2025年9月12日金曜日

ハム人、セム人の宗教について

 前にも記載したが、フエニキア人について詳しく書かれているのはグレン・E・マーコフの著書でフェニキア人なる本である。但し、それには新旧2巻があり、新刊の方はその発行期間の間に資料が増えたのか、実に詳しくなっている。詳しすぎて、旧巻の方が読みやすい。それは別として、その本によると、元々、セム人・ハム人の宗教は多神教であった。しかし、ローマや東洋の多神教とは違い、生贄、それも、幼児や若者を生贄にする厳しいものであったようだ。だが、エジプトの、黄金の仮面で有名なツタンカーメンの父、アクエンアテン(アテン神の使徒)が、力を持ちすぎたアモン教の神官たちを抑えるために、太陽神アテンを唯一の神とするアテン教を始めた。しかし、王の死後、神官が力を取り戻し、王の子を、ツタンクアモン(アモンにそっくりな者)と名前を変えさせた。それが、ツタンカーメンの由来である。それらは紀元前1,400年頃である。その以前の紀元前18世紀頃のヒクソスとしてエジプトに侵入し、その後、エジプト人の反撃で奴隷とされていた、セム人の、特にイスラエル人が、恐らく、団結のための宗教として、太陽神アモンについての知識に触れて、ヤハウエを神とする一神教なるユダヤ教を作った。その一群をモーゼが率いて、カナン地域に戻りユダヤ教を信じるユダヤ人の集団となった。それが、今のイスラエルの地になるわけだ。そして、旧約聖書は、洪水伝説とか、ピラミッドやバビロンの巨大建設物についての伝説を織り込みながら、長い時代に亘り、編纂されていったのだろう。なお、ユダヤ人の国家はイスラエル王国やユダ王国が結成されたのは、紀元前1000年頃で、紀元前700年ごろには、バビロンのアッシリア王により亡んでいる。その際、ユダヤ人は、多くはアッシリアに連れて行かれ、残りは、イエルサレム周辺に住み、時には戻ってきた同胞と共に、エルサレム近郊にユダヤ人の都市国家を形成していた。しかし、紀元後70年頃にローマに滅ぼされ、ユダヤ人の多くが放浪民となった。なお、ローマ統治時代に、キリストがユダヤ教に愛の心を持ち込み、キリスト教が成立したわけだ。その後、シナイ半島のセム系の砂漠の民の中でマホメッドが、ヤハウエを神とするマホメット教を創生する。

なお、ユダヤ人の歴史(鶴見作)が有るらしいので調べてみる。

2025年8月25日月曜日

イスラエル人、アラブ人、パレスチナ人の文字 それに馬鹿げた旧約聖書

 イスラエル、アラブ人、パレスチナ人の文字についても調べてみた。
エジプト(ハム人)の文字は、古代エジプトの有名な聖刻文字(ヒエログリフ)だが、エジプトに捕らえられたか、それとも、自ら移住したのかは不明だが、エジプト人に奴隷のように扱われたパレスチナ、フェニキアを故郷とするセム人のアブラハムの子孫は、エジプト(ハム人)の圧政に耐えかねてモーゼに率いられて故郷へと逃げ出したのだが、その際に、聖刻文字を簡略化した表音文字フェニキア文字を作り出し、これを、フェニキアに広めた。このフェニキア文字を基に、ギリシャ人がアルファベットを作り、セム人のアラブ人がアラビヤ文字を作り、ユダヤ人がユダヤ文字を作ったわけだ。
文字の世界も、いまは殺し合いしている人々は、その文字は兄弟文字をつかっていることになる。
ところで、アラビヤ文字には、母音文字は無いが、それは、他の兄弟文字よりも地理的に近いインドの文字の影響を受けたのかもしれない。なお、インド文字は母音と子音に対する感覚はとても優れていて、それを基に、日本のあいうえお51音の配列が作られている。

旧約聖書を読むと、歴史との対比は興味深いが、その荒唐無稽さにはあきれる。例えば、ヤハウエ(神)は、アブラハムの種族は奴隷も含めて割礼せねばならないと告げる。神とアブラハムは契約することで、神の援助を受けることができるのだが、実に最初の契約が割礼することなのだ。そう言えば、実際にユダヤ教徒は生後8日目で割礼することになっている。
白人って包茎が多そうだが、生まれて8カ月で割礼することも無いだろうと思ってしまう。だが、聖書に書いているからと、ユダヤ教徒は真剣に割礼するわけだ。
アブラハムは、その契約の日に99歳であったが、神との契約通りに割礼したらしい。割礼した陰部が彼らの仲間の証となるらしい。
でもまぁ、実際にローマやギリシャの若い男の裸彫像を見ると、殆どが包茎なんですね。
だから、裸像を見れば、ユダヤ教徒か否かが判るんじゃないでしょうか??
但し、エジプトを含むこの地域では、割礼が成人式の儀式であったらしい。が、その儀式を今も続けていることにユダヤ教の本質を見ることができる。

