2018年9月1日土曜日

種子会社 (2)


 翌日には京都メルクリン本社を訪問した。

 僕が退社した五年前には、東大阪市に本拠があり会社の名前も“東大阪育苗”であったが、その後生駒山を越えて京都と奈良の県境に本社を移し、ついでに社名をも京都メルクリンと変更した。

 メルクリンとは組織培養で育てるクローン苗であり、もともとは蘭業界の用語である。新社名は会社の進む方向を単刀直入に示すと共に、KYOTO MERKURINと、英文としていることからも、かなり高級な響きを放っている。その名に相応しく平城ニュータウンの外れ学園都市区域の本社ビルは、東大阪時代の潰れそうな社屋からは思いもよらぬほどに豪華でしかも瀟洒な建物となっている。

 社名変更は、当時から流行し始めたカンパニィアイデンティティを実践してのことだが、上司であった佐薙さんは、単に若い人を集めるためのまやかしの手立てで、やっていることは何の変わりもない、片腹痛いこっちゃ、と言う。しかし、それは彼が献身的に働き続けた“東大阪育苗”への郷愁を表していて、社名変更は会社の規模と業績の拡大を考えると当然のことと思える。

 僕が担当した蘭科植物の培養装置が好調に稼働するようになってからは、会社の業績はうなぎ登りである。その成果だけでこれだけの会社に成長したとも言える。僕の退社は、培養のめどが立ってからのことだから、佐薙さんは会うたびに惜しむこと頻りである。しかし、装置の建設は佐薙さんの先見の明と蓄積した知識の結晶であって、会社創立以来初めて入社した機械技術者の僕に建設の全てが任されただけのことである。

 佐薙さんの構想を精密な制御と膨大なプログラムで置き換えようと努力したが、当時の会社の業績は最悪で建設資金は無いに等しく、そのために、全てが僕の労力に係り、システムはと言えば手造りそのものになってしまった。

 システムの機能と効果を生命の立場から指示する佐薙さんの言葉を、コンピュータプログラムに翻訳し、妥協を許さない要求を機械の制御精度で達成しようと気違いのように働いたが、余りにも厳しい要求に反発することもしばしばであった。しかし、ある日突然、佐薙さんの要求が彼自身のためではなくて、蘭科植物の代弁に過ぎないと気付き、しかも僕の立場は、植物生命体とメカトロニクスの接点にあるとの奇妙な自覚を感じた。それからは佐薙さんの言葉を誠実に受けとめて、要求通りのシステムを造ることに熱中した。

 幾度かの培養テストの後に、佐薙さんの心底からの笑顔を見た時、これで植物達をも満足させたとの確信を持った。・・しかし、その確信は完全なる誤解であった。

 システムが順調に稼働したその時から蘭科植物の量産化が始まったが、売れる品種は一割にも満たない。しかし、その一割でも充分の利益がでるだけの量を培養出来るシステムになっているから、残り九割は即座に抹消とされ、量産と共に焼却炉行きの株は膨大な数量となってしまった。

 毎日運び出される彼等を見ている間に会社についての根本的な懐疑にはまってしまい、僕自体の存在意義についても自信がなくなってしまった。つまり、会社組織には富の拡大生産を全てに優先するとの目的があり、その目的の前では植物生命体はただの商品でしかなく、人そのものの希望さえ無意味であり、それどころか存在意義そのものが副次的なものに過ぎないと気付いた。

 植物とメカトロの仲介者であることが会社組織の中では夢想に過ぎないと判ってしまえば、会社を罷めるか、それとも、仲介者を罷めるかのいずれかの選択が必要となり、僕は会社を罷めることを当然としたのだ。そうして、その選択と得られた結果を後悔したことは一度もなく、満ち足りた日々を送っている。

 すぐ近辺にある平城宮跡地と無理遣り関係ずけた名前を持つ近鉄京都線の“高の原”で降り、駅名にそぐわない広い道路の近代的な町並みを北に抜けた所に本社がある。種々の花を艶やかに咲かせる広いアプローチを抜け、総ガラスの自動ドアーを入ると五階建ての天井までが吹抜けになったロビーになっている。

 一歩ロビーに踏み込むと、アプローチの花とは異なる花々、木々の香りが空調の風にのり微かに流れていた。そこを出入りする研究者や花木の販売に携わる人々の衣服に付着し運ばれてきた香りの成分に違いない。

