2025年8月13日水曜日

強力18号台風の間を縫って滋賀、京都、京阪八幡男山の旅

 

強力18号台風の間を縫って滋賀、京都、京阪八幡男山の旅


2014/10/01 - 2014/10/08



スマホは下記です。
https://4travel.jp/travelogue/10939404

ETSTARで、10月1日〜8日の成田⇔関空を、往復8,000円って安いのを手に入れたので、大阪拠点の整理をと計画していたが、例年の女房方の兄弟姉妹会を、長老方の体調不良、特に足腰の不良でどうするかと逡巡していたが、その長老自らの要請で関西方面で開くことになったので、僕の滞在する予定内の10月4日から2泊3日に兄弟会を開くことになった。今回もまた厚生施設の充実する三菱電機を定年退職した、もっとも若いメンバー員に殆どを世話になった。


僕は単独で大阪とを往復したが、今回は往復共に順調な飛行で、飛行そのものは全く問題はなかったのだが、兄弟会の最中に強力台風の18号が到来するとのことで、旅はいったいどうなるのだろうか、と心配した。
結論から言うと、台風は関西地方には、実に、半日遅れて到来し、暴風は観光を終えた6日の未明に吹き荒れ、6日午後には東海道新幹線もなんとか復旧したので、関東から新幹線で来た連中も、無事に帰還することができた。山陽新幹線は朝から順調であったから、九州からの連中は何の問題もなく帰還出来た。僕は台風一過の8日に帰還だから問題外の外であった。

兄弟会は、小型バスをチャーターし、宇治の平等院⇒石山寺と余裕のある計画である為、参加者の一人が、黄檗の万福寺に行きたいと主張した。
とにかく行こうと台風の接近を心配しながら5日朝に、志賀の宿を出発した。
琵琶湖西岸に沿って走り、大津から山科への道を進めば、六地蔵を経て簡単に宇治川に着く。
山科は山裾を流れる琵琶湖疏水を2度見に行ったことがあり、この辺りについてはよく知っている筈なのだが、京都から行くことが殆どで、裏側から行くのは初めてだ。
京都の表側に住んでいると、この辺りの感覚がよく判らなかったが今回は実に勉強になった。

ところで、宇治の平等院だが、橋を渡り、直ぐに参道はあるが、駐車場はその前を通過して、平等院の裏手にある。
長老連の一人は、車椅子なので、我々の行動はどうしても制限される。70歳の僕でさえ、このグループでは若年者に入るので、この制限はやむおえない。というか、そのような旅も趣がある。しかし、観光スタイルを、どこかに集まり、昼間も温泉を楽しむなどの静的なタイプに変えるべき時期のようだ。それはともかく、平等院は今年の修復でかなりきれいになったようだ。
そのあと、車は黄檗の万福寺に行ったが、その山門の前で眺めるその奥行き、表示された地図での寺の広大さに、こりゃ広すぎて駄目だ、と車に引き返した。
次いで、京滋バイパスであっと言う間に石山寺に着いた。僕の記憶とは違い、寺は、なんと宇治川の上流である瀬田川のすぐ脇にあった。寺は、この歳になると気付くのだが、見事に自然と人工物を組み合わせた芸術品となっていた。境内の中のそれぞれの建物が、景観の中の最適の場所を選んで配置されていることが判るのだ。
帰路はまた琵琶湖湖畔に沿って北上するが、琵琶湖疏水の取り入れ口をバス内から見ることもできた。
かくして、余裕のある観光を終えて、翌日台風一過で混乱する京都周辺を通過して、東京組、九州組、大阪組と別れて帰路についた。

僕は、志賀⇒京都駅⇒東福寺で京阪乗換⇒枚方公園と、拠点に帰り着いた。
なお、関空と大阪市内は、南海線難波乗換地下鉄降車 で1000円が最も安いようだ。自動販売機で切符は買えます。

写真は、ここです。
https://plus.google.com/photos/107577963727362767237/albums/6068083320358929329

ところで今回の旅では、ずっと昔に友人だった後藤君の情報を得ることが出来た。
後藤君は、僕が小学校5年の頃に隣家に引っ越してきた同学年の少年である。とても善良・素朴な少年で、直ぐに僕とは友達となり、いつも一緒に遊び回る親友となった。
それに後藤君のおかあさんは、とても上品で賢明そうな人で、「isabon君がすぐに友達になってくれてよかった」と、とても喜んでいたとの記憶も有る。
特に後藤家が引っ越してくる前に住んでいた宮本さんは、特にざっくばらんな家庭で、宮本家のおかあさんは、赤ちゃんに乳を与えながら、僕達が遊びに行くと、乳房から乳をピユーと飛ばせて見せるような人だったので、余計に上品に見えたのだと思う。

