2014年7月24日木曜日

失敗の本質とはとっても大切なことを、住友重機械での実例で示す。

僕の所属した住友重機械の運搬機事業部は海外進出の端緒に、立て続けに大赤字を出して、その志を挫かれてしまった。その後は海外進出に極端におびえて発展の機会を失ってしまった。
つまり、その時点の指導者に人を得なかったってことだろう。
住友重機械が本拠とする新居浜って環境下では時流に乗るだけの人が生まれなかったとも言えるだろう。つまり、この会社はそうなるべき運命下にあったのだと言える。
失敗の経過を更に詳しく見ると、先ずは韓国、台湾での搬送システム案件の成功があって、その後中東の搬送システム案件で最初の案件が大きな利益をあげて全運搬機事業部が海外案件に目覚めた。
ところが続く案件が次々と大赤字になり、中東最後の案件はイライラ戦争で中断したこともあって当然赤字になった。
ちょうどその頃、シベリアに納入した大型土木機マリオンも納入後トラブルが続き大赤字になった。
とどめとなったのが、米国タコマのコンテナクレーン6台だった。この案件では韓国製作にも挑戦したのだが、7台分とか8台分の費用が掛かったとのことだ。
据付現地指導員であれ、韓国製作指導員であれ、どの案件も、新居浜工場の現場作業員がぞろぞろぞろぞろと指導員に出かけるのだが、そんな体勢で海外案件が順調に処理できる筈がない。
海外案件に必要な労働者や資材供給システムを含むサイト運営能力、スーパーバイザー能力が根本的に不足していたのだが、結局この欠陥を乗り越えられなかった。
これらの人材・能力不足が原因であることは、当初の利益が出た案件は、設備納入と指導員派遣が納入範囲で、失敗した案件の殆どが、現地据付工事を含むフルターンキイまでが納入範囲であることから推察できる。
つまり、住友重機械は機器メーカーではあるが、据付会社では無いと言えるのだ。だから、据付指導員として派遣される技能者は鉄鋼構造物や機械設備の製作技能者であって、据付の技能者ではない。特に海外で必要とされる現地人を使い切るだけの言語能力もなければまとめ技術も無い。海外据付に際しては、これら工場技術者の上に、国内工場の課長職を仕事とする幹部が殿様として存在するグループが派遣されるのだが、彼等に海外現地での据付スーパーバイザーを遣れる筈もなく、そもそも、海外現場を構築するノウハウやマニュアルさえ存在しないのだ。フルターンキイ案件を処理できる可能性はゼロに近かったと言えよう。
そもそも、あれだけの失敗を繰り返したにも拘わらず、そのようなノウハウの蓄積やマニュアルが存在しなかったことが、この企業の能力不足を示していると思える。

更に住友重機械なる会社全体で考えた場合、先にも書いたように、この会社は新居浜を本拠とする会社で、運搬機械や産業機械を製品とする新居浜事業所であげた利益の殆どを、減速機や建設機械、それに射出成型機に投資して、漸く各所が利益を上げるようになったものの、バブル崩壊で、特に本社の副業投資がべらぼうな赤字を出して、極端な人員整理と資産整理になってしまった。
そう回顧すると、おそらく、初めから事業拡大の方向を、産業機械や運搬機械で世界制覇を目指した方が良かったのかもしれない。つまり、事業幅を拡大するよりも、先に書いたような設備、つまり本業のフルターンキイ納入が出来る企業を目指す方向もあったはずだ。そうしていれば、技術的にも統一のとれた開発で世界一になってた可能性がある。住友重機械の失敗は、下手に事業幅を拡大しすぎるとどうなるかの好例かもしれない。

