2022年4月15日金曜日

2022年(令和4年)の畑

 4月7日から4月14日まで大阪の家のメンテに行っていたので、その間に、ホウレンソウは殆ど枯れてしまった。ホウレンソウは寒さや乾燥に弱いのだ。仕方がない。冷蔵庫での芽出しからも再スタートだ。
4月15日に農業会館で苗が売っていないかと行ったら、ピーマンとキューリの苗が、一株88円で売っていた。ピーマン6株、キューリ4株(合計880円)で購入した。昨年はもっと大きな苗が一株60円であったが、それを待てば、ひょっとすると買い遅れる可能性もある。

14日からまた寒くなったので、段ボールに入れてカバーをして、さらに、エヤコンの下で20℃温風を浴びせている。15日は日差しがあったので、15日に買った分も同様にして、屋外に置いた。

翌日4月15日に再度農業会館に行くと、88円苗の、ナス、ミニトマトが売っていた。60円苗を待ち買いそびれるのがこわいので、ナス6株、ミニトマト2株を購入した。(合計704円)
14日購入分と合わせT、1584円だ。

さて、購入したものの、植付には早すぎるし苗も小さ過ぎる気がする。暖かい日に、、大きなカップに植え替えて、夜は保温しながら大きくなるのを待つ積りだ。
4月16日は、午前中は日差しも暖かく、全ての株を大きめのポットに移し替えて、夜に備えてカバーも充分に施した。

4月22,23,24日で、苗植えを終えた。ミニトマトを除き、根切を施し、出来るだけ網カバーを施した。キューリの一個が元気をなくしたが、草木灰を施すと不思議なほどに元気を回復する。24日夜には小雨が降り、大方の作物は元気だ。
24日には、ナガナス、しゃきっとキューリ、ピーマンのポット播種を終えた。ピーマン以外は光が苦手なようだ。
本来なら、植付も播種ももう少し後なのだが、今年は温暖化効果が出ていると思える。オクラは梅雨前がベストだったと思うが、早めの播種を試してみようとも思うが、畑に余裕が出来るのを予測しなければならない。先ずはグリンピースがいつ終わるかだ。

道路側1列目
タマネギ、ニンジン、ブロッコリー4株、キャベツできそこない、つるいんげん、ミニトマト
と、前にツルナシインゲン、


1列目のミニトマト2株+つるインゲンで、前に、つるなしインゲン列、その向こうが人参


1列目のニンジン部分

道路から2列目 できそこないキャベツと玉ねぎ

タマネギ、ニンジン、キューリ1株、イチゴ



鳥よけ網のイチゴ

道路から3列目 ジャガイミ、キューリ3株、ウスイのエンドウ

ジャガイモ列の真ん中に、キューリ3株



道路から4列目 手前葱のあと地 と スナップエンドウ


スナップエンドウの向こうは、ナス6株とピーマン6株

ピーマンの網掛の向こうは、ニンニク 収穫あと地と収穫前

ニンニクの向こうは、網掛ホウレンソウ

2列目 弱弱しいキューリとホウレンソウ

4月末の嵐で、グリンピースが痛んだ。横棒がずれることと、密集植をしていないことがまずかった。
ポット播種は、キューリが2本芽生えたがそれ以外は全滅だった。やはり早すぎるようだ。
ナスの種は再購入したが、ピーマンの種はダイソーにはなかった。

