2014年4月18日金曜日

住友重機械の元営業から、仕事をしないかと言われたが・・・

会社に居る時、僕は、新居浜を本拠とする運搬機事業部の東京出先にいた。仕事は、受注のための運搬機システムを提案することで、新居浜は、そのシステムの中の、船積機とかアンローダーとか、ヤードの中で石炭とか鉱石を受入れて山積するとか、逆にこれを高炉とか発電用ボイラーに送るためのリクレーマー等、これらの、いわゆる単体装置を担当し、基本的には単体の受注しか眼中には無かった。だから、単体が受注できたとしても、それを受注するために必要であったシステム計画にどれほどの努力と時間、つまり、費用が投じられたかについては関心が無く、システムを構築するセクション、つまり、東京の出先の存在価値は全く認めず、経済情勢が悪くなると、直ぐに東京の人員整理を始めるのが常だった。僕の居た時には、東京部隊独自の受注が続いているにも拘わらず、東京に若い人は不要だとの論理で、手足となる若い技術者は全員が新居浜に移動した。それは多分、管理職とは人手を集めることだと勘違いしている新居浜が、人手の不足を補うために弄した策略であったのだろう。それに続いて数年で東京部隊は解散となり、僕は、東京の自動倉庫部門に移動となった。毎年、特に年初に、受注のために何が大切か等は考慮外とする組織改編が当たり前のように実施されるようで、新居浜は、世間は新居浜を中心に回転していると考えているようであった。それに、組織の体質は変わらず、各組織の長は人員を出来るだけ集めるのが仕事と考えているようで、人員が少なくても仕事をこなせる効率的な体質作りなどは全く度外視されているようであった。それどころか必要な人員を、受注に必要な組織から奪うことも平気であったのだ。

この東京出先の解散に際しては、長年に亘り集めた貴重な設計資料、見積資料は、ほぼ、廃棄された。廃棄されるのならと、僕は重要と思われる資料とか、僕自身が土日出勤で自主的に開発したコンベヤ設計プログラム、それは、将来大阪のコンベヤ部を任された時に、他社との価格競争、技術競争に勝ち抜くためにと独力で開発したもので、恐らくコンベヤに関しては、世界でも最先端のコンベヤ技術、見積設計、実施設計等を同時に行うプログラムで、最少の人力で最適の設計を行えるものであったが、そのソースプログラムを出力しCPU内のメモリーは抹消し、全てを自宅に持ち帰った。住友重機械にはざまぁみろ、と言いたいところだが、この会社は技術を余り重視する会社でもなく、先に書いたように、仕事をこなすには、どこかから人間を集めれば良いって会社だから、何とも思っていないだろう。
ところで、東京出先から若い技術者が移動させられたことについては、おなじ部署の同輩管理職の1人が、事業部長に「若い技術者は必要ではないです」と進言したことで、かような結果になったらしいが、それを進言した男は、どうやら大阪に栄転と決まっていたかららしい。この男は自分では仕事をせず、全て部下にさせるタイプで、この男のグループが忙しい時には、部長命令により僕の部下を応援に出したが、そんなことに恩義を感じる男ではなかったようだ。が、独りでは仕事が出来ないからと、部下が居る部門に逃げるのは許せるのだが、元の部署に泥を投げつけて去るって、どうにも理解できなかった。
更には、東京出先の閉鎖に際しては、情報の早い連中はさっさと新居浜に行き場を得たようで、最後に残ったのは、部長(若手が新居浜に移動した際に新しく新居浜から移動着任した人)と車内情報に疎い僕だけであった。外注さん達も行き場が無くなったが、最後に残った僕と部長が恨まれる結果となった。実際の所、外注さん達の心配どころか、自分さえどうなるかも判らなかったのがその時点での実情で、行き先となった自動倉庫部隊に、転勤とは言え、自動倉庫部隊も迷惑な様子で、それに実際、口でも迷惑だと言われた。が、その後の経過からすると、自動倉庫部署に対しては、僕は充分に責任を果たしたと自負できるだけの受注、それも、部門初めての冷凍倉庫の受注とか、世界でも最初の設備の受注を果たしている。が、最後にはやはり外様としてしか扱ってくれなかった。愚痴はこの程度で、話を元に戻すことにする。