 人中では眠っている筈の新しい感覚がすぐさま目覚めて、微かな香りをそれぞれに識別し始めた。新しい感覚の活動は日ごとに領域を拡げているが、そこから得られる情報は鋭く繊細で明快で、古い脳の認識していた世界を、穏やかながらも、より多様な色で塗り替え識別してゆく。体中の神経が急激に感度を増してゆく心地よい感覚を満喫しようと、ブレザーを肩にサングラスを掛けたまま立ち尽くした。

 談笑していた選りすぐりの美人の受付け嬢のうち馴染みのひとりが視線を移し、その視線に釣られて新人の受付け嬢が振り返った。すぐ傍で茫然と立ち尽くす僕に気付いて体も笑顔も凍結した。

 僕は「やあ」と片手を挙げ、そのまま奥のエレベータへと行きかけた。古手の方は又かと言うような表情でにやっと笑っただけだが、新顔さんは先輩と僕を交互に見ながら緊張した顔付で、「あのー」とかすれ声を上げた。すぐに古い方が新人を押し留め、

「木津さん、わざと変な格好をして新しい子を驚かせないで下さい」と言った。

 僕はサングラスを外して、「いやー、すまんすまん、今後のこともあるから印象付けておこうと思ったのや」と謝った。

「そんなことしなくても十分に印象深いです」と叱るような口調である。

「わかった。わかった。それじゃあ新人さん、僕は木津といいますので今後ともよろしく頼みます」と頭を下げた。

 どう答えてよいのかと慌てる娘を庇うように、古手の受付け嬢は笑いながら、

「木津さん、貴方のことは十分に説明しておきますから急いで行ってください。佐薙技師長が待っておられます」と言った。

 佐薙さん自身が会社の中では伝説的人物になっており、その佐薙さんが僕の事をもっと伝説的な人物として言い触らしているから、会社の誰もが僕のことを知っている。この悪くはない状況を多いに利用していて、むしろ煽り立てているところもあり、サングラスを着けたまま会社に入ってゆくのもその表れである。お陰で、受付けの傍で茫然と立ち尽くしても怪しまれることはない。

 受付けカウンターを過ぎてすぐの大理石の化粧板に向かい、「やあ」と声を掛けた。新入りさんが怪訝な顔をしているのが眼の端に写ったが、古手の方は我関せずと入り口の方を向いたままである。

 大理石には五十センチほどの大きなアンモナイトの化石が浮きだしていて、いつも挨拶をして通ることにしている。彼もしくは彼女は二億年以上の昔に石灰泥に閉じこめられ今ここに姿を曝している。その膨大な年月を考えると挨拶なしには通れない気持ちになるのだが、受付け嬢達は単に伝説的人物の気まぎれな行動と解釈しているに違いない。

 そこに何の説明書もつけないところから、化石の存在に気付いているのは佐薙さんと僕だけのようだ。僕にしても、この会社に努めた三年間の、あれほど厳しい佐薙さんの教育がなければ、この事に気付く眼を養えなかっただろう。

 三階の長い廊下を抜けて、端にある「蘭科開発室」に入ると、窓際の席で佐薙さんは居眠りをしていた。ブルーの絨毯を引き詰めた広々とした部屋には、種々に変形した見栄えも色合も良い机が並んでいる。僕が勤めていた頃の鼠色の事務机はすでにこの世からは消滅したようである。

 殆どの人は培養室に行っているらしく、資料作りをする僅かな人影だけがあり、僕に気付いた人達は笑顔を向けた。ここでも伝説的人物として認められているのだ。

 机の前に椅子を引き寄せて座ると、目を醒ました佐薙さんは、

「おお、来たか」と白髪頭の下の長い顔を更に延ばして笑い、真正面の壁に掛かっている時計に視線を移して、

「二時五分前か、相変わらず時間には正確なやっちゃ」と呟いた。

「そう教育したのは誰ですかねえ」

「あはっ!・・教えたことが身につくのは本人に素質があったと言うことや」

 彼の揶揄とも称賛とも取れる冗談には答えず、机の端に置いてある鉢に眼をやったまま体の動きを止めた。

 鉢にはエビネが一株入っており、普通のエビネに較べて一回りは大きな姿に、透明にも見える薄緑で肉厚の花柄と花弁が並んでいる。それぞれの花全体に、細く血管のような朱色が精妙な配列で浮き上がっている。その余りの見事な出来栄えに、「佐薙さん、これは・・」と言ってから絶句してしまった。

「話は後や、二時から打ち合せになっとる。木津くんも来るんや」と僕の驚きには無感動のままで佐薙さんは立上がった。打ち合せのことは聞いていなかったが、いつもとは違う彼の真剣な様子に体が自然と従った。