2022年3月1日火曜日

房室ブロック 救急車で済生会習志野病院に運ばれた。

 2月15日(火)と翌日に、AmazonPrimeStudent で無料ビデオを朝の3時まで見続けて、15日には自転車で思いっきり図書館に予約本を取りに往復し、夜はまたビデオ鑑賞で3時までおきていて、16日には、午前中いっぱい農作業をした。疲れることもなく、家に帰り、コタツに座った途端に、ぐらりと倒れてしまった。そのまま眩暈と貧血で立てなくなってしまった。体温に異常なく咳も無い。コロナではないなと思いながら、大きく息を吸うが、立てる力がでない。めまいがして貧血状態だ。食欲も全くない。おかゆを少なめの一碗食べるのがせいぜいだ。食欲が無いのと体を立てることができないのだ。その日は風呂に漸く入り、寝床についた。
17日、18日、19日と全く回復しない。風呂に入る気力もなく、めまいと貧血で布団を上げることさえ出来ない。
腹式呼吸をすると、若干気分が良くなることを発見して、NETを調べると、特発性間質性肺炎が最も該当するようだ。ひょっとすると肺がんだろうか。常々、マスクの中にメタノール水溶液の消毒不織布を使ったのがまずかったかと、NETで見ると、メタノールは発がん性が高いらしい。とんでもなく危ないことをしていたのだろうか。それに、長期間パソコンにへばりついて胸を圧迫しつづけたのもまずかったか、等とくよくよと考えた。
20日(日)になり、病院に行くにも体力がなく、救急車を呼ぶより仕方ないかな等と話していたが、腹式呼吸で若干症状が改善するので、もう少し様子を見ようと考えた。が、午後になり2階に上がったが、降りてくるのも眩暈がして、これは駄目だと、119番に自分で電話した。症状を話し、病院には近いのでサイレンは不要ですと言ったが、救急車はサイレンを鳴らすことが義務付けられてると断られた。
救急車が着いて、僕は自力で搭乗してベッドに横になった。女房も同乗した。救急隊員は血圧を測定したが、異常はなく、脈拍が低すぎるとの見解であった。若い時に激しい運動をしたので心臓が大きく、脈拍が低いのでしょうか、等と話したが、脈拍40では低すぎるとの答えであった。救急隊員は受け入れてくれる病院を電話で探したが、八千代医療センターも徳洲会、島田台も駄目だとのことで、余り遠いのは困るから、いったん救急車を降りて自宅に戻ると言うと、戻りたいのを拒否できないが、脈拍が低いのが心配だと言う。更に病院を探して、済生会習志野は受け入れるとのことで、場所は京成大久保の近くだと言うので、僕としては土地勘もある。それなら余り遠くでもないと了解し、救急車は発車した。
到着して救急口から大勢で受け入れてくれた。直ぐに血液採取と心電図を測るとのことなので、長袖の下着を脱ぎ、下は全て脱衣するようにと指示された。
心電図を取ると、直ぐに担当医が、「房室遮断です」と言い、心臓の説明を始めた。「心臓は、上側の心房2個と、下側の心室2個で構成されているが、心房からの心室への信号がブロックされている。貴方の場合、信号の2/3~1/2しか伝送されない。ペースメーカーを入れるのがベストでしょう」とのことであった。
そのまま、救急エリアの部屋に運ばれ、尿管を差込まれ(死ぬほど痛い)、点滴を受けたが、エヤコンがゴーゴーとなる騒々しい部屋であった。ただ点滴で体はかなり楽になったので案外眠れた。隣のベッドの、超高齢の婆さんが、水ちょうだい!水ちょうだい、と繰り返していたが、その幼い口調に噴出してしまった。眠りの邪魔には全くならなかった。
翌日月曜日、救急で対応した循環器科の竹田先生が来て、再度、病状についての説明があった、手術後一週間の入院が必要だと言う。手術しないと症状が変わりそうにないので、急いで手術して欲しいと言うと、では、午後に遣りましょうとなった。後で判ったが、この竹田先生って年がら年中、病院にへばりついているような先生と思えた。
月曜は女房の都内でのハイパーサーミヤ治療で、火曜は徳洲会北習志野での点滴治療だが、先週末に都内での治療はキャンセルした。点滴治療はキャンセルしてはならないので、女房だけで行かせることにした。女房一人で車で行くことは可能だが、受診手続き・手順・予約設定とかの細々が不安だ。自分のことより、それが心配でたまらなかった。
手術後一週間入院だと、次の月曜日のハイパーサーミヤにも同行できないことになる。それはまずいので、術後の経過を見て先生と相談することにした。
点滴のおかげで、久しぶりに充分に眠れた。しかし、身に着けるのはパンツと前が閉じられない手術着上衣だけだ。そこまで疲れていると騒々しいクーラー音も気にならないほどに疲れていたのだ。
