2013年3月19日火曜日

薬園の森

 束の間の人生で何を学んだろうかと、それに何かを学ぶことが出来ただろうかと、通勤電車の吊革にすがり視線を流れ去る窓の外に向けながら、取留めなく過去の映像を追い続けることが多くなった。しかし、情けないことには、自己を明確に意識するようになってからの人生は、どう生きてゆくかに終始したようで、どうやらわたしの本質はそれ以前の、まだ意識のはっきりしない混沌の時代にあったように思える。
  疎開者用住宅地に住んでいたその頃、私はまだ小学校にも行かない幼児であったから、いろんな記憶の断片は順序脈絡も定かではなく、頭の中に広がる薄暗い領域の、所々に浮かぶ、微かに照らされる静止画像でしかない。しかも、画像に登場する人々の殆どは輪郭とか雰囲気だけが感じ取れる霧のような存在となっている。輪郭に焦点を合わそうとすれば、すぐさま霧は吹き飛び、残された映像は目鼻もなく、のっぺらぼうで雰囲気さえ感じ取れない代物になってしまい、失った雰囲気を取戻そうと、頭の中でうろうろと焦ってしまうのが常である。
 ただ中には鮮明な画像を持つものもあり、その一つは、空のリヤカーを引く母親の後ろ姿と、荷台に腰掛けているわたし自身の、いずれもが貧しそうな姿で、己の姿がまるで中空から眺めているかのように見えるのも奇妙に思えるのだが、その映像はおそらく丘の上にある古い村に買出しに行く時の光景に違いないと考えている。戦後間も無いその時期にはこんな風体の母子連れで、近くの村に買出しに行ったのだろうと、今は既にない母親の食べ物を手に入れるための苦労を考えてしまう。しかし、兄や姉達には残る飢餓の鮮明な記憶はわたしには無く、ただ、楽しかったとの感触だけが残されている。
  大阪南河内の古い村々の外れに急造された疎開者住宅は、当時はなんとも思わなかったが、今から考えると実に奇妙な位置に造られていた。和歌山との境に連なる和泉山系から、幾筋もの丘が、微かな皺のように南の低地へと続いていて、古い部落は全てこの丘の上に群がっていた。丘と丘の間は、それは永い歳月を耕され続け、川筋の疎らに連なる木々を除いては地面はただ平坦な田畑が、しかも、南と東の山々まで昇り勾配で広がっていたから地平線も無く、地面は徐々に上にと昇り、最後は紫色に霞む遙か彼方の和泉山系や金剛山系の麓へと、それから急に頂上へと至り、そこで区切れて青空となっていた。山裾までの勾配面は、梅雨頃には、ただ真っ平で鼠色の水面となり、秋の収穫時期には吹き抜ける風になびく黄金色の、ただ一枚の平面として存在していた。
  この光景を眺めた記憶もまた鮮明で、幼心には理解出来ない、それは、歳を経た今になっても往々にして心に蘇り、あれこそは感動であったと確認する心の震えを感じたものだが、更に考えれば、その住宅地は南河内の、あたかも浅い鍋の底に位置するわけで、しかも、もっと上の方には、弘法大師が開削したと言われる巨大な狭山池から流れる二本の川の一つが、真っ直ぐに住宅地に向かいながらも、住宅地のすぐ手前で西にと方向を変えて、鍋の底周辺の四分の一周を迂回してから再び南へと下っていった。つまり、さすがの川も、鍋の底に入っては抜けられないと考えたに違いない。
 