 最上階にあるMVP接待用の会議室に入ると、中央に置かれた楕円形で重厚なテーブルの上には二十株程のエビネの鉢が並べられていて、社長と開発室長が机の脇に立ち鉢を眺めているところであった。二人は僕達にちらと眼を向けただけで再び視線を鉢に戻し、そのままゆっくりとテーブルの周囲を移動しながら鉢を観賞し続けた。そのまま壁側の椅子を選んで座りこんだ佐薙さんは、並べられたエビネの全てを知り尽くしていると見えた。 僕は社長達の後から並べられた鉢を順番に見て回った。

 最初の十株ほどは佐薙さんの机上で見たのと同系列の品種で、透明な花弁の品種をベースに、朱色や黄色、紫、柿色の品種を掛け合わせたもので、其々の色が花弁の毛細管の中を浸透する見事な色合を見せている。

 残りの株はひとまわりは大きな姿に、朱は朱色で黄色は黄色で磨ぎ澄まされた色合いで、艶やかさを極端に追い求めた株である。十年前なら称賛されたこれらの品種は、その艶やかさのゆえに、すぐに飽きがくるように思え、極端な色調には悲愴感さえ感じられた。 テーブルの周囲をゆっくりと一巡し終えたときには、それぞれの株の来歴が自然と頭に浮かんでいた。

 先の品種は、透明な花弁の品種に佐薙さん手持ちの品種を掛け合わせたもので、ベースとなった透明な品種そのものは二年前に僕が売った株に違いない。

 会社に売ったと同じ頃に、僕自身が培養を始めた株は、漸く透明で可憐な花を咲かせたところだが、ここでは既に雑種一代目の花が咲いている。会社のシステムは僕が作り上げたもので、その効果は十分に判っている積もりだが、企業の底力には改めて驚かされた。システムに対する誇りと、企業を離れた個人能力の限界への思いが入り混じる奇妙な感情が襲った。

 残りの株は、佐薙さんの上司にあたる開発室長の木曽さんが造り上げたものに違いない。木曽さんは彼なりに、プラントブリーダーとしての極限の力を発揮しているが、そこには、佐薙さんの株に感じられる余裕と遊びの心はなく、むしろ堅苦しい悲愴感だけが満ちている。

 佐薙さんの横に座り眼を閉じて考えた。

 僕は機械出身で、プラントブリーダーとしての能力だけを発揮すればよかったのだが、開発室長ともなればそうはゆかない。そこには更に天性なる素質が要求されるのだ。

 機械屋が図面に引く一本の線にも、人それぞれの天分が現われる。芯の研ぎ方、押しつける力の一様さ、線を引く速さ、そのほか様々の要素が僅か一本の短い軌跡の上に集約されて美しい線となる。植物の美しさを追い求め、想像の花を咲かせようとすれば、遺伝子構成とその発現の多様さゆえに際立った天分が要求される。それは習熟で高められるような単純なものではなく、生れつきの感性に違いないと僕の経験が教えている。

 僕自身の天分は植物を育てる能力、つまりあくまでプラントブリーダーの能力であり佐薙さんの教育のおかげで驚くほどの境地にまで達した。しかしその能力と見事な種を造り上げる才能とは全く違うのだ。生み出す花の姿を鮮やかに心に描き、それを造り上げるにはどの品種をいかに掛け合わせるかを的確に判断する。掛け合わせる品種の優性、劣性遺伝子を十分に理解して、両者を巧妙に利用する才能が必要となる。

 そもそも、人の心を捉える花を心に描くことすら、僕や木曽開発室長には難しいことだが、佐薙さんは易々とこなすことが出来るのだ。机上の二種類の株を比較するだけで、会社を罷めてよかったと感じた。

 様々の思いが心中に去来し、漸く現実に戻ったときに、室長の株が大きいことで気付かなかったが、佐薙さんの株も普通のエビネに較べると僅かに大きいことに思いが至った。佐薙さんの机の鉢も同じだったと考え、並べられている鉢をもう一度見回した。

「久しぶりだなあ、木津君。どうかね山の生活は」と、窓側の椅子に座った社長が声を掛けた。

「ええ、非常に楽しくやっています」

「と言うことは、まだ会社に戻らんということか」

 黙ったまま僕はほほえんだ。

「佐薙さんに聞いたが、年収二百万だって」と、向かい側の木曽室長が人の良さそうな顔に笑顔を浮かべて尋ねた。彼は本当に人柄の良い男である。室長の責務のためか、ここ暫らくの間に少し痩せたが、丸い顔に浮かべた笑顔は相変わらず人を安心させる。