手術室に運ばれ、麻酔は肩甲骨辺りの局所麻酔で、ペースメーカーを入れる部分を一生懸命に掘っていた。その後、リード線を静脈に入れて先端を心臓の適所近辺に入れて行った。その後は、リード線先端の位置決めで、あっちこっち移動してはその位置に信号電流を流し、心臓の動きを確かめていた。まるで電気工事士の配線作業であった。なかなか最適反応が得られず、結局は、適度の位置を選択したようだ。
かくして切開口が縫い合わされ、僕は7階病棟の755号4人部屋に運ばれた。肩は緊迫布で巻かれ、特に左手はがっちりと縛られている。その状態で夕食だが、まだ麻酔が効いているせいか久しぶりに夕食を完食できた。
食後、横になったが、麻酔が覚め始めて痛みが出てきた。眠りに入れたのだが、痛みはいよいよ激しくなり、夢の中でうなり声を挙げながら、しかも、重い荷物を左肩に背負いながら、長い螺旋階段をよいしょよいしょと上がってゆく夢が延々と続いた。
手元に携帯を置いていたので、家に連絡すると女房が出てきた。持ってきてほしい品物を言い、病院の位置を教えようとするが、女房は拒否反応である。普段に地図の見方を教えておくべきであった。それを何とか説得して納得させた。その後、うとうととしている間に女房は何とか病院に着いたらしい。女房が荷物を持ってきたらしく、見える棚には袋入りの私品が納められている。しかし、そこに行くだけの気力はない。余りに痛いのだ。
僕のベッド上での状態は、前をはだけた手術着の上衣、と、5日間ほど履きっぱなしのパンツだから、ほぼ裸状態で、尿管と点滴管をぶらさげている。点滴は可動支柱に取り付けられているが、尿袋はベッドに括り付けられているから動きようがない。荷物袋に何が入っているかを確認するには、移動できるようにならねばならない。尿管を外せば移動できるだろうと看護婦さんに頼んだが、人手不足のせいか、若しくは先生の指示なく決定できないせいか、誰も外そうとはしない。そこで、尿袋を注意深くベッドから外して点滴支柱の下部のほうのハンガーに取り付けた。下部ハンガーの位置を尿袋としての機能を失わないように高さも調整した。これで漸くベッドから抜け出て、我が荷物の内容を調べることができた。
荷物の中にスマホ充電器を見つけてほっとした。自分の下着、寝巻と、貸寝巻も見付けたが、尿管が邪魔して履き替えができない。半裸状態を抜け出すには下着や寝巻パンツをはかねばならない。つまり、尿管を抜くことが必須条件だ。
竹田先生の回診があり、尿管を抜くように頼んだ。更に、女房のハイパーサーミア治療で月曜日に都内に行くので、金曜日には退院したい、と主張した。「あなたの場合、何を最優先するかですね」と言うので、「女房が最優先です」と答えると、「貴方の生死にかかわりますよ」と言うので、「それでも、女房を優先します」と答えた。だが、先生は引き下がらない。「両方を成り立たせるには、ハイパーサーミアの日程を1日遅らせれば良いだけです」と言う。これには反論できず、ハイパーサーミアのクリニックと連絡します、と答えた。
医新クリニックと連絡しようとしたが、楽天スマホでは接続できない。試したが、接続出来る時が少ないのだ。これでは確実な日程変更ができない、と焦った。(後で気づいたが、病院のWIFIに接続して、楽天リンクで電話すればよかったのだ)
医新クリニックは、神田の岩本町にあり、東葉線から東西線直通で、日本橋で銀座線に乗換て、二つ目の神田で降りて、徒歩15分程度だが、問題は、乗換通路や最適な地点への地上への通路だ。出口をちょっと間違うと自分の位置を見失ってしまう。現役時代に僕も東京の地下鉄では何度も経験した出来事で、女房にはその際のリカバリーが難しくパニックになるだろう、と心配だ。
そこで日本橋、神田での丁寧な駅の地図と、通路の地図を書くことにして、紙がないので、先生の治療説明書の裏を使った。蛍光塗料は看護士待機所に借りに行った。天皇誕生日で休日なのに、看護士待機所には大勢の看護士らしきメンバーがいたが、夜に入り解散する直前のようで、なんとなく見知らぬメンバーばかりであった。以下に記載するように、患者が急死したことへの対応なのだろうかと思った。
僕のベッドは、755室の通路側で、窓側の2つのベッドは、21日(月)に二人とも退院していった。退院にしては二人とも元気がなさそうで、彼等の退院後、彼等のベッド周辺の家具類も新品と取り換える等大げさな部屋替えで、それが終わると2人の新人が入院してきた。カーテンで仕切られてこれらの状況は耳で聞く限りだが、1人の奥さんが、業者に「この御恩は一生忘れません」と言っていた、これらから判断するに、彼等は保険適応の養護施設に入れず、病院を一か月ごとに移動する方策を取っていて、それを斡旋する業者が居るものと思えた。そうして、退院した2人は、別の病院に移ったものと思われる。
