2014年10月10日金曜日

後藤幸敏君の思い出

後藤君は、僕が小学校5年の頃に隣家に引っ越してきた同学年の少年である。
とても善良・素朴な少年で、直ぐに僕とは友達となり、いつも一緒に遊び回る親友となった。
それに後藤君のおかあさんは、とても上品で賢明そうな人で、僕がすぐに友達になっったことを、とても喜んでいたとの記憶も有る。
後藤家が引っ越してくる前に住んでいた宮本さんは、とてもざっくばらんな家庭で、僕達が遊びに行くと、小母ちゃんは赤ちゃんに乳を与えながら、乳房から乳をピユーと飛ばせるのを見せて、僕たちを喜ばせるような人だったので、そんな小母ちゃんに比べて余計に上品に見えたのだと思う。

僕達の住んでいた松原市(当時は松原町)高見の里の住宅は、戦争時の疎開者住宅で、ほぼ正方形に巡る狭い道路の、その外周と内側に密集する住宅地で、周囲は全て田んぼで囲まれていた。勿論、今では、その住宅地は商業地、住宅地のまっただなかにある。
住宅群は、34.574699,135.548276  後藤君の家は 34.574619,135.548093
後藤君の家は、その道路内側の南西の角にあり、僕の家は、その北隣にあった。彼の家の西側には確か谷口さんの家があった。僕の家の北側の家、そこはもう比較的広いと言える道路に接する家で、澤田さんの家であった。つまり、一辺に3軒しか並ぶことのできない狭い住宅群であったが、当時の僕達にはほぼそれが僕達の世界であったわけだ。
ところで、その澤田さんの長男が、後年姉の依頼を受けて僕を痛めつけた悪徳弁護士になっている。

今、この住宅地を見ると極めて狭い住宅地だが、当時、その南側外周には木造2階建てのアパートがあり、そのアパートには多くの家族が住み、住宅地が狭い割には数多くの人が住んでいた。
僕はこの住宅地で生まれ、小学校5年の後半に、今度は僕が引っ越してこの住宅地から去った。実を言うと、その年齢での、つまり、その住宅地での僕の行動の記憶はそれほど明確なものではない。勉強における僕の記憶力は優秀であったのだが、生活に関する記憶力は人並み外れて劣っているのが僕の記憶力の特徴で、それゆえ、僕が後藤君と、具体的にどのように遊んだかの記憶は、驚くほどに全くないのだ。ただ次の記憶だけはまだ鮮明なものとして残っている。つまり僕は、楽しい出来事はすぐに忘れ、つらい思い出だけはずっと覚えている性格なのだ。

僕と後藤君は松原小学校に通っていたのだが、クラスは別で、僕は3組、後藤君は1組であった。
その住宅には同学年としては、後藤君と同クラスの森本君、それに、大阪市内の私立小学校に通う木下清(潔?)君が居たが、木下君は私学に通っているようで、学校が異なる為か、僕と遊ぶことは殆ど無かった。森本君は、どこか性格がひん曲がっていて、後藤君も僕も、それに、木下君も、彼とかかりあうのを出来るだけ避けるようにしていた。
が、その日は、何故か、僕と森本君がべったんで遊び、後藤君は、恐らく親から禁じられているか、学校での禁止令に従順なのか、ふたりの遊ぶのを、熱心に見ながら、あからさまに僕の応援をしていた。
多分、二人の勝負が勝ったり負けたりなのに飽きたのか、森本君が手持ちのかなりの数のべったんを前に押し出して、一発勝負、つまり、一番上のべったんの裏の数値の初桁の数値の大小に全てを掛けよう、と言いだした。こんなところが、僕達の森本君を避ける性格の現れだと思うのだが、何故か、僕は彼の提案を受けて勝負とした。
二人の札を同時に裏返すと、僕が勝ってしまい、後藤君はあからさまにも、ばんざい!と大声で叫んだ。と言うことで、その博打的な行為は僕には喜ばしい結果になったわけだ。

