吉野群山の東端周辺をほぼ二ヵ月にわたり木と草とともに過ごしてから、高野山の南方にある笹山に戻った。山行の終わりの数日を必ず笹山で過ごし、一仕事してから家に帰ることにしている。そこは名前通りに笹に覆われている極くありふれた盆地状の高原で周囲を低い山々に囲まれている。質の悪い石灰石層を薄く覆う痩せた表土では樹木の茂りが悪く植林もできない。切り立った崖に挟まれた枯れ谷を登って行く以外に道もないから人影どころか人の訪れの痕跡すら見掛けたことがない。
五年前の秋に初めて訪れたとき、外面だけは単調そうな植物相のなかで環境に適応する植物達の旺盛な生命力を感じた。ありふれてはいるものの興味のある灌木や野草を見付けては、数多くの種子や葉芽を手に入れ、成果に満足して崖の上に座り込んだ。人が見離す土地にも植物は育ち、それなりの植物相を形成していて、人が訪れる土地の荒廃ぶりに較べると遥かにゆったりとした植物相になっている。植物だけではなく、昆虫に鳥や爬虫類、人を除いた哺乳類などの全ての生命が笹山では生き生きとしていて、彼等がごく微妙なバランスの中ではあるが見事に生きていることを知った。
何処にでも見掛ける光景だが、たとえ手を触れなくとも人の訪れだけで彼等は萎縮するようで、貧弱そのものの土地でもそのことが明瞭なことに妙な感慨を覚えた。もしそうだとすれば、僕の行動そのものが植物達を傷付けていることになり、それに、人なる種そのものが地球上では他の生命体に忌み嫌われる存在とも言える。どうやら人は体全体から毒気を吹き出しながら生きているらしい。
まだ高い陽に明るく照らされた枯れ谷の全貌と彼方の低い山々の連なりを漠然と眺めていたが、ふと、谷を挟む双方の崖の出入りが似ていることに興味を持ち、更に仔細に眺めてから、その相似がかなりのずれを伴い、片方を数十メータ横方向にずらし他方の崖の方に移せば、谷を隔てる二つの崖がものの見事に合わさることに気付いた。
じっくりと崖の様子を見直して、枯れ谷はある時期に地殻変動で切り裂かれ、次いで横方向にずれたのだと考えた。それから再び周囲を見渡して、双方の高原がかって一つの台地であったとすれば、ここは吉野山系の他の場所では見ることができない特殊なものだと確信した。地層の凹凸の激しい吉野、大峰山系では、五百メータ四方の狭さとは言え、台地の存在自体が珍しいことなのだ。
もしここが台地であったとしたら、永い年月の隆起陥没の過程の中で繰り返し切り裂かれ逆転してきた周囲の山々とは違い、この台地だけは山々に挟まれた状態で上下するだけの安定した動きをしていたと思われ、これは調べるだけの価値はあるぞと考えた。
この思いつきに少々興奮して、急いで立上がり周囲を見回し、少し向こうに枯れ谷に直角な亀裂が走っていたことを思い出した。人がようやく入れるような大地の裂目には、露出した地肌の上に僅かに雑草が生えているだけであったから、中に入ってまでは調べなかった。
腰を上げて裂目の所に行き、改めて覗いてみると深さだけはかなりのものであった。すぐさま手と背で体を支えて少し降りると、すぐに石灰岩が露出している相に達した。石灰岩は砂礫を含んだ脆く粗雑なもので、更に降りて行くと石灰岩相は二、三メータ程で途切れ、その下には砂礫の相が数メータ程続いてから底に達した。裂目は枯れ谷のすぐ手前まで続き、そこには台地の表層から流出した泥砂が堆積していた。
大昔に大地が切り裂かれ谷が出来てから、流出した表層の土砂が崖の表面を覆い、その後、台地が東に傾いて水の流れが変わり、谷は水を失って枯れ谷になったのだ。裂目には水の流れた形跡が少ないことから、裂目そのものは水が枯れてから出来たと思えた。
薄暗い裂目の中であれこれと考えながらふと目の前を見ると、相をなした砂礫の間に白く結晶化したものを見付けた。急いで地上に戻りスコップを手に再び降りて、懸命に掘り起こしてから小型哺乳類の化石であることを確認した。眼をこらして観察すると壁の方々にも同じような白い化石が散らばっていた。それからは必ず山行の最後には台地に立ち寄り、化石の採集に数日を費やすることにしたのだ。
そんなある日、裂目の枯れ谷側の端に人が入れるような深い穴があることに気付いた。降りて行くと、穴はほぼ垂直に三十メータも続き、そこで枯れ谷の底に口を開いていたのだが、縦穴の中ほどに、手が漸く入るほどの横穴が崖の奥へと深く続いていた。穴を広げようとしたが強固な石灰石はとてもスコップに負える代物ではなかった。
それからは台地を訪れる度にハンマーとたがねを使って穴を広げ、一年程で五メータを掘り進み、そこで漸く人が入り込めるような洞窟に達した。洞窟の中は石灰石ではなくて砂礫相であった。どうやら、石灰泥が古い地層を覆うように堆積したために、砂礫からなる台地全体が厚い石灰岩に包み込まれてしまったのだ。
洞窟の砂礫の間に点在する化石からすると、その地層は驚くべきことには中生代のものと思えた。この列島にこれほど安定した状態の中生代の、しかも陸性の地層が存在するとは聞いたこともなく始めは半信半疑であったが、掘り進んでゆくうちに層を成すシダ植物の化石に出会い、中生代の地層であることを確信した。
秩父帯に属している周辺の地層は、中生代の中頃に南方海上から北上してきた堆積岩の衝突で大変動を生じた。それから後も度重なる変動を経験してきたのだが、この台地だけは僅かな影響ですんだようだ。しかも、台地周辺の隆起した山々から周期的に流入する石灰泥に固められて台地の地層は見事に保存されたのだ。そこまで考えれば、当然予想できる出来事が一年前に起こった。
洞窟の壁がごそっと崩れたときに現われた塊を見て、僕の頭は麻痺してしまった。明らかに足と思われる物体がヘッドランプの光の中で冷たく光っていた。大きな足の裏が三本の長く延びた指を下に向けて眼前にあり、骨の表面には結晶化した石灰が無数の水晶のように輝いていた。骨のどこにも損傷はなく、それどころか、浮きだした結晶の間には皺とも鱗とも思える弾力的な皮膚のあとが明瞭に残っていて、今にももぞもぞと動きだしそうに思えた。どうやら今もなお全身を岩の中に閉じこめられた恐竜は乾燥期に死んだらしく、砂の中でミイラ化してから石灰泥に巻き込まれたらしい。