しかし、奥さんが感謝していた方の患者は、天皇誕生日の夕に容態が急に悪化して、どうやら酷い下痢に見舞われ、夜には、755室トイレで看護士が彼の下の世話と体の清掃をやっていて、つまり、重病である筈の彼を、とても清潔ではあるもののトイレの土間に横たえて体を洗うってことは、既に亡くなっていると思えたが、そのご、医者や看護婦・看護士が忙しく立ち働いていたが、そのままベッドに置かれたままで、周囲が静まった夜に、ベッドごとどこかに運び出されて戻ることはなかった。
自分が丸太状態になった場合の末路を見るようで悲しかった。
なお、23日には竹田先生の指示か、男の看護士さんが来て、尿管を外してくれたので、行動はいよいよ自由になった。
2月24日になり、下着の不足もあり(実際は十分にあったが気付かなかった)女房に来るようにと電話で頼もうとしたが、携帯の音が小さい小さいと怒鳴られまくった。彼女の携帯操作をすれば調整できるのだが、僕にどなりまくるわけだ。とにかく来るようにと言ったが、道を忘れたと言う。娘にカーナビセット頼めと連絡した。
午後になり、女房が来たので、作った地図を手渡し、携帯の音量調整法も教えた。面会はコロナの関係で厳しいので、病棟受付を通さず、待合室前のエレベータ付近で待ち構えて待合室で打ち合わせた。カーナビセットは娘は出勤だったので、お隣の春田さんの息子さんがしてくれたと言っていて、道も、大体判ったと言う。聞くと、確かに判り易い道だ。
神田への地下通路地図を手渡したものの、余り理解できていないようなので心配が募った。
ついでに22日の徳洲会での治療を聞くと、点滴療法は無かったと言う。血液・採尿検査後の診断で、足の方が問題だと内科に回されたと言う。
退院してから領収書を調べたら、確かに、点滴治療は抜けていて、足回りの超音波テストが入っている。なぜ、点滴療法が抜けたのかと、同行できなかったことが残念でならない。
医新クリニックのハイパーサミア治療の日程をいかに調整すべきかと考えていたが、突然ある考えが沸いた、つまり、女房は日本橋までは確実に行けるから、日本橋で地上に出てタクシーを使えば、僕が居なくても混乱なく行けると気づいた。そこで、日曜日に女房に面会に来させて、その段取りとか医新クリニックの住所などを教えようと電話したが、「病院では玄関で入館を禁じられる」と女房が来院を渋った。電話を切り、受付の看護士さんに聞くと、休日は救急口から入館できて、7階の受付まで来られます。面会は原則としては午後2時からです、と言う。実際には午前中でも待合室に家族が来ている。それに女房にしても、一昨日には僕の面会できているのだ。病院入り口で入館を断られる筈がないのだ。どうやら女房は、2年前に僕の鼠径ヘルニヤ手術の時のことが突然蘇ったようだ。当時は確かにコロナ対応が極めて厳しかったのだ。
再度電話して、今は以前よりずっと緩和していると、看護婦さんの言葉をそのまま伝えて、日曜日の面会をなんとか納得させた。
もうその頃は、下着もちゃんと着け、貸付寝着を上を二枚重ねで、下に、遠隔心電機を納めてまぁまぁきっちりとした服装で、主に、ベッドは薄暗くて病人ぽい(病人そのものだが)ので、8階の図書館で本を読みながら過ごしていた。
眩暈も貧血も全くなく、血圧は、朝夕は、100/60程度で、昼間は、120/60程度と実に理想的で、脈拍はきっちり60であった。以前の血圧が125~135、で起き抜けにはしばしば、140代であったこととの相関性が理解できなかった。血圧の高いのは血管が硬化することが主因とすれば、なぜ妥当な脈拍で血圧が低く収まるのかが理解できないのだ。
まぁ、とにかく、状態は良くなったようで、タオル絞り法などの血圧対策は不要になったってことだ。入院して運動もせず、血圧状態が改善するとは変な話だ。
女房の病院への道も覚えやすかったようで、簡単に着き、神田医新の住所を書き渡し、混乱したら地上に出てタクシーを使うようにと強調した。これで迷子になることは無いだろうと、ほぼ安心した。
28日(月)退院日となり、朝から荷物の整理を始めた。9時半になり、竹田先生とペースメーカ社員とで、僕のペースメーカーのチェックを行い、機器説明書とか証明書が渡され、3月18日に退院後外来診察と言い渡された。看護婦が来て、請求書が渡されて1階に行き支払いを終えた、支払金額は、後期高齢者家庭で入院時の限度額、56700円であった。
支払を終えて、外に出るととても穏やかで温かい日差しであった。久しぶりの歩行で直ぐに疲れを感じたが、家に帰っても女房は神田医新クリニックに行っているのだから、急ぐ必要は無いと、電車で還ることにして、ゆっくりと京成大久保駅に向かった。大久保から勝田台に出て、東葉高速電鉄の勝田台駅に向かった。駅に着いて、列車の発車時刻を見ると、11時17分であった。