 入社の時からずっと僕は佐薙さんの部下であったから、今も佐薙さんの横に座っているが、もしそうでなければ、木曽室長の横に座った方が気分的には落ち着くであろうと考えた。僕が頷くと、

「そうか、独り身だからこそやってゆけるんやな」と、室長はしみじみと言い、

「いえ、いえ独り身じゃあありません」と答えると、室長は怪訝な顔付をした。

「植物に囲まれて生活していると言うとんやがな」と佐薙さんが厳しい口調で言った。

 僕以外の誰に対しても彼の口調には刺が含まれている。天は二物を与えずと言う言葉を、佐薙さんの横に居るといつも思い出してしまうのだ。

 慣れている室長は、嫌な表情を示すことなく笑って済ませ、

「木津君ならいつでも来て欲しい。困ったことがあれば何時でも相談に乗るよ」と、心の底からの笑顔を僕に向けている。

 こんな室長を見る度に、佐薙さんには悪いが、社長が木曽さんを室長に選んだことは充分に理解できる。この会社は社長を中心に佐薙、木曽、それに今はここに居ないが営業の阿部常務とが盛り上げたもので、社長は彼等の全てを知り尽くしている。大きな組織になった今、佐薙さんのような職人は、職人以上の地位を与えれば会社だけではなくて、本人に取っても悪影響があると考えたのだろう。佐薙さんは余りにも秀れていて相手を萎縮させてしまい、萎縮した部下は助言が出来なくなってしまう。いかに優秀ではあっても間違うことはあり、過ちを認めずに独走すれば取り返しのつかない重大事となってしまう。佐薙さんにはその恐れがありすぎるのだ。

 しかし、その考えが極めて凡庸なことにも気付いている。会社がすでに彼の高度な能力を使いきれない安泰な状況にあるとすれば、そこには停滞があるのみで、それは、社長が個人的な技術や能力を正しくは評価できないところにある。そのことは佐薙さんと僕が造り上げたシステムを例にしても明らかなことだ。

 培養システムが出来て、僕が罷めてから一年もしないときに、佐薙さんは新しいシステムの構想を提案したが、社長はその必要を認めなかった。その他の重役は勿論のこと部下達さえもが社長の判断に従ったために佐薙さんは孤立してしまった。佐薙さん以外の社員が同意することで社長は自分の判断が正しいと考えたが、部下達の選択は別の論理で決まることに思いが至らなかったのだ。

 僕が罷めると言い出した時には、社長と室長が精一杯に慰留しようとしたが、それは単に佐薙さんの助言役としての力量を期待しての事であった。僕の存在が佐薙さんの地位を高め、彼の能力を極限まで発揮できるのだと説得したものだ。佐薙さんの後継者を期待してのことではないことで、彼等が技術の本質を理解していないことが判った。

 入社したての社員でも、培養システムを使えば、僕が個人的に培養するよりは早く見事な株を育てることが出来る。システムの構造や保守のやりかたについても、完全なマニュアルを造ってあるからシステムの維持にも問題はない。しかし設計図やマニュアルはあくまで外観を示すだけのもので、システムを生きるものとした佐薙さんの能力や経験までを網羅してはいない。人と人とが正しく技術を伝え合い、技術の本質を完全に把握することなくして、いかなるプラントをも造り上げることは出来ない。技術伝播の殆どは徒弟制度の産物とも言えるだろう。

 かりに若く新しい技術者が豊富な資金を与えられ、佐薙さんと僕が造ったシステムをそのまま造り上げようとしても成功することはないだろう。経験者の指導に加えて、才能と努力と、試行錯誤の裏打ちがなくて技術は成り立たない。

 技術のあるべき姿については明言できるが経営については判らない。佐薙さんと社長のいずれが正しいかは会社の将来で判ることであり、そのことは組織を離れた僕にはどうでもよいことである。

 僕が物思いに耽っていると、

「近況はそれまでとして、木津くん、眼の前の鉢についての感想を聞きたいのだが」

と社長は普段の厳しい表情に戻って話しかけた。

「ええ、こちらの透明な方は、・・僕の売ったK6を佐薙さんの品種と掛け合わせたものですね。あちら側は室長が育てた四倍体の品種のように思えます。いずれも本当に凄い出来だと思います」