ところが翌日、それも授業中なのに、1組の男子先生の今井先生が扉を開けて、それも、とても怖い顔つきで、僕の名を告げて「あいつを連れていっていいか」と、僕のクラスの女先生、前田幸子先生に聞き、僕を自分の教室に連れていった。
で、1組の生徒たちの前で、「お前はべったんをやっているだろう!」と、ほぼ怒鳴るように聞いたので、「はい」 と答えると、「森本はしていない、と言っているが?どうなんだ」と聞いた。で、「はい、やっていません」と答えた。恐らく僕としては、別に彼を道ずれにする必要はないと考えたのだろうし、それが当然の答え方だとも思う。
事態はただそれだけで終わり、じゃぁ帰っていい、と放免された。
何がどうしたのか頭は混乱状態で、直ぐに終業時間となった。僕のクラスの前田先生からも何の質問もなかったと思うのだが、記憶は直ぐに運動場を校門へと歩いている状況になっている。
と、後藤君がはだしで僕を追いかけてきた。そうして、「森本君が、ぼくと君がべったんをやっていると先生に言いつけたんだ。それで自分はやっていないと言ってるんだ。教室に戻って本当のことを言ってほしい」と僕に訴えた。が、僕は「いやや」と答えて、後藤君の訴えに応えることなく帰路についた、とこれが事の経過であって、事態の細かい推移とか周囲状況とかについての記憶は完全に消えている。
とにかく、森本君は彼のべったんを全て僕に取られ、それゆえに、もうべったんはしていない状況になった、との奇妙だが事実でもある考えに至り、「僕と後藤君がべったんをしている」と、今井先生に訴えたのだ、と想定できた。
森本君って本当に嫌なやつだが、僕だけではなく、べったんをしていない後藤君もその森本君の奇妙な理屈から生じた災難に巻き込まれたことになる。それも、ぼく以上に酷い災難である。ひどい話だ。さらに、僕も後藤君に酷い裏切りをしたことになる。
それにしても通常なら、よその組の生徒を引っ張り出して、全く見知らぬクラス全員の前で詰問するなどと、かような取り調べをするなんて通常ではありえない。もっと慎重に丁寧に事情を調べるのが常識だと思える。

これ以後、後藤君と僕がどのように付合ったか、それとも、後藤君に軽蔑されて付合いをやめたのか、そこのところがもう記憶にはないのだ。何の記憶もないことからすると、つまり先に書いたように、その後が嫌な状況になったのであれば覚えている筈だから、心の広い後藤君は何事もないかのように僕と付合いを続けたのだろう。

この出来事の暫く後で、僕は引っ越して、後藤君とは全く会う機会もなく、それに、この出来事自体を、その後の人生で殆ど思いだすこともなく過ごしてきた。
が、現役を退いてから、時に、思いだすようになった。それと共に、僕が今井先生に目を付けられ、何度か、あまりたいしたことでもないのに怒鳴られた記憶があり、それがために、今井先生が苦手であったとの思いもあり、それ故に、後藤君の必死の頼みを拒絶したのだとも気付いた。

かようなことを思いだしてから更にず~っと後、つまり、出来事そのものからはず~っとず~っと後になり、小学校の1~3年の担任であった石橋先生を訪れる機会があり、いろんな話をしたが、その際に何気もなく、
「どうやら僕は今井先生に目をつけられていた、と言うか、苦手だった記憶があるのですが・・」と言ったことがあった。すると石橋先生は、
「ああ、それね。君が臨海教室に行った時に、君の姉さんも一緒に来たことがある。そこで、今井先生と君の姉さんの間でトラブルがあったんよ。それでやね」と、のたもうたのだ。
そもそも、なぜ姉が僕の臨海教室に一緒に行って、更に、よその教室の先生ともめ事を起こすなんて状況になったのか、全く理解できないが、そのような事情があったのだと、その時初めて知った。
ところで、石橋先生はその時に、今井先生は、その後、校長にまで出世したらしいと言っていた。最近、そのことを思いだしNETで調べると、羽曳野市にて教育功労(瑞宝双光章) 今井 喜三郎 様 なんて出ている。更に、関西大学昭和25年卒なんて出ている。
もし同一人物なら実に腹立たしい事態だ。更に最近になり”住所でポン”なるものを知り、これで調べると、それらしき今井の住所も出るので、今度行って調べてみる。おい!生きていろよ。一言お礼を言いたいもんだ。

