僕が30代の初め頃、当時は、大阪土佐堀にあった住友重機械・運搬機事業部の土佐堀分室に勤めていた。事業部の本拠は新居浜なのだが、その1部門のコンベヤ部は大阪に進出して、土佐堀の、とあるビル内に土佐堀事務所を設けていたのだ。そうして当時は、ここに書いたように、その部のXX課長に苛められまくる奮闘の日々であった。その課長とは立場的には僕の尊敬する中谷部長の後継者なのだが、部長が彼を後継者を決めたのではなく、部長の意に反して上から指定されたようであった。
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当時僕は海上空港となる関西空港の埋め立てプロジェクトを、土建業会のワーキンググループの土取り機械設備計画の担当としてたった一人でサポートしていた。機械メーカーとしては我社だけが作業していたので、実現に際しての受注の可能性は極めて高かった。土建業者のバックアップ作業でそれなりに忙しかったのだが、XX課長は例の如く機嫌の悪い顔つきで僕を呼びつけて、超巨大コンベヤの開発プロジェクトを開始するので君がまとめろ、と命令した。関空案件では、泉南の山中から埋め立て土砂を海岸まで運び、これをバージで埋め立て現場まで運ぶのだが、膨大な土砂を短期間で搬送するため、搬送用ベルトコンベヤは、幅3m、搬送速度は300m/mと、巨大なコンベヤを必要とする。確かに、日本ではかってない巨大なベルトコンベヤだが、僕にすれば既存の技術であり、僕の技術力であれば開発プロジェクトを立ち上げるほどのことではない。そこで戸惑っている僕を無視して、誰と誰をそのプロジェクトに加える、と不機嫌に申し渡した。考えるに、受注していた製鉄所納入設備の処理に部の人員を大きく増やしたのだが、仕事が減って来たために余剰人員の人件費を開発費として本社負担に回して、その開発業務と余剰人員を僕に押し付けたわけだ。
僕が忙しい時には人員を一人も回さず、課長管轄の人員が余剰になると押し付けるってことで、その勝手な行動を隠すために不機嫌な態度となるわけだ。僕が彼の立場であれば、大量の仕事をこなすには人員を増やす以外の方法をこうじたであろうが、彼や彼の好む技術者にはそんな考え方は不要なのだろう。(住友重機械には、部下を増やすことが管理職の能力だとの風潮があるようだ)
開発と言ったところで、いったい何をすれば良かろうかと思うのだが、課長からは何の指示もなく、ただわけの判らんことを大声で怒鳴るだけなのだ。困ったことだ。そこで新しく部下となった川崎君と相談して、超大コンベヤの技術資料は僕の知る技術情報やそれを応用して巨大化に適用することなどでまとめるとして、それとは別に、自分達の技術能力を高めるべく、種々の施設での工業バラもの処理技術を集約することにした。実際の所、これらの技術情報は少なくとも、その後の自分の人生に非常に役に立ったのだ。
(これを書いている間に気付いたのだが、XX課長は、僕が八戸に納めた長距離コンベヤ設備の設計などのノウハウを知りたかったので、それを纏めることを望んだのかもしれない。しかし、長距離コンベヤのノウハウとは、ベルトコンベヤについての市販本にも書かれている基本技術とそれに、高校卒レベルの物理知識、つまり、力=質量x加速度(運動方程式) とエネルギー保存の法則、運度量保存の法則を加えるだけのことなのだ。ところが、XX課長にはそれすら理解しようとしないと言うか、臆病というか、僕が以前に実施した長距離コンベヤの設計手順を1からまとめた物が欲しかったと思われる。XX課長がちょっとは頭を使えば良かったのに、と思う。それに実際には、八戸での設計手順の殆どは部の倉庫に収納されている製番ファイルの中に納められていて、誰でもが閲覧できるようになっていたのだ。)
この開発業務に加えて、課長は「コンベヤ用ローラの開発」って課題も指示した。当時の技術からすると、コンベヤローラにはそれほどの技術的な要望があるわけではなく、価格的な競争商品であるので、住友重機械が手を出す商品ではないと思ったが、課長は高防塵の高性能ローラを開発せよと指示したのだ。
この人のやることや言うことは何が何だか判らないと思うのだが、反論すれば沸騰して絶対に言うことは聞かない、指示に従う以外に道はなかった。その件には以前からの部下であった大西君に担当してもらったが、いずれの開発案件もわけの判らない指示を何とか形にまとめるべく混乱の極みで、川崎君や大西君には本当に苦労させたと思う。今から考えると、課長の指示には関係なく、何か新しい技術分野とか、若しくは、設計・生産技術の自動化とかを推進すべきであったと思える。更に振り返って考えると、XX課長の考えは、住金の設備増強が終わった時を考えての新規製品の開発だとも思えるのだが、ベルトコンベヤ設備受注の可能性が減ることを見越しての新製品開発で、ベルトコンベヤ部品の開発をするとは支離滅裂ではないだろうか?