とにかく、旧約聖書はその時代の変遷を示しながらも、内容は荒唐無稽と言える。日本の古事記よりは興味深いです。

ところで、先日エジプトに移住したセム人が文字を持ち帰ったと書いたが、実は、その前の時代にヒクソスと称される雑多なセム人の集団がエジプトに侵入してエジプト王朝を奪ったのだが、一世紀ほどで追い返された。モーゼがこれらの集団を率いてフェニキアに移動したのだが、この時に文字を持ち帰ったもとになる。つまり、侵略したハム人の国を1世紀に亘り支配したセム人達が、モーゼと称される指導者と共にフェニキアに戻る旅を、その後の旧約聖書の作成者たちが、聖書内に壮大な物語として記述したわけだ。勿論、聖書の中では、エジプトへの侵略と追放としてではなく、偉大な神の啓示として記載されている。
そうではあるが、エジプト、フェニキアとその周辺の壮大な歴史の記述書として旧約聖書は素晴らしい書物なのだ。
なお、繁栄を誇ったエジプトは、次第に衰えた、その後、海の民の集団が北方ギリシャを経由して、ギリシャ、フェニキア、パレスチナ、エジプトを略奪しまわる時代が訪れる。その後に、ギリシャの繁栄が始まる。

















2025年8月24日日曜日

イスラエル人と、パレスチナ人 それに、エジプト人も

 以前に、旧約聖書のことについて最後尾のように投稿している。
その時にも記載したと思うが、イスラエル人とパレスチナ人は、共に同胞であった筈だ。ところが、マホメットが、己をアブラムやキリストと同様に神の使徒として建てたイスラム教を広めたため、それに、そのイスラム教が強力な国家となったため、パレスチナ人それにエジプト人の多くはこれに宗旨替えしたことなどが原因で、現在、両者は激しい憎しみの行動に襲われている。
そこで、もう一度、旧約聖書を読み、両者の違いを調べてみた。結果を、Yahooのドル円掲示板に投書したが、それを添付する。
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ノアの箱舟 ってご存じですよね。地球のあらゆる動物を乗せて洪水をのがれたってあれです。ノアの箱舟に乗れなかった人も動物は洪水で全滅したのですが、この出来事は紀元前の3,000年頃だったかな、とにかく、人類はノアの家族以外は全滅したと、ユダヤ教徒とキリスト教徒と、それに、多分イスラム教徒も信じてるわけです。それがノアの600歳のことで、ノアの妻(名前不明)と3人の子供、セム、ハム、ヤベテと彼らの妻(名前不明)だけが助かったわけで、つまり、人類は全て彼らの子孫ってわけです。ハムはエジプト人、セムはユダヤ人やパレスチナ人、ヤベテはアラビア人の先祖です。って、つまり、ユダヤ人もパレスチナ人も親戚なんです。それにエジプト人も同様に親戚です。でも、パレスチナ人やアラブ人、エジプト人はイスラムに改宗したので、キリスト教徒やユダヤ教徒は、彼らを殺すことをいといません。中世から近代まで、教皇自ら、十字軍を派遣してイスラム教徒を殺せって叫んでいたので、多くのキリスト教徒は今でもそう考えています。でもイスラム教も、キリスト教も、ユダヤ教と、同じ神、ヤハウエを信じています。
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旧約聖書についての投稿は下記です。

かって、八千代市図書館でかりて読んだ「旧約聖書」時代の本を、とても興味深く、また、同時に読んだ「フェニキア人」はその時代を彩った民族の歴史で、共に素晴らしい本だった。さて読み返そうと探したが、フェニキア人は、僕の読んだ旧版は無くなっていて、新版はあまり面白くなかった。そこで、旧版はメルカリで安く購入した。他方、旧約聖書の時代の本は、表題も忘れたので、図書館で探し出せなかった。ところがたまたま、「世界の名著」シリーズとの名を新聞で見かけ、その内の一冊ではないかと気づいて調べたら、世界の芽衣著第12巻に、聖書(旧約聖書:中沢洽樹 /新約聖書 前田護郎)があり、これを借りて調べると、この旧約聖書分が面白かったのだ。早速借りて、内容を見たが、その最初に、前田護郎が「聖書の思想と歴史」を記載していて、この部分が特に歴史的見地から面白く有用であった。 しかし、今回読み返そうとして、前田護郎さんの「聖書との出会い 」には痛く感動した。本当にかような人が居るのだろうか、おおぼらを吹いているのでは、と思うほどに衝撃的な人生であったようだ。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%AD%B7%E9%83%8E 