山裾からの勾配は住宅地の北側へとまだ続くのだが、そこには近鉄南大阪線の線路が嵩上げされた堤防の上を東西に走り、この鍋の底を、逃げ場の無い底にすることにとどめを刺していた。
  こんな状況であったから、一旦何事かが起これば只では済まなかった。僅かとは言え高い丘の上に設けられた村々とは違い、毎年、梅雨から台風シーズンに掛けて、川の水位が僅かでも増せば、南の縁に沿う川筋のあらゆる所から全ての水が鍋の底へと押し寄せた。つまり、住宅地は年に一度、二度と、時にはおまけの三度、更には四度と、床下浸水に侵されるのが常で、水流と共に川に棲み付く様々な生き物も水につられて押し寄せては住宅地の道を泳ぎ回ることになった。
  大人達にとっては苦労の種であったこの有り様も、わたしにはまたとない遊びの時期となり、まるで一匹の蛙になったかのような気分で腰まで水につかりながら走り回った。本物の蛙達は緩やかな水の流れに乗り流れ去り、やがては線路際に所々作られた暗渠周辺に生じる濁流に呑まれて下流へと消えて行った。轟音と見事な渦模様を造る暗渠への流れは、わたしにとっては極めて魅惑的な存在で、あたかも新しい世界への入口かのように見えたのだが、心の奥底の声がわたしも引き止めた。そのため、幸か不幸かわたしは流されること無く住宅地に残された。その頃から既に、わたしは新しい出来事に臆病であったようだ。
  春になれば周囲は麦畑とレンゲ畑で風景は占められた。梅雨前の田植えが終われば、田圃に現れる様々の虫たちを眺めて楽しんだ。とくに田金魚は体をくねらせ、掴まえどころの無い美しい色を変えながら泳ぎ回り、かぶとえびは泥の中をその奇妙な体型で這い回っていた。秋から冬にかけては霧が全てを乳色の刷毛で柔らかく覆い隠してしまうのが常であった。そうして冬には必ず雪の訪れがあり、大空を除く全ての世界が白一色で覆われた。
  それにしても、人と関わる記憶のずさんなことにくらべて、この風景とか、虫とか魚それに蛙とか蛇とか、水の流れとか、それに言葉には現せない香りとか色についての記憶の、この鮮明さはどうしたものであろうかと、これを書きながらもわたしは考える。それは彼等が常にそこに居て、その折々の変化も瞬時ではなく、またある時には繰返し繰返し訪れることで、記憶の中に焼付けられたのかと、更には、往々にしてある古い記憶の美化により、記憶が事実以上に鮮明に、つまりは記憶の再創造がなされるのかとも考えたが、わたしのこれらの記憶は、実に、幼児期も過ぎてから、ずっと変わらぬまま続いていることからすると、更には、旅先で極めて稀ではあるが同様の風景に出会うことからすれば事実そのままの姿に近かったと言えそうだ。
  とにかく、わたしはそんな、何の憂いもない四季を存分に楽しみながら暮らしてはいたのだが、いつも気にかかる存在が、住宅地の西のすぐそばにあった。遊び呆けているある瞬間に、頭を上げるとその存在は存在そのものを強く現した。今から思えば、それは、僅かに小高い丘の上に並ぶ古い農家の茶色の土塀と、その並びに続く木々の列に過ぎないのだが、数枚の田圃を挟んだ住宅地の向こうに、言葉通りの壁を形造っていた。
 
壁の色そのものが見慣れないものであったのと、木々がそれほどにも並ぶ姿が異様に思えたのだが、その存在は、いつもいつもわたしを眺め下ろしているように感じられた。しかも木立の上に聳える鼠色の建物は、周囲の風物から全く孤立して見下ろしていた。大人達はこの建物を「やくせん」と呼んでいて、「やくせん」の話が出れば必ず、「大戦中には、あの建物の上に高射砲があり、B29を目掛けて撃っていたんや」と話しは続き、それがまた、わたしには眩しいというか、無視できない存在として残った。
  こんな状況であったから、いずれはその存在を確かめることにはなったであろうが、その時は真夏の最も暑い時間になってしまった。その時間帯と言えば、虫も蛙も、あらゆる生き物が日陰に潜む時間で、そのためわたしは時間を持て余したに違いない。わたしの記憶はそこから、とても広い間隔を隔てて並んでいる家々の、土塀に挟まれた狭い道を歩んでいるところに跳んでいる。わたしは右を左を、そうして前後を忙しく観察しながら歩いていたと記憶している。たしか、道の左手には小さな、水の流れていない溝ともいえる川があった。道は途中で右に折れて溝を渡り真っ直ぐに続いていた。土塀の間にある門はとても大きくて、まるで一軒の家のように屋根があり、庭はその奥にずっと続いていた。しかし、土塀は所々崩れ落ち雑草が生えていて大きな門の屋根瓦も剥げ落ちている有り様に、遠くから見た時に感じた威厳はなく、何故かほっとする気持ちを感じたのだ。わたしの影は白く乾燥した大地の足元辺りにあり蝉の鳴声以外に聞こえるものは無かった。
 