恐竜の上に堆積する植物化石からすると、恐竜は中生代の早い時期に閉じ込められたと思えた。
この発見を誰かに知らせるべきだろうかとも考えたが、そのことが台地や周辺の生き物たちに、どんな影響を及ぼすかについての自信がなかった。どう考えても悪い結果だけが頭に浮かび、一時は穴を埋め直そうかとも考えた。しかし洞窟の魅力には逆らえず、定期的に訪れては化石の採集をすることにした。
恐竜に出くわすまでは人が立って歩くのもやっとの洞窟も、寝そべる恐竜の下半身をそのままに掘り取っていったから、形だけはいびつながら今では幅も高さも五メートル程に広がっている。洞窟の中には掘りだす道具や梱包の工具、それに梱包を終えて運びだす順番を待つ化石で足の踏み場もない。
重さが百キロもある化石の扱いはおおごとで、運び出すのが間に合わないのだ。大腿骨までは何とか運び出す自信はあるが、これから掘り出そうとしている上半身の重さは生半可なものではない。今はもう運び出す手段を真剣に考える時期にきている。
たがねとハンマーの手を留め僕は上を向いた。ヘッドランプの光の輪の中に恐竜の骨盤のごく一部分が映り、光の僅かな震えのたびに結晶が煌めいてゆく。まるで暗闇の中の巨大な骨盤が僕の真上で体を震わせているように見えた。彼女はきっとこの真の闇の中でじっと考え続けていて、尻の辺りでこつこつと絶え間なく掘り続け、思考を妨げる僕に抗議の身震いをしているのだ。
食い散らかされた小動物の骨が周辺に散在していることからすると、ここは恐竜の巣の近くであり、今掘っている恐竜は雌に違いない。
彼女が住む時代には、この辺りは乾燥し始めていて、精一杯頑張ったのだがとうとう力尽き、子供達や夫の死を見守りながらここに倒れているのだ。彼女の顔の方向には一族が倒れていて、地層を横に広げて行けば、いずれ彼女の夫や、それに子供達や卵に出会うに違いない。
ほぼ二千六百万年毎に訪れる生物絶滅のサイクルの中を彼等の種族は約二億年を生き続けた。その後に与えられた試練を耐えることが出来ず絶滅してしまったものの、彼等に較べると人類はまだ数百万年を生きてきたにすぎない。現代種になってからでは高々二、三万年で、次の生物絶滅のサイクルまでは一千三百万年もあるが、どうひいき目に見てもそこまで生き続ける可能性さえ今の人類には見られない。そのことを考えるだけでも彼等への驚異と尊敬の念を感じ、手を留めては焦点の合わない眼を漂わせ、人と彼等の違いについていろいろと考えてしまう。
割れ目での三日間の化石採集に続いて、洞窟での黙々と掘り続ける二日間を過ごしてから帰ることにした。のみの音とヘッドランプの光の輪の中での、命との触合いの無い墓掘りのような仕事は二日が限度である。恐竜にたいする興味のままに洞窟の中で過ごしたこともあるが、いつの間にか化石に質問しては自分で答える会話をとめどなく続けているのに気付き愕然としたことがあり、それからは限度を二日と決めているのだ。
掘りだした骨と骨の周辺にあった砂礫を別々にごみ袋に包み込み、緩衝材で十分にくるんでから厚手のビニールシートで梱包し、ロープと滑車を使って地割れの間を谷底に降ろしてゆく。洞窟の片付けも終えてから出発の準備を整えた。
乾燥し温度変化も少ない洞窟での化石の保存状態には心配ないが、念のためにと骨盤の周囲をビニールシートで覆い洞窟の入り口にもシートを張った。
地割れの間を伝い谷に降りて、橇になるように作ってある梱包を引摺って運び、滑りの悪い所では小さな丸太を使ってコロ引きして行く。枯れ谷を降り切ったところの古い林道脇に梱包を置き、麓の村にある運送店までは手ぶらで下り、おんぼろのハーフトラックを借りて戻ってくるのだ。
梱包を村の運送屋に届ければ家まで運んでくれる。山に行くたびに頼んでいるから、何を運ぶのだろうかと運送屋の親父はいろいろと想像しているに違いない。親父と交渉する度に、無数の骨を運んでいると知ればどんな顔をするだろうかと笑ってしまう。
村を下った所から二時間に一本のバスに乗り、大和上市駅前で降りてから、重いザックを背にして六キロの道程をとぼとぼと歩き、うねる山腹に聳える欅林を遠望すると、いつものことだが誰が待つわけでもないのに懐かしさが心の奥底にこみあげてきた。麓の村に残る数軒の人々に、吉野で買った木の葉ずしを手土産に帰宅の挨拶を終えてから坂道を登っていった。
翌朝早く山での生活そのままに早朝に目覚めて米の収穫を始めた。一人だけの食い扶持だから、せいぜい五石もあれば充分で、水の豊富な麓の猪垣で五段ほどを育てているだけで、全てが鎌を使っての人手作業である。
今年は冷夏で育ちは悪いと聞いているが、有機肥料と無農薬で育てる田圃は例年と変わりのない出来柄である。虫が発生すれば鳥や天敵の昆虫が集まっては始末する。
鉄砲打ちが入らない猪垣に囲まれた田畑には特に多くの鳥が集まるようである。時には籾米を失敬するようだが、穀物よりは虫や木の実を好むらしく余程の事情がない限り手を出さない。
もう暫らくすれば畑で麦を育て、春に収穫する麦は保存しておいて冬の田圃に播いておく。鳥達は厳しい冬を生きぬくことが出来、彼等が食い散らした籾や彼等の糞で土地は肥える。僅かの工夫で僕も彼等に取って必要な役割を演じることが出来る。
人が毒気を播き散らしていることに気付いてからは、己れが大地の中ではほんのちっぽけな生きものに過ぎないと見極め生きて行くことにした。他の生命の存在なしには生きて行けないと自覚しつつ暮らすことにしたのだ。そのためにはと、あれこれ考えて、可能な限り他の生命を害なわない生活をと試みた。残念なことには、命の維持のためには必ず他の命を犠牲にしなければならない。だがたとえそうであっても、菜食に撤すれば他の生命の負担を最小限に出来る。生活を切り詰めるだけでも自然に対する負担は軽くなる。要するに、最小限の空間で生きて、その空間さえも他の命と共有すればよいのだ。