夕刻に突然電話が掛かってきて、「XXだけど」と名前を言われたが、近所のXXさんとは声が違うと戸惑っていると、「住友重機械のXXです」と言われて漸く誰かが判った。彼は、元々は電気技術者で、その後、運搬機営業に移り、主として、官公需を担当し、僕が自動倉庫に移ってからも、一緒に仕事をすることが多かった男である。
彼が電話を掛けてきたのは、東電が石炭火力を袖ヶ浦辺りで計画していて、それに入札する企業が、ハンドリングシステムで協力する企業が無いので、独自に計画しようとしているが、その仕事をしないか、との声掛けであった。(本石炭火力計画は、この電話の後、4月22日に新聞報道された)
僕が勤めている頃で有れば、そのような話が有れば、大手数社が競って技術検討資料や見積を提出したものだが、今では、重厚長大の中でも、差別化できる技術を除いては、大手は全て手を引いていて、中小は、元々大きなシステムは彼等の技術範囲外であったから、見積、入札でもシステム構築自体がたいへんなのだろう。住友重機械もまた、単体技術者は子会社に残したものの、システムとかコンベヤ技術者は切り捨ててしまったのだ。
おそらく、そんな事情で、東電に入札するにも大量の石炭をハンドリングするためのシステムの技術検討、それに、見積もりも出来なくなっているのだ。
そこで、新居浜から相談を受けたXX氏は、退職者としての僕を思い出したらしい。住友重機械は関係なく、その元請けに時間請負で技術協力する仕事だ、と、言ったが、僕には彼が住友重機械と関係の無い仕事を持ってくるとは思えなかった。恐らく、旧運搬機が単体を受注するために必要な作業または人員を確保する役割であろうと思えた。
新居浜も、電話してきたXX氏も、必要な時には策を練るのが常とう手段だ。

それだけではなく、つまり本件に住友重機械が関与していると思えるだけではなく、電話の最中に、石炭火力のシステムをまとめる際の大変さを思い出していた。単体の計画は簡単だが、システムとはかなりやっかいなのだ。先ず、船からの荷降ろしの計画、荷降ろし時の能力の算定、等などは船のサイズも関与し、荷降ろし機の特性にも大きく関係する。船の滞船時間にも影響するので、非常に重要だ。更に、石炭のヤード貯留に関するヤード配置、ヤードからの切り出しと、発電用ボイラーには、中断することなく、昼夜石炭を供給しなければならないから、どれだけの積載量をどれだけの船が、いかなる間隔で、しかも、その到着時間の遅れ、逆に、早い到着の場合にも、ヤードには確実に貯留できる余裕が無ければならず、余裕が大き過ぎれば、敷地が大きくなってしまう。これらを計画するのは、なかなか大変なのだ。
計画はそれだけではなく、石炭の粒度を均一化する設備、揚上炭や発電に送る石炭量の計量装置も必要で、加えて、特に袖ヶ浦ともなれば、環境対策が重要な要素になる。揚炭時の粉じん防止、コンベヤ乗継点の集塵、更には、ヤードの散水や、散水雨水の浄化等、計画範囲は実に多岐に渡る。自分で検討する必要は無くとも計画上の基本データは作らねばならない。更には、設備を載せるための無数の基礎に関するデータも必要になる。設備そのものとしても、ひょっとすると、岸壁コンベヤや、貯留方式も、最新の方式とする必要があるかもしれない。そうなれば、さような設備の勉強もしなければならない。
ざっと考えただけで、かなり大変な仕事だと判る。
が、営業も、単体技術者も、別に自分がするわけでもないから、その大変さに気付いていない、と言うべきだろう。やるのは僕になる。
遣る以上は完璧な物を作らねばならない。これって、かなりのストレスとなり、恐らく、必死に計画せねばならないだろう。
直ぐにそこまで気付いて、詳しい話を聞くこと無く、説得しようとするXXの言葉を遮り、断りの答えを続けた。
って何を言いたいかと言うと、僕は、新居浜単体技術者や営業の策略に気付くようになったが、逆に、それだけ怠け者になったってことだろう。
ところで、この仕事をして、いかほどの金になったであろうか。企業が個人に払おうとする金額は、せいぜい100万、いや、電話してきた男も電機担当として参加し、半分は取るだろうから、50万程度であろう。3か月で50万か。悪くは無いかも。だが、今は、いろんな予定が詰まっている。やめとこう、と決めたのだ。