たた、この本で最も興味深いのは、前田護郎が、聖書との出会いの後に記載している「聖書を読む意味」以降の聖書の歴史と紹介であった。 その後の本文は、昔読んで、聖書の神はとても執念深くて恐ろしいな、との印象で、今回は読まなかった。キリストが現れて、さような恐ろしい宗教に愛を持ち込んだのだが、彼の後のキリスト教徒達が、再び、キリスト教を恐ろしいものに変えたのだ。 ただ、前田さんは、本来のキリストの愛を追及したのだろう。でも、現代の欧米の宗教については、極めて善意的な見方をしていると思った。





2025年8月22日金曜日

東東京信用金庫で

 僕が今の家に引っ越して、それはもう40年も前だが、女房が、東京信用金庫に僕と女房自身の口座を作った。僕の口座は地元の生協の支払い用で、女房のは自分の積立貯金用である。女房はやはり地元を大事にしたいと思ったのだろう。女房の口座は、その後、女房自身の年金用口座でもあり、積立金と合わせてまあまあの金額になっている。ただ、共に女房がNET用ダイレクト口座を嫌がるので、信用金庫窓口での入出金となっていて、地方銀行らしく毎月担当者が我が家を訪れて金を預かり入金してくれていた。が、ある時点から、女房との散歩途上で窓口を訪れて入出金するように変更した。僕は、人の手を介しての入出金が、本来厭なのである。
女房の認知症が進み、最近はそれらの口座を僕が管理しているが、特に、生協支払い用口座も、女房の積立口座も、毎月の入金が面倒になってきた。そこで昨日、ダイレクト口座にしようと窓口で申し込みしようとした。すると、副支店長が出てきて、高齢者にはダイレクト口座は、原則断ることになっている、と言う。恐らく年寄りが騙されることを憂いてのことかと、そのようなことではなく、いちいち窓口を訪れることが大変になってきた、そもそも、他銀行での口座は全てダイレクトだと言うと、その証拠を見せてほしいと言うので、他銀行のパスワード用を表にしているのを見せた。副支店長は、本店の承認が必要なので、承認が得られれば電話する、とのことで、その場は引き上げた。
今日朝になり、電話は無かったが、恐らく、時間を置いたから大丈夫だろうと、再度、支店を 訪れた。が、本店の承認は明日になると、やはり拒否された。「でも、結局拒否されたら、信用金庫のお金を全部他銀行の口座に移すことになりますよ」と言うと、何と、それは仕方が無いですねとの答えだ。
何だ、僕の女房の口座の金額なら、顧客から外れても特に問題じゃないのか、それなら、信用金庫に遠慮することなく、女房の金をもっと機動的に運用すべきだった、と思った。それにしても、長い期間の顧客に冷たいものだ、とも思った。大手の銀行では銀行担当者は次々と変わるのが当然で、地方信用金庫はもっと顧客に密接だと思っていたのだが、そうでも無いらしいと気づいた。
僕の経験からすると、結局、信託銀行が最も顧客に親密なようだ。
それはともかく、ダイレクト口座に出来るかどうかは来週らしいが、そもそも、ダイレクトと、詐欺との関連性が余りみえないなぁ、とも思う。

2025年8月21日木曜日

昼間は暑いが、夜は問題なく眠れる

例年は、昼間が暑いとクーラーの無い2階の和室寝室では、夜は湿気が多くて眠れず、扇風機を持ち上がってきたものだが、今年は、昼はこの上なく暑いのに、夜は問題なく眠れる。 勿論、窓は開けっぱなしだが、これは例年と同じだ。
つまり、夜は例年に比べて湿気が少ないのだと思う 。だから、夜中の3時頃になると、肌寒くなり目覚めて窓を閉めるありさまだ。
かって、屋根瓦に遮熱塗料を塗ったが、その効果もあるのではないかと思う。更に、庭に植えた多すぎる木々の好影響が関与しているのではないかと思う。だから、剪定に苦労するのだが、なんとなく報われた気分だ。
最近の家は、完全なる断熱仕様で、庭には庭木を植えず砂利を敷いている。自分の家の屋内だけが良ければ良いって設計になっていて、自分の家の熱を外部に放出するだけって考え方だ。それに比べて我が家は、周囲の環境も考慮した方式になっている。
なんとなく、誇らしい気持ちだ

2025年8月20日水曜日

2025年8月14日木曜日

京都東山トレイル 銀閣寺から比叡山

 