僕達の住んでいた松原市(当時は松原町)高見の里の住宅は、戦争時の疎開者住宅で、ほぼ正方形に巡る狭い道路の、その外周と内側に密集する住宅地で、周囲は全て田んぼで囲まれていた。勿論、今では、その住宅地は商業地、住宅地のまっただなかにある。
住宅群は、34.574699,135.548276  後藤君の家は 34.574619,135.548093
後藤君の家は、その道路内側の南西の角にあり、僕の家は、その北隣にあった。彼の家の西側には確か谷口さんの家があった。僕の家の北側の家、そこはもう比較的広いと言える道路に接する家で、澤田さんの家であった。つまり、一辺に3軒しか並ぶことのできない狭い住宅群であったが、当時の僕達にはほぼそれが僕達の世界であったわけだ。

今、この住宅地を見ると極めて狭い住宅地だが、当時、その南側外周には木造2階建てのアパートがあり、そのアパートには多くの家族が住み、住宅地が狭い割には数多くの人が住んでいた。
僕はこの住宅地で生まれ、小学校5年の後半に、今度は僕が引っ越してこの住宅地から去った。実を言うと、その年齢での、つまり、その住宅地での僕の行動の記憶はそれほど明確なものではない。勉強における僕の記憶力は優秀であったのだが、生活に関する記憶力は人並み外れて劣っているのが僕の記憶力の特徴で、それゆえ、僕が後藤君と、具体的にどのように遊んだかの記憶は、驚くほどに全くないのだ。ただ次の記憶だけはまだ鮮明なものとして残っている。つまり僕は、楽しい出来事はすぐに忘れ、つらい思い出だけはずっと覚えている性格なのだ。

僕と後藤君は松原小学校に通っていたのだが、クラスは別で、僕は3組、後藤君は1組であった。
その住宅には同学年としては、後藤君と同クラスの森本君、それに、大阪市内の私立小学校に通う木下君が居たが、木下君は私学に通っているようで、学校が異なる為か、僕と遊ぶことは殆ど無かった。森本君は、どこか性格がひん曲がっていて、後藤君も僕も、それに、木下君も、彼とかかりあうのを出来るだけ避けるようにしていた。
が、その日は、何故か、僕と森本君がべったんで遊び、後藤君は、恐らく親から禁じられているか、学校での禁止令に従順なのか、ふたりの遊ぶのを、熱心に見ながら、あからさまに僕の応援をしていた。
多分、二人の勝負が勝ったり負けたりなのに飽きたのか、森本君が手持ちのかなりの数のべったんを前に押し出して、一発勝負、つまり、一番上のべったんの裏の数値の初桁の数値の大小に全てを掛けよう、と言いだした。こんなところが、僕達の森本君を避ける性格の現れだと思うのだが、何故か、僕は彼の提案を受けて勝負とした。
二人の札を同時に裏返すと、僕が勝ってしまい、後藤君はあからさまにも、ばんざい!と大声で叫んだ。と言うことで、僕には喜ばしい結果になったわけだ。

ところが翌日、それも授業中なのに、1組の男子先生の今井先生が扉を開けて、「isabonを連れていっていいか」と、僕のクラスの女先生、前田先生に聞き、僕を自分の教室に連れていった。
で、1組の生徒たちの前で、「お前はべったんをやっているだろう!」と怒鳴るように聞いたので、「はい」 と答えると、「森本はしていない、と言っているが?どうなんだ」と聞いたので、「はい、やっていません」と答えた。僕としては、別に彼を道ずれにする必要はないと考えたのだろう。
ただそれだけで、じゃぁ帰っていい、と放免された。
何がどうしたのか頭は混乱状態で、直ぐに終業時間となった。僕のクラスの前田先生からも何の質問もなかったと思うのだが、記憶は直ぐに運動場を校門へと歩いている状況になっている。
と、後藤君がはだしで僕を追いかけてきた。そうして、「森本君が、ぼくと君がべったんをやっていると先生に言いつけたんだ。それで自分はやっていないと言ってるんだ。教室に戻って本当のことを言ってほしい」と僕に訴えた。が、僕は「いやや」と答えて、後藤君の訴えに応えることなく帰路についた、とこれが事の経過であって、事態の細かい推移とか周囲状況とかについての記憶は完全に消えている。
とにかく、森本君は彼のべったんを全て僕に取られ、それゆえに、もうべったんはしていない状況になった、との奇妙だが事実でもある考えに至り、「僕と後藤君がべったんをしている」と、今井先生に訴えたのだ、と想定できた。
森本君って本当に嫌なやつだが、僕だけではなく、べったんをしていない後藤君もその森本君の奇妙な理屈から生じた災難に巻き込まれたことになる。それも、ぼく以上に酷い災難である。ひどい話だ。さらに、僕も後藤君に酷い裏切りをしたことになる。
それにしても通常なら、よその組の生徒を引っ張り出して、全く見知らぬクラス全員の前で詰問するなどと、かような取り調べをするなんて通常ではありえない。もっと慎重に丁寧に事情を調べるのが常識だと思える。