 K6とは会社に売った株の品種名で、Kは僕の名字の頭文字を、6は六番目に売ったことを表している。

「そうか、・・それから?」

「K6の方は、どうもF1雑種強勢を示しているように思えます」

「・・・」と沈黙した社長の表情から、その意見が正しいことを知った。

 二つの純系統の株を掛け合わせると雑種の一代目に勢いの良い株が産まれる。この特性をF1雑種強勢と言い、それは雑種の一代目に限り現われる。一方、室長の造った四倍体とは染色体の分裂をコルヒチンで阻止することで倍の染色体を持つ品種としたもので、特別な場合を除けば一代限りの生命である。普通の株に較べてひとまわりは大きい二つの株は共に一代目だけの姿である。

 社長と室長は互いに顔を見合わせた。二人とも室長が造った株のことは気にもしていないことから、室長に感じた哀れみは無用なのだと悟った。室長自らが、佐薙さんとの力の差はどうしようもないと割り切っているのだ。

 K6の雑種が京都メルクリンに際立った利益を与えることを確信する二人が、交渉を始めるぞと目で確認しあったように見えた。

 F1雑種強勢を示す品種は胚芽からの育種は出来ない。だから、京都メルクリンの売る株を手に入れても組織培養での同一品種の増殖だけになってしまい、純種のK6を手にすることは出来ない。このことを利用して、眼前の品種を一時に売りに出して利益を得て、他社が手に入れた株を増殖する頃には、K6を使った新らしい品種を売り出せばよい。K6を独占することで、京都メルクリンは常に業界の先頭にたち高収益を独占出来るのだ。

 社長は視線を向けて口を開いた。

「K6は周囲から隔絶したところに生えていたようだな」

 人が近付くことも稀な、滝の水膜に覆われた窪みの中に、身を寄せ合って花を咲かせていたK6の小さな群れを思い出しながら・・頷いた。

「その場所からK6を採取されることの可能性はどうだろうか」

「まず有りえませんね。僕でさえ一時は近付くのを諦めたような場所ですからねえ。その場所で長い年月を自家受粉している間に、劣等遺伝子の透明色が定着したようですね」

「そうか、その点を心配するのはやめるか・・それでだ。君自身はK6の培養をしているのかねえ」

「ええ、十株。・・今年漸く花が咲きました」

 室長は僕達の話を心配気に聞いているが、佐薙さんは全く無関心な顔付で、株を愛でるように眺めている。

「それでは本題に入ろう。君のその十株を全て買うことにして、しかも、君が再びK6を採取しないという条件で、いくら払えばいいだろうか」

 K6が貴重な品種であるとすれば当然の提案である。そこで僕は眼を閉じて視覚の影響を最小限に抑制し、思考に没頭することにした。視覚はしばしば真実よりも上面だけを捉える傾向があるから、会議では視覚を頼らぬことにしている。相手の言葉は真実ではなく交渉の言葉である。だから言葉を聞き取ることよりも声音に含まれる真実を捉まえるほうが重要なのだ。特に社長はここまで会社を育てるだけのやり手である。本質的には善人としても、組織の長としてはあらゆる策略を考えて発言する筈だ。

 目を閉じてすぐに、社長の声には話を急ぐ気配が無かったことに気付いた。もう一度ゆっくりと社長の声音を思い返してみたが、やはり焦りや興奮などの、交渉には特有の緊張感が全く不足している。つまり、交渉が有利に運ぶか不利になるかについては社長の関心はなく、僕の反応を見ているに過ぎないのだ。それは・・・K6にはそれ程の重要さを認めないことの現われと言える。

 なぜだろうかと心に質問してすぐに答えが出た。佐薙さんの株は、確かに玄人には衝撃を与えるだけの価値がある。しかし、それがそのまま売れ行きに繋がるとは限らない。むしろ、室長の株の方が素人向きで、確実な売れ行きが期待できると考えているのだ。社長も室長も、高度な技術と敬服はするものの企業としては無用とさえ考えているのだ。とすれば、社長の質問への答えは非常に難しい。

 閉じていた眼を開け机上の鉢を見た。やはり、眼は先ず原色のエビネを捉えた。玄人にはありふれた色調の花であり、使い古したテクニックで造られた株とは判るものの、市場を支配するのは一般消費者の購買力である。そこでは目立つ株から売れるに違いない。社長は、佐薙さんの株よりは室長の株こそが売れると見込んでいるのだ。