そんな生活を過ごしている間に、なぜか、おそらく体臭が変わったからだと思うのだが、鳥や動物達は警戒することなく近寄ってくるようにもなった。近寄ると言うよりは僕の存在を無視すると表現する方が近いが、とにかく、働くすぐ脇で地面をつついたり餌を捜すようになり、そんな彼等を観察している間に、なんとなく彼等の思考さえもが理解できるようなった。どうやら僕は一歩一歩彼等に近付いていて、そんな僕を彼等もまた認めつつあるように思え、それが生活の張り合いになっているのだ。
刈り取った稲の全てを稲木に掛けてから、昼過ぎには佐薙さんに電話を入れた。
「佐薙さん?、木津ですが」と言うと、いつもの佐薙さんらしくもない早口で話し始めた。「おお、電話を待ってたんや。おい、あの女のことが判ったで」
と、突然の佐薙さんの話に何のことやらと、しばし戸惑った。
「そら、山でお前のあとを追けていた女や」
「ああ、あの女のことですか」
「そうや。彼女は写真家で、その筋ではかなり有名な女らしいのや」
「写真家?」
「うん。せやから、お前の仕事とは全く関係はないのやが・・、まあ、全く無関係とは言えんが、少なくとも植物採集とは関係はない」
「そんなら、何故僕の後を追けてきたんですか?」
「ああ、彼女は山岳写真家、それも特に山男を写すのが得意でなあ、どうやら、お前を被写体に選んだらしいなあ」
「それで僕の写真を写すために追けていたと?」
「そうや、それに発表もしたんやが、それが少々問題があってなあ」
「どんな問題ですか?なにか会社に迷惑をかけたとでも・・」
「いや、会社とは関係が無い。むしろお前個人に取っての問題と言うてもええが」
「・・・・・・」
「あっははは、まあ、奇人と評判のお前に取ってはどうと言うことでもないからなあ。どうせここに来るんやろ、その時に話すわ」
少々気になる点も有るが、佐薙さんの口調には面白がっているような雰囲気があり、深刻な事態ではないことだけは明らかと思えた。それに、心の奥底に刺のように引っ掛かっている女の素性が判ったとは有難いと、会う日を約束して電話を切った。そのまま視線を宙に向けて、佐薙さんが面白がる問題とはどんなことだろうかと、話を反芻して考えたが僅かな情報だけでは判る筈もなく、頭を強く振って忘れることにした。なにしろやるべき事は山程も残っているのだ。
夜になり、冬にしておかねばならない事をスケジューリングしていると電話が鳴った。「ああ、木津さんですか、帰っておられたんですね」
と、若い女の香りと共に軽やかな声が囀った。野草の会の加島里美である。
「お留守の間に、せっせと野菜を取りに行ってたんですけど、あれで良かったのですか」「ああ、今日は一日野良仕事をしてたけど、野菜はちょうどええ具合やったわ。無駄にならんように取ってもらって大いに結構ですね」
僕の返事に娘の声はいよいよ弾んだ。
「そうですか、そう言ってもらうと、こちらも遣り甲斐がありますわ。手助けになることやったらなんでも言って下さい。野草を見せてもらいに何遍でも行く積もりですから」
「あっはははは、そりゃ有難いことや。まあしかし、野草もそろそろ終わりやからねえ。ただ、温室の中ではエビネ、それに春蘭や寒蘭で秋咲きのは十二月までは咲いているから、また暇な時は見に来たらええ。野菜はまだまだあるから、持って帰ってもらうわ」
「そうですか、是非伺わせてもらいます。・・それから、取った野菜のお金の清算もせなあかんし、今度の日曜日はどうですか」
里美の言葉に一瞬戸惑ってしまった。日曜がいつかと判断出来ず日取りの算段がつかなかったのだ。
「・・日曜かー、懐かしい言葉やなあ・・・よし、僕も久しぶりに休みを取ることにして、もし良かったら、雑草だけやなくて温室の中の植物や、ここに植えてある木のことも説明してあげるわ」
「うわー、楽しみやなあ。木津さんところに行くといろんな木や草があるんで、色々説明してほしいなあと思うてました。友達も連れて行ってええですか」
「そら君、独身男の所に一人で来たら危ないから、友達も大勢の方が安心やで」
「いやー、そんな意味やないんですよ」
「あっははは、冗談、冗談、・・たまには人ともゆっくり話をせんと言葉も忘れるからなあ。あの増田の小母さんも一緒にどうぞ」
「ええ、その積もりです。小母さんも時々一緒に伺ってたんですよ。木津さんの野草畑を見ては感激してました。じゃあ、日曜の十時でどうですか・・・ええーっと昼ご飯は準備して行きますから御心配なく」と電話を切った後も、娘の声が部屋の中に弾んでいた。
この仕事を始めて五年、成し遂げた仕事のことで僕を認めてくれる人の存在はやはり嬉しいものである。僕は浮き浮きとした気持ちになって机に向き直った。
京都メルクリンの自動ドアーを抜けると秋谷嬢がにこやかに笑い掛けた。あたかもカトレアが咲き誇るような容貌である。若い娘の笑顔を見るたびに、人の長所の最たるものは笑顔だとつくづく思う。出来るだけの笑顔を返したが彼女ほどには善意を表す自信はない。「やあ、佐薙技師長の所に行くよ」と声を掛けると、
「ええ、聞いています。お久しぶりですね、ずっと山に行っておられたんですねえ」
「ああ、二ヵ月間ね、じゃー」と通り過ぎようとしたが、「あのー木津さん」と話しかける声に立ち止まった。
「私も毎朝あの壁に挨拶することにしています。壁の前に立つ度に、自分の今の時間を大切にしなければと考えてしまいます」
僕はまじまじと彼女を見た。僅かな刺激が心に感動を与え、それが引き金となって、心は新しい世界へと入り込む。それが、その人の人生に取って良いか悪いかは別にして、少なくとも輝きを与えるのだ。そう考えた僕は引き金を得た彼女に何かの助言を与えたくなってしまった。
