、天王寺から新今宮を経て時計回りに大阪駅に向かう、ってことも、過去の路線の流れとは異なるので留意が必要だ。つまり、関空線に関して、主要駅は天王寺ではなくて、新今宮なのかもしれない。
南大阪線もかなり高架化が進んでいて、松原駅もまた、僕の小学校の時代とは異なり、立派な駅に変わっていて、駅前で小学校の旧友I君と、それは簡単に出会った。やはり、子供の頃の面影は、お互いに、見事に残っていたようだ。僕の頭の中の彼の顔の記憶が、不思議なことに、すぐさま今の彼の顔にと置き換わった。そうして、時間が経つとまた昔の顔にと徐々に戻るのだが、最近の写真を見ると再び新しい映像に置き換わる。
その昔の我が家は、松原駅から東西に走る線路に沿って、西の方2KM程度にあった。一方、彼の家は、今は無くなった小学校、それは駅に沿って南側にあったが、その小学校の更に僅かだが、南側にあった。が、そこに至る道には竹林に覆われた場所を通らねばならず、その竹林が怖くて、彼の家を含めてその南側に行ったことはなかった。が、今ではすべてが商店街と住宅街に変わっていて、I君は彼の車で、先ず僕を彼の家に連れていった。家の場所は同じだが新しく建て直された家であった。彼についての記憶からすると、彼はとてもはりきり屋で、いつもクラス活動を真っ先にする少年だったのだが、いろんな思い出話をしているうちに、僕たちの小学時代には、彼は既に父親を病気で亡くしていたとのことで、学校生活で、あれほど活発な少年が、と愕然とした。そう考えると、わが人生とは、長い人生で付き合いのあった多くの人々の人生については殆ど知ることなく過ごしてきたことにも思い至った。戦時中の疎開者住宅で育ったことに加えて、小学校高学年で引っ越し、市内の、公立ながらも受験中学校、受験高等学校に通ったことからも、この傾向を高めてしまったのであろう。さびしい気持ちもするが、どうしようもないことでもある。
家に招待されるとは思いもせず、お土産も準備していなかった。どうも、まともな人付き合いが少なく、しかも、現役引退が長く続いたことも影響してまともな社会人では無くなったらしい。ちょっと話は飛ぶのだが、帰ってからお礼にと、ネパールで買ったお茶を送ったが、このお茶の味について、女房や娘の感想と同様な感想の感謝メールが送られて来て驚いた。僕の味覚が最悪なのは、てっきり戦後の物質不足のせいだと考えていたのだが、I君のことから推察すると、どうやら、そのせいではなく、生まれつきのものかもしれないと思えたのだ。
さて話は元にもどして、その後、彼は車で松原市内の見どころを案内してくれたが、ほとんどは僕の知らない、それに、驚くほど由緒のある場所であった。順にたどると、南に下って、柴垣神社
http://www.e-kokoro.ed.jp/matsubara/matsu-e/6nen/6-3new.pdf#search='%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%9D%BE%E5%8E%9F+%E6%9F%B4%E5%9E%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE'
更に南に下ると、黒姫山古墳がって、ここで昼食をご馳走になった。なかなかおいしかった。やはり、食事は関西の方がおいしい。
http://inoues.net/ruins/kurohimeyama.html
僕の青年時代は、この古墳よりは東側の、仲哀天皇や応神天皇のエリアを主に回っていて、これほどの古墳が松原地区にあろうとは思いもしなかった。
少し西の26号線、これは、松原と高見の里のほぼ中間辺りを南北に走る道で昔はなかったのだが、おそらく細い旧道があったのだろう、それに沿って北上し、先ずは、鋳物師発祥の地、
http://kamnavi.jp/en/kawati/hirokuni.htm
次いで、法雲寺、更に来迎寺(丹南藩陣屋跡)を訪れた。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage562.htm
http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,1174,49,237.html