あれ、どこかで聞いたような列車時刻だな、と考えると、なんと!どうやら、いつも僕と女房が神田医新クリニックに向かう時の列車らしい。そこで、僕はいつも乗るドアーの所で待ち構えることにした。一緒に神田に向かえば良いのだと、考えた。列車が最寄り駅で速度を緩めて、いつものドアーの向こうに女房の姿を見つけて、僕は、心底ほっとした。

翌々日の3月3日には、目出ししておいたジャガイモを植え付けた。3kgものじゃがいもを植付けるのは初めてのことだった。
それにしても、と思う。僕の場合、房室ブロックがより厳しかったら簡単に死んでいたであろう。気絶してそれで終わりだろう。そう言えば、若い時に、水処理SJEの大学後輩が、夜遅く帰路の大阪地下鉄駅の椅子で死んでいるのが発見されたし、同期の石原は、息子に仕事を譲って直ぐに南洋のどこかの島で潜水を習っている間に死んでしまった。たった一つの信号線の不調でも人は容易に死ぬのだなと実感した。
他方、かようにグタッと一瞬でくたばるのも良いかもしれない。今まで普通に生活していて、突然、肩の重みそのものが耐えがたいほどに重く感じて、体が崩れてしまうのだ。そこで鼓動が40回/分程度で収まれば、つまり、房室からの信号の2/3が伝達されるのなら、細々と命をつなげるが、それ以下にまで低下するなら一瞬で死んでしまうわけだ。恐ろしいような嬉しいような、いずれに表現すればよいのだろう。

2022年2月13日日曜日

バングラデッシ Ashuganj iUrea(尿素肥料)工場建設工事での思い出。(続き)

 僕の出向が決まった時には、既に他のメンバーも決まっていた。新居浜の鉄工課から一人と、同じく新居浜の検査課から一人で、僕も含めて3人であった。検査課からの一人は、電気工事の勉強を兼ねて電気工事担当として行くとのことで、鉄工課の彼は、僕がプロマネであった住金焼結設備の据付時に来ていて、僕も一緒に働いた男で、仕事は大雑把で、世渡り上手ってタイプであった。
出荷は、既に新居浜工場での梱包がほぼ終了していて、僕は様子を見に訪れた。梱包指示や梱包検査は鉄工課の彼が担当していた。しかも製品検査自体も彼が担当していたとのことで、新居浜工場側は大阪コンベヤ課の仕事には全く関与する気が無いのだと思えた。更に、梱包状態と梱包リストを見たが、梱包は機番毎ではなくて、ばらばらの機番の物を混載しており、膨大な量の梱包の中から、機番毎に部品を集めねばならないのかと驚いた。今更梱包のやり直しを出来ないと頭を抱えた。梱包リストはCPUデータに入っていると言うので、せめて、機番毎にソーターすれば機番毎の部品がどの梱包に入っているかが判ると、機番毎にリストを作る様にと指示した。しかし、現地に入って判ったが、指示した彼は、その指示の重要さを理解せず、機番毎のソーター資料を作っていなかった。彼の性格や性情からすれば、そのような仕事での先を読んだ仕事はできないと判断すべきであった。
一方、電気工事の彼は、勉強を兼ねて電気工事担当と行くことになったとのことで、英語が出来るとのことであったが、どうやら英語能力は僕よりちょっとましって程度で、英語通訳には殆ど役に立たず、現地に入ってから英語の勉強に精を出していた。
要するに、製品検査も梱包検査もまともに行われなかった製品の据付指導に、しかも、その指導に、工事指導の経験僅かな僕と、細かい作業や先を読んだ仕事の出来ない仕上士と、電気工事担当だが電気工事の初心者って、合計3人で、工事指導をするってことになった。実に凄い組み合わせであった。