「そう、・・どこの図書館に行っても化石の本なら山ほどあるよ。別に深く調べなくても、少し読めばあの化石がいつの時代のもので、どんな意味合いを持つか判るよ。それに・・・生き物のことを知りたければ、この会社は命を扱う会社だから、会社の図書館に行けば殆どの本がある。たぶん君のように商売とは関係の無い部門の人が読むと、より感動することが多いんじゃないかな」
「そうですか、早速読んでみます」と一瞬娘は眼を輝かせたものの、すぐに神妙な顔付になり言葉を続けた。
「それから、あのお・・あの雑誌の写真は本当に見事な写真ですね。私は感動しました」 彼女の言葉に、戸惑う僕を見て、
「まだ見てないのですか?」
「ああ、どこかの雑誌に僕の写真が出ているのかい」
「ええ、アンビシャス・レデイと言う女性雑誌で、私も友達に見せてもらって。見てすぐに木津さんだと判ったんです。あれは木津さんじゃないんですか?」
「さあ、僕も見てないから、・・佐薙さんが言っていたのはその雑誌のことかな」
「私は見てすぐに木津さんだと思ったんですが・・とにかく、色々言う人もいますが、私は本当に見事な写真だと思いました。すっごく感動しました」
「そう言われても、なんのことか・・とにかく佐薙さんのところに行くわ」
と、混乱状態を隠そうと急いで受け付けを離れ、壁に挨拶することも忘れてエレベータに飛び込んだ。高尚な講釈のあとで妙な話になってしまった。いつものことだが、時と場所に釣り合う話題の選択は最も苦手とするものである。
それにしても、その写真とやらは、人を感動させ、ある人はつべこべと言う複雑なものらしい。一体どんな内容の写真であろうかと考えたが、今もなお情報不足である。とにかく佐薙さんに会うまではどうしようもない。
「やあ、来たか」と佐薙さんは机の前に立った僕を見上げた。その顔から、電話の時と同様に面白がっていることが読み取れた。写真は、人を面白がらせる内容をも含んでいるのだ。いよいよ見当が着かなくなってしまった。
「あの女は北風涼子と言う女流写真家でなあ。本名は知らんが・・」と引き出しを開けて雑誌を机の上に放り投げた。なるほど、アンビシャス・レデイと崩した英文で書き、若いビジネスレデイが颯爽と歩く姿が表紙の全面に大写しである。
「おい、今度採集してきたんの絵を見せてくれ、その間、雑誌の方は読んだらええ。一番後に載っているから」と言い、それでもう雑誌のことには関心がない様子である。
手渡したスケッチ帳を手にすると椅子を回して窓側に向き、長い首を鶴のように伸ばしてスケッチ帳に突っ込んだ。
雑誌を手に暫らくは表紙を見詰めていたが、意を決して頁を繰った。巻末には何ページかの写真が掲載されていて、最初の頁にはあの女の写真がでかでかと載っている。光線を一方からあてた顔を真正面から捉えたもので、それは月光に照らされたあの女に違いなかった。真正面を向いた眼には妖艶な光が漂っている。磨ぎ澄まされた輪郭と知的な眼を見る限りでは、類い稀な美貌と才知に満ちた女性としか表現できないが、眼の光が僕を不安におとしいれた。あの時の狂暴な感情が頭をもたげる兆候に、急いで文章に眼を移した。“新星 女流山岳写真家 北風涼子”と大きく書かれた表題のしたに、“連載 山の男たち”と注釈が入っている。どうやら彼女はこの雑誌に写真を連載しているらしい。さらに下には英字を崩して“Plant Hunter”と書いてある。小さく彼女の略歴が書かれているが、それは飛ばして先に進んだ。
十頁にもわたるグラビヤの全ては明らかに北山川の風景であり、それぞれの画面には僕の姿が、と言うよりは僕が徹底的に主人公であり自然は引立役に甘んじている。表題のプラントハンターとは僕のことを言っているのだ。
高い垂直の崖を無装備で駆け登る後方で、釈迦ケ岳が一条の雲を巻いて紺碧の空に聳えている。その姿は早い動きのためにぼやけてはいるが、黒々と日焼けした顔の中で油断なく真剣な光を帯びた眼だけが輝いている。“彼は、切り立った崖を一陣の風のように駆け登り、彼の歩んだ崖筋の草花は風に煽られるほどにも傷んではいない”と注釈してあり、崖下が写されていないために、遠景に映る山の横に雲と僕の体が並び浮かんでいるかのように見えている。
崖の途中で立ち止まり肩からスケッチ帳を取り出す過程が手順通りに示され、僅かの突起に爪先立ちスケッチする姿が大きく掲載されている。まるで空中に立つように見え、そのまま微動もせず絵に耽る姿が見事に捉えられている。
“彼は植物を根から引抜きはしない。種と葉を慎重に傷めないように採集して、植物の姿を克明に描写するだけだ”と註記してある。
林を音もなく影のように進む姿、宝石を扱うかのように可憐な花に触れる姿、その時の夢見るような横顔。木に駆け登る姿や枝の上に立ち留まり樹上の寄生蘭を写生する姿。全てが僕を主人公にした写真である。見事な瞬間を切り取った映像に、しかもそこには主人公の意志と喜びとがくっきりと表れている。
しかし彼女はその映像となるまでの行動を全く説明していない。僕は忍者ではない。十メータの崖を駆け登りはしたが、その前にはその崖を何度も通過している。最初は綱を使い登り降りしたが、何度も通れば、どこに頑丈な足掛かりがあるかは完璧に覚えてしまう。それからは、記憶のままに駆け上がり駆け下ることは、体を鍛えさえすればすぐに出来ることだ。しかも、崖下が画面に入り切らないために空に浮かぶかのように見え、より迫力のある映像となっている。
山の斜面を幾度となく横切る動線は十分に予測できる。だが、背景や撮影の角度と、いかに迫力ある状況を選ぶかが彼女の腕であり、掲載された映像は彼女の才能を余すところなく示している。