ベルトコンベヤ設備に替わる新製品を案画すると指示すればそれなりの検討もあったのだが、本人がローラの開発と心に決めているのだからどうしようも無かったのだ。
なお、ベルトコンベヤ設備の設計自動化とか鉄骨構造物の設計自動化については、後年、自主無賃休日出勤を続けることで成し遂げた。
そんなある日、課長が僕を呼びつけたのだが、奇妙なことに、いつもの傲慢な口調ではなく、遠慮がちに話しかけた。
と、行けとは言わずに提案形の指示であった。中谷部長を通り越して事業部長に媚を売っている課長としては、事業部長の意向に逆らえないので、提案形の指示となったのであろう。
住友重機械には、据付指導員の専門セクションはなく、概ね、鉄工課とか生産技術課などの現場部門から派遣されるのだ。だから、設計部門の人間が据付指導の責任者で派遣されることは無いのだ。つまり、僕の居た設計部門から、しかも、僕が設計を担当していなかった設備の、据付指導、それも、その責任者として派遣されることは通常では絶対的に有り得ないことだった。客先にしても日当いくらと金を支払って派遣者を要請する以上は、据付に経験豊かな技能者を期待しているのであって設計技術者を期待するはずが無いのだ。当然ながら客先が不適当と判断された指導員は、ディスクオリファイとして罷免されることになる。それどころか、その件の指導員派遣契約書によれば、英語も喋れないと罷免される恐れも充分にあった。
当時の事業部長は、社内では天皇と呼ばれるほど傲慢なのだが、お客さんには全く弱いとの人物で、僕も彼とは話をしたこともなかった。つまり、僕に経験を与えるとか育てるとかの意思があるはずもなく、何らかの都合で、本来は新居浜の現場部門が果たすべき任務を、それも、馬場君を他の現場に必要としたので、彼に予定されていた仕事を土佐堀のコンベヤ部門に押し付ける事情があったのだろう。なお、馬場君は僕と同期の人物で、京大卒の優秀な人材である。しかも彼は既にその件の現場も調査しており当然だが英語もぺらぺらである。
恐らく、新居浜の現場部門でも、バングラデッシュなんて国に、しかも、2~3人の少人数で、コンベヤ部の納入品であるが故に、新居浜の十分な支援も期待できない現場を、希望する人もおらず、僕を指名若しくはコンベヤ部の誰かに押し付けようとしたのだと思えた。
が、今になって考えると、事業部長が、僕を知ることもないから、我が部の課長には「馬場君はイラクの件で出せないことになったから、据付指導員はそっちで考えろ」程度に言った可能性があり、大阪コンベヤ部の管理部門には海外に派遣できそうな人材も無く、僕に白羽の矢を立てた可能性が高い。が、僕も英語会話なんてやったこともないので、海外に適当な人材とは言えない。
しかしそこで、課長は例の如く、事業部長の馬場君を確保したいとの要請に対して、都合の悪い仕事を僕に押し付けるべく、あたかも事業部長の指示であるかのように発言して、僕が断れない状況を作った可能性も高いと思われる。
据付には殆ど素人の僕を派遣して、失敗しても、自分には何の責任も無く、しかも、鬱陶しい僕を追い払える可能性さえ生まれると、実に見事な配慮ではないか。
