工場専用バスがサイトに着いたが、そこは、工場建設事務部門の本部前で、僕ら用にジープが用意されていて、荷物を含めて乗り換えると、ジープは居住区の単身者用宿舎に連れて行き、私物を各部屋に運び終わると、再び事務所に戻り、サイトの首脳陣と打ち合わせとなった。が、数人の首脳陣と話し合うにも全く英語が理解できず、ただ相手の口元を眺めるだけであった。英語が堪能なはずの、電気の勉強も兼ねての機械検査員も、ほぼ理解できないようで、要するに話が通じないまま会議は終わり、現場の10人程度が入る据付指導員(エレクションスーパーバーザー)部屋に案内された。ただ、プロジェクトまとめ会社のFW(フォスターウイラー)の指導員は、それぞれの指導員小屋で、彼らの現地人部下と一緒に入っていて、我々の小屋は、下請けからの指導員ばかりであった。
言葉が全く通じないことでスーパーバイザー(SV)契約書に書いているディスクォリファイの項目通りだと恐れていたが、FWは心の広い会社で、彼らの直属SV,つまり我々がアドバイスすべき直属SVの中で、搬送設備を担当する、据付SVがやってきて現場案内をしてくれた。ただ、案内の仕方は、設備を収納する平屋建てのまだ屋根や外装をしていない鉄骨上に梯子で登り、そこから、梁の上を歩いて行き、地上の状態をあれこれ説明するので、我が方の仕上師や検査員はついてゆけるのだが、単なる設計者の僕は足を踏み外せば確実に死ぬだろうとびくびくしながら、何とか付いて行った。それで試験は終わったのか、ディスクォリファイの話は全く無かった。その据付師はキャノンさんといい、それからは何故か僕達日本人には本当に力強い味方となった。と、言うか、我々に不親切な人間はその現場には全く居なかった と言うのが正解だろう。また、仕上師のアトキンスさんや電気師のヒルさんも我々と仕事の関係が多く彼等もまた我々に親切であった。
これら、据付に従事する連中の上に、各エリヤ毎にスーパーインテンデントと称されるSVが居て、SV全員及び補助技術部門をまとめるのがチーフエンジニアのMr.Jordanで、僕は殆どのことを、このMr.Jordanに相談したが、いつも真剣に応対してくれた。それだけに、当方への依頼は、このMr.Jordanからなされた。このMr.Jordan と国連から派遣され現場の工事状況を検査するために派遣されていた検査会社のMr.Necorousが主に僕の交渉相手であり、Nicorousは奥さんが沖縄出身の日本人であり、特に我々に親切であった。
2023年4月30日日曜日
アシュガンジ肥料設備 それから
2022年12月30日金曜日
アシュガンジ駅、それから
https://www.google.com/maps/place/Ashuganj+Railway+Station/@24.0381404,90.9994859,16z/data=!4m14!1m6!3m5!1s0x5f8a1637d684b605:0x7b9bfc75d4951fc1!2z6YCi6ZqI6aeF!8m2!3d38.067236!4d140.8547825!3m6!1s0x37541b8cbb6af1ed:0x8aab56a640983209!8m2!3d24.0381519!4d91.0016386!15sChFBc2h1Z2FuaumnheWRqOi-upIBDXRyYWluX3N0YXRpb27gAQA!16s%2Fg%2F1tgxrx2x
アシュガンジ駅は、ダッカ駅から 北上し南下する巨大なメグナ河を西から東に渡河したところにあり、着くと北側つまり左側に降りる単一ホームである。僕の子供の頃の近鉄南大阪線でも最も貧相な二上山駅とか当麻寺駅よりもさびれた駅で、改札もなく、左側へと階段で降りて、そこから線路に沿って前方に行き、線路の下のトンネルを抜けて、まっすぐ南に1kmも行けば、メグナ河の岸に埋め立てた敷地に建つ肥料工場がある。ダッカ早朝発の列車に合わせて、木炭バスのような古いバスが肥料工場のスタッフを乗せて工場まで運ぶのだ。
自分たちで列車から大量の段ボールを下ろすと、わ~っとクーリーが集まって、命じもしないのに階段を下ろしてバスに積み込んだ。何名かの白人男女がバスに乗って待っている前で、僕は値段交渉を始めた。連中は足元を見て要求するのだろうと、実際にいくらが妥当なのか判らないが、とにかく値切ろうと汗をかきながら交渉を続けたが、なかなか切りがつかず、結局はほぼ連中の言いなりに支払ってしまった。その間、仕上師と検査員はじっと見ているだけで、バスの窓からは立派な顔つきをした西洋人男女もあきれたような顔で見下ろしていた。そもそも、1円が6タカ程度だったと記憶するが、いくらが妥当か判らないのだから、交渉の仕様も無いのだが、公費を使うのだから、やるだけは遣ったと言うことだ。
なんとか支払いを終えてバスに乗り、疲れてぼさっと窓の外を見ていると、バスは、線路と同様に両側の土を嵩上げした堤防のような道を河に沿って南に進み、あっと言う間にフェンスに囲まれたエリアに入り、そこが終点だった。とにかく荷物を下ろしたら、ユニホーム姿の白人がジープが現れて乗れという。自己紹介するまでもなく、車を発車するところを見ると、我々のことは住商から連絡があったようだ。とにかく喋れないのだから任せる以外に道はない。
ジープは居住区に入ったようで、あるアパートメントの前に止まり、荷物を下ろすと、白人は、ここが宿舎だ、1時間後に迎えに来るという。その程度はなんとか理解できた。
数人の現地ボーイが現れて、我々をそれぞれの個室に案内して段ボールやサムソナイトも運んでくれた。宿舎地区は河岸に南に沿う方向で、工場敷地の南側にあり、両敷地間はバスで工場敷地のフェンスの外の道路で繋がているのだ。宿舎地区の建物は、立派で、もうまるで、日本の新築団地のようなもので、ただコンクリート造りではあるが、レンガで外装されていて、日本の建設現場のような殺伐なものではなく、緑の木々に囲まれた静かな住宅地であった。ボーイがバス乗り場を教えて、朝6時それに、午後1時に乗るようにと教えてくれた。ボーイは朝昼晩の食事は前のレストランで食べるようにとも教えてくれた。つまり、現場には朝6時のバスで行き、昼には帰って昼食を取り、1時のバスで現場に行き、5時のバスで宿舎に戻るとのことであった。つまり昼食時間を除いて10時間労働ってことらしい。
後から宿舎周辺の敷地状況も判ったが、川に沿う方向に工場から居住区に行く道は、工場と居住地の敷地境界を過ぎて、居住区の高級宿舎地区よりも先の門に至り、そこから川の沿岸あたりまで広い道路が敷地を貫通している。その道路から工場側には、公社の高級管理者住宅、独身寮、レクリェーション施設、社員用食堂(ほぼ高級レストラン並み)があり、また、土産物屋とかスーパーが貫通道路に沿ってある。貫通道路の反対側には一般管理者住宅が並んでいるが、建設中は、その多くは、建設業者の家族同行スーパーバイザー達の宿舎として使われている。建設労働者たちは、Ashuganji駅周辺とか、敷地境界外の壊れそうな民家で宿泊しているらしい。
2022年12月29日木曜日
ダッカからアシュガンジ現地へ