そうか、命を写し取るにはこのような方法もあったのかと感動した。写真には輝く命までは写し切れない。それは僕のスケッチでも同様だ。色や輝きをいかに精巧に真似しても、命の輝きだけはどうしても表せない。だが、動きや背景を巧妙に配置することで画面全体に命を吹き込むことが出来るのだ。枝に立ち、花をスケッチする映像は、いかに僕の顔つきが輝いていても、そこには生命はない。しかし、その顔と姿が深い紺色の空と赤柿色に染まった雲の中に有れば、殆ど命にも似た輝きを映像に与えることが出来る。
しかし、彼女の才能を認める一方で、その描写に不安なものを感じた。人は垂直の崖を走り登ることは出来ないし、いわんや、浮揚することなど出来る筈もない。彼女は錯覚を利用して人々の心を操っているのだ。
最後の頁を開いて眼を閉じた。流れ落ちる滝の水が上から捉えられていて、その向こうに仰向いた顔が恍惚感を発散しながら月の朧ろげな光の中にある。胸から下は、水の膜で歪んだ映像とはなっているものの、手で掴んだ一物が黒々と勃起している影がしっかりと映っていて、その行為は明らかに見て取れた。
“歓喜・・彼は月の光の中で体の痺れるような清純な水を浴びて森と交わる”と註記している。ああ、なるほど、あれこれ言われるのはこの映像かと考えてから、僕はうっふふふと笑ってしまった。
「最後の頁だけが少々問題でなあ、そこはマスっとるところやろ」
と佐薙さんは顔も上げずに話し掛けた。
「まいったな、どうも、まあ、そういうところですね」
「花の写真家に聞いたが、その女は山の男シリーズでは相当名をあげていたらしいが、プラントハンター編では、なんやら言う賞は間違いがないと言うとった。特にその写真は業界では特に注目されているようや。まあ、その雑誌はやるからゆっくりと対策は考えたらええ。お前は写真を取られていたとは知らんかったんやろ?」
「ええ、・・しかし対策て・・なんも遣ることもないと思いますねえ」
佐薙さんは顔をあげて、暫らく考えてから言った。
「まあな・・、別にこれでお前の名誉が傷付けられたと言うことでもないし、むしろ伝説的人物の評価が上がるだけやからなあ」と言ってからにやっと笑った。
それから声音が真剣なものになって、話題は全く別のことに移った。
「ところで、おい、この十五番の絵やが、紺碧色の春蘭か?」
僕が頷くと、佐薙さんの眼は遠くの壁を突き抜けてまだ向こうの方に行ってしまった。「うーん。この色だけではあまりに派手やか過ぎるが、・・・あれと掛合わせると・・・こうなるか・・・うーむ」
と、もう完全に彼の世界に入り込んでしまった。いつもであれば、スケッチ帳はそのままに、業界の流れや彼のやりつつある成果をあれこれと話し始めるのだが、今回の採集では自信のあるものが数多くあり、佐薙さんはその成果に気を奪われているようである。採集してきた株をどう掛合わせるか、納得のゆく作品をどう造りあげるかとの構想に取り着かれてしまったのだ。佐薙さんに取っても雑誌の写真は無縁の世界にあり、僕に取ってもそれは同様である。
「佐薙さん、じゃあ、そのスケッチ帳は預けておきますから必要な株は連絡して下さい」と雑誌を手に立ち上がった。佐薙さんは顔を上げたが眼は虚ろなものになっている。
「おお、すまんな折角来てくれたのに、とにかくお前、今度の品物はこりゃかなりの傑作が揃うとるで。これはゆっくり見させてくれや。・・それからあの女のことで何か情報があったらまた連絡するからなあ」と、雑誌のことは頭の片隅にも無い。
開発室を出てエレベータで下に降りた。受付けには細井嬢と秋谷嬢が並んでいた。
「木津さん、どうでした。見ました?」と、新人さんは誰はばかることなく大きな声で聞いた。彼女に取りあの映像は感動に値する作品以外の何物でもないようだ。
最後の頁が示す意味が秋谷嬢には理解できていないのだろうかと、僕は少々赤くなったが、赤黒く焼けた肌からは窺うことはできない筈だと思った。
「うん、あれは確かに僕やが、えらいとこを取られたもんや」と答える以外に道はなかった。細井さんはさすがに少し頬を赤らめているが、笑顔はいつもと変わりはない。
「ところで、最後の写真の意味は判っているのか?」と小さな声で聞くと、
「先輩、私が何歳やと思うてますの?子供やないんやから。せやけど、あの写真には、なんて言うたらええか、汚らしいものは少しも感じられません。きれいなもんやと、これは友達も含めて皆の意見です。ただ、本人の許可も得んと、プライバシイの領域を公にするのには問題があると思いますけどね」
「ふーん、成程ねえ、そんなものかなあ」と呟いてから細井さんに向かい、
「どうやら、これで僕のことは受付けどころか、社内中で覚えられることになったみたいやなあ」と言うと、
「その前から十分知られているから、あんまり変わりはありませんわ」と細井嬢は答え、上品に笑っている。
「まあ、なんにしてもあんな写真は二度と取られるようなへまはせんからなあ」と真剣に宣言してから、手を振り表に出て行った。
高の原駅までは無我夢中で歩いたが、駅のベンチに座り漸く心の動揺が治まり平静に考えることが出来た。雑誌を取り出して読もうとしたが、なにか虚しさを感じて雑誌はそのままゴミ箱に捨てた。すでに雑誌とは全く異質の世界に住む僕が何故いまさら評価や評判で苛つかねばならないかと考えたのだ。
やがて来た西大寺行きの列車に乗り窓の外を流れる丘の木々を眺めたが、やはり頭に浮かぶのはあの女のことである。そうして、突然、彼女が後を追けたのは写真を取るためではないと閃いた。もし僕が写真家だとして、雑誌に掲載する写真を得るために見知らぬ男の後を追うだろうか。むしろ、映像となりそうな男を選び彼の協力を得ながら写真を取るに違いない。とすれば、彼女が僕を追ったことには別の目的があり、あの映像は彼女の追跡のなかから副次的に生じたのに違いない。
西大寺で乗り換え席に座り、車窓の彼方の二上山と葛城の連なりを見上げ、その確信にいよいよ自信を持った。
北風涼子の真の目的は何かと、いくら考えても答えは得られない。その理由は明らかである。僕と彼女を結ぶ糸が全く見当らないのだ。僕は考えることを諦めた。