こんな策略には僕は全く対応のしようがなく、数か月後に、据付が始まるであろう頃に僕は、バングラデッシに派遣されることになった。それも、据付指導の責任者としてである。更に、据付試運転渡しの仕事ではないから、僕が管理できる予算は、あくまで、客先から支払われる日当費用の範囲内になるわけで、若し製品の不良が原因でのバックチャージが発生してもその費用内での処理となるから、たちまち赤字になってしまう。ただ、恐らく本体収入との清算は行われるだろうが、僕の管理範囲内の収支はとにかく赤字になってしまう。しかも、設計には万全の自信のあるぼくも、据付指導に関しては全く経験も自信もなく、そんな人間を派遣された客先は、果たして、どう考えるだろうかとさえ心配になった。更には、先に書いたように、英語のヒヤリング・スピーキングも全く経験なく、それどころか、飛行機では新婚旅行で北海道へと往復に乗っただけで、海外には全く行ったこともなかった。しかも、その新婚旅行の旅程・手配も全て女房がやったのだ。こんな人間を、かような有り得ない事情で、しかも、据付指導の責任者として派遣する会社なんて、住友重機械以外には、どこにもあるまいと思う。
僕が出向することになった現場は、バングラデッシのAshuganjiの尿素製造プラントで、そこの粒尿素やそれを袋詰めした袋を搬送したり船積する設備で、世銀から借金して、英国のFosterwheelerがプラント全体をまとめる施設建設であった。つまり、英国人が現場の全てをコントロールするプラントであった。我が社が納入する物品は住友重機械の新居浜工場に集結最中で、その製品検査・輸出梱包の内容検査は、機械据付現地指導員として予定されているO君が行っていた。彼は、僕がプロマネをした住金鹿島焼結設備の指導員としても出向していて、彼の性格は十分に把握していたが、その性格は愛想良く人当たりは良いのだが、かなり大雑把で、しかもその場の偉いさんに巧妙に阿る性格で、信用できるものではなかった。が、既にXX課長には好印象を与えていて僕が変更できる状況では無かったし、そもそも僕には、人員を選ぶ選択権もない。与えられる人員で対処することで、今までのプロジェクトの経験から、その能力には自信があった。
既に全てが梱包されているので対処を考えねばならない。幸い、梱包リストはコンピューターに入力されていて、各品目の最後に機番が入力されている。そこで、O君に事情を説明して、機番ごとの部品の梱包番号を出力するようにと指示した。
話は飛ぶが、これで大丈夫だと思っていたが、結局彼はその作業やリストの重要性を理解できておらず、現地に入って山のように集積された梱包を前にして尋ねると、忘れていた、と答えた。あきれ果てたが仕方が無い。彼の性情を甘く見ていた僕の失敗だった。
が、元々所属するコンベヤ部でも課長勢力からの助けなしと言うか、むしろ邪魔されながら、八戸の長距離コンベヤ関連は僕が独りで、その後の住金鹿島署結設備以降は大西君と二人での仕事を続けていたので特に気にはならなかった。
電気担当の指導員として新居浜製造所が選んだのはN君で、検査部の機械担当であった。電気設備の訓練を兼ねて選出したとのことで、英語が喋れるからとのことであった。電気工事の勉強を兼ねて派遣されてもなぁ、と思ったが、それが新居浜製造所の僕への対応であろうとあきらめた。英語が喋れるのは有難いとおもったが、その実力は僕と大差なく、現地で英国人指導員にくっついて英会話の練習をしていた。そうして僕は、チーフとしての立場で実務での英語会話勉強が心ならずも必要となった。