前回は、大文字から銀閣寺に降りる積りが、霊鑑寺に降りてしまった。でも、まぁ、余りs差は無いので、今回はその続きを行くことにした。<br /><br />枚方公園を朝5時26分の電車に乗り、出町柳で降りて歩き始め、6時半には、銀閣寺口浄土寺橋から京都トレイルに入った。そのままトレイル標識に従って歩き、途中瓜生山周辺で道を誤り一回りして30分程を浪費して、10時半には比叡山山頂下の展望台に着いた。やはり、東山では最も登りがきつい道だが、余り苦しむことなく、登り詰めることができた。なお比叡山は高度900mにちょっと足らず、山近くではかなりの急坂が続く。比叡山山頂と言っても、有料公園みたいなのがあるだけで、明確な山頂がなくて戸惑った。山頂公園の前に大きな駐車場があり、中国人観光客が大勢いた。展望台に戻り、坂本ケーブル乗場に行こうとしたが、比叡山東塔の料金所があり引き返した。比叡山の見どころが判らないまま展望台に戻ったが、ベンチは登山者に占められていたので、ケーブル比叡の前まで戻りベンチでタッパ弁当を戴き、幸せを満喫した。11時半であった。<br /><br />なお、比叡山の観光中心は延暦寺で、東塔で入場料を支払って入って行かねばならないようだ。入場料は最低700円となっている。<br /><br />比叡山からの展望は、当日は曇りで余りよくなかった。再度、好天日に挑戦する。<br /><br />帰路は、ケーブル比叡の展望台から銀閣寺に戻る積りで、南に向かった積りが、道は西にぐるっと回りこみ、急坂が延々と続き、途中で、瓜生山への標識も見たが、そのまま降りて行くと修学院に出てしまった。後で地図を確認すると、僕の下った道は、瓜生山の標識までは登りと同じ道を下っていたのだ。だから瓜生山への標識でその方向に向かえば、同じ道を帰れたわけだ。また、ケーブル比叡の展望台から階段で向かう道も、僕の下った道が西に回り込んだ時点で同じ道になっていたようだ。いずれにしても、ケーブル比叡のルートに沿う下り道は無いようだ。それはともかく、行動中に、持参した地図を磁石を使いながらもっと確認する習性を持たねばならないようだ。その点ではいつも失敗する。また、急坂の下りだと杖が必須だと悟った。次回は杖も持参しよう。<br /><br />修学院に出てしまったので、出町柳迄210円の余分な出費を要した。本日は結局1,100円程度を要した。

京都東山トレイル 銀閣寺から比叡山


2019/06/02 - 2019/06/02
スマホは下記です。

https://4travel.jp/travelogue/11501365
前回は、大文字から銀閣寺に降りる積りが、霊鑑寺に降りてしまった。でも、まぁ、余りs差は無いので、今回はその続きを行くことにした。

枚方公園を朝5時26分の電車に乗り、出町柳で降りて歩き始め、6時半には、銀閣寺口浄土寺橋から京都トレイルに入った。そのままトレイル標識に従って歩き、途中瓜生山周辺で道を誤り一回りして30分程を浪費して、10時半には比叡山山頂下の展望台に着いた。やはり、東山では最も登りがきつい道だが、余り苦しむことなく、登り詰めることができた。なお比叡山は高度900mにちょっと足らず、山近くではかなりの急坂が続く。比叡山山頂と言っても、有料公園みたいなのがあるだけで、明確な山頂がなくて戸惑った。山頂公園の前に大きな駐車場があり、中国人観光客が大勢いた。展望台に戻り、坂本ケーブル乗場に行こうとしたが、比叡山東塔の料金所があり引き返した。比叡山の見どころが判らないまま展望台に戻ったが、ベンチは登山者に占められていたので、ケーブル比叡の前まで戻りベンチでタッパ弁当を戴き、幸せを満喫した。11時半であった。

なお、比叡山の観光中心は延暦寺で、東塔で入場料を支払って入って行かねばならないようだ。入場料は最低700円となっている。

比叡山からの展望は、当日は曇りで余りよくなかった。再度、好天日に挑戦する。

帰路は、ケーブル比叡の展望台から銀閣寺に戻る積りで、南に向かった積りが、道は西にぐるっと回りこみ、急坂が延々と続き、途中で、瓜生山への標識も見たが、そのまま降りて行くと修学院に出てしまった。後で地図を確認すると、僕の下った道は、瓜生山の標識までは登りと同じ道を下っていたのだ。だから瓜生山への標識でその方向に向かえば、同じ道を帰れたわけだ。また、ケーブル比叡の展望台から階段で向かう道も、僕の下った道が西に回り込んだ時点で同じ道になっていたようだ。いずれにしても、ケーブル比叡のルートに沿う下り道は無いようだ。それはともかく、行動中に、持参した地図を磁石を使いながらもっと確認する習性を持たねばならないようだ。その点ではいつも失敗する。また、急坂の下りだと杖が必須だと悟った。次回は杖も持参しよう。