このように回顧すると、失敗の本質とはとても重要なことに思える。

さて僕がバングラデッシの肥料製造設備の搬送部分の指導員チーフとして派遣された時の状況だが、先ず、その時期は、シベリアでマリオンが大赤字となり、イラクでも大赤字となりつつある時期であった。つまり、住友重機械の海外志向の最終段階に近かった。
そもそも、設計、それも本拠から外れた大阪に所属する僕が、なぜ自分が設計した施設でもない設備の指導員で出なければならないかも説明なく、その後も何のインフォメーションやマニュアルも無く、顔も知らない新居浜の鉄工部工員、検査部門の工員を引き連れて行くことになった。
ただ、納入機械設備類は新居浜で製作、梱包中であったので、その様子を一度、見に行っただけであった。その案内をしたのが、一緒に行く予定の鉄工工員で、彼が梱包の検査もしていた。
その際に、部品が機番ごとでなくバラバラに梱包されているのを見て、「梱包リストは機番ごとのも作るように」とその鉄工工員に指示した。が、結局その必要性を理解できなかった彼はその指示に従わず、そのため、現地に行ってから、梱包内容の確認と、機番ごとの部品収集がおおごとになってしまった。加えて、その男は日本での梱包作業時に、梱包リストと梱包内部品の照合もまともにしなかったため、いよいよ現地での工事指導は大変なことになってしまった。
結局は、予備として持って行った膨大な梱包リストを、手とはさみと糊を使って、機番ごとの梱ーリストを現地で作った。それだけではなくて、重要な機械部品の梱包は、自分の手で梱包リストとの照合を行った。
話が飛んだが、誰も現地指導のやりかたについての教育とか資料とかもないままに、僕は、工員たちを引き連れて現地に行ったのだが、現地には、我が社営業どころか、現地商社員さえ同行しなかった。後になって考えると、設備を納入する会社にしては、極めて異常な対応であった。
結局は、その後1年にもわたる工事期間に現地で生じたあらゆる苦難を、自分ひとりで対処するしかなかった。
他方、他のサイトでは、新居浜から派遣される据付チーフ達は、何人もの腹心を引き連れて行ったのだが、海外での据付業務では腹心が多くとも対処が容易になるわけだはない。だから、結局は、チーフの能力だけで、業務の成果は決まることになるので、大勢の腹心を連れて行けば、その人件費だけでも大金が掛かり、更にトラブル対処も適切ではなかったことで、次々と大赤字になる案件が続いたわけだ。
勿論、僕の行った現場は、充分な利益を上げることが出来たが、これは、僕の所属部署が、新居浜の工場に頼らずに独力で仕事を切り開く部署であったこと、それに、大阪部署の仕事は、単体ではなくてシステム物であり、システム物のまとめには普段から慣れていることが大きく影響したと思う。

要するに、海外据付業務に対するマニュアルとか、海外案件に対する日本側でのバックアップシステムも不十分なまま、フルターンキーの案件までに手を出すなんて、これは失敗して当たり前と言えるだろう。

独力で解決するって実例だが、当時の現場でエヤー配管のスピードコントローラがどこにも見つからなかった。据付まとめのケピンスキーとか言う、ポーランド系のイギリス人にその部品がどこかに無いか、と聞くと、彼は、その部品の機能を聞き、それなら盲配管に小さな穴を開ければどうだろうと、提案された。実際に試みるとうまくいった。この助言の後、僕は、工夫することの重要さに気付き、これを続けた。
結果として、住友重機械での長い勤務で、自分の担当したプロジェクトは一件も赤字を生じることなく処理出来た。それだけではなくて、人が嫌がる案件を押しつけられることが多く、それ故に、見積る受注の殆どで受注できた。
しかし、住友重機械の体質は、プロフェッショナルを望む体質では無かったので、僕は評価されなかった。それが、住友重機械の限界だと言える。これはもう、失敗の本質よりも以前の問題だろう。つまり、住友重機械っておたんこなすです。
更に言うなら、住友重機械の指導者は、仕事のプロフェッショナルではなく、そのため、失敗に学ぶとの精神もなく、実際に失敗から新しいシステムを作るとの能力もなかったと、言うべきだろう。
失敗の本質を把握し、これを克服するシステムを作り上げることが企業なり、組織の発展と維持につながって行くのだ。海外でのプロジェクトノウハウも無い状況に、円高が襲えば、これに対処することなどできる筈もない。住友重機械に残された道は将来の切り捨て以外にはなかった。

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