雨季と言っても激しい雨がときたま降るだけで昼間の殆どは暑い夏だ。前に記載したように、住重の海外営業、特に天皇と呼ばれる営業部長は、僕の代打派遣に痛く怒り、事業部長への怒りを僕に向けて、あたかも本件の派遣が失敗するようにと、口で非難するだけでなく、営業部員を僕に付けようともしなかった。その意向が反映してか、現地住商もまた僕らの派遣に冷淡で、早朝に住商現地社員が車でダッカ駅に運んでくれたが、住商がかまうのはそこまでで、そこからは、大量の段ボールと3人のサムソナイトだけが道ずれだ。しかも段ボールの中は信頼できない仕上師が勝手に好みで入れた荷物で、なぜこんなに荷物が必要なのか判らないが、それを運ばせるクーリーは、自分たちで集めて指図せねばならない。連中は当然、支払いを吹っ掛けてくるから、いちいち交渉で面倒でたまらない。英語が得意(実際には僕と大差なかったが)な筈の電気担当の機械検査員は、雑事には全く手を出さないし、仕上師は英語を全く喋れないから、結局は僕が一人で、入出国手続き、税関交渉、クーリーとの交渉と、全てが僕の仕事だ。それを二人は横で見ているだけだから、他から見れば、僕が二人の部下で汗を滴らせながら二人の面倒を見ているように見えただろう。結局、この構図は帰国まで変わらなかった。さらには、帰国してからも、出張の成果は仕上師と検査員の成果であるように吹聴したのか、それを正しいと新居浜は評価したらしい。会社と言うものはそんなものだろう。
早朝のダッカ駅は、切符売り場前の小さな広場から、ホーム上にまで地面で眠る人々で占められて所定のホームに行くのにも手間取り、早朝の唯一の列車の最後尾がアシュガンジ肥料プロジェクト専用の車両だった。出発時間になるとホームに滞留していた貧民の群れが列車の天井へと怒涛のように集まってきて、次々と天井へ上るのだが、つるつると滑る窓ガラスを何とか上らねばならない。しかし、僕の窓の外のおっさんは、サンダルを履いたまま登ろうとするので、サンダルが滑って登れないので必死であった。足掛かりとなるようにと、僕は窓を少し開けてあげたので、なんとかのぼっていった。
アシュガンジへの線路は単線で、洪水を考慮して軌道は嵩上げした堤防の上に設けられていて、線路の両側は、嵩上げの土砂を掘った跡が延々と線路に沿った池となっている。雨季なので、人の居住地や細い通路を除いてはどこまでも池のようで、そこに稲が植えられている。列車の線路横の土手の上には、水がこないので、特にダッカ近辺では貧民が水を避けて粗末な小屋を作って無断占拠している。そんな景色が延々と続き、80マイル(128km)程度を、なにしろ単線だから、逆走の列車といちいち待ち合わせするため、4時間もかけて行き、この国では珍しい丘陵地帯にに入ると、遠くに尿素を作るプリルタワー(造粒塔)が見え、眼下に帆船が通る河を越え、最後に巨大な大河を越えるとアシュガンジ駅に着く。
2022年12月28日水曜日
バングラデッシ初の都市鉄道が開通した。
僕が行っていたころから40年以上が過ぎているが、僕の好きなバングラデッシに初の都市鉄道が開通した。とてもうれしいが、他方、あの混雑した道路を自転車リキシャで走る面白さも捨てがたく思い出した。
現在の混雑ぶり
https://www.researchgate.net/figure/Traffic-congestion-in-Dhaka-city-The-daily-star_fig1_353931117
DACCA METROについての記事
https://www.researchgate.net/figure/MRT-Route-Map-dmtclportalgovbd_fig2_353931117
人口が急増するバングラデシュの首都ダッカで、初の都市型鉄道のメトロが一部区間で開通することになった。日本が事業費の多くを貸与し、車両の形はJR東日本の山手線とほぼ同じ。国旗にちなんだ緑と赤色を施した。日本の技術を結集した電車が世界有数の過密都市で走行する。
首都の南北を結ぶ6号線の建設事業には、国際協力機構(JICA)のほか、複数の日本企業が参加。2013年から整備を進め、今月28日に開業式を開催し、部分開通する予定だ。
改札機で使うICカードは、日本で普及する電子マネーの通信規格「フェリカ」を採用し、女性専用車両も設置。慢性的な渋滞で車だと約2時間かかる道のりを約40分で結ぶ予定だ。
国内で初の女性運転士も誕生する。アスマ・アクタールさん(31)は、1歳になる息子を育てながら約4カ月に及ぶ訓練を受けてきた。「時間通りに移動できるメトロは最高の交通機関。大勢の人の役に立つと思うので、事業に参加できて光栄」と笑みを見せる。「女性が安全に外出することも可能になるし、女性の運転士が誕生することで他の女性にも刺激になればうれしい」とも話した。(ダッカ=石原孝)
2022年10月12日水曜日
バングラデシュとアシュガンジ、それに、アシュガンジ肥料公社(AFCC)とその後
バングラデッシュは、インドの右隣の国で、独立前には、インドの左隣のパキスタン国と共に、イスラム国として国を成していたが、激しい独立戦争を経て、パキスタンから独立して、バングラデッシュ国となった。独立戦争はかなり激しくて多くの民衆が亡くなっている。その際、インドが独立を助けたため、インドとバングラデッシュは仲が良く、反対にインドとパキスタンとは犬猿の仲となっている。僕らの世代は、その経過を目の当たりにしてよく知っていることだ。
バングラデッシュとは、黄金(バングラ)の国(デッシュ)を意味して、この国は気候が稲作に最適で、しかも国の殆どが高度数メータ以下で、毎年国の80%で洪水が起こる。僕らは8月の雨季に飛行機でダッカに入ったが、上空から見ると、この国は一面が池のようであった。なお、毎年の洪水が大地に養分をもたらすので、豊作が期待出来て、しかも、年に2度の収穫が期待できる。実際に、田んぼのこちら側では苗を植えて、他方では収穫中などとの風景も見られる。国土の広さは日本の半分程度だが、日本は平地が15%程度で、他方、バングラデッシュでは80%以上であり、米の生産だけを考えれば、日本より遥かに多くの人間を養えることになる。つまり、日本の耕作可能地は、日本は国土の0.15で、バングラデッシの農地は、日本の面積に対しては、0.5*0.8=0.4となるわけで、日本の3倍近くの農地を有しているわけだ。ただ、英国の植民地時代の収奪といびつな英国支配の国政システム、その後の独立戦争、と悲惨な経過で人口は、僕の滞在した1980年当時には8000万人以下であった。が、貧しいながらも、40年の安定期を経て、今は、なんと、2倍の1億6000万人にもなっている。しかし、先述のように、平地面積から考えれば、日本よりは過疎と言えるかもしれない。ただ、人口は都会に集中する傾向があるから、僕の滞在した1980年時点でも、首都ダッカは、人で混みあっていたから、今では、2倍以上に混みあっているだろうと恐怖も感じる。でも、僕はバングラデッシュや彼らの国民性を好ましく思っているので、出来れば再訪して実情を確かめたいと思っている。
国土は、対岸も霧にかすむほどの巨大なガンジス河、ジャムナ河とかメグナ河等の河口砂州でできていて、海岸近くは密林状態で、タイフーンが襲えばたちまち洪水になるので、首都ダッカは、河口から100km以上も上流の奥地にある。国全体が幅500kmにも及ぶ河口洲上にできていることになる。
恐らくは英国が植民地支配の首都として選んだのには、できるだけ洪水を避けた地を選んだと思われるが、それでも、しばしば水害被害が発生するような土地柄であり、道路の側溝には汚れた水がたまり道路は雨季にはぐちゃぐちゃになる。日本の戦後20年頃までの大阪の街を考えればよい。町中がたばこ臭いことまでそっくりだ。日本の中古自動車が走り回っているので、いよいよ雰囲気は似ている。ただ主要な乗り物は、リキシャと呼ばれる人力自転車風の力車で、乗用車が走るにはとても邪魔な存在だ。さらに汗臭い民衆が道路に満ちていて、なかには、空腹や疲労でぶったおれている人も大いに見かける。空腹で後部に複数の乗客を乗せたリキシャをこぎ続ければぶったおれるのも当然だろうと思う。更に、10月、11月頃を除けば、いつも気候は日本の夏が続くので、いよいよ住みずらい土地柄だが、英国人の中には寒くうっとうしい英国よりは体に良いと、ダッカに住み続ける人もいる。僕自身も年を取ると寒い気候よりは、暖かい国が望ましいと思うが、暑すぎるのもどうかと思う。