修学院に出てしまったので、出町柳迄210円の余分な出費を要した。本日は結局1,100円程度を要した。

  • 枚方公園駅5時26分出発

    枚方公園駅5時26分出発

  • 浄土寺橋遠景 トレイル表示板が見える

    浄土寺橋遠景 トレイル表示板が見える

  • 浄土寺橋は琵琶湖疎水北方向ラインに掛けられている

    浄土寺橋は琵琶湖疎水北方向ラインに掛けられている

  • なかなか雰囲気は良い

    なかなか雰囲気は良い
    下は京都北山方向パノラマ

  • 途はん途上 北山方面のパノラマ

  • 宝が池遠景

    宝が池遠景

  • 石鳥居

    石鳥居

  • 北山焼却施設

    北山焼却施設

  • スキー場から比良方面

    スキー場から比良方面

  • 比叡頂上公園前から琵琶湖側展望

    比叡頂上公園前から琵琶湖側展望

  • 琵琶湖がうっすらと

    琵琶湖がうっすらと

  • パノラマ板

    パノラマ板

  • 比叡ケーブル駅から

    比叡ケーブル駅から

  • 叡山鉄道列車

    叡山鉄道列車

  • 叡山鉄道 出町柳行き列車到着

    叡山鉄道 出町柳行き列車到着

おおさか環状自然歩道 北コースを行く (津田駅、国見山、交野山、くろんど、星田園地)

 