それにしても、その人物がもし本人なら、とんでもない奴だ。小学生の姉とトラブルがあり、多分、違う学年の先生に知られるほどのトラブルだったのだろう。それだからって、何も知らない弟とその友人に精神的な傷を与えるほどの仕返しをするなんて許せない。しかも授業時間中に他の組の生徒を呼び出して、自分のクラスの全生徒が見ている前で叱責するなどとは、教育者としてあるまじき行為だろう。そんな男が勲章貰えるって世の中なのだ。それも、教育での教育功労賞だって笑わせる。ブラックユーモアになってしまう。文部省さんちゃんと調べてね。
更に腹立たしいのは、姉への仕返しを僕を通じて行った積りなのだろうが、その苛めを僕が姉どころか家族の誰にも話す筈がない。つまり、姉への仕返しにはならずに、単なる僕への苛めで終わってしまったのだ。実に腹立たしい。そもそも二十代半ばの教育者が、小学校5年の少年を本気で苛めるものなのかね?校長なんて、この程度だって好例だろう。
(2015.4.8頃に、横浜中学校の校長がフィリッピンで、15,000人もの女性を買春したってニュースが流された。気違い沙汰だ)
それに、僕が別の教室の全員の前で叱責されるなんて、それではまるで、校内きっての悪ガキみたいじゃないか。大人しく素朴な僕に、なんて仕打ちなんだよ。

石橋先生と話をした後、一度後藤君に会って、この件での謝罪をしたいと思っていたが、高見の里を訪れた時には、その住宅地には後藤君は住んでいなかった。
先の書いたように、最近知った、”住所でポン”で試すと、さっと電話番号と住所が出てきた。その住所からすると、僕達のいた住宅地からそれほど遠くない場所に住んでいるようであった。
今回大阪に行った機会にと電話をすると、落ち着いた声の奥さんらしき人が出て、後藤君の話、特に、僕達の年齢の話をしていると、初めは疑い深けであったが、何となく信じられるとの気配があった後に、後藤君が20年以上前に亡くなっているとの応答であった。
二十年前か、と落胆しながら電話を切ったものの、彼の母親と同様に、彼の妻らしき女性の、その落ち着いた声音からすると、なんとなく、後藤君はそれなりの人生を送ったように思えた。

それに、僕の姉は、先の回顧録にも書いたように、僕の人生の道筋に、ろくでもない地雷を置き続けた女、で、この件もその一つと思えなくもない。それに、森本君もまた、かなり強烈な地雷を、僕と後藤君の人生に置いたようだ。
ところで、森本君の親は松原小学校ではないが、小学校の先生ってことだったから、下手に抵抗しても無駄だったでしょうね。大人になると、こんなことも見えてくるのです。

石橋先生は、僕が小学校1年生から3年生の先生で、前田幸子先生は4年生から5年生の先生であり、ともに、素敵な先生であった。僕は小学校の先生には恵まれたと言えるだろう。
石橋彰子先生は、その後暫くして亡くなられた。
が、前田幸子先生は、現在もご健在であり、本当に嬉しいことだ。
                    後藤 Y君

森本 H君

                         今井喜三郎って奴


                         前田幸子先生

                          石橋彰子先生










0 件のコメント:

コメントを投稿