これでどうなることか、絶望的であったが、現地に行って判ったのだが、現地には、フォスターウイーラーが別に雇った本物の据付士(erecter)や仕上士、電気工事士が居て、彼等は本物の据付、仕上げ、電気の専門職で、我が社の様に、工場現場職を派遣するよりもより工事に関しての専門職であり、他方我々は、機械納入側として納入した機械のアドバイスをすることが望まれたわけだ、と言うことが現地に入り仕事を始めてから判った。
海外出張初めての3人が、バンコック中継泊で、バングラデッシ空港になんとか辿り着いたが、到着空港で段ボール十数箱の通関をどうしようかと並んでいると、横から少年が出てきて50ドル出せば簡単に通関できるよ、と言うので、これ幸いとそれに乗ると、走り回る少年と段ボールを積んだ荷車の後を追い、倉庫のようなところを走り回り、外に出ると、そこは真っ青な空に真っ赤な太陽の屋外であった。つまり、そこは真夏でくさ~い空港ビル外であった。そこからどこに行っても、くさ~い人々の群れるダッカの街であった。なお、パスポートにはちゃんと入国審査の印があり、段ボールも足元にあった。そこには住商からの迎えの現地人がいて、その案内で、ホテルに宿泊し、翌日の列車で現地に向かった。住商の応対は日本語の出来ない住商現地社員だけで、その案内も、早朝の現地人が駅周辺いっぱいに地面に寝転ぶ駅までで、そこから現地へは3人と十数箱の段ボールで向かった。現地は、DACCAからぼろ列車で5時間ほど列車に乗ったアッシュガンジ村にあり、そこには電話も無く、日本との連絡は、フォスターウイラーのメール便でDACCA住商にメールを送り、それを、日本に送るか、ローマ字伝送するかしか方法が無く、返信を得る迄、最速でも2週間はかかった。時は8月末の雨季で、国土の20%以上が増水で水没状態のバングラデッシであった。
ずっと後になるが、英語に十分習熟してから、遅れていた設備の試運転に再出向した時には、段ボールは少なめでもあったので、正々堂々と通関をしたが、通関職員にあれこれと指摘されて100ドルも支払わねばならなかった。裏ルートの方が安いなんておかしな話だと思ったものだ。なおその際に彼は、段ボールいっぱいの日本米と段ボールいっぱいの本を持参していた。申告者は僕なので、内容の説明をすると、審査官は「我が国に米を持ち込むとは!」と嘆息した。大量の本を見て、「・・・・」言葉もなく目を向いた。これらは通関できず、後に僕がダッカに出向いて交渉したが、通関料1000ドル余を請求され、僕は放棄することにした。日本から出る際に、3000ドル程度の借受金を持参していたが、その1/3もの金を使う気がしなかったのだ。

ところで、運ぶのに往生した段ボールだが、その殆どは、勤勉でもなければ正確でもない仕上げ士の荷物なのだが、彼は仕事よりも自分の生活を快適にするとか自分の得になることに熱中し、結果として、その負担は殆どが僕に背負わされたようだ。困った人間を部下にすると本当に困る事態になるわけだ。


2022年2月8日火曜日

所得税の申告

 所得税の申告の時期になった。
年金生活者で、収入は限られているので、配当金の源泉徴収分の還付や医療費の還付は小遣い稼ぎには必須である。投資での損害は通算控除できるし、医療費控除もある。
医療費控除は10万円以上が対象だとの通念は、現役時代の妄想で、現役時代給与に比べて少ない年金収入の場合は、所得に応じて上限が下がるのだ。
僕の場合は、趣味とは言え、大阪拠点を民泊にしていて、これのメンテにかなりの費用をかけている。大阪までの交通費や食費にかなりの金額を使うのだが、コロナ直前には民泊収入も増えてきたのだが、今は、恐ろしくて、ほぼ閉鎖状況だ。だが、メンテ費用は掛かるので、収入ゼロで、赤字になる。
民泊経営は雑所得で、損益通算範囲が限られるが、なんと、年金所得も雑所得だから損益通算できる。医療費は元々、全所得から控除できる。
なお注意すべきは、投資損失、特に、株の売却損などは、奇妙なことに、総合課税ではなくて、分離課税での申告でしか通算されない。他方、配当の源泉徴収分の還付については、総合課税での申告となる。が、総合課税だと、市・県民税が、特に、現役時代の給与の場合は、上がる可能性が大きい。また、介護保険料は所得の8%を課税されるから、配当所得を総合課税にした場合、逆に、課税金額が大きくなる可能性がある。国税を総合課税にして、地方税では分離課税のままって方法もある。
今は、税務署の所得税計算ソフトがあるから、総合課税の場合と源泉分離課税の場合を算出して比較すれば良い。更に、市・県民税の計算もして、総合的にいずれが有利かを調べることだ。市・県民税の計算は、その前年の所得税申告額を元に算出されていて、昨年の市・県民税のお知らせに書かれている。
今年の僕の場合は、総合課税で申告することで、株の源泉徴収分をほぼ全額返却されるので、ありがたいことだ。
提出は、2月15日からだが、混雑が激しいので、25日頃にする。自分でデータ入力して出力した分は、必要確証(民泊経営は、確証と損益計算・医療費は費用表)と共に、提出窓口に直接持参できる。税務署のアドバイスで入力する場合は、予約を取る必要がある。