参考資料<br />http://www.pref.osaka.lg.jp/chubunm/chubu_nm/ryokuti3.html<br />https://kaze-local-nature.blog.so-net.ne.jp/2012-12-28-2<br />今のところ、大阪府淀川以北の摂津方面へ足を延ばす気はないので、生駒北部の津田からのルートに挑戦した。<br />枚方公園駅から学園都市線津田駅までは、京阪で枚方市駅まで行き、そこから、京阪私市線で河内森まで行き、学研都市線の津田駅まで乗るルートだが、乗り換える度に金が掛かる。これはまずいと調べると、枚方市駅から津田駅までのバスあると判った。つまり、通常ルートであれば、500円以上掛かるが、枚方公園から枚方市まで、15分を歩けば、250円程度で済む。そこで、バスの時間を調べると、枚方市バス停1番乗場から6時22分が始発である。朝4時30分に起きて、例の如く、作り置きのカレーライスと、別に、キャベツ千切り、豆腐、トマトにレモン汁をかけたのをサラダとしてタッパに入れて、バナナ2本も追加してショルダーに入れて背負い、枚方市駅まで歩いた。30分で行ける距離だ。<br />早朝のバスでしかもラッシュと逆方向だからと停留所の椅子に座っていたら、長い列ができてきたので、急いで列に並んだ。早朝のバスでしかもラッシュと逆方向なのにラッシュ並みの混み方は驚いた。バスは定刻に発車したが、そのルートは307号、つまり、いつもBookoffとdaisoの大型店へ行く道で、とっつきの急坂を苦労して自転車で走る道であった。おそらく、先日、棚田で有名な穂谷へ行くのと同じルート307号を行くのだろう、と思っていたら、Bookoffの手前、中宮小学校手前で、本道から右にずれる細い道に入って行ったので驚いた。本当に津田行きに乗ったのだろうかと電光表示板を見ると、確かに、行く先として津田駅経由と表示されている。別に本道を行くバスが別にあったのではないかと心配したが、6時45分には津田駅に着いた。後で調べたら、この道は307号と見事に並行している。恐らく旧道なのであろう。なお、二つの道は共に津田駅から奈良側に離れた位置で交差していて、旧道が学研都市線と交差する位置は、津田駅から1km程度北側、つまり、奈良側になっているので、バスは交差点から右側、つまり大阪側に向かうことになる。また、307号を先に進み、一山超えれば、もうそこは京田辺市となっている。更に奈良には山もなく真っすぐに行けることになる。奈良への旅には重要な情報だ。かように知らない道筋を知るのも面白いものだ。<br />津田駅北口から南の山側に行かねばならないが、駅建物の直ぐ奈良側にガード下を行くルートがあるが、旅の記録の人はそこから行っている。メルカリで送料込み300円で手に入れた「26 大阪府の山 2010版」では、線路に沿って100m程度奈良側に線路踏切があるらしいので、これに従った。記載地図通りに行くと、惜しくも、第二京阪の所で、行き詰まりとなった。登山口はこちら、と適当な看板があり、大阪側に行くと、そこで、第二京阪道路の下を通る道があり、向こうに渡り、そこを再び道路に沿って奈良側に歩いた。細い渓谷を越えて行くと、直ぐに登山口の表示があり、漸く登山道に取り付けた。古い版本も、上記旅の記録も、第二京阪道路が改造される以前の記録であったと推察された。<br />そこからは、仁丹の巨大な工場(ここには、第二京阪ができる前から、ツダサイエンスヒルズなる工業団地があったようだ)の横を通り、なかなか面白い道が、国見山山頂284m経由、交野山山頂341mと、ともに低山なのだが、共に、とても展望は素晴らしかった。国見山からは空気が澄んでいれば、南方の阿倍野ハルカスまで見えるらしい。交野山はどちらかと言えば、北摂側の展望が素晴らしい。<br />交野山からくろんど園地への道が開発と昨年の台風でかなりコースが乱れて混乱していた。交野山から、南の三宝荒神側に降りて行くと、鳥居道と荒れた道の分かれ道に来るが、ここは右側の荒れ道が正解で、鳥居道に行くとゴルフ場になる。荒れ道を行くと広い舗装道だが、これに沿ってずっと左に行く。途中に山道表示もあるが、通行止めとも記載されている。だからかなりの距離を舗装道に沿ってゆくと、右側にきれいに整備された農村が現れる。ここで、漸く山道に入り登ってゆくと、くろんど園地入り口に至る。実は、先に記載の山道表示で通行止めとの記載に気づかず、急な勾配を登って行き、恐らく40分程度を損失して、しかも、便意を感じたので野糞も遣り掛けたが、思い直して糞はやめて、後戻りして漸くくろんど園地に到達した。<br />なお、後になり交野市地図で調べると、僕が誤ったと後戻りした山道は、まさしくくろんど園地に行く道であった。が、その先で更に荒れているのかもしれない。その道が谷に降りて行くので誤ったと思ったのだが、後戻りしてたどった道は、くろんど池の谷の山一つ東側だから、結局は美しい農村からは山越えして、僕が降りようとした谷に降りて行ったわけだ。次回は、後戻りした道を探検したいものだ。<br />くろんど園地と称されるのだから、くろんど池が、その中央に位置すると思っていたが、おおさか縦走路は、くろんど池の西端をかすめて進んでゆく。以前に登った私市ルートを降りて行き、くろんど園地休憩所に至り、バナナ2本を食べてから、泡洗浄機付きのトイレに入った。日本式のうんこスタイルトイレで足は痺れるが、なかなか清潔で、前回くろんど池経由で、高山町の知人を訪れた時と同様に、気分良くウンチをできた。気分良いうんちの後は行動力が増すのだが、ここから、道は初めての、私市C/C経由の道に入った。はじめはC/Cの柵に沿った道だが、そのうち、C/Cへのアクセス道路をそのまま南下する。途中でカートに乗った老齢男女に聞くと、星のブランコのある所はこの道だよと教えてくれた。同じ年齢か、僕より若いかの男女グループが、カートに乗り、清潔でカラフルなゴルフスタイルで人生を送るのと、汗だらけの山歩きスタイルでの人生の過ごし方にえらい差があるものだと、ちょっと気分が落ち込んだが、僕にはゴルフスタイル人生が面白いとは思えないだろうと納得した。<br />広いアクセス道路が延々と続き、この道は、公共費で作られたのだろうか、等と考えたりしたが。道は、168号線に突き当たる。なんと、そこは天野川の源流で、道路に沿って川のトンネルも南へと続いている。道路を越えて、難しい漢字の”いかるが橋”(ここにバスの停留所があるから、環状自然歩道を生駒側に続けたいときにはバスで来れるだろうと考えた)を越えるとゲートがあり、実に、胸突く急こう配の道が星田園地へと続いている。ただ少しのぼったところで、おおさか縦走路は、南へと分岐している。が僕はここから園地側に向かい今回の旅を終わることにした。星のブランコに至る前の休憩所で、手作りの昼食を食べたが実に美味であった。人間が本当に美味だと感じるのは、高級な食事であるよりは、食するものが何であれ、おなかが本当に空いているいることが重要なのだと思った。さて、哲学的思索の後に再出発して、星のブランコに至る前に、展望台に上ったが、ここの展望は、展望範囲は限られるものの、素晴らしいものであった。しかも、星のブランコを遥か下に眺める位置にある。そこから星のブランコへと降りて、星のブランコの構造を面白く楽しんだ。構造物の巨大さは、過去に僕が設計・建築したものには遥かに及ばないが、揺れを防ぐ構造とか、特に、これだけの物をこの谷に渡した工事方法に興味を感じた。<br />来た道を戻ると、学研都市線星田駅及び京阪線河内森に至る表示があり、ちょっと登り、その後はなだらかで気持ちの良い下り道で、妙見山に登るのを忘れて、妙見川に沿って下り、168号を越えて、そのまま、古い街並みを通り、河内森の駅に着いた(14:00)。往復合わせて500円程度の実に充実した探検であった。<br />ところで、交野市と言えば、昔は、片町線と称された田舎路線の田舎町であったのだが、今では、鉄道名は研究都市線と称され、沿線の町々は枚方に優る住宅地帯となっていて、新しい家々が並んでいる。それゆえに、枚方からの津田駅へのバスは混んでいたのだろう。河内森駅近くの古い町並みは昔の街並みなのであろう。枚方の狭い平野部と古い街に比較して、広々とした田園地帯はある時期から新しい住宅地として開発されたと思われる。田園都市線を馬鹿には出来ないと知った旅でもあった。