さて、バングラデッシでの特産品は、米とか麻とかの農産物で、鉱物資源は殆どなく、そもそも、道端で石ころを見つけることさえ困難だ。建設に必要な砕石はほぼ入手できないから、粘土でレンガを焼いて、これを砕いて砕石替わりにする。だから、どこかでコンクリート工事があれば、その近辺で、老人とか子供が道端に座ってハンマーでレンガを砕いている。その仕事でゴーグルを使うこともないので、破片が子供たちや老人の目を傷つけている。
そんな国で唯一の産出する天然資源は天然ガスで、これは豊富にあり、これを原料に尿素肥料を作っている。国内のあちこちに肥料公社が工場を建設して、僕の働いたのは、ダッカの北方80マイルのアシュガンジに建設された肥料工場だ。今は、Asyugaji Fertilizer Co、Limittedと称される肥料工場兼公社でメグナ河の東岸の河床に建設された。
GoogleMapで簡単に検索出来て、緯度経度は 24.023891, 90.988533
ダッカからの鉄道が、メグナ河を西から東に渡った所にashuganji駅があり、そこから南に1kmほどのところに、500m四方の工場がある。その敷地に接して、南側に500m四方の、社員用社宅があり、ともに外界とは高い柵や壁で隔離されていた。ところが、最近になりその周辺をGoogleMapで最近確認すると、居住区の仕切りは無くなり、周辺に大学や高校、小学校が建設されたようだ。アシュガンジ村は、駅の南方にあったが、今では高速道路も整備されて大きな町になっているようだ。工場のおかげで周辺はかなり開発整備が進んだと思われる。
バングラデッシには、方々で天然ガス田があり、そこにはほぼ窒素肥料生産工場が建設されていて工場毎に公社とされる。つまりアシュガンジ肥料工場はすなわち、アシュガンジ肥料公社によって運営されている。僕のいた当時、後に公社のトップになるモミンさんが建設プロジェクトのトップであり、僕が納入を終えて帰国する前にサヨナラパーティを開いてくれた。その後、チッタゴン肥料設備建設プロジェクトのトップになった時に、入札打ち合わせに訪問した時にも「ぜひ受注しろ」と激励してくれた。ただこの案件は、東洋エンジニヤリングとの営業レベルでの談合で、シップローダーだけを大幅な利益で受注できたが、実施設計からの納入業務は新居浜工場で行うので、僕自身はその案件とは関係なくなった。その後、僕がたまたま現地を訪問したのだが、わが社新居浜の納入したシップローダーの不具合を解決したので、その際も、モミンさんは僕と会ってくれて、大いに激励してくれた。それどころか、他社の納入設備もチェックしてくれと頼まれたが、さすがにこれは断った。
そのシップローダは新居浜工場で設計・製作して、尿素袋を船積するのに、スパイラルシュートの上を尿素袋を滑らせて船積みするタイプなのだが、スパイラルシュートでの袋の滑りを新居浜でテストして納入した。しかし、たまたま僕が新居浜に行った機会に、現場に置いてあるスパイラルシュートを見る機会があった。そのシュートは、スパイラルの滑り台で、その内側のガイドとシュートのすべり面が余りに鋭角で、滑り落ちる袋が挟まれてしまわないかと心配になった。が、新居浜工場の問題だし、それに、テストしたのなら大丈夫だろうと不安を口には出さなかった。
その後、また別件でバングラデッシュのダッカに行く機会があった時に、阪大の後輩でもある新居浜の設計担当者から電話があり、「船積機の現地性能テストで、少々問題があるのでちょっと現地に立ち寄ってほしい」との電話が入った。
新居浜の連中が何かを頼む時には、裏に何かが有るに違いないと思ったので、さて問題とは何だろうと考えたが、こんな単純な装置での問題とはスパイラルシュートでの滑り不良に違いないと想像した。スパイラルでの滑りが問題ならどうしようもないだろう、とも思えたが、仕方がないので、女房にごま油の瓶を買ってもらい、サムソナイトの中に入れておいた。
その出張で用件のあったダッカからは、ちょっと立ち寄るにしては、飛行機でチッタゴンに行き、そこから濁流の大きな川を船で建設現場に行くなどと大掛かりな旅になったことからすると、僕をそこに行かせることは営業も組んでの作戦であったようだ。
なるほど、確かにシップローダーは僕が受注したが、僕としては設備全体を受注したかったのだ。だが、東洋エンジニヤリングと我が社の営業とが裏取引をして、新居浜製造所の管轄であるシップローダーを高値で受注することで話をつけてしまったのだ。それも、全体を見積もりした僕に相談なしに決めてしまったので、僕が怒っていると考え、かような手段で僕を問題解決の担当者にしてしまったわけだ。
営業と新居浜設計部のこんな姑息な遣り方が僕には気に入らないのだ。が、これが僕の所属した事業部の基本的な姿勢だから仕方がない。
現場の建設を総監督する東洋エンジニヤリングTECが準備した宿舎に荷物を置き、作業服に着替えて現場に行き、船積機の最先端にぶらさがるスパイラルシュートの先端に行くと、ちょうど、試運転の開始で、そこまでも、新居浜設計者、それに、現場責任者と営業との話がついていたらしい。そこには我が社の現場指導員は居らず、客先の課長が心配そうに現れた。この件は客先も知る致命的な大事になっていたわけだ。結局は、僕が全く関与しない設備の責任が僕に転嫁されたわけだ。こんな所がいよいよ新居浜らしい。
運転開始後直ぐに尿素袋がスパイラルシュートの先端に来て、次々と滑り込んできたが、直ぐに詰まりが発生してスパイラルシュートの上端迄袋があふれだした。そこで、そばにあった非常ボタンを押して運転を止めた。他に誰もおらず、仕方がないので、シュートの枠組みを必死になって伝い、10mほど下に降りてゆくと、心配した通り、袋が内枠に嚙みこんで止まっていた。先端の袋を足で押して、枠から外すと滑り落ちたが、そこから上の袋は全て内枠に挟み込まれていた。大汗をかきながら上に登りながら、次々と袋を外して行ったのだが、要するに、滑り落ちる袋の1個が挟まれると、その後続の袋全てが、内枠に挟まれるとの問題で、根本的には、シュートの底面と内枠を鋭角ではなくて広角で滑らかに接続するように作り直す以外に対策は無いだろうと冷汗が出た。
そのトラブルを技術的に解説すると、シュート面は袋が遠心力で外側に行くのを考慮して、外周ほど高くしているから、袋が順調に滑り降りていれば、遠心力でシュートの内枠から離れた場所を滑り落ちるので問題はない。が、たとえ一袋でも何らかの理由で速度が落ちると、内側に寄り、内枠の滑り面の鋭角部分に挟み込むことになる。新居浜のテストでは、単個ごとに行ったので、常に順調に流れたのだろうが、大量の袋が押し合いへし合いしながら流れ込む状態を考えていなかったのだろう。それでも、シュートの形状を見るだけで気付く事態だと言える。少なくとも僕は一目で気付いた事態なのだ。
内枠の取り付けは全て溶接だから、この現場での改修は大事(おおごと)になると思えた。