 視線を社長のがっしりとした顔に移し、佐薙さんの株がどの程度の金に相当するのかと考えたが、すぐにその思いを振り払った。

 エビネは金の価値で推し量る存在ではありえない。たまたま見いだしたエビネに価値があるのだとすれば、今必要とする金だけを要求すれば良いのだ。このことを商売のねたにすべきではない。

 土地を譲り受けた時の借金が五百万、温室と納屋の増設が緊急に必要でそのための金が五百万、それに、土地の西側に予定されているゴルフ場計画を阻止するために一千万円、これは、計画の中心地を持つ地主が買わないかと言っていて、彼は先祖から譲り受けた土地がゴルフ場になるのを嫌ってはいるものの、早急に金を必要としているのだ。

 合計二千万の金があれば、少なくとも生きている間はあの周辺の自然を維持できる。それ以上の金を得たとしても何の使うあてもない。そう考えを決めてから僕は答えた。

「二千万円です」

 その言葉に佐薙さんの眉毛がぴくっと釣り上がり、社長と室長の顔にはほっとした色が浮かんだ。

「木津よ、それだけ長く考えて結果がそれか。お前はこの株でうちの会社がどれだけの利益を得られるかを知って言うとるんやな?」と耐えられなくなったように佐薙さんが口を挟んだ。

 システムの採算についても彼は徹底的に叩き込んだ。その事を知りながらも尋ねずにはおれないのだ。

「そうですね、よく売れれば年商十億は堅いですね。佐薙さんのことだから毎年品種を増やしてゆくでしょう。平均して年商五十億として半分は利益になると思います。・・要求が少ないと言うのですか?佐薙さん・・・でも」と、佐薙さんの気持ちを考え、そこまではと言い淀んだが、

「でも、佐薙さん、それは株が売れればの話で、そのことは僕には関心がありません」

 佐薙さんの顔に戸惑いの感情が現われ、先ずは天井に目をやり、それから机上の鉢に目を移した。そこで、愕然とした表情が走ったがすぐに元の平静さを取り戻した。

 プロの眼だけで見ていた彼も漸く素人の目を意識したのだ。他の人間の助言には頑なになる佐薙さんも、僕の言葉だけには先ず素直に耳を傾ける。それが社長や室長が期待した役目であった。この席に僕を呼んだ社長の意図もこの辺りにあったのだろう。

 しばしの静寂が部屋に漂い、視線を社長に移した佐薙さんは再び口を開いた。

「社長、木津の言うようにK6の可能性は・・確かに決定的ではありません。しかし、彼が持ち込んだ、K1からK5だけでもそこそこの利益は上がっています。その分も考えて上乗せしてやって下さい」

 社長はあっはははと笑い、

「木津君、君はどうやら今必要な金が二千万のようやな。一体なにに入用なんや」

 心の中での勘定をそのまま説明したが、聞いた三人は一様に呆れたとの表情を示してから同時に吹き出した。

「木津らしい発想法やな」と佐薙さんが言うと、室長が「あの頃、人事担当してた僕にそんな気性の男の機械屋が欲しいと談じ込んで来たのが佐薙さんやったやないですか」

「はて、そんな事があったかな」

「そうですよ。言葉が少なくて、損得勘定が下手で、要領が悪うて、特に体の頑丈な奴が欲しい、そのどれ一つも抜けてる奴はいらん、と言うたんですよ」

 二人は顔を見合わせて大声で笑いだした。社長はその様子を嬉しげに見てから、

「よっしゃ、金の件は僕が考えて決める。どうやら木津君は退社してからも、外部からうちの会社をバックアップしているようだ。しかも、その成果は明らかに我社の利益となっている。その点も考えて決めるからまかしておいてくれ」

 言葉に籠められた昔の仲間への連帯感を感じて、数年前の共に熱中し働いた時の喜びが体に蘇った。しかし、それも束の間のことで、社長は次の予定を思い出した。

「木津君、悪いが、これから代理店や客先にこの株を見てもらうことになっている」

と言う顔には、既に笑顔はなく経営者の厳しい表情があった。それはかって勤めていたころには見ることのなかった威厳を備えていたが、とても好感を持てるものではなかった。 佐薙さんの新種造り、社長の経営能力、それに室長の真面目さにしても、それぞれが異なる才能に恵まれてはいるが、人なる種の平均的能力からすれば僅かに際立っているに過ぎない。しかし、人の組織では僅かな能力差が大きく増幅されるらしい。