これら由緒のありそうな施設は、僕の住んでいた場所から、南にそれほど遠くは無い場所の筈なのだが、まったく行ったことがなかったのだ。僕たちの子供の頃は、それほど、行動範囲は小さかったのだろう。それに不思議なのだが、これらの施設は、昔の我が家の南側に点在していたが、当時、我が家周辺の田んぼからは、南には葛城山系まで、殆ど人家なく望めた筈なのだ。考えられることは、目立たない小さな集落が点在していて、その集落ごとにこれらの史跡が生き延びていたってことだろう。その時代には、これらの史跡の価値がまったくわかることはなかったであろうが、せめて訪れる機会があったなら、との後悔を感じた。
次いで彼は、大塚山古墳を案内してくれた。なんとも懐かしいエリヤの自分の知らなかった素晴らしい場所を案内してもらい、感動の時間を過ごすことができた。
その後、松原駅で再会を約束して別れた。
枚方では家の修理を楽しみ、天気があまり良くなく、外ではたまにしかできなかった。が、暇を見て、京阪私市線に沿って河内磐船、つまり交野近くまで歩いた。枚方からの道はなかなか面白い道であった。
ただ食事は、毎日、焼き肉・野菜の繰り返しで済ませた。
次に来るときの計画も作り、これからもいろいろと大阪を楽しめそうだ。
便は、成田14:24発、帰路 関空発16:10 発と極めて好ましい時間であった。が、その後、成田発21:05、関空発20:40 と変わってしまった。これだと、往路で関空に着いてから、その日の内に、枚方にたどり着けない。そのため、天王寺の動物園前辺りの、朝食付2200円の宿を予約した。懐かしい天王寺も楽しめるかと楽しみにしていた。
ところが、そののち、また連絡が来て、成田16:10発が無くなって、早朝6:15発になった。動物園前の宿はキャンセルしたが、この便には乗れる筈がないと、キャンセルしようかと電話したら、成田の宿を無料で予約してくれるってなった。今回はいいのだが、これから、この便に乗るにはどうすりゃいいのだろうか。こんなことしてたら、JetstarJapanに乗る人が無くなってしまうのじゃ、と心配だ。どうやら、やはりバス便が僕の身に合っているのだろうか。
どうせならと、小学校の友人をネットで探したら、古墳を楽しむ会に所属する、それらしき人名の人に連絡を取ったら、やはり、小学校の友人であった。彼と会う約束もした。
楽しい旅になりそうだ。
出発当日のホテルは、成田ビューホテルと称され、送迎バスが駅、空港の双方を結んでいるらしい。夕食は、京成成田駅で降りてJR成田駅に行く途中のコンビニで買い、国鉄駅前のロータリー前で送迎バスの停留所を探したが見当たらない。また戻ってゆくと先ほど買い物をしたコンビニの眼前に目当てのバスらしきものが停まっていた。乗り込むとしばしで出車した。ホテルにまっすぐに向かうかと思いきや、なんと、イオンの前に停まり多くの乗客が降り出して心配になり、運転手に聞くと、そのあと、ホテルに向かうとのことで安心した。ホテルはかなり空港に近い場所にあるが、やはり早朝送迎バスでないと行けない。そのため翌日は早いので、早々に就眠とした。
結局、LLCとは、あまりサービスも求めない僕向きのFLIGHTだってことだった。が、早朝便のことだけあって、雲は多い日であったが、富士山が実に見事に見える旅であった。
何のトラブルも無く、天王寺に着いて朝食を食べ、河内松原駅に向かった。ところで、関空発の市内行きの列車は、日根野って所で和歌山線(阪和線)と合流するから、これを頭に路線を組むのが重要だ。また、関空線は、天王寺から新今宮を経て時計回りに大阪駅に向かう、ってことも、過去の路線の流れとは異なるので留意が必要だ。つまり、関空線に関して、主要駅は天王寺ではなくて、新今宮なのかもしれない。
南大阪線もかなり高架化が進んでいて、松原駅もまた、僕の小学校の時代とは異なり、立派な駅に変わっていて、駅前で小学校の旧友I君と、それは簡単に出会った。やはり、子供の頃の面影は、お互いに、見事に残っていたようだ。僕の頭の中の彼の顔の記憶が、不思議なことに、すぐさま今の彼の顔にと置き換わった。そうして、時間が経つとまた昔の顔にと徐々に戻るのだが、最近の写真を見ると再び新しい映像に置き換わる。