こんなに詰まるのに駄目かと思ったが、それでもまぁ用意はしたのだからと、客先課長に頼み直ぐに車で宿舎に送ってもらい、持参しておいたごま油の瓶を持って戻り、スパイラルの最上端の滑り面に油を塗布し、再運転を指示した。すると、最初の袋が滑る際に、ごま油をすべり面に広げてくれるので、後続の袋も何の問題もなくスルスルスルと滑り落ちて行った。
客先課長、わが社営業員、それに、後から現れた新居浜から出向している現場指導員と共に事務所に戻ったが、客先課長はほっとした様子で大笑いしながら「住友のハイテクは素晴らしい」と興奮していた。このトラブルは船の滞船料に影響するから、大事(おおごと)としてみなされていたらしい。滑り剤には油性潤滑油ではなく植物油を使ってくれと要請すると、再び、住友のハイテクは素晴らしいとの答えで了解された。
現場課長が僕を連れて現場所長のモミンさんに説明に行くと、モミンさんも心配していたらしく、「とにかく、方法はどうでも積み込み出来たらよいのだ」と了解してくれて、「ついでに他社納入の搬送設備もチェックしてくれ」と言ったが、それは丁寧に断った。
なお、その後、帰国後二、三か月してから、「再び袋が滑りにくくなった」と連絡が来たので、「油が古くなったので、お湯ですべり面を清掃して塗りなおしてください」と回答してたが、かような姑息な対策をモミンさんが認めてくれたことで、本件は完全に解決した。
本件の解決に東洋エンジニヤリングが関わっていたら、かような解決策では満足せずスパイラルシュートの改造を要求したであろうと思うと、モミンさんの好意を今更ながら感じる。実は、国内でも海外でも、僕は同様な好意を何度も得ている。必死で仕事をすると得られるものだろうと思うが、社内では殆ど得られない好意なのだ。
ところで、本件で、スパイラルシュートの解決の最後の土壇場で現れた当社の指導員は、実は、別の項目で記載した信頼できない仕上師なのだ。僕に付いてAsyuganji肥料設備で仕事した経験を買われて、チッタゴンにも派遣されたのだが、相変わらず大切な瞬間には現われないってジンクスは守っていたようだ。が、成果は自分の物としたであろうと思われる。
この時にも、僕がごま油を塗り始めた時に現れて、尿素袋が順調に流れ、僕が「よく滑るなぁ」と言うと、平然と、「油を塗ったら当然や」と言い切った。それなら、僕が来る前にそうしろよ、と言いたかったが、どうでもいいや、と思い、口には出さなかった。
ところで、本プロジェクトをまとめる東洋エンジニヤリングは、僕の専門とするコンベヤ設備類については、インドのメーカーに発注したと聞いていたので、来たついでにと、そのメーカー名と製品の出来具合を調べるべくわが社納入品以外の設備も見学させてもらった。
その後、この国での次の肥料設備はMSECが応札受注したが、MSECからの搬送設備の見積り依頼を受けた。その際には、そのインドメーカーと連絡を取り、営業員を東京事務所に呼び見積もりを依頼した。これをMSECへの見積もりに採用しようとしたが、当時住重は新居浜の米国向けコンテナクレーンを韓国制作で納入し大赤字となったものだから、人事出身の事業部長は海外製作におびえてしまい、インド製作を許さなかった。コンテナクレーンに比べれば、肥料設備用の設備は構造的に遥かに簡単な設備なのだが、それも理解されず、日本製作での価格で応札せざるを得なかった。結局は価格で負けて逸注した。但し、尿素肥料倉庫内のポータルスクレーパーと称する単体装置だけは、受注できたが、これ以来、住重の搬送システム部門は、このコンテナクレーンでの失敗で海外進出にくじけてしまったのだ。
そもそも、この失敗がなくとも、少なくとも、住重の運搬機事業部(新居浜)って、海外事業には不向きであったようだ。上層部に全く海外案件での経験者がおらず、海外案件をコントロールする力が欠如していて、しかも、いわゆるプロジェクト力が全く欠けていて、海外工事現場には、英語も喋れない人間の集団が、いろんな部署からぞろぞろと集まって行くから、人件費が掛かり、しかも、決断や工夫が出来ないようだった。
僕が、チッタゴン案件で、ダッカの肥料公社プロジェクト本部に行くと、モミンさんが本部長として指揮されており、挨拶に行くと、東洋エンジニヤリングに負けるな、と激励してくれた。TECが日本のODAとつるんで値段を下げないことを怒っていたのだ。その時、Ashuganjiで住重について苦情がでている、と言われた。
早速Ashuganjiの現地に行くと、工場事務所のホワイトボードに「SHI(住重)に無視された」と大きく書かれていた。事務所に居た僕の滞在時の知り合いに問うと、明日から全設備の点検に入るので、機器・装置の納入者にスーパーバイザーを派遣するようにと連絡したが、住重(本件では新居浜)はべらぼうな人数の多額の見積書を出してきたので、最少人数で見直してくれと連絡したが無視された、との答えであった。今回の総点検で来ないのは住重だけだ、とも言われた。こりゃ、注文を取るにはまずい状況だと思い、「給電系や制御系で問題は生じていないか」と問うと、「電気系は専門家がいるので問題はない」との答えなので、では機械系を僕が見ましょうと、2日間を掛けて点検してまわり、問題はありませんと報告すると、それで納得してもらえた。つまり、僕一人で済ませられたものを、多人数を派遣しないと心配なのだと思える。なお、僕は日本でも住金鹿島の焼結設備の全搬送機を点検して回った経験があるので、心配なく協力できたのだ。
実はこんな経験も、僕には後ろ盾がなく、なんでも自分でやらざるを得なかったから出来たのだが、それが、僕の経験の幅を広げたとも言える。
要するに、運搬機事業部は、何をやるにも怖がりで多人数をかけるとの体質で、それゆえに決断力がなく、安全側の道を進むことで、無駄な経費での赤字が累積する傾向があった。
ところで、アシュガンジ肥料設備では、数多くの納入業者の中で、僕の担当分が真っ先に試運転テストを完了したことや、このアシュガンジでの設備点検をもうまく終えたことで、モミンさんは僕を信頼し、チッタゴンでの袋積スパイラルシュートの姑息な対策も問題なく受け入れてくれたのだ。僕は接待は下手糞で付き合いも悪いのだが、いつも客先の信頼を得ることができた。
2022年8月16日火曜日
バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。更なる続き
僕の経験を綿々と紹介したいのだが、バングラデッシュ国への入国から設備納入完了まで、何しろ、海外旅行が初めてで、英語もしゃべれないって僕自身の事情だけではなくて、世界最貧国で熱帯の酷暑国で、雨季には国土の80%が水没するどころか、国土の南方の海岸500kmが河口デルタなんてとてつもない国での生活、それも田舎生活なんて、それに、例えば据付期間中に完全日食が起こって、昼間に突然夜が訪れるなんて経験などと、記憶の残ることが、日々続いたので、それも延べ、ほぼ1年以上に亘ってのことで、それをいちいち記述するなんて、とくのこの暑さでは、気力が充実しないと、とてもでないが書けないとおびえてしまった。
とにかく先ずは結果だけ書くと、最初の滞在は8月から12月でいったん帰国し、1月半ばから6月で据付スーパーバイザーは終えて、1年してから試運転に再出向で、3か月程度で完了証明を、それも、据付に参加した各社の中で最初に手にして帰国できた。
