なぜ、ここに居るのだろうかと頭の片隅で考えながら、わたしは殺風景な春日選挙事務所の折畳み椅子に座っていた。
その日わたしは朝いちばんに、投票用紙にはもちろん春日さんの名前を書き、箱に入れてから田原さんの山林に行った。ホタルの会では、田植えとか、炭焼、それから植物調査なんぞと、いろんなことで多いに楽しんでいる。そんな遊びが会の主賓であるホタルとの付合いよりは、これはあくまで内緒だが、むしろ私には好みで、ともあれ、そんな遊びの殆どは概ね田原さんの所有地の片隅でわいわいと開催されるのだ。ところが、今年の夏に、噂では頑固と聞いているのだが我々には本当に親切であったおじいさんが突然亡くなり、遺産相続の関係でさすがの田原さんも頭が混乱していて、と言うのも、彼の所有地はもう開発計画の中に組み込まれていて、山林として残したいとの彼の意志とは関わり無く計画は着々と進み、これを阻止しようとする方策と、おばあさんとか、その他の彼の親族での財産分与がからみ合い、複雑な状況に頭がはちきれそうになっているらしい。その他にも更に事態を混乱させる事情もあり、何はともあれ、山林の樹木調査が必要だと、これも、なぜ必要かは良く理解できない点もあったが、こんなイベントは盲目的に好きなものだから、あまり考えることもなく、とにかくは調査をすることになったのだ。
こんな時にはほんとうに便利なのだが、ホタルの会やその周辺にはいろんな特技を持つ人が多く、その一人である高校生物の先生の指導下で、朝十時から始め、昼食は駅前でうどん定食を食べて、樹木調査はまだ敷地の半分も終えていなかったが、夕方の五時になったので中断することになった。木々の幹にテ-プをホッチキスで留め、そのテ-プに油性マジックで木の番号を書込み、コンパスで胸の高さでの幹の太さを測定して記録用紙に書き込むのだが、これを成し遂げるためには数種類の道具を左右の手の親指と、人差し指、それに小指にぶらさげて、使う順序を間違えれば、道具と手がからみあって無茶苦茶になってしまうので、手順については着実に判断しながらしかも俊敏、かつ的確に事を進めのだ。なかなかテクニックの必要な仕事で、こんな仕事はごく私の性に合うようで中断は少々残念であった。
女房が車を使っているので、と言うか、わたしは車の免許書も持っていないから、田村さんの奥さんの車に同乗して送ってもらうことになった。手にはもう道具は無かったが、長時間持ち続け、働き続けたものだから、手と頭が勝手に道具の使い方を復習していた。
「志水さん、九時から開票だけど春日さんの事務所に行く?」と田村さんが聞いた。ホタルの会にも入っている春日さんが今年の市会議員選挙に立候補して、田村さんの奥さんは推薦人にもなっているのだ。一般人が推薦者であることは、春日さんに地盤の無いことの証で、こんな時には男は屁の役にも立たず、我が家の女房殿、それに、ホタルの会の各家の女房がた総出で、できる限りの紹介をして回っているのだが、そんなことで当選するとはとても思えず、その思いは田村さんの奥さんもどうようの筈だと考えた。
田村さんの誘いについては、そもそも、わたしが行くとして選挙事務所でどう身を処すればよいのか全く見当もつかなかった。そこでわたしは、
「あー・・えーっと、僕は朝早いですからねえ・・・」と言葉を濁した。
「そう」と、田村さんは全く気にする様子もなく、そのままわたしを我が家に送り届けてくれた。田村さん一家とは大阪で住んでいた高層住宅が偶々一緒で、わたしよりは一足先に千葉に引っ越してしまい、後からわたしも東京に転勤になり同じ市内に住むことになった。あの頃は田村さんの奥さんも若かった。みな歳を取り、それぞれがそれぞれの人生を歩んでゆくのだが、田村さん一家とは、実に人生の半分近くの近所付合いになり、特に女房同志の付合いが親密で、しかも、こちらに来てからの地域活動では亭主二人も一緒になってしまった。