 ここ数年で社長の身についた威厳に微かな嫌悪を感じながら、佐薙さんに続いて立ち上がり会議室を出た。

 開発室に戻りここ一ヵ月に採集した植物のことを佐薙さんに報告した。これこそが会社を訪問した本来の目的であったのだ。

 花や植物は傷つけないようにと種か葉芽を採集し、それを培養することにしている。だから実物は無くて見せるのはスケッチだけである。

 写真ではどう工夫しても花の色を正確には表せないから、花や葉の色合は色見本をもとにマンセル値で記録しておき、家に帰ってからスケッチに色付けをする。市販のは工業的な色が主体だからと自分で色見本を造っている。際限無い自然の色を表すことも植物採集には欠かせない仕事になっていて、今では色見本には無い色彩に出会っても色の配合を見極めるようになり、命の輝きを除くあらゆる色を三原色で再現できる。

 植物をそのまま採集してくれば面倒もなく、しかも、花を咲かせるまでの少なくとも二年は節約出来ると佐薙さんは言うが、それでは会社を罷めた意義そのものが無くなってしまう。その点だけは譲れないと言い、佐薙さんもこの頃はもう諦めている。

「お前の絵の腕前は見るたびに上がってゆくようやなあ・・・どうやら、お前には植物採集よりもこっちの方の才能が有るようやないか」と変なことに感心しながら、スケッチを一枚一枚綿密に見ては、花の容姿についての講釈をする。それが実に的確で貴重な勉強になるのだ。

 数点についての買い付けを得てから山で出会った女のことを話すことにした。記憶で描いた女の肖像画を佐薙さんに手渡して、植物採集中に追跡されたと説明した。

 佐薙さんは「ほー!なんとも凄い美人やなあ」と呟いてつくづくと絵を眺め、

「この業界で、こんな女のことは見たことも聞いたこともない。・・K6のことは外部には洩れてないから、その件で追けられることは無い筈やし・・まあ、うちとの関わりは無いと踏んだほうがええやろなあ」と言った。

 花と女のスケッチを残したままで帰ることにした。久しぶりに飲まないかと誘われたが、明日からは大峰に出発すると断り席を立った。

「おい、木津君」と佐薙さんは声を掛け、

「その女の事は儂も気には掛けておく、ただなあ、その女の容貌には何か嫌なものを感じるのや。あまり近寄らん方がええで」と心配そうに言った。

 佐薙さんの顔をじっと見詰めた。彼の直感は単に花のことだけではなくて、全ての点で信頼できることを長い付き合いの中で痛感している。しかも、山で彼女に感じた魅力はなんとも異様なものであったから、その忠告は極めて妥当だと思えた。

「それからなあ木津よ・・」と口を濁してから、机上の鉢を指差して、

「この株を、お前は本当のところどう考えているんや」と尋ねた。僕は即座に、

「佐薙さん。それは言うまでもないでしょう。売れようと売れまいと、この作品は市場をあっと言わせますよ。大袈裟ではなしに、僕は感動したし、社長や室長もそのことは認めている筈ですよ」と心底からの考えを伝えた。

 佐薙さんの顔にはさっと光がよぎり、「そうか」と一言答えただけではあるが、その声には喜びの震えが微かに感じられた。会議室での言葉が、やはり深く佐薙さんを傷つけていたことを知った。

 僕は立ち上がり、「今日も、いろいろ教えて戴いて有難うございました」と深く頭を下げると、

「なんや、お前は突然・・」と佐薙さんは照れるように答えた。

 僕はにやっと笑って体を返した。

 エレベータを降りると、受付けには新入りさんが一人で立っていた。壁のアンモナイトに手を振り、受付け嬢にも「じゃあ、また」と声を掛けて通り過ぎようとすると、

「あのー、木津さん」と声を掛けてきた。

 足を停めて受け付け嬢を見た。

「差し支えなければ、・・あのー、何故壁に挨拶するのか教えてくれませんか」

 奇人の気紛れと受け取り、誰もが尋ねなかったことを、この新人ははっきりと問い質したのだ。なぜか答える義務があるように感じて彼女に手招きをした。

「ちょっと、こっちに来てごらん」

 壁の前に立ち大理石の表面にくっきりと表れている模様を指差した。

「あの模様はアンモナイトだ。約二億年以上前の中生代の始めに繁栄していた生物で人類以上に栄えていた種族なんだよ」

「二億年ですか・・・・」

「そう、それだけでも驚くほど古い種族だが、・・その少し上に斜めに切れている陰があるけど・・・斜めに切れているから断言は出来ないけれども、多分その以前の古生代を通じて栄えていた三葉虫だと思う。この二種類の生物が併存していた期間は、考古学的な年代の中では非常に短い期間だから、この壁のような状態は本当に珍しいものなんだ。まあ、いずれにしても、地球での先輩に敬意を払っている積もりなんだよ」