前にも書いたが、本体設備FOB迄の設備機器納入損益は、僕の管轄範囲外で、僕の管轄内の客先から支払われる据付指導員費での利益だけで、それも、納入品の不足・不良に要す費用も据付指導員費で補って2000万円余りの利益を出したのだが、なぜか本拠の新居浜では、僕の頭がおかしくなった等との評判があって、この案件の成功は、新居浜から出向した、余り信頼できない仕上師と、機械専門だが、語学勉強と電気指導の勉強を兼ねての検査員によってなされたとの評価となったようだ。その僕についての悪評を仕上師や検査員は特に否定もしなかったようだ。実は、僕が挙げたその成果は、僕の努力もあったが、その案件や現地組織の特殊性もかなりの影響があり、僕の努力がいかばかりであっても、かなりの幸運に恵まれたのが事実だ。ただ、案件の最初から僕が関与していれば、物品管理や梱包管理を確実にして、そもそも、この案件のような馬鹿な事態にはなっていなかったと思う。それに不思議なことに、僕がプロジェクトする案件は、いつも幸運に出会えるか、僕を買ってくれる客先に出会い、危機的状況からも何とかしのげるようであった。つまり、社内と違い客先の人は、真面目に頑張っている人間にはいつも評価するということだろう。
ところで、姑息な新居浜の評価なんてどうでも良いが、ただ大阪コンベヤ課の課長からすると、僕の評価は一気に高まって、苛めは一切なくなってしまったので、僕に取ってはまあまあの成果だったと言えるだろう。要するに、何をやらせても、どんな苛めにあっても、挫けることなく僕は任務を達成すると知ったようなのだ。
他方、新居浜の信頼できない仕上師への信頼は、僕はこの掲示板以外では告げ口なんて一切しなかったから、新居浜だけでなくて、僕の課の課長や彼の親衛隊でも、仕上師への強い信頼は引き続いていて、本件の後の海外案件でも製品検査や梱包検査だけでなく、現地据付も任せたもんだから、大赤字になってしまったようだ。
本案件での、納品の品質管理と物品管理の欠落を、僕がカバーしたことで、痛い目に合わなかったが故に、新居浜の仕上師にはその重要さが理解できず、その後の案件でも同じ失敗を繰り返し、それをカバーできる僕のような人間が居なかったので、悲惨な結果になったのだろう。ただ僕の頑張りにしても、先に書いたように、恵まれたサイトだったから成果が出たのだが、別のサイトではうまく行かなかっただろう。でも、僕が最初からプロジェクトを運営していたら、プロジェクトの成功・不成功は、物品管理と梱包管理に係る、と知る僕なら、かようなトラブルはそもそも起こさなかったと確言できる。
ところで、詳細経過については気候が良くなってから書くことにしよう。
2022年8月6日土曜日
バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続きの詳細と、その続き)
僕が30代の初め頃、当時は、大阪土佐堀にあった住友重機械・運搬機事業部の土佐堀分室に勤めていた。事業部の本拠は新居浜なのだが、その1部門のコンベヤ部は大阪に進出して、土佐堀の、とあるビル内に土佐堀事務所を設けていたのだ。そうして当時は、ここに書いたように、その部のXX課長に苛められまくる奮闘の日々であった。その課長とは立場的には僕の尊敬する中谷部長の後継者なのだが、部長が彼を後継者を決めたのではなく、部長の意に反して上から指定されたようであった。
http://isabon.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html
当時僕は海上空港となる関西空港の埋め立てプロジェクトを、土建業会のワーキンググループの土取り機械設備計画の担当としてたった一人でサポートしていた。機械メーカーとしては我社だけが作業していたので、実現に際しての受注の可能性は極めて高かった。土建業者のバックアップ作業でそれなりに忙しかったのだが、XX課長は例の如く機嫌の悪い顔つきで僕を呼びつけて、超巨大コンベヤの開発プロジェクトを開始するので君がまとめろ、と命令した。関空案件では、泉南の山中から埋め立て土砂を海岸まで運び、これをバージで埋め立て現場まで運ぶのだが、膨大な土砂を短期間で搬送するため、搬送用ベルトコンベヤは、幅3m、搬送速度は300m/mと、巨大なコンベヤを必要とする。確かに、日本ではかってない巨大なベルトコンベヤだが、僕にすれば既存の技術であり、僕の技術力であれば開発プロジェクトを立ち上げるほどのことではない。そこで戸惑っている僕を無視して、誰と誰をそのプロジェクトに加える、と不機嫌に申し渡した。考えるに、受注していた製鉄所納入設備の処理に部の人員を大きく増やしたのだが、仕事が減って来たために余剰人員の人件費を開発費として本社負担に回して、その開発業務と余剰人員を僕に押し付けたわけだ。
僕が忙しい時には人員を一人も回さず、課長管轄の人員が余剰になると押し付けるってことで、その勝手な行動を隠すために不機嫌な態度となるわけだ。僕が彼の立場であれば、大量の仕事をこなすには人員を増やす以外の方法をこうじたであろうが、彼や彼の好む技術者にはそんな考え方は不要なのだろう。(住友重機械には、部下を増やすことが管理職の能力だとの風潮があるようだ)
開発と言ったところで、いったい何をすれば良かろうかと思うのだが、課長からは何の指示もなく、ただわけの判らんことを大声で怒鳴るだけなのだ。困ったことだ。そこで新しく部下となった川崎君と相談して、超大コンベヤの技術資料は僕の知る技術情報やそれを応用して巨大化に適用することなどでまとめるとして、それとは別に、自分達の技術能力を高めるべく、種々の施設での工業バラもの処理技術を集約することにした。実際の所、これらの技術情報は少なくとも、その後の自分の人生に非常に役に立ったのだ。
(これを書いている間に気付いたのだが、XX課長は、僕が八戸に納めた長距離コンベヤ設備の設計などのノウハウを知りたかったので、それを纏めることを望んだのかもしれない。しかし、長距離コンベヤのノウハウとは、ベルトコンベヤについての市販本にも書かれている基本技術とそれに、高校卒レベルの物理知識、つまり、力=質量x加速度(運動方程式) とエネルギー保存の法則、運度量保存の法則を加えるだけのことなのだ。ところが、XX課長にはそれすら理解しようとしないと言うか、臆病というか、僕が以前に実施した長距離コンベヤの設計手順を1からまとめた物が欲しかったと思われる。XX課長がちょっとは頭を使えば良かったのに、と思う。それに実際には、八戸での設計手順の殆どは部の倉庫に収納されている製番ファイルの中に納められていて、誰でもが閲覧できるようになっていたのだ。)
この開発業務に加えて、課長は「コンベヤ用ローラの開発」って課題も指示した。当時の技術からすると、コンベヤローラにはそれほどの技術的な要望があるわけではなく、価格的な競争商品であるので、住友重機械が手を出す商品ではないと思ったが、課長は高防塵の高性能ローラを開発せよと指示したのだ。
この人のやることや言うことは何が何だか判らないと思うのだが、反論すれば沸騰して絶対に言うことは聞かない、指示に従う以外に道はなかった。その件には以前からの部下であった大西君に担当してもらったが、いずれの開発案件もわけの判らない指示を何とか形にまとめるべく混乱の極みで、川崎君や大西君には本当に苦労させたと思う。今から考えると、課長の指示には関係なく、何か新しい技術分野とか、若しくは、設計・生産技術の自動化とかを推進すべきであったと思える。更に振り返って考えると、XX課長の考えは、住金の設備増強が終わった時を考えての新規製品の開発だとも思えるのだが、ベルトコンベヤ設備受注の可能性が減ることを見越しての新製品開発で、ベルトコンベヤ部品の開発をするとは支離滅裂ではないだろうか?