その日はわたしの誕生日ではあったが、ずっと歯の調子が悪く堅いものは駄目との事情でカレーライスとなっていた。家族全員が不思議がるのだが、子供の頃の食料事情の悪さのせいか、カレ-ライスが大好物なのだ。普段であれば体調を考えて一皿で終えるところが、誕生日でもあることからと、お替わりをしたものだから、ゲップの匂いもカレー臭気となってしまった。
ついでに言うとすれば、歯の調子だが、通いの担当医が抜歯を薦めるのだけれども、わたしはボンドで補強することを主張し続けている。既に抜いた歯もボンドなんて便利なものが有ることを知っていれば抜かせはしなかった。ただ、どうやらその医者はボンドの処理が下手と言うか、ボンドの価値を軽視しているようで、前々回の時にはしっかりと留めるようにと苦情を言い、補助の女性がこってりと塗布してくれて三ヵ月も保ったのだが、前回は医者本人が、それも片側の歯と接続するだけで、さらには大丈夫かなと危惧する具合の塗り方で、案の状、二日で取れてしまった。その後いよいよ痛くなる按配で、先週の土曜日にはすっかり参った状態で医院を訪れた。「もっとしっかりと留めてください」と言うわたしの言葉に、担当医は口の中を覗くや否や別の女医を呼んで相談を始めた。そうして女医さんがボンドで、正確にはスーパーボンドと称するらしいが、白い二液性の接着剤で留めてくれた。その際、医者の二人が深刻に相談していたのを目撃して、その意味するところをいろいろと考えてみた。まず思いつくのは、担当医がわたしの頑固さに嫌気をさし、女医さんと替わる積もりか、それは彼女の接着の腕が良いことから、わたしには好都合で、故も無く医者に見離されたことへの個人的な誇りを抑えさえすれば満足できる状況である。次の可能性としては、その時の悲惨なわたしの口内を見せることで、抜歯を薦める仲間を増やしていたのかもしれないが、その最悪状況を招いた本人の企みとしては許しがたいと思われ、もしそうであるとすれば、二人の医者相手の答弁を考えておかねばなるまい。更に考えれば、その時の悪化状況は本当にひどくて、膿が頭の中を駆け巡るかのような耐えがたい痛さで、会社でも頭を抱えて過ごした。その時、生まれて初めての鎮痛剤を服用したが、鎮痛剤があれほど爆発的効果があることには驚いたが、痛みは嘘のように消えてしまった。とにかく、かような悪化状況であったから、口内のひどさにガンかもしれないと女医さんを呼んだのかもしれない。その点ではかなり心配はしたが、その後の経過からすれば、この線は薄れている。まあ、とにかくも、胃腸はいつも頑丈で、飲み込めるサイズに砕きさえすれば、すべてを消化する頑丈さを持っている。そんな心強い胃を持つわたしとしては、何があろうとも、スーパーボンドを主張し続けるのだと決心している。後は定期的に補強さえしてくれれば、堅いものをガリガリポリポリと噛み砕く年令は過ぎ去ったと諦めているのだから。
などとあれこれ考えたところで、今までにもいろいろの状況で事態の推移を様々に想像したことがあるのだが概ね当たることはなくて、結局はなるようにしかならないのが結論である。とにかくそんな事情で、カレーライスの食い過ぎでパンツのボタンも閉まらないまでに腹が膨れてから、田村さんの提案のことを思い出して女房に伝えた。
女房はちょっと気になる沈黙の後で、
「だけど・・・落選した時に、激励する人も必要・・なんやない?」と、若干の疑問符とともに呟いた。
「そうやろか?誰か、そんな人を知ってんの?」と、わたし。
「あの、野村のおじさんが立候補した時には、後で人間不信に陥ったからね・・・」
「へー、落選したんか」