その昔の我が家は、松原駅から東西に走る線路に沿って、西の方2KM程度にあった。一方、彼の家は、今は無くなった小学校、それは駅に沿って南側にあったが、その小学校の更に僅かだが、南側にあった。が、そこに至る道には竹林に覆われた場所を通らねばならず、その竹林が怖くて、彼の家を含めてその南側に行ったことはなかった。が、今ではすべてが商店街と住宅街に変わっていて、I君は彼の車で、先ず僕を彼の家に連れていった。家の場所は同じだが新しく建て直された家であった。彼についての記憶からすると、彼はとてもはりきり屋で、いつもクラス活動を真っ先にする少年だったのだが、いろんな思い出話をしているうちに、僕たちの小学時代には、彼は既に父親を病気で亡くしていたとのことで、学校生活で、あれほど活発な少年が、と愕然とした。そう考えると、わが人生とは、長い人生で付き合いのあった多くの人々の人生については殆ど知ることなく過ごしてきたことにも思い至った。戦時中の疎開者住宅で育ったことに加えて、小学校高学年で引っ越し、市内の、公立ながらも受験中学校、受験高等学校に通ったことからも、この傾向を高めてしまったのであろう。さびしい気持ちもするが、どうしようもないことでもある。
家に招待されるとは思いもせず、お土産も準備していなかった。どうも、まともな人付き合いが少なく、しかも、現役引退が長く続いたことも影響してまともな社会人では無くなったらしい。ちょっと話は飛ぶのだが、帰ってからお礼にと、ネパールで買ったお茶を送ったが、このお茶の味について、女房や娘の感想と同様な感想の感謝メールが送られて来て驚いた。僕の味覚が最悪なのは、てっきり戦後の物質不足のせいだと考えていたのだが、I君のことから推察すると、どうやら、そのせいではなく、生まれつきのものかもしれないと思えたのだ。
さて話は元にもどして、その後、彼は車で松原市内の見どころを案内してくれたが、ほとんどは僕の知らない、それに、驚くほど由緒のある場所であった。順にたどると、南に下って、柴垣神社
http://www.e-kokoro.ed.jp/matsubara/matsu-e/6nen/6-3new.pdf#search='%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%9D%BE%E5%8E%9F+%E6%9F%B4%E5%9E%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE'
更に南に下ると、黒姫山古墳がって、ここで昼食をご馳走になった。なかなかおいしかった。やはり、食事は関西の方がおいしい。
http://inoues.net/ruins/kurohimeyama.html
僕の青年時代は、この古墳よりは東側の、仲哀天皇や応神天皇のエリアを主に回っていて、これほどの古墳が松原地区にあろうとは思いもしなかった。
少し西の26号線、これは、松原と高見の里のほぼ中間辺りを南北に走る道で昔はなかったのだが、おそらく細い旧道があったのだろう、それに沿って北上し、先ずは、鋳物師発祥の地、
http://kamnavi.jp/en/kawati/hirokuni.htm
次いで、法雲寺、更に来迎寺(丹南藩陣屋跡)を訪れた。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage562.htm
http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,1174,49,237.html
これら由緒のありそうな施設は、僕の住んでいた場所から、南にそれほど遠くは無い場所の筈なのだが、まったく行ったことがなかったのだ。僕たちの子供の頃は、それほど、行動範囲は小さかったのだろう。それに不思議なのだが、これらの施設は、昔の我が家の南側に点在していたが、当時、我が家周辺の田んぼからは、南には葛城山系まで、殆ど人家なく望めた筈なのだ。考えられることは、目立たない小さな集落が点在していて、その集落ごとにこれらの史跡が生き延びていたってことだろう。その時代には、これらの史跡の価値がまったくわかることはなかったであろうが、せめて訪れる機会があったなら、との後悔を感じた。
次いで彼は、大塚山古墳を案内してくれた。なんとも懐かしいエリヤの自分の知らなかった素晴らしい場所を案内してもらい、感動の時間を過ごすことができた。
その後、松原駅で再会を約束して別れた。
枚方では家の修理を楽しみ、天気があまり良くなく、外ではたまにしかできなかった。が、暇を見て、京阪私市線に沿って河内磐船、つまり交野近くまで歩いた。枚方からの道はなかなか面白い道であった。
ただ食事は、毎日、焼き肉・野菜の繰り返しで済ませた。
次に来るときの計画も作り、これからもいろいろと大阪を楽しめそうだ。
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