これ以後、後藤君と僕がどのように付合ったか、それとも、後藤君に軽蔑されて付合いをやめたのか、そこのところがもう記憶にはないのだ。何の記憶もないことからすると、心の広い後藤君は何事もないかのように僕と付合いを続けたのだろう。

この出来事の暫く後で、僕は引っ越して、後藤君とは全く会う機会もなく、それに、この出来事自体を、その後の人生で殆ど思いだすこともなく過ごしてきたが、現役を退いてから、時に、思いだすようになった。
それと共に、僕が今井先生に目を付けられ、何度か、あまりたいしたことでもないのに怒鳴られた記憶があり、それがために、今井先生が苦手であったとの思いもあり、それ故に、後藤君の必死の頼みを拒絶したのだとも気付いた。

そのず〜っとず〜っと後、僕が退職後に小学校の1〜3年の担任であった石橋先生を訪れる機会があり、いろんな話をしたが、その際に何気もなく、
「どうやら僕は今井先生に目をつけられていた、と言うか、苦手だった記憶があるのですが・・」と言ったことがあった。すると石橋先生は、
「ああ、それね。君が臨海教室に行った時に、君の姉さんも一緒に来たことがある。そこで、今井先生と姉さんとの間でトラブルがあったらしいの。それでやね」と、のたもうたのだ。
そもそも、なぜ姉が僕の臨海教室に一緒に行って、更に、よその教室の先生ともめるなんて状況になったのか、全く理解できないが、そのような事情があったのだと、その時初めて知った。
ところで、石橋先生はその時に、今井先生は、その後、校長にまで出世したと言っていた。

もし本人なら、とんでもない奴だ。小学生の姉とトラブルがあり、それも、違う学年の先生に知られるほどにもめたのだろう。それだからって、何も知らない弟とその友人に精神的な傷を与えるほどの仕返しをするなんて許せない。しかも授業時間中に他の組の生徒を呼び出して、自分のクラスの生徒が見ている前で叱責するなどとは、教育者としてあるまじき行為だろう。
それに、僕自身としては、残念ながら、他のクラスまで引っ張られて怒鳴られるほどの悪童ではなく、善良素朴な少年に過ぎなかった。それが、大人の悪意でかように扱われたに過ぎない。なんとも情けない話だ。

石橋先生と会った頃、一度後藤君に会って、この件での謝罪をしたいと思っていたが、高見の里を訪れた時には、その住宅地には後藤君は住んでいなかった。
最近になり、住所でポンの存在を知り、これで試すと、さっと電話番号と住所が出てきた。その住所からすると、僕達が住んでいたあの住宅地からそれほど遠くない場所に住んでいるようであった。で、今回大阪に行ったので電話をした。電話をすると、落ち着いた声の奥さんらしき人が出て、後藤君の話、特に、僕達の年齢の話をしていると、初めは疑い深けであったが、何となく信じられるとの気配があった後に、後藤君が20年以上前に亡くなっているとの応答であった。
二十年前か、と落胆しながら電話を切ったものの、彼の母親と同様に、彼の妻らしき女性の、その落ち着いた声音からすると、なんとなく、後藤君はそれなりの人生を送ったように思えた。

それに、僕の姉は、その後、僕の人生の道筋に、ろくでもない地雷を置き続けた女、で、この件もその一つと思えなくもない。それに、森本君もまた、かなり強烈な地雷を、僕と後藤君の人生に置いたようだ。

石橋先生は、僕が小学校1年生から3年生の先生で、前田先生は4年生から5年生の先生であり、ともに、素敵な先生であった。僕は小学校の先生には恵まれたと言えるだろう。今井のクラスでなかったことを感謝すべきだろう。
石橋彰子先生は、その後暫くして亡くなられた。
が、前田幸子先生は、現在もご健在であり、本当に嬉しいことだ。

今井ってひどい奴も、住所でポンで、それらしきのを見つけた。羽曳野市で、それも、僕のかっての行動範囲内に住んでいるようなので、本人かどうか確かめに行く積りだ。結果は追記したい。

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