目的が達成されていないとすれば、いずれ彼女は動きだすだろう。ひょっとすると掲載された写真への僕からのクレームを待っているのかもしれない。しかし僕には一切動く気はないのだから、彼女が動きださねばならない。その時になれば僕と彼女を結ぶ糸が明らかになるのだ。
前の席で雑誌を見せ合いながら談笑していた女子高校生の一人が僕の顔を見詰め、何事かを同級生に呟き、彼女達は一斉に僕と“アンビシャス・レデイ”とを見比べている。しかしもう心に動揺は生じなかった。彼女達は雑誌と同じように虚像の世界に居るのだ。北風涼子は、虚像の世界に住む人々の心を操ることは出来るが、彼等から見て虚像である僕を操ることは出来ない。
日曜日の朝十時に二台の自動車が欅林の間から現われ、中から里美と増田の小母さんを含む中年の小母さんの一団がぞろぞろと降り立った。しかも里美と同様にどの小母さん達も化粧は申し訳程度に服は普段着そのままで、家事を終えてそのまま来たような風体である。里美もまた同じような服装だが若々しい肌は輝いている。
彼女達を見ながら、どう考えても北風涼子のような女とは縁がないと考えた。
「崖崩れが修理されていて助かったわ」と里美は近付きながら言った。
「やあ、これが野草の会のメンバーか?」と、笑いながら話し掛けた。
「ううん、野草の会のメンバーは私と増田さんだけ。他の人は増田さんが入っている生協のメンバーや。私も友達に声を掛けたんやけど、日曜は皆あれこれと忙しいようや」
初めて里美と会ったときの会話を思い出しながら「えーっと、確か君は、野草の会の南大阪支部と言ってたんやないか。南大阪でたった二人かいな」と尋ねた。
里美は照れくさそうな顔をした。
「いえ、後二人いて合計四人やけど、残りの二人は遠出が苦手な老人やから。なにしろこんな会は余り賛同者が期待できないから・・・それに本当を言うと、大阪全体でも僅かなものやから、これからどういうふうに会を推進するかが今の緊急課題ですねん」
「なるほどなあ」と、なんともお粗末な野草の会の現状に呆れてしまった。
「それで、生協のいろんな活動の一環にしてもらえんかと、増田の小母さんと画策していて、それで、今日は生協のメンバーと一緒に来たんです」
「それじゃあ、君に取っては重要な見学会か?」
「あっはは、それほど大袈裟なもんやないけどね」
僕は声を潜めて、
「それにしても中年の小母さん達ばかりやねえ」
「うん、不思議やねえ、この年代になるといろんな事に興味がでてくるようや。若い間は自分とその周囲だけにしか眼がまわらんらしいねえ。ただそれでも着実にそんな人が増えているように思えるんよ」
「君やって若いのに変わってるんやねえ」
「木津さんも人のことは言えんでしょ」
僕は里美の眼を覗き込んで、ふふふっと笑った。彼女は同じ秘密を共有するように眼を細めて「ふふふ」と答えた。
「よっしゃ、いずれにしても大いに楽しい見学会にしてやろう」
「木津さん。すんませんねえ」と里美は嬉しそうに笑った。
僕は多いにサービスに努めることにした。まずは手揉みで作った無農薬で自家製のお茶を飲ませて新鮮な味わいと香りの良さで感心させてから、猪垣に案内することにした。猪垣の隅々には蜜蜂の巣箱を置いてあり彼等はせっせと冬越のために働いている。飛び回る無数の蜜蜂を恐れ小母さん達は野草の咲き乱れる猪垣に入るのをためらった。
「ここに居る蜜蜂は日本蜜蜂言うて、めったに刺しません。とにかく追いて来て下さい」と、なんとか巣箱の傍に連れて行き巣箱を後から開けた。
「ほら、素手で触ってもこの蜂は全く刺さないでしょう。商売で使う蜜蜂は西洋蜜蜂言うてもっと大型で、それに較べて日本蜜蜂は一回り小型です。それにほんまに大人しくて、ほらこんな風に巣を壊しても刺しません」と巣の上部を素手でこそぎ取った。巣の外周には蜜だけを貯めているから幼虫を傷つけることはない。
「うわー」とか「ほんまやー」とか小母さん達は口々に驚いている。小母さん達は感動を率直に表わすので実に気持ちが良い。感動の声はうるさいぐらいである。
「僕は自給自足のためだけに蜜を取るから量はいりませんので、大人しくて手間の掛からない日本蜜蜂を飼っています。まあ、売っている蜜とは味は少々違いますから味わって下さい」と、巣を折り取っては配った。
「ふむふむ、あっさりしているなあ」とか口々に感想を述べながら騒ぎ始めた。予想通り、蜜を餌にして納得させると小母さん達は蜂を恐れなくなり、それからは、野草の咲き乱れる中で子供に還ったように無邪気な笑顔で騒ぎ始めた。全ての生きものは食物を餌にして教育するのが最も効果的な手段なのだ。しかし人間と呼ばれる種は、そこに知的な雰囲気を加えるといよいよ教育効果が増すようである。人は己れの知を持て余し、知らず知らずの間にストレスを溜めているのだ。
野草の咲く三つの猪垣の外側には、昔の欅村の住人達が猪垣を増やそうとして木を伐採し開墾をし始めた形跡や猪垣を作り始めた跡が方々に残っているが、ある時期から彼等の建設的な意欲が途絶えたらしく荒地のままで残されている。猪垣は人の社会ではその存在価値を終えたのだ。それは、人の社会での存在価値を終えた者が猪垣に興味を持つのと逆の論理である。
大峰に生える木々のなかでも、種の特色が際立った木々を選び、挿し木や実生で育てた苗木を荒地に植えている。陰樹と陽樹、落葉樹と常緑樹、高木と低木を工夫して組合せ、すでに五百本余りとなっていて、桃、サクランボ、胡桃、柿、栗、あけび等とありとあらゆる実のなる樹もあり、木々の根元には日陰を望む野草も植えてある。