歳を取ると、医療費が嵩むので、医療機関での領収書や購入医薬品の領収書を残して整理することが必須だ。なお、老人には、国民健康保険範囲内の支払いについては、支払上限額(入院がある月の月額56700円、通院費のみの月の場合は、18000円)があり、市が計算してオーバー分を還付してくれるが、自分でも算出しておくことだ。医療費の算出に際してはこの還付金や、民間医療保険の給付金も通算しなければならない。
なお、高齢者医療保険と後期高齢者医療保険は、団体が異なり、我々は知らぬ間に異なった団体間を移動しており、それゆえに、還付金の計算は共有されない。この点は注意すべきだ。

2月24日頃に税務署に提出に行く予定であったが、救急車で病院に運ばれたために3月1日になってしまった。税務署では殆ど混乱はなく、待つこともなく受理された。


2022年2月2日水曜日

追悼 亀田さん

 亀田さんは、確か、神戸大学出で、大阪コンベヤ課出身です。

ただ、僕が大阪コンベヤ課に移動した前年に、異動された後でした。
噂では、亀田→神野→志水 の順に、XX課長からのパワハラ、苛めにあったようで、
亀田さんへの苛めが最も激しかったとの噂を聞いています。神野さんへの苛めは僕も目撃しています。恐らく、課長の愛弟子Mの脅威となる年齢の順に苛め度がちがったのでしょう。なお、僕の後輩からは年齢的にMの部下になる年代で、実際にMの部下になった阪大卒も苛められることはなかったです。その彼等からすれば、苛められる僕は情けない男にみえた事でしょう。実際に苛められる僕を見続けた彼等は、腹の底では、出来ない男として僕を馬鹿にしていた様子でした。僕にしても、苛め課長が神野さんに叩きつける叱責に、神野さんが何ら反論しないのを情けなく見ることもありましたが、苛める人間の強烈な言葉なるものは相手の意思を叩き潰す力があり、苛める側の不当な言葉にも反論はだせないことを、僕は人生初めて経験し、神野さんの立場が漸く理解できました。人間ってそんなものです。
でもね、大学院での経験から、1人で何でも出来るって自信と、入社後、特に大阪移籍後に大きな案件を自力で次々、それも、与えられる部下や外注人員も最少で、更には、大きな利益を上げながらこなしているから、苛めにもすぐ慣れて、湯気を上げて怒鳴っている課長の頭越しに窓の外の淀川の季節ごとの風景を愛でて嵐をやり過ごすって根性になりましたな。亀田さんも恐らくそんな心境でやり過ごしたのでしょう。それに、後で出会った亀田さんは生来、楽しいひとでしたから、苛めなんて気にする人ではなかったでしょう。神野さんも亀田さんも優れた技術者であったと確信出来ました。

其の後、ず~と後に亀田さんは自動倉庫に移籍されて、自動倉庫の標準化を担当されたのですが、見事にこれを果たされ、僕が物流に行った時は、その技術成果は、競争力の強さとして強力な受注の助けなり、僕もそのお蔭で次々と受注できました。 

でも、亀田さんも、神野さんも、素朴で相当有能な技術者でありながら、配属先の上司で人生がかなり歪められたと言えるでしょう。

でも、亀田さんはさようなことには拘らず、物流でも頑張り、確か、地元の合唱グループで頑張っておられた筈です。
僕とは違い、明るく周りの人々に好まれた人生を過ごされたと推測します。

亀田さんのご冥福を心から願います。

2022年1月31日月曜日

かちーんと来るエッセイ

 いつも、格安航空のエコノミーで、食事も取らない僕としては、最後の1節で何だか、かちーんです。

日本酒の魅力 三井不動産社長 菰田正信

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お酒は決して強くはないが、好きな方だ。何が好きかと聞かれるとワインやウイスキーのハイボールということになるが、ここ一番で飲みたくなるのが日本酒だ。

30代の後半、横浜支店の用地担当課長をしていた時に、毎晩の不摂生がたたって急性膵炎(すいえん)になった。医者に診てもらうと、油ものとお酒をやめろと忠告された。仕事柄、お酒はやめられませんと言うと「あなたの命だから、あなたが決めなさい」と突き放された。仕方なく高校の同級生で慶応病院に勤める斎藤先生に相談したら、1日にビールなら中瓶1本、ウイスキーはシングル2杯、日本酒でお銚子1本までならいいだろうということになった。