村を抜けると僅かに道は広くなり、右の向こうには近鉄電車の踏み切りが見えていて、左手の突き当たりには、木々の茂る森と、その上には「やくせん」がいよいよ聳えて見えた。当然ながらわたしは「やくせん」への道を取った。
  やくせんとは、これはわたしが高校になってから、ふと思い出したときに地図を調べて判ったが、薬科専門学校の略称で、なぜまた、当時はあんなに田舎であった場所に専門学校を造ったのかと疑問を感じたことも覚えている。
  薬専への道の途中には石橋があった。そこまでは迷いも無く進んで来たが、橋の上でわたしはうろうろと考えた。水の流れ来る方向からすると、川はわたしの住宅地の南をかすめる川に違いないと思った。再び薬専に目を移すと、建物がすぐ傍に、しかも本当に大空に聳えていて、その周囲には建物にも劣らない高木が立ち並んでいた。なによりも恐ろしく見えたのは、薬専の建物のど真ん中に明いた黒々とした穴であった。そうして遠くから見えた薬専の建物とは、何かもっと広い領域の入口に過ぎないことに初めて気付いたのだ。しかもその入口の、歳月を経てまだらになった鼠色の表面の殆どが、濃い緑と茶色の入り混じった蔦の葉で覆われていた。
  なんとも恐ろしいこの様相に脅えながらも、わたしは建物に近付いた。穴には重そうな鉄製の、両開きの扉が付いていて、大きく開いた向こうにはもっと背の高い四角の建物が建っていた。それも一つでは無くて、奥の方へと何棟かが並んでいる。人影は全く無く、それもまた後から考えれば当然なことで、夏休みの暑い盛りに学校を訪れる人は、わたし以外に居る筈もなかったのだ。
  これはとても入って行けないとわたしは諦めた。そこで左右を見ると道は薬専の生垣に沿って両側にある。そのいずれの道も両脇には鬱蒼と木が茂り薄暗く、しかしそれでもまだ、暗く蔦に覆われた門よりはましに思えたが、その有り様は田圃の中で暮らすわたしには殆ど信じられない光景であった。その臆病さゆえに、もう帰ろうかと
思ったのだが、何故か、今も判らない理由でわたしは右への道を進み始めた。
 
恐らく、それは、やはり臆病さと共にわたしの心の特徴とも言える好奇心の故だろうと思う。そう言えばわたしは、知らない街を、そこが如何に汚らしく汚れた通りであったとしても、恐れを感じながらも歩き回るのが好きであった。旅先では少しでも暇があれば街路を徘徊した。そんな習癖がその頃から備わっていたのだろう。
  とにかくわたしは、門の建物に沿う右の道を取り、暫く歩けば薬専の敷地の角に達した。道はそこで直角に右に曲がっていた。見ると、道は敷地境界の金網柵に沿って真っ直ぐと続き、金網の内側と道の反対側に立ち並ぶ木々の垂下がる枝々に遮られて果ても見えない有り様であった。この道を行けばどんな所に行着くのだろうかと、ちらっと考えはしたのだが、もうわたしの恐怖心は限界に達していた。わたしは、何か得体がしれないものに襲われるかのように思え、後ずさりして門の方へと下がって行った。それから、どのようにして家に帰ったかの記憶はない。
  小学校も三年を過ぎた頃から絵を描くことが好きになり、、春夏秋冬の季節の移り変わりの中で二度と同じ姿を見せることの無い山々の、一瞬の姿を絵に残そうと試みた。しかし、描かれた風景は、みすぼらしく単調な形骸でしかなかった。それが何故か、どうして彼等を表現できないのかと突詰める努力があれば、新しい道が開かれたかもしれないが、例え描くことが出来なくとも、そのものが目の前に日々存在することで、その努力もなく、わたしは描くことを諦めただけであった。
  小学6年生の時にわたしの一家は、田圃の中の家から、同じ南河内ではあったが、疎開者住宅地を脱出して、もう少しまともな住宅地に移り住んだ。しかし、そのことは後から考える限りにおいて、わたしの人生の最も光輝く部分からの別離であった。その後の人生は、ときたま、例えば、女房との数ヶ月の恋愛期間とか、仕事で何事かを成し遂げた時の充実感はあったものの、日々が輝きであった頃に比べれば、色褪せたものでしかなかった。それに、これからの残された人生であれほどの輝きの時を作り出す気力も自信も無く、つまりは二度とは経験できない貴重な日々であったのだ。
 
だが、あれこれと考えてから、わたしはそのことを悲しむことも、自分に哀みを感じることも無いと考えた。なぜなら、あれほどの輝きを得ることが出来ただけでわたしの人生には意義があり、それと同時に、わたしそのものが、大地のほんの一部ではあるが、たんに動き回る微小部分として存在したに過ぎないと気付いたのである。しかも、わたしは幼児期から変わることなく、いやそれどころか、生命なるものを得る以前から、それに、これからも変わることなく大地の一部であり続けることにも気付いたのだ。

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