おおさか環状自然歩道 北コースを行く (津田駅、国見山、交野山、くろんど、星田園地)

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2019/05/27 - 2019/05/27


参考資料
http://www.pref.osaka.lg.jp/chubunm/chubu_nm/ryokuti3.html
https://kaze-local-nature.blog.so-net.ne.jp/2012-12-28-2
今のところ、大阪府淀川以北の摂津方面へ足を延ばす気はないので、生駒北部の津田からのルートに挑戦した。
枚方公園駅から学園都市線津田駅までは、京阪で枚方市駅まで行き、そこから、京阪私市線で河内森まで行き、学研都市線の津田駅まで乗るルートだが、乗り換える度に金が掛かる。これはまずいと調べると、枚方市駅から津田駅までのバスあると判った。つまり、通常ルートであれば、500円以上掛かるが、枚方公園から枚方市まで、15分を歩けば、250円程度で済む。そこで、バスの時間を調べると、枚方市バス停1番乗場から6時22分が始発である。朝4時30分に起きて、例の如く、作り置きのカレーライスと、別に、キャベツ千切り、豆腐、トマトにレモン汁をかけたのをサラダとしてタッパに入れて、バナナ2本も追加してショルダーに入れて背負い、枚方市駅まで歩いた。30分で行ける距離だ。
早朝のバスでしかもラッシュと逆方向だからと停留所の椅子に座っていたら、長い列ができてきたので、急いで列に並んだ。早朝のバスでしかもラッシュと逆方向なのにラッシュ並みの混み方は驚いた。バスは定刻に発車したが、そのルートは307号、つまり、いつもBookoffとdaisoの大型店へ行く道で、とっつきの急坂を苦労して自転車で走る道であった。おそらく、先日、棚田で有名な穂谷へ行くのと同じルート307号を行くのだろう、と思っていたら、Bookoffの手前、中宮小学校手前で、本道から右にずれる細い道に入って行ったので驚いた。本当に津田行きに乗ったのだろうかと電光表示板を見ると、確かに、行く先として津田駅経由と表示されている。別に本道を行くバスが別にあったのではないかと心配したが、6時45分には津田駅に着いた。後で調べたら、この道は307号と見事に並行している。恐らく旧道なのであろう。なお、二つの道は共に津田駅から奈良側に離れた位置で交差していて、旧道が学研都市線と交差する位置は、津田駅から1km程度北側、つまり、奈良側になっているので、バスは交差点から右側、つまり大阪側に向かうことになる。また、307号を先に進み、一山超えれば、もうそこは京田辺市となっている。更に奈良には山もなく真っすぐに行けることになる。奈良への旅には重要な情報だ。かように知らない道筋を知るのも面白いものだ。
津田駅北口から南の山側に行かねばならないが、駅建物の直ぐ奈良側にガード下を行くルートがあるが、旅の記録の人はそこから行っている。メルカリで送料込み300円で手に入れた「26 大阪府の山 2010版」では、線路に沿って100m程度奈良側に線路踏切があるらしいので、これに従った。記載地図通りに行くと、惜しくも、第二京阪の所で、行き詰まりとなった。登山口はこちら、と適当な看板があり、大阪側に行くと、そこで、第二京阪道路の下を通る道があり、向こうに渡り、そこを再び道路に沿って奈良側に歩いた。細い渓谷を越えて行くと、直ぐに登山口の表示があり、漸く登山道に取り付けた。古い版本も、上記旅の記録も、第二京阪道路が改造される以前の記録であったと推察された。
そこからは、仁丹の巨大な工場(ここには、第二京阪ができる前から、ツダサイエンスヒルズなる工業団地があったようだ)の横を通り、なかなか面白い道が、国見山山頂284m経由、交野山山頂341mと、ともに低山なのだが、共に、とても展望は素晴らしかった。国見山からは空気が澄んでいれば、南方の阿倍野ハルカスまで見えるらしい。交野山はどちらかと言えば、北摂側の展望が素晴らしい。
