2015年11月29日日曜日

田米豊君 追悼

彼は、僕より多分2歳若く、住友重機械には、同期で入社した。
入社以降、顔と名前は知っていたが、特別な付合いは無いまま、僕が会社から肩を叩かれるときまで経過した。その頃、僕は環境事業部の横須賀市のリサイクル設備に関して、世界で初めて、自動倉庫でごみを受け入れる設備を、環境事業部から受注し納入した。
この件は、僕が運搬事業部から放り出され、自動倉庫部隊に拾われてからのある日、環境事業部のリサイクル設備のチーム長であった梁瀬氏が、自動倉庫事業部を訪れて、自動倉庫をリサイクル施設の受け入れ部に使えないかと相談しに来たのだが、こんな夢のような実現性の少ない仕事は、新参者とか邪魔に思われている人間に回されるのが我が社の常であり、その常通りに、その仕事は僕に回されてきた。
ごみの受け入れは、ごみ収集車から直接受け入れるのだが、収集車の容量は10m3~20m3もあるから、受け入れBOXは、それに相当する容量が必要で、そのような大きな容器を受け入れる自動倉庫は、これまた巨大な自動倉庫になる。多数のごみ収集車でリサイクルごみを収集するので、後方設備の能力との関係で、大きな容器を200個以上も保管する巨大な自動倉庫が必要となった。が、幸いなことに、そのような大型構造物とか、世界最初の特殊な設備とかは、運搬機事業部でよく担当していたから、大型構造物+自動倉庫は、当時の僕には最適な案件だったことになる。梁瀬さんに彼の希望する設備を提案し、その結果として、我が社は、自動倉庫方式の受入れシステムを目玉設備として、リサイクルごみ処理施設(確か270億円)の受注を果たしたことになる。世界で最初の巨大なごみ受入れ装置を有する、リサイクル施設であった。
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/4250/aicle/02/images/syorihurou.html
しかし、本施設の稼働開始直前に、僕は自動倉庫事業部からも肩を叩かれてしまった。本施設の稼働も待たず、それどころか、毎年受注を続け、他にも受注案件を抱えているにも拘わらず、要するに年齢だけを肩叩きの条件とする、住友重機械ってとんでもない会社であったのだ。
ただ、仕事は続けさせたいとの考えからか、自動倉庫事業部の外注として雇用されることにはなったのだが、その雇用説明時に、僕よりも年下の管理部長は、先輩である僕に対して、「本当は辞めてもらいたいのですがね」等と、わけの判らん情の無い対応であった。
こんな時点で、環境事業部の梁瀬氏に、「肩を叩かれたよ」と言うと、即座に、「じゃぁ、うちの事業部のリサイクルグループで仕事をしてくださいよ」と言われた。こんなに簡単に要請されたことと、それに管理部長のご意向もあったので、僕もその要請に簡単に応じたのだが、恐らく、その件は、当時、環境事業部の事業部長であった田米君の後押しも強く影響していたと想像する。
ただ、当時は田米君が環境事業部の事業部長であることは漏れ聞いていたが、彼の経歴については全く知識が無かった。後から知ったのだが、彼は当初化工機事業部に所属し、そこから本社の技術開発室に移動し、焼却施設分野への新規参入に参加したらしい。かくして受注できた筑波の焼却施設を指揮して、これを成功させたことで、新しく出来た環境施設事業部の長となったとのことだ。
彼が事業部長として居たことで、僕は55歳から63歳までを、ある意味、田米豊君のバックアップを得るような形で仕事に専念出来たことになり、その恩義に報いるだけの受注を果たしたものの、この時の、彼の対応には一生感謝すべきだと自覚していた。それに、新しい職場でたまに彼に出会い言葉を交わした時の彼の印象とか、私的な付合いの場でも、彼は誠実に僕を評価し、対応してくれたと感じたものだ。
ただ、63歳で健康上の都合で環境事業部を離れてからは、過去の僕に対する住重からの退職についての扱い、「離職票は自己都合退職で、貢献度評価無し」に対しての怒りから、会社のOB会や同期会にも出ることは無く、彼の状況は年一回の年賀状だけで知るようになっていた。
が、彼、それに、梁瀬さんとか、その上司の住友さんへの感謝の気持ちは持ち続けていたし、実際に年賀状の交換を続けていた。

そのような田米さんの奥さんから、彼が今年3月に亡くなられたとの葉書が来て、先の投稿での野田剛君の件もあり、あのがっしりと体格の良い田米君がどうして、と、僕は大きなショックを受けた。
彼との個人的な付合いは、数度の気の置けない仲間だけでの都内散策と飲み会だけであったが、
彼が葉山で農園を持ち、休日には農作業で忙しく働いていること、それに、そのような生活を楽しんでいることなどを聞き、手伝いに行くよと言いながら、行く機会なく、僕の完全退職後は会うことはなかった。若し彼が身近に住んでいたなら、彼の人柄を楽しむべく、そんな彼をたびたび訪問して共に汗を流しただろうと思う。

彼は、いろんな事情から僕よりは恵まれた会社生活を終えたし、私生活環境にも恵まれたように聞いている。ではあるものの、これからいよいよ楽しめる時期の70前後での逝去とは、本人には残念に違いない。そのことをも僕は残念に思うのだ。

次々と残念な知人を失ってゆく。
心からの哀悼を込めて、田米豊氏の冥福を祈るものです。

追記
上記、僕の記述で、友人を傷つける可能性があるので、その点を追記しておきます。
当時、僕が特に親しくというわけでもないが、気心の合う友人たちが、住友重機械の事業部長を務めていた。その中には自動倉庫部門を含めて運搬・産業機械の全体を管轄していた、大須賀事業部長も気心の合った友人であった。彼は産業機械部門出身であったから、僕の所属する部門には余り通じていなかった。だから、自動倉庫部門の長から、肩たたきがあったときに、大須賀君に連絡を取れば、何らかの優遇があったであろうことは確実であった。が、しかし、当時は、55歳になると肩をたたくってことが、実は当時、住友重機械社長であった、交友は全くないが僕と同じ阪大卒で、しかも、大学同期だが会社は同期でない、日納義郎って出来の悪い社長の方針であった。そのため、僕に優遇処理をすることで、彼の下に居る、自動倉庫部の長や、管理部長との関係がどうかと気使われ、僕は敢えて大須賀君には相談しなかった。
が、今になって考えると、相談しなかったことが却って大須賀君を傷つけたのではと危惧し、実際に、後年、彼と出会ったときに、「悪いことをしたなぁ」との一言があった。
その点、大須賀君に対する悪意は全くないことを書いておきます。

ところで、僕と気心の合った同期入社仲間には優秀な男たちがいた。例えば、早逝した化工機事業部長の吉川君とか、海外で頑張った馬場洋一郎君などです。僕と気心の合った彼らは各部署の事業部長等を務めていた。が、彼らが会社を率いる時代が悪すぎて、技術者本来としての、努力や工夫に対する成果がでなかったのが実情で、首切りだけで乗り切ろうとした日納だけが評価されてしまった。そんな不条理な時代であったわけです。もし時代さえ良ければ、技術者としても人間的にも大きかった彼らは大きい成果を上げたであろうと推察します。
そんな事情で、重要な人材、それに、多くの技術を捨て去った住友重機械は、それなりの会社になってしまったようです。

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