これを書きながら思い出したが、実は、僕はコールターミナル(石炭中継基地)、については、見積りも実施経験もあるが、石炭火力発電所のハンドリングシステムについては見積経験しかない。その見積経験の中には電発松浦がある。本件は見積時点から他社に発注が決まっていたのだが、新居浜の単体を受注するための技術協力でハンドリングシステムを応札しなければならなかったのだ。電発の入札資料は膨大な見積作業が必要(例えば、見積に過ぎないのにコンベヤ架台脚の一本一本の部材サイズまで要求された)なので、受注する会社から入札資料をもらってくれ、と営業に頼んだのだが、★★と言うその営業課長(当時は既に部長だったかな?)はえらく怒って、そんなことできるか!と怒鳴りつけた。我が部署の若い課員は既に新居浜に取られた後だから、たった独りで、膨大な資料を作成し提出することになった。恐らくたった1人でそれほどの仕事量をこなせるのは僕以外には居ないだろう。と言うのは、先にも書いたコンベヤの見積設計プログラムや、コンベヤ用構造物設計プログラムを開発し終わっていたからだ。この自力開発そのものが、最少の人力で最大の効果を上げるべく作ったものだから、かような時に役に立つのは当然なのだが、それはともかく、何とか仕事が終わっても、★★課長(部長だったかな)って奴は感謝の言葉どころか、ぶすっと不機嫌なままであった。その後の僕に対する態度からしても、僕には判らぬ遺恨を僕に持っていたようなのだが、どんな遺恨があるのかは知らない。ただ今になって思うと、彼は彼なりに、受注しそうな案件は、自分の人脈を生かせる部署なり人間に依頼して、受注できそうもない案件は、僕のような後ろ盾の無い人間にさせるって、彼なりの方針があったのだろう。それはそれで仕方のないことなのだが、その犠牲になる僕へのせめてもの感謝があっても良さそうにおもうのだけどね。
ところで、膨大な資料を提出後、電発の担当者から電話が有って、「コンベヤ部材の計算書をください」と要請があった。見積時点でここまで技術資料が要求されることはないのだが、きっちりと計算していたから直ぐに対応できた。資料をFAXすると電発から謝礼の電話があり、「助かりました。他社さんのは、皆さん、構造が同じで比較にならんのですよ」と笑いながら言った。つまり、何社もの他社は、皆、技術者に無駄な仕事をさせまいと、受注が決まっている会社から入札書類を入手して、まる写しで作成したのであった。かように、住友重機械って会社は、技術者への配慮なく、しかも、技術者を使い捨ての会社と言えるだろう、と、今になって再び怒りを蘇らせた。

が、また話を元に戻すと、発電所の場合は、各船からの受入れ時点で、石炭のサンプリングを行い、そのサンプリングに基づいて、発熱量を調整するために石炭のブレンディングを行う場合も想定される。これらの設備も考慮しなければならない、と、ハンドリング設備計画はかなりの検討、それに、図面の作成も必要と思える。特に問題は、計画過程で、いろんな部分品をメーカーに問い合わせるに際して、昔とは違い、適切な応答が期待出来るかってこともある。
ああっ!こりゃ、しんどいわ、と改めて思ったので、断ったのは正解であったようだ。
更には、この業界の体質からして、既にチャンピオンは決まっていると考えるのが妥当だろう。そんな状態で、分厚い仕様書を読み解き、東電との打ち合わせを行い、そこからシステムを構築するのは、なかなかの作業で、それも無駄に終わる可能性が高い。こりゃいよいよしんどい仕事である。と言うか、苦労の割に報われない仕事と考えるべきだろう。現役時代に何度も味わったつらさを、ここで再び味わうこともあるまい。

ところで、これを書いていて、番外編の逸話を思い出した。
僕を嫌っていた★★って男だが、この男は、東京出先から若手が引き抜かれた時に新部長として新居浜から来た部長とは仲が良く、その部長は実に優秀、誠実なひとであり、電発松浦のように、単体受注のために受注できそうもないハンドリングシステムの技術協力案件とかでも、文句ひとつ言わずに対応する人であった。例えば、僕も協力させられたのだが、中部電力碧南の単体を受注するために、ハンドリングシステムの膨大な技術協力を文句ひとつ言わずに行い、その努力もあって単体は無事に受注できた。恐らく、その点から★★はこの部長を好きであったのだろう。が、ハンドリングシステムで住友重機械より上を行くIHIから、石炭ターミナルの見積依頼が有った時に、そんなもの受注できるか、との社内の反応にも拘わらず、と言うか、社内の他の部門は、受注できない案件に対応する筈もないので、我が部長が対応したのだが、この部長それに★★の対応と、それにIHI社内での確執もあって、かなりのシステムを受注するって金星をあげることが出来た。(しかし、さすがにⅡ期工事は受注できなかった。)
が、住友重機械って不思議な会社で、その部長は昇格するどころか、しかも、彼の部門は成果を挙げたにも拘わらず、更にはシステム計画の重要さも認められることなく、閉鎖されてしまった。