なにしろ僕が選りすぐった木々である。木々は特色の際立ったものだけを選んであるから、木についての知識のない小母さん達に説明するには格好の植物園である。幹の模様や葉の形それに花や実の特徴を聞きながら、彼女達はうっとりとした表情で散策を楽しんだ。秋の終わりの木々は濃い緑から黄色まで、遠く澄んだ空の下に様々な色に塗り分けられている。しかも今が季節のオニクルミ、柿や栗がたわわに実り一揺すりすれば、ばらばらとこぼれおちる。彼女達はきゃあきゃあと喚きながら秋の実りを存分に楽しんだ。
昼食時には、集めた山菜や木の実、草の実、それからいろんな雑草の新芽や若葉を試食した。それに僕が育てている茸を焚火で焼き、新鮮な味わいをも楽しんだ。
新鮮で香りに満ちたものを味わい、幸せそのものの小母さん達は口も軽くなり、あれこれと質問を始めた。彼女たち自身の倅に話し掛けるかのような馴々しい態度からは、生に対する図太い自信を感じた。
僕の説明に、素朴に感動し眼を輝かせる人々を周りにして僕もまた心から幸せを感じ、いよいよ多弁になった。木や草や、昆虫や鳥、それに哺乳動物達との触合いと、彼らに囲まれて暮らす楽しさを、自給自足生活のなかでの工夫とを織り混ぜて説明した。
昼食後は温室で出荷前の蘭科植物を案内して見学会は終わった。全員が出発前の休息を取りながらぺちゃくちゃと騒々しくしている時に里美が近付いてきて話掛けた。
「木津さん、本当に今日はありがとう。ほんまに勉強になりましたわ。野草の会もきょう勉強したことをもとに、どんな活動をするべきか考えてみます」
「そう、たしかにそうやねえ。単に野草を保護するだけやなくて、もっと広く自然を保護すると言う観点から見直したほうが、本当に意味のある活動になるような気がするなあ。ただなあ、なかなか大変なことやとは思うけどなあ」と答えながら、頭の中にまだ形にはならないものの、今日の小母さん達の素朴な喜びを見て、彼女の手伝いとなり、しかも自然にとっても喜ばしい何事かを果たせそうな思いがあった。山に籠もっているだけが能ではなくて、平地でも果たすべき何事かがあるような気持ちになり始めた。
「ええ、じっくりと考えてみます・・そうそう木津さん、貴方が山に行っている間に取った野菜の費用を伯母さんから預かって来ました。おおよそ市価で勘定したと言ってました」と里美は封筒を差し出し有難く受け取ることにした。
「それから、木津さん」と里美は突然に声を潜め、少々深刻な表情になってから言葉を続けた。
「木津さんは北風涼子さんと知り合いなんですか」
「おっととと」と思いがけぬ質問によろけてしまった。よりにもよって何故こんな時に彼女の名前が飛び出すのかと思った。
「えーっと、はっきり言うて、話したこともないなあ」
「ふーん・・・」と里美は眉間にしわを寄せて、疑わし気な視線を僕の顔に漂わせた。
「アンビシャス・レデイを見たのか」
「そう。あの写真は今や若い女性の間では評判なんよ。せやから、今日の見学会があの写真のモデルにそっくりの人やと宣伝したらバス何台かは必要やったやろねえ」
「またまた、冗談言うて」
「いや、ほんまや。それにしても木津さん、涼子さんと全く付き合いがないのなら、何故あんな写真を取られたの?」
「そんなにひどい写真かな」
「いえ、写真そのものは確かに見事やわ。そうでなかったら、こんなに評判にはならんかったと思いますわ。せやけど、あんな情景が赤の他人が取れるのやろか」
「そらそう思うやろなあ、ただ後から考えると僕の植物採集のやり方はワンパターンやから、一日後を追ければ次の行動は十分に予測できる。だからカメラを予測出来る場所に構えていれば、自然と僕が写真の中に現われると言うことや」と、山の等高線にそって歩き、次いで数メータ高い位置に移ってから等高線に沿って逆に歩いて行く調査方法を説明した。漸く里美は不審な眼差しを緩め、
「そう、もし木津さんが涼子さんとの付き合いがないのなら言うけど・・」と言い難そうな顔になった。
「実は、あの人は私の家のある藤井寺の旧家の出身でねえ。かなり有名な人やねん」
「へえー、藤井寺出身か」と驚いた。僕も若い頃に藤井寺に住んだことがあるのだ。変なところに妙な糸口があるものだと考えた。
「それがねえ、あの人は少々良くないことで評判なのよ。余り言いたくないんだけど・・かなりの男の人を破滅させたと有名なのよ」
「ふーん」と涼子の顔を思い出しながら呻いた。
「高校の時には、先生が一人自殺したし、同窓生も何人か破滅したと聞いていますし・・・それに、私の知り合いの人も、捨てられて自暴自棄になって、今は東京の方に行ってしまいました。それで、木津さんのことが心配やから、一応忠告しておいた方が良いと思っていうたんやけど。気い悪うさせたら御免ね」
「気い悪うするもなにも、僕は彼女と話したこともないからなあ」
「それやったらええけど・・・」
「ただ、どうやろか?僕のように金もなにもない男に近付く理由があるやろか」
思わぬところを突かれた顔付で里美はきょとんとしてから、
「そう言えば・・そうやねえ、高校の先生は皆から慕われていた人やし・・私の知っていた人も、女の子達からきゃあきゃあ騒がれるような美男子やったわ・・ああ、御免なさい、木津さんに魅力が無いとは言うてえへんのよ」
「ははっ、別に気にせんわ。どっちにしても、女もあの歳になれば、美男子とかハンサムなだけの男に魅力を感じるわけでも無いやろし、社会的な地位とか有名とか、そんなものに引付けられる筈や。それが全くない僕みたいな男を追跡するというのには何かそれなりの理由が有る筈やと思うのやが」と、ここ数日の間に考えていることを話した。
「確かにちょっと変やなあ」と里美は暫らく考えたが思いつくことも無いようである。
「まあ、ええわ、そのうち何か糸口も見つかるやろ」
「そうやねえ、私も思いつくことがあったら連絡しますけど、木津さん、ほんまに気をつけてねえ。あの人は写真で見るかぎりでは、綺麗で優しげな人やけど、実際に傍で見ると何となく恐ろしい感じがする人なんや。どうも男の人には魅力的に見えるらしいけど」
そのまま里美は車に乗り込み、考え込む僕を心配そうに見詰めてから、表情を変えてにっこりと笑った。