ベルトコンベヤ設備に替わる新製品を案画すると指示すればそれなりの検討もあったのだが、本人がローラの開発と心に決めているのだからどうしようも無かったのだ。
なお、ベルトコンベヤ設備の設計自動化とか鉄骨構造物の設計自動化については、後年、自主無賃休日出勤を続けることで成し遂げた。
そんなある日、課長が僕を呼びつけたのだが、奇妙なことに、いつもの傲慢な口調ではなく、遠慮がちに話しかけた。
と、行けとは言わずに提案形の指示であった。中谷部長を通り越して事業部長に媚を売っている課長としては、事業部長の意向に逆らえないので、提案形の指示となったのであろう。
住友重機械には、据付指導員の専門セクションはなく、概ね、鉄工課とか生産技術課などの現場部門から派遣されるのだ。だから、設計部門の人間が据付指導の責任者で派遣されることは無いのだ。つまり、僕の居た設計部門から、しかも、僕が設計を担当していなかった設備の、据付指導、それも、その責任者として派遣されることは通常では絶対的に有り得ないことだった。客先にしても日当いくらと金を支払って派遣者を要請する以上は、据付に経験豊かな技能者を期待しているのであって設計技術者を期待するはずが無いのだ。当然ながら客先が不適当と判断された指導員は、ディスクオリファイとして罷免されることになる。それどころか、その件の指導員派遣契約書によれば、英語も喋れないと罷免される恐れも充分にあった。
当時の事業部長は、社内では天皇と呼ばれるほど傲慢なのだが、お客さんには全く弱いとの人物で、僕も彼とは話をしたこともなかった。つまり、僕に経験を与えるとか育てるとかの意思があるはずもなく、何らかの都合で、本来は新居浜の現場部門が果たすべき任務を、それも、馬場君を他の現場に必要としたので、彼に予定されていた仕事を土佐堀のコンベヤ部門に押し付ける事情があったのだろう。なお、馬場君は僕と同期の人物で、京大卒の優秀な人材である。しかも彼は既にその件の現場も調査しており当然だが英語もぺらぺらである。
恐らく、新居浜の現場部門でも、バングラデッシュなんて国に、しかも、2~3人の少人数で、コンベヤ部の納入品であるが故に、新居浜の十分な支援も期待できない現場を、希望する人もおらず、僕を指名若しくはコンベヤ部の誰かに押し付けようとしたのだと思えた。
が、今になって考えると、事業部長が、僕を知ることもないから、我が部の課長には「馬場君はイラクの件で出せないことになったから、据付指導員はそっちで考えろ」程度に言った可能性があり、大阪コンベヤ部の管理部門には海外に派遣できそうな人材も無く、僕に白羽の矢を立てた可能性が高い。が、僕も英語会話なんてやったこともないので、海外に適当な人材とは言えない。
しかしそこで、課長は例の如く、事業部長の馬場君を確保したいとの要請に対して、都合の悪い仕事を僕に押し付けるべく、あたかも事業部長の指示であるかのように発言して、僕が断れない状況を作った可能性も高いと思われる。
据付には殆ど素人の僕を派遣して、失敗しても、自分には何の責任も無く、しかも、鬱陶しい僕を追い払える可能性さえ生まれると、実に見事な配慮ではないか。
こんな策略には僕は全く対応のしようがなく、数か月後に、据付が始まるであろう頃に僕は、バングラデッシに派遣されることになった。それも、据付指導の責任者としてである。更に、据付試運転渡しの仕事ではないから、僕が管理できる予算は、あくまで、客先から支払われる日当費用の範囲内になるわけで、若し製品の不良が原因でのバックチャージが発生してもその費用内での処理となるから、たちまち赤字になってしまう。ただ、恐らく本体収入との清算は行われるだろうが、僕の管理範囲内の収支はとにかく赤字になってしまう。しかも、設計には万全の自信のあるぼくも、据付指導に関しては全く経験も自信もなく、そんな人間を派遣された客先は、果たして、どう考えるだろうかとさえ心配になった。更には、先に書いたように、英語のヒヤリング・スピーキングも全く経験なく、それどころか、飛行機では新婚旅行で北海道へと往復に乗っただけで、海外には全く行ったこともなかった。しかも、その新婚旅行の旅程・手配も全て女房がやったのだ。こんな人間を、かような有り得ない事情で、しかも、据付指導の責任者として派遣する会社なんて、住友重機械以外には、どこにもあるまいと思う。
僕が出向することになった現場は、バングラデッシのAshuganjiの尿素製造プラントで、そこの粒尿素やそれを袋詰めした袋を搬送したり船積する設備で、世銀から借金して、英国のFosterwheelerがプラント全体をまとめる施設建設であった。つまり、英国人が現場の全てをコントロールするプラントであった。我が社が納入する物品は住友重機械の新居浜工場に集結最中で、その製品検査・輸出梱包の内容検査は、機械据付現地指導員として予定されているO君が行っていた。彼は、僕がプロマネをした住金鹿島焼結設備の指導員としても出向していて、彼の性格は十分に把握していたが、その性格は愛想良く人当たりは良いのだが、かなり大雑把で、しかもその場の偉いさんに巧妙に阿る性格で、信用できるものではなかった。が、既にXX課長には好印象を与えていて僕が変更できる状況では無かったし、そもそも僕には、人員を選ぶ選択権もない。与えられる人員で対処することで、今までのプロジェクトの経験から、その能力には自信があった。
既に全てが梱包されているので対処を考えねばならない。幸い、梱包リストはコンピューターに入力されていて、各品目の最後に機番が入力されている。そこで、O君に事情を説明して、機番ごとの部品の梱包番号を出力するようにと指示した。
話は飛ぶが、これで大丈夫だと思っていたが、結局彼はその作業やリストの重要性を理解できておらず、現地に入って山のように集積された梱包を前にして尋ねると、忘れていた、と答えた。あきれ果てたが仕方が無い。彼の性情を甘く見ていた僕の失敗だった。
が、元々所属するコンベヤ部でも課長勢力からの助けなしと言うか、むしろ邪魔されながら、八戸の長距離コンベヤ関連は僕が独りで、その後の住金鹿島署結設備以降は大西君と二人での仕事を続けていたので特に気にはならなかった。
電気担当の指導員として新居浜製造所が選んだのはN君で、検査部の機械担当であった。電気設備の訓練を兼ねて選出したとのことで、英語が喋れるからとのことであった。電気工事の勉強を兼ねて派遣されてもなぁ、と思ったが、それが新居浜製造所の僕への対応であろうとあきらめた。英語が喋れるのは有難いとおもったが、その実力は僕と大差なく、現地で英国人指導員にくっついて英会話の練習をしていた。そうして僕は、チーフとしての立場で実務での英語会話勉強が心ならずも必要となった。
ところで誤解が無いように書いておくと、新居浜の現場の若手の殆どは真面目で有能な連中が多い。彼等には、住金鹿島の焼結設備の据付では多いに助けてもらったし、楽しく仕事を出来た。実際に、本件でも、後の試運転時にはそんな連中を連れて行った。彼等は大いに助けてくれたし、一緒に働いて楽しかった。そもそも工業高校卒の彼等の多くは、家庭環境さえ良ければ一流大学に進学できたであろうほどに優秀で真面目で、彼等と一緒に働くとお互いに仲間意識が生まれるが、O君はその範疇では無かったのだ。なお本件では、その後の試運転時の再出向では、O君は仕上士なので試運転が本職にも拘わらず、恐らく彼が選んだと思われるが、トルコの案件に行ってしまい僕の現場には来なかった。それが、僕には幸いしたのだ。なおその後、トルコの案件では彼が浮き上がっているとの噂を聞いた。彼が原因かどうかは判らないが、その後トルコ案件は大赤字となったが、一緒に仕事をすると、彼の担当部分では問題が多発して、しかも問題が起こる時には彼はどこかに行ってしまって不在との、彼の行動や人間性は直ぐに判るのだ。