交野山からくろんど園地への道が開発と昨年の台風でかなりコースが乱れて混乱していた。交野山から、南の三宝荒神側に降りて行くと、鳥居道と荒れた道の分かれ道に来るが、ここは右側の荒れ道が正解で、鳥居道に行くとゴルフ場になる。荒れ道を行くと広い舗装道だが、これに沿ってずっと左に行く。途中に山道表示もあるが、通行止めとも記載されている。だからかなりの距離を舗装道に沿ってゆくと、右側にきれいに整備された農村が現れる。ここで、漸く山道に入り登ってゆくと、くろんど園地入り口に至る。実は、先に記載の山道表示で通行止めとの記載に気づかず、急な勾配を登って行き、恐らく40分程度を損失して、しかも、便意を感じたので野糞も遣り掛けたが、思い直して糞はやめて、後戻りして漸くくろんど園地に到達した。
なお、後になり交野市地図で調べると、僕が誤ったと後戻りした山道は、まさしくくろんど園地に行く道であった。が、その先で更に荒れているのかもしれない。その道が谷に降りて行くので誤ったと思ったのだが、後戻りしてたどった道は、くろんど池の谷の山一つ東側だから、結局は美しい農村からは山越えして、僕が降りようとした谷に降りて行ったわけだ。次回は、後戻りした道を探検したいものだ。
くろんど園地と称されるのだから、くろんど池が、その中央に位置すると思っていたが、おおさか縦走路は、くろんど池の西端をかすめて進んでゆく。以前に登った私市ルートを降りて行き、くろんど園地休憩所に至り、バナナ2本を食べてから、泡洗浄機付きのトイレに入った。日本式のうんこスタイルトイレで足は痺れるが、なかなか清潔で、前回くろんど池経由で、高山町の知人を訪れた時と同様に、気分良くウンチをできた。気分良いうんちの後は行動力が増すのだが、ここから、道は初めての、私市C/C経由の道に入った。はじめはC/Cの柵に沿った道だが、そのうち、C/Cへのアクセス道路をそのまま南下する。途中でカートに乗った老齢男女に聞くと、星のブランコのある所はこの道だよと教えてくれた。同じ年齢か、僕より若いかの男女グループが、カートに乗り、清潔でカラフルなゴルフスタイルで人生を送るのと、汗だらけの山歩きスタイルでの人生の過ごし方にえらい差があるものだと、ちょっと気分が落ち込んだが、僕にはゴルフスタイル人生が面白いとは思えないだろうと納得した。
広いアクセス道路が延々と続き、この道は、公共費で作られたのだろうか、等と考えたりしたが。道は、168号線に突き当たる。なんと、そこは天野川の源流で、道路に沿って川のトンネルも南へと続いている。道路を越えて、難しい漢字の”いかるが橋”(ここにバスの停留所があるから、環状自然歩道を生駒側に続けたいときにはバスで来れるだろうと考えた)を越えるとゲートがあり、実に、胸突く急こう配の道が星田園地へと続いている。ただ少しのぼったところで、おおさか縦走路は、南へと分岐している。が僕はここから園地側に向かい今回の旅を終わることにした。星のブランコに至る前の休憩所で、手作りの昼食を食べたが実に美味であった。人間が本当に美味だと感じるのは、高級な食事であるよりは、食するものが何であれ、おなかが本当に空いているいることが重要なのだと思った。さて、哲学的思索の後に再出発して、星のブランコに至る前に、展望台に上ったが、ここの展望は、展望範囲は限られるものの、素晴らしいものであった。しかも、星のブランコを遥か下に眺める位置にある。そこから星のブランコへと降りて、星のブランコの構造を面白く楽しんだ。構造物の巨大さは、過去に僕が設計・建築したものには遥かに及ばないが、揺れを防ぐ構造とか、特に、これだけの物をこの谷に渡した工事方法に興味を感じた。
来た道を戻ると、学研都市線星田駅及び京阪線河内森に至る表示があり、ちょっと登り、その後はなだらかで気持ちの良い下り道で、妙見山に登るのを忘れて、妙見川に沿って下り、168号を越えて、そのまま、古い街並みを通り、河内森の駅に着いた(14:00)。往復合わせて500円程度の実に充実した探検であった。
ところで、交野市と言えば、昔は、片町線と称された田舎路線の田舎町であったのだが、今では、鉄道名は研究都市線と称され、沿線の町々は枚方に優る住宅地帯となっていて、新しい家々が並んでいる。それゆえに、枚方からの津田駅へのバスは混んでいたのだろう。河内森駅近くの古い町並みは昔の街並みなのであろう。枚方の狭い平野部と古い街に比較して、広々とした田園地帯はある時期から新しい住宅地として開発されたと思われる。田園都市線を馬鹿には出来ないと知った旅でもあった。

旅行の満足度
 
 5.0
 
観光
 
5.0
 
交通
 
5.0
同行者
 
一人旅
 
一人あたり費用
 
1万円未満
 
交通手段
 
私鉄 徒歩
 
旅行の手配内容
 
個別手配