仏教の教え、について、僕は全く知らない。浄土真宗の母親が、念仏を唱えること、また、浄土真宗の教えでは、念仏を唱えれば浄土に行けるとのこと、ほぼ、僕が知る仏教とはそれだけであり、僕はこれらを共に実践していないし、信じてもいない。既に書いたように、宇宙の成り立ち、それに、僕の存在はいかなるものかは自分なりの理屈で理解したから、それで十分とも思うが、せっかく仏陀があれこれと考えたのだから、その一端でも知る方が良さそうに思えたので、調べることにした。これは、実は我が家の古本を調べていて、仏教史入門(塚本啓祥)なる本があるのでそう思ったのだ。この本は僕が買ったものだが、多分、その内容が理解できず、殆ど読まずにいたものと思える。しかし、この歳になって考えるに、釈迦はあれほど一生懸命に考えたのだろうから、それが、あほな考え方で終わった筈がないのではないかと思えたのだ。少なくとも、天国とか地獄とか、そんな馬鹿なことは言っていない筈だと考えたのだ。
さて、その仏教史の中に、初期仏教の教団と思想・教義の綱格なる章があり、ここに詳しく記載されている。要約すると、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦がその根本であり、そこから全てが説明される。その結果として、「認識されないことは客観的に存在するものとはみなさない」「絶対的な存在は無い」となっている。つまり、天国も地獄も、神の存在自体も、認識されないから、少なくとも、存在するとはみなされないってことになる。
なるほど、あの時代に、釈迦は本質を把握したのだと、僕は感心した。
そうして、彼の考え方の結論として、人生は苦であることを知り、この苦をいかに癒すかとの方法は、道徳的行為の絶えざる実践により、次第に理想的世界に達しようとすることに意義がある、と教えたとのことだ。おそらく、これは僕の考えだが、生きることが苦であることを認めながら、その苦を少しでも少なくするためには、皆が道徳的行為を続けることが必要だと考えたのだろう。
なるほどね、と思った。
極めて妥当な考え方だが、なぜそれが、彼の人生をかける程の大事なのかとも疑念を持った。だが、彼の生きた時代は、キリストが生まれるよりも以前の世界だったはずだ。その時代に、神や地獄も否定するには、やはりそれだけの熟慮が必要だったのかな、と理解できた。だが、今の時代には、いろんな科学情報があり、また簡単にそれらを知ることができる。彼の達した結論は、得ようとすれば簡単に得られる時代になったのだと考えるべきだろう。
つまり、彼は、3000年近くも時代を先駆けていた天才と評価されるべきなのだろう。
それに、この本には、大乗仏教の経典のことが書かれている。参考のために転記するとかようになる。
般若波羅蜜多経典
般若とは知恵、波羅蜜多とは、彼岸(覚り)にいたる。との意味で、知恵の完成で覚りに至る、との意味だ。この経典の中心課題は、空の提唱であり、つまり、この世界の物質的存在は実体がないが、実態が無いからこそ物質的存在だとする。物質的存在への執着を離れたところに物質的存在がある、とする。
華厳経 内容、難しく判らん
法華経 これも内容不明
浄土経典類 浄土(理想社会)についての経典類
その他いろいろ。
経典も哲学論であろうと想定できるが、恐らく、それらを理解しようと努力することは、時間の無駄と思えるのでそこまでは学ぶ気はない。
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