「うん。かつぎあげる人にも、いろんな人が居るからねえ・・」
とまあ、こんな会話の後で、
「まあ、選挙事務所といっても、別にどうちゅうこともないやろ」と、行くことにはしたが、開票が始まるのは夜の九時からで、朝の早いわたしとしては、そう遅くまでは起きておれない。途中で帰ることにして顔だけでも出そうと決めたのだ。
開票の始まる九時ちょうどに家を出て、女房の運転する車で春日さんの事務所へと向かった。昔からの習慣で、夜九時ともなれば就眠の支度をするのが常のわたしは、夜道のネオンを見ると寂しい気分に陥る。その一方では明日を心配することなく、かような夜更けに、ネオンに照らされた店々を歩き回ることが出来ればとの思いが心をよぎるのだ。わたしには生来放浪癖があった。しかし、就職してからは仕事を果たすべく、引き続いては、心ならずも結婚してしまい子供も次々と作り、それ故に、家庭を維持せざるを得ず、ごく実直に過ごさざるを得なかった。ひとたびそのくびきが外れればとめどない放浪が待ち構えているようで、その怖れは夜の街のネオンを見るといよいよ強くなるのだ。それでも、わたしには、いつも見知らぬ街々を、それも出来れば世界の街々を巡り回りたいとの思いが心の片隅にある。つまり、わたしの人生は怠惰であることを怖れるあまりに、実直であり続けたと表現できるかもしれない。情けないと思うこともしばしばである。
そんな思いとは関係なく車はあっと言うまに春日事務所のある横丁に付いてしまった。事務所は数軒の店が並ぶ路地の奥にあり、自己主張を必要とするイベントには適切な場所とは言えないが、大学院を卒業してからの、アルバイトでの貯金だけで市会議員選挙に立候補したのだから、春日さんとしては精一杯の場所であったのだろう。事務所の場所などはどうでも良いことで、要は当選するかどうかだが、票として期待出来るのは大学院時代から顔を出している地元の環境グループだけで、それ以外には地盤もなく、大方の予想はほぼ無理とのことで、そんな事情が食事の時の女房との会話になったのである。
葉書書きや電話番をボランティアで努めた女房を先にして、わたしは事務所に入った。予想通り選挙臭を殆ど感じさせない事務所で、ウナギの寝床状態の事務所には片目の達磨も無ければTVすら置いていない。折畳みの長い机が二列で、その周囲に折畳み椅子が並べてあり、奥の方に春日さんが居てお母さんらしき人が隣で、中年の男女が二人、若者と言うか、三十代の男女が四人。と、居合わせた人々を見ながら、彼らを若者と言うような歳に、わたしは既になっているのだと考えた。
一週間前の出陣式からずっと一度も訪れることはなかったから、春日さん以外の人とは初対面で、と言って、選挙戦も終わったいまになって挨拶も無いだろうと、春日さんと、「やあ」
「やあ」と声を掛合ったままで、空いている入口側の空いた椅子に腰を下ろした。お母さんらしき人がお茶を持ってこられた。壁にはいろんな紙が、それは既に終えた一週間の選挙戦の予定表らしいのが貼ってあり、まるで工事現場のプレハブ事務所みたいな按配である。事務所の人々は、寿司の出前で夕食を取っている最中で、おそらくは、開票に備えての待機のために集まったと思われるが、それがどのような仕事を意味するのかはわたしに判る筈も無かった。いずれにしても、今ここに居る人はみな選挙に深く携わる人ばかりで、一般人はわたしたち夫婦だけらしい。つまりは、わたしの頭の中に存在する選挙事務所とは思えない様相で、多くの雑草の中の一株の雑草とあろうと、もしくは、それに似た状況との期待が、始めから脆くも崩れてしまった。
