2022年1月31日月曜日

物流事業について

 僕が40代後半にになった頃、僕が所属する東京の搬送技術部は解散になった。社内外交に疎い僕がその情報を得たのは、物流部門への移籍を告げられてからであった。それまでに、社内事情に長けた連中は皆、新居浜とか大阪の良い場所に逃げ散っていて、そのため、東京の搬送技術部の備品、資料などの整理処分も最後までやる羽目になった。
物流部門は、畑中さんと永井さん、共に阪大の先輩だが、彼等が大阪コンベヤに居る頃に立ち上げたのだが、それは、僕が入社後数カ月で、新居浜から転勤してきてすぐの頃だった。
僕が転勤した数日後に、畑中さんが僕を連れて、浜松の住友セメントに、コンベヤ設備の納入打合せに連れて行った。ベルトコンベヤなるものを全く知らないままに同行して、打合せから帰ると、畑中さんは、その案件のファイルを全て僕に渡して、「明日からは僕は自動倉庫(物流機器)に従事する。後は任せる」と申し渡した。
仕方なく、大阪梅田の旭屋に行き、ベルトコンベヤの計画と管理、などのコンベヤに関する本数冊を購入して勉強を始めて、一週間後の打合せには僕一人で行った。打ち合わせに出た住友セメントの課長が、怪訝な顔で、「畑中さんは?」と聞いたので、「僕が引き継ぎました」と答えたのだが、課長の顔を見る勇気はなかった。
その後直ぐに、永井さんが研究所から移動してきて、畑中さんの部下として、2人で物流設備を始めた。
当時、僕は八戸の長距離コンベヤを担当しだしたのだが、八戸鉱山の石灰石が製鉄所の要求品質に合うかどうかの検討が始まり計画推進が一時中止となった。その結果、僕の仕事がしばらく中断した。その中断期を見てと言うか、利してというか、永井さんが声を掛けてきた。永井さんは、急遽米国に出張することになり、自動倉庫の計画図を製作図に落としてほしいとの事だった。製作図の作成には外注さんを一人付けるとのことで、断ることも出来ず仕事を始めた。自動倉庫機器の計画図はA1サイズ一枚だけで、そこからは推定しながら製作図に落とさねばならず、しかも、納期はすぐそこであった。
2カ月ほどかかったが、毎日、12時ごろまで残業して、土日もなく働いて漸く図面の出図を完了した。つまり、物流事業部の最初の自動倉庫は僕が設計したことになる。
それから、20年ほどして、行く場所もなく物流に配流されてしまい、なんと、SEとして客先とあれこれ商談するエンジニヤとなってしまったが、最初の経験から物流施設の建設計画には直ぐに慣れてしまった。転籍の最初は新入社員と一緒に物流教習会に参加することから始まったが、直ぐに客先との交渉や基本計画、受注作業を一人でするようになった。有難かったのは、池内さんや和田さんが、物流のコンピュータ化を見事に推進し、それに、亀田さんや谷口さんが自動倉庫の標準化コスト低減化を十分に実施していたことで、それに、僕が搬送事業部で習熟した重機械の技術を応用することで、特殊な自動倉庫を客先に提言できて、高利益で受注できたことだ。前にも書いたが、住重初の冷凍自動倉庫、世界初の再生物受け入れ用自動倉庫、自衛隊弾薬自動倉庫、造幣局用紙幣用巻紙自動倉庫、等が僕が受注した案件で、変わった設備を容易に実現化できることが僕の強みであった。
ただ、物流事業創設者の畑中さんや永井さんが既に居なかったことには寂しさを感じた。

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