なお、この★★の上司であった帆足さんって部長が居たが、この人は、単体受注への協力見積については、単体が受注できた時には、わざわざ訪れて感謝の言葉と、それに、社内受注報告でもシステム見積の受注協力があったとの報告をしてくれたらしい。それに比して、なぜ★★はそれが出来なかったのだろうか、と今でも理解に苦しんでいる。帆足さんは、八戸の長距離コンベヤ受注・納入でも一緒に働き、その点で、僕を評価してくれていたのだろう。でも★★は、その様子を横で見ていたから、帆足さんと同様の態度で接するだけでよかったのにと不思議だ。

ところで、もうひとつの番外編だが、この尊敬すべき部長の指示で、新しい分野に進むための新事業調査を行ったことがあった。その際、植物工場とか、リサイクル施設とか、その他色んな新規事業の可能性を記した報告書を作成したが、社内では一顧だにされなかった。が、その調査の結果得た技術知識が、その数年後に今度は物流事業部から放り出された時に、他の事業部の外注として雇われることに役立ち、しかも、実際の受注にもつながった。と、いうか、物流事業部に居る時に、世界最初の清掃車から直接にリサイクル物を受取る自動倉庫の受注に繋がり、その際の活動を評価され、他の事業部で働けることになったのだ。
それはまた、東京の出先が閉鎖された時に、ちょうど受注した案件が物流案件であったために、やむを得ずではあったとしても、物流に受け入れられたと同様に、芸は身を助けるの良き見本であったと言えるだろう。
ただ不思議なのだが、リサイクル施設については、僕がその調査報告書を出してから、ずっと後で、別の技術者が同様の報告書を出して、これは運搬機事業部の幹部の評価は高かったらしい。その運搬機事業部は実際には何らの行動に出ず、別の事業部がリサイクル施設に着手し、成果を挙げ、この成果に僕も参加したのではあるが、僕が報告書を出しても何ら反響がなかったのはなぜだろうか、と不思議に思える。結局、幹部の評価とは、極めて不公平な部分が多いってことなのだと思う。
それにまた、僕の周囲で、技術的にも仕事的にも、こいつは駄目だな、と思えるのが、なぜか上に上がって行く傾向、それに、その傾向がいよいよ強くなって行くようで、つまり、出世した人間は自分より劣る人間を引き上げる傾向があり、時間が経つにつれて会社の首脳部の劣化が強くなっていくって理屈だろう。
総まとめとすれば、要するに会社って、と言うか、組織って、業績をあげるのが評価とはならず、そのために、時間と共に劣化して行く、ってことなんでしょう。

愚痴はその程度にして、先にも書いたように、東京電力の説明会があり、いろんな会社が見積・提案に走り出した。ってことで、システム構築力、ハンドリングシステム構築力の競争が始まったが、僕は「皆さん、がんばってね」と言いつつ、このテーマを終えます。

この出来ごとの後、現役時代の夢、それも、かなりディフォルメされた夢を見るようになった。概ね、仕事が無くなったとか、仕事の進め方が判らなくなった夢だ。が、実際の現役時代には、そのようなことは無かったのだが。ただ運搬機事業部から自動倉庫部署に移された時は戸惑った。特に僕は実務派だから、その実務内容がガラッと変わるのだから苦労した。でも、一年もすれば、システムエンジニアの用語も偉そうに客先の前でペラペラと喋るようになった。が、現実と夢とは違い、夢の中では物事を具体的、客観的には扱えない。ただ思考が悲しく回転するばかりだ。痴呆症とはかような状態を言うのだろう。慣れておかねばならないかな。

更に後になって気付いたが、我が東京部隊が解散となった時に、あらゆる技術資料も放棄されてしまった。極めて低レベルの資料として、色んなプラントについてのドキュメントのテンプレートがあった。それらを、何も無しから作りあげることには、かなりの労力が必要となる。つまり、そこまで作り上げねば、成果とはならないから、これは個人では無理だろう。
とにかく、かような資料も平気で捨てさる企業ってどうしようもない。
ところで、いろんな資料を電子化しようと苦労していたのは、他でも無いその尊敬すべき上司であった。が、その努力も道半ばで、彼の部は解散させられ、彼もまたリストラされてしまった。ただ営業を平然と批判する僕とは違い、彼は営業の評価は高かったので、港湾荷役機械化協会とかに行き場は用意された。
僕よりは恵まれていますが、彼の実力からすれば不十分な扱いでした。とにかく、住友重機械って最低の会社だってことです。

さて、その後、個人的に残しておいた大量の技術資料類も廃棄し始めたので、もう、復帰は無理ですね。特に、長距離コンベヤを含めてのベルトコンベヤ技術計算・機器積算プログラムも廃棄ってことで、これは心痛む廃棄なんですが、どうせ、僕が死んだらゴミになるだけですからあっさりと廃棄です。

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