ところで誤解が無いように書いておくと、新居浜の現場の若手の殆どは真面目で有能な連中が多い。彼等には、住金鹿島の焼結設備の据付では多いに助けてもらったし、楽しく仕事を出来た。実際に、本件でも、後の試運転時にはそんな連中を連れて行った。彼等は大いに助けてくれたし、一緒に働いて楽しかった。そもそも工業高校卒の彼等の多くは、家庭環境さえ良ければ一流大学に進学できたであろうほどに優秀で真面目で、彼等と一緒に働くとお互いに仲間意識が生まれるが、O君はその範疇では無かったのだ。なお本件では、その後の試運転時の再出向では、O君は仕上士なので試運転が本職にも拘わらず、恐らく彼が選んだと思われるが、トルコの案件に行ってしまい僕の現場には来なかった。それが、僕には幸いしたのだ。なおその後、トルコの案件では彼が浮き上がっているとの噂を聞いた。彼が原因かどうかは判らないが、その後トルコ案件は大赤字となったが、一緒に仕事をすると、彼の担当部分では問題が多発して、しかも問題が起こる時には彼はどこかに行ってしまって不在との、彼の行動や人間性は直ぐに判るのだ。
英語が話せず、海外旅行も初めてなんて僕が据付指導に行くなんて馬鹿げた状態だから、何をやるにも戸惑ってばかりであった。航空機はタイでのトランスファーで一泊してバングラデッシ航空でダッカに向かう。海外のホテルなんて初めてで英語も喋れず夕食・朝食の頼み方さえ判らない。
なんとかダッカに着くと入国審査である。大量の荷物の審査さえ心もとない。入国審査の長い列に並んでいると、少年が近づいてきて、スルーで行けるよと手まねで説明した。いくらかと聞くと、50ドルだと言う。これで行こうと決断してOKと言うと、荷物のある所に案内してどれが荷物だと聞き、指示すると台車に乗せて走り出し、途中で我々のパスポートにバンバンバンとハンコを押して走りだした。遅れまいと走ってついて行ったが、あっと言う間に気が付くと、なんともくさい臭いの空港の出口に立っていた。
話は先に飛ぶが、再出向の時には、英語も話せるようになっていたし、しかも、荷物を整理して少なく抑えていたから、少年の要請は無視して、まともに審査を受けたがあれこれ指摘されて結局は120ドルもかかった。しかも、特にO君が持ち込んだ大量の日本米には審査官が「我が国に米を持ち込むなんて・・・」と絶句していた。一緒に持ち込んだ大量の日本の本と共に持込は禁止となった。
それはともかく、最初の入国で安く済んだのはビギナーズラックってことだろう。
当時のダッカ空港は市内にあり、空港を一歩出ると、9月であるが陽光はぎらぎら輝き空は白みを帯びた青空で、とてもくさかった。それは何の臭いだろうか、貧乏臭とも言える、終戦後から中学校頃までの大阪市の臭いによく似ていた。そうだ大阪の昔の臭いだ、と思うと、それらの臭いも気にならなくなった。特に安煙草の臭いが強いのだ。
列車は、ダッカ駅から200kmの単線を6時間もかかり、列車がAshuganji駅に着いて、大量の段ボール箱を下し、何人もの汚れまくった人足に持たせて、駅に待機したバスに運ばせて、チップの金額で暫くもめて、これらを殆ど僕一人で仕切った。部下である英語が堪能なはずの電気指導員見習いは、なぜか、かような汚れ仕事には口を出さない性格で、それに、仕上指導員は英語が全く出来ないので横で見ているだけだから、結局は僕が、段取りや交渉を、拙い英語で、人足共に怒鳴りまくるわけだ。情けない立場の現場責任者である。しかし考えてみると車内で後ろ盾の無い僕にはいつもの状態ではあった。
バスは巨大なメグナ河に突き出した突堤の上を、川岸に埋め立てられた広大な工場敷地に向かったのだが、着いた当時にはどこをどう走っているかは判らなかった。門からはジープが用意されプレハブの仮事務所のような所で降ろされ、まとめ会社、FosterWhillerとの最初の打ち合わせとなった。
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