さて、これから事態がどう推移するのかとも考えたが、こればかりは何の経験もなく、全く予測が立たず、この人数の少なさでは途中で抜けることもならず、結局は選挙結果が明らかになるまでと思えた。しかも、すぐに若者達は、開票所への出掛けて行ったので、いよいよ人数は少なくなったが、一般人の夫婦が一組と、老人が一人訪れて元の人数には戻った。
春日さんはずっと机に向かい、なにやら領収書の整理をしているようで、漸くまとめ終わったようで、ファックス操作をしてから背伸びをした。そこで漸く新しく集まった一般人に気付いたようで、ひとりひとりに声を掛けた。
「春日さん、票読みはやっておられたんですか?」と、少々間の抜けた質問ではあるが、春日事務所を訪れた人としては、まあ、妥当と思われる質問をしてみた。
「ええ、・・電話なり、面会で会った人の反応で、毎日記録はつけているんですが、集計まではしていませんでねえ。党の方では、それを早く出せと催促してくるんですが、集計するよりも、出来るだけ確実な人に会う方が重要でねえ・・」と苦笑いしてから、
「それでも、わたし一人で確実と思える人は七百人は越えていますからねえ」と、かなり自信の有る発言であるが、わたしの目を覗き込み、そこにあったであろう不信の影を見付けたのか再び苦笑いを示した。恐らく彼の自信は誰からも疑惑の目で見られ続けたと思われた。春日さんは話題を変えるように、部屋を見回してから、
「そうか・・パソコンを持って来れば、開票速報が見られますね・・ちょっと下宿に帰ってパソコンを取ってきます」と、言うや、表に出ていってしまった。
こんな事情で、部屋には選挙参謀と思われる中年の男女を除いては、素人ばかりで、なすすべも無く折畳み椅子に座り世間話をぼつぼつと交わすだけとなった。紙面の都合もあり話を早く進めるのだが、その頃から選挙速報が出だして、開票所に行った若者たちと、下宿に戻りテレビの開票速報を見てしまいそのまま帰れなくなった春日さんの、双方からの電話で開票速報の連絡が入り始めた。
八千代市のホームページを見れば良く判るのだが、三十分毎に報道される開票は、各候補者が先ずは三百票を得票したかどうかが報道される。時間を置いて七百票、それから千票と、越えるべきハードルが次々と上がってゆく。つまり、運動会の紅白の玉入れの後で、ひとーつ、ふたーつと玉数を勘定するのとほぼ同じ方法なのだ。春日さんは、なんと、脱落することもなく、最初の三百票のハ-ドルを越えた頃に、田原さんが現われ一気に事務所は騒々しくなった。次のハードルを越えた頃から、伊東さんとか言う人が居酒屋で酒を飲みながらテレビを見ていたのだが、春日さんが善戦と知って来たのだと、さすがの田原さんも顔負けの騒々しい人が訪れた。二人のことはこの事務所では評判らしく、二人を中心に笑い声が大きくなってきた。そうなると奇妙なもので、春日さんが当選するのではないかとの期待が我々の話し声にさえ感じられるようになり、選挙参謀の人が、「まだ、まだ!」と、気持ちを引締める声をあげ、それがまたまた、期待を高めるような具合になって、わたしの世間話の声までが上擦るようになってしまった。
そのまま、あれあれと思う間もなく、春日さんは当選確実と報道されて、それから、果たして本当にパソコンを持ってくる積もりであったのかは判らないが、自宅に帰っていた春日さん、それに開票所に行っていた若者たちも戻り、しかも田村さんの奥さんまでもが開票所に行っていたのだと現われて、春日さんを真ん中に、万歳三唱となり、もう時間は十二時を過ぎて、あすのことを考えればもう駄目だとわたしは女房と帰ることにした。家に帰り着くまで、カレ-臭いゲップが何度も出た。
その他にもいろいろとあり、ほんとうに忙しい師走であったが奇妙な思いもよらぬ経験の続く、それは思い出深い年末でもあった。
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