英語が話せず、海外旅行も初めてなんて僕が据付指導に行くなんて馬鹿げた状態だから、何をやるにも戸惑ってばかりであった。航空機はタイでのトランスファーで一泊してバングラデッシ航空でダッカに向かう。海外のホテルなんて初めてで英語も喋れず夕食・朝食の頼み方さえ判らない。
なんとかダッカに着くと入国審査である。大量の荷物の審査さえ心もとない。入国審査の長い列に並んでいると、少年が近づいてきて、スルーで行けるよと手まねで説明した。いくらかと聞くと、50ドルだと言う。これで行こうと決断してOKと言うと、荷物のある所に案内してどれが荷物だと聞き、指示すると台車に乗せて走り出し、途中で我々のパスポートにバンバンバンとハンコを押して走りだした。遅れまいと走ってついて行ったが、あっと言う間に気が付くと、なんともくさい臭いの空港の出口に立っていた。
話は先に飛ぶが、再出向の時には、英語も話せるようになっていたし、しかも、荷物を整理して少なく抑えていたから、少年の要請は無視して、まともに審査を受けたがあれこれ指摘されて結局は120ドルもかかった。しかも、特にO君が持ち込んだ大量の日本米には審査官が「我が国に米を持ち込むなんて・・・」と絶句していた。一緒に持ち込んだ大量の日本の本と共に持込は禁止となった。
それはともかく、最初の入国で安く済んだのはビギナーズラックってことだろう。
当時のダッカ空港は市内にあり、空港を一歩出ると、9月であるが陽光はぎらぎら輝き空は白みを帯びた青空で、とてもくさかった。それは何の臭いだろうか、貧乏臭とも言える、終戦後から中学校頃までの大阪市の臭いによく似ていた。そうだ大阪の昔の臭いだ、と思うと、それらの臭いも気にならなくなった。特に安煙草の臭いが強いのだ。
列車は、ダッカ駅から200kmの単線を6時間もかかり、列車がAshuganji駅に着いて、大量の段ボール箱を下し、何人もの汚れまくった人足に持たせて、駅に待機したバスに運ばせて、チップの金額で暫くもめて、これらを殆ど僕一人で仕切った。部下である英語が堪能なはずの電気指導員見習いは、なぜか、かような汚れ仕事には口を出さない性格で、それに、仕上指導員は英語が全く出来ないので横で見ているだけだから、結局は僕が、段取りや交渉を、拙い英語で、人足共に怒鳴りまくるわけだ。情けない立場の現場責任者である。しかし考えてみると車内で後ろ盾の無い僕にはいつもの状態ではあった。
バスは巨大なメグナ河に突き出した突堤の上を、川岸に埋め立てられた広大な工場敷地に向かったのだが、着いた当時にはどこをどう走っているかは判らなかった。門からはジープが用意されプレハブの仮事務所のような所で降ろされ、まとめ会社、FosterWhillerとの最初の打ち合わせとなった。
2022年2月13日日曜日
バングラデッシ Ashuganj iUrea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続き)
僕の出向が決まった時には、既に他のメンバーも決まっていた。新居浜の鉄工課から一人と、同じく新居浜の検査課から一人で、僕も含めて3人であった。検査課からの一人は、電気工事の勉強を兼ねて電気工事担当として行くとのことで、鉄工課の彼は、僕がプロマネであった住金焼結設備の据付時に来ていて、僕も一緒に働いた男で、仕事は大雑把で、世渡り上手ってタイプであった。
出荷は、既に新居浜工場での梱包がほぼ終了していて、僕は様子を見に訪れた。梱包指示や梱包検査は鉄工課の彼が担当していた。しかも製品検査自体も彼が担当していたとのことで、新居浜工場側は大阪コンベヤ課の仕事には全く関与する気が無いのだと思えた。更に、梱包状態と梱包リストを見たが、梱包は機番毎ではなくて、ばらばらの機番の物を混載しており、膨大な量の梱包の中から、機番毎に部品を集めねばならないのかと驚いた。今更梱包のやり直しを出来ないと頭を抱えた。梱包リストはCPUデータに入っていると言うので、せめて、機番毎にソーターすれば機番毎の部品がどの梱包に入っているかが判ると、機番毎にリストを作る様にと指示した。しかし、現地に入って判ったが、指示した彼は、その指示の重要さを理解せず、機番毎のソーター資料を作っていなかった。彼の性格や性情からすれば、そのような仕事での先を読んだ仕事はできないと判断すべきであった。
一方、電気工事の彼は、勉強を兼ねて電気工事担当と行くことになったとのことで、英語が出来るとのことであったが、どうやら英語能力は僕よりちょっとましって程度で、英語通訳には殆ど役に立たず、現地に入ってから英語の勉強に精を出していた。
要するに、製品検査も梱包検査もまともに行われなかった製品の据付指導に、しかも、その指導に、工事指導の経験僅かな僕と、細かい作業や先を読んだ仕事の出来ない仕上士と、電気工事担当だが電気工事の初心者って、合計3人で、工事指導をするってことになった。実に凄い組み合わせであった。
これでどうなることか、絶望的であったが、現地に行って判ったのだが、現地には、フォスターウイーラーが別に雇った本物の据付士(erecter)や仕上士、電気工事士が居て、彼等は本物の据付、仕上げ、電気の専門職で、我が社の様に、工場現場職を派遣するよりもより工事に関しての専門職であり、他方我々は、機械納入側として納入した機械のアドバイスをすることが望まれたわけだ、と言うことが現地に入り仕事を始めてから判った。
海外出張初めての3人が、バンコック中継泊で、バングラデッシ空港になんとか辿り着いたが、到着空港で段ボール十数箱の通関をどうしようかと並んでいると、横から少年が出てきて50ドル出せば簡単に通関できるよ、と言うので、これ幸いとそれに乗ると、走り回る少年と段ボールを積んだ荷車の後を追い、倉庫のようなところを走り回り、外に出ると、そこは真っ青な空に真っ赤な太陽の屋外であった。つまり、そこは真夏でくさ~い空港ビル外であった。そこからどこに行っても、くさ~い人々の群れるダッカの街であった。なお、パスポートにはちゃんと入国審査の印があり、段ボールも足元にあった。そこには住商からの迎えの現地人がいて、その案内で、ホテルに宿泊し、翌日の列車で現地に向かった。住商の応対は日本語の出来ない住商現地社員だけで、その案内も、早朝の現地人が駅周辺いっぱいに地面に寝転ぶ駅までで、そこから現地へは3人と十数箱の段ボールで向かった。現地は、DACCAからぼろ列車で5時間ほど列車に乗ったアッシュガンジ村にあり、そこには電話も無く、日本との連絡は、フォスターウイラーのメール便でDACCA住商にメールを送り、それを、日本に送るか、ローマ字伝送するかしか方法が無く、返信を得る迄、最速でも2週間はかかった。時は8月末の雨季で、国土の20%以上が増水で水没状態のバングラデッシであった。
ずっと後になるが、英語に十分習熟してから、遅れていた設備の試運転に再出向した時には、段ボールは少なめでもあったので、正々堂々と通関をしたが、通関職員にあれこれと指摘されて100ドルも支払わねばならなかった。裏ルートの方が安いなんておかしな話だと思ったものだ。なおその際に彼は、段ボールいっぱいの日本米と段ボールいっぱいの本を持参していた。申告者は僕なので、内容の説明をすると、審査官は「我が国に米を持ち込むとは!」と嘆息した。大量の本を見て、「・・・・」言葉もなく目を向いた。これらは通関できず、後に僕がダッカに出向いて交渉したが、通関料1000ドル余を請求され、僕は放棄することにした。日本から出る際に、3000ドル程度の借受金を持参していたが、その1/3もの金を使う気がしなかったのだ。