さて、限られた酒量を何に使うべきか。逆に言うと、飲みたいという欲求を一番抑えにくいのは何かと思って試したら、美味(おい)しい和食が出てきたときの日本酒だった。

何年か前にお酒通で鳴らすNTTデータ前社長の岩本さんを食事に招き、お好きな銘柄の白ワインを出したら、お造りが出てきたところで「ちょっと待ってくれ」とおっしゃる。「お造りには、やはり日本酒の熱燗(あつかん)じゃないとね」とのお話だった。20年前の私の感覚も、こういうことだったのかと合点がいった。

後日、ニューヨークに出張する機上で和食を頼んだら、お造りが出てきた。「熱燗で日本酒飲めますか」とキャビンアテンダントの方にきいてみたら、「もちろんです」とうれしい返事。レンジででも温めたのだろうか、これが結構いけた。それ以来、飛行機に乗ると、このパターンを時々楽しんでいる。日本人に生まれてよかった!

物流事業について

 僕が40代後半にになった頃、僕が所属する東京の搬送技術部は解散になった。社内外交に疎い僕がその情報を得たのは、物流部門への移籍を告げられてからであった。それまでに、社内事情に長けた連中は皆、新居浜とか大阪の良い場所に逃げ散っていて、そのため、東京の搬送技術部の備品、資料などの整理処分も最後までやる羽目になった。
物流部門は、畑中さんと永井さん、共に阪大の先輩だが、彼等が大阪コンベヤに居る頃に立ち上げたのだが、それは、僕が入社後数カ月で、新居浜から転勤してきてすぐの頃だった。
僕が転勤した数日後に、畑中さんが僕を連れて、浜松の住友セメントに、コンベヤ設備の納入打合せに連れて行った。ベルトコンベヤなるものを全く知らないままに同行して、打合せから帰ると、畑中さんは、その案件のファイルを全て僕に渡して、「明日からは僕は自動倉庫(物流機器)に従事する。後は任せる」と申し渡した。
仕方なく、大阪梅田の旭屋に行き、ベルトコンベヤの計画と管理、などのコンベヤに関する本数冊を購入して勉強を始めて、一週間後の打合せには僕一人で行った。打ち合わせに出た住友セメントの課長が、怪訝な顔で、「畑中さんは?」と聞いたので、「僕が引き継ぎました」と答えたのだが、課長の顔を見る勇気はなかった。
その後直ぐに、永井さんが研究所から移動してきて、畑中さんの部下として、2人で物流設備を始めた。
当時、僕は八戸の長距離コンベヤを担当しだしたのだが、八戸鉱山の石灰石が製鉄所の要求品質に合うかどうかの検討が始まり計画推進が一時中止となった。その結果、僕の仕事がしばらく中断した。その中断期を見てと言うか、利してというか、永井さんが声を掛けてきた。永井さんは、急遽米国に出張することになり、自動倉庫の計画図を製作図に落としてほしいとの事だった。製作図の作成には外注さんを一人付けるとのことで、断ることも出来ず仕事を始めた。自動倉庫機器の計画図はA1サイズ一枚だけで、そこからは推定しながら製作図に落とさねばならず、しかも、納期はすぐそこであった。
2カ月ほどかかったが、毎日、12時ごろまで残業して、土日もなく働いて漸く図面の出図を完了した。つまり、物流事業部の最初の自動倉庫は僕が設計したことになる。
それから、20年ほどして、行く場所もなく物流に配流されてしまい、なんと、SEとして客先とあれこれ商談するエンジニヤとなってしまったが、最初の経験から物流施設の建設計画には直ぐに慣れてしまった。転籍の最初は新入社員と一緒に物流教習会に参加することから始まったが、直ぐに客先との交渉や基本計画、受注作業を一人でするようになった。有難かったのは、池内さんや和田さんが、物流のコンピュータ化を見事に推進し、それに、亀田さんや谷口さんが自動倉庫の標準化コスト低減化を十分に実施していたことで、それに、僕が搬送事業部で習熟した重機械の技術を応用することで、特殊な自動倉庫を客先に提言できて、高利益で受注できたことだ。前にも書いたが、住重初の冷凍自動倉庫、世界初の再生物受け入れ用自動倉庫、自衛隊弾薬自動倉庫、造幣局用紙幣用巻紙自動倉庫、等が僕が受注した案件で、変わった設備を容易に実現化できることが僕の強みであった。
ただ、物流事業創設者の畑中さんや永井さんが既に居なかったことには寂しさを感じた。