と、かって佐薙さんが教え諭す時の口調を真似したが、あの頃の厳しさだけは真似出来なかった。

 新入りさんは夢見るような顔になってうっとりと大理石を隅から隅まで見回した。

「それは、やっぱり挨拶するだけの意味はありますね」と言った。その言葉に籠められた共感の響きに僕は感動してしまった。

「君もそう思うかい」

 二億年と言う想像もつかぬ時間の観念から漸く自分を取り戻した新入りさんは、視線を戻して、

「先輩の細井さんに報告しておきます。細井さんは、どうやら木津さんのファンらしいけど、この話を聞いたら、ふふふ、もっと感動しますよね」

「あんまり先輩をからかうなよ」と言って眼を覗き込んだ。

 大きく開いた二重の眼がおじることもなく見詰めている。素直そうな顔付の若々しい肌から瑞々しい匂いが発散していて、なんともいえない楽しさを感じた。

 肌色はマンセル値では5YR9/2で、命の輝きは満点だと、まるで花を愛でるように見詰めた。

 北山川の女を見かけた時に暴発した心の中の野性は、野草の会の彼女や、この受付け嬢の前では現われないと、ほっとする思いであった。北山川の女に劣らぬ美人を眼前にしても殺意も狂気も現われない。となれば、あの女と出会ったときの激情は一体なに故に現われたのだろうか。

 見詰めながら物思いに耽けり、その長い注視に受付嬢は眼をまばたかせた。視線を胸に移し名札の文字を読み取った。

「秋谷さんか・・、じゃあ、細井さんによろしくね」と言いドアーへと向かった。

一歩外に出ると、平地の広い空から陽光が降り注ぎ、夏の終わりに焦るアブラゼミとクマゼミのけたたましい鳴声が押し寄せてきた。

 

 家に帰り出発の準備をしていると電話が掛かってきた。

「木津さんですか。あのー、昨日お邪魔しました加島里美ですが・・」

「ああ、あの野草の会の・・」

「ええ、どうも変な疑いをかけて済みませんでした」

「はは、どうと言うことはない。それで・・」

「実は戴いた野菜なんですが、私の親戚でレストランを経営している伯母さんがいるのですが、そこにもお裾分けしたところが、伯母さんがあの野菜をとっても気に入ったんです」「ほう、それは嬉しいことですわ」

「それで、量はどうでもええから、木津さんところで余った野菜を売ってほしいって言うんです。どうですか?」

「それはええけど、僕はいつもは家にはおらんからなあ」

「その事は聞いてましたけど、あのー、なんやら図々しいようやけど、畑で無駄に枯らしてゆくのも勿体ないと思いますので、御不在中に私が取りに行ってもええでしょうか」

「ああ、僕の方はええけど、富田林から度々取りに来るのは大変なことやなあ」

「うっふ・・本当を言いますと、木津さんの野草畑を見たいのが本音で、そのついでに野菜も持って帰ろうと思うんです」

「あっははは、それやったら、いつでも好きな時に来てもええよ」

 電話を切り娘の顔を思い起こそうとしたが、顔の輪郭はどことなくぼんやりとした取り留めのないものとなり、彼女の若々しい香りだけが鮮明に蘇った。

 ふと佐薙さんの新種の株のことを思い出し、K6を手持ちの株と掛け合わせるとどうなるだろうかと考えてみた。

 その考えに触発されたのか闇の中から新しい感覚がはいだしてきて次々と美しい彩りを頭に描き始めた。どうやら彼は佐薙さんに匹敵する感性をも備えたようだ。しかし、想像の新種を産み出す仕事に飽きたのかすぐに暗闇にと戻り始め、自然の作品に優るものはないと呟く声を残して消えていった。新しい感覚にはその才能を生かして佐薙さんの後継ぎとなる気は全く無いようである。

 自然の変種造りは、その永い試みを遺伝子だけが生き続けることを目的としてきた。産まれ育ち、生殖しては子育てし、老化して死ぬ。生と死の繰り返しでさえ、その試みの産物であり、全てが遺伝子存続のために造られたプログラムの一部に組み込まれている。その結果に飽きたかのように、時には大絶滅を引き起こしては全面クリヤーとする。

 手懸けた膨大な年月と壮大な規模からすれば人の変種造りは砂場遊びよりもちっぽけなものだ。新しい感覚の呟きはごく当然のことと思えた。

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