2020年7月2日木曜日

歴史から学ばない日本の指導者体質

衛生軽視した旧日本軍、その体質は今も  疾病の日本史(4)  
ウラジオストクにあった浦潮陸軍病院第五病棟の感染症病室(大正期、しょうけい館蔵)
ウラジオストクにあった浦潮陸軍病院第五病棟の感染症病室(大正期、しょうけい館蔵)

アジア・太平洋戦争を戦った旧日本陸海軍は極端な作戦・戦闘第一主義だった。当時の国力では強大な連合国相手に長期にわたる総力戦を戦えず、短期決戦で臨むしかなかったという背景がある。短期決戦思想からは兵站(へいたん)、情報、そして衛生という概念が抜け落ちやすい。
欧米各国は最初の総力戦となった第1次世界大戦から多くの教訓を得た。戦後の列強が最前線での救護活動と受傷後の初期治療を重視するようになったのが一例だ。典型的なのが輸血で、連合国は戦場まで大量の血液や血液製剤を輸送する態勢を構築した。
日本軍の戦場での初期治療の基本はまず止血してその後、後方の野戦病院に送るというもので、軍事医療の考え方と方法は日露戦争当時のままだった。日本は第1次世界大戦の最前線の実態を目にしていないことが影響している。
連合国は口腔(こうくう)衛生の重要さも理解し、歯科軍医の養成に力を入れた。日本の場合、歯科医将校制度ができるのは1940年で、それも少数だった。

■旧軍はどんな感染症対策をとったのか。


戦前の代表的な感染症は結核で、人が密集して集団生活を送る軍隊は感染の温床だった。厳しい訓練、古参兵からの私的制裁、不十分な食事などが重なって感染する新兵が後を絶たなかった。しかし治療と予防の十分な対策が取られないまま戦争に突入する。
マラリアも旧台北帝国大学などに研究の蓄積があったのに、その成果を生かせなかった。米軍はマラリア原虫を媒介する蚊を撲滅するため、大量の殺虫剤(DDT)を散布して感染拡大を防いだが、日本陸軍がマラリア対策に取り組むのは米軍の反攻作戦が本格化する43年以降のことだ。
戦局の悪化に伴って、日本では体力の劣る者や高齢の者までが召集されるようになり、そんな弱兵が軍隊内で増えていった。加えて制空権と制海権を失い、戦場で不可欠な食糧や物資の輸送が途絶する。

■戦場では病死が戦闘による死者を上回った。


陸軍では徒歩による行軍が基本だった。完全装備での夜間や雨中の行軍は確実に兵士の体力をそぎ落とした。
結果、どうなったか。フィリピン防衛戦の戦没者総計は51万8000人。「大東亜戦争陸軍衛生史」によれば陸軍の場合、「その約35~40%が直接戦闘によるもので、残り約65~60%は病没であるように思われる。しかも、病没者のうち純然たる悪疫によるものはその半数以下で、その他の主体は悪疫を伴う餓死であったと思わざるをえない」という。

吉田裕氏
吉田裕氏


戦争末期の陸軍兵士の過半は、戦闘ではなく疫病と飢えで死んでいた。
敗戦直後、毒ガス戦など戦争犯罪に関与していた陸海軍の軍医たちは大量の資料や記録を焼却した。そのせいで軍事衛生・医学関係の史料はほとんど残されていない。
旧防衛庁の公刊戦史「戦史叢書(そうしよ)」は全102巻に及ぶが、作戦の記述が中心で、衛生・医学を取り上げた独立の巻がない。戦史として異例だ。
新型コロナ感染症対策の専門家会議の議事録がないことが問題になった。今もなお記録を作成し、保管し、公開して将来の検証にさらす覚悟を欠いている。なぜ歴史から学ばないのか。
(一橋大学名誉教授、近現代軍事史)

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