「どうも、今日は有難う御座いました」と言ってから車を走らせた。小母さん達が窓から手を振り車は欅林の中に消えていった。
久しぶりの人との長い付き合いに疲れを感じたが、彼等の素朴さと明るさに小気味の良い疲れであった。僕は家の前の石垣に座り遠く霞む吉野群山を眺めた。
山々を覆う桜の木の葉はほぼ散っていて山肌は薄茶色に煙っている。幾度かは里美が訪れるとしても、一人だけで過ごす六度目の冬が近付いている。紺碧の空の下でただ一人かと思うと先程までの騒々しさがなんとも懐かしく思えた。今までの冬は我が家を望む姿にするのに精一杯であったが、それも一段落して気が抜けたのだろうか。
だが、と僕は考えた。淋しさに耽っている暇は無い。草刈りをして堆肥の準備もしなければならない。野菜の収穫、蜂の巣箱や家の手入れ、薪の準備、温室の機械の調整と冬の準備をしなければならない。増築する温室と倉庫の計画や手配、それに新しく買い取る土地の交渉と、するべきことは、まだまだ山ほど有るのだ。僕は立ち上がり、久しぶりにじっくりと眺めた南の山々の、輝く秋からゆっくりと眼を背けた。
イヌシデの根元に座り蝋細工のような木肌に見惚れていた。五年前に竜神沢の下手の谷で見付けた見事なイヌシデの枝を取り挿し木で育てた株で、高さはまだ五メータにも達していないが、親株の老練な肌とは違い若々しい輝きを表している。彼のこの見事な木肌はなにゆえに必要なのだろうかと考え、さらに視線を周囲に色付く、其々に思い出のある木々にと移して、彼等の様々な枝振りと木肌、それに葉の形態に思いを巡らした。
彼等を見るたびに種の多さとその形態の隔たりには感心し圧倒されてしまうのだ。日本には哺乳動物は百種も居らず鼠や蝙蝠ともぐらの類を除けば三十種類程度でしかない。それに較べて木々の種の豊富なことは驚くばかりである。大きさや形態、冬を過ごす方法、棘や毒とかの身を守る方法と彼等は様々に分化して、しかもどの種も繁栄してきたのだ。彼等を糧として昆虫が育ち、昆虫もまた様々な木々に適応して種の枠を広げ、昆虫仲間を喰う種さえ現われて木々に優って種の数を広げた。彼等は一方的に相手を利用するだけではない。昆虫の繁栄はまた逆に木々の変種の増加を促しているのだ。爬虫類や鳥もまた仲間に加わり彼等はこぞってお互いに影響しあって、自然の驚異を拡大し続けてきた。
それに較べて人はいったい何をしてきたのだろうか。営々とこの自然の驚異を断切るだけに努めてきた。同じ仲間の哺乳動物を含めて次々と他の種を絶滅へと追いやっている。 会社を離れ植物達と触れ合うようになってからずっと考えた。熟慮の後に得た結論は、人は単に自然の記録係として生まれてきたのだということである。どう考えても、それ以外に自然に益する能力が先天的に欠けているのだ。地球の上に精微に組立てられた生命の連なりの中には、人の入り込む余地は何処にもない。そのことは不思議な程に厳然とした事実と思えた。とすれば、記録係が主人公を演じようとするから矛盾が生じ、どう足掻いても自然には受け入れられず、行動すればするほど自然を破壊してゆく。人はその事実に己れを失い、自分たちだけの虚構のなかで暮らしている。
この結論を得てから他の生命に道を譲り、ただの記録係に撤することにした。今も僕は木々の輝きに眼を細めその結論に誤りのないことを確認した。確信に励まされ体中が澄みわたり力が満ち満ちるように思えた。
ここ一週間でかなりの予定はこなしている。敷地の西側に長く続く三つの丘は予定通りに買い取った。その向こうは麓の村に住む芝田の爺さんの持山で、爺さんにも買い取りたいと申し出たのだが『俺の生きている間は他人に売る気はない』とにべもなかった。仕方がないので『とにかくゴルフ場だけには売ってくれるな』と頼むと、爺さんは皺で覆われ真っ黒で頑固そうな顔付に微かな笑顔を浮かべ、『土地を生かす奴以外には売らん。・・今まで会った奴の中で、それが出来るのはあんただけや』と言った。どうやら僕は佐薙さんや芝田の爺さんのような頑固者には好かれるらしい。
とにかくこれで、この周辺の猪垣は全て守れるし、下の村と、この周辺の水源は完全に押さえた。春になりゴルフ場の業者が来たらどんなにか驚くだろうとほくそ笑んだ。
京都メルクリンはK6の権利を六千万円で買うことになったから資金はまだまだある。佐薙さんと電話したとき金額を聞いて恐縮したが、『なんも遠慮することはない。年間二千万づつで三年間の支払いや。お前の働きで年収二千万では少なすぎるくらいや。社長には、K6の売れ行きによってはその後も考えてくれ、儲けを税金に取られるよりは、お前に渡すほうが投資効果があるとも言うた。社長も頷いとったわ。・・結局なあ、社長はお前のやることに賛同しとるようやなあ。仕事が忙しくなるまでは草木が好きで好きでたまらん奴やったからなあ、ちょっとは手助けしてやろうと考えとるんと違うかなあ』と佐薙さんは言った。
電話の後で黒い旧式の電話器を前にして座り込み、胸が一杯になって涙が滲み出す気持ちであった。手にした金は精一杯有効に使うのだと心に決めた。今もそのことを思い出して心の中が暖かく膨らむのを感じた。
温室と倉庫の建築も契約した。吉野工務店の親父は、『温室は前と同じ建物やから設計費はいらんし資財の値段も下がってる。せやから、三割は安くなる。とにかく変わった建物で前には苦労したがなあ』と苦笑いした。倉庫も標準タイプだからたいしたことはなかった。予算がぐっと減ったのでついでに温室も倉庫も二棟ずつにしようかと言うと、全部合わせて七百万で出来ることになった。始めの予算で倍の建物になった。しかし工事は吉野工務店が暇になった時にやるとのことで、来年の夏までには完成する予定だ。今のところ全てが十分に潤滑された歯車のように軽やかに回っている。
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