2021年8月27日金曜日

馬場洋一郎さん 追悼

 8月27日朝、何気なく、「屋久島 馬場洋一郎」と検索した。種子島に帰郷したと聞いていたが、間違って屋久島で検索した。そこで種子島の市報をゲットしたので、各頁を見て行くと、最後のページに、馬場洋一郎 2/28 76歳と出ていた。一浪で京大卒だから僕より一歳上で、間違いなく、住友重機械同期の馬場洋一郎だろう。それほど深い付合いではないが世話になった友人だ。深く哀悼の念を送りたい。
彼とは、独身寮敬天寮での部屋が隣で、職場は同じ運搬機事業部であったが、職場としては運搬機事業部の現場部門を選択していた。僕は入社後直ぐに肝炎となり、大阪の住友病院に入院したので、夏の盛りに新居浜に行くと、運搬機事業部設計課が僕の所属とされていたので、結果として同じ事業部であった。しかし、現場と設計とでは社内で会うことは殆どなく、たまに口を交わす程度であった。が、その会話の中で、彼が工学的にも優れていることが判り、どうも彼には勝てそうにはないなとの気持ちがあった。僕と同期の京大卒は、極めて優秀な連中が揃っていた。産機事業部の大石とか、化工機事業部のXXとか、鋳鍛事業部の細倉とかである。京大卒で天才的気分を発するYYは、やはり、住友重機械の気風に合わないかして、入社後まもなく辞めてしまった。阪大卒は僕ともう一人だけであったので、僕は京大の連中と近しくしていた。といっても、僕が新居浜に居たのは数カ月で、その後は大阪に移動したので、彼等とはそれほど付き合うこともなかった、が、会えば気楽に話し合える仲であった。
新居浜に居た間に、実は、馬場洋一郎には、コリオリの移動系と静止系の力学計算のアドバイスを得たことがあり、恐らく、その計算式は設計部の標準式となっていると思われる。その後は、彼が海外を飛び回っているとの噂は聞いていて、彼の将来には大きな期待がかかっていた。が、イラクの現場でのトラブルで、彼は米国支店に移動してしまった。新居浜の現場と言うか、現場の人間関係が彼には合わなかったのだろう。当時の事業部長は京大卒ではあるが出来が悪く、その関係があるのかもしれない。
極めて優れた能力はあったが、泥臭く泳ぐことが出来ず、会社の気風に合わずに、いつの間にか会社から消えてしまった。退職後、彼が種子島に帰ったことは知っていたのだが、連絡することもなく去って行ってしまったのだ。
ところで、独身寮で2階の隣同士であったが、僕は甲南大学文系出身の富田と言う、親父が住金だとかとの男と一緒で、彼は育ちが良いのかぼんぼんって雰囲気の男であった。富田が不在の時に僕は自分の椅子に座ってマスタベーションしていたら、馬場さんが窓の外からひょいと顔を覗き込んだもので、お互いにばつの悪い思いをした。2階の窓の外に細い保守用の通路が施設されていて、驚かそうと思って覗き込んだのだろう。
こんな僕に取っての恥ずかしい思い出の生き証人も居なくなったってことだろう。ただ、かなり後に、ニューヨーク事務所員として米国での仕事の手助けをしてくれた時には、かような思い出を表に出すことは全くなかったし。

僕らの時代もそうであったが、日本の社会は、できの悪いジェネラリストが上に行く時代で、その結果が今の日本の状態を招いてしまったと思われる。馬場洋一郎さんや、同期のまともな連中が力を発揮できる時代であれば、今の日本の姿は、すこしはまともであったろうと思う。

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