ところで、運ぶのに往生した段ボールだが、その殆どは、勤勉でもなければ正確でもない仕上げ士の荷物なのだが、彼は仕事よりも自分の生活を快適にするとか自分の得になることに熱中し、結果として、その負担は殆どが僕に背負わされたようだ。困った人間を部下にすると本当に困る事態になるわけだ。
2022年1月30日日曜日
バングラデッシ Ashuganji Urea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。
僕が30代初めのある日、僕を苛めまくっていた課長が僕を呼び、「うちで受注したバングラデッシの肥料設備の据付指導の責任者に、新居浜の鉄工課の馬場洋一郎君を予定していたが、彼が、イラクの設備の指導員として行くことになったので、事業部長が君を代わりに行かせろと言っている・・・」と、言葉の最後をかなり残して言った。
事業部長の命令と言っているのだが、その課長の本心が、「事業部長の命令だから仕方が無い」、と言うことなのか、それとも、「事業部長の命令とは言え、お前自身の意思で、断って欲しい」と言っているのかが判らなかった。
そもそもその案件について、僕は全く関与していないので、いかなる立場で行くのかも判らないし、更には、設計者の僕、しかも海外経験が全くない僕が、加えて、設計者たる僕が、なぜ据付の指導員、それも、据付の指導責任者なのか、とも思ったが、事業部長が命令するのだから、それだけの配慮があって命令するのだろうと、「判りました」と返事した。
が、その後の経過からすると、事業部長は単に馬場君をイラクに送りたいが故に、僕をダシにしたに過ぎなかったようだ。ただそれだからと、論理的に(つまり、客先が据付指導員を要求しているのに、設計者を派遣するのはおかしいとの)出張を拒否すれば、ことの正否は関係なく、要領の悪い僕はまずい立場になったと想定できる。
会社組織としてはかなり非論理的で無謀な命令だ、とも思ったが、その出来事の前に、自分で受注した住金鹿島の第3焼結の現場で、これは設計者として、それもプロマネをしていたが、現地で死亡事故が起こり、現場の補助として派遣されたが、実際には部分的に現場も受け持って従事した経験があり、バングラデッシの案件は設備的には大した規模ではないので、なんとかなるだろうと考えた。
しかし、その後判ったのだが、バングラデッシ案件の据付指導員とは、物品はFOBで納入され、その時点で売り上げは完了していて、現地での据付は客先が行い、彼等がわが社に発注するのは、据付指導のエキスパート派遣だけの契約だった。契約書の中には、据付指導員の能力が彼等の期待に沿わねばネグレクトするとまで書いてあった。こりゃ、僕では役不足の可能性が大きいな、と思ったが、後の祭りであった。
そもそも我が事業部は、現地試運転までの契約が多く、FOBで契約を終了して、その後に据付指導員の契約をする、なんて契約についての経験がほぼ無いので、事業部も海外営業部も、その差についての認識がほぼないことが、その案件での経過で判った。
客先も恐らく、据付のエキスパートに1日数万円の金を払うのだが、なぜ設計者をも、それも、設計者を指導の責任者として派遣するのだろうかと戸惑ったに違いない。この頓珍漢な感覚の違いが、その後、僕と海外営業部や事業部側との連携に食い違いが起こり、それは、仕事を終える迄どころか、仕事が終わってからも続いた。
海外営業との連携については、海外営業部長は、事業部が有能な馬場君に代り、据付素人と思える僕を派遣することに、非常に怒っていて、僕が初めて現地に出向するのに、英語も話せないことを知りながら、営業員を付けようとはせず、それどころか、仕事の進展に伴って、僕を援護するどころか僕に対する不満を事業部に言い続け、それは、据付指導が終えてから、試運転後に客先から据付完了証明を発行してもらって帰国したにも拘わらず続き、更に保証期間が終わってからも、僕の据付指導への猜疑心を持ち続け、会うたびに反感を露わに示し、それは、僕が東京に転勤してからも続いた。
海外営業部の営業員が現地を訪れたのは、据付工事が後半になった頃で、僕には何の力にもならなかった。訪れた営業員は、僕が客先への提出文書にサインと共に、冗談半分でハンコをおしているのを見て、海外ではハンコはつかいませんよ、とアドバイスをして帰っていった。海外営業部長は据付指導を無事に終えた頃に現地を突然訪問してきたのだが、その現地で据付工事を請け負っている工事会社が順番にパーティを開催するのに遭遇して、僕に「我が社もパーティをやったらどうか?」と提案した。しかし、僕の管轄する費用は、あくまで指導員派遣のみの製番、つまり、僕を含めた据付指導員の日銭だけであり、現地に滞在する据付業者のように巨額の据付費を管轄するわけでもなく、僕ではパーテイの費用を工面する権限も予算もない。返事のしようがなく黙っていたら、それ以上の要請はなかった。
更に、日本に帰ってから、設備を設計した設計者が、「現地出張の準備も全部していたんですよ」と、現地に呼んでほしかったとの雰囲気で僕に言った。
だが、設計者の僕が現地に居て、日本の設計者に応援を頼むなんて奇妙で、面子上も出来ないし、それに、設計者の現地出向費を、僕の管轄する指導員派遣製番内の費用でまかなうなんて出来ない。つまり、彼が現地に出張するには、元のFOB費用内で処理せざるを得ず、それは僕の管轄範囲外であり、その決定は日本国内側、つまり課長やFOB案件のプロマネ、つまりは彼の上司にあったのだ。
初めから終わりまで、現地と日本国内の認識がずれたままの案件であった。
据付指導員だけの製番ではあったが、現地での客先との交渉は僕がせざるをえず、納入品の不良等の改良費も僕の管轄費用内で処理した。が、それでも、僕の管轄範囲内で2000万円もの利益が上がったのだが、通常の工事を含めた製番と比較すると、利益の額としては小さく誰も褒めてくれる人は居なかった。が、ただ、僕への課長の苛めはこの仕事を無事に終えるとともに終わってしまった。
加えて、現地ではホスターウイーラーの作業時間との関係で、僕や僕の部下には、かなりの残業費が発生したのだが、当時は、イラクの案件、それに、シベリアの案件が大赤字だったので、事業部側の管理部長の判断で、僕らの残業費は半分を召し上げられ、それらの赤字に回されてしまった。それどころか、僕の上げた利益さえも、それらの赤字案件への補填に使われて、経理上では事業部外には利益が計上されることもなかっただろう。
ところで、僕は、僕の携わる製番については、定期的に経理から、製番別支出一覧出力を常に手に入れて、製番の損益状況は常に把握することにしていた。その結果、僕の部下として一緒に出張した現場員の出張費が僕の出張費より多い、なんて馬鹿げた状況を見出だした。出張費を担当する総務に問い合わせると、新居浜の総務からデータを入手するとのことであったが、新居浜の総務はそれを拒否したとのことでうやむやになってしまった。要するに新居浜から出張した社員の出張手当は、新居浜以外の部署からの、しかも、職階の上級者の手当より多いってことですな。各製番の損益をカバーし合うのはまだ良いとしても、各個人への出張手当の不公平までも誤魔化すって、新居浜内の仲間意識が不愉快であったが、それが新